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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
雨唄
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雨唄(4)

 無数の雨粒の向こう側に立っているのは、女の人のようだった。私達は静かに、ゆっくりとその女性に近づく。どうやらこの不思議な唄を唄っているのは彼女らしい。

 大分近くに来ているのに、彼女は私達の存在に気づいてはいないようだ。唄うことに夢中になっているのだろうか。よく見てみると、彼女は目を瞑っているようだった。

 砕いた真珠を散りばめた様な、輝きのある黒髪はゆったりと広がり、膝ほどまで流れている。赤の上に白の衣を重ね、翡翠色の帯を締めている。はいているのは真っ赤な袴。衣からほんの少し覗いている手も、顔も白い。


 手を合わせ、まるで祈る様に唄う彼女は、とても綺麗で美しい。

 

「あの人が、雨を?」

 やた吉君とやた郎君が頷く。


「あの人から、この雨に含まれているのと同じ力の波長を感じる」


「でもあの人からは清浄な力と邪悪な力、どちらも感じる……。二つが混じっている感じで」


「鬼か精霊か、やっぱり……微妙な感じなの?」

 二人がこくりと頷く。私は女の人を改めて見る。澄んだ声、神々しさすら感じる姿。とても鬼には見えない。


 私達はゆっくり、なるべく気づかれないように更に彼女に近づいていく。雨の中何もささずに立っているのに、彼女の体も服も少しも濡れていない。深緑色の勾玉がついた首飾りが、白い衣によく映えている。

 ふと彼女が目を開いた。私はどきりとして、その場で固まった。真っ黒な瞳が私達の姿を捉える。こちらの姿を見て驚いた様な表情を浮かべ、目をぱちくりさせる。


 この人がもし鬼だったらどうしよう。不安になった私に向けて、彼女は優しく微笑んだ。穏やかな笑みだった。


「驚いたわ、人間の娘さんがここに来るなんて。そちらの男の子達は人間では無いわね」

 頭の中に響く声。彼女は唄いながら、私達に語りかける。さらさらと流れる水の様な、透き通った声。

 私の返事を聞く前に、彼女はこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。私はその場から動くことが出来なかった。出雲さんと対峙した時のように、恐怖で体が動かなかった訳では無い。ただ自分とは住む世界の違う彼女が放っている何かに気圧されたというか……。恐ろしいとは思わないけれど、心臓の鼓動が激しくなっている。


「お嬢さん、どうしてこんな所に来たの?」

 私はすっかり固まった頬をぺしんと軽く叩いた後、口を開く。聞きたいことを聞かなければ。ここまで来た意味が無い。


「この雨を降らせているのは、貴方なんですか。私は箱を開けました。その箱には鬼と精霊が眠っていたらしいと開けた後に聞きました。貴方は私が開けた箱の中で眠っていた方なのですか?」

 その言葉を聞いて、彼女の足が止まった。大きく目を見開き私を見た。

 しばらくして彼女はため息をつき、静かに目を閉じる。


「そう。貴方が、そうだったの……。まあ貴方が開けなくてもどの道あの箱は近いうちに開いていたわ。箱にかけた封印はもう大分弱いものになっていたから」


「貴方が封印を。それならば貴方は」


「私の名前は雨音(あまね)、雨に音と書いて、雨音。私は水を司る者。多分貴方達が精霊と呼んでいるような存在なんでしょうね。雨に豊穣や平和を祈る唄を乗せ、降らせる。そうしながら、私はこの辺りを見守ってきたの」

 彼女……雨音さんは、そう言って空を見上げる。その表情はどこか切ない。真っ黒の空から降る雨には一体どんな想いが込められているのだろうか。

 しばし雨音さんは空を見つめた後、視線をこちらに移した。


「雨音さん、どうして、どうして貴方はこの雨を降らせているのですか? 一体どんな物語が……」


「私はこの山で、ある一人の男性と出会ったの」

 どんな物語があるのかと問おうとした私の言葉を、頭の中に響く彼女の声が止めた。彼女は笑っているような泣いているような表情を浮かべながら、胸を飾る勾玉を愛しそうに撫でた。


正信(まさのぶ)という名前で、とても優しい人だった。その人は、普通の人間は持っていない霊的な力を持っていたの。かなり強い力だった。……けれど彼はそのことを鼻にかけることも、私利私欲の為に使うことも無かった。こういうものは本来人間が持っているものではないし、こういう力を使わなくても人は生きていけるから……そう言っていたわ。余程のことが無い限りは使っていなかったみたい」

 懐かしそうに語る彼女の姿は、恋する乙女のそれの様だった。


「彼と過ごす時間は、それは素晴らしいものだった。彼は村のことや自分のことを沢山話してくれて。私も自分のことや、彼の知らない世界のことを沢山話したわ。木の実を採ったり、一緒にお昼寝したり、水遊びしたりした。ずうっと抱きしめていたくなるような、愛しい時間を過ごしたわ」

 余程幸せだったのだろう、彼女の声は弾み、暖かな笑みを浮かべている。

 私も本を読んだり、小説を書いたり、部活をしたりしている時はとっても幸せで、思い出すだけでも幸せな気持ちになれる。


 けれど、彼女の表情はまた段々と暗くなり、今にも泣きそうなものに変わる。

 愛しい時間が続くだけだったら、こんなことにはなっていないはずだ。唐突にその正信さんという人のことを話し始めたところを見ると、恐らく今回のことは正信さんと何か関係があるのだろう。


「いつの頃からか、彼の様子がおかしくなったの。塞ぎこんでいるというか、何というか。私はどうしたのと彼に聞いたわ。そしたら彼は『最近私を見る巫女様の目が怖い』と答えたの」


「巫女様?」


「何でも彼の住む村……今は姿形が大分変わっているみたいだけれど……そこの村には、彼と同じく霊的な力を持ち、それを用いて村を導く一族が居たらしいわ。その一族の中に、村長と同等、或いはそれ以上の権威を持つ巫女が居たらしいの」

 ああ、と私は声を上げ頷いた。確かに桜村にはかつてそういう一族が居たと桜村奇譚にも書いてあった。巫女の桜さんもその一族の人間だったはず。


「最初は気のせいだと思ったらしいの。けれど段々それが気のせいでは無いことが分かってきたらしいわ。まあ最初の内は自分を見る目が怖い、という程度ですんでいたらしいけれど」


「どんどん酷くなっていったんですか?」

 雨音さんが重々しく頷く。


「何かにつけて彼に意地の悪いことを言ったり、彼のことを無視したりするようになったって。けれど彼は巫女に何も悪いことはしていない、と言っていたわ。ただ何度も嫌がらせを受けているうちに、何となく理由が分かってきたらしいわ」


「一体、何故?」


「人ってどうしようもなく弱くて脆い生き物なのね。その弱さを愛しく思う時もあるのだけれど。……その巫女はね、彼が怖かったらしいの」


「怖かった? 力を持っていたからですか? けれど、その巫女様だって当然」


「勿論、その巫女も霊的な力を持っていたらしいわ。けれど、彼程では無かったようね。巫女は村人達から好かれ、且つ自分より強い力を持っていた彼に嫉妬したらしいの。更に巫女は、自分の権威が彼によって脅かされてしまうことを恐れたらしいわ」

 そう言って雨音さんはため息をついた。

 何故急に巫女が彼に冷たくなったのかは、はっきりとは分からないらしい、と雨音さんは続けた。自分の力が衰えてきたのか、自分より正信さんの方がずっと良いなどという言葉を誰かが言っているのを聞いたからなのか、元々抱いていた嫉妬や恐怖の感情が強くなったからなのか。その辺りは、もう分からない。


「巫女の仕打ちに、彼は随分傷ついたようね。けれどその時は未だ笑う余裕もあったの。彼に冷たかったのは基本的にはその巫女だけで、後の村人達は変わらず彼を慕っていたようだし。私も彼の悲しみを癒してあげることが出来ていた……」

 けれど、と雨音さんが続ける。


「ある日のことよ。彼は青い顔をしながら、私に抱きついてきた。驚いたわ。私を抱きしめる手は酷く震えていて、彼は支えを失えばあっという間に倒れてしまいそうな位弱っていた。どうしたの、と私は聞いた。彼は苦しそうに答えた。あの村ではね、定期的に巫女が村人を集め、彼等の前で自分が占で見たもの等を話すということをしていたらしいの。そこで巫女は正信を指差し『その男は忌むべき者だ。彼は村に災いをもたらす』などと言ったらしいの」

 信じられない、という風に雨音さんは首を横にぶるぶると振った。

 わざわざ皆が集まっている前で巫女は彼を貶めるようなことを言ったの?彼から全てを奪わなければ巫女は気が済まなかったの?私は巫女がしたことに驚き、口に手をやる。


「酷い話だなあ。正信っていう男の言うことが本当なら、そいつは何もしていなかったんだろう? それなのに巫女は自分の勝手な思い込みだけでそんなことを言ったわけ?」

 やた吉君にも、巫女の仕打ちが理解出来なかったらしい。


 けれど。


「けれど、村人はそんなことを巫女が言っただけで、正信さんが災いを招く人だと信じてしまったの?」


「少なくともあの村の人達にとって、巫女の言うことは絶対だったらしいわ。まあそれでも、最初のうちは村の人達もそんな馬鹿な、と半信半疑といった感じで、彼にまああまり気にするなと優しい言葉をかけてくれたそうよ」


「正信さんはそういう人間じゃないって、皆信頼していたってことですね」

 村の人達には好かれていたらしいから。いざという時は力を使って彼等を助けていたらしいし、心優しくて誠実な性格だったし。女の子にももてていたようだしね、私が妬いちゃう位にはと雨音さんが言い、くすっと笑った。けれどその瞳は変わらず悲しげだ。


「けれど、さっきも言った通り人間ってどうしようもなく弱い生き物なのね。巫女はその後も、村で良く無いことが起きる度にそれを彼のせいにしたらしいわ。一言目にはすぐ正信のせいだ、正信がやったんだって……。勿論彼は否定したし、自分は巫女様の権威を脅かすつもりは少しも無いと何度も訴えたって……けれど巫女は聞く耳を持たなかったって……。私は彼を癒す言葉を唄にのせた。そうやって、彼を癒そうとした。けれど彼の悲しみは私の唄、そして私の温もりだけでは完全に癒すことは出来なかった。苦しかったでしょうね、私の知らないところで、彼は苦しめられ続けた……」

 無実の罪を幾つも擦りつけられ、責められ続ける。自分の気持ちなんてまるで無視して。巫女は自分を守る為に、自分が守るべき村人の一人を貶め続けた……。


「最初のうちは村人だって彼が災いを招く者なんて、信じていなかったらしいわ。けれど、何度も巫女が言っているうちに村人達の心に、正信を疑う気持ちが芽生えてきたようね。その芽は巫女の言葉という水を与えられ、少しずつ成長していく。思いの蕾が膨らみ、やがて花を咲かせる」


「村人達は、原因不明の良くないことを正信って人のせいにした。そうするときっと気持ちが楽になったんだろうね。原因が分からないと気味が悪いけれど、原因が分かればすっきりする。村の人達は原因を作り上げることで安心しようとしたのかもね。一度楽を覚えると人間も動物も、なかなかそこから抜け出せない」

 やた郎君がぼそりと呟く。何となくその気持ちは分かるような気がした。


「憎しみの対象を作り上げて、その人に怒りや憎しみをぶつけることで楽になろうとした、というのもあるのかも。実体の無いものにあたることは出来ない。けれど、人間には実体がある。だから全てをぶつけることが出来る……でも、そんなのってあんまりだわ」

 私達の言葉を聞いて、雨音さんが手で顔を覆った。そして苦しそうに呻く。


「彼は日に日にやつれていったわ……笑みは消え失せ、口数も少なくなった。私は人ではない。人の世に必要以上に干渉したくは無かったし、仮に干渉したとしても彼を救ってやれたかどうか。下手なことをすればますます状況は悪化する、そう思ったわ。私には彼を抱きしめながら、慰めることしか出来なかった。そして彼に芽生え始めた憎しみを摘み取ろうと必死になった。けれど彼の中に芽生えた怒りや憎しみ、悲しみは私一人の力では完全に摘み取ることは出来なかった」

 少しずつ早口になっていき、声を荒げていく。降り注ぐ雨が、少し激しくなった。


「憎しみや怒りの感情に押し潰されて、全てを恨む鬼になってしまいそうだと。いっそ村を出て、私と二人で暮らしたいと彼は言った。けれどそんなことは出来ない。村を出たところで、彼に幸せは無い。簡単に生きていける訳が無いもの……。ああ、それでも私は彼を連れてどこか遠くへ行ってしまった方が良かったのかしら? ふふ、今更そんなこと思ったって遅いわよね。そう、遅すぎた。あの日のことを私は決して忘れはしないわ」


 全てを恨む鬼に?それなら、もしかして鬼というのは。

私が考えていることを察したのか雨音さんが力なく頷く。


「ある日のことよ。私の前に彼が姿を見せたの。私はその姿を見て、絶句したわ。憎しみの炎をその目に宿し、邪悪な笑みを浮かべ、その身から恐ろしく黒くおぞましい何かを発している彼の姿。私の知る彼ではなかった。彼は魔に憑かれ、その身も心も魔に染まり『鬼』となったわ」


---雨音。私はこれから全てを終らせる。あの愚かな巫女も、その巫女の言葉を真に受けて私を苦しめたあの村人共も皆殺してやる。全てを破壊し、無に帰してやるんだ。私はもう我慢をしない。雨音、君を私は愛している。だから、だからこそ---


「憎しみに満ちた声で語る彼は、私にこう言ったわ」


---私は君を殺す。誰よりも、先に---


「冗談を言っているようには思えなかった。私はそんな馬鹿なことはやめて、と必死に止めようとしたの。けれどもう私の言葉すら彼の耳には届かなかった。このままでは彼は間違いなく私を殺す。そして、破壊と殺戮を始める。彼は強大な力を用い、自分の魂と力の核と呼べるものをこの勾玉に移した。そうすることで彼は簡単に死なない存在になったわ」

 雨音さんが愛しそうに撫でたり、握りしめたりしていた勾玉。それこそが、彼の核となるもの。

 清らかなものと邪悪なものが入り混じり、やた吉君達を混乱させていた訳は、目の前にある勾玉が原因だったのね。

 けれど、何故それを彼女が?


「彼の力は魔によって歪められ、そしてますます強いものとなった。私だってそれなりの力は持っているわ。けれどそれは誰かと戦い、傷つけることには向いていないの。それでも私なりに抵抗したわ。……辛い戦いの末、私は彼の隙をついて、この勾玉を奪ったわ。そして昔彼が私にくれた箱に---一番の宝物に彼を封印し、私も共に眠った。封印するのがやっとだったの」

 強い力を持っていれば何でも出来るとは限らない。雨音さんの持つ力は何かを破壊したり、傷つけたり……殺したりするものには向いていなかったのだろう。勉強が出来るからって料理や運動も同じように出来るとは限らないということと同じことだ。力のベクトルがどこに向いているかで、変わる。


「けれど、そんな二人を私が解き放ってしまったのね。何も知らない私が……」

 苦しい思いをしながらやっとの思いで封印し、彼女も共に眠ったのに。

 雨音さんは私をじいっと見ながら首を横に振る。


「貴方のせいではないわ。さっきも言った通り、封印は解けかかっていたの。そうで無ければ、ただの人間である貴方にはあの箱を開けることなんて出来なかったはずだもの。だからこそ私は彼と共に眠ったの。封印が解けた時もすぐに対処出来るように。いいえ、理由はそれだけではない。私は彼と一緒に居たかった。痛みを抱いて眠る彼を一人にしたくなかった。本当はその痛みも取り除いてあげたかったけれど……私は無力よ。本当に助けたい人を救えないこんな力、要らなかった」

 駄々をこねる子供の様に頭を激しく振り、雨音さんは泣き喚く。思い出すだけでも、辛かったのだろう。

 雨音さんは涙を流しながら、私を見る。何故か不思議なものを見る目で。


「貴方は、この話を信じるの? もしかしたら私の方こそ、鬼なのかもしれないわよ。こうして貴方を騙して、隙をついて貴方を殺してしまうつもりなのかもしれないわよ」


 そう言われてみれば。確かに彼女の話が真実であるという証拠はどこにも無い。けれど目の前に居る女性が、邪悪な存在には到底思えない。

 第一「雨音」なんて名前の人間なんて、居ないでしょうし……まあ箱に眠っていた鬼が元人間だったというのが本当だったらの話だけれど。けれど彼女が嘘を吐いているようには思えないし……。

 私は雨音さんに向けて笑みを浮かべる。


「私は、信じます。雨音さんが嘘をついているようには思えませんから。やた吉君とやた郎君は?」

 二人は目をぱちくりさせ、顔を見合わせた後小さな声で答えた。


「おいら達も、まあ、一応信じているかな。でもその話が本当だとして、正信っていう男は今何をしているわけ? 封印が解けたのなら、そいつだって自由になったんだろう。自分に直接危害を加えた巫女や村人達はもう居ない。だからといって破壊や殺戮の衝動が収まるなんてことは無いはずだと思うんだけれど」


「けれど、そいつは貴方を殺すことも、町を破壊することも無く、姿を隠しているみたいだ。貴方が降らせている雨と何か関係でもあるの?」


 雨音さんは自らを嘲るような笑みを浮かべ、その問いに答える。


「彼のことを鬼だと私は言いましたが、私だって似たようなものかもしれないわ。……さっき言ったわよね、私は祈りの唄を雨に乗せる力を持つと。けれどね、雨に乗せることが出来るのは祈りの唄だけでは無いのよ。呪いの唄だって……乗せることが出来る」

 最後の部分だけ、低い声色で静かに言った。その声に私はぞくっとした。


「実際にやったのは初めてだったわ。そんなこと出来るとは思っていなかったから。けれどどうやら、成功したみたいね。私は彼を苦しめる呪いの唄を雨に乗せて、こうして降らしている。そうすることで、彼の動きを止めている。この勾玉がある以上、死ぬことは無いわ。けれど、私の所まで来られない位には弱っているみたいね。大切な人を止める為に、大切な人を苦しめる。……ふふ、恐ろしいでしょう。祈りの唄はなかなか上手く作用してくれないのに、人を呪う唄は簡単に彼まで届き、彼を苦しめている。おかしな話よね……人を幸せにすることより、人を呪うことの方がずっと簡単なんて」

 力無く笑う彼女の姿はとても痛々しい。こうしている間も、どこかで正信さんは呪いの言葉に苦しみ、悶えているのだろう。


「更に私はこの雨で結界を作り、彼を閉じ込めた。彼はこの雨の降っている範囲外に出ることは出来ないわ。……本当、どちらが鬼なのか分かったものではないわね……。私こそが冷酷なる鬼なのかもしれないわ」


 彼を閉じ込め、呪いで苦しめ続ける。逃れることの出来ない苦しみ。こんなにも綺麗な唄が、一人の人間を地獄に堕としているなんて。

 確かにこれは冷酷で恐ろしい行為だ。けれどそうやって大切な人を呪っている彼女だって苦しんでいる。今の空の色も、冷たい雨粒も全てこの雨を降らせている彼女の気持ちを表しているのだろう。


 彼女は苦しみながらも、呪いの唄を唄い続ける。そうしなければ正信さんは---だから唄い続ける---そして雨は---え、ちょっと待って。彼を止める為に唄い続けるということは。


「でも、でも、雨音さん。この雨は正信さんの動きを牽制することしか出来ないんですよね。殺すことは、出来ない」


「ええ、そうよ。まあこの勾玉を彼が奪い返した場合、この唄も意味を成さなくなるだろうけれど。彼の力の方が完全に上回ってしまうもの」


「それじゃあ、勾玉を取り返されないように動きを止めるには、この雨を降らし続けるしか無いってことですか?」

 正直言って、それはかなり不味いわ。雨は生きとし生けるものを生かし続ける恵みの雨。けれど必要以上に降り続ければ、恵みの雨から凶器の雨へと変貌する。

雨音さんは困ったような表情を浮かべる。雨音さんもこのままで良いとは思ってはいないようだ。


「迷っているのよ、私は。再び共に眠りにつくべきか、否か。彼は何も悪くない。そんな彼を、箱の中に閉じ込めることが果たして良いことなのか」


「その勾玉を壊せば……」

 いいんじゃないかと言いかけて、私は口をつぐんだ。その勾玉を壊すということは、つまり正信さんを殺すということだ。

 雨音さんは首を横に振る。


「この勾玉は簡単に壊れるものでは無いわ。まあ、力を注ぎ続ければ壊れるかもしれないけれど。でも、そんなこと、私には出来ないわ。……だって、私は彼を愛しているもの」

 ぎゅっと勾玉を握りしめる。封印することすら躊躇っている人が、そんなこと出来るはずがないわよね。私だってきっと嫌だと思う。

 愛しているがゆえに彼女を真っ先に殺したいと思っている正信さん。

 愛しているがゆえに彼を殺したくないと思っている雨音さん。

 どちらも相手を想う気持ちは同じもののはずなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。


「……結局のところ、封印する位しか手は無い。破壊と殺戮の衝動をかき消すことは容易ではない。説得なんてほぼ不可能。仮に説得出来たとしても……その先に待っているのは、彼の消滅。完全に魔に支配された者はもう何をしても助からない。衝動が消え去れば消滅、浄化をすれば消滅。彼の心の傷が癒え、救われた瞬間、彼は消えるわ。でも彼に消えて欲しくなんてないの。かといって、彼にその手を汚してもらいたくは無い。破壊や殺戮……そんな恐ろしいことを彼にやらせたくは無いの。だから、やっぱり……再び彼を封印し、私は彼と共に眠りにつく。それが一番なのかもしれないわ」

 雨音さんは手で顔を覆い、嘆く。


「けれど。……けれど、それで本当にいいのかしら」

 私はぽつりと呟く。


 確かにそれが一番手っ取り早い方法だとは思う。そうすれば正信さんの手が汚れることも無いし、雨音さんは愛しい人と共に眠ることが出来る。この奇妙な雨は止んで、桜町も三つ葉市や舞花市の一部地域に住む人達もほっと一安心。めでたしめでたし……。

 けれど本当にそれでいいのかしら。

 だってそれではまた物語は止まってしまう。完結すること無く。時が経てばきっと封印は解け、再び物語は動き出す。でも雨音さんが正信さんを封印すれば、また物語は止まる。少し動いては止まり、また動き出し……の繰り返し。

 何も変わりはしない。正信さんは怒りや憎しみを抱き続け、雨音さんは愛する人を無理矢理眠らせ続けることで、ずっと苦しむことになる。自分の無力さを呪い続ける。


「本当に、それでいいんですか。だってそれじゃあ同じことの繰り返しで……二人共、救われないじゃないですか」

 物語が終ることを恐れて、物語を止め続けること。それが良いこととはどうしても思えない。

 例え雨音さんにとって苦しい結果になったとしても、物語は進めなければいけないと思う。


「それじゃあ、私にどうしろというの? あの人を殺せというの? 嫌よ、そんなの絶対に嫌!」

 声を荒げて彼女が叫んだ瞬間、雨が激しくなった。もう傘は何の機能も果たしていない。強い風と共に、私の体を雨が突き刺す。


「それじゃあ、おいら達が代わりにその勾玉を壊すよ。それなら……」


「嫌よ、私が殺すのも嫌! けれど、誰かにあの人が殺されるのも嫌! 封印をするのも駄目、でも雨を降らし続けるのも駄目、それじゃあどうしろというの!」


 何も答えられなかった。やた吉君とやた郎君も流石に無理矢理勾玉を奪って壊すことはしたくないらしく、困ったような表情を浮かべながら立ち尽くしていた。


 聞こえるのは、美しく残酷な唄と、その唄をのせて降りしきる雨の音だけ。私には、この暗く沈んだ空に光を取り戻させることなんて、出来ないんだわ。         

彼を封印したところで、彼女の心に暖かな日の光が差すことは無い。冷たい雨に打たれ、重く沈む黒い雲に囲まれて眠り続けるしかない。それは、正信さんも同じ。


 けれど、それでも、彼女は。彼を殺したくはないのだ。自分も正信さんも、どちらも救われない道を進んででも。

 それが良いこととは思えない。でも私にはどうすることも……。


 ざわ、ざわ。

 風が吹き、木々がざわつき始める。その音は私を何故か酷く不安にさせた。

 何かが起きそうな気がした。


 ふと頭上に気配を感じ、私は空を見上げた。空からこちらめがけて、黒くて大きな何かがゆっくりと降りてきた。

 黒い塊は人の形をしている。どんどんこちらに近づいてくるうち、正体がはっきりしてきた。


 大きな体に、乱暴に束ねたぼさぼさの髪。たれ目に無精ひげ……見覚えのある、姿だった。


「や、弥助さん!?」


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