第八夜:嘘は真実に
嘘を真実に変えてみよう。
夜を彷徨い続ける私に、男はそう言った。
妖しく歪む口元、闇へ染まる前の空の色をした髪。
嗚呼、男は人間では無いのだ。
男は言う。全てを凍りつかせる、冷たく静かな声で。
私と一緒に、復讐してみないかい?
『嘘は真実に』
「読書感想文、面倒くさいよさくら姉」
「そうねえ。私は読書は好きだけれど、読書感想文は苦手だわ。後小論文とかも」
「ええ、さくら姉も読書感想文苦手なの? 何か意外。提出するのは一個でいいのに、何個も書いていそうなイメージがあったんだけど」
紗久羅は目を丸くしながら、クリームソーダを飲む。テーブルの上に広げている原稿用紙は真っ白。その傍らに本を何冊か積み上げている。
一番上にある本を手に取り、めくる。しかしすぐ閉じる。文字の羅列をちょっと見るだけでうんざりするのだ。
「流石に本にちょこっとだけ書いてあるあらすじだけで原稿用紙五枚埋めるのはきついもんなあ。ある程度は読まないと駄目なんだよなあ」
机に積まれている本の殆どは、さくらが持ってきてくれたものだ。その本の殆どは長編で、かなりぶ厚い。文庫サイズでページ数がそんなに多くないものもあるが、そちらは文字がかなり小さい上にぎっしりと詰まっている。難しい漢字がふりがな無しに並んでいるもの、一昔の作品でよく分からないものなどもある。
ここまで持ってくるのは、重くて大変だっただろうと紗久羅は思った。自分の為にそこまでしてくれた彼女に感謝もした。しかし、自分の肌に合いそうなものは残念ながらありそうにない。
正直にちょっと駄目そうだと言っても、さくらは少しも気分を害した様子は無く、気にしないでと微笑んだ。
「好き嫌いあるもの。好きでない本を読んでも、面白く無いと思うわ。自分が読めそうなものを探してみるのが一番かもね」
「ごめん。わざわざ持ってきてもらったのに」
いいのよ、とさくらは首を横に振った。紗久羅はこれがあたしだったらあからさまに機嫌を悪くしていただろうと思う。祖母譲りの短気娘だから。
夏休みも大分終わりに近づいてきた。喫茶店『桜~SAKURA~』で溜めていた宿題を進めている。それに付き合うさくらの方は、もうとっくに宿題はやり終えてしまったらしく、今日は秋にある文化祭で出す部誌に載せる小説を書き進めていた。
大体読書感想文などをやらせることに何の意味があるというのだろう、と毎回紗久羅は思う。国語や数学、英語のテキストをやるというのはまだ分かるのだが。ただ適当に本を読み、あらすじや単純な感想で原稿用紙を埋め、提出するようなものに、何の意味も無いような気がするのだ。
しかし文句を垂れても仕方無い。やらなければならない。紗久羅はため息をつく。
「いっそ桜村奇譚集を読んでやってみたら?」
さくらは笑い、チョコレートパフェを頬張る。紗久羅は顔をしかめる。
「ええ、あれをか? ああいうのじゃ感想なんて書きようがないじゃんか。大体あれってあの化け狐の話が沢山あるんだろう?」
「出雲さんのこと? 確かに多いわね。しょっちゅう話の中に出てくるわ」
ええと、と言いながらさくらがカバンの中をがさこそやり始める。彼女が取り出したのは灰色のバインダー。表にはサインペンで「桜村奇譚集」と書かれている。
紗久羅はそれを指差し、何それと聞いた。
「桜村奇譚集を、自分なりに纏めたものよ。出てくる妖などでジャンル分けしているの。色つきの仕切り紙で分けているの」
バインダーから覗く赤や青、黄色などの仕切り。
「全部そこに纏めたの?」
「桜村奇譚集に載っているものは多分全て。手で書くのはとても大変だったけれど、楽しかったわ」
「せめてパソコンでやればいいのに」
パソコンでやったとしても、そこそこ時間はかかるだろうが。紗久羅は感心するやら呆れるやら。
「私パソコン苦手なの。キーボードを打つのも遅いし。それに手で書くほうが味があるし、温もりもあるし。手書きってとても魅力的で――」
そしてその後延々と続く、手書きの素晴らしさについての語り。紗久羅は分かった、分かったと慌ててさくらの口にオレンジパフェを突っ込む。さくらは目をぱちくりさせながらそれをもぐもぐと。そうしながらバインダーを開き、紗久羅に渡す。
紗久羅はそれを受け取り、目を通してみる。この話が何ページに載っていたものなのか、読んでどう思ったか、類似している話はあるか、などが細かく書かれていた。最早阿呆としかいいようのない領域に達している。
黄色い仕切り紙に「出雲」と書かれていた。その紙をめくると、出雲に関する言い伝えなどがびっしりとある。
「出雲さんは本当によく出てくるわ。名前ははっきり書かれていないけれど、多分彼のことだろうと思うものも多いし。あの人は、桜村とは切っても切れない縁で結ばれていたのねえ」
「あいつとそんな縁で結ばれちまった桜村の人達……かわいそうに。しかしまあ、本当にろくでもないことばっかりしているんだなあ、これを読む限り」
紗久羅は顔をしかめる。書かれているものの殆どが、彼が悪事を働いたというものだったのだ。窃盗、詐欺、誘拐、脅迫、傷害、殺人。他人を精神的に追い詰めたり、生殺しにしたり、友情にひびを入れたり、カップルを破局に追い込んだり、畑を荒らしたり――。悪逆非道とは、まさに奴のことだと紗久羅は思った。
紗久羅は目に留まった一つの物語を読んでみる。
村に居た二人の男。二人は親友同士で、とても仲が良かった。ある日二人は夜道で美しい女に出会った。二人は見知らぬその女に見惚れ、思わず近寄った。女はこの辺りに大事な物を落としてしまったのだが、見つからない、一緒に探して欲しいと頼んできた。二人は快く了承し、女が落としたという物を一緒に探した。
二人はしゃがみ、草むらをかき分け、探し続ける。
すると何か鈍い音が聞こえた。男が音のした方を見ると、もう一人の男が倒れていた。後ろを振り返ると、女がにたりと笑っている。手には大きな石を持っており、そこにはべったりと血がついていた。
男は自分達が騙されたことに気づき、慌てて逃げる。女の笑い声は段々低くなり、やがて姿を変え、一匹の狐になった。女の正体は出雲だったのだ。
男は命からがら逃げ切ったが、親友は死んでしまった。
そしてその数日後、逃げ切った男の方も同じように石で頭を割られて殺されてしまった。恐らく出雲がやったのだろう。
狙った獲物は逃がさないということだろうか――なんと執念深く、残酷な化け物だろうか、と村人達は嘆いた。
そんな話。えげつない奴だ、と紗久羅は呟く。
「あいつは悪いことをしなければ死んじまう病気にでもかかっているのか?」
「時々良いこともしているみたいだけれど。やりたい時に、やりたいと思うことをやる。とても自由な人。まあここに書かれていたようなことを実際にやっていたのでしょうね――まあ全てが真実とは限らないとは思うけれど。もしかしたら実際にはやっていなかったことも書かれているかもしれない」
「そう、その通り」
聞き覚えのある、氷の声が聞こえ、二人はどきりとして固まった。
見ればいつの間にか紗久羅の隣に出雲が座っているではないか。紗久羅は口をぱくぱくさせ、さくらは目をぱちくりする。
「お、お前いつの間にそこに!」
「全然気がつかなかったわ……」
「そりゃそうだろうさ。見つからないように気配をばっちり消していたのだから。菊野から、紗久羅がここにいるという話を聞いてね――遊んでやろうと思って来たのだけれど。随分楽しそうに話していたじゃないか、ねえ?」
意地悪い笑みを浮かべ、わざと紗久羅に顔を近づける。紗久羅はひい、と悲鳴をあげて窓際に避難する。ほんの数十センチでも離れなければ、喰われると思ったのだ。
出雲は、バインダーの下に広がっている原稿用紙をつまらなそうにつまみあげる。
「君達は大変だねえ。これって原稿用紙って言うんだろう? マスの中に文字を書き入れるという、あれ。毎日面倒なことばっかりやっていてさ、楽しいの」
出雲の手にある原稿用紙を、紗久羅は奪い返す。
「好きでやっているわけじゃねえよ。しょうがないだろう、宿題なんだから。やらないと、後が面倒なの」
ふうん、とつまらなそうな声をあげ、頬杖をつく。絹糸の様な髪がさらりと揺れる。
「で、そんな面倒なことをやっている最中に、君達は私の行ってきたことについてぺちゃくちゃ話していた、と?」
あからさまな嫌味だ。二人は彼から視線を逸らす。
出雲は肩をすくめた。
「まあ、どうでもいいけれど。紗久羅は、宿題を放り投げてまで、私のことを知りたかったのだね。愛されているなあ、私は。幸せなことだ」
窓に視線を向けている紗久羅の顔を手でくいっと動かし、自分の顔と向き合わせる。満面の――邪悪な笑顔を浮かべながら。氷を彫って作り出されたかのような手に、紗久羅の顔中の筋肉が凍りつく。流れる冷や汗。
「うん、良い顔をしているねえ。こういう顔を見るとなんかぞくぞくするよ。個人的にはもっと歪ませてあげたいなあ、って思うのだけれど」
触れられているのは紗久羅のはずなのに、さくらは自分の頬まで冷たくなり、顔中が凍りつくのを感じた。
とても恐ろしい人。でもそこがたまらないとも思う――さくらの感覚は普通の人間のそれとは少し違うのだ。数日前、彼が一つの物語の幕を残酷な形で下ろしたところを目の前で見ていたのにも関わらず、それでもまだ彼と関わることをやめたくないと思っているような娘である。
紗久羅は出雲の手を無理矢理引き剥がした。
「やめろ、このど変態。全く本当にお前ろくでもないことばかりやっていたんだな!」
まあ色々やってきたねえ、と言いながら原稿用紙を指でなぞる。
「紙って便利なんだねえ、大昔に起きたことをこうして後世に残すことが出来るのだから。もう知られていないような話も、文字さえ読めれば知ることが出来る。――まあ書かれていること全てが真実とは限らない、というのが難点だけれど。真実だけで構成されたもの、嘘の入り混じったもの、嘘だけのもの。実に色々あるねえ」
「やっぱり――当時は説明できなかった事象を無理矢理説明する為に、これはこういう妖がやったことですっていう物語が出来たとかあるんですか」
「そういうのもあるだろうね。……他には、自分の犯した罪を妖に擦り付けたっていうものかな。例えばある一人の男が、人を殺してしまった。当然犯人が自分であるということがばれれば、厳しい罰を与えられるだろう。それは何としてでも避けたい。どうするか。――そこでその男は考える。そうだ、恐ろしい化け物が殺した、ということにすればいい。男は村人達に、自分の目の前で人が何々に殺されたと言いふらす。村人達はそれを信じる。そして、終わり。男の犯した罪は闇へ葬られ、嘘の物語だけが後世に残る。まあ、こんな感じ」
そう言って出雲は、紗久羅が飲んでいたクリームソーダを勝手に飲む。紗久羅が頬を膨らませる。
一方のさくらは、全ての凶事の原因であると言われ、憎まれ続けた結果、鬼となった男のことを思い出し、胸を痛めた。
「じゃあ、桜村奇譚集に書かれている話のどれが真実で、どれが嘘なんだよ。そんなもん見ただけじゃ分からないよ。向こう側の世界の存在を知るまでは、全て作り話だと思っていたけれどさ」
「そんなの、知らないよ。私についての記述も多いようだが、どれが本当で、嘘なのかなんて見ただけじゃ分からない。ていうかそんな大昔にやったことなんて、忘れてしまったよ。いちいち自分がやってきたこと全てを覚えていたら、疲れてしまう」
さらさらと流れる髪をいじりながら、さくらがまとめた、自分に関する話を読んでいるようだが、いまいちピンときていない様子だ。そもそも数年前に自分が傷つけた骨桜のこともろくに覚えていなかったような男。数百年前にやったことなどまともに覚えているはずがない。
「出雲さんが、巫女の桜さんと相討ちになったという部分も真実では無かったように――全てが真実とは限らない」
「そうだねえ、あの話もそうだったねえ。まあ、あの部分は村人達の希望的観測ってやつなんだろう。残念ながら、ぴんぴんしているけれど。私は桜を喰らった後も、色々やっていたのだけれど。その辺りの話は殆ど残っていないようだ。余程私の存在を消したかったらしい」
「そりゃあ、お前みたいな奴居なくなってくれた方が、嬉しかっただろうよ。あたしだって全力であんたの存在を消しただろう」
と紗久羅が言えば、今度は出雲が頬を膨らませていじける。
「酷いなあ、紗久羅は。今の言葉で私はとても傷ついたよ」
「嘘つけ、お前なんかに傷がつくような心なんてあるもんか」
酷い言いようである。さくらも心の中でその言葉に同意したが、流石にちょっと胸が痛む。
「本当に紗久羅は素直じゃないなあ。ああ、可愛い、可愛い」
「お前いっぺんその頭かち割ってやろうか?」
「出来るものなら、やってみれば? まあ兎に角何が真実で、嘘であるのか。そんなものはさあ、知らない方が楽しいと思うけれどねえ。真実と嘘が入り混じり、二つの境界が曖昧になっているからこそ幻想は生まれ、物語は甘い蜜を垂らす。けれど、二つの境界がはっきりしてしまえば、全てが壊れ、味も素っ気も無い物語と化す。そんなのつまらないじゃないか」
げんこつ振りかざす紗久羅のことも無視して、出雲は話し続ける。
確かにそれもそうなのだけれど……とさくらは複雑な気持ち。色々知りたいという気持ちと、知らない方がいいこともあるという気持ちがぐちゃぐちゃに入り混じっている。
出雲は笑う。冷たくて、艶やかな笑み。
「まあ私としては、君達が真実を追究する為にどんどん深みに嵌り、向こう側の世界に入り浸り、堕ちていく様子も見てみたいとは思うのだけれどね。ふふ、少しも学習せず同じ事を繰り返して堕落していくさまって、見ていてとても面白いんだよ。ふふ、これからも私を楽しませておくれ」
出雲は、オレンジパフェをこれまた勝手に一口食べると立ち上がり、あっという間に店から消えていった。
「あいつ……結局何しに来たんだ?」
「さあ……。さくらちゃんと遊びたかったみたいだけれど」
「どっちかというと、あたし『で』遊びたかったって感じだったな。ていうかあいつ人のクリームソーダとオレンジパフェ、勝手に飲み食いしやがって!」
「でも一口ずつだったから、まだ残っているわ」
「だってあいつが口をつけたものを、食べたり飲んだりしなくちゃいけないんだぞ。あいつと間接キスなんて嫌だ!」
「あら、化け狐さんと間接キスなんてなかなか出来ないことよ。素敵なことじゃない」
「さくら姉……」
今後さくらが、出雲が言ったように堕ちるところまで堕ちるのではないかと、割と本気で心配する紗久羅だった。
*
私はついさっき、頭を石で殴られて殺された。
一番の親友に。
理由は分からない。恨まれるようなことをした覚えは無い。だが、薄れゆく意識の中で「俺のことを馬鹿にしやがって」という彼の声を聞いたような気がした。私が彼を馬鹿にした?そんなことをした覚えは無い。酒に酔った時私が何か言ってしまったのか?何か誤解でもしていたのか?分からない。理由が分かったところでどうなるわけでもない。私は殺された。
私の魂は肉体から抜け出している。正座をして、もう動かない自分の体を眺めた。変な気持ちだった。頭から真っ赤な血を流し、目を大きく開けて死んでいる私。
闇の中に、橙色の灯りがぽつぽつと浮かび上がる。それと共に聞こえるのは、足音だ。誰か来る。
炎に照らされこちらに来ている人達の体の輪郭が、徐々にはっきりとしてきた。やってきたのは村人達。そして彼らを率いているのは――私を殺した男。
彼らは私の死体を見て、うっと呻いた。顔を手で覆いすすり泣く者もいた。
私を見下ろす形で立っている私の親友は、酷く冷たい目で私を見た後顔を歪め、鼻をすすり、嗚咽した。
「ごめんよ、ごめんよ。俺は何も出来なかった。俺一人だけで逃げてしまった」
私は瞬きし、首を傾げる。一体何の話だ。意味が分からなかった。
彼のすぐ後ろにいた村人が、彼の肩をぽんと優しく叩く。そして酷く悲しい顔をしながら、首を力なく横に振った。
「お前は悪くねえ、悪いのは出雲だ。あの性悪狐め、人の親切心につけこんで、酷いことをしやがる」
出雲?何故そこで出雲の話が出てくるのだろう。私の死に、彼は関係していない。しかし皆、あの狐め、出雲めと彼に対して怒りを向けているのだ。
「俺は許さない、あの狐のことを。ああごめんよ、ごめんよ。俺を許しておくれ」
そう言って彼はひざまずき、私の顔を覗き込む。
しかしその顔に後悔や悲しみは浮かんでいなかった。むしろ笑っているように見える。涙なんて流していない。だが彼が微塵も私の死を悼んでいないことに、誰も気づいていない。彼の丸めた背中を見て、可哀想にと嘆くだけだ。
違う、私は出雲に殺されたのではない。彼に、今目の前に居る彼に殺されたのだ。私は口を開く。しかし誰の耳にも私の声は届かない。
村人達は神妙な面持ちで、私の体を荷車にのせて運ぶ。私はただ呆然としながら、自分の体と村人達、そして私を殺した友が再び闇の中へ消えていくのを見ているしかなかった。
ざわざわ騒ぐ木々や草、黒い空。
私はこれからどうすれば良いのだろう。どこへ行けば良いのだろう。友の嘘を忘れ、黄泉へと向かうべきなのだろうか。しかし今の私はどこへ行くこともできないような気がした。
あても無く、深い闇の中を彷徨い続けるしかない。自分は今何を思い、何を感じ、何をしようとしているのだろう。思考は暗闇にかき消されていく。
このまま彷徨い続けたら、私はどうなるだろうか。
行くべきところに行くことも出来ず、全ての思いが消え失せ、ただこの世を彷徨い続ける惨めな亡霊となるのだろうか。
ざあ、ざあ、ざあ。不安そうに揺れる木々、不気味に吹く風。
こつ、こつ、こつ。闇の向こうから、誰かの足音が聞こえた。誰か村人が戻ってきたのだろうか。
足音は少しずつ近づいてきて、やがてその人物の姿がはっきりと見えてきた。
その人物は男だった。しかし村の者では無かった。初めて見る顔だ。
空に浮かぶ月の様な肌。熟れた果実の色をした瞳。唇は濡れ、ぎらぎらと輝いている。
宵闇に染まる前の空と同じ色をした髪は、そこらに居る女よりなお長い。その髪の色を見れば、いやそれを見なくても彼が人間では無いことは一目瞭然だった。
ありえない位美しく、妖しく、不気味な男。神や仏では無い。その身に纏っているのは、邪悪な何かだった。
彼には私が見えている。
「可哀想に。殺されたんだってねえ、君」
低くも高くも無い声。可哀想とは言っているが、本気でそう思っていないことは声と表情によく表れている。むしろこの状況を楽しんでいるようだ。
「さっき、村人共が話しているのを聞いたよ。……出雲に殺されたんだって?」
そう言って浮かべる笑みは恐ろしく、体の中をぐちゃぐちゃにかき乱し、私は吐き気を覚えた。違う、私は出雲に殺されたのではない、と言うことすら出来ない。
何も答えず、俯き、顔を歪める私を見て男はまた笑う。
「あはは。まあそんな怯えないでよ。――私は真実を知っているよ。君は出雲に殺されたわけではない」
顔をあげる。その言葉は嘘ではないと思った。
「だって、私は――君なんか殺していないもの」
消えた笑み。聞いたものを凍りつかせるその声で、彼は……出雲は、そう告げた。
何となくそうではないかと思っていた。目の前に居る男は出雲なのだろうと。村に悪さをする彼が人に化けた姿は、恐ろしく美しいと聞いていたからだ。
「……お前が、出雲なのか」
「ああ、そうだよ。私は君を殺してはいない。少なくとも私にそんな記憶は無い。では何故君の友人は出雲が君を殺し、自分も殺されかけたと嘘を吐いたか。それを考えれば、真実など簡単に姿を現す。――君を殺したのは、彼なんだろう?」
私はその言葉に、ゆっくりと頷く。出雲は満足気に微笑んだ。
「都合のいい時だけ、私達を利用して。勝手だよね人間って。そしてとても脆く、愚かだ」
「あんたは、何が目的で私の前に現れたんだ」
楽しそうに笑う出雲に、鋭い声で問うと彼は笑うのをやめ、冷たい顔で空を見る。
そしてゆっくりと顔をこちらに向ける。
「嘘を真実に変えてみるつもりは無いかい?」
「何?」
「だからさあ、彼が吐いた嘘をさ、真実に変えてみたくは無いかいって聞いているんだよ。君が彼に殺されたという事実を変えることは出来ないけれど」
「それは、つまり、どういう」
「君の無念を、私が晴らしてあげるってこと。勿論君にも少しだけ手伝ってもらうけれど。自分の罪を私に押しつけた、愚かな男に罰を与える」
「――彼を殺す、と」
自然と震える声。
「憎いだろう? 殺してやりたいだろう?」
どうなのだろう。出雲に言われて私は考える。空っぽの体から答えは出てこない。頭の中にもやがかかったような感じがしている。
「それとも君は放っておくの? 罪から逃れ、のうのうと生きようとしている彼のことを。自分の人生を奪った男が、幸せな人生を送ることを、許すの? 君は死んだ。もう何も出来ない。食べることも眠ることも、生きている人と話すことも、恋をすることも。全て君は失った。一方の彼はどうだ? 罰せられることなく生きていく。君がもう出来ないこと、その全てを彼はすることが出来る。悔しくないかい? 憎くないかい? 全てを奪った男のことが」
出雲の声が、闇の中に響いている。
憎くないのか、悔しくないのか。
許すつもりなのか。
出雲の声と、騒ぐ木々の声が合わさり、少しずつ私の中にあった何かを呼び覚ましていく。闇は濃い。とてもとても、濃い。それが私の中に入り込んでくる。
楽しい思い出。代わりは居ないという位に大切だった友。ふざけあい、笑いあい、時に喧嘩した。同じ女性を好きになって、火花を散らしたこともあった。結局二人共振られて、思わず笑ってしまった。
彼の笑顔が闇に侵食されて、少しずつ消えていき、死にいく私を見ている時に浮かべていた、鬼のような形相が現われる。
私は死んだ。だが彼は生き続ける。身に覚えの無いことで私を殺しておきながら、その罪の全てを出雲に擦りつけ、裁かれることなく。
笑いながら生きるというのか。人を殺しておきながら。全てを奪っておきながら。
それを許せるか?彼の罪をそのままにして、大人しく成仏出来るか?
ざわ、ざわ、ざわ。
闇の中、静かに暴れ狂う木々。暗い、暗い、暗い闇。
ぼやけていた頭の中。風に吹かれ、霧は晴れていく。
「私と一緒に、復讐してみないかい?」
月の光を背に受けて、輝く出雲。
私は、目の前に立っている男と同じ笑みを浮かべた。
*
男は、ふらふらとある場所を目指し歩いていた。何かの声に導かれ、ぼうっとしながら。
宵闇の中を歩き、辿りついた先は木々に囲まれた何の変哲も無い場所。
聞く者を不安にさせるような木々のざわめく音も、今の彼の耳には殆ど届いていない。
道の先に、一人の女が立っていた。艶やかな黒髪、ほっそりとした体、真っ赤な唇。肌は白い。
男はその女に一瞬で心を奪われた。夜道に、見知らぬ女が立っていることを少しも怪しむことは無かった。意識の殆どを失っているから。
月に照らされ輝く女は誰よりも美しい。
「もし、そこの貴方。助けてくださいませんか」
ひんやりした声もまた艶っぽく、男は唾を飲み込む。
「どうしたんだ」
「この辺りに、大切な物を無くしてしまったのです。一緒に探して下さいませんか」
「勿論、構わないよ」
「ありがとうございます」
そう微笑む女が悪意をその内に秘めていることなど、男は気づきもしない。
今自分が置かれている状況が、何かに似ていることにも。
男は「大切な物」というのが何であるのかも聞かず、草むらをかきわけ、女が落としたというものを探し始める。月が落とす雫が冷やしている草が、男の体温を奪っていく。しかし男はそんなこと、少しも気にしない。
ざわ、ざわ、ざわ。
男は知らない。自分の背に立っている女が何をしているのかなど。
やがて男は見つけるだろう。
草むらに隠された物を。
*
彼はもうすぐ見つけるだろう。草むらをかき分けるその手が近づいてくる。
後少しで触れる。
私を殺した石を持っていたあの手が。
ああ、今触れた。「あった」とあがる声。
彼は触れ、そして見ただろう。
にんまりと笑った私の姿を。出雲によって、ほんの一時の間だけ実体を得た私の魂。実体化した部分はほんの一部。……首だけが、彼の目の前に現われている。
大きく見開いた目、割れた頭、流れる血。
彼があっと悲鳴をあげる。彼の意識は呼び戻された。
そして恐らく気がついただろう。
今自分が置かれている状況が、自分が吐いた嘘のそれと全く同じであることに。
しかし今更気がついても、もう遅い。彼はゆっくりと振り返る。
彼は見たはずだ。大きな石を振り上げ、にんまり笑う女の姿を。
「私と共に、地獄へ堕ちよう」
私のその声を、彼は聞いただろうか。
振り下ろされる石。響き渡る鈍い音は酷く懐かしいものだった。
人を恨み、憎み、死へと追いやったからには私も極楽へは行けぬだろう。しかしそれはまた彼も同じだ。
嘘は彼自身に返り、彼の命を奪った。
村人達は彼を見つけ「逃げた彼まで出雲に殺されたのか」と思うだろう。獲物は決して逃さない、執念深い狐だと言うに違いない。
私は出雲に殺されたわけでは無い。しかし彼は出雲に殺された。ただの嘘であったもの。嘘でしかなかったものは、出雲の手によってその姿を変えた。
『出雲に騙され、殺された男』は実在する。出雲が石を振り下ろした瞬間に、嘘は真実に変わった。
意識が薄れていく。ああ私はもう少しで旅立つのだ。赤に染まる血のついた石を持つ出雲は、とても静かで冷たい表情をしていた。
「さようなら。二人仲良く地獄へお行き」
そう言うと彼は踵を返し、深い闇の中へと消えていった。きっと彼は私達のことなどすぐ忘れてしまうだろう。
彼の姿が闇の中へ溶けていった瞬間、私の意識は完全に消えてなくなった。