雨唄(2)
*さくらの語り
次の日の朝。原稿用紙とにらめっこしていた私を、母さんが呼んだ。部屋から出て階段を下りる。
「さくら、弥助さんから電話よ」
「弥助さんから?」
今日はお店が定休日だから、弥助さんも家に居るのだろう。それにしても弥助さんから電話が来るなんて、珍しい。もしかしてこの雨のことに関して何か分かったのかしら。母さんは、本当仲がいいわねえ貴方達と言いながら受話器を私に渡し、その場を離れる。
「もしもし、今代わりました」
「あんた一体何をしたっすか」
「え?」
開口一番、弥助さんは妙なことを言う。聞き返す私にもう一度弥助さんは同じことを言った。
「何のことですか?」
何が何だか訳が分からず、頭が真っ白になる。
そんな私に、弥助さんは昨日あったことを話してくれた。何でもお店が閉まった後桜山を弥助さんは調べようとしたらしい。そこで二人の妖と出会った。
二人は桜山から感じるものと同じ力を、山から離れた場所で微かに感じると言ったという。弥助さんは二人にお願いして、その力を感じる場所まで案内してもらったらしい。
そして行き着いた先は……。
「あんたの家だった。そして臼井一家の中で、こういう妙な事を起こしそうな奴と言えば……あんた位しか居ない」
つまりこの雨が降り始めたきっかけは私にある可能性が高いということだ。私が?どういうこと?
「あんた変なお呪いをやったり、何か買ったり貰ったりしなかったか? あんた自身には雨を降らす力は無い。実際雨を降らせているのはあんたじゃあ無く、別の誰かだ。ところがその雨を降らせているだろう人物の持つ力の波動と同じものが、そこにある。ということはあんたが何かをその家で呼んだか、もしくはあんたがこの家から解き放ってしまったということになる」
解き放った?私が?
私は雨が降り出す前辺りに買った物を色々思い浮かべた。新刊の書籍、お菓子、シャープペンシル……箱……あ。
私は小さな声をあげた。弥助さんがそれにすかさず反応する。
「何かあるっすか?」
「箱。箱を買いました」
「箱?」
「ええ。雨が降り始める少し前に……」
「詳しいことは後で聞く。秋太郎の家に来てくれないか? 丁度秋太郎に用事があってな。ついでにあの家で詳しい話を聞く。秋太郎にはあっしから言っておくから」
「え、あ、はい。それではその箱も持っていきます」
頼んだぞ、と言って弥助さんは電話を切った。私は受話器を置くとすぐ二階へ上がる。そして自分の部屋に戻って、机の上の箱を手に取った。昨日開けたり閉めたりを繰り返していたあの箱だ。
何も入っていなかった……そう思っていた箱。でもこの箱には何かが入っていたのかもしれない。
あのおばあさんが言った通りに。
私はお母さんに一言告げて、おじいちゃんの家へ向かった。
雨は降り続いている。止む気配は、しない。
*
おじいちゃんの家に行くと、居間に弥助さんとおじいちゃんが座っていた。二人共お茶を飲みながらくつろいでいた。おじいちゃんは私にお茶を出してくれた。おじいちゃんの淹れる緑茶は、美味しい。勿論コーヒーや紅茶も。
「こんにちは」
「悪いっすねえ、わざわざ雨の中来てもらって。それで早速なんだが」
「あ、はい」
私はカバンからあの箱を取り出す。
かなり昔に作られたらしい木製の箱。蓋や側面には幾何学的模様が彫られている。またそれが見事な出来で(あくまで素人目で、ということだけれど)目を奪われる。可愛らしいというより、落ち着いた、大人っぽい雰囲気を醸しだしている箱だ。中はこれといって特徴は無い。
弥助さんはその箱を手に取り、くるくる回しながらじっくりとそれを眺める。こんこんと叩いてみたり、顔を近づけてみたり、色々やりながら。
けれどしばらくすると弥助さんはため息をつき、その箱を置いた。
「駄目だ。やっぱりあっしには分からない。ものすごく古い箱ということ以外何も。さくら、これ一体どこで買ったんだ?」
「先日あった、なのはな市です」
「なのはな市? ああ、あれか……。一体どういう人から、どういう経緯で買ったのかなるべく詳しく教えてくれ」
「はい」
私は、あの日のことを思い出しながら、弥助さんに語る。
*
なのはな市というのは、毎年二回程、舞花市にある舞花公園で行われるフリーマーケットのことだ。
木々に囲まれた、広い公園。そこで古本や古着、古道具、アクセサリー、おもちゃ等が売られる。一般人だけでなく、地元の古本屋さん等も参加する。屋台も幾つか並ぶ。
私は公園をぐるりと回りながら、古本や、昔遊んだようなおもちゃ、古いお皿や壷等を見、これ懐かしいとかこれ面白いわね、これは綺麗とかそんなことを思っていた。その日もとても暑くて、屋台でラムネを買って飲む。
普段は静かな時間の流れる公園が、今日はとても賑やかで、いつもは無いお店が並び、いつもは売っていないラムネがある。何だか、不思議な気持ちになる。まるで異世界へ迷い込んでしまったかのような……そんな、感じ。
公園の外れまで来た時、私は一つのお店の前で立ち止まった。
大きな木の下にあり、その木の影に包まれていて、ちょっと暗い。見えない訳ではないけれど、あまり目立ってはいない。他の場所に比べれば涼しくていいかもしれないけれど……。それにお店があるのは見えるのだけれど、売っている人がよく見えない。
ちょっと気になって私はそのお店へと向かった。
青いビニールシートの上に、ピンクの布をかぶせたテーブルがある。よく見ると、段ボールの様な箱を二つほど横にくっつけただけの簡素な物であることが分かる。
そのテーブルの上に並んでいるのは、髪飾りやペンダントといったアクセサリー類のもの。その他にはお手玉や万華鏡、よく分からない形をした置物、蝶の標本……おしゃれなものもあれば、何に使うのか、本当に売り物なのかよく分からないものも置いてある。値札も無い。
そのテーブルの後ろに座っているのは、おばあさんだった。かなり小柄で、幼稚園児位の背丈しか無い。この暑い中、黒いローブを着ていて、頭からすっぽりとフードをかぶっている。この背丈で、この服を着ているから、余計目立たないのだろう。
フードから、細い目が微かに覗いている。おばあさんは顔を上げ、こちらをじっと見つめた。
「あんた、物語を読んだり書いたりするのが好きだろう」
「え?」
小さくてしわがれた声。それでいて、不思議とはっきりと聞こえた。
確かに私は本を読むことも小説を自分で書くことも好きだけれど。どうしてそんなことが分かるのだろう。不思議だわ。
おばあさん占い師なのかしら。確かに着ている服、雰囲気等は私の中での占い師さんのイメージそのものといった感じだけれど。それにしても名前も生年月日も何も聞かず、顔を見ただけで分かってしまうなんて。このおばあさん、只者では無いのかもしれないわ。
「おばあさん、分かるの?」
「分かるさ。わしにはね。お前さんの好きな食べ物だって分かるよ。手毬寿司だろう? 散らし寿司も握り寿司も好きだが、それが一番好き」
「あ、合っているわ……」
私は自分の好きな食べ物まで当てられて、驚く。手毬寿司なんて当てずっぽうで出てくる様なものでは無い。顔を見るだけで好きな食べ物まで分かってしまうなんて、本当、只者では無いわ。不思議な力を持っているのか、そもそも人間では無いのか。
私の驚いた顔を見て、おばあさんがふえっふえっふえっと笑う。
「幻想物語を好み、幻想物語を紙の上に紡ぐ。筆を走らせ、自分の思い描いた物語を動かし続ける。自分で物語を動かすことに喜びを感じているのだろう、お前さんは」
それもその通りだ。
物語を動かす。この世界の何かを動かすほど大きな力は無いけれど、頭の中や紙の上でなら私の手で、私だけの物語を動かし続けることが出来る。自分が動かさなければ、動かない物語。私だけが動かすことの出来る物語……。どきどきわくわくしたり、苦しんだり悩んだり、投げ出したくなったりしながら物語を動かしていくことが、一番楽しい。
おばあさんは私が何を今考えているのか分かっているのか、うんうんとゆっくり頷いた。
「物語を動かしたいかい?」
「え?」
「その手で止まってしまった物語を進めたいかい?」
「止まってしまった物語?」
何のことだろう。私は首を傾げる。誰かが途中まで書いたけれど、結局続けられなくて投げ出してしまった小説とかかしら。
おばあさんはこちらを真っ直ぐ見つめている。不思議とその瞳から目を逸らすことが出来ない。何か大きな力に引きつけられている感じがする。ああ、この小さな体のどこにこれほどまでに強い力が隠されているというのだろうか。
止まってしまった物語。それが何なのか、とても気になる。不思議な言葉は呪文となって、私をどきどきさせた。
気づけば私はその首を縦に振っていた。おばあさんは満足気ににたっと笑う。
「それならば、これなんかどうだい」
おばあさんの背中に行李が置いてあった。あれを持って、旅でもしているのだろうか。おばあさんはゆっくりとこちらに背を向け、がさごそと行李の中を漁り始めた。
しばらくしてまたゆっくり体を動かし、私を見た。手に何かを持っている。
おばあさんは手に持ったそれを、テーブルの上にことんと置いた。
それが、あの箱だ。
「お前さんに、止まってしまった物語を一つ、あげよう。どうやって止まっていた物語を動かすのかって? 簡単なことさ。文章を書いたり、文章を目で追ったりするよりも簡単だ」
こんこん、とおばあさんはその箱を叩く。
「ただ、開けるだけでいい。それだけで、物語は動き出す」
「開けるだけ?」
「そう、開けるだけさ。苦労しながら動かしていく物語も面白いだろうが、ただ蓋を開けるだけで動き始める物語っていうのもなかなか良いと思うよ。ほんの少しのきっかけで、動くはずの無いと思っていたものが、動き出すことはよくあることさ。何の力も無いから何も動かすことが出来ないなんて、そんなの大間違いだよ。長生きしているわしが言っているのだ、間違いないさ」
ほんの些細なことで、物語は動き出す。
目の前の箱を開けるだけで、一つの物語は再び動き始める。
「止まってしまった物語。お前さんが、動かすのさ……。さあ、どうする?」
フードから覗くその瞳は、一つの答えしか求めていない。それ以外の答えが存在することを許さないような。
物語の入った箱。どこにでもいるような人にそんなことを言われれば、流石の私も信じないかもしれない。けれど、この目の前にいるおばあさんが嘘を吐いているようには思えなかった。一目見ただけでその人物のことを正確に言い当てるような人が言うのだから、本当なのだろうと、思った。
「その箱……お幾らですか」
「安くしておくよ。どの店のも安いみたいだしね」
そう言っておばあさんが口にした値段は、とても安いものだった。その値段だったら、例えこの箱の中に何も入っていなかったとしても、損はしない。小物入れにはぴったりな大きさだ。使い道が無くて困るような代物では決して無い。
おばあさんは私が答えを言う前に、全てを理解したようだった。小さな手でそれを優しく包み込み、私に差し出した。
私はおばあさんから箱を受け取り、お金を渡した。
「おばあさん、おばあさんは一体何者なの?」
きっと答えてくれることは無いと思いながら、訪ねた。
おばあさんは幾度目かの笑みを浮かべた。
「只の旅商人さね」
そうですか、と私は笑みを返しておばあさんに手を振りながら、その場を立ち去った。
もう二度と会うことは無いかもしれない……ううん、もしかしたらまたこのなのはな市で会えるかもしれない。
不思議なおばあさんとの出会いを嬉しく思いながら、私は家へと帰っていった……。
*
ここで、回想は終わり。私はなのはな市での出来事を弥助さんとおじいちゃんに話し終えた。何故か弥助さんは頭を抱えている。何だか私とお話している時、しょっちゅう頭を抱えているのよね弥助さんって。
「普通そんな怪しげな婆さんから物を買うか……? というか信じるか、そんな話」
「だって、不思議なおばあさんだったんですもの。普通の人間では無いっていうオーラみたいなものを感じたわ。弥助さんからは全く感じないものを」
「悪かったな、妖怪っぽくなくって」
口を尖らせ、いじける。こういう子供っぽい仕草もよく見せる。
「しかし幾ら不思議な婆さんだったとはいえ……はあ、あんた将来詐欺師とかに騙されて胡散臭い物を買わされるぜ、絶対」
失礼な。幾ら私でもそんなことは無いわ。おばあさん並に不思議な雰囲気を醸しだしているか、不思議な力をこの目で見るとか、そういうことが無い限りは。
「それで、その箱を開けたんだな」
「開けました」
「中には何か入っていたのか?」
「いいえ。多分、入っていなかったと思います」
「多分?」
「箱を開けた瞬間、お母さんに呼ばれてそちらを振り返ってしまったんです。その時、何か光った様な気はしましたが……。その後、箱を見ましたが何も入っていませんでした」
正直、がっかりはした。けれどこの箱を開けるまでの間のどんな物語が入っているのだろうかと色々想像を膨らませる時間はとても幸せなものだった。この箱はそんな短くも楽しい時間を私に与えてくれたのだ。だからそれで十分だと思った。
そう思っていた。
「だが、実際には何かが入っていたっていう可能性が高いって訳か。まあとりあえずこの箱はあっしが預かるっすよ。あっしには分からないが、他の奴らだったら何かを感じるかもしれないし」
私は頷く。断る理由は無い。私だってこの箱に何が……どんな物語が詰まっていたのか、知りたいのだ。しかし私には調べる方法は無い。けれど弥助さんなら、何かしら掴んでくれるに違いない。
「まあ何か分かったらまた連絡するっすよ。箱もその時に」
「分かりました」
あの箱の中に入っていた物語は、一体どんなものだったのだろう。
何も入っていなかったことを知ってからは考えることをやめていた。けれど何かが入っていた可能性が高いことを知った今、再び私はこの箱の中に入っていたものがどんなものだったのか、想像を膨らませ始めた。
その思いは……この雨がもたらす憂鬱な何かから心を守る結界になるかもしれない。
*第三者の語り
さくらから箱を預かった弥助は居酒屋「鬼灯」に居た。それは『こちら側の世界』でいうお化け通りのある場所に存在する居酒屋だ。
客は弥助の他には天狗の鞍馬と、出雲のみ。弥助は早速さくらから預かった箱を、鬼灯の主人に見せてみた。鬼灯の主人は牛筋の煮込みがたっぷり入った鍋をかき回しながら、もう片方の手でその箱を持ち、じっと見る。鞍馬の方もその箱に興味があるのか、爽やかな酸味が何とも言えないタコときゅうりの酢の物を口にしながら鬼灯の主人が持っているそれを見ている。
出雲は、弥助の持って来た物になど興味は無いと言わんばかりに知らん振りしており、一人黙々といなり寿司を食べていた。弥助も最初から出雲に助けを求めようとは思っていない。嫌いな奴に頭を下げるなんてまっぴらごめんだ。無視してくれるのが一番。
「見た目は普通の箱だね。まあ随分古い物の様だが……けれど、つい最近まで何かが入っていたことは確かなようだ。微かだが、力を感じる」
鬼灯の主人は箱を弥助に返しながら言う。
「持っただけで分かるっすか。あっしには全然分からなかった」
「普通は分かるものだよ。お前が鈍すぎるんだ」
出雲は話を全く聞いていないようで聞いている。そして嫌味だけはきっちりと言う。
「じゃああんたには分かるのか!」
「お前に答える必要は無いよ。大声を出すな、折角の食べ物が不味くなる」
自分からふっかけておいて、これだ。出雲はそれだけ言うとまたいなり寿司を口にする。弥助はいっそこの箱を思いっきり投げてその頭にぶつけてやろうかと思った。しかし今は、出雲に構っている場合ではない。兎に角鬼灯の主人から少しでも情報を得たい。
「他に何か分かったことは?」
「そうだな……。この箱に入って居たのはどうやら一人では無く、二人だったようだね」
「二人?」
「二つの異なる力の波長を感じるんだ。それぞれ性質が大分違うから、恐らく二人で間違いないだろう」
そこまで分かるのか、と弥助は驚いた。栄達と安寿はもう一つの力の波長に関しては何も言っていなかった。二人共気がついていなかったのだろうか。いや、気がついてはいたがあの時重要だったのは「桜山から感じるものと同じ力の気配を別の場所で感じる」ということだったから、あえてもう一つの力の波長については口に出さなかったのかもしれない。彼らにそこまで親切に教える義理は無いのだから。
「我にもその箱を貸せ」
酒を一口飲み、鞍馬が手を差し出す。弥助は箱を今度は鞍馬に渡す。鬼灯の主人と同じ様にくるくる回しながら、調べる。
「ふむ、確かに鬼灯の主人の言う通りだ。一つは穏やかで優しいものだが……もう一つは冷たく、邪悪なものだ」
そう言われても弥助は箱から何も感じない。優しいものも邪悪なものも。まあ出雲と違って、二人はこういう場面で大嘘を吐くことは殆ど無い(はずだ)から信用して良いだろう。
「二人共箱の中に入っていたということはほぼ確実っすか? 力の一つは封じ込めた人のもので、実際に中には入っていなかったというのは有り得ないんですか」
「全く有り得ないという訳では無いが。ただ、箱の中に入っていた可能性の方が高いと思う。力はどちらも箱の中から感じるからね。一方の力を箱の外から、もう一方を中から感じたというのなら別だけれど」
「そうっすか……しかしどちらにせよ、邪悪な力を持った何かが外に解き放たれてしまった可能性が高いということか」
「まあ、そういうことになるかな。しかし桜山に居るらしい雨を降らせている人物というのが、邪悪な者の方なのか違う方なのかまでは分からない。桜山まで足を運べばどちらがどちらなのかはっきりするが。だが、私もそこまで手伝う気は無い。悪いがね」
「我も分からんな。我は桜山に住んでいるが、結界を張っているから雨の影響を受けていないし力も感じてはいない。それに我も協力するつもりは無い。後は貴様の力でどうにかするより他無い」
それは弥助の予想した通りの答えだった。彼らにとって、人間の住む「こちら側の世界」がどうなろうと基本的には知ったことでは無い。人間にちょっかいを出すことはあっても、人間を助けることはもう今では殆ど無い。人間に肩入れする弥助の方が変わっているのだ。
まあこの先は自分の力でどうにかするしか無いのだろう。どうにか出来ればいいのだが……。
まあ今日のところはこれ位にして、鬼灯の主人の作る美味しい料理をゆっくり楽しむことにしよう。弥助はそう思い、主人に料理を頼もうとした。
がらり。
弥助が口を開こうとした丁度その時、入り口から音がした。誰かが扉を開けたのだろう。誰が入ってきたのだろうと弥助は後ろを振り返る。
しかし、そこには誰も居なかった。透明人間でも入ってきたのだろうかと首を傾げながら視線を下の方に移す。
無人では無かった。誰かが立っている。初めて見た顔だ。
随分と小柄な老婆で、幼稚園児とほぼ同じ位の背丈しか無い。自分の体と殆ど変わらない、いやむしろそれ以上の大きさの行李を背負っている。
黒のローブを着ており、フードを深く被っている。この暑い季節には似つかわしく無い格好だ。季節が夏以外だったとしても、異様である。水晶玉を手に持たせれば、完璧占い師の婆さんだ。
ちらっと見える目はえらく小さく細長い。対して、口は大きい。
「ここは一見さんでも歓迎してくれるかね」
えらくしわがれた声だったが、何を言っているかははっきりと分かる。
「勿論、大歓迎ですよ」
「そうかい、それは良かった」
老婆は意外としっかりした足取りで歩き、椅子の前まで来る。そして背負っていた行李をカウンターの下に置く。弥助は老婆を抱え、老婆の背丈より高い椅子に座らせてやる。
「すまないねえ。全くちびすけっていうのは便利な時と酷く不便な時があるから困る」
「あっしみたいに図体がでかい奴らも同じっすよ。婆さんは旅商人か何かか」
「まあ、そんなもんさね。こちらとあちらを行ったり来たり……気ままに旅をしながら色々売っている」
鬼灯の主人が老婆に酒を差し出す。婆さんはにんまりと笑いながら、うしししししと奇妙な笑い声をあげる。
「酒はいいねえ、やめられない」
言って、酒を水の様に飲み始める。豪快に飲んだ後口を手で拭う。弥助がひゅうっと口笛を吹く。
老婆は笑いながら隣に座っている弥助を見た。その後、弥助の手元にある箱を見、おや?と声をあげた。
「どうしたっすか?」
「その箱……わしがこの前人間の娘っ子に売った箱と似ている。いや、似ているのではない、同じ物か?」
老婆は首を傾げる。弥助はえ!と叫び、口を大きく開けてぽかんとした。さくらの話を思い出す。確かにさくらの話に出てきた老婆と外見の特徴は一致している。
「それじゃあ、さくらにこの箱を売った婆さんっていうのはあんたのことだったのか!」
「何だ、あの娘っ子と知り合いだったのかい」
老婆は鬼灯の主人が出してくれた、甘くて少し香ばしい匂いのするタレをたっぷりつけた焼き鳥を大口開いてぱくり一口で食べる。しかも三串同時に。
弥助はその豪快さに呆気にとられつつも話を続ける。まさか箱を売りつけた当人と会えるとは。この上ない幸運。この好機を逃してはならない。
「婆さん、一体この箱には何が入っていたんだ!?」
顔を老婆に近づけ、問い質す。興奮しているせいか声も大きくなる。出雲がうるさいなあと言わんばかりに弥助を睨んでいるが、弥助は気づいていない。
老婆は少しもひるむ様子は無く、表情も変えずにもぐもぐ食べていた焼き鳥をごくり一口で飲み込んだ。
「まあまあそんなに興奮しなさんな。顔が近いよ、暑苦しい」
弥助はそう言われて、一応顔を離す。
「わしも詳しいことは。あの箱には、かつて桜村に居たという鬼とそいつを封じた精霊が入って居たらしいということ位しか分からん。最初は精霊も鬼を殺そうとしたのでは無いかのかねえ。だが鬼の力は強すぎて、殺すことは出来なかった。鬼を封印し、共に眠るのが精一杯だったのだろうさ。決着はつかず、物語ははっきりしっかりかっきり終ることは無いまま、誰にも知られることなく眠り続けていた」
「それを、あの馬鹿が……」
「物語は再び動き始めたようじゃ。あの娘っ子が箱を開けたことによってな。この後どうなるのかは、わしにも分からん。わしは世界中で集めた商品を、人に売るだけのただの旅商人なのだから」
言って、老婆は冷奴を酒と同じくまるで水を飲むかのようにちゅるんと吸って一口で食べてしまった。弥助としてはそんな無責任な……と思うのだが、結局の所悪いのはこんな胡散臭い婆さんの売っているものを買ってしまったさくらなのだ。老婆は道を示しただけ。その道を歩いたのは他ならぬ彼女自身なのだ。それにこの老婆を責めたところで事態が良くなる訳でも無い。
「婆さんは、見た人の性格等を見抜く力があるようだが、こういう箱とかを見た場合は何か分からないっすか」
「わしが見て何かを感じるのは、生き物のみじゃ」
「そうか……」
弥助はうなだれる。
「まあ鬼が解き放たれてしまったことは確かだろうが、同時にそれを封じた精霊とやらも目覚めたはず。いずれはこの物語も終焉を迎えるじゃろう」
と老婆は言う。しかし物語は進んでいるのかいないのか、さっぱり分からない状態だ。確かにさくらが止まっていた物語を再び動かし始めた。だがその後はどうだろう……?物語は動き続けているのか?未だ分からないことだらけだ。
「弥助とやら。わしは辛気臭い話をする為にここに来たのでは無い。上手い飯と酒をいただきに来たのだよ。そういう話はこの辺で終わりにして、大いに食い、飲もうじゃないか」
老婆は大きな口の端をぐいっと上げて笑う。弥助は肩をすくめた。確かにその通りだ。彼としても、こんな面倒な話をしているよりも、飲んだり食べたりすることの方が好きだ。
とりあえず明日、さくらに今夜分かったことを話すことにして。
「そうだな、婆さん、今夜は飲み明かそうぜ」
「そうこなくっちゃなあ」
「我も付き合うぞ」
鞍馬もにやっと笑う。弥助も笑う。
ただ出雲だけが、そんな様子を冷ややかに見つめていた。
店の明かりは、朝まで消えることは無かった。