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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
幻の国
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第七夜:幻の国

「暑い。暑すぎる」

 外には、一切の幸福も無い。あるのは地獄のみだ。

熱を持ったコンクリートからは何かもやもやしたものが出ているし(陽炎ってやつか?)、余命僅かと思われるセミ達は、みんみんぎゃあぎゃあ歌い続けている。恐らくヤケクソだろう。微かに吹いている風を体内に取り込もうと口を開ければ、口の中の僅かな水分が蒸発し、一気に喉が渇いた。流れ続ける汗。


 けれど後少しだ。後少し耐えれば、冷房の効いた映画館の中で大いに涼むことが出来る。今日はあざみと咲月と一緒に映画を観て、買い物して。思いっきり遊ぶのだ。

 それにしても暑い。ニュースでよく耳にする地球温暖化という言葉。聞くだけで暑苦しくなる。くそ、ちょっとばかりのバス代けちって途中で降りて、数十分は歩こうとか思ったのがいけなかった。――結局途中でペットボトルの麦茶を買ってしまったし。

 ああいらいらするなあ。いっそあのセミ共のように、大声で喚き散らしてしまおうか。――まあ、やらないけれど、そんな恥ずかしいこと。


 水瀬川にかかる橋を、あたしは渡っている。ここを渡った先が街の中心部。桜町とは正反対の、都会風の町並みが広がるのだ。


 いつものように橋を渡っていたあたしは、橋の終わりを前にして軽い眩暈を起こした。同時に、体がふわりと浮いたような気がした。こんな時に貧血?勘弁してくれよ。

 目を瞑り、ぶるぶると頭を振る。うん、多分大丈夫だ。


 あたしは目を開けた。

 目の前に広がる、見慣れた風景――いや、違う?


「ここ、どこ?」


 何故かあたしは、見知らぬ草原の上に立っていた。


 ビルも、橋も、水瀬川も無い。あるのは青く澄んだ空、白い雲、そして風を受けて踊る、翡翠の色をした美しい草原。


(あたしまさか、気を失って倒れちゃったのか? そんなはずは無いと思うけれど)


 不思議に思いながらとりあえず前へ進んでみる。


 さらさらと心地よい音を立てて揺れる草が、あたしの足を撫でる。あれ、けれど全然くすぐったくない。草の独特な匂いもしない。

 そういえば、風を受けて髪の毛や服は揺れているのに、あたし自身は風を全然感じていない。風に触れられている感じが全くないのだ。

 あたしは立ち止まり、しゃがんで草に触れてみる。確かに触れているはずなのに何も感じない。手に一切の刺激が伝わらない。


 頭上でぎらぎらと輝く太陽。見ているだけでも暑くなる。しかし、暑さを全く感じない。風を受けても少しも涼しくない。

 何も、感じないのだ。目の前に見えるものは、本当に存在しているものなのだろうか。幻?でも草はあたしの足をすり抜けているわけではない。ちゃんと触れている。そこにあるのに、無い。何だこれ。


 矢張りあたしは貧血を起こして倒れ、夢を見ているのだろうか。それにしても変な夢だ。

 それとも『向こう側の世界』に迷い込んでしまったとか。いやでもあちらの世界のものにはきちんと触れられるし、あそこでは暑さも寒さも感じるし。


 とりあえず前に進んでみよう。腰をあげて再び歩き始める。


 特に風景が変わるわけでもなく、延々と草原が続いている。どこまで進んでも、もしかしたらここには草原と空と雲と太陽しか無いのかもしれない。何も感じることが出来ないから、非常につまらない。だが立ち止まっても引き返しても、意味は無いだろう。どこをどう進んでも、何も変わらないから、


 せめて優しく吹く風だけでも感じることが出来れば、さぞかし心地よいだろうに。

 どれ位進んだのかは分からない。もしかしたら進んでいるようで、全く進んでいなかったのかもしれない。

 あたしは、この奇妙な世界に迷い込む時と同じ様な浮遊感に襲われた。眩暈もして、少しだけふらつく。


 気づけばあたしは――十字路の真ん中に立っていた。

 コンクリートで舗装された道路を、ブロック塀が囲んでいる。その塀の先には木も、家も何も無い。電柱や標識、ドブ等も無い。十字路とブロック塀だけでこの世界は出来ている。

 ぎらぎら照りつける太陽によって、コンクリートの道路は熱を帯びているのではと思って触れてみるけれど、やっぱり何も感じない。陽炎揺らめき、世界はぐらぐらと揺れて見える。


 どの道を進もうか。あたしはそれぞれの道の先を見る。けれど、見たところどの道を進んでもあまり変わりはなさそうだった。

 とりあえず適当に歩いてみるか。


 丁度目の前にあった道を進もうと、一歩足を踏みだした。


 とん、とん。

 あたしの背後で、小さな音がした。軽い何かが地面に当たっているような感じのものだった。振り返ってみる。

 そこには、赤い着物を着た小さな女の子が居た。日本人形の様な、可愛いけれど何か不気味な感じの顔、真っ白な肌。小さな手が着物の袖からちょこっと見えている。

 女の子は、金と銀の糸で装飾された、鮮やかで目を奪われるほど美しい毬をぽんぽんとついていた。


「月をついたら楽しかろう、月に憑かれりゃ悲しかろう、月に好かれりゃ嬉しかろう」

 赤くて小さな唇を開けて、可愛らしい声で何か唄いながら延々と鞠をついている。一定のリズムで上下する鞠を見ていると、何だか眠くなる。


「ねえ、あんたここの人。ここはどこなんだ」

 あたしはその少女に尋ねてみた。けれど彼女は何も答えない。あたしはさっきよりも大きな声で喋った。結果は同じだった。あたしの存在に気づいていないようだ。

 そんな少女のつく鞠の色が、いつの間にか変わっている。今度は青や黄色の糸で花の様な模様が描かれた真っ赤な鞠だった。


「囲炉裏匂えど、血を塗るの。我は誰ぞ、爪足らぬ。初心な奥方、凶引いて、刃先つけ死に、恋もせず」

 今度はいろは歌をもじった様な感じのもの。内容は何だかえぐい。子供の愛らしく無邪気な声で唄われると、非常に怖い。


 その後も、少女が唄を変えるたびに鞠の色や模様が、万華鏡の様に次から次へと目まぐるしく変わっていく。

 愛らしい唄、恐ろしい唄、愉快な唄、意味の分からない唄。どれも聞いたことが無いものだ。手毬唄には詳しくないけれど、多分あたしの住む世界には存在しないものだろうと思う。


「あ」

 少女が鞠をつきそこねたのか、さっきまで規則正しく上下していたそれが、ころころと転がっていった。鞠は道の一つへと転がっていく。あたしはそれを追いかけた。ころころと転がり続ける鞠はなかなか捕まってくれない。

 大分進んだところで、ようやく動きが止まり、あたしはそれを手に取る。何の重さも感じない。あの女の子に返そう。あたしはその場から立ち上がった。


「嘘。まじかよ」

 また世界は変わっていた。


 今度は、広いお座敷の真ん中に、立っていた。

 体育館並の広さのそこに畳がびっしりと敷き詰められ、金色の模様が描かれた襖に囲まれている。手に持っていたはずの鞠はいつの間にか消えていた。


 三味線の音と、多くの人間がわいわい騒ぐ声が聞こえる。けれど座敷には誰も居ない。座敷の外にでも居るのだろうか。いや、違う。声や音は何故か天井の方から聞こえている。二階があるのかな。それにしてははっきりと聞こえすぎじゃあないか?


 まさかと思って天井を見、あたしは悲鳴をあげた。

 天井に、人が居たのだ。


 天井にも畳が敷かれ、着物姿のおっさんや子供、花魁っぽい感じの人、頭は猫で体は人間の化け物、じいさんやばあさんが天井にある方の畳に腰を下ろし、騒いでいた。木で出来た長いテーブルの上には豪勢なお造り、お寿司、肉や果物、お酒等がびっしりと並んでいる。

 普通なら重力によって人間も料理も、何もかも落ちてくるはずなのに、そういうことは一切無かった。


「一体何なんだ!」

 と言うしかない。随分大声で叫んだのに、誰も気がつかない。どうやらここに居る奴等にあたしの声は聞こえないらしい。

 それにしても美味そうな食べ物がいっぱいあるなあ。まあここで食べても多分何も感じないのだろうけれど。

 誰にも気づいてもらえないので、若干寂しくなった。視線を何気なく襖にやり、またあたしは仰天した。手にお盆を持ち襖を歩く女の姿を見たからだ。この世界には重力もくそも無いのか。


 もしかしてあたしもあんな風に、襖や天井を歩くことが出来るのだろうか。

 試してみたくなって、あたしは近くの襖の前で寝転がり、襖に足をつけた。


 右足を上げ、前(上)へつけ体重を乗せてみた。

 その瞬間。


 ぼこっ。


「ぼこ?」

 ちょっと体重を乗せただけだったのに、襖は音を立てて倒れてしまった。すると他の襖までもがものすごい速さで次々と倒れていった。

 更に天井と、天井に居た人達、並んでいた料理等も落ちてくる。嘘だろう、勘弁してくれ!

 とっさに手で顔を覆い、足を折りたたんで体をガードしようとする。ここでは物が落ちてきても何の重さも感じないとは思うけれど――


 想像通り、あたしは無事だった。何の重みも感じない。

 あたしは手をどけ、目を開ける。今までのパターンだとここで……。


「やっぱり、ね」


 またあたしは別の場所に来ていた。


 あたしは地面の上に寝そべっていた。黄金を散りばめた夜空が目の前に広がり、雪の様な色をした満月が浮かんでいる。周りは無数の木に囲まれている。

 どうやら今度は、森の中に飛ばされたらしい。


 起き上がり、服についた土(実際には何もついていなかったかもしれないけれど)を払った。


(あれ?)

 地面のいたる所に、光る何かが落ちているのが見えた。近づいて見てみると、それは碁石の様な形をした(多分)石だった。表面は滑らか。どちらかというと川の近くで見つかりそうな感じのものだ。

 蛍が放つものに似た、少し緑がかった黄色の光。見ているだけでほっとするような、優しい光だ。


 あたしはそれにそうっと触れた。


 すると、触れられた石はぽん!と音を立て弾けてしまった。そこから何か黒いものが勢いよく飛び出してくる。思わず尻餅をついてしまった。

 石から飛び出してきたのは、蝶だった。漆黒の羽根に、瑠璃色の模様。美しいその蝶は銀色に光る鱗粉をばらまきながら、あっという間に空まで飛んでいき、やがて見えなくなった。

 これは石ではなく、卵だったのかもしれない。でも蝶って最初は芋虫だよな――?まあいいか、きっとこの世界では何でもありなのだ。

 蝶が出た後の卵は光を失い、やがて塵となって消えていった。

 試しに他の卵にも触れてみた。矢張り同じように黒い蝶が中から出てきた。


 何だか楽しくなってあたしは、手当たり次第に卵に触れていった。

 そうしながら森を進んで行った先にあったのは、大きな泉だった。


 透明な水は夜空を映し、きらきらと輝いている。その夜空の中を、気持ち良さそうに魚が泳いでいる。

 その泉の約半分を占拠しているのは、巨大なあの卵だった。ダチョウの卵など、これの前ではうずらの卵と化すであろう。


「うわ、でか! あれも卵かよ」

 泉から、その卵へと続く橋が架かっている。触ってみろということだろうか。

 恐る恐る橋を渡り、卵の前に立つ。近くで見るとものすごい迫力だ。


 これに触れたら、とんでもなく大きい、最早蝶とは呼べないレベルのものが出てくるのだろうか。まさかそいつに喰われちまう、なんてことはないよな?

 いや大丈夫。どうせここは夢の世界なんだろうから――自分にそう言い聞かせ、思い切ってその卵に触れてみた。


 触れた瞬間、腹まで響く恐ろしく大きな音が響き渡り、卵が弾けた。


 そこから出てきたのは大きな蝶――ではなく、無数の蝶だった。

 青い輝きを持つあの黒い蝶だけでなく、燃えさかる炎の様な色の蝶、虹色の蝶、透明な蝶、黄金の蝶等ありとあらゆる種類の蝶が、次から次へと飛び出してきた。

 その蝶達の羽音は鈴の様な、綺麗で透き通ったもの。しかしこれだけ数が多いと、綺麗な音はただの騒音となる。

 好き勝手な方へ飛ぶ彼等によって、木も空も泉も、全てが覆われていく。


 この世界は蝶で埋め尽くされようとしていた。卵からはまだ新たな蝶が飛び出し続けている。

 金銀様々な色に光る鱗粉が雨のように降り注ぎ、あたしを包み込む。


 最初の内は幻想的な光景が広がっていたが、あまりに蝶の数が多くなりすぎて、段々と恐くなってきた。

 あたしはその場を離れる為、橋を渡ろうとする。

 しかし途中でバランスを崩してしまい、あっという間に泉に落ちてしまった。

 冷たくない水。しかも全然苦しくない。


 あたしの体は重りがついているかのように、どんどん沈んでいく。泉に映る無数の蝶に抱かれながら、下へ、下へ。

 多分また、次の世界に飛ばされるのだろう。何となく分かる。

 あたしは流れに身を委ね、静かに目を閉じた。


 目を覚ます。あたしは真っ白な石畳の上に立っていた。

 右手には広大な海が広がり、左手にはおしゃれな家が立ち並んでいる。日本には見えない。多分外国。外国の港町といったところだろうか。


 空は青く、雲ひとつ無い。さきほどまでいた世界は夜だったが、ここはどうやら昼のようだ。

 あたしは街の中へと入っていった。


 町の中は迷路の様に入り組んでいて、自分がどこからどういう道を進んでいったのかあっという間に分からなくなってしまった。石で出来た橋が沢山あり、その下には運河が流れている。そこには、巨大な折り紙で出来た鶴が浮いていて誰かが乗っており、水の流れと手に握るオールを利用して前へと進んでいた。

 家と家を繋いでいるロープの様なものには鬼灯の形をした提灯が吊るされている。


 しばらく適当に進んでいると、大きな広場に出た。広場は特別大きな建物に囲まれていて、中央に立派な噴水がある。噴水の前で、三味線を弾きながら歌っている男の人が居た。服装や歌は外国のものっぽい。和と洋がごっちゃになった感じの弾き語りに、多くの人がピザらしきものを片手に聞き入っていた。

 よく見てみると、彼だけではなく色々な人が色々なパフォーマンスを疲労している。手品、曲芸、劇、ダンス……。


 弾き語りをしている男の、噴水を挟んだ反対側にも人だかりが出来ている。何をしているんだろうと見てみれば、そこでやっていたのはパフォーマンスの類ではなく、バスケットの販売だった。

 ねじりハチマキに法被にブーツ姿のおじさんが、大小さまざまなバスケットを売っていたのだ。あんなもの売れるのか?とあたしは首を傾げたが、不思議なことにそれはちょくちょく売れていた。あんなもの、こんな所で買う必要がどこにあるんだ?


 広場を離れ、また先へ進む。今度はさっきとは別の広場に辿り着いた。

 そこにはさっきよりずっと多くの人がいて、殆どの人がその手にバスケットを持っていた。皆笑いながら色々お喋りしたり、広場の奥にある屋台で食べ物を買ったりしている。

 今日は何かのお祭なのだろうか。聞こうにも、ここに居る人達にはあたしの姿は見えないし、声も届かない。


 つまらない、先へ進もうと思ったその時、広場に居た人達が大きな歓声をあげた。あたしはびっくりして立ち止まる。

 皆空を見上げ、両手をあげる。つられてあたしも空を見上げた。


 何かが、空から降ってきた。まさかさっきの蝶?いや、違う。

 花だ。花がふわりふわりと地上に向かって落ちてきているのだ。大きさも形も、色も違う沢山の花。見慣れたものも、見たことが無いものもある。


 人々はそれを優しく受け止めると、次々とバスケットの中に放り込んでいく。あのバスケットは空から降ってくる花を入れる為のものだったのだ。空から次から次へと降ってくる花を皆楽しそうに受け止める。あたしもキャッチしてみる。これがまあ、意外と楽しい。夢中になって花を掴み、抱きしめる。気づけば腕の中は花でいっぱいになった。

 やがて花は降らなくなる。その後、人々は自分がとった花を見せ合ったり、交換したり、あまりとれなかった人にあげたりしていた。皆とても幸せそうで、満面の笑みを浮かべている。

 あたしは自分が手に入れた花を見る。あたしも他の人に見せてやりたい。けれど、誰もあたしには気がつかない。何だかむなしくなった。あまりにむなしくなって、抱いていた花を全て宙へ放り投げた。ばさばさという音と共に、花は地面に散らばった。


「おやおや、もったいないことをするねえ」

 しわがれた声が聞こえる。まさか、あたしに話しかけているのか?びっくりして振り返ると、そこには小柄なばあさんが立っていた。ばあさんは手に風鈴を持っている。


「あたしに話しかけているのか? ばあさん、あたしのことが見えるの」

 ばあさんはにんまりと笑った。矢張りあたしのことが見えているのだ。


「見えるし、お前さんの声も聞こえる」


「ここは、どこなんだ。あたしは帰れるのか」


「詳しいことは『あの方』に聞きな。この風鈴を持ってごらん。『あの方』の所まで行けるからね。大丈夫さ『あの方』ならお前さんを元の世界へ戻してくれるよ」

 そう言って、ばあさんはあたしに風鈴を差しだす。それをゆっくり受け取る。見た目は何の変哲もない、ごく普通の風鈴だ。

 あの方とは誰か。それを聞こうとしたが、間に合わなかった。あたしは風鈴に吸い込まれ、この世界を後にした。


 恐らく最後になるはずだろう世界は、一面中砂漠の世界だった。

 その砂の色と同じ布に身を包んだ誰かが目の前に座っている。ばあさんが言っていた『あの方』だろうか。


「ようこそ、現の世界に住む者」

 男の声だ。若いか老いているか、声を聞いただけでは分からない。


「ここは、どこなんだ」


「ここはどこにも存在しない世界。全てがあり、全てが無い世界だ」

 意味が分からない。ただ矢張り『向こう側の世界』で無いことは確かのようだった。


「幻の国、と思ってもらえればいい。実際には存在しない世界。気まぐれに姿を変え、無限の幻想を作り出す。――私は気づいた時にはこの幻の国に居た。他の者は時間が経てば消えていくが、私と、お前が出会ったあの婆だけは消えずに存在し続けている。しかし私達もまた、実際に存在しているのか、ただの幻に過ぎないのか。それは未だに分からない。ただ私とあの婆は、稀にこの世界に迷い込む、現の世界に住む者と話をすることが出来るようだ。そして、その者達を現の世界に戻すことも、出来る。これは私にしか出来ないことだが」

 あたしのように、この世界に迷い込む人が居るということだろうか。


「迷い込む条件、もしくは理由は分からん。まあどうでもいいことだろう。お前がこの世界に来ることは恐らく二度とあるまい」


「あんたはあたし達の住む世界へ行くことは出来ないのか?」


「さあ。試したことがないからな。というか興味も無いし。私はこの幻の国の王として、これからも気ままに生きていくさ。――私の手を握ってごらん。元の世界へ帰れるから」

 そう言って、男は手を差し出す。褐色の手。あたしはゆっくりと男のところまで行き、恐る恐るその手を握った。久々に温もりを感じた。大きくてがっしりとした手。


 あたしはまた浮遊感を感じ、目を閉じた。


 目を開けると、あたしは水瀬川にかかる橋を渡った先に立っていた。嫌な暑さと、喉の渇きを感じる。携帯電話を覗き、時間を確認する。どうやら時間は全くといっていいほど経っていなかったらしい。普通に集合時間にも間に合う。


 幻の国。どこにも無い、全てがあって全てが無い世界。とてつもなく変てこな世界だったけれど、もう二度と行くことはないだろうと思うと、ほんのちょびっとだけ寂しい。

 まあ、でもいいか。遠くの虚より、近くの現。沢山遊ぼうっと。


 あたしは、二人の待つ映画館を目指して駆け出していった。

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