別れがさね(7)
桜町を歩くのは久しぶりのことで、さくらは自分の日常に組み込まれていた風景を、どこか懐かしく思いながら見ていた。ちょっと久しぶりに里帰りした気分。しかし実際のところはどうやら卒業式――別れ重ねによって向こうへ連れていかれてからたったの一日しか経っていないようだ。どうもカサネが保有している『領域』とこちらの時の流れは違うらしい。今は本来学校に行っていなければおかしい時間なのだが、母はそのことについて一切言及せず、彼女があの時間に家にいたことに一違和感を覚えてなかったようだった。こちらの世界の人は記憶が色々書き換えられ、事実が塗り替えられているという。さくらは一時的とはいえこちらに帰って来たことで『こちら側の人間』に戻ったと思っていた。だから自分もどこか本来とは別の高校へ通っている――ことになっていると思っていた。が、どうもそうはなっていないらしい。完全にこちら側に戻ってきたわけではなく、ただ夢を見ているだけ。そんな彼女はここにいて、だがここにはいない――幻、或いは亡霊の如き存在なのだ。故に辻褄合わせの為の改ざんが行われていないのかもしれない。だからこの世界に存在しないはずの高校の生徒である彼女は今、この世界において『どの学校にも通っていない人間』となっているのだ。
(まあ変に怪しまれずに歩き回れるのだから、良かったといえば良かったけれど……)
そんなことを思いながら、一夜や陽菜が居ないということを除けばいつも通りの桜町をさくらは歩き回る。
寂れた小さな商店街。弁当屋『やました』で汗を流しながらせっせと調理をしている菊野と紅葉。二人はさくらのことは覚えていたが、矢張り一夜のことは忘れていた。紗久羅もきっと兄のことを忘れているだろう。
やましたでコロッケを一つ買い、食べる。サクサクした衣に、中身はほくほく。三日前食べたばかりのものだったが、なんだか数年ぶりに口にしたような気持ちになる。菊野が作ったこのコロッケは向こうの世界では食べられない。カサネがその気になれば寸分違わぬ味のコロッケを生成することは出来るだろう。でもそれは例え味が全く同じでも、菊野が作ったものではない。不思議な匂いのする、若者にはまず受けないようなものばかり取り扱っている洋服屋の前でお婆さん達がぺちゃくちゃ喋っている。365日シャッターに閉ざされた店の前に寝そべる猫があくびをし、金物屋の店主は広げた新聞越しにくしゃみする。
幽霊が五人位は住んでいそうな小学校、道端にポツンとある詳細不明の小さな祠、昔ながらの駄菓子屋、申し訳程度に設置された遊具で遊ぶ子供達の声響く小さな公園、ガーデニング好きのおばさん自慢の庭がちょっとした名物になっている家。電柱が並び、雑草がちょくちょくと顔を出し、民家や朽ち果てるのを待つばかりの空き家に挟まれた、なんの変哲もない道。しかしそんな道一つ一つに様々な思い出が染みこんでいた。そんな数々の思い出をそこから吸い上げて、頭へやれば、様々な映像や音や声がひっきりなしに再生される。覚えているのが不思議な位のものから大事なものまで。あちこちを歩いている時にすれ違う、町の住人達。それ程関わりのない、かろうじて『見たことがある気がする』と思う程度の人、そもそも本当に桜町の住人なのか分からない人、何度か言葉を交わしたことがある人……どんな人であれ、今は不思議と愛おしい。そして彼等の姿を見る度ほっとする。十七年も見続けてきた、何の変哲もない風景の数々もまたさくらの心をほぐし、温めていた。
(日常に、自分の世界に一時的だけど帰って来たんだってことを実感する。なんてことはない世界だけど、とても安心する)
妖が現れたり、正体を隠して暮らしていたり、珍妙な出来事が次々と起こるような町ではある。が、その町並み自体はごくごく普通で、特徴などほぼほぼない。さくらの知る『普通』とは違うものでいっぱいなカサネの領域や、出雲達が普段住んでいる向こう側の世界とは大違いだ。
幻想、異界、ファンタジー、非日常――そういった言葉、或いはそういう言葉で称されるものを好むさくらだから、こちらの世界とカサネの作り出した世界どちらに魅力を感じるかと聞かれれば、後者と答えるだろう。向こうに居た時は記憶が混濁していた為にありとあらゆるモノや事柄に違和感を覚えていたが、本来の記憶を取り戻した上で改めて考えてみれば、向こうはさくらの好みの塊だった。
しかもあのカサネの領域で暮らす妖は本物であれ、カサネが作り出した幻の様な存在であれ、人間を襲うことはない。進路のことを考えなくても良いし、働かなくても楽に暮らせるし、ほのりや環、陽菜達と別々の道を歩むことなくずっと一緒にいられる。自分達も、こちらにいる人達もお互いのことは忘れてしまうから辛い思いをすることもないし、自分の選択を非難する者もいないだろう。自分好みの世界で、毎日面白おかしく過ごす……なんて素敵なことだろう。このまま向こうへ帰ってしまったって良いのではないか?
この世界のこと、この世界に住んでいる人のこと、作った思い出の数々、何もかも無かったことにして。
何もかも無かったことにして。そんな考えがさくらの足を止めた。目の前に広がる風景が、胃の中に収まった菊野特製コロッケが、行きかう人々が問う。
本当にそれで良いのかと。その問いに対する答えを考えてみる。考える内に段々と湧き上がってきたのは『違う、駄目、いけない』という思いだった。それは向こうに居る時にはぼやけたまま決して形になることのなかったものだ。
確かにさくらはファンタジー、幻想、非日常そういった言葉で表されるようなものが好きだ。そういったものに強い憧れを抱き、こういう世界に住みたいな、こういうことが現実に起きたら良いな、とかそんなことを四六時中考えたり、考えたことをほのり達に聞かせたり文章にしたりすることも好きだった。
だがさくらが求め、夢想するそれらに価値があるのは『実際には存在しない』或いは『日常には存在しない』からこそ。
自分の『日常』に組み込まれていないものだから『非日常』と呼ぶのだし、『幻想』だって自分の日常の世界から少し離れたところに存在しているから、或いは触れられそうなのに実際に手を伸ばすと実体がなく、触れることが出来ないようなものだからこそそう呼べる。
手を伸ばしても触れられない、どれだけ強く望んでも手に入らない、自分の世界に決して組み込まれることがないからこそ美しいものなのだ。カサネの領域に展開されている世界は、こういうところがあればなあ、これがこうなると面白いなあと、一度は考えたことがあるようなものが沢山詰まっている。しかしもしあの世界で暮らすようになってしまったら、あそこにある様々な『幻想』『非現実的なもの』は瞬く間に『自分の世界に当たり前のように存在しているもの』に姿を変えてしまうのだ。幻想は現実になり、非日常は日常へと変わる。そして輝きは失われ、もし向こうでこちらの世界のことが書かれた本とかそういったものを読んだなら、今度は「この世界に行けたらなあ」と思うことだろう。
骨桜の起こした連続神隠し事件をきっかけに、さくらは通しの鬼灯を用いて『向こう側』へ行くようになったり、妖が絡む様々な出来事に巻き込まれたりするようになった。今までさくらの脳内にしか存在しなかったものが実体を持ち、さくらの世界に現れた。昔に比べればさくらの世界は大分変質してしまった。だが毎日向こうへ行っているわけではないし、妖絡みの事件だって毎日起きているわけではない。異界や妖といった存在はさくらの日常にかなり入り込んできてはいるが、その輝きが完全に失われる程ではない。しかしもしそんな日常が、世界が、記憶を失うことで消えてしまったら向こうの世界こそが自分の世界になり、そこで送る日々が日常へと変わる。
美しいものは、届かない位が丁度良いのだ。それにこちらには両親や祖父、紗久羅、弥助、出雲、幾らか友人もいる。文芸部部長だった佳花もいる。向こうへ共にいったほのり達以外にも大切な人はいるのだ。ほのり達さえいれば他の人のことは忘れてしまっても構わないなんて思えない。
ふと、卒業式の時に考えていたことを思い出した。一年後には自分達も東雲高校を卒業し、それぞれの道を歩むことになる。その時のことはとても遠く感じられ、まるで想像など出来なかった。自分が進む道のことも、大学等新しい場所で過ごす日々のことも。しかし想像出来ようが出来まいが、そう遠くない未来にその時は来る。来るけど、今はまだ考えたくないとさくらは思った。東雲高校とそこで過ごす変わり映えはしないが穏やかな日々いうゆりかごに揺られながら、うとうとしていたいと。変わらないことはつまらないことだが、楽なことではあるし安心出来る。変わらなければ、ほのり達ともずっと過ごせる。
カサネの世界にいれば、進路のことやほのり達との別れなど一切考える必要はなく、のほほんと暮らすことが出来る。ゆりかごに揺られながら見る夢のような世界でずうっと生きられる。
だがあそこで暮らすことが本当の幸せか、いや違う。さくらの本当の望みは一生ゆりかごに揺られて過ごすことではない。確かにさくらは進路のこと、来年には卒業して皆と別れることなどは考えず、変わらぬ日々の中でうとうとしていたいとぼんやり思っていた。しかし永遠にそうしていたいと思っているわけではなかった。もうちょっとだけ、ほんの少しだけ考えることを先延ばしにしたいだけだ。けれどもう少ししたら自分なりにこの先のことを考え、それにふさわしいと思う場所へ足を踏み出すつもりだった。別れは寂しいし、新しい世界には不安もあるが、それでも立ち止まり、うたた寝し続けるつもりなど最初から無かったのだ。
そのことに気づいた、いや思い出すことが出来てほっとした。同時にこれといったイベントを経たわけでもなく、ただ町中を歩いていただけで気づいたことが何だかおかしくてつい笑ってしまった。こんなの小説や漫画にしたら盛り上がりのない、さぞつまらないものになるでしょうね、などと思う。立ち止まってくすくす笑っているさくらを、犬の散歩をしていたおばさんが訝し気に見ている。
(ああ、もやもやが晴れてスッキリした。やっぱり、何が何でもここに戻らなくちゃ。櫛田さんも、深沢さんも、御影君も一夜も一緒に。出来ることなら他の人も)
彼女はさくらやほのり達は戻すとは言っていた。だがその帰してくれる人間(或いは妖)の具体的な範囲は不明である。もしかしたらさくらとほのり、陽菜、環、一夜、要位しか帰してくれないかもしれない。しかしそれではい分かりました、とは言えない。せめてカサネが『実験』を始めてから連れて行った人とモノ位は帰して貰いたいと思う。
(実験……カサネさんと出会い、彼女にそれを持ちかけてきたのはやっぱり楓さんなのだろうか。そのせいでカサネさんは今まで以上に多くの人や妖、物を向こうへと連れていき、別れを重ねていった……。別れ重ねにどれだけの力があるか調べる為なら沢山の人が犠牲になっても構わないと思っている)
自分が今こんなことになってしまっているのも、楓という女性が原因なのかもしれない。彼女は今頃、実験のデータを見て笑っているのだろうか。罪悪感などまるで抱かず……そう思うとぞっとする。
なんだか体が重い。(恐らく)楓の悪意がそうさせたのだろうか。いや、違う……気分の問題ではなく、本当にどことなく体が重いのだ。正確にいうと、足の方だ。足が重くてなんだか動かしづらい。しかも異様に冷たいのだ。そちらの方へ目をやると、うっすらと水の様なものが見えた。その水はさくらの進行方向とは逆に流れている様だった。最初は一体何事だと思ったが、やがてそれが意味するものを理解していく。
カサネは言っていた。さくらに夢を見せると。夢を見ているさくらはこうして元の世界へと帰ってきている。だがそれは永遠ではない。夢はいつかは覚めるもの。あちらからこちらへ来たときも、水に流され、飲まれた。戻る時も恐らく向こうへ向かって流れるこの水に飲まれ、抵抗など出来ぬままカサネの世界へと引きずり込まれていくのだろう。そう、こんなところで立ちどまって呑気に笑っている場合ではない、一刻も早く手に持つ鈴を誰か――自分達のことを助けられる人に託さねばならないのだ。
どうしよう、一体誰にこの鈴を託せば良いのだろう。妖、或いは向こう側の世界に精通している人間で、且つ他の妖が持つ固有の領域に干渉する手段を持つ者である必要がある。勿論さくらのSOSを受け取り、力になってくれる人でなければいくら力があっても意味はない。タイムリミットが近づいていることを理解した途端焦りと緊張と不安で頭がぐちゃぐちゃになる。その中から、必死になって有益になる情報を探し出そうとした。
まず浮かんだのは、速水だ。柚季の家に住み着いている彼は尋常ではない力を持ち、更に大抵の領域にはすいすいっと入ることが出来る。彼ならばカサネの世界へ行くことなど造作もないだろう。だが彼は恐らくさくらの言うことは聞いてくれないだろう。彼は柚季に憑く者で、誰の言うことでも簡単に聞いてくれる存在ではないはずだ。試しにおずおずと「速水君、聞こえていますか……あの、私のことを助けてくれないかしら」と呟いてみたが、何も起きなかった。もっと強く、お願いしますという気持ちをいっぱい込めて言えば来てくれるだろうか、いや来ないだろう。柚季の声には応えるかもしれないが、それほど彼女と関係のないさくらが何を言っても無駄に違いなかった。そもそも聞こえているかどうかも分からない。
柚季の家を訪ね直談判するという手もある。だが緊急事態とはいえそれ程親しいわけではない人の家に、いきなり押しかけるのは躊躇われる。柚季に事情を話し、協力を要請する方法もある。けれど彼女は今学校だろう。さくらは携帯を持っていないし、電話番号もメールアドレスも知らないから柚季もしくは紗久羅に連絡することは出来ない。学校に行くわけにもいかないし、柚季か紗久羅が帰ってくるまで待つ程の時間は恐らくないだろう。
次に思い浮かんだのは弥助だ。彼なら事情を説明すれば間違いなく力になってくれるだろう。しかし彼に固有の領域に入り込む力があるようには思えない。彼が生きた約八百年という歳月は妖力ではなく、ほぼ筋力一点に注がれてしまっているのだ。一応特殊な能力を持てるかどうかということと妖力量に関係はなく、カスみたいな妖力しかなくても、一般の妖には出来ないような芸当をやってのける者はいるという。しかし弥助がそういった力を持っているという話は聞いたことがない。勿論彼自身にそういった力が無くても、知り合いにはいるかもしれない。心当たりがあれば、彼はすぐにその人と連絡を取ろうとしてくれるに違いない。だがもしいなかったら。いたとしてもすぐ助けを求められるような人物でなかったら。
(となると……やっぱり出雲さんかな)
出雲は強大な力をもっているが、弥助同様固有の領域に干渉する力は恐らくない。しかし彼が骨桜に連れていかれた一夜達を助ける時に使った万華鏡の力を借りれば出来るかもしれない。出雲がさくらのSOSを聞き届けてくれるかは正直微妙だ。彼は面倒事が死ぬほど嫌いだし、それはそれは気まぐれだから「助けてあげる」と言った直後「やっぱりやーめた!」と放棄してしまう可能性もある。そこで「代わりにお前がやれ」と弥助に鈴ごと押しつけてくれればまだいいが……。ただ菊野の孫である一夜も巻き込まれていることを説明すれば、彼女の機嫌を損ねて手製のいなり寿司を食べられなくなることを避ける為重い腰を上げ、最後までやり遂げてくれるかもしれない。もっとも今一夜のことは忘れているだろう出雲にその存在を信じさせることが出来るかどうかは怪しいが。
一か八か、とりあえず出雲に会いに行こう。幸い今さくらがふらついている場所は桜山に比較的近かった。ほぼ見えない水に抗いながら、さくらは歩き出した。程なくして見えた、山を裂く石段と鳥居。その前で通しの鬼灯を握り、見えるようになった『道』を進む。美しくそして酷く冷たい闇が静かに口を開け、その中を行くさくらを呑み込もうとしている。その闇を胸の内にある希望の灯りが懸命に払っていた。この灯を消してはならない、消えればたちまち闇に呑まれ、見えない水に抗いながら歩く気力を失うだろう。早く、早く、早くいかなきゃ、不安や焦りを無理矢理動力に変えて重い足を必死に動かす。手に握る通しの鬼灯の温もりを、希望の灯に力をくれた。
そんな灯が消えかけたのは、後少しで道を抜けるという時だ。さくらはふと思い出してしまった。出雲があの時使った万華鏡は知り合いから借りたものだったことを。長期的に借りている、借りたまま返していないという可能性もゼロではないが、恐らくは事件解決後すぐ返却しているだろう。それを再び借り直すとして、どれ位の時間がかかるだろうか。簡単に借りられるものなのだろうか。さくらの足が止まる。無数に並ぶ鳥居を照らす灯籠の青い光がケラケラと笑い、ひらひらと舞い散る桜の花びらが獲物を吟味するかのように頭や頬や手を撫で、闇が今にもごくりと音をたててさくらを呑み込もうとしていた。
(駄目、しっかりして……こんな所で立ち止まったって仕方ないじゃない、もう行くしかない! 今更引き返せない!)
立ち止まり、悩み、不安に押しつぶされている暇なんてない。右手を胸にぐっと近づけると、握りしめている通しの鬼灯の温もりがじんわりと五臓六腑に染み渡り、固まった体を動かした。
兎に角今は先に進むしかない。さくらは己を嘲笑う者、喰らおうとする者、飲み込もうとする者から一刻も早く逃れるために歩を進めた。そして転がるようにして出口である鳥居を抜け、呼び鈴を鳴らす。しばらくして出てきたのは鈴だ。さくら達の前では常にむすっとしている彼女の機嫌は、どうもいつも以上に悪いようだった。
「……さくらか。今の今までこの世に存在していることさえ忘れていた……そういえば、いたっけ。まあ覚えている価値なんて特にないし……忘れっぱなしでも良かったけど……」
「鈴ちゃん、出雲さんはいるかしら? 私、今すぐ出雲さんとお話がしたいの! お願いしたいことがあるの!」
「出雲は……今はいないよ。出かけている」
「え……!? えっと、もしかして『やました』へ行っているの!?」
まさかいないとは思っていたさくらは頭が真っ白になりながらそう聞いたが、鈴は違うと首を横に振る。
では今一体どこにいるのか、と聞けば「知らない」と即答された。いつも通りの小さく、そして抑揚のない声だったがそこには恨みや悲しみ、僻みがうんと込められているように感じる。実際そうなのだろう。理由は彼女が続けて発した言葉を聞けば明確だった。
「今日は私と橘香京へ行く約束していたのに……昨日の夕方……弁当屋へ行った出雲に『あたし今何かを忘れている気がする! 普通なら絶対忘れないようなこと――人? をだ! 柚季やなっちゃんもそんな気がするって言っている! 妖怪が何かやらかしたのかもしれねえ、おい出雲今すぐ調べやがれ!』って言ったらしい……」
まだ完全にさくら達の存在を忘れてはいなかった紗久羅に言われ、一応調べてみることにしたらしい。彼自身にも、紗久羅同様誰かのことを忘れているという感覚があったようだ。そして彼は鈴との約束を蹴り、外出している。彼自身モヤモヤしているからこそ行動を起こした、何も感じていなければ紗久羅の要請を断っていたかもしれない――とはいえ鈴からしてみれば面白くないだろう。自分の約束よりも紗久羅のお願いの方が大事、つまり自分より紗久羅の方が大事――そう思っても仕方がないことだ。
出雲が居ないという事実はさくらを絶望させ、体を巡る焦りと不安はその熱量を増す。だからといってここに突っ立っている余裕も、へそを曲げている鈴を慰める時間もない(というかさくらが慰めの言葉をかけたところで彼女にとって何の救いにもならないだろう)。出雲がもしかしたら別れ重ねの存在に辿り着き、助けてくれる可能性はある。だがその可能性だけに賭けて後は何もしないでいられる程、さくらはギャンブラーではない。
さくらは鈴にお礼を言うと踵を返し、先程よりも濃い闇を必死に払いのけ、重くなった足を夢中で動かして石段を駆け降りる。今度は弥助がいるだろう喫茶店『桜~SAKURA~』へと向かう。道を抜け、己を夢の世界から引きずり戻そうとする水の流れに抗うようにして走り、ずっこけそうになりながらなんとか店の入り口を開けた。いやに必死なさくらの登場に秋太郎と満月がぎょっとする。そこに弥助の姿はない。嫌な予感がしながら「弥助さんは居る!?」と聞けば、案の定秋太郎から返って来た言葉は今日彼は休みだからいない、というものだった。昨日友達と出かけて遊ぶんだとウキウキしながら語っていたという。その友達というのが人間か妖かは不明だが、どちらにせよ彼の住んでいるアパートを訪ねても無駄なようだ。
当てが外れたさくらは完全にパニック状態だ。死にそうな声で礼を言いながら店を飛び出し、しばらく訳も分からず叫びながら走り回り、やがて疲れてその場に頭を抱えながらしゃがみこんでしまった。そうしていても仕方がないのに、そうすることしか出来ない位余裕がなくなっている。
頭の中に巡る「どうしよう」の言葉の隙間に入り込む妖、或いは彼等と何らかの関わりがある人々の姿。英彦、彼の使鬼、小雪、月子、梓、やた吉とやた郎……。彼等に助けを求めることを思いついては、無理そうだ、という結論に達してしまう。いっそ巫女の桜に助けてもらいたい。だが彼女は故人だし、その魂は今や出雲と一つになっている。水の流れが、かなり強くなっている。このままでは夢から覚め、向こうがさくらにとって本当に現の世界になってしまう。その前に鈴と共に望みを託さねばならない。時間が経てば経つほど鈴の効力は弱まってしまう。ちんたらしていたら折角渡すことに成功しても、その人が何とかする前にその力が完全に消え、さくらのことを再び忘れてしまうだろう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……。やがてその言葉ばかりが頭を巡り、何かが入り込む隙間など無くなっていく。
(私、どうすれば……嗚呼、一体どうすれば……助けて……)
こちらとあちらを結ぶ『道』を満たす闇が今追いつき、さくらを呑み込みそうになった。その時ふと東雲高校の隅にある小さな部屋の映像が頭に浮かんだ。戸を開ければその部屋の殆どを占めている机がある。その机には五個の椅子があり、一番奥にある椅子には一人の少女が座っている。そこは文芸部の部室であり、彼女は部長だった。彼女はいつも部員である自分達を優しく見守っている。母、或いは姉の様に。優しくて、温かい微笑みの美しい人。
「先輩……美吉先輩……そうだ、先輩はここにいる……先輩なら……助けてくれる……」
彼女は自分達を見守っている。そして自分達が困っていればその手を差し伸べてくれる。人と妖の間に立ち、双方を見守り、優しく結ぶ妖姫。彼女なら妖の持つ領域に干渉する術を持っているかもしれない。
行かなくちゃ、東雲高校に。あの優しい笑顔が待っている、文芸部の部室に。よろよろと立ち上がったさくらは舞花市へ向かうバスがとまるバス停へと歩いて行った。本当に運の良いことに、到着してすぐにバスが来た。これは天の助けだ、などと思いながらバスに乗り込む。その間もますます水の流れは激しくなっていく。少しでも気を抜いたらあっという間に体を向こう側へ持っていかれそうだ。必死に抵抗していてもいずれはそうなってしまう。でも今はまだ、駄目だ。早くしなくちゃ、早く着いて、一刻も早く……はやる気持ち、いつも通りのスピードで走るバス。いっそ飛び降りて走り出したいが、そうするよりはこのバスの方が速い。普段よりずっと遅く感じるバスは少しずつ目的地へと近づいていった。
(次……次のバス停だ。『東雲高校前』……)
のはずだった。ところが聞こえてきたアナウンスが告げたのは『次はスーパーハナノ前、スーパーハナノ前……』という聞き覚えの無いものだった。スーパーハナノ等聞いたこともない。乗るバスを間違えたか、いやそんなことはない。一体何事かと混乱しながらもさくらは降車ボタンを押す。やがてバスは停まり、震える手でどうにか乗車賃を支払うとバスを飛び出した。
周囲の景色には見覚えがある。ここは間違いなく『東雲高校前』のバス停だ。だがそこにあるポールに書かれている文字は『スーパーハナノ前』。何故、どういうこと。混乱でパンク寸前の頭を稼働させ、理由を探し続ける。そしてようやく答えに辿り着いた。
東雲高校は今この世界に存在しない。カサネがさくら達ごと持って行ってしまったからだ。恐らく東雲高校があった場所には今スーパーハナノとやらがあるのだろう。存在しない高校に佳花がいるはずがない。彼女は今別の高校の生徒ということになっているはずだ。佳花はさくら達の存在を忘れている。今会えばさくらのことは思い出すだろうが……。彼女は美吉山に住んでいるらしいが、具体的にどの辺りで暮らしているのか知らない。常人が立ち入れるような所に家があるかどうかも微妙だ。だから家を訪ねて助けを請うことも出来ない。
東雲高校がここにあり、佳花がここに居たという事実はさくらにとって当たり前のことだった。ここに東雲高校が無くて、佳花がいないなんてこと考えられなかった。しかし幾らパニックを起こしていたとはいえ、そんなことに気づけなかったなんて。さくらは己を呪った。
もう駄目だ、他の人に助けを求める時間はない。自分はカサネとのゲームに負け、永遠に向こうで幸福な、だが間違った日々を過ごすことになるのだ。ふらふらと、もう東雲高校ではない方へと歩いていく。高校が無いと分かっていながら、佳花がいないと分かっていながら、それでも助けを求めようと、力なく、一歩ずつ、ゆっくりと。
丁度校門があった辺りに誰かが佇んでいる。近づいていく内、少しずつその姿がはっきりとしていった。
その姿にさくらは見覚えがあった。そこに立っていたのはなんと佳花だった。彼女は目の前に佇む建物を見て絶句している様だった。驚きのあまり心臓が「どうして」という言葉と共に零れ落ちそうになる。何故彼女がそこにいるかは分からない、もしかしたら絶望のあまり幻を見ているのかもしれない。声を掛けた瞬間ふっとその姿が消えたらどうしよう、そう思った。かといってそのままスルーするわけにはいかない。
「美吉……先輩?」
かろうじて声と呼べるもので、その名を呼ぶ。彼女はその声を聞いてさくらを見た。さくらを捉えた目が大きく見開かれ、驚愕の表情を浮かべる。どうやらさくらのことを思い出したらしい。その瞳が語っている、どうして今まで私はさくらちゃんのことを忘れていたんだろう、と。
「臼井……さん?」
困惑しながらも彼女はさくらの名を呼ぶ。その声を聞いた瞬間、さくらは彼女に抱きついた。自身を支配していた様々な負の感情がたった一言で涙となって外へと溢れだす。代わりに再会の喜びや安堵が体の内を満たした。佳花がいた、そして自分の名前を呼んでくれた。どうして私、一体何がと戸惑いつつも佳花は優しく頭を撫でる。さくらは小さい頃出かけ先で親とはぐれた時のことを思い出す。どうにかこうにか再会した時、わんわん泣きながら母親に抱きついた――今の自分はその時の自分とまるで同じだった。迷子だった自分はようやく己の身を預けられる、大事な人と再会できた……。
「臼井さん、一体何があったの? 私何で臼井さんのことを……」
「別れ重ねです、別れ重ねが卒業式に現れて、私や櫛田さんや東雲高校を……!」
別れ重ね、その存在を佳花は知っていたらしい。ほのりや東雲高校の名前にはピンとこなかったようだが、そちらには反応している。そして佳花は自身やさくらの身に起きたことをある程度察したらしい。さくらは詳しいことを説明する。誰かと会い『実験』を始めた別れ重ねが次々と、あちこちで別れを重ねていること、自分達は元々東雲高校という学校の人間であること、昨日の卒業式に別れ重ねが現れ、東雲高校と在校生等を自身の領域へと連れて行ってしまったこと、彼女が仕掛けたゲームのこと……。かなり慌てていた為早口になったり、話があちこちへすっ飛んだり、自分でも意味の分からないことを言ったりしたが佳花が優しい声で宥めながら根気よく聞いてくれたお陰でどうにか伝えたいことは全て伝えることが出来た。
そうしている間にも水が、さくらを現へと引き戻そうとし、一通り話し終えた頃にはもう人間如きが抗ったところでどうにもならぬ程になっていた。もうまともに声を発することも出来ず、視界も乱れ、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなっていた。
「分かったわ、さくらちゃん。私がどうにかする……別れ重ねの領域へと行って、さくらちゃん達を助けるわ。私が今忘れている他の人のことも、学校のことも……」
それでも、彼女の声はよく聞こえた。優しくて温かい、ほっとする声。その声がさくらに希望を、そして最後の力を与えた。さくらはカサネの力が込められた鈴を佳花に手渡した。息が出来ず、苦しく、手も頭も足もちぎれてしまいそうだ、それでも思う。絶対大丈夫だ、佳花が絶対助けると言ってくれたから、きっと大丈夫だ。
佳花に鈴を渡せた、そう確信した途端体が宙へ浮く。世界は水に満ちている。そしてその水はこの世界と彼女を引き離そうとする。佳花は咄嗟にさくらの右手を掴んだ、が水がさくらを引っ張る力は圧倒的に強く、さくらは自分の手を掴んでいた温かな手が離れていったのを感じた。
「……うす……ぱ……ぜった……すけて……わ……しんじ……ま……ます!」
自分が出しているのは声か、泡か。何も見えない、聞こえない。佳花が何か言っている、もうそれすらもきこえなくなっている。でもきっと絶対に助けると、約束すると言っているのだ、そうに違いないのだ。
そして激流はさくらをこの世界から放りだし、彼女は短い夢から覚めた。
*
覚醒したさくらの目に最初に飛び込んできたのは、蛍光灯の白い光。眩しい、と手でその光を遮りながら何度か瞬きする。のろのろと起き上がると、すでに起きていたほのりが黒板を上げ、現れた闇へ向けて布団を放り投げていた。広々とした部屋、飾り気のない時計、スピーカー――何故かさくらは東雲高校の教室に居た。さくらが起きたことに気づいたほのりが「おはよう」と声を掛けてくる。
「あれ……なんで私ここに……? え、だって私達屋形船で宴会してそれから旅館に泊まって……」
「一か月も前のことじゃないのよ、それってば。全く寝ぼけちゃってまあ……ほら、さっさと布団片づける!」
ほのりに敷布団を思いっきり引っ張られ、混乱しているさくらの体は固い床の上にコロコロ。
「一か月前……?」
「そうよ、もう今や昔のお・は・な・し!」
ほのりがそう断言しても信じられない思いだった。旅館へ行ってからのことを順を追って思い出そうとするが、旅館でカサネ様と何か話をした後の記憶が殆ど無い。その話の内容だって殆ど覚えていなかったが、多分重要なことだったと思う。その後は夢を見ていた、短いけど大切な夢を。そして今自分はその夢から覚めたのだ。目を覚ましたら何故か一か月後になっていたけれど。夢の内容はあまり覚えていない。そもそも夢なんてものは目を覚ました瞬間からさらさらと異様なスピードで脳から零れ落ち、消えていくものだ。
ただ誰かと話をしていたことは何となく覚えている。顔も名前も覚えていないが、とても大切な人だったように思う。自分の名前を呼ぶ声が優しくさくらの頭の中に響いた。さくらは夢の中でその人と何か大切な約束を交わした。そしてその人がその約束を守ってくれる日を待っている。交わした約束は夢の中、だがその約束が境を飛び越え、現の世界にやってくることを信じている。
その日からさくらは待ち続けた。顔も名前も忘れた、夢の中の人と交わした約束が果たされるその日を。
何週間後かにカサネ様と会った時、彼女は笑いながら言った。ゲームはどちらが勝つかしらね、と。どうもカサネ様と自分はゲームというか、何らかの賭けをしているらしい。その内容は思い出せなかったが、自信を持ってさくらは言った。
「私が勝ちます。絶対に」
カサネ様はそうだと良いわねえと言いながら立ち去った。
それからまた幾らかの時が経った。夢から覚めてから数日は、この世界の諸々の事柄に疑問を抱いていた。これは違う、あれは違う、これはおかしい、こうじゃない気がする――その思いを口にする度ほのり達に奇人変人でも見るような目で見られた。それは不思議な夢を見る前から感じていたことだった気がする。
しかしそんな思いも時が経つごとに薄れていき、気づけばさくらはこの世界に何の疑問も抱かなくなっていた。それでも夢で交わした約束が果たされる日は信じて待ち続けていた。いつかは約束を交わしたことを忘れてしまうかもしれないと不安になる日もあった。その度に絶対に忘れないようにしようと誓った。
ある日さくらはほのりと共に、ランプ狩りを楽しんでいた。灯園に葡萄の様に生るランプは色、形、大きさ、灯りの色、何もかも違う。狩ったランプは持ち帰ることが出来る。これら天然物のランプは一週間後には枯れて駄目になってしまう。運命と呼べるような出会いをしても、僅かな時間しか共に生きられないは残念だ。だが儚いからこそ美しく、そしてその美は人工ランプにはない。
とびっきり素晴らしいランプを見つけたさくらはうきうきしながらそれをプチっと摘み、籠の中に入れる。その直後だ、背後から上がった轟音に心臓が飛び出るような思いをしたのは。その音と共に白い光が世界を染め上げる。超ド級の雷が落ちたかのようだ。そして直後、さくらは何かと自分が『繋がった』のを感じた。いや、どちらかといえば今まで見えなかったものが見えるようになった、認識出来るようになったといった方が良いだろうか。兎に角そんな妙な感覚に襲われた。その感覚が告げている。
約束は果たされた。
さくらは「一体何なの!? 雷!?」と驚くほのりをその場に置き去りにし、音のした方へと駆けていた。今すぐそうしなければいけない、と自分の中にいる自分が叫んでいたのだ。走って、走って、走った。
灯園の出入り口の前に人だかりが出来ている。ランプ狩りをしていた客だろう。彼等は何かを困惑した表情で見ながらひそひそと話している。
「一体何なの、すごい光と音がしたと思ったら」
「見たことのない顔……誰?」
「雷って人や妖を産むものなのか?」
さくらはごめんなさいと言いながらその人の輪をかきわける。彼等の目を引いたものを見た瞬間、さくらは大きな声で叫んだ。
「美吉先輩!?」
今の今まで忘れていたその人の名前が自然と出た。そしてその瞬間自分がいつの日か見た『夢』の内容を思い出す。自分が何を待ち続けていたのかも。尻餅をついていた佳花はさくらの声を聞き、ふっと顔を上げた。ここへとやって来た時の衝撃が余程強かったのか、その目の焦点が合いさくらを認識し「臼井さん!」と叫ぶまでにはやや時間を要した。
ところでその場で尻餅をついていたのは佳花だけではなかった。一人は見知らぬ着物姿の少年で、もう一人は見覚えのある男だった。藤色の髪、恐ろしいほど整った容姿、呪いと蠱惑を詰めた宝石の様な赤い瞳。
彼は「どうして私がこんな痛い思いをしなくてはいけないんだ、全く腹が立つ!」と言いながら少年の頭をひっぱたいた。
「え……い、出雲さん!?」
「ああ、さくらか。そういえば居たっけね……今の今まで忘れていたが、ようやく思い出したよ。とりあえず私は奪われたものを一つは取り戻したらしい。失ったままでも良かったといえば良かったが、まあいいか」
一体どうして出雲が佳花と一緒に居るのだろう。そしてもう一人の見知らぬ少年は誰だろうか。約束が果たされた喜びよりも困惑が勝ってしまった。さくらの頭の上に乱舞していたクエスチョンマークが見えたのだろう、佳花は事の経緯を説明する為に口を開く。
「実はね……」