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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
別れがさね
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別れがさね(5)



「かんぱーい!」

 カンコンカン、コップとコップの触れる音が屋形船の中に響き渡る。夜空の底を流れる清水の川、そこに浮かぶのは七色の丸い灯籠。流れる赤青黄緑白紫橙ふわ、ふわと、川の底に広がる空を、飛んでいる。その光の淡く触れたらふっと消えてしまいそうな、幻か、いやそこに。頭上、黒塗りの空には白銀の丸い灯りが浮かび、きらきらと星輝く。空は金銀、川は七色、船飾るのは提灯、橙。

 その彩の、夢幻の輝きを楽しんでいる者は今もうこの船には悲しいかな殆どいない。皆の目は、目の前にある黒塗りの卓にずらりと並ぶご馳走の数々にすっかり奪われているのだ。しかしこちらはこちらで色鮮やか、豪勢さは夢幻の如し。


 お刺身、野菜や白身魚、海老の天ぷら、寿司、サラダ、炊き込みご飯、筍と椎茸と野菜の炊き合わせ、蟹しゃぶ、椀盛、ステーキ、金目鯛やカレイの煮つけ、長芋の醤油焼き、チーズ盛り合わせ、ホタテやサザエの浜焼き、伊勢海老、和菓子、フルーツ盛り合わせ等など……兎に角すさまじい量の、そして美味しそうな料理が沢山。人数の割に船が異様に大きいのはこの大量の料理が原因だった。加えて冷たい水や緑茶、麦茶、果実ジュース、サイダー等の飲み物類も置いてある。ちなみに『こちら』には旬もくそもないらしく、どんな食べ物も常に食べることができ、また常に最高に美味しい状態である。更に魚は空を泳ぎ、鳥は水の中を飛ぶが何故か味自体はさくらが知るものと変わらない。


(屋形船の中というよりバイキング形式のレストランみたいだわ、なんだか……)

 皆絶えず動き回って食べたいものを食べたいだけ皿や器にとり、わいのわいの言いながらもぐもぐと食べている。彼女達の食いっぷりはすさまじいものだったが、それでも普通ならテーブルに並ぶ料理を食べきることなど不可能のはずだ。それだけの量がある。しかしほのり曰く、余裕のよっちゃんだそうである。


「食べたいと思いながら食べれば、幾らだって食べられるわよ。食事ってそういうものでしょう。食べる時に飽きた時が、お腹がいっぱいになる時。今までだってそうだったじゃないの」

 ここではあくまで空腹・満腹を決めるのは『心』である。実際皆、異様な量を平気な顔をして食べている。『本来』なら絶対に食べることなど出来ないだろう量を。その『本来』というのも曖昧な記憶に基づいたものだけれど。

 ほのりの前にはコンロ(と思われる器具)と鍋が設置されており、中に入っている昆布だしにズワイガニのむき身をくぐらせ、そのままパクッと口の中へと入れる。見た目通り美味であったらしく、とても幸せそうな表情を浮かべていた。後で野菜を入れ、最後に卵とごはんを入れて雑炊にするのだと、それは嬉しそうに語っていた。昆布にカニに野菜の出汁たっぷりの雑炊は当然大変美味かろう。環や陽菜もおしゃべりしながら楽しそうに食事していた。


 このままぼうっと食事風景を眺めていても仕方ない、立ち上がり食べ物を物色する。この船名物という炊き込みご飯、だし巻き玉子にぷりっぷりの海老、色鮮やかな野菜たっぷりのサラダ、それから天ぷら。天ぷらはシシトウやナス、海老、サツマイモ、シソ、穴子、カボチャ、卵等など。テーブルにつき、塩を軽くつけて頂いたら大変美味しかった。つゆで食べることが殆どだったから、珍しい食べ方でもないのにえらく新鮮に感じる。揚げたてで衣はサクっとしていて、中はほくほく、ぷりぷり、とろとろ、色々。半熟の卵の天ぷらは初めて食べたが、とても美味しい。噛むととろっと濃厚な黄身が口の中に広がる。こちらはつゆに軽くつけて食べた。


「天ぷら美味いよな。俺、天丼にして食ったぜ」

 と一夜。お櫃から丼いっぱいによそった白米に好きな天ぷらをこれでもかと載せ、つゆをたっぷりかけて食べたそうだ。お櫃の中のご飯はいつまでも温かいままだ。

 ご飯に限らず、ここの料理は常にできたての状態を保っている。宿に辿り着くまでは何時間もかかるが、最後まで天ぷらはサクサクのものを楽しめるし、熱々が一番美味しいものはそのまま、冷たい方が良いものはずっと冷たいまま。新鮮でないと食べられないものだって食べられる。

 ずっとこの状態を保つことが出来る、というのは実際のところは正確な表現ではない。この場合『時間が経てば通常通り冷めたりべちゃっとしたりするが、あることをすれば復活する』といった方が正しい。あること、というのは船内数カ所に設置されている漆塗りの黒い箱に食べ物を入れるということだ。数秒待つとちりんちりんという鈴の音が聞こえる。それを聞いたらふたを開ける、そうするとあら不思議どんな食べ物も作りたて、或いは新鮮な状態に戻るのだ。電子レンジみたいに温め直すのではない、元の状態にすっかり戻してしまうのだ。ご飯の場合お櫃に『入れている限り永遠に熱々炊きたての状態を保ち続ける』という力がある。


 さくらの右隣に(左隣にはほのりが座っている)よっこいしょと腰を下ろした一夜が、皿にこんもり阿呆みたいに盛りつけた若鶏の唐揚げを目の前に設置されている箱の中に入れる。少ししてふたを開ければ、醤油とニンニク、それから油の匂いがぶわっと。あっという間に揚げたての状態に戻った唐揚げを熱い、熱いといいながら山盛りごはんと共に食べる一夜を見ながら思わず「本当にこの箱、どうなっているの……どういう原理が働いているの」と呟く。


「君は妖術のかかった箱に原理を求めるのか。全くもって愚かなものだ。人ならざる者は世界の理など容易く飛び越える。僕達のものさしで測ることなど不可能だ。そんなだから彼等が用いるもののことについて、あれやこれや考えるだけ無駄だ」

 その疑問に答えたのは唐揚げを頬張っている一夜ではなく、いつの間にかさくらの真正面に座っていた要だった。相変わらずの冷たい眼差しと声だったが、今回さくらは要を前に悲鳴をあげなかった。恐怖より何より、彼の口から当たり前のように妖術とか、人ならざる者という単語が出てきたことに対する衝撃の方が大きかったのだ。思わず「御影君がそんなこと言うなんて」と口走ってしまう。怪訝そうな彼の表情に、さくらは更に言わないでいいことを口にしてしまった。


「御影君が妖術とか、そんなこと言うなんて、その、驚いて。いつもならそういうものは絶対にない、あったらいいと考えることさえ馬鹿馬鹿しいって」


「間違いなく存在していることを知っているものを否定するようなことを僕が言うものか。絶対にありえないもののことなら、口にするのさえ馬鹿馬鹿しいから言わないけどね、君とは違って」

言葉は一つ一つに込められた氷の刃の鋭さも、内容もいつも通りの要だ。だが彼が肯定、或いは否定するものは違っている。


「櫛田から聞いたよ、臼井がいつも以上におかしくなっていると。学校がどうとか、鳥が空を飛び魚が水の中を泳ぐのが普通のはずだとか言ったとか、地蔵達が動いている姿を見て何故か仰天したとか」

要は厳しい表情のまま、ほのりから聞いたらしいことを次々と言ってみせた。


ちなみに湯屋で云々と言うのは、水槽掃除後のバイト先での出来事のことだ。青蒼園から一時間程歩いた先、のどかな田園風景の中に佇む湯屋『千石の湯』は人間用でも妖用でもなく、なんと地蔵や石像専用であった。豊富な種類の浴場にひしめく石、石、石。彼等は疲れや汚れをとる為に度々こうして湯屋を訪ねる。彼等はさくらの知るものとは違い、動いたり喋ったりすることが出来た。しかし手が短い、或いは無いものはその体をごしごしと洗うことは出来ない。さくらとほのりの仕事はそんな彼等の体を洗って……いや、磨いてやることだった。ちなみに風呂上りの客にコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲ませてやる仕事というのもあるらしい。

 さくらは動いて喋って風呂に入る地蔵や人間の像等に大変驚いた。そんな彼女を見てほのりは「これも覚えていないの」と呆れていた。何で石が動いているのだというさくらに対し「石動(いするぎ)って言葉があるじゃないの。石ってのは動くものなのよ」とほのりは何てことはないという風に答えた。地名や苗字に石動というのはあるにはあるが……とさくらはただただ困惑するしかなかった。


 他にも空飛ぶ大きなシャボン玉の中に入って散歩(というべきなのか)したり、ある湖の底に潜ってとった石を糸にし、更にそれを織ってオーロラを作って空へ上げるという仕事の一部を手伝ったり、本の中に入り、汚れやほこりを落とす『本の掃除』をしたり(一部の本には必要な作業らしく、これを定期的にやらないとその本の世界は汚れて崩壊してしまうらしい)、美しい御殿やジャングルで双六をしたり。これは自分達自身が駒になり、サイコロを振ってフィールド上にあるマスを進んでいくというものだ。止まったマスによっては様々なイベントが起きる。達磨や人形のダイエット教室などというものの手伝いもしたし(定期的に体を動かさないと彼等は太ってしまうらしい。動くのは何も石像や地蔵だけではないのだ。ちなみに人形専門の美容室もある)。

 彼女は一週間の間に幾つもの『普通ではない』と思えるようなことと遭遇し、その度戸惑い、混乱し。更にほのりや環等がそういったものの数々を『当たり前のもの』として捉えているものだから尚更頭がぐっちゃぐちゃになる。更に要まで諸々のことを『世界の常識』と当たり前のように思っている。これはさくらにとって地球滅亡級の衝撃だ。


「全く君は、どこまでおかしくなれば気が済むんだ。いい加減現実を見るということを覚えたらどうだい」


「い、いやあの現実を見ている結果がこれなんだけど……」


「君が現実と思っているのは、万人にとっては現実ではない」

 とピシャっと言われてしまった。そこまで断言されると、自分の中にある『現実』が本当にそうであるのか自信がなくなってしまう。黙るさくらを要はじっと冷たい瞳で睨んでいる。これ以上睨まれたら自分は氷そのものになって生命活動を止めてしまう、とまで思った時になってほのりが「まあまあ」と助け船。


「サクがいつも以上におかしいことはとりあえず置いときましょうよ。今日は楽しい楽しい宴会なんだからさあ。美味しいご飯食べて、飲んで、騒がなくちゃ損よ。ほらほら要、あたしどいてやるからさあ、サクの隣に座っちゃいなさいよお」


「な、な、なんで僕が! こっ、断る! そして臼井、その悲鳴はなんだ……? 櫛田の申し出がそんなに嫌か。ふん、嫌われたものだね。まあ別に構わないが」


「え、いえ、あの、これはその、ええと……あの、え、えと、はは……櫛田さん!」

 どうしてそんな恐ろしい冗談を言うのだと目で訴えれば、ほのりはにやにや笑いながら「別に? 特に意味なんてないけどお?」と。ただの意地悪だろうが、それにしても何がそんなに面白いのか。困惑するさくらを尻目にほのりは「ほらほら要ちゃん、仲直りの為にここに座って。サクにこのぷりっぷりの海老ちゃん辺りをあーんしてもらいなさいな?」などと言いだした。要は顔を真っ赤にしながら全力で断り、さくらもそんな恐ろしいことなどしたくはないからもげるかと思う程首を横にぶんぶん。一夜はゲラゲラ笑いながら「ほらほら、これ持ってあーんとやっちゃえよ」とぷりっぷりのどでかい海老を掴み、さくらにほれ、ほれと近づける。そんなことやるわけないでしょうと一夜に食ってかかれば、おっと夫婦げんかの始まりかとほのりが囃したて、それを少し離れたところで見ていた環は呆れ、陽菜はどうしたものかと困ったように笑っている。


「あはは……貴方達って本当に仲が良いわね、面白い」

 パチ、パチ、パチ。そんな馬鹿騒ぎを止めたのは誰かの拍手。振り向くといつの間にかそこに一人の少女が立っていた。

 真っすぐな黒髪、瑞々しい果実の様な唇、ピカピカになるまで磨かれた黒く丸い石の瞳、白百合の肌。身にまとっているのは赤いスカーフ鮮やかな黒のセーラー服。膝程までのスカート、その下から覗く足もタイツを履いている為に真っ黒だ。ローファーも黒。黒づくめ故に肌の白が際立ち、またその肌の色により衣服の黒が映える。妖しい、深い、人には決して明らかに出来ぬ程の闇を含んだ笑みは『本当の世界』で幾度となく見た気がする。だがそれを浮かべていたのはどんな人物だったのか、思い出せない。それはこの少女ではなかったはずだ。だが、しかし。さくらは何か引っかかりを覚えた。


(いや……この人とも私……どこかで会ったことがある気がする。どこだっただろう。こっち、それとも……向こう? そもそもこの人は一体誰? というかいつの間に……どうやってここに?)

 会ったことがあるような気はするのだが、確信は持てぬその娘の名前をさくらは知らない。そもそも自分達とどういう関わりがあるのかさえ分からなかった。そして彼女は間違いなく先程まではこの船の中にいなかった。出発から今まで一度もどこかへ停まってはいないはずのここに一体いつ、どうやって入ったというのだろう。しかしそういった疑問を抱いているのはさくらだけであるらしい。ほのり達は少しも驚いた様子なく、歓迎の笑みを彼女に浮かべるのだった。


「カサネさんじゃないですか、こんにちは! あ、ご飯一緒にどうです?」


「あら、ありがとう。それじゃあ遠慮なく……ああ、その前に食べたいものを持ってこなくちゃ。ただ皆が食べているのを眺めているなんてつまらないもの」


「あたしが代わりに持ってきましょうか?」


「いえ結構。自分で選ぶ方が楽しいもの」

 そう言って少女――カサネというらしい――は自分が食べたいものを物色しだした。その間にさくらはほのりの肩をちょんちょんと叩く。ほのりはさくらの顔を見て何を聞きたいか察したらしく、海より深いため息をついた。


「あんたってばなに、カサネさんのことまで忘れちゃったの?」


「あはは、えと、その、うん、そんな感じ、かな」


「呆れた! あの人はあれよ、神様よ神様。正確にいうと妖なんだけれど……この世界を作り給うた存在なんだから、神様とか創造主ってことでいいでしょう。私達を生み出したのも彼女。まあといっても全然偉ぶってないけれどね。様づけされると体中が何か痒くなるから呼び捨てか、さんとかちゃんとかにしなさいとか言うし、お友達感覚で皆と接してくるし。この世界を創ったすっごい存在って感じがしないのよねえ。ちなみにあんたがさっき気にしていた、あの原理もクソもない箱を創ったのもあの人よ。これだけ聞いても思い出せない?」

 ほのりの話を基に脳内検索をかけてみるが、何も引っかかるものはなかった。あんたやばい病気にでもかかっているんじゃないの、とか呆れながら色々言っているほのりの声は右から左へすうっと通り抜けていく。さくらの目も意識も、今はカサネという少女にしか向いていなかった。

 カサネという名に覚えはない。だが矢張りその姿には見覚えがある気がした。あれやこれやテーブルへと持ってくる彼女と目が合う。彼女はさくらを見て微笑んだ。その笑みに体の中を冷たい手でさっと撫でられたような気持ちになる。彼女の目は「貴方のことを私はよく知っている」と語っているように見えた。


 あれやこれやテーブルの上に持ってきて、一応満足したらしいカサネが要の右隣りに腰を下ろす。そしてそれを食べながら皆のお喋りに混ざった。といってもさくら達の漫才の様なやり取りにくすくす笑ったり、相槌をうったりしているのが殆どで、積極的に会話に加わるつもりはないようだった。どうやらコント、或いは劇を見るお客さん感覚であるようだ。決してこちらに興味がないとか、コミュニケーションをとるのが苦手であるとか、そういうことではない様子。実際話を振られれば、きちんと返してくれる。

 皆で美味しいご飯を食べながらしていた話の内容はあっちこっち、縦横無尽、滅茶苦茶ぐちゃぐちゃに飛んで飛んで、最近のさくらがいつも以上に変だというものへと着地。その話にカサネは随分興味を持ったらしく、えらく食いついてきた。そのせいでさくらの珍妙な言動、行動の数々が次々と暴露されまくった。


「この世にはここではない別の世界があって、本来あたし達はそこに住んでいた……なーんてそんな馬鹿げたことがありますかってんですよ。それなのにこの子ときたらもう……最近はますます狂っちゃっていて、お母さんはどうしたらいいのかさっぱりなんですよ! おーいおいおい」

 泣き真似をするほのりに「お前も苦労しているなあ……こいつの面倒見るのは大変だもんな、分かるぜ俺にもその気持ち」と一夜は同情し、環や陽菜は苦笑い。


「カサネさん、勿論世界というのは一つですよね? サクが語っているのは妄想の世界ですよね? この世に沢山の世界があるなんてそんなことないですよね?」


「そんなものあるわけない、わざわざカサネさんに確認するようなことでもないだろう。臼井の妄言をずっと聞いている内にとうとうお前までおかしくなりはじめたか」


「そんなわけないでしょうが! あたしだってあんた同様絶対的な自信を持っているわよ。でもあたし達が幾ら言ってもサクは聞く耳持たずだもの。この子の目を覚ますことが出来る人がこの世にいるとすれば、それはこの世界の創造主たるカサネさんただ一人だわ。ね、カサネさん言ってやってくださいよ! 世界は一つで貴方が言っているような世界はないし、皆生まれも育ちもこの世界に決まっているじゃないかって!」

 そうほのりに(それはもう必死な表情で)乞われたカサネは「あらあら」と呑気に笑いながらお茶をずずっとすすった。


「そんな風にお願いされても困っちゃうのよねえ。だって私も知らないもの、別の世界があるかないかなんて。だから私には……ええと、さくらちゃんだっけ? その子が言っていることを否定することは出来ない。もしかしたら本当に彼女が言うような世界があって、貴方達は何かをきっかけにそこから迷い込んで来たのかもしれない。流石に自分が創った生物全てを把握はしていないから、貴方達を生みだしたのが私かどうかも分からない。分からないから分からないって答えるしかないのよねえ。……個人的にはあり得る話だと思っているけれど。実はねえ、さくらちゃんみたいなこと言っている人に時々遭遇しているのよ、私」


「え……!?」

 その場に居た全員が予想外の発言に驚愕の声をあげた。皆の驚いた顔が余程面白かったのか、カサネはケラケラ笑う。さくらは詳しいことを聞こうと身を乗り出したが、カサネの「でも」という言葉がそれを止める。さくらへ突き刺す笑みは底意地が悪く、冷たく、妖しい。


「そういうことを言っているのは最初だけ。しばらくするとそんなこと全く言わなくなってしまうの。忘れてしまうのよ、全部ね。そんな『記憶』があったことさえも。貴方もそうなんじゃない? 前よりも『記憶』がぼやけてきているんじゃないかしら。ほのりちゃんや要君ももしかしたら忘れてしまっただけで、以前はここではないどこかの『記憶』があったのかもしれないわね」

 ほのりと要は顔を見合わせ、そんなことないないありえないと首を横に振った。


「絶対ないなんて言いきれないわよ。最初からなかったか、はたまた忘れてしまったのか。別の世界はあるのかないのか。証明する手立てなんてありはしない。まあ、別に証明する必要もないと思うけれどね。さくらちゃんもどうせいずれは皆と同じ様に、全てを忘れてしまうだろうし」


「忘れて、しまう……全部……」

 確かにカサネの言う通り、自分の『記憶』は随分とぼやけてきている。このままいけばいずれ何もかも消えてしまい、最初からこの世界の住人であったということを信じて疑わぬようになるだろう。『非常識』は『常識』に反転し、世界は異常性を失う。

 でも本当にそれでいいのか。

 

「……さくらちゃんは、戻りたいの?」


「え?」


「もし本当に貴方の言うような別の世界があり、そここそが本来貴方が住んでいた世界だったとして……貴方はそこへ戻りたい?」


「戻りたい……ええと……」

 突然の質問にさくらは困惑した。自分の記憶の中の『世界』が妄想の産物ではなく、本物だったら自分はどうしたいかなど今まで考えたことなどなかった。帰りたいか、ここにいたいか。突然の質問はさくらの思考を容易に止める。カサネはそんな彼女に畳みかけるように話を続けた。


「別に本来の世界にいなくちゃいけないって決まりはないと思うのよね。多分ここは『向こう』より愉快で、とっても楽な世界だと思うわ。苦しみなど何もなく、難しいことなど何一つ考える必要などなく、楽しいことをやりたいだけやれる。別れはなく、悲しみもなく、悠久の時をゆりかごに揺られながら過ごせる世界。ねえ、素敵なところでしょう? ここは。『向こう』のことなんて忘れてしまいなさいな。本来の世界を捨て、迷い込んだ世界で生きることを選んだってバチは当たらない。私はそんな無粋な真似はしないわ」

 その言葉が、声が、耳を通じて体へ入り込み、脳に染みこんでいく。

 染みこんでいった言葉はどうやっても洗い流すことは出来ず、さくらの中に残り続けるのだった。そしてそれは料理から味を消し、ほのり達の笑い声、話し声、船の中を満たす温もり、輝き、何もかもを遠くへと追いやってしまうのだった。



 美しい渓谷を臨みながら行く船。やがて前方に鮮やかな赤い光が見える。その光は鳥居の形をしていた。鳥居が赤く、赤く光っている。その暗闇に浮かぶ光の色は曼殊沙華を思わせる。ほのり曰くあの鳥居には曼殊沙華がみっしりと詰まっているのだとか。どうもここの世界の曼殊沙華は『光る』らしい。

 鳥居はずらずらと連なり、船はその下をくぐっていく。赤と赤の間から覗く紺の空の美しい。紺と紺の間に覗く赤の何と鮮やかなことか。


 紺と赤の無限とも思えるような夢幻のトンネルを抜けた先にあるのが鳥居の宿――のはずなのだが、船の終着地点には蛍の光に似たものを放つ花と、無数のそれに囲まれた石畳、緑青色の鳥居しかなく、建物らしきものが見当たらない。疑問を素直に口にすれば、ほのりに苦い顔をされた。彼女達二とっては何にも不思議なことではないらしい。あの鳥居をくぐれば分かる、という要の言葉に素直に従い、皆とぞろぞろ歩いて鳥居をくぐる。すると世界がぐぐっと明るくなった。

 辺りを見回せば赤い絨毯、蓮の花を模した灯り、剥き出しの梁、高い天井、頭が犬、その下は人間の、着物姿の男と女がいるカウンター等など。どうやらここは旅館のフロントらしい。全体的にレトロモダンな、そして高級感あふれる雰囲気だ。小豆色の着物を着た、気品あふれる中年女性(なお頭には日本の黄金の角が生えている)に客室まで案内された。心落ち着く素晴らしい部屋だったが、そこにいたのは僅かな間のことで、大宴会場へと移動していく。これから二次会なのだそうだ。あれだけ食べたのに(ここに着くまでに船に並んでいた料理はほぼ食べきっていた)、なお食べるかとさくらは困惑する。


「所変われば食べもの変わり、所変われば味も変わる。別の料理、違う味の料理が食べられるとなればお腹も空くものよ。それに大宴会場には他のお客さんもいるらしいしね、人も変われば会話も変わる。うんうん、最高じゃないの。むしろ本番はこれからよね!」

 とほのりはうきうきだ。まだまだお腹も喉も元気らしい。さくらも一人客室に残っていても仕方ないので皆についていった。金色の襖、金と紅の天井の豪奢な部屋にずらりと並ぶ料理、どうやらビュッフェ方式らしい。すでにそこには多くの人や妖がおり、飲み食いしながらわいわい騒いでいる。ほのり達は料理の並ぶテーブルに突進し、皿に食べたいものを食べたいだけ盛り、それを食べながらお喋りを始めた。さくらもそれに続いたが、結局ここに居たのはそう長くない時間だった。先程カサネに言われたことばかり考えてしまい、食事もお喋りも少しも楽しめなかったのだ。結局さくらは先に部屋へと戻ってしまった。


 喧騒から切り離されたところにある客室。ベランダに出て、少し冷たい位の風を受けながら目の前に広がる景色を眺める。宙にぷかぷかと浮かぶ、橙の灯りを抱くビー玉によく似た球体(大きさはサッカーボール位)、その間を縫う様に泳ぐ、翡翠色に光る鯉に似た魚はしゃんしゃんと鈴に似た音を出す。ぼうと浮かぶ、連なる、山々。澄んだ空気、紺瑠璃の空、銀色の月、きらきらと輝く星の何と美しいことか。幻想的なその景色はさくらが大変好ましいと思えるものだった。なのに、それを見てもどうにもすっきりしない。


(私はどうしたいんだろう……ここに居たいのか、それとも『本当』の世界に帰りたいのだろうか。『本当』の世界を捨てて、そんな世界があったことも全部忘れて、ここで面白おかしく過ごしていたいのだろうか)

 そもそも、自分が思う『本当』の世界というのは実在しているのだろうか。何度も、飽きる位さくらはそのことを考えてきた。しかしそうしてあれこれ考えることは前に比べれば大分減った気はする。また以前はもっとあれやこれや具体的に『思い出す』ことが出来ていたような気がするが、今はそれほどはっきりと『思い出す』ことが出来ない。自分がどんなことに違和感を覚え、指摘したのかも忘れつつあり、ほのり達の話を聞いて「そういえばそんなこと言ったような」と思うこともあった。そしてその事柄について考えてみるのだが、いまいちピンとこない。青蒼園や千石屋の一件だってそうだし、屋形船で見たあの箱のことなども数日後にはそれほどおかしなものとは思わなくなるだろう。

 『本当の世界』に関する何もかもがどんどん曖昧になっていくから、自信もなくなってくる。おかしいのは皆ではなく、矢張り自分なのではないかという考えが日に日に強くなっていった。いっそカサネが全否定してくれればすっきりしたかもしれないが、生憎彼女はそうしなかった。しかも自分同様『もう一つの、そして本来の世界』のことを『覚えていた』人間が幾人もいたという事実を今日知ったことで「やっぱりただの妄想とは言い切れないのでは」と思ってしまう。


 カサネはさくらの語る世界を否定しなかった。あってもおかしくないと言った。その上で彼女は問うた。

 貴方はどうしたいのか、と。その世界に戻りたいか、何もかも忘れてここで一生過ごしたいか。


(私は……)

 向こうへ戻りたい、という気持ちを自分の中に見つけることは出来ない。『記憶』がぼやけてきているが故に、そこに付随していただろう感情も殆どない。自分が『向こう』を好きだったか、そうでなかったか、分からない。

 一方で『ここ』は嫌いではない。むしろ好ましいと思っている。未だ戸惑うことは多いが、以前に比べれば強烈な違和感を覚えることは少なくなってきていた。諦めも混ざっているかもしれなかったが、それ以上に記憶が薄くなってきていることが大きいのだろう。

 ふう、と息を吐きながらここのことを考える。


(カサネさんの言う通り、ここは楽しい所だ。苦しみや深い悲しみなんてない。花石は毎日何もしなくても手に入る……確か『向こう』ではこんな簡単に花石は手に入らなかった。あれ、花石……向こうでも花石って言ったっけ……まあ、いいか。私は今こんなだけれど、本来ここはあまり難しいことを考えて悩むことなんてない世界だ。苦しむこともない、楽しくて、楽な世界。それにここには別れもない。ずっと櫛田さんや深沢さん、三笠君……ついでに一夜とかと一緒にいられる。皆と、大切な時間と、お別れするなんて嫌だ、そんなこと考えたくない。ここは良いところだ。陽だまりに包まれて揺れるゆりかごの中だ……私はここでずっとゆらゆら、揺られながら微睡んでいたい。ずっと……)

 ぐんぐんとさくらはこの世界に引き寄せられていく。目を瞑りながらされるがままになる。自分の意識がどんどんと『本当の世界』から離れていくのを感じたが、それを嫌なことだとは思わなかった。沈んでいく、この世界へ。このまま身を任せればいずれ『本当の世界』の全てを忘れ、ここで生きることに何の疑問も抱かぬようになるだろうし、見聞きするもの全てに違和感を覚えることもなくなるだろう。『ここの人』になって、ずっとずっとゆりかごに揺られながら幸せに、面白おかしく、楽しく、楽に皆と過ごす。悪いことなんて少しもない。


 駄目。

 さくらはぱっと目を開けた。再び自分の体は浮上して、宙ぶらりん。そのことにさくらは困惑する。向こうに帰りたいなんて気持ちはないはずなのに、ここでずっと暮らしても良いと思っているはずなのに、最後の最後でピタっと止まってしまう。駄目、と制止したのは紛れもなく自分自身だ。


(どうして駄目なんて思うのだろう。ここを捨ててでも戻りたい理由が『向こう』にあるのかな。そんな理由、あったっけ。ここにあるものより大事なものとか、あったっけ……)

 何故だろうと思っても何も浮かばない。それなのに、身も心も全てこちらに預けることを自分は拒否する。今の自分には見つけることの出来ない何かが、この身の内にあるのだろうか。


「あらあら、大分悩んでいる様子ね」

 突然の声にびっくりしながらさくらはバッと振り向いた。いつの間にか部屋の中に入ってきていたカサネがにっこりと微笑む。部屋は灯りがついていて明るいはずなのに、いやに暗く見える。カサネの装いが黒づくめだから、いや違う。恐らくその暗さは彼女の纏う目に見えぬ、だが確かにそこにある黒く歪なものによるものだ。そしてそれは静かに伸びてさくらの心臓を掴み、体をその場に縛りつける。さくらをそうしておきながらなお微笑む彼女は酷く恐ろしい、だがとても美しい。気づいた時にはカサネはさくらのすぐ目の前まで来ていた。


「大いに迷ったり、悩んだりする姿ってここではあまり見ないから、少しの間見ている分には面白い。でもすぐ飽きちゃうわね。難しいこととか考えず、愉快に好き勝手に生きる姿を見ている方が私は好きよ。これは全然飽きないわね。だからこそこの世界は比較的楽に生きることが出来るようになっている。向こうに比べればここは極楽でしょうよ」


「向こう……?」


「私、嘘を吐いたわ。別の世界があるかどうかなんて分からない、貴方達を創ったのは自分なのか或いは違うのかなんて分からない――さっき私は貴方達にそう言ったわ。でも、あれは嘘」


「え、嘘……? そ、それじゃあ」

 カサネは笑みを崩さぬままさくらを指さした。


「貴方がいう『世界』は実在する。そして貴方達は間違いなくその世界の住人。でも貴方達はここへ迷い込んできたわけじゃない。私がね、ここへ連れてきたの。……私の本当の名は、別れ重ね。名前というべきか、種族名というべきか……多分私だけしかいないから、勝手にそう名乗っているのだけれど。私は別れに別れを重ねる者。故に貴方達は今ここにいる」

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