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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
別れがさね
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別れがさね(6)


「別れ重ね……? 別れに別れを重ねる……?」


「何それって顔しているわね。私って認知度それ程高くないのよねえ。桜村奇譚集では、人の死と共に姿を現す『黒の女』という妖になっていたっけ。まあ当時は別れといえば『死』がもたらすものが圧倒的に多かったしね……ああ、今の貴方に桜村奇譚集云々の話をしてもピンとこないか」

 カサネはふう、と肩をすくめる。さくらは桜村奇譚集という単語にどことなく聞き覚えはあったが、具体的なことはまるで思い出せない。カサネも特に詳しい説明はしなかった。そこは別に重要ではないからだろう。


「私はね、別れの場或いは何らかのお別れをしたばかりの者の前に現れる。例えば花子ちゃんという女の子がいたとしましょう。翌日遠くへ引っ越していなくなってしまう彼女の為に、クラスでお別れ会が開かれた。そこは花子ちゃんとクラスメイトや学校との別れの場ってことになる。そこに私は足を運び、クラスメイトの一人をこちらへと連れ去るの。花子ちゃんと皆や学校との『別れ』に、クラスメイトとその連れ去った子の『別れ』を重ねるのよ。或いはその子と『本当の世界』との『別れ』ともいえるわね。私はそうやって別れの場に現れて、本来はあるはずのなかったもう一つの『別れ』を重ねるの。ああ、貴方学校とかクラスメイトとかって言葉ももう忘れちゃっているのねえ。いまいち話が通じないから厄介だわ」


「……私や櫛田さんも貴方が連れてきたんですか、ここへ。その……私達は、何かと、誰かとお別れする場に居たんですか」


「そう。貴方達の場合は卒業式。卒業生と学校、先生や後輩との別れの場。もっとも貴方達は卒業する側ではなく、卒業する人達を見送る側だったわけだけれど。私はね、卒業生と学校との『別れ』に、卒業生及び式に出席していた保護者や来賓以外の者とあの世界との『別れ』を重ねたの。人間どころか、学校までこっちに持ってきちゃった。学校ごとあの世界とお別れさせたのよ」

 さらりととんでもないことを言った――ような気はする。だが朧気ながらにそう思う位だった。卒業式、卒業生、学校。ほのりがカサネに聞かせた『さくらの奇妙な言動』の中に確かそのような単語があった。つまり少し前までさくらにはそのことに関する記憶があったということだ。しかし今は殆ど覚えていない。故にさくらはただぼけっと間抜け面。思いの外反応が薄いことに拍子抜けしたカサネが呆れながら簡単に説明してくれたがいまいち飲み込めず、だがどういうわけか胸が頭がずきずきと痛んだ。奥底に残るものが『思い出して』と訴えているのかもしれない。


「私達がこうして『本当の世界』のことを忘れてしまうのも、貴方の力によるものなんですか」


「そうよ。こちらへ連れてくることで、貴方達と向こうの繋がりは極端に希薄になる。最初の内はさくらちゃんみたいに向こうのことを覚えている人もいるけれど、いつかは完全に忘れる。自分達は産まれた時からこの世界に居たと信じて疑わなくなるの。そしてそれは向こうに住む人も同じ。彼等はここへ連れてこられた人やモノの存在を忘れてしまう。貴方達の存在は『なかったもの』になるの」

 自分達が『向こう』の人間を忘れているように、『向こう』の人達は自分達のことを忘れている。そのことにさくらは寂しさを覚え、泣きたくなった。自分のことを忘れているだろう人達のことを、さくらは思い出せない。思い出せないのに、悲しい。胸の内から思い――多分忘れないで、とか思い出して、とかそのような――がこみあげ、外へと零れ落ちそうになった。そんな気持ちにさくらは戸惑いを隠せない。

 

「もっとも、完全になかったものになっているわけじゃない。例えば太郎さんには次郎さんという友達がいたとして。ある日次郎さんは私によってこちらへと連れていかれ、太郎さんは彼のことを忘れた。けれど次郎さんとやったこと――一緒に夏祭りに行って射的で勝負したとか、海へ行ってスイカ割りをやったとか――はある程度は消えずに残る。ただ次郎さんの存在は無かったことになっているから、それらの思い出は別の人間と作ったことになってしまうの。太郎さんは射的で勝負したのは三郎さん、スイカ割りを一緒にやったのは四郎さんだと思ってしまう。同じ様なことがさくらちゃんが通っていた学校の卒業生達にも起きていることでしょう」

 さくらの先輩だっただろう卒業生達には、学校へ通い、同級生や後輩達と多くの思い出を作ったことはある程度覚えている。だが自分が通った学校、共に思い出を作った人々の名前は全くの別のものにすり変わっている。自分と作った思い出は、自分ではない誰かと作ったものにされている。それはとても寂しいことのような気がした。


「……ここも昔に比べれば大分『住人』が増えたわ。もっとも全員ではなくて、半分位は私が作り上げた『幻』の住人もいるのだけれど。そういうのを作らないと人が少なすぎてちょっと寂しいから。それにしても本当……よくもここまで集めたものだと思うわ。飽きもせずせっせと別れの場へ足を運んでは別れを重ね続けて……もうどれだけの時が経ったかしら。すっごい長い時だった気がするんだけれど、もう覚えていないわ」


「貴方はどうしてそんなことをするんですか? 人や妖を本来住んでいる世界から連れ去って……何が、目的で。私達をここへ連れてきて、どうするつもりなんですか」

 全くもってそうする意味が分からなかったから、さくらは尋ねてみた。もしとても恐ろしい答えが返ってきたらどうしよう、と正直恐ろしくはあったが聞かずにはいられなかった。しかしこれはカサネにとっては面白くない問いだったらしい。露骨に顔をしかめ、それはそれは長いため息をつき、さくらの鼻先に人差し指をつきつける。


「貴方達ってどうしてそう、何にでも意味とか目的とかを求めようとするのかしら。別に無いわよ、意味も目的も。こういうことをする妖として生まれたから、やっているだけ。ある意味ロボットと同じよね。プログラミング通りに動いているだけ……って言っても今の貴方は理解できないか。まあ連れてきたからには面白おかしく暮らせるようにしようと、色々この世界を弄りはしたけれどそれだって貴方達の為ではなく、ただ自分が愉快な気持ちで過ごせるようにしたかっただけ。苦しんだり、辛い思いをしたりする姿を見たって面白くないし、重苦しい空気とか好きじゃないし」

 そういうことをする妖として生まれたから、そうしている。目的もなく、悪いことをしていると思ってもいなければ、善いことをしていると思っているわけでもない。喜びや快楽もないし、かといって嫌悪感もなく、この行為をつまらないと感じている様子もない。『別れ重ね』という行為の中身は何もない、空っぽだ。それはそれでとても恐ろしいと思いながらさくらが呟いた「空洞……」という言葉を聞いたカサネは、特に気分を害することなく「そうね、空っぽね」と肩をすくめる。


「でもこうして別れに別れを重ね続けているからこそ、私は『別れ重ね』でいられるのよね。これをしなくなったら私は何者でもなくなってしまう。……となると私が私であり続ける為、別れ重ねとして生き続ける為っていうそれなりに大事な目的が、一応存在はしているってことよね。そういえば私って別れを重ねることをやめた場合どうなるのかしら。実は別れ重ね、という名前を失うどころか死んじゃったりして。これも近い内に実験して……ああ、そうだ。実験、実験よ!」


「え、あ、え、実験……?」

 カサネは突然ハッと何かを思い出したような顔をして、ポンと手を打った。さくらは訳が分からず、ただポカンとするばかり。そんなさくらの様子など意にも介さず、カサネはそれは楽し気に語りだした。


「それなりに長い間、特に何も考えないまま別れを重ね続けていたけれど、最近はあれこれ試しているの。一度にどれ位の人間や物をこちらへ連れてこられるか、とか一日にこちらへ連れてこられる数に限界はあるのか、とか。今は卒業式とか何かと別れの多い季節だから色々試すには丁度良いわ。後は物をこちらへ運ぶとして、どれくらいの大きさまでなら運べるかとか、ほんの一時の『お別れ』にも別れを重ねることは出来るのか、出来るとしてどの程度までOKなのかとか。後はそうねえ……発生した『別れ』に関わりがない人間も、その場付近に居さえすれば『別れの場に居た』という認識となり連れていけるのか……そういうことも今後試していく予定」

 お陰で一気にここが賑やかになった、とカサネは嬉しそうだ。さくらはそんな彼女の様子を複雑な心境で見ていることしか出来なかった。彼女が別れを重ねた結果連れてこられた人間は酷い目に遭うことはない。自分が本来の世界にいた時のことも忘れ、毎日愉快に過ごしている。向こうの人間もこちらへ連れてこられた人間のことは忘れているから、一応表面上は誰も不幸にはなっていない。だがしかし、だからといって彼女の今までより派手になったらしい行動を、これからも続けるという実験を許容しても良いのだろうか?

 そんなもやもやした気持ちを抱えているさくらのことなどお構いなしにカサネは話を続ける。


「まだ実験を始めてそれ程経っていないけれど、結構色々なことを知ることが出来てとても楽しいわ。今まで一度に複数人こちらへ連れてきたことなんて殆どなかったの。やってもせいぜい片手で数えられる程度だった。一度に大勢連れてくるって発想が無かったのよねえ……意外と私ってば頭カッチコチだったのね。まさかあれだけの数の人間ごとまとめてドドンと連れてくることが出来たなんてねえ。しかも一日の間にそれを何度もやることが出来たの。私の持つ妖力はちっとやそっとでは無くなりそうにないみたいね」

 カサネは卒業式があった学校をあちこち回っては『別れ重ね』をしまくったらしい。少しずつこちらへ連れていくものを増やしながら。さくら達のいた学校へやって来た時は、式に出席した保護者や来賓には手を出さなかった。だが次に訪ねた学校では範囲を広げ、そういった人達もこちらへ連れてきたようだ。


「で、でもなんでそんなことをいきなりやり始めたんですか? 突然の思いつきかなにかですか……?」

 何故急にそんな実験など始めるようになったのか、気になってしまう。さくらがその疑問をぶつけると、カサネは「いいえ」と首を横に振った。


「思いつきではないわ。つい最近『向こう』で出会った人間の娘に持ちかけられたの。自分の能力について色々知る為に実験をしてみないかって」


「え、人間が……?」

 事もなげに言ったその答えにさくらは驚愕する。人間が何故そのようなことを?


「なんでも妖とか異界とか、そういうものについて研究しているんですって。まだ若い娘さんで結構美人だけれど、中身は大分やばいわね。協力している私が言うのもなんだけれど、相当イカれているわねえ……あの娘。自分が知りたいことを知る為ならどんな犠牲も厭わない。他人だろうが、知人だろうが、なんなら自分でさえも平気で実験動物にする。その結果、誰かが不幸になろうが死のうが気にしない。私が仮にこちらへ連れてきた人間を殺すような妖で、かつそのことを知っていたとしても、彼女は平気で実験をさせたでしょうね。妖である私よりよっぽどおっかない存在だと思うわ」

 その娘(長く生きているだろうカサネの言う『若い娘』というのが何歳位を指すのか不明だが)は別れの場を求めてフラフラしていたカサネに声をかけ、様々な質問をした後実験を持ちかけてきたという。それをカサネは面白そう、とOKしたのだ。ヤバい子だと思いつつ面白そうだからと了承したカサネも大概だが、自分が『知る』為ならどんな犠牲も厭わないという娘も大概だ。そしてそんな娘とカサネの『実験』に巻き込まれ、さくらは本来の世界とそこに関する記憶の殆どを失った。全くもって迷惑だ。色々と曖昧なせいかそれらを奪われたことに怒りの感情はそれほど湧いてこないが「ああそうなんですか、へえー」で終わらせるわけにはいかなかった。とはいえ、あれこれ抗議したところで何がどうなるわけでもないだろう。そう思ったら心と体が萎れて、ただがっくりとうなだれるしかない。


「私達実験に巻き込まれて連れてこられて……全部忘れて……もう……帰れない……」


「別に帰れないわけじゃないわよ。最近実験の一環で試してみたけど、何の問題もなく帰すことは出来るみたい。さっきも聞いたけれど、さくらちゃんは元の世界に帰りたいの?」

 改めてされた問いにさくらは顔を上げる。目の前に立つカサネは小首を傾げながら彼女の回答を待っていた。だがその問いに対するはっきりとした答えは、自分が生まれ育った世界はここではないと知った後になっても出てこない。帰りたいか、帰りたくないか。そんな単純な二択から自分が『正しい』と思う選択肢を選ぶ為の材料が今のさくらには殆どないのだ。自分のことを本来の世界の住人は覚えていない、自分と作った様々な思い出は別の人と作ったことにされている――それらの事実に対し思うところはある。だが一方で『ほのり達さえいれば別にいいや』という気持ちもあった。


「本当の世界を捨ててはいけない、という決まりはない。向こうのことを何もかも忘れて、ここで面白おかしく永遠に過ごしたって罰は当たらないと思うわ。向こうよりこっちの方が遥かに楽な世界よ。そしてこれからもそれは変わらない」

 改めてカサネにそう言われても、なおさくらの中に『答え』は生まれてこない。いつまでも「うう」とか「えっと」とか、そんな声を漏らすばかりではっきりとした言葉を寄こさぬさくらをしばらくの間はカサネも辛抱強く待っていた。だがやがてこのままでは埒が明かないと判断したのか、どうしようかなあと口元に人差し指をやりながら何事か思案しだす。てっきり痺れを切らして「ま、いっか」と言ってこの話題をさっさと切り上げてしまうだろうと思っていたさくらは正直少し意外に思った。

 お互いあれこれ考えていた為に、春の夜の底に静寂が沈む。それを霧散させたのはカサネの「そうだ」という声と、ぽんと手を叩く音だった。


「一回さくらちゃんをあちらへ帰せばいいんだ」


「……え?」

 予想外の提案にさくらは面食らった。しかしカサネの顔を見る限りそれは冗談などではなく、本気の考えであるらしい。


「結局さくらちゃんは向こうのことを忘れてしまっているから、どっちが良いか判断が出来ないのでしょう。ならば一回向こうに帰しちゃえば、答えがちゃんと出るかもしれない。勿論こちらの世界で過ごした記憶を保持した状態でね。そうしなきゃ結局意味がないもの。その上でさくらちゃんに決めてもらいましょう……こちらの世界で皆と面白おかしく過ごしたいか、それとも向こうに帰りたいか、ね。でもただ決めてもらうだけじゃつまらないし……そうだ、折角だからちょっとしたゲームをしましょうか」


「え、あの、え、ゲー……え?」

 もう訳が分からない。そんなさくらを見てカサネはくすくす笑いながら右手を握りしめる。五秒ほど経ってからぱっと開いたその手の平に、いつの間にか青みを帯びた銀色の鈴がのっていた。その鈴には紅白の紐を編んだものがついている。カサネは左手でその紐を摘まむと、ぐいっとさくらに突きつけた。りん、と澄んだ鈴の音が鳴り響く。


「貴方に今から『夢を見る為の山』に登ってもらうわ。その山を登った先にある鳥居をくぐれば、貴方は元の世界の『夢』を見られるわ。夢を見ながら貴方はこれからどうしたいか決めればいい。けれど夢はいつか覚めるもので、いつまでも見ていられるものじゃない。決めるなら、目が覚めるまでの間になさいな。もし本来の世界を捨て、こちらで愉快に暮らしたいというなら何もせず適当に時間をつぶしていれば良い。でももし本来の世界に『帰りたい』と思ったら……この鈴を自分のことを助けてくれる人に渡しなさい」

 そう言ってカサネはさくらの右手に鈴を握らせた。りん、という音と共に己の手に渡ったそれはひんやりとしていた。しかし不快な冷たさではなく、またさくらの体温を吸って徐々に温かくなっていく。この鈴が一体何をもたらすというのか。目で、表情でそう問えばカサネが楽しそうに笑いながら教えてくれた。


「夢を見ている間は、向こうの人もさくらちゃんのことを思い出す。でもさくらちゃんが夢から覚め、こちらへ戻ってくれば彼等は貴方のことを再び忘れてしまうわ。……鈴を所持している人を除いてね。その鈴は私が奪ったに等しい位極端に薄くした、貴方と向こうの世界の繋がりを復活させるわ。故に鈴を持っている限り、その人はさくらちゃんのことも、さくらちゃんが話したことも覚えていられる。但し、永遠にその効果が続くわけではない。さくらちゃんが夢を見始めたその瞬間からどんどん効力は失われていく。渡すタイミングが夢から覚める寸前だった場合、殆ど猶予はないでしょう。だからどうしたいかは早めに決めた方が良いわよ。これを渡す相手を決めるのもね」


「この鈴を渡して……その後は」


「後はその人に全てを託すしかないわね。その人が『ここ』に辿り着くことが出来たら、さくらちゃんの勝ち。さくらちゃんやほのりちゃん達を向こうへ帰してあげる。もし辿り着くことが出来なければ、さくらちゃんがどれだけ望んでも一生帰してあげない。助けられることないまま、貴方は完全に元の世界のことを忘れることでしょう。一つアドバイスするけれど『ここ』は私が招いたり、連れてきたりしない限り簡単には至れない場所よ。一部の妖が持つ固有の『領域』は簡単には侵せない。こういったところに主の承認なしに入り込むには特別な手段を講じる必要がある。鈴を託すならそれが出来る人、もしくは出来る人と繋がりがある人にすることね。ただ時間制限があるから、そちらもちゃんと考慮した上で選びなさいな」

 さあそうと決まったらさっさと始めましょうか、とカサネはポンと手を叩く。さくらの返事や質問を待つことはない。自分がゲームをやる、と決めたらやる。相手のことなどまるで無視。カサネは鈴を出した時と同じ様に右手をぎゅっと握りしめ、しばらくしてパッと開けた。そこには桜の花びらが一枚。その花びらにふっと息を吹きかけると、一瞬でそれは薄紅色の大きな布に姿を変える。何故最初からその布を創らなかったのか、と問えばどうせ普通に布をパッと出しただけでは面白くないから、と答えたに違いない。


(それにしても何で布なんて……)

 今この場に布など必要ないように思えるのだが、という疑問は瞬時に解消された。彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべて「それじゃあ行ってらっしゃい」と一言、そして手に持つ布を広げるとバサっとさくらの体を包み込んだ。

 次にバサっという音が聞こえ、瞳を満たす桃色が消えると、先程までいたはずのカサネの姿は消えていた。いやカサネが消えたというより、さくらがあの場所から消えたのだろう。さくらが今立っているのは客室のベランダでは無かった。深い緑の葉茂る木々ひしめく――大きな、山。山がさくらの眼前にそびえ立っている。そしてその山を裂くように長く伸びる、伸びる、石段。山と、自分を包み込む空は朱と橙と黄と、紺のグラデーション。昼と夜、現と異界、境の色。今は夕方などとっくに過ぎている時間のはずなのに。それともここは切り離された場所で、このあらゆる境の時を過ぎることも戻ることもないのだろうか。向こうへ帰る『夢』を見る為に足を運ぶ――謂わばこちらと向こうの境たるこの場所は、常にどちらにも属さない時間の中に沈んでいるのか。振り向いた先にはただ地面と、夕空があるばかり。きっとそちらへ向かって歩き続けても、何も現れないだろう。

 改めて、山の方へ目を向ける。この先に、自分が忘れてしまったものの全てがある。それらは果たしてこの世界を捨ててまで取り戻したいようなものだろうか。やっぱり何もかも向こうのことはさっぱり忘れ、ここでずっと皆と過ごしていた方が良いと思ってしまうような場所だったらどうしよう……そんなことを思うと、少し怖かった。ごくり、と唾をのむ。


(確かめよう、自分が忘れてしまったものの数々を)

 ここに立っていても、何も進まない。境を超える為にはここを登っていくしかないのだ。さくらは一度すう、はあ、と深呼吸をしてから目の前の山を登り始める。空気は異様に冷たく、また何故だか重みを感じた。一方で妙な浮遊感もある。まるで水の中を歩いているような心地だった。思いっきりジャンプしたなら、もしかしたらふわふわとそのまま体は浮かび上がり、手と足を動かせばすいすいと山中を泳ぐことが出来たかもしれない。そうならなかった場合大惨事になるので大人しく歩き続けたが。そしてその水はさくらの体を押しだすように流れている。いや、或いは山の頂がさくらを吸い込もうとしているのかもしれなかった。どちらにせよお陰で比較的楽にすいすいと登ることが出来る。木々の葉がゆらゆら海藻の様に揺れ、息を吐けば口からぽこぽこと出る無数の気泡の幻を見た。山中は暗く、石段はぼうっと僅かにその姿を見せているだけだった。足を踏み外せば落ちるかな、そのまま浮くかな。

 薄暗い、果てなどないと思わせるような長い長い道を押されるように、吸い込まれる様に歩いていく内段々と意識が朦朧としていく。最初の内は水の中を歩いているみたいだな、とか向こうは一体どんな場所だっただろうか、とか色々なことを考えていたが段々と何も考えられなくなっていった。意識が現の向こうへと進んでいく。瞼が重い、体から力が抜けていく。

 僅かに残った意識が、赤い鳥居を捉えた。そしてその鳥居をくぐった瞬間、さくらの体はふわっと浮かび上がり、流れる目に見えぬ水の行きつく果て――目の前にあった小さな社にすさまじい勢いで吸い込まれていった。もうその時にはさくらの意識はなかった。



 りん、という綺麗な音がさくらの耳にすうっと入り込んだ。

 柔らかくて暖かい何かが、自分の体を包み込んでいる。どういうわけか妙に冷えている体をそれは優しく温めてくれていた。その心地良さにずっと体を預けていたい、そんなことを思いながらゆっくりと目を開けた。最初に飛び込んできたのは白い天井。ゆっくりと起き上がれば、自分を包んでいたもの――ふかふかの布団が目に映った。


(私……眠っていたんだっけ……?)

 寝ぼけ眼をこすり、ふああとあくびをしながら重たい頭を動かし、辺りを見渡す。机、箪笥、本棚、灯り……それらを見ても最初は自分がどこにいるのか分からなかったが、しばらくしてようやくここが自室であることを思い出した。


「何でそんなこと忘れて……そうだ、ここは私の部屋だ……私の……私の部屋!?」

 その事実にがつんと頭を殴られ、一気にさくらは覚醒する。ここが自室なら、ここは自分が17年間過ごしてきた世界だ。窓の外を塗りつぶす青い空を、烏が飛んでいる。電信柱にちょこんと止まって休んでいるのは金魚や鯖ではなく、雀だ。箪笥や机の引き出しは異次元と繋がっていないし、貯金箱から出てきたのは十円や百円硬貨だった。部屋から出れば居間で母がくつろいでいる。今まですっかり存在を忘れていたその人は、頭をがつんと殴られたような顔をしているさくらを見て「どうしたの?」と首傾げ。ううん、なんでもないのと震える声で告げ、慌てて自室へと引き返した。よく見れば部屋には通学カバンが置いてある。それは学校ごと『向こう』へ行っていたはずだが、さくらと共にこちらへ戻って来たらしい。またよくよく見ると制服を身に着けていた。屋形船に乗り、宿へと向かった時は着ていなかったはずなのだが。


(向こうのことも覚えている。別れ重ねのことも……鈴も……私の手にある。あれは夢などではない。ううん、今はむしろこちらの方が夢なんだ。私は夢から覚めたんじゃない、今まさに夢を見ているんだ……。この夢から覚める前に私は決めなくちゃいけない)

 夢はいつか覚めるもの。カサネの言葉を思い出したさくらは急いで着替え、鈴と一応通しの鬼灯と財布を外出する時によく使っているカバンの中へ突っ込み、家を出た。

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