鬼灯一夜(3)
*
『鬼灯』はますます盛り上がっていた。酒の力は元々騒がしい彼らをますます騒がしくさせる。
へべれけになっている白粉はその首を伸ばし、主人の体に巻きつく。その姿は支柱に巻きつく朝顔のつる……よりか木に体を巻きつかせている大蛇に似ていた。
主人は「そんなにひっつかれたら料理が出来ないじゃないか」とは言うものの、彼女の首を無理矢理引き剥がそうとはしない。力ずくで何かするのがあまり好きではないのかもしれない。
白粉は主人が抵抗しないのをいいことに、頬ずりしたり、耳元で甘い言葉を吐いたりとやりたい放題である。柳はその様子を困ったような顔でただ見ていた。
「旦那、あたしはねえ、旦那のことが死ぬほど好きなんだよ。ねえ旦那、あたしの想い、受け止めてくれるよね? ね?」
「残念だが」
鬼灯の主人は狐面をつけた顔を、柳の方へ向ける。
「私は柳一筋なんだよ」
白粉の顔がくもり、目から涙がこぼれる。
「いやだい、いやだい。鬼灯の旦那はあたしのことだけ見ていればいいんだ。柳の姐さんより、あたしの方がずっと綺麗だよう。ねえ旦那、あたしと夫婦になっておくれよう」
「まったく、手のかかるろくろ首っすねえ。本当、鬼灯の旦那は可哀想だ。こんなのに惚れられちまって」
「お黙りよ、狸公。他人の恋路に口を挟むんじゃないよ」
「おお、怖い。柳さんも、何か言ったらどうっすか?」
「いつものことですから」
そういって柳はほほほと笑った。本当に気にしていないのか、実は怒りの炎を燃やしているのか。彼女の考えていることは、鬼灯の主人以外には分からないのだ。
「弥助さん、今の白粉さんに何言っても無駄ですよ」
小僧のその言葉にそれもそうだと弥助は頷いた。まだかろうじて酔っ払っていない狢もその言葉に同意する。
「そうですよ、酔っ払った白粉さんに言葉は通じません」
酒を一気に飲み干す。口も無いのにどうやって飲み食いしているのか。
コップを満たす酒や、皿に盛られていた豚の角煮は確実に減っている。何らかの方法で飲み食いしていることは確かなのだが。同じ妖である弥助達ですら、彼女がどうやって飲み食いしているのか知らない。
「本当、白粉は酒を飲むとやたら積極的になるな。この前は確か主人の狐面をべろべろとなめまわしていたな」
「ああ、そういえばそんなことがあったっすね。他にもあんなことやこんなこと。うええ、思い出しただけで飯が不味くならあ」
「確かに。酔っ払った白粉はとんでもない方法で愛情表現をする……こうなんというか、ねちっこいというか、淫らというか。全くけしからん女だ」
「鞍馬の旦那もあれ位積極的になればいいのに。酔った勢いで柳の姐さんに猛烈なアタック……ぐえっ」
再びわき腹を襲う衝撃。酒のせいで手加減出来なくなってきているのか、かなり本気の拳であった。
「貴様という奴は! 今度言ったらその命、無くなるものと思うんだな!」
「もう、冗談なのに」
「あらあら、弥助さん大丈夫ですか?」
「心配するな。この馬鹿は我の拳を一度や二度受けた位では死なん。馬鹿であるゆえに、体に受けた衝撃や痛みもすぐ忘れてしまうのだから」
「それもそうですね」
「ちょ、狢……」
心配そうに弥助のことを見ていた狢は、鞍馬の言葉に納得し頷いた。弥助の体から、力が抜ける。彼がお笑い芸人だったら、今頃椅子から転げ落ちていただろう。
そんな時だ。入り口の戸が乱暴に開かれたのは。
お、次は誰が来たのだろう。と皆一斉に視線を戸の先に向け。そして驚いた。
「にん、げん?」
最初に声をあげたのは弥助だった。戸の先にいたのはどこからどう見ても普通の人間――しかもまだ子供――だった。人の姿に化ける妖も少なく無いが、彼からは自分達側の住人が身にまとっているはずの、独特な『気』が感じられなかった。
次に声をあげたのは、少年。その小さな体のどこから出ているのかと疑問に思う位大きな悲鳴であった。
勿論この少年は、先程男に助けられ、こちらへと逃げてきた少年である。
彼は必死になって逃げた。周りの風景ががらっと変わっていることに全く気がつかない位必死に。
そうしている内に男の言った通り『鬼灯』と書かれた暖簾が掲げられた建物を見つけ、勢いよく戸を開いた。そしたら……これだ。
(おば、おば、おばばば、ば)
まず一番最初に目に飛び込んできたのは、狐の面を被った男だった。そしてその男に絡みついている首、頬を染めながらにたにた笑っている女。
次に、天狗。真っ赤でいかついその顔は非常に怖かった。「怖い」という言葉さえ「怖い!」と言って逃げ出してしまいそうな位、怖い。おまけに図体もでかい。
更に、のっぺらっぼう。そこに本来ついているはずのものが何も無い。見事につるつるであった。
そしてとどめの三つ目小僧。隣に座っているのっぺらぼうとは違い、ついているはずのものは全部ついていた。……ただし余分に一個額についていた。無いものと、余分なものの合わせ技。
少年は思わずしりもちをついた。奥歯ががちがち音を立てている。鬼灯がくれた温もりも、一瞬で飛び散った。
(怖い。さっきの男の人も怖かったけれど……!)
「珍しいっすね。ここに人間が来るなんて」
「何故ここに人間が」
天狗――鞍馬は少年をますます怯えさせる、恐ろしい目を彼に向けた。
「桜町に住んでいる子っすかねえ。……あの町は色々曖昧だからなあ……迷いこんじまったのかも」
「理由なんざどうでもいいよう。ふふ、可愛らしい坊やだねえ」
鬼灯の主人から離れた首が次に向かったのは、ぶるぶる震えている少年のすぐ近く。彼に顔を近づけ、にたりと笑う。そしてぺろりと舌なめずり。少年にかかる、白粉の桃色の息。
(食べられる、絶対に、食べられる!)
声どころか涙も出ない。それ位まで少年は追い込まれていた。
そんな彼に助け舟を出したのは、三つ目であった。
「ちょいと白粉さん、お止めなさいよ。あんたの首を見て、怯えちゃっているじゃないか」
言いながら彼は席を立ち、白粉の頭を見下ろす。ぎょろぎょろ動く三つの目玉は――特に額についている一番大きな目――は大層不気味であった。自分で出した助け舟を、自らの手で破壊するような行為。少年の体はますます強張り、心の内に抱く恐怖は膨れあがる。
「坊やが怯えている原因はあたしじゃなく、あんたじゃないかい? 額に目玉がついている人間なんていないからね」
「あんたみたいに、首が馬鹿みたいに伸びる人間だっていやしませんよ」
見上げ、三つ目を睨む白粉。睨み返す、三つ目。
「二人共やめて下さい。きっとその子は私達全員に怯えているんですよ」
狢は少年に気を使っているのか、彼の方へ顔を向けることはしなかった。
「その通りだ。人間はあまり好きではないが……まあ、あまり怯えさせてやるな」
鞍馬の言葉と、恐ろしい視線がこたえたらしい。白粉は首を元に戻し、三つ目は大人しく元いた席についた。
客席側にいる中で一番人間に近い――というか人間そのもの――の姿をしていた弥助が立ち上がり、少年に手を差し伸べた。
「悪いっすね、驚かせちまって。大丈夫か、坊主」
人なつっこく暖かい笑みを浮かべ。少年が恐る恐る手を差し伸べると、弥助は優しくその手を握り、いとも簡単に立ち上がらせた。そのはずみで少年は今まで固く握りしめていた鬼灯をぽとりと床に落としてしまった。しゃがみこみ、弥助はそれを手に取る。それが何であるのか確認した途端、彼の顔が歪んだ。
「げえ、こりゃあ『通しの鬼灯』じゃないっすか。成程これなら『道』が見えるようになって……こっちとあっちを行き来出来る」
「何でそんなものを人間が持っているのだ?」
腕を組み、唸る鞍馬。頭を乱暴に弥助がかいた。
「分からないっす。けれどこれをこの坊主に渡した奴には心当たりがある」
「あの、それ……薄い紫色の髪の、赤い目をした男の人から、も、貰ったんだけれど」
ようやく少年は言葉らしい言葉を紡ぎだすことが出来た。その言葉を聞いた弥助は苦虫を噛み潰したような顔をし、頭を抱える。
「やっぱり、あの馬鹿狐だ……出雲だ……」
ああ、と少年以外の全員が納得の声をもらす。同時に弥助と少年の方に集中する視線。少年はたまらず弥助の背中に回りこみ、それから逃れようとする。
弥助は苦笑した。
「そんなびくつかなくてもいいのに。見てくれは恐ろしい奴らばかりだが、根は良い。それにここには人間を食糧にする奴はいないっすよ。……まああのろくろ首は危険な奴だから、近づかない方がいいっすけど。とって喰われちまう」
(食糧にする奴はいないってさっきいったのに……)
「何か言ったかい、狸公! あたしには人間を食べる趣味はないよ!」
「あんたの場合は、別の意味で食っちまいそうなんだよ」
「あたしは年下――ましてやこんなガキなんかに手を出しやしないよ」
「年上だったら手を出すと? おお怖い、あっしも気をつけないとな」
「気をつけないで結構! あんたになんて死んでも手を出しやしないよ」
少年はそのやり取りの意味が分からず、ぽかんと口を開け。そんな彼に鬼灯の主人が優しい声で話しかけた。
「まあ、その二人は放っておいて。とりあえず座りなさい。暖かいものでも食べれば少しは落ち着くだろう」
主人の声と手に導かれるようにして少年は一歩、また一歩と前に進む。
まだ少年は弥助以外の客が怖いらしい。仕方なく全員右に一つずつずれることになり、彼は元々弥助が座っていた席についた。
少年が座ったのを確認すると、主人はあつあつのおでんを盛った皿を彼に差し出した。少年はそれを受け取ろうかどうか迷う。
(見た目は普通のおでんだけれど……だ、大丈夫なのかなあ。とんでもないものが中に入っているのかもしれない)
そんな彼の肩を弥助が軽く叩いた。大丈夫だよ、そう言って微笑む。
「心配しなくても大丈夫っすよ。人間が食べられないようなものとか、人間が食うのをためらうようなゲテモノなんかは入っていないから」
そう言われても、なかなか決心はつかない。しかし皿から漂ってくるのはとても良い匂いだったし、盛りつけられている卵も大根もはんぺんも、どれも味がよく染みこんでいるようで――とても美味しそうだった。
少年の小さなお腹がぐう、と鳴った。恐ろしい思いをしながら長時間走り続けていた少年の体は、癒しとエネルギーを求めている。ごくり、と唾を飲み込んだ。
(ええい、もうどうなったって構うもんか)
皿を受け取り、箸で大根を一口サイズに割る。とても柔らかくすっと箸が入った。割った途端、とぷとぷと汁が出て、皿を満たす汁の海へ流れていく。
恐る恐る、口に入れてみた。最初こそ芋虫でも食べているかのような微妙な表情でゆっくり噛んでいたが、やがてその表情は晴れやかなものへと変わっていく。
「……お、美味しい。お母さんが作るのより、美味しいかもしれない」
味はさっぱりしているのに、香りはとても濃く、食べた瞬間口の中を満たし、鼻の穴をぐいぐい突き進む。大根の微かな苦味がアクセントになっていて……それがまた大変良かった。
少年は夢中になって卵を、こんにゃくを、はんぺんを食べていく。一度食べだしたら箸が止まらなくなった。体が一気に温まり、口からほわほわと暖かな息がこぼれた。強張っていた顔の筋肉が緩み、思わず笑顔になる。
気がつけば皿は空っぽになっていて。その様子をじっと見ていた弥助達はほっと息をつく。
「美味しかったっすか?」
「うん、とっても。こんな美味しいおでん、初めて食べた」
「そう、良かったわ」
柳が微笑む。恐らく主人も。少年は柳の笑顔にどきどきして思わず顔を伏せてしまった。同じように鞍馬も俯く。それを見て柳は、今度は小さな声をたてて笑う。
しかしすぐ真顔になり、少年に問うた。
「ところで君はどうしてここに? 何か特別な事情があってのことだとは思うけれど」
少し柔らかくなった少年の顔が、また強張る。少年は小さな声でこれまでの経緯を簡単に話した。上手く説明できなかったが、弥助達はちゃんと理解してくれたようで、成程と頷いた。
「出雲さんなら、どうにかしてくれるでしょう。あの人とても強いからね」
口からたこの足をのぞかせながら三つ目が語り、食べるか喋るかどちらかにしなさいと狢にたしなめられた。
「それもそうだな。出雲は優れた力をもっている。普通の妖がもっていない力ももっているし。……どこぞの馬鹿狸とは大違いだ」
「あ、あっしだってちゃんとできるっすよ」
どこぞの馬鹿狸は視線をそらす。その声からは一切の自信を感じられない。
「嘘言え。人間の姿に化けるのがやっとのくらいの力しかもっておらぬくせに。肉弾戦ならまだしも、物理的な攻撃が効かぬ者には一切対抗出来ぬでは無いか。いつのことだったか、はるか格下の霊にむざむざととり憑かれ、散々我等に迷惑をかけたことがあったなあ?」
「そ、それは鞍馬の旦那がつくったでたらめな記憶っすよ」
「ふん、まあそういうことにしておいてやろう」
最早鞍馬はコップなどというまどろっこしいものを使わなくなり、主人から酒瓶丸ごと一本貰い、豪快にラッパ飲みしだす。少年はあの中に入っているのは水なのではなかろうかと思った。それ位ものすごい飲みっぷりだったのだ。
白粉が再び首を伸ばし、鬼灯の主人に絡もうとする。伸びるに首に再び少年は体を震わせた。
「これ、白粉。この少年がいる間は、その首を伸ばすのはやめろ」
「そんなあ、あんまりだよう、鞍馬の旦那。なんであたしが勝手に転がり込んできた人間の為に、愛する人への誘惑をやめなくちゃならないんだい」
「そんな方法で誘惑しても、鬼灯の主人はなびかんわ、馬鹿者。そんな気味の悪い首に巻かれたって主人は喜ばないぞ。むしろ嫌がるのではないか?」
「そうっすよ。それに主人には柳の姐さんという素敵な奥さんもいるんですからね」
「全くです。いい加減あきらめなさいよ、白粉さん」
「同感だね。どうせ何やったって無駄だよ」
「私としてもあまり旦那に手を出して欲しくはありませんね、正直困ってしまいます」
「……しつこい人って嫌われるんだよね」
落ち着くために一口茶を飲んだ少年まで、小声でそんなことを言う。
「ああ、もうなんだって皆あたしを目の敵にするんだい」
口を尖らせ文句を言いつつ、大人しく首を元に戻した白粉はそのままカウンターに突っ伏して泣き始めた。しかし誰も彼女を慰めようとせず、自分の時間を満喫する。少年は少しだけ申し訳なく思い、意を決して彼女に声をかけようとするも、弥助に止められた。
「いつものことだから、気にするな。あいつは酔うと、テンションが高くなったり低くなったりを繰り返すんだ。変に優しい言葉をかけてみろ、延々とからまれることになる。だから放っておいた方がいい。さあさあ、どんどん食べな。もつ煮込みとかは好きっすか?」
「ええと、あまり好きじゃない……かな」
「それじゃあ味噌田楽とかはどうっすか」
「こんにゃくに味噌塗ったやつだっけ? あれは嫌いじゃない」
少年は弥助にすっかり心を許したようで、ごく自然と会話するようになった。
鞍馬とも少しずつ話すようになった。おっかなびっくりではあるが。
「少年はどんな料理が好きなのだ?」
「え、ええと……カレーライス、かな。お母さんが作るカレー、とっても美味しいんだ。……あ、えと、カレーライスって分かる?」
身を乗りだし、弥助の向こう側に見える鞍馬の顔をおそるおそる見る。鞍馬は難しい顔をし、唸りつつも最後に首を縦に振った。
「辛いらいすだな。弥助から以前聞いた覚えがある。随分辛いらしいが……そんなに辛いのか?」
「うん、まあ……甘口か辛口かによっても変わるけれど……基本的には辛いかな。でも、ただ辛いだけじゃないんだよ。野菜の甘味がルーに溶けて……辛いけれど甘味もあるし、旨みもある感じで、ええとじっくり煮込む程まろやかになって……一晩寝かせたカレーは最強なんだ」
甘めの味噌が塗られたこんにゃくにかぶりついた少年は、ほころばせた顔を鞍馬に向ける。
「成程な。山葵と辛いらいすだとどちらが辛いのだ」
「どっちだろう? 辛さの種類が違うからなんとも……」
「そうか。我は辛いものは好きだからな。一度食ってみたいものだ。おい弥助今度その辛いらいすを持って来い」
「それが人にものを頼む態度っすか……腕まで組んで偉そうに……勿論持ってくるっすが」
言った後、弥助は少年にこそっと耳打ちした。
「実は鞍馬の旦那、数十年前一度カレーを食べたことがあったんすよ。だがどうも忘れているらしい。まああの時は酔っ払っていたし、おまけに食べたのが辛口だったものだからひいひいって……あっしらの前で醜態をさらしちまったんだ。どうもそれが原因でカレーを食べた記憶を封印しちまったようだ」
それを聞き少年はぷっと吹き出す。訝しげな表情で自分の方を見る鞍馬に気がつき、慌てて口を抑える。
「そうなんだ。……あ……そういえばええと、気になることがあるんだけれど」
「ん、何すか?」
「ここって……お化け通りじゃない、の?」
「あの通りにこんな居酒屋があるなんて聞いたことがあるか?」
弥助に問われ、少年は首を激しく横に振った。妖怪が出てくるという噂は飽きるほど聞いたが、居酒屋(しかも妖怪が集まってくる)があるなどという噂は今まで聞いたことが無かった。
「つまりそういうことっすよ」
悪戯っぽく笑ってみせ、酒を一気飲み。一方の少年は訳が分からないという風な様子である。
「世界は一つなんかじゃない。ただ目に見えないだけで」
「こ、ここは僕が住んでいる世界とは違うところ、なの?」
「そうっすよ。ここは坊主達が住んでいる世界と、ぴたりと重なり合うようにして存在している世界。人間が妖怪、幽霊、精霊、神様と呼ぶような存在がこの世界にはうじゃうじゃいる。……というか九割九分九厘以上がそういう奴らっすねえ」
「重なり合った、世界……」
「そう。とりあえず二枚のセロハン紙を重ねた図でも想像してくれ。色とかそういうのは気にしなくていい。あれはとても薄っぺらいから、二枚重ねても大した厚みにはならない。一見、そこにあるのは一枚のセロハン紙。横から見ても本当にこれ二枚重なっているのか? と思ってしまう。……けれど、そこにあるのは確かに二枚のセロハン紙。同化しているようで、していない。二つの世界の関係はまあ、そんな感じなんすよ。ぴたりと重なり合っているけれど、一体化はしていない。境目が無いようで、ある。それぞれ独立した存在なんだ」
「は、はあ」
「間近にあるはずなのに、触れることも見ることも出来ない。……こっちの世界からあっちの世界は見えないし、あっちの世界からこっちの世界を見ることも出来ない。しかし昔はここまではっきり分かれちゃいなかったんだがなあ」
そう言って頭をかく。少年は男の言っていることを完全に理解していなかったが、とりあえず「そうなの?」と相槌を打った。
「ああ。昔はこの二つの世界の境界は曖昧だったっすよ。双方の世界を行き来することもそう難しいことじゃなかった。二つの世界を繋ぐ『道』も沢山あったし、今とは違って何をしなくてもその『道』を見ることが出来たし。……それゆえに、両世界の間には繋がりがあり、関わりがあった」
「おいらも昔は沢山の人間を驚かしてやった。楽しかったなあ……ふふ、懐かしいなあ!」
三つの目を細め、三つ目は昔のことを懐かしむ。狢も鞍馬も色々人間にやったことを思い出したのか、ふふ、という笑い声をもらした。
「あっしらの隣には常に人間がいたし、人間の隣にはいつもあっしらがいた。あっしらとの付き合いはあの頃の人間の生活の一部になっていた……望む望まないに関わらず、な」
「けれど今は違うよね? 僕は真っ黒お化けに会うまで、妖怪とかそういう存在なんて信じていなかったもの」
少年のその言葉に、弥助は少し寂しげな表情を浮かべ「ああ」と一言。それから少しして、話を始める。
「人間はどんどん進化していった。あっしらが呆然とする位ハイペースで。科学が発達して、文化も大きく変わっていって……昔は、こっちの世界とあっちの世界にあまり差は無かった。けれど時が経つにつれ、どんどんその差は広がっていき……今じゃあ全くの別物だ。その『違い』と、人間があっしらの存在を否定する気持ちが、二つの世界をはっきりと分けちまったんだ」
人間の生活から『人では無いもの』の存在は消えた。彼らとは最早紙の上や画面の向こう側――二次元の世界でしか会うことは無い。
「当たり前のようにあった繋がりは断ち切られて。それでもって、二つの世界を繋げる『道』はどんどん減っていった。残った『道』も簡単には見えなくなっちまった。見えない道を、認識出来ない道を歩くことなんて出来ない。だから二つの世界を行き来するのも難しくなった」
「何となく分かった気がする……。それじゃああの、この鬼灯は」
「見えなくなった『道』を照らし、見えるようにするものっすよ。丁度お化け通りの入り口に『道』があるんだ。坊主はその道を抜け、こっちの世界に来た。今はもう通しの鬼灯のような道具を使ったり、儀式のようなものをしたりしなければ、まずこの世界を行き来することは出来ない
けれどな、坊主……弥助が急に真顔になり、何か話そうとした。まさにその時だった。しばらくの間開いていなかった戸が、音を立てて開いたのは。