雨唄(5)
*
私は指をさし、大声で叫んだ。弥助さんはそんな私のことなんて視界に入っていない様子。視界に入った瞬間、怒鳴られてしまいそう。まあ遅かれ早かれ気づかれちゃうわよね。
あら?
よく見ると、弥助さんは誰かを背負っているようだった。誰かの手と足が見える。
どん、という鈍い音と共に地面を揺らして弥助さんは着地する。何故か雨音さんから距離を置くように素早く後退すると、背負っていた人を降ろした。こっからだとはっきりと姿は見えない。多分男の人だと思うのだけれど。
その男の人は弥助さんから離れた途端、糸を切られたマリオネットの様にがくっと崩れ落ちた。まさか死んでいる……そんなわけはないわよね、さっきまで弥助さんにしっかりとしがみついていたのだから。
全く動く様子の無い男の人に弥助さんが話しかけている。何と言っているのかはよく分からない。雨の音にすっかりかき消されてしまっているから。
突然の出来事。一体何事?あの人は一体誰?私は首を傾げる。
雨音さんもさぞかし驚いているだろうと思って、私は彼女の方へ視線を移す。
彼女も矢張り驚いていた。けれど、何だか様子がおかしい。白い肌がみるみるうちに青くなっていき、体をぶるぶると震わせている。大きく見開いた目に浮かんでいるのは驚愕と恐怖。
唄が明らかに乱れている。ぞっとするような低音になったかと思えば、耳がおかしくなりそうな位甲高いものになり。ゆったりとしていたリズムは急に早くなる。音は大きくなったり小さくなったり。聞く者の不安をかきたてるような……。雨音さんは明らかに動揺し、恐怖に震えている。
唄と共に雨の降る勢いも変わる。
彼女は何を恐れているのかしら。雨音さんの瞳は弥助さんを見ていない。となれば、彼女が見ているのは。
そんな、まさか、まさか……。
「正信……!」
頭を抱え、酷く怯えた表情を浮かべながら雨音さんが叫ぶ。
「あ、あの人が正信さん!?」
私はもう一度視線を、弥助さんが連れてきた男の人に向ける。正信、と呼ばれた男の人は少しだけ体を震わせたけれど、また動かなくなってしまった。
弥助さんは何故、正信さんを連れてきたのだろう。今回の事件について調べている時に正信さんを見つけ、彼を雨音さんに封印してもらうか殺してもらうかする為にここまで連れてきたの?でも弥助さんの力じゃあ彼が鬼か精霊かなんて分からないだろうし……となれば正信さんが正直に全てを話したってことに……でもそんなの有り得ないような気がする。
それとも、鬼だったのは本当は正信さんではなく、雨音さんだったの?私は、彼女に騙されたの?けれど雨音さんが鬼だとはどうしても思えない。
まさか弥助さんは……。
「あんたが鬼だとは俄かには信じられないっすけれど……」
弥助さんは、雨音さんの方が鬼だと思っているのだ。彼は彼女を目の前にしてやや困惑している様子。その思いを振り払うように頭を振ると、今度は彼女を憎い仇でも見るかのような目で睨みつけた。
弥助さんを止めることも、彼にことの経緯を問う暇も無かった。
一歩足を前へ踏み出したかと思えば、電光石火の速さで駆け出し、気づけばもう彼は雨音さんの目の前に居た。
やた吉君とやた郎君は弥助さんを止めようと走り出す。
けれど、間に合わなかった。
弥助さんは、雨音さんからあの勾玉を紐ごと無理矢理引きちぎって奪い取った。雨音さんが顔をしかめ、首を手で抑える。
あっという間に弥助さんは彼女から離れ、崩れ落ちている正信さんの所まで戻った。引きちぎった紐を結び直し、それを正信さんの首に……かけた。
「弥助さん!」
私は思わず叫んだ。弥助さんがこちらを見て、驚いたような表情を浮かべる。やっと私の存在に気がついたらしい。
「ちょ、さくら……お前何でこんなところに!? あれほど危ないから動き回るなって言ったのに!」
恐ろしい形相で私を睨む弥助さん。ごめんなさい、どうしても気になって、何もせずにはいられなかったのよ。それにしても怒った弥助さんの顔、怖い……。
彼は私のすぐ近くに居たやた吉君達にも気づいた。二人の姿を見て、何かを察したらしい。
「あの馬鹿狐……!」
まあ出雲さんと会っても会わなくても、どの道私は桜山に足を踏み入れていただろうけれど。そんなこと正直に話したら余計怒らせてしまいそうだったので、黙っておいた。
それに今はそんなことでああだこうだ言っている場合ではないのだ。
「そんなことより弥助さん、どうしてその勾玉を正信さんに返しちゃったんですか!?」
「正信? 何だこいつ正信っていうのか」
雨音さんがさっきその名前を叫んでいたのに。勾玉を取り返すことで頭がいっぱいで、何も聞いていなかったのね。
「ってそんなことはどうでもいい。さくらもやた吉とやた郎もその女から離れるんだ、そいつは、そいつこそが鬼なんすよ!」
やっぱり。弥助さんは雨音さんの方が鬼だと思っているんだわ。
「ち、違うわ弥助さん! 鬼は、鬼は雨音さんの方ではなくて……」
「はあ? さくら、一体何を……」
その言葉の続きを言おうとした弥助さんの口の動きが止まった。
丁度弥助さんの背後に居たあの男の人が、正信さんの体が小刻みに震える。
雨の音に混じって微かに聞こえる笑い声。それは段々と大きくなり、やがて雨の音を凌駕した。
愉快そうに笑うその声には、悪意が混ざっている。体の芯まで一気に冷えていくのを、感じた。
正信さんが、ゆっくりと立ち上がる。白い衣に、雲ひとつ無い青空の色をした袴。目をぱちくりさせる弥助さんを無視して、彼は一歩ずつ前へ進んでいく。
彼の姿がだんだんはっきりと見えてきた。
やや吊り上った、細長い瞳。知性的な雰囲気で、野生的という言葉がぴったりな弥助さんとは正反対の位置にいそうな人だ。どちらかといえば出雲さんに近い感じ。彼と違って、妙な艶っぽさは無い。
浮かべているのが邪悪な笑みでなく、優しい穏やかな笑みだったら、とても魅力的な人なのに。
彼が鬼か精霊か。そんなの、今の彼を見ればすぐに分かる。
騙されていたのは私達ではなく、弥助さんだったのだ。
正信さんは坂の上に立つ雨音さんを見つめた。雨音さんがびくっと体を震わせる。彼はあの笑みを浮かべたままだ。けれど……彼女を見つめる瞳からは邪悪なものを感じなかった。穏やかで、恐ろしい位優しい眼差し。
「久しぶりに君の姿を見るよ、雨音。不愉快な唄をどうもありがとう」
不愉快、という部分を強調する。余程苦しかったらしい。
「正信、正信……ああ、どうして」
「死ぬかと思ったよ、本当に。簡単に死ねないというのも恐ろしいものなんだな。永遠にこの地獄から抜け出すことは出来ないのかと思っていた。ふふ、だがこの男のお陰で助かった」
ははは、と声を上げて笑う正信さん。弥助さんは自分が騙されたことを悟り、怒りで顔を真っ赤にする。
「てめえ、騙したのか! あっしに話したこと全て、嘘だったって言うのか!」
正信さんはちらりと後ろを振り返り、怒り狂う弥助さんを馬鹿にするようにふっと笑う。
「全てが嘘だったわけではなかった。『鬼』が生まれた経緯も、この雨の正体も。殆どは真実だったさ。ただ、鬼となったのはあんたがさっき乱暴に扱ってくれた彼女ではなく……この私だった。それだけの話さ。しかしまあ、私を見つけたのが騒ぐことしか能が無い馬鹿共と、あんたのような心優しく、真っ直ぐな上に恐ろしく鈍感な馬鹿で助かった。鋭い奴だったら、気づいていただろうさ。私の体に僅かに残っていた邪悪な鬼の力にね」
ちくしょう、と弥助さんは地団太を踏む。けれどもう遅い。正信さんは自分の力と魂の核である勾玉を取り返してしまった。
「勾玉から、力が流れ込んできている。……もう大丈夫だ」
正信さんはぎゅっと勾玉を握りしめる。
「正信。貴方はまだこの村――今は違うようだけれど――に、恨みがあるの? 破壊と殺戮を望むの?」
震える手を祈るように合わせ、問う。返ってきた答えは、雨音さんの僅かな望みをいとも簡単に打ち砕いた。
「当然だ。今も私の中を怒りや憎しみの感情が駆け巡っている。この思いは、全てを壊すまで、収まることはない。いや、何をしてももう収まることはないのかもしれない。それでも、私は」
「この町を壊すっていうのか。もうあんたを苦しめた巫女も村人達も居ないっていうのに!」
正信さんは振り返り、弥助さんを睨みつける。
「それで? 確かに私を追い詰めた馬鹿共はもう居ない。だからといって憎しみが消えるわけじゃあない。今の私が望んでいるのは復讐ではない。全てを壊し、殺すことだ。人間共が恐怖に泣き叫ぶ姿を見たい。今こうして話している間にも私の思いは膨らみ続けている。我慢など出来ない、一刻も早くこの思いを……だが、その前に」
また視線を雨音さんに向ける。彼女は彼の瞳に抱かれ、怯え震えている。
「君を、殺してやる。この手を真っ先に赤く染めるのは君の血だ。私はね、今でも君を愛している。呪いの唄は私を苦しめた。だからといって君への想いが憎悪に変わったわけではない」
正信さんは再び歩き始め、雨音さんに近づいていく。雨音さんはそれに合わせて後ずさりした。正信さんは、本気だ。彼の目を見れば分かる。
「殺してやる、殺してやる。君を殺す者、それはこの世にただ一人、私だけだ。君が欲しい、君の全てが欲しい。この手を染めておくれ、君の血で、君の魂で!」
正信さんは心から雨音さんを求めている。けれど、その願いを叶えてはいけない。
「そんなことして、あんたの魂は本当に救われるのか!? 愛しい人をその手で殺す? そんな馬鹿なこと……」
「うるさい! あんたに何が分かる! もう全てが遅い、何をしても私の魂は救われないんだ! 鬼になった時点でな。誰かを本気で憎んだことが無さそうな顔をしているあんたには、この気持ち、一生分からないだろうさ!」
その言葉を聞き、弥助さんの顔つきがますます険しいものになった。聞き捨てならない言葉を聞いた……そんな感じだった。
「誰かを本気で憎んだことがなさそう? はっ、見当違いもいいところだなあ。あっしにだって居たよ、そういう奴が! だが殺したところで何がどうなるわけでもないってことが分かっているから。あっしは何もしない」
弥助さんにそんな人が居たなんて、知らなかった。正信さんの言う通り心の底から誰かを恨んだことの無さそうな顔をしていたから。
「ははは、随分と優しいんだな。憎まれたらしいその人物は幸せ者だ。まあそんなことはどうでもいい。とりあえず黙っていてくれないか? 邪魔なんだよ、あんた。安心しろよ、雨音を殺したらすぐあんたも、そこにいる間抜け面の小娘も、餓鬼共も殺してやるからさ」
彼が弥助さんと話している間も、雨音さんは彼から少しでも離れようと後退し続けている。じりじりと、少しずつ、少しずつ。
けれどこのままではすぐ正信さんに追いつかれてしまう。
胸が痛い。喉が渇いて、頬が硬直して、上手く声を出せない。しっかりしなくちゃ、このままじゃ、駄目。
「あ、雨音さん、逃げて! このままでは、本当に殺されてしまうわ!」
やっと出た声は情けない位、小さく掠れた声だった。それよりずっと大きくはっきりとした声で正信さんが雨音さんに話しかける。
「逃げるのかい? 君は私と共に居たくはないのか。私が君の全てを抱いてあげる。……君はそれが嫌なのか? 愛していたのは、想っていたのは、私だけだったのか?」
真剣な面持ちで語りかける正信さん。嘘なんてついていない。本気なのだ。
逃げ続けていた雨音さんの足が、急に止まった。お人形さんのように動かなくなる。明らかに逃げる意欲を無くしている。
「何しているの、雨音さん! 逃げて、逃げてよ!」
祈るように叫ぶけれど、雨音さんの耳には届いていないようだった。彼女の目に映っているのは、もう彼の姿だけ。彼女の耳に届く声は、彼の声だけ。
まさか雨音さんは正信さんに殺されることを……。
「一緒に居たいわ、貴方とずっと。それが私の夢、私の願い。苦しい、とても苦しいの。貴方を救うことも、全てを終らせてあげることも出来ない。惨めで役立たずな自分のことを、私は許せない。ああ、そうね。こんな思いを抱き続けながら惨めに生きていく位なら。いっそ貴方の手で全てを終らせて欲しい……」
本気だ。彼女は愛しい人の姿を前にして、全てを諦めてしまった。彼を止めたいと言い、どうするべきか悩んでいた彼女。けれど正信さんと再会し、悩むことを放棄した。
彼女にはこの町を守る義務など無い。彼女が守りたかったのは始めから、彼一人だった。
くっと顔を上げ、揺るがぬ真っ直ぐな瞳で正信さんを見据えた。唇も体も震えることを止めた。背筋を伸ばし、両手を臍の前辺りで組む。
迷いを捨てた凛とした姿は綺麗で、神々しさすら感じた。
ああ彼女は、決意したのだ。してしまったのだ。
「貴方が望むのなら、この命、貴方に差し上げます」
大きくはっきりとした声でそう彼女は告げた。その声は頭に響く声ではなく、彼女がその口から直接紡いだものだった。少しの震えもない、強い意志を感じるもの。
その瞬間、今まで聞こえていた唄がぴたりと止んだ。未だ雨は止んでいない。唄を止めたからといってすぐ止むものではないらしい。
「雨音さん!」
私は叫ぶ。けれど矢張りその声は彼女には届かない。正信さんはその言葉を聞いて満足気に微笑んだ。とても嬉しそうで、幸せそうで……それでいてとても悲しそうだった。
その答えに呆然としていた弥助さんは、我に返り。馬鹿野郎!と大声で怒鳴った。そんなことは絶対に許さないという思いが声から伝わってくる。私も勿論同じだ。雨音さんがそうしたいならどうぞ、なんて言えるわけがない。
「さっきから大人なしく黙って聞いていれば、勝手なことを言いやがって。そんな馬鹿なことあっしは絶対にさせやしねえ! 乱暴な手を使っても止めてやるよ!」
弥助さんが足に力を込めるのが見えた。
獲物を捕らえようとする獣のように、勢いよく彼は正信さんに飛びかかった。両者がもう他人の言葉に耳を傾けない状態にある以上、力ずくで止めるしか方法はないのだ。
「やめて!」
正信さんに飛びかかる弥助さんを止めたのは、他でもない雨音さんだった。
次の瞬間、恐ろしく甲高い声を彼女が発した。その音は人間が聞き取れるギリギリの高さだと思う。耳がものすごく痛い。頭の中が爆発してしまいそう。ほんの一瞬のことだったけれど、もしあんな声をずっと聞き続けていたら狂ってしまいそうだ。引き抜かれて悲鳴をあげるマンドレイクの様に。
その声は白い光の筋を作り出し、弥助さんを貫く。弥助さんは呻きそのまま後方へと吹き飛ばされていった。
攻撃は苦手だと言っていたのに。正信さんを想う気持ちは彼女の力まで歪ませてしまったというの?
「弥助さん!」
「弥助の兄貴! 何てことするんだよ!」
やた吉君は雨音さんを睨む。けれど彼女は彼のことなんて見ていない。
「もうやめて、お願いだから正信を傷つけないで」
「雨音さん! 正信さんをこれ以上傷つけたくないというのなら、自分の命を彼に捧げるなんてことしちゃ駄目よ! 正信さんはそれを望んでいるというけれど、でもきっと本心はちが……」
「黙れ、小娘! 私の気持ちがお前なんかに分かるものか!」
正信さんが、叫ぶ私に向けて黒い何かを飛ばしてきた。けれどそれは結界にはじき返された。もしやた吉君達が居なければ今頃どうなっていたか。私はぞっとした。
舌打ちしながら、正信さんは視線を雨音さんに戻す。そして彼女に向かってゆっくりと歩き始める。その足取りは酷く重いように感じられた。彼女を殺めたいという気持ちと本当は殺したくないという気持ちが葛藤しているのかもしれない。
時間はまだある。多分正信さんはすぐには雨音さんを殺さないだろう。その間に何か、何か出来ることはないのかしら。
「やた吉君、やた郎君。二人を止めることは出来ない?」
二人共困ったような表情を浮かべ、首を横に振る。
「おいら達にはもう、何も出来ないよ」
「俺達は他人を攻撃するような術とか、得意じゃないんだ。下手に攻撃しようとすれば返り討ちにあう。……雨音さんを連れて逃げること位なら出来るかもしれないけれど」
「そんなことしたって、ただの時間稼ぎにしかならない。正信さんをこの場に置き去りにすることにもなるし。町を襲うのは雨音さんを殺した後にとは言っているけれど、破壊衝動が爆発すればその考えも吹き飛んでしまうかもしれないし」
「そんな――」
「弥助の兄貴の方も雨音さんの攻撃をまともに喰らって、身動きが取れないみたいだ。あの攻撃、妖である弥助の兄貴に相当効いているみたいだ」
結局どうすることも出来ないの?このまま雨音さんが殺されるのを黙って見ているしかないの?けれど、雨音さんが死んでしまったら、そしたら正信さんは、今度は。
雨音さんはもう正信さんを封印するつもりは無い。殺すなんて、もっての他。
誰かが正信さんを傷つけることも、彼を殺してしまうことも、嫌だと言う。
説得も不可能。彼の中に渦巻く狂気は、最早言葉で拭い去ることは出来ないだろう。
正信さんは雨音さんをその手で殺め、そして次に桜町を襲う。
彼一人の力で本当にそんなことが出来るのか私には分からない。雨音さんが死んだ後は正信さんを守ろうとする人は居なくなる。弥助さんが本気で立ち向かえば彼を止めることも出来るかもしれない。
けれど、被害が全く出ることなく終ることが出来るかどうか……。多くの人が傷つき、殺されるかもしれない。建物も幾つかは壊されてしまうかも。
破壊と殺戮を繰り返すうち、正信さんの理性は完全に吹き飛び、正真正銘の『鬼』となるだろう。言葉も、人の姿も、理性も失い、ただ本能の赴くままに全てを壊し、殺すような存在になってしまうかもしれない。嫌、そんなのは嫌。
でも私には何も出来ない。私は止まっていた物語を動かした。けれど、物語を終らせる力は無い。
もう雨音さんは正信さんだけを見つめている。私達の声も届かない。短い時間で彼女の決意を揺るがすことはきっと出来ないだろう。
このまま、黙ってみているしかないの?物語が誰も救われない方向へ進んでいくさまを、見ているしかないの?嫌、そんなのは嫌だ。
嫌なのに、たまらなく苦しいのに、今の私には叫ぶことしか出来ない。
「ずっとこの日を待っていた。長い間待ち続けていたんだ。もう誰にも邪魔なんてさせない。この衣、覚えているか。君が私にくれたものだ。お揃いの衣装と言って君は笑ったね。あまりに立派なものだったから貰った後も着ることはなかったけれど。でも大切な日の為に私はこれを着た。そして君から貰った衣を身に纏ったまま、私は封印された」
正信さんの歩みはかなりゆっくりしている。雨音さんに語りかけ、時に立ち止まり。一歩一歩様々な思いを噛み締めながら進んでいる。恐らく正信さんはその手で雨音さんの体を貫くつもりなのだ。そうすることで、その手を赤く染めあげるのだろう。
ああ、そんなの嫌、嫌、嫌!
誰か、誰か助けて。どうにかして。暴走した物語はもう私の手には負えない。
他人にすがらなければいけない自分を恥じた。惨めで情けないと思った。それでも私は助けを求めずにはいられなかった。
雨が止んだ後、空が明るくなり眩しい太陽が顔を出すように。
この物語が終った後、誰もが幸せですっきりとした気持ちになれるようにしてもらいたい。雨音さんも正信さんも救われる、そんな物語にして欲しい。誰かに、そうしてもらいたい。
心からそう願った、まさにその時。
白い光がものすごい速さでこの坂道を上ってきた。白く、白く、どこまでも白く、美しく一点の穢れも無い白。見る者の醜く黒い部分を浮き彫りにさせる、恐怖すら感じる白い光。
私はその光に見覚えがあった。それは。
光の、矢。
矢は正信さんの背中を貫いた。……胸の前で輝いている勾玉ごと。
時が止まった。
正信さんは大きく見開いた瞳で、勾玉を見つめる。そして恐る恐るそれに触れた。瞬間、勾玉は粉々に壊れた。簡単には壊れないと言っていたそれはあまりにもあっけなく壊れてしまった。
左手で苦しそうに胸を押さえながら、右手を呆然と立ち尽くしている雨音さんの方へと伸ばす。
矢が貫いた辺りが白く輝き始め、そして消え始めていた。
「正信、正信!」
雨音さんは声を張り上げ彼の名を叫ぶ。突然の出来事に固まった体を無理矢理動かすようにして、ぎこちない動きで彼の下へと向かう。
ああ、でもきっと間に合わない。彼女が正信さんの差し伸べた手を握る前に、彼は。
「あま……ね。あ、ま、ああ、ま……」
「正信、正信! 嫌、駄目、嫌!」
泣き叫ぶ彼女の言葉は今の彼に届いているだろうか。
正信さんの顔が、腕が、膝が、真っ白な光に包まれて消えていく。
雨音さんが手を伸ばす。けれどその手は悲しいほど短くて。
そして私達の目の前で、正信さんの姿は完全に消えた。雨音さんの手に触れることなく。
沈黙。ただ雨だけが世界に音を与えていた。
私はゆっくりと坂の下に顔を向ける。視線の先に立っていたのは、予想通りの人物だった。藤色の長い髪に、赤い瞳。
「出雲さん……」
彼の表情はよく見えない。けれどきっと彼は眉一つ動かしていないだろう。いつものように静かで冷たい顔つきだと思う。
出雲さんが近づいてくる。途中、地に倒れたまま正信さんが消える様子を見ていた弥助さんを蹴飛ばす。何か彼に向けて何か呟いているようだった。きっと彼をなじる言葉でもかけているのだろう。
雨音さんは呆然としていた。何が起きたのか理解できない、ううん、理解したくないといった様子だった。虚ろな瞳は何も見ていない。
少しの時間が経った後、その瞳に再び光が宿った。けれどその光は怒りと憎しみに満ち溢れた、悲しい色のものだった。
「よくも、よくも正信を、正信を、あ、ああ、あああ!」
弥助さんを攻撃した時に聞いたあの声が再び聞こえる。その声は唄となり、辺りに響き渡った。
強い風が吹き荒れ、木々を激しく揺らす。雨は地面を激しく打った。バケツの水をひっくり返した様な勢いで降り、視界を遮る。
激しく大きな音と共に雷が落ちる。
彼女の表情にはもう優しさも神々しさもなかった。とても恐ろしい、鬼の如き顔をしている。
「よくも、よくも、正信を! 許さない、許さない!」
雨音さんは怒りの感情をエネルギーに変え、出雲さんめがけて突進していった。
「駄目、雨音さん! 行っては駄目!」
出雲さんにとって、他人の事情などどうでもいいのだ。彼女の怒りも憎しみも悲しみもきっと彼の心には少しも届いていない。
彼は躊躇わない。何も感じない。同情もしないし、彼女の気持ちを受け止めることも決してしない。
出雲さんは矢張り眉一つ動かさないまま、弓を構える。そして現われる光の矢。きっと魔を浄化する矢ではなく。雨音さんを殺す矢だ。
そして。
矢張り少しも躊躇うことなく、その矢を放った。真っ直ぐ飛んだ矢は綺麗に雨音さんを貫いた。見事だった。残酷な位。
精霊である雨音さんを一撃で倒すことは出来なかったのか、出雲さんは何度も何度も、彼女めがけて矢を放つ。雨音さんの体が矢の光で真っ白になっていく。
色々なものを口から吐き出したくなった。涙と雨で世界が霞んで見える。
雨音さんが空を見上げた。先程までと違う、悲しい位穏やかな表情を浮かべているように見える。どこまでも暗く重く沈んだ空に、彼女は何を見ているのだろう。
彼女は微笑んだ。そんな風に見えた。
「正信」
愛しい人の名前を遺して、彼女の姿は跡形も無く消えていった。
私はその場にへたりと座り込んだ。ズボンはみるみるうちに泥水を吸い上げ、足もお尻も濡れていく。とても冷たい。けれどそんなこと、どうでもよかった。
*
雨音さんが居なくなり、少しずつ勢いを無くしていく雨。その雨に包まれながら、出雲さんは静かに立っている。
「どうして、ですか」
震える口で言葉を紡ぐ。ゆっくりと出雲さんはこちらに顔を向ける。二人の命を奪った後でも、彼の表情は少しも変わっていない。
「道案内ご苦労だったね、やた吉、やた郎。探す手間が省けて助かったよ」
私の問いかけには答えない。二人は小さく頷く。
「ふう、雨のせいでびしょ濡れだ。着物が肌にくっついて気持ちが悪い」
「どうしてですか、出雲さん、どうして」
こういうことには一切興味を示さないと思っていた出雲さんが、何故ここまで来たのだろうか。そしてどうして雨音さんと正信さんを。
頬にへばりついた髪の毛を振り払いながら、出雲さんは答えた。
「どうして? ふん、面倒だったんだよ。美味しいいなり寿司を買いにこちらの世界に来る度、傘をささなければいけないことが、たまらなくね。傘をさしても、体は少なからず濡れるし、傘を持ち続けていると腕が痛くなるんだよね」
真顔で彼は言った。冗談ではなく本気なのだろう。
「しばらくは我慢したけれどねえ。でももう限界だった。だからさっさとこの雨を降らせている迷惑な奴を殺してしまおうと思って桜山の前まで行った。そしたら君が居た。優しい私は君に少しだけ時間を与えた」
「ずっと、私達の後をつけていたんですか」
「そうだよ。ずっと私は君達の傍に居た。気配を消し、君に気づかれないように、静かについていったんだ」
「やた吉君とやた郎君は、出雲さんがついてきていることを知っていたの?」
こちらを見て、二人は気まずそうな表情を浮かべながら静かに頷いた。
「ごめん。旦那から、絶対言うなって言われていたんだ」
「言ったらすぐ私に助けを求めそうだったからね。それに君と、私の可愛い使い魔達がどんな風に足掻くのか、じっくりゆっくり見物していたかったんだよ。馬鹿狸がこの舞台に鬼であるあの男を連れてきたことで、ますます状況は悪化し、どうしようもない状態になっていった。とても愉快だったよ」
ふふ、と出雲さんは笑った。
「二人共救われる、幸せな結末へと物語を運ぶなんて芸当が自分に出来ると思っていたのかい、君は。無理だよ、無理。君のような何の力も無い人間には出来ないよ。無力なくせに無駄に優しいんだねえ、君は」
その言葉が胸に突き刺さる。
「そうです、私には何も出来ませんでした。結局私は心の中で誰かに助けを求めました。――出雲さんは、出雲さんには出来たんですか。力を持つ貴方には。二人を救うことが」
聞いたところで何の意味も無い。二人はもうこの世には居ない。
笑みも消え冷たい眼差しで出雲さんは私を見ている。全身が凍りついてしまいそうだった。
「さあね。救ってやろうなんて最初から考えていなかったからねえ。あったとしても、やりはしなかったと思うけれど。きっと面倒な手順を踏む必要があっただろうし。さっさと殺してしまう方が、きっとどんな方法よりもずっと楽で手っ取り早い。くだらない理由で私の遊び場である町を破壊しようとした鬼も、その鬼が死ぬのは嫌だとぴいぴい喚いている精霊も、すっきり消せば、万事解決する。こんな簡単な方法、他には無いと思うよ」
冷たい瞳、残酷な笑み。艶やかな唇にのせる言葉は残酷な響きをしている。
ぶれることの無いその生き方は或る意味真っ直ぐで、惚れ惚れするほど美しく、恐ろしいまでに残酷だ。
「君も馬鹿だが、あの二人も相当な愚か者だったねえ。正信という男は、愛しているからこそ殺すとか何とか言っておきながら、さっさと彼女を殺すわけでもなくごちゃごちゃ何か言い、彼女に近づく足取りは馬鹿みたいに重い。雨音という女は、愛しているから殺したくない、彼が他の誰かに殺されるのも嫌だと言いだす。そしてうだうだやっている間に、赤の他人にその命を奪われることになった。愛する人を殺すことも、愛する人に殺されることもなく、ね」
愛する人を殺し、愛する人に殺される。
愛する人を殺すことなく、愛する人に殺されることなく死ぬ。
どちらが二人にとって幸せなことだったのか。私には分からない。出雲さんは後者の方が幸せだと思って、二人を殺したわけではない。ただ一番楽な方法を選んだだけ。ただ、話を聞く限りでは出雲さんは前者の方が幸せだっただろうと思っているようだ。思いはしても、そうさせてあげない……それが出雲さんなのだ。
そんなことを話している間に、雨がすっかり止んだ。
暗くて重い雲が嘘みたいに消えていき、清水を湛える泉の様な色をした空と、世界を熱する太陽が顔を出した。
どこまでも青い、青い、青い空。透き通っていて、綺麗で、素晴らしい色をした空。
ああ。
ずっと待ち望んでいたはずのものだったのに。胸が苦しくて、泣きたくなった。
完結することなく眠っていた物語は動きだし、そして終った。決して幸せな結末ではなかったけれど。どれだけ後悔してももう遅い。
私はその後しばらくその場から動くことが出来なかった。
青い空をただ、ずっと、見つめていた。