雨唄(3)
*さくらの語り
私は、弥助さんが昨日の夜に掴んだ情報を色々と聞いていた。何でも弥助さんは私に箱を売ったあの不思議なおばあさんとも(偶然)会い、直接話を聞いたという。
箱の中に眠っていたのは、一人の精霊と、鬼。矢張り私はとんでもないものを解き放ってしまったらしい。鬼ってやっぱり、あの体が赤くて頭に角が生えているあれかしら。それともそんな昔話に出てくるような鬼とはまた違うのだろうか。
弥助さん曰く、全ての鬼が悪さをする訳では無いという。大人しく滅多に人を襲わない鬼も、逆に時と場合によっては人を助ける鬼というのも居るらしい。けれど、精霊が封印したというからには悪さをする鬼だったのだろう。
そこまでは分かったらしいけれど、矢張り桜山にいるのが精霊の方なのか鬼の方なのかは弥助さんには分からないらしい。
一体雨を降らせているのはどちらなのだろうか。この雨に何の意味があるのだろう。
精霊と鬼。私が解き放ってしまった二人は今何をしているのだろうか。
今桜町周辺で起きている大きな事件といえば、この不思議な雨のみだ。誰かが襲われて怪我をしたとか、建物が壊されたとか、何かが光っているのを見たとか……そういった類の話は一切聞いていない。
鬼が雨を降らし続けて、様々な災害を起こそうとしているのか。だとしたら何故精霊は鬼を止めようとしていないのか。
精霊が雨を降らし続けて、鬼を封印しようとしているのだろうか。けれど雨を降らせて何かを封印するなんて聞いたことが無い。
二人のうち一人は桜山に居るとして、もう一人はどこに居るのだろう。まだ桜町周辺に居るのだろうか……。
「力の強い者同士がぶつかり合った時の衝撃というのは大きい。そうなれば流石のあっしも気がつくはずなんだが。だがそんなものは全然感じなかった。精霊か鬼、どちらかが雨を降らせている……それ以外の動きは多分、無い」
「止まっていた物語は再び動き出した。けれど、今は? 私が動かした後、また物語は止まってしまったような気がする。ただ雨が降り続けているだけ」
私は窓の外を見た。
人々の憂鬱な気分を吸い取って、ますます空は暗くなったように思える。降っている雨の程度は激しくなったわけでも、弱くなったわけでもなく、約一週間前と全く変わっていない。
「しかしどちらが、何の為に降らせているのかは分からないにしても、このまま降り続ければ、いずれ大きな問題が起きるはずだ。今は奇跡的に何かが起きたって話は聞いていないが。雨は全く降らなくてもいけない、降りすぎてもいけない。なるべく早く手を打たないとな。色々周りの奴らに話を聞きながら、桜山の方も調べるか……。はあ、あっしにももう少し力があれば良かったんだが。持っているのが馬鹿力じゃあどうにもならん」
といって深いため息をつく。確かに怪力で人探しは出来ない。聞き込みをしたり、がむしゃらに探し回るしか無い。
「結局、大した報告は出来なかったが。あっしは頼まれたからにはやるっすよ。とりあえず桜山をぐるっと回るしか無いな。……いいか、さくら。あんたは何もするな。山を探し回ろうとか間違っても考えるんじゃねえぞ。危ないからな。ここはあっしに任せておけ、頼りないかもしれないが」
ぽんと弥助さんは自分の胸を叩いた。私は一応頷いた。鬼が居るかもしれない上に、雨が降っているのだ。そんな所に足を踏み入れたら、何が起きるか分からない。それ位は流石の私にも分かる。
けれど……。
「それじゃあ弥助さん、お願いしますね」
「おう。気をつけて帰れよ」
立ち上がった私を弥助さん、そして厨房に居た朝比奈さん、おじいちゃんが見送ってくれた。三人の温かな笑顔は、いつも私を元気にしてくれる。
温かい気持ち。けれどそれもすぐに雨で打ち消されていく。
冷たい氷の刃の様な雨が、傘を突き刺す。手や顔に触れる度痛い位の冷たさを感じる。まるで冬に降る雨の様。冷たくて痛くて……無性に悲しくなる。
「誰が降らせているの……どうしてこんなにも、冷たいの……」
空を見上げ、呟く。灰色で、暗くて、どんより沈んだ色の空。振り続ける雨にため息をつく人々の気持ちを具現化したような色。
或いは。
「この雨を降らせている人の気持ちを表しているのかしら……」
呟いても、答えは返ってこない。雨の音だけが聞こえ続けている。
*
それから、二日経った。
家に帰った後も、色々と考えていた。考えたからって答えが分かる訳では無いけれど。ただ、考えずにはいられなかった。与えられた部品を使って、物語を構築することが好きだから。ただその中に、正解が混ざっているのかどうかは分からない。部分的には合っているものもあるのかもしれない。けれど全てが当たっているとは思えない。
精霊は鬼を倒すことは出来なかった。それは、精霊より鬼の力の方が強かったからなのか、同じ位だったからなのか。ただ力がどうこうというより、血を「穢れ」として嫌ったから、血を流さずに解決する為封印したのだろうか。
そして精霊はどうして鬼と共に箱の中で眠りについたのか。普通は鬼だけを箱に閉じ込めて、封印の術をかけるのだと思うのだけれど。鬼を外へ出さないように、自分も箱の中に入って鬼を抑え続けていたとか?それとも万が一封印が解けた時、すぐにまた封印できるように自分も一緒に中へ?
それにしても精霊は、自分の人生を犠牲にしてまでこの町を守りたかったのだろうか……。
無償の行為だったのか、それとも何か特別な思いがあったのか。
「やっぱり、やっぱり気になるわ!」
私は勢いよく部屋を飛び出し、階段を下りて玄関にある傘を掴んだ。
何も出来ない事位分かっているのに。足が勝手に動いてしまった。
雨に突き刺されながら、私は桜山を目指す。まだお昼だというのに、相変わらず空は暗い。夏なのに少し肌寒い。
水を吸った土やコンクリートの匂い。TVやマイクに入るノイズに似た、雨の音。空に重く沈む雲……。箱に眠っていた物語が終らない限り、この雨はきっと止まない。
桜山は雨をたっぷりと吸い込んで、黒くなっている。木の幹も、葉も、桜山神社に続く階段も。何もかも暗い色をしていて、冷たくて、寂しい。
桜山には何箇所か、上りやすい様に整備された道がある。私は自分がよく使っている道の入り口まで行った。道はどう見てもぬかるんでいる。足を滑らせたら危ないだろうと思った。それでも……。
「ほんの少し。ほんの少しだけ歩いたら、帰ればいい。ほんの少し、ほんの少しだけ……」
呪文の様にその言葉を呟く。そう、ほんの少しだけ進んですぐに帰ればいい。きっとそれだけで少しは気が済むと思う。弥助さんには申し訳ないけれど、ほんの少しなら……。
私は登山道へ一歩足を踏み入れた。べちゃりという音がした。
「君は」
冷たい言葉の刃が背中を突き刺し、心臓を貫いた。危うく傘の柄から手を離してしまいそうになった。恐ろしい位美しく冷たい声。
後ろを振り返る。
そこに立っていたのは矢張り、出雲さんだった。鈍い色の風景に映える真っ赤な和傘。それに対して出雲さんの体は風景に溶けて消えてしまいそうだった。それでいて、目を離すことが出来ない大きな存在。
魂を持たぬ人形の様な表情の出雲さんの両隣には、やた吉君とやた郎君が立っていた。
「君は非力のくせに、進んで物語の渦中に飛び込もうとするんだね。本当に愚かで、愛しい子だ君は。そんなお馬鹿な君に、やた吉とやた朗を貸してあげる。やれるところまでやってみれば? 少しだけ時間をあげるから」
やた吉君とやた郎君が一歩前へ出る。
「出雲さんは分かっているんですね。この桜山にいるのが邪悪な鬼なのか、そうでないのかが」
「当然だ。あの馬鹿とは出来が違うんだよ、私は。まあ、何もかもお見通しというわけでは無いけれど」
出雲さんはふと桜山を見つめる。降り続ける雨さえ凍りつかせてしまいそうな瞳で。体の芯から冷えていく。自分の体に温もりがあったかどうかさえ忘れてしまうような時間が流れた。
「さあ、行っておいで」
私はぎこちない動きで首を縦に振る。やた吉君とやた郎君が数歩先を行く。私は一歩前へ進む。べちゃっという音。靴を捕らえて離そうとしない粘ついた土。
今なら未だ引き返せる。けれど、私の足は前へ進み続ける。この目で物語の真実を見る事が出来るのなら、私は……。
背中に出雲さんの視線が突き刺さる。
「まあどうせ何も出来ないだろうけれどね」
出雲さんがそう呟いたことを私は知らない。
*第三者の語り
一方弥助は『桜~SAKURA~』を出るところだった。本来喫茶店で仕事をしている時間なのだが、秋太郎が「今日もそんなに忙しくないだろうから、手がかりを探しに行っておいで」と言ったのでお言葉に甘えてそうさせてもらおうとしていた。
弥助は仕事へ行く前や仕事が終った後など、幾度か桜山とその周辺を歩き回っていた。しかし何も見つからない。山も大分探したはずなのだが……もしかしたら桜山に居る者は、見つかりにくくする為何かしら結界の様なものを張っているのかもしれない。そうだとすれば、かなり見つけるのは困難だ。
どうしようと思って弥助が向かったのは、お化け通り。
ぼろぼろの家の立ち並ぶこの通りに足を踏み入れる者は殆ど居ない。ひとたび足を踏み入れればどんな目に合うか分かったものではないからだ。
幽霊や妖怪が「出る」と噂される場所。
いや、というか実際に「出る」のだここは。『こちら側の世界』にあるこのお化け通りの居心地がいい為か、やたら多くの人ならざる者が住んでいる。しかし基本的に普通の人間がこのお化け通りに足を踏み入れても、彼等の姿を見る事は出来ない。彼等が強い意思を持って、意図的に人の前に姿を見せない限り。彼等は『こちら側の世界』の者と関わる気が無いからだ。人間達が自分達の居場所を奪い取ろうとしない限りは。
「ここに居る奴らに話を聞いてみるか」
弥助は迷うことなくお化け通りに足を踏み入れる。
昔の匂いを残したままのこの場所。ここに来ると懐かしい気持ちになる。昔、未だこの町が桜村と呼ばれていた頃を思い出す。きっとこの懐かしい匂いが彼等を惹きつけるのだろう。
静かで、柔らかい空気の流れる居心地の良い場所。『こちら側の世界』の住人にとっては不気味で古臭い感じのする場所なのだろうが。
雨が降ろうと槍が降ろうと、彼等の暮らしは何一つ変わらない。下らない話に花を咲かせたり、朝から酒を飲み続けたり、眠り続けて愉快な夢を見たり……間延びした時間を、気ままに過ごす。
一際騒がしい家の戸に手をかける。少しでも力を加えればぼろぼろと音を立てて崩れてしまいそうな板切れ。弥助はゆっくりと戸を開けた。
その家の中には十人位の妖がおり、酒を飲み、つまみを口にしてわいわい騒いでいた。天井や壁に空いた穴から雨粒が落ちていて、そこら中水浸しになっているが、彼等は一切気にしない。そういう性質なのだ。
体は人、頭は犬という妖である男が弥助に気づく。
「よう、弥助じゃあないか。どうしたんだい」
口からイカの足がはみ出ている。くちゃくちゃと音をたてながら弥助に問う。
「犬太、久しぶりっすねえ。いや何実は今この変てこな雨について調べていてさ。何かここら辺で変わったこととか起きていないか?」
「最近ずっと雨が降り続けているなあ」
その雨について調べているのだと言ったのに。どうせ話を適当に聞いていたのだろう。この酔っ払いめと心の中で舌打ちした。
「だからそれは分かっているんだって。あっしが知りたいのは、雨が降り始めるようになった前後に何か変わったことが起きていないかってことだ」
犬太は首を傾げる。しまいにイカを口の中に残したまま眠りこける。本当に蹴飛ばしてやろうかと弥助は震える。
そんな時、犬太の後ろで騒いでいた女がまだ中身の残っている徳利を振り回しながらやって来た。酔っているのか、顔は真っ赤で足はふらふら。髪も着物も乱れ、散々な感じになっている。
「変わったことって言えばさあ、最近ここに変な男が来たわねえ。ほうらあ、犬太、あいつよあいつぅ」
回らない舌で語る女。犬太がぽんと手を叩く。
「ああ、そういえばそんな奴が居たな。確かにあれはこの雨が降り始めてからすぐのことだった」
「男?」
犬太が頷く。彼の隣でうねうねくねくね動いていた大蛇が、けひひひひと変てこな笑い声をあげた後、話し始めた。
「なんかよう、見た目は若い人間の男なんだよ。だけどよう、どうも人間では無いようなんだあ。人間からは感じないものを感じたからなあ。けれどよう、何か中身は空っぽな感じでよう、よく分からんのよ」
その話の続きを、女が語る。
「何かさあ、酷く弱っているようだったよ。ふらふらとここにやって来て、ばたっと倒れちまったのさ。まあ放って置く訳にはいかず、適当な家まで引きずっていって寝かせてやったんだけど」
ねえ、と後ろに居る手の長い男に同意を求める。彼女と一緒に男を引きずったのだろうか。
「んだんだ。……熱とかは出していないんだが、苦しそうに四六時中唸っているんだ。おまけに『唄うな、唄うな、ああ、誰かこの唄を止めてくれ』とか訳の分からないことを言っているんだ」
「唄?」
「誰も唄なんて唄っていないのにねえ。あたし達には聞こえない何かがあの男には聞こえているのかもしれないけれどさあ。兎に角得体の知れない、気味の悪い奴だよ。結構男前なんだけどさあ」
顔をしかめたと思ったら、イケメンらしい男の顔を思い出したのか体をくねくねさせ、そして最後に大きなため息をつく。
よく分からないが、兎に角その男から話を聞きたいと思った。
弥助は、男が今どこに居るのか尋ねる。それじゃああたしが案内してあげると女は言う。
「まあ何だかよく分からないけれど、連れて行ってあげるわ。感謝しなさい?」
「はいはい、恩にきるよ」
「それじゃあ、あたしはちょっと出るからね。あたしが居ない間に、酒を全部飲み干すんじゃあないよ」
ぎゃはははと騒ぎながら酒を飲んでいる奴等にそう釘を刺して、女は弥助と共に外へ出る。
男が寝ているらしい家は、そう遠く離れていない場所にあった。他の家と同じく、そこら中穴だらけで壁も屋根も腐っている。崩れていないのが不思議な位だ。
雨の音に混じって、男の呻き声が聞こえる。相当苦しいようで聞いているこちらの息が詰まってしまいそうだ。
「ほら、ここだよ。まだ苦しいみたいだねえ……ああ嫌だ嫌だ、聞いているだけで頭がおかしくなってしまいそうだ。まあ、後は適当にやっておくれよ。さてあたしは飲みなおすとしようかねえ」
女は弥助に手を振ると、さっさとその場を去った。確かに気が狂ってしまいそうになる位、激しく苦しく恐ろしい声だ。
弥助は戸に手をかけ、そうっと開ける。ぷんと木の腐った匂いがした。
薄暗い部屋の奥に、男は寝かされていた。下にはぼろぼろのござが敷かれ、体の上には同じくぼろぼろの着物がかけられている。弥助は玄関を上がり、床の上を歩く。天井から降り注ぐ雨は床を濡らし、一歩進む度にぴちゃぴちゃという音と、床の軋むぎいぎいという音がする。
男は最初弥助に背を向けるようにして寝ていたが、彼に気づいたのかくるっと体の向きを変え、震えながら体をゆっくりと起こす。
確かに見た目は、若い人間の男だ。しかし肌は白を通り越してやや青い。黒くさらさらとした髪に、やや細く吊り上った瞳。腕は細く、少し力を入れれば折れてしまいそうだった。男は荒い息を吐きながら、警戒するように弥助をじっと見つめた。
確かに妖達が言った通り、目の前の男からは空虚を感じる。目の前に居て、それでいて居ない様な……奇妙な感じがするのだ。清浄な気配も、邪悪な気配も感じない。弥助の力が弱いゆえ感じないだけかもしれないが、それにしても妙だった。
「……あんた、この雨のことについて何か知っているのか」
ぴくり、と男の体が動いた。どうやら何か知っているらしい。
「あっしはこの雨について調べているんだ。どうもこの雨はある箱の中で眠っていた精霊か鬼、どちらかが降らせているらしいというところまでは分かったんだが……あんたは……」
どちらなんだと問おうとした弥助の足を、男が掴んだ。弥助は驚き目を見開く。足を掴む力は弱く、またその手は冷たい。男は息を荒げながら、弥助を見る。
「お願いです、どうか、どうか……彼女を、止めて、下さい」
「やっぱり何か知っているのか、あんたは。教えてくれ、この雨のことを、そしてあんたとその彼女とやらのことを」
弥助はしゃがみ込み、男を座らせてやる。白い衣に水色の袴姿の男は救いを求めるような目を弥助に向けながら、静かに語り始める。
泣きそうな、悲痛な声で。
「彼女は……鬼です。私を憎み、村を憎み、世界を憎んだ、鬼なのです」
「この雨を降らせているのは鬼の方だったのか!」
男はこくりと頷く。膝の上に置いている手が震えている。
「しかし彼女は元は人間だったのです。優しい、本当に、優しい娘でした」
それがあんなことになるなんて!そう苦しそうに叫んだ男は、激しく咳をした。弥助は背中をさすってやる。ありがとうございます、と男は礼を言う。
「彼女は人間でした。しかし、普通の人間が持たぬ力を持っていました。人の傷を癒したり、雨を呼んだり、邪悪な者を滅ぼしたりする力を」
「巫女のような力を持っていたのか……」
「ええ、そうです。しかし彼女はその力のことを自慢したり、無闇に使ったりすることは無く、余程のことが無い限りその力を揮うことはありませんでした。普通の人間にとっては脅威とも呼べる力を持ちながら、その心優しい性格ゆえ、皆から愛されていました」
あの馬鹿狐とは正反対だな、と弥助は思った。あれは力を揮って人々を恐怖のどん底へ陥れる、冷たくて人が苦しむ様を見て大喜びするような奴だ。
しかしそんな優しい娘が、何故。
男は話を続ける。
「彼女は幸せに暮らしていました。しかしその幸せは一人の女によって、滅茶苦茶にされてしまうのです」
「女?」
「……村に住む、巫女です。村を導く、不思議な力を持つ一族の」
弥助は頷いた。いつの頃からか村に存在していた霊的な力を持つ一族。その一族の女は巫女となり、村を良い方向へ導く。ある意味村長以上の権力を持っているのだ。出雲に喰われた哀れな巫女、桜もその一族の女だった。
「その巫女も例外無く力を持っていました。しかし、巫女より彼女の力の方が勝っていたのです。勿論だからといって彼女はその巫女を見下すようなことはしませんでしたし、他の村人と同じ様に巫女を尊敬していました」
それなのに……と男は胸の辺りを掴みながら、苦しそうに呻いた。
「巫女は、心弱き女性だった。巫女は彼女の力に嫉妬し、また恐れました。彼女は自分以上に好かれている。いつか自分の権威を彼女に奪われるのではないか……そんなことを思っていたようです。巫女は彼女を憎み、妬み……」
咳きこみながら男は話を続ける。
「巫女は、村人達の前でこう告げたのです。『あの女はこの村に災いをもたらす。彼女に心を許してはならない、愛してはいけない、彼女は忌むべき存在なのだ』と」
男は手で顔を覆いながら、呻き、震える。
自らの権威を保つ為、嘘を真の様に語った巫女。何と醜く、弱い女だろうと弥助は思った。
しかし巫女の言葉は絶対。村人達は巫女の言うことを鵜呑みにしたのだろう。
そして……。
「彼女の幸せは、巫女の言葉によって壊されました。彼女は村人達に避けられるようになりました。無視され、冷たい目で見られるようになり、のけ者にされていった……。村という小さな世界で孤立するということ……それはどれだけ恐ろしいことか……。けれど、最初のうちはまだ彼女にも私以外の味方がいました。巫女や他の人の目を盗みつつ、彼女を励ましていました」
「最初のうちは、ということは」
「巫女は、どこまでも心弱く愚かな女でした。巫女は村で良くないことが起きる度、それを全て 彼女のせいにしたのです。彼女が災いを振りまいたのだ、と。何度も何度も、巫女は彼女を責め続けました。そうするうち、彼女は村人達にとって憎い敵となっていきました。彼女を支えていた人々も、少しずつ離れていき……気づけば彼女の味方は私だけになりました」
そう言って、男は荒い呼吸をする。話すのもやっとのようだ。
「身寄りの居なかった彼女は、孤独になりました。無実の罪を着せられ、虐げられ、苦しめられた。それでも彼女は耐え続けました。私も彼女が憎しみを募らせて過ちを犯すことの無いよう、彼女を支え続けました。私にとって彼女は大切な存在でした。だからこそ、彼女を守ろうと……ですが、彼女の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみの感情は私の手に負えなくなる位膨らんでいった。その苦しみは、きっと同じ目にあった者以外には決して分からないでしょう」
優しい心を持った者ほど、悪意の刃が深く刺さる。その傷を癒すには時間が掛かる。傷が治る前に、新しい傷が生まれ、体を切り刻まれていく。
その傷の痛みがどれ程のものか……きっとそれは、彼女の傍に居たという男にも分からないことだろう。
そして、と男は苦しそうに、悲しそうに、天井を見上げる。
「村で恐ろしい病が流行った時のことです。多くの村人が死に、村は悲しみに包まれました。巫女は……村人を守るはずの巫女は……村人の一人であるはずの彼女に、残酷な仕打ちを……。巫女は、その病をこの村に広げたのは彼女だと言った……彼女こそが、この大いなる災いを起こしたのだ、と」
何て酷い、と弥助は呟く。弱さは人をそうさせるまでに追い詰めるものなのかと思った。人の弱さは時に愛しく、そして時に……。
「家族をその病で失った者達の悲しみは憎しみとなり、彼女のぼろぼろになった体を引き裂きました。もう、限界でした。彼女の優しかった心は死に絶えました。そして彼女の悲しみや怒り、憎しみは魔を呼び……魔は彼女の負の感情を恐ろしい速さで増幅させ。彼女は『鬼』になりました」
心の弱さゆえに人の心を殺した巫女。悪いこと全てを彼女のせいにすることに何の疑いも持たなくなった村人達。
一度膨れ上がった憎しみは、簡単に消え去ることは出来ない。優しい心は簡単に殺すことが出来るのに。
「鬼と言っても彼女の姿は人間だった時と殆ど変わりありません。しかし彼女は正真正銘の鬼となりました。元々強かった力は魔の影響でますます強くなり、完全なる破壊と殺戮を望むようになり……」
男は咳き込みながら、胸を抑える。酷く苦しそうだった。
「私は、彼女を止めようとしました。彼女の白い手が赤く染まる前に全てを終らせようと思いました。彼女を救いたかった、救わなければいけない。私は一人彼女に立ち向かいました。けれど上手くいきませんでした。彼女を止めるだけの力が私には無かったからです。そもそも私には、誰かを傷つけたり、何かを壊したりするような力など殆ど無いのです。魔に完全にとり憑かれ鬼となった彼女を浄化すれば、間違いなく彼女は消える……死んでしまう。だから、浄化することも出来ない。説得しようにも、聞く耳を持たない」
「それであんたは結局彼女を封印することを選んだ」
男は頷く。
「私は彼女と共に眠ることを決めました。彼女を一人箱に閉じ込めるなんて、出来ませんでした。それに封印はいずれ解ける。彼女が再び世に解き放たれてしまった時、また彼女を封印するなりなんなり出来るように、私もまた箱の中で眠りにつきました」
だが、どんな物語が隠されているかなどこれっぽっちも知らなかったさくらが、箱を開けてしまった。
まあ元々封印は解けかかっていたのでしょうと男は言う。封印がしっかりしていれば、人間の娘であるさくらには箱を開けることすら出来なかっただろうから。仮にさくらが開けなかったとしても、遅かれ早かれ封印は解けただろう。
「まあ大体の事情は分かったっすよ。だがこの雨のことが分からない。何であんたは娘を再び封印しようとしないのか、どうしてあんたはそんなに苦しんでいるのか」
「この雨は、私に向けて放たれた呪いなのです」
「呪い、だと!?」
かつて愛し、自分を愛してくれた男に呪いをかけたというのか。
「呪いの言葉を雨にのせ、唄う。唄は私にだけ聞こえます。そして私を苦しめる。頭の中を呪いの唄が駆け巡り続ける……深い怒りと憎しみのこもった唄が私を蝕んでいく! 耳を塞いでも、建物の中に閉じこもっても無駄なのです。……しかもこの雨は結界の役目も果たしています。私は、この雨の降っていない所に逃げることも出来ない」
呪いの言葉が四六時中頭の中を巡り続けるというのは、どれほど恐ろしいものなのだろう。きっと頭が割れて気が狂いそうになるだろう。
男は頭を抱え、咳き込み、ぜえぜえと苦しそうに喘ぐ。青白い肌を汗と雨が濡らしている。呪いの言葉を含んだ雨粒は彼の肌に吸い込まれていき、彼をより苦しめるのだろう。こんなお化け通りのぼろ家の中では、防げるものも防げないだろう。
「……勾玉」
「勾玉?」
荒い息を吐きながら男が頷く。
「ある意味では私自身とも呼べる存在です。私の力の源であり、魂であるもの。それを彼女に奪われてしまったのです。……今の私は幼子ほどの力も無いのです。この体を支えるのも精一杯……」
弥助は彼が空虚な存在であると思ったのは何故なのか理解した。彼の体には力も魂も、何も無いのだ。
それじゃあそれを壊されたらあんたは死ぬってことじゃないのか、と聞けば男は首を横に振る。
「あれはそう簡単に壊すことは出来ません。彼女が全てを力を長い時間勾玉のみに注ぎ込めばどうなるかは分かりませんが……。兎に角彼女は、私を身動きがとれなくなる位まで弱らせた後、ここを襲うつもりのようです。自分の邪魔をする者など、私位しか居ないと思っているかもしれません。居たとしても、それは無力な人間位のものだ、と。……時は一刻を争います。どうか、私に力を貸して下さい。私と、勾玉を結ぶ魂の道を辿れば、彼女を見つけることが出来るはずです。勾玉を、取り返してください。あれさえ戻れば私もどうにか戦うことが出来ます」
男は弥助にすがった。その手も、体も嘘の様に軽い。紙風船に触れているみたいだ。男はまた咳き込み、苦しそうな声をあげる。確かにこの様子ではとても一人で山の中を歩き回ることは出来そうに無い。
弥助は、この雨をどうにかしたい。しかし自分の力では彼女を見つけることは出来ない。目の前に居る男は、彼女を見つけることも止めることも出来るようだ。
「分かった。あっしがあんたを背負って、山まで連れて行くよ」
男は顔をあげ、安堵の表情を浮かべた。弥助のその言葉が彼を元気つける薬になったのか、顔色が少しだけ良くなった。
弥助は男を背負う。兎に角しっかり掴まれと言って、家を出る。
目指すは桜山だ。
(あの馬鹿、まさか桜山をうろちょろしていないよな……?)
今回の事が気になっている様子のさくらの顔を思い浮かべ、弥助は少しばかり心配になった。
まさかなあ……と弥助はその不安を振り払う様にしながら、先を急いだ。
*さくらの語り
ごめんなさい弥助さん、うろちょろしています。
やた吉君とやた郎君は私に疲れにくくなる術をかけてくれた。そうでもしなければ、とてもじゃないけれど私が二人についていけなかったからだ。歩くのは好きだけれど、それは平らな道に限られる。階段を上ったり、山道を歩いたりするは苦手で、すぐ疲れてしまう。術をかけてもらっているのに、体はすでに重い。
水を含んだ地面は足をなかなか離してくれない。頑丈な糸で縫いつけられ、その糸を力ずくでぶちぶちとちぎりながら進む様な感覚。足をつける度に新しい糸が足と地面を縫いつける。靴はもう泥の色。靴の中にまで染みこんできて、足を冬の道端に転がる石の様に冷たくする。
心臓や喉が痛い。呼吸と共に痛みも吐き出してしまいたい。
やた吉君とやた郎君は私のペースに合わせて歩いてくれている。私が居なければもっと早く歩けただろうに、と思うと痛む胸がますます痛くなるけれど、今更後戻りは出来ないし、したくない。
傘を持つ手が段々固くなっていく。服はあちこち濡れていてぐっしょりしている。傘じゃなくて、カッパを着てくれば良かった。そんな後悔を今更しても、もう遅い。
もうすでに歩いている所は、整備も何もされていない獣道だ。何度もつまずきそうになったり、生い茂る草、木に体や傘をぶつけたりした。傘は時々ごきごきと嫌な音を立てている。もしかしたらもう壊れているかもしれない。
「大分力が強くなってきた。かなり近くに居るね、これは」
その言葉を聞くと、踏み出す足に力がかかる。
頬を伝うもう汗なのか雨粒なのか分からないものを拭いながら、私は頷く。
「二人はこの山に居るのが誰なのか、分かるの?」
やた吉君が振り返ってこちらを見る。困惑した表情を浮かべていた。
「多分……。けれど、何か微妙に二つのものが入り混じっている感じで、絶対こっちとは言い切れないんだよね。それに分かったとしても、さくらには教えちゃ駄目って出雲の旦那に言われているんだ」
「そうなの……」
ネタバレしては物語は楽しめないということだろうか。
その後また沈黙が続く。個人的にやた吉君達のことについて色々聞きたかったけれど、話しかける余裕もあまりなくただ黙るしかない。こういう時自分の体力の無さを呪いたくなる。小学校、中学の時高原教室でウォークラリーをしたけれど、その時も酷かった。その時とは違って、摩訶不思議な力を借りてもこのざまなんて、ちょっと恥ずかしい。
木々に囲まれたある道で、二人は突然足を止めた。何事か話し合った後、こくんと頷く。
「ここだ。ここに、居る」
その言葉に心臓が激しく揺れ動く。やた郎君が目の前を指差す。けれどそこには誰も居ない。でこぼこの道と暗い空が見えるだけ。
「姿を隠しているんだよ。結界が張ってある。多分見つかりにくくする為に」
「その結界は破れそうなの?」
「この雨を降らせることに力を集中しているから、結界自体は大したものじゃない。まあちょっとした目くらまし程度じゃないかな。これならおいら達でも簡単に壊せる」
やた吉君はそう言って、錫杖を構える。やた郎君もそれに続く。
二人は手に握っている錫杖を、見えない何かに突き刺した。この頃すっかり見なくなった太陽のそれの様に眩しい光。その光は、風船が割れた様な音と共に弾け飛んだ。
その瞬間、奇妙な音が聞こえ始めた。雨の音に混じって聞こえるそれは、かなり高く澄んだ音。しゃらしゃらんという……水琴鈴の様な。その音は耳から入ってくるというより、頭の中に直接響いてくる様な感じだった。テレパシーというのはこういうものなのではないかと思った。
ただ本当に「音」なのかは分からない。誰かの「声」かもしれない。何か言っている様に聞こえる気もするのだ。ただ何と言っているのかは分からない。同じ音ではなく、低くなったり高くなったり、大きくなったり小さくなったり、伸ばしたり……そう。
「……唄?」
そう。唄。誰かが唄っている?
音の様な声の様なものは、少し先から聞こえる。二人は私を結界で包むと、声のした方へ歩き出す。私もそれに続く。
坂道を上った先、そこに、誰かが、居た。