別れがさね(4)
その夜佳花は夢を見た。それは昔実際あった出来事の夢だった。彼女はその夢の中で小さな部屋の中にいた。机と椅子、ホワイトボードと本棚が殆どをしめる部屋で、自分以外に三人の人間がお世辞にも綺麗とは言えない椅子に座っている。四人は机の上に散らばっている本やプリントを眺めながらぺちゃくちゃと喋っていた。
――新入部員、来るかなあ。来ないとよっちゃん一人になっちゃうよ――
――誰か入ってくれないと来年の人数次第で廃部になっちゃうからなあ。それだけは避けたいところだし、美吉さんを一人残して卒業なんて出来ないわ。まあでも大丈夫、いざとなればこの私がわざと留年してもう一年いてあげるから!――
――なに馬鹿なこと言っているんだあんたは――
そんなやり取りを聞きながら佳花はくすくすと笑う。三人は佳花の先輩で、現・三年生。だから来年の今頃にはもうこの部屋にはいない。来年には先輩達がいなくなってしまうなんて、信じられない。彼女達はずっとここにいるような気がしてならなかった。けれど彼女達とは約一年後にはお別れしなくてはいけない。今はまだ、そのことを考えたくはない。
佳花はちらっとドアの方を見る。今のところそこをノックする音は聞こえない。この仮入部期間中に一年生が誰も来なければ、本入部も厳しいだろう。また期間内に誰か来たとしてもそのまま入部してくれるとは限らない。もし誰も来なかった場合は佳花一人になってしまい、来年度も誰も入ってこなければ部の存続はほぼ不可能になる。それはとても悲しいことだ。
胸の中は不安でいっぱいだ。誰か入部してこないだろうか、来たとしてその人とは上手くやっていけるだろうか、先輩達のいなくなった文芸部は変わらず自分にとって大切な場所であり続けるだろうか。ああいっそ時間なんて止まってしまえばいい。誰も去らず、誰も来ない世界で変わらぬ日々をずっと過ごしていたい。
そんな不安な時にドアをノックする音が聞こえたものだから、心臓がびりっと破けたような思いをした。
ばくばくする心臓をどうにかして落ち着けながら佳花は改めてドアの方へと目を向ける。先輩達もおやおや誰か来たようですぞ、という顔をしながら変わらず談笑していた。変にしいんとしてしまうと来訪者を緊張させてしまうと思ったのだろう。一応部長が「どうぞ」と入室を促す。
失礼します、という声と共に開かれたドアの向こうには女生徒が二人。ドアを開けた方の子はさばさばした感じの少女で、その後ろに隠れるように立っているのは、最近見かけないような大きな眼鏡をかけた、あまり手入れしていない為かぼさっとしている髪の少女だった。不安と緊張でいっぱいの顔をしていたその子がふとこちらへと視線を向ける。佳花はにこりと微笑んだ。彼女を、そして彼女と同じような思いでいる自分を安心させる為に。それを見た瞬間、その少女の表情が変わった。
嗚呼、自分はここできっと上手くやっていける。そう言っているかのような、安堵の表情。そしてその表情が佳花の気持ちをも変える。
きっと大丈夫だ。私はここで、この子達と上手くやっていける。今までとはまた違う、でもとても愛しい時間を紡ぐことが出来る。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。
そう一瞬の内に確信した佳花は「いらっしゃい」と二人の訪問者に――遠くない未来自分の後輩になる少女達に向けて改めて温かな笑みを浮かべ、ここへ来てくれたことを歓迎するのだった。
そしてその夢は覚醒という消しゴムによって一瞬にして消え去り、だがそのカスは佳花の奥の奥に沈み、残るのだった。
*
「ない……見つからない」
ため息をつく佳花の前には赤のノートパソコン。山奥にある屋敷だがネット環境は整っているし、携帯も特に問題なく使うことが出来るし、TVもある(但しこれは世間の情報を集める為だけに用いるようにしている。また、TVの使用を許可されているのはごく一部の者だけだ。そうしないと妖達の玩具になってしまうし、騒動の原因になりかねないので)。但しこれらを使えるようにする為の契約諸々からこの屋敷の存在が漏れることはない。そうなるようにしているのだ。また、よりよい環境を整える為に異界の者の手がちょっとばかり加わってもいる。
画面に映っているのは舞花市にある工業高校のHP。名前は一応聞いたことがあったが、校舎や教室の写真を見てもピンとくるものはない。
実際に自分が三年間通っていた学校は姫荻高校ではなく別の高校だった。自分のその考えが気のせいでもなんでもないなら、その別の高校とは何高校だったのだろう。もしかしたら名前や写真を見れば分かるかもしれない、そう思い佳花は舞花市内にあるありとあらゆる高校のHP、名前を検索して出た写真や情報を見て回った。しかし結果は芳しくない。舞花市だけでなく近隣の街にある高校の名前なども見たが、矢張りどうしても「これだ!」というものに出会うことはなかった。そしてこの作業を進めれば進めるほど、やっぱり自分が三年間通っていたのは姫荻高校だったのではないかという思いが強くなってくる。
そもそも妙な、そして強烈な違和感を覚えていたのは昨日だけだ。それだって宴の最中はそのことなどすっかり忘れていた。今日もお昼前になってようやく思い出したレベルで、かつ昨日程強い思いではない。佳花は姫荻高校のHPを開き、そこに掲載されている写真を見た。写る校舎、教室、行事の様子――懐かしい、学び舎の姿。別の高校の写真を見ている時とは違い、温かい思いが胸の中にすうっと流れ込んでくる。そして次から次へと脳内に現れる高校三年間の思い出。
(……記憶が書き換えられているかもしれない、そんなことを今は殆ど思わない。私の中にある記憶は、私に今とても馴染んでいる。姫荻高校で過ごした日々のことを疑っていた昨日の自分が信じられない位だ……)
机の上に置いてある写真立てを手に取り、そこに入っている写真を眺める。今はその写真にそれほど違和感を覚えないし、すうっと浮かぶ思い出の数々は疑いようもなく何もかもが本物であると思えるのだ。おかしいのはこの記憶ではなく、昨日の自分だったとしか思えない。
そう思っているなら、高校のHP巡りなど時間の無駄遣いで何の意味もないはずだ。それなのにどういうわけか佳花はマウスを動かす手を止めることが出来なかった。もう何度見たかもしれぬ校舎の写真を見ては矢張り何も感じられない、ここは違う、とため息をつく。見れば見る程自分が通っていたのは姫荻高校で間違っていなかったのだという思いが強くなる。
(鈴鹿さんは昨日のことをどう考えているだろう。栄達や安寿にもそれとなく話を聞いてみようか)
そう考えて一旦パソコンを閉じようと手をかけた瞬間「姫さんお邪魔しますよ」という男の声が背後から聞こえた。はい、いいえという間もなくその人物は障子戸をばっと開けた。隣に彼の主が立っていたなら瞬時に「勝手に開けるんじゃない」と頭を叩かれていたことだろう。佳花を尋ねてきたのは細身の男で、今日は樺色の着物に鶯色の袴姿だ。常にニコニコ笑っているが故に、本心では何を考えているやら全く分からぬその男の名は修羅といい、鈴鹿の従者である。
「やあやあ姫さん、調べものかい? もしかして、昨日うちの鈴鹿姫様に話したことに関係していたり?」
佳花がそれを聞いて目を見開くと、修羅は慌てたように手をぶんぶん振る。
「あ、姫様が勝手にぺらぺらと喋ったわけじゃあないですよ。ちょっと様子がおかしかったから気になって僕が無理矢理聞き出したんです。もっとも、今は昨日のことなんて何もなかったかのようにケロっとしていますけれどね。実際僕が尋ねたら今の今まで忘れていたって言うし、昨日話したことは全部気のせいだったと思うって言うし」
修羅の話を聞く限り、鈴鹿も今の自分と同じような状態であるらしい。修羅は障子戸を閉め、さも当然のように佳花の前に座る。何か話したいことでもあるらしい。とりあえず佳花は昨日から今日までのことについて彼に話して聞かせた。修羅はうんうんと相槌を打ちながらその話を聞き、それが終わってから口を開いた。
「じゃあ佳花姫さんも今の姫様と同じ感じか。自分達が通っていたのは姫荻高校ではなかったというのは勘違いだったと、今ではそう思うわけですね」
「……そう――思っているのだと思います」
最後には『何の意味もない』と思い、だがやめることが出来ずにいた作業。背にあるノートパソコンをちらっと見やる。もう中断しようと先程まで考えていたはずなのに、この後またもう少しやってみようかという気持ちが小さな泡となり、浮上してくるのを感じた。もし、もし勘違いなどではなかったらどうしよう、取り返しのつかないことになってしまうのではないか、という思いが剝がしきれなかったシールの様に心にへばりついているのかもしれない。修羅はあごの辺りに手をやりながら、自分の考えを述べる。相変わらず敬語とタメ口がぐちゃぐちゃに混ざった喋り方だが、内容はいたってまともである。
「ふうむ。記憶が塗り替えられているかもしれないと思っていた時の方がおかしかったのか、違和感を殆ど覚えていない今の方が実はおかしいのか。今持っている思い出の数々は本物か、偽物か。現段階では判断に困りますねえ。ただまあどちらにせよ、妖なりなんなりの力が作用した結果である可能性は高そうだ。ずっと前にあった、些細なことだったら記憶も曖昧になるでしょうが、つい昨日まで通っていた高校のこととなれば話は別だ。記憶の細かい部分はまあともかく、学校やクラスメイト、後輩の名前とかが速攻で曖昧になるなんてことはまずないでしょう。そりゃあ人の頭って時々想像も出来ないようなことをしちゃうことがあるけれど。姫さん一人だけではなく、複数人が同じような状態に陥っている可能性が高いとなると、ねえ」
「複数人……? もしかして私と鈴鹿さん以外にも、いるのですか?」
あくまで可能性ですが、と修羅は言う。どうも彼はそのことについて佳花に話したいことがあり、この部屋を尋ねてきたらしい。知っていることがあれば何でも話してほしいと佳花が身を乗りだし懇願すれば、言われなくても最初から話すつもりだったと修羅は苦笑いする。
「昨日おつかいを頼まれて街へ行った時のことなんですがね……まあおつかい自体はさっさと終わったんで、ちょっと一休みしようと思って珈琲ショップに入ったんです。通路を挟んだ隣のテーブルにはその日学校を卒業したらしい女子高生が座っていて談笑していました。姫さんとは違う学校の生徒さんでした。彼女達はしばらくの間高校三年間の思い出を楽しそうに語っていました。僕は抹茶オレを飲みながら、まあBGM代わりにその会話を聞いていたんです。卒業して皆と別れる寂しさが、笑い声や話し声の中に滲んではいましたが、基本的にはそりゃあ楽しそうで、幸せそうでしたよ。……ある時まではね」
嗚呼ここからが本題なのだ、と佳花は思った。実際その通りで話す声のトーンが下がり、いつもより少しだけ真剣な雰囲気になった。
「その中にいた女子の一人がね、急にこんなことを言ったんですよ。『ねえ私達、本当に友達だったんだよね』って。他の三人はぽかんとしていましたよ。何となく会話を聞いていただけの僕だって、一体何を言いだすのだと思わずそっちの方を見てしまった。だってそんなことを言いだすような話の流れじゃなかったですもん。しかもその子の顔は真剣で、冗談で言っているようではない。いやあれは真剣というか不安げだったと言った方が正しいかもしれないな」
その女子は「は? 何言っているの? 当たり前じゃん、いきなりどうしたの?」と問う友人達に対し、自分は何々高校の生徒ではなかった気がするとか、この制服を着ている自分に違和感を覚えているとか、皆と友達だった気がしないとかそんなことを言ったという。皆と思い出を語れば語る程、ボタンを掛け違えた世界に自分はいるんじゃないか、そんな気持ちが強くなっていったそうだ。
「それを聞いた三人は怒りだし、その子を酷く責めました。そりゃあそうでしょうね。自分達は友達ではなかったと言われて、思い出も否定されて、折角の楽しい時間をぶち壊されたわけですから。責められた子は場の空気を悪くしたことを謝りながらも、やっぱりそれでも違うんだ、考えれば考える程自分の中の記憶がボロボロになって崩れていくんだ、本当の自分の居場所はここじゃないんだと主張する。そしてああだこうだ言っている内に段々涙声になってきてね、とうとう泣きだしてしまった。自分の記憶がおかしくなっていることに恐怖し、また混乱したのでしょう。そして他三人の彼女を責める声も段々弱弱しくなっていって、最後には皆で大泣きですよ。どうも彼女達も自分の記憶に自信が無くなっていったらしい」
自分達は三年の間、数え切れぬ程の思い出を作っていったはずだ。だがよく考えてみると、色々と誤りがある気がしてくる。自分達が作り上げた思い出の中にいなかったはずの人がいる、或いはいるはずの人がいない気がする。思い出を作った場所が違ったり、誰かと作った思い出が別の誰かと作ったものということになったりしている。全てが偽物ではなく、だが全てが本物でもない。どこまでが本物でどこまでが偽物か分からず、考えれば考えるほどもう全てが偽物なのではないかと思えてくる。絶対という言葉が自分の中から消え、自信はなくなり、残るのは恐怖と不安。昨日の佳花もそんな気持ちに苦しんだものだ。
「そんなこんなでお隣さんは見事お通夜みたいな空気になってしまって……そんなものにあてられながらお茶なんてやっていられないから、僕はその店を後にしました。そこで終わっていたらここへ帰ってくる頃には忘れていたかもしれない。でもそれだけでは終わらなかったから僕は今もこうして覚えている」
つまり店を出た後も同じ様な出来事に遭遇したということだ。
「高校時代の思い出を語っていた男子高生とか見かけたんですけれどね、何か一人だけ『そんなことあったっけ』とか『何か違う気がする』とか言っている子がいましたっけね。他の子が話していること――部活とか、授業とか、先輩後輩とか――全てに納得いっていない感じ。しまいに『そうじゃなくってこうだったような気もするんだけれど』って他の子とは全然違うことを話しだして。まあ最終的にはやっぱり皆の言う通りかあって感じになっていましたね。同じ高校に通い、同じ部活に所属していたっぽいのにお互いの話が全然嚙み合っていない子とかもいたなあ。式終わった後のことを一切覚えていない子とかもいたねえ。卒業式を今日やった気がするんだけれど、なんて言っていたのもいた。どうも実際はやっていないらしいんだよね、その子の通っている高校では。後はショーウインドウに映る自分の姿を見て『この制服なんか初めて着た気がするんだよね』って言った女子高生とか。それからちょっとした暇つぶしに奥様方の井戸端会議に混ざったんですがね……その内の一人の、卒業式を迎えた高校生の子供のことを話している時の様子が妙でね。まるで自分が話している内容に違和感を覚えているような感じで、首を傾げたり眉をひそめたり、話した後唸ったり」
しまいに「自分の息子が通っていたのって本当に何々高校だっけ?」などと言いだし、それを聞いていた奥様方は「合っていると思うけれど」と口にはしていたが、微妙に自信がないように見えた。こんな状態の人と何人も遭遇する内、流石の修羅も「何か妙なことが起きている」と思ったらしい。
「人間にしても僕達にしても生きている間に多くのことを覚え、そして忘れていく。自分の都合の良いように記憶を書き換えたり、部分的に忘れて記憶が虫食い状態になったりすることだって別に珍しいことじゃない。自分の記憶に自信が持てないことだってあるさ。でも昨日僕が見かけたり、話したりした人達の様子はそういう言葉じゃ説明出来ない感じだった。で、これは何かが起きているって思いながら屋敷へ帰ったら、うちの姫様の様子が変だ。まさかと思って問い詰めてみれば、案の定だ」
ただ鈴鹿から話を聞いたのは宴の直前だったし、佳花から皆を心配させて宴を台無しにしたくないから、この件については今は保留にしておきたいと言われたと鈴鹿が言っていた為、修羅も昨日は何も言わずに宴を楽しみ、今日こうして佳花の部屋を訪ねたそうだ。
「印象としては、記憶に何らかの障害があるのは高校生やその親に多い感じ。その障害が起きている部分っていうのは、主に自分或いは子供が通っていた高校に関すること。他にも自分にはお姉ちゃんがいたはずだって主張する子供と、いや一人っ子だと言う母親も見かけたっけね。その幼い子はお姉ちゃん――話を聞く限りどうも高校生らしいんですがね――が自分には居た、絶対に居たって言い張るんだ。けれど名前とかより詳しいことを尋ねると覚えていないという。で、母親に色々聞かれる内段々自信がなくなってきたようで、最終的にはやっぱりいなかったということになっちゃった」
「今回起きた何らかの出来事……そのキーワードは『高校』……?」
「残念ながら断定は出来ませんね。もしかしたら自分が通っている小学校や中学校に関する記憶が変になっている小中学生もいるかもしれませんし、高校云々関係ない――別の普通なら忘れたり曖昧になったりすることはないはずの記憶がおかしなことになっている人もいるかもしれない。そしてどれだけの人間の記憶に異常が発生しているかも不明。更に更に、さっきも言った通り昨日と今日、どっちの姫さんが『正常』な状態なのかも不明」
妖か何かの力により、間違いなく自分が通っていたのは姫荻高校だったのに何故か「自分が通っていたのは違う高校だった気がする」と自分の記憶が間違っているような感覚に陥ったが、翌日になって効力が切れた為に元通りになったのか。それなら今こそが正常な状態であるのだろう。本物の記憶を偽物だと思い込ませ(それが原因で記憶の捏造もしてしまう)混乱させる妖はいるにはいる。
逆に本当は姫荻高校の生徒ではないのに、姫荻高校の生徒だと思い込んでいる可能性もある。だとすれば昨日の佳花の方がまだ正常だったということになる。昨日は作り替えられた記憶に違和感を覚えていたが、自分に作用している力が段々強くなった為にそれほど変だとは思わなくなってきている。記憶を作り変えてしまう力を持った者だって全く存在しないわけではない。
今が正しいのか、それともよりおかしくなっているのか。
「姫さんが持っている制服は間違いなく姫荻高校のものなの?」
「はい。卒業アルバムは式の前日に貰ったのですが、こちらも姫荻高校のものでした」
佳花は机の傍らに置いていたアルバムを手に取った。表紙には『姫荻高校』という文字がある。修羅に渡すと彼はそれを「ふむ」と言いながらぺらぺらとめくる。
「そういえばこんな学校だったっけね。あれ、こんなだったっけ? って感じはしないね。もっとも僕は昨日も『そういえば違う気がする』って気持ちにはあんまりならなかったけれどね。ぶっちゃけ僕にとってはどうでも良いことだし。それにしても……制服や卒業アルバム? だっけ? こういうものは姫荻高校のものなのか。それならやっぱり姫様が通っていたのは……けれど今こうして持っているのは、本当は別の学校のアルバムって可能性もないとはいえない。制服だって別の高校のものだけれど、姫荻高校の制服に見えてしまう……みたいな。うちの姫様が消滅を防ぐ為になんとかちゃんって子の存在を奪った時の様に。実際にいるのはなんとかちゃんなのに、皆の目には『安達鈴鹿』という全く違う姿をした少女が映っていた」
実際に見ているのはAなのに、Bであると認識してしまう。その可能性もないとはいえないから、制服や卒業アルバムが姫荻高校のものだからといって、自分が三年間通ったのが姫荻高校ではあるとはっきりと言えない。
「しかし仮に母校が姫荻高校でなかったとしたら、姫さんが実際通っていたのは何高校なんですかねえ。本当は今まで調べてきた中に正解のものがあるのに、力の影響が強くてピンとこないのか。それとも、今その学校自体がこの世に存在していないのか……」
「存在、していない……一番考えたくない可能性です」
膝の上に置いた手を固く握りしめる。何らかの力により自分が通ってきた高校の存在自体が消滅し、最初からこの世に存在しないものとなり、人々の記憶から消えた。そして本来通っていた高校を抹消された生徒達は記憶を書き換えられ、最初から別の高校へ通っていることになった。もしかしたら昨日修羅が遭遇した子達は、本来は自分と同じ何とか高校に通っていた生徒だったのかもしれない。
そんな普通なら『あり得ない』こともありえるのがこの世界だ。異界のことや、妖などの存在を知っている者にとってこの世というのは何が起きてもおかしくない所である。
もしそうだとしたら、と佳花は机の上に飾られた写真を見た。微笑む自分の周りにいる文芸部の後輩達。彼女達も本当の後輩ではなく、胸を満たす愛しさも作り物――いや、本来は別の人達に対して抱いていたものなのかもしれない。嗚呼この愛しい気持ちを自分はどんな子達に向けていたのだろうか。思い出したい、でも頭に浮かぶのは目の前の写真に写る子達だけ。矢張り『本物』は彼女達なのだろうか。
「ただそうなると、あのちっちゃな子供が居ると主張していた『お姉ちゃん』ってのは……? 学校だけでなく、人間まで何人か消えちゃっているのかなあ。それとも今は別の家の子供ってことになってしまっているとか? うーん、それとも別件? そもそも学校自体が消えちゃったってのも根拠のない仮説にすぎないからなあ。やっぱりここで色々喋っているよりも、街へ出てあれこれ調べた方が良いかもしれないなあ」
それには佳花も同意だった。実際自分もそうしようと考えていた。街を歩いたり、人から話を聞いたりしたところで手がかりが掴めるとは限らないが、それでもここで延々とパソコンとにらめっこしていても何にもならない。
けれど自分は、自分は本当に……。
「姫さんも今回の件を『昨日の自分がおかしかっただけだ』って言葉で終わらせるつもりはまだないのだろう? そんな顔しているもの」
「はい……恐らくは。けれど私、何だか自信がないんです。失ってしまったかもしれないものは本当に私にとって大切なものだったのだろうかと。大切だったはずです、とても愛しいものだったはずです……けれど私は宴の間、何もかも忘れていました。思い出したのは随分経ってからで、しかも宴の前ほど気にはならなくなっていて……今だって納得出来るまで調べなくてはいけないと思う一方で、もういいかなという気持ちにもなっている。色々書き換えられている可能性はあるかもしれない、けれど私はこれを本物の記憶だと感じている。それなら、今これを『本物』と感じているなら、もうこのまま何も調べず放っておけばいいのではと。そうすればとても楽ですもの。そう考えてしまう自分が情けなくて仕方ない」
そんな風に「もういいや、あれこれわざわざやらなくても」と考え、僅かなもやもやも全部切り捨てて楽になりたいと思ってしまう。パソコンを操作している時、何度もそんな考えが脳裏に浮かんだ。本当に大切なら、そんなことを考えるだろうか?
それほど大切ではなかったのかもしれない。代わりになるものさえあれば、別に良いものだったのかもしれない。そうだったとしたら自分の『大切』の、なんと薄っぺらいことか。
だらだらと学校のHP巡りを続けていたのも、もしかしたら本当はわざわざ山を下りて色々調べるのが面倒くさい、そこまでして調べることはでない、という考えがあったからなのかもしれなかった。
佳花の乱れる心を、修羅は黙って聞いていたが最後まで沈黙を貫いたわけではない。口を開いた彼の声はいつになく優しげだった。
「姫さんにとってはやっぱり大切なものだったんだと思うよ、だからこそ昨日自分の記憶に疑問を持ったんだと思う。僕はさっきも言ったけれど、昨日自分の記憶にさして疑問を抱きはしなかった。ほんのちょっとだけ違和感はあったから、姫さん達同様何らかの力の影響を受けている可能性は高いけれど、大したもんじゃあない。だって僕にとっては、うちの姫様が騒動を起こした学校のことなんてどうでも良いことだったから。最後の舞台だったあの高校が何高校でも、姫様が特別親しくしていた女の子が誰でも関係ない、関係ないからどうでも良い。僕にとって必要なのは姫様、後はまあ一応羅刹だけ。それさえあれば、後は知ったことじゃない。どうでも良い部分が書き換えられた、もしくは書き換えられたように感じさせられたところで、ねえ?」
どうでも良くないから、自分の中で多くを占めていたものだったからこそ、昨日佳花や鈴鹿、その他の高校生等は自身の記憶に疑問を抱いたのだと修羅は言いたいらしい。
「栄達爺さんとかにも昨日それとなく話を聞いてみたけれどさ、僕と似たりよったりの反応だったよ。彼等にとっても大切なのは姫さんだものね。それに僕達は姫さん達ほど学校と接点があったわけでもないしねえ。段々ともやもやが薄れていったのは、単純に力の影響が段々と強くなっていったからってだけの話だと思うよ。記憶が本物だったとしたら逆に効力が薄れて正常な状態に戻っていったってところかな。今日がより力の影響を受けているのか、ほぼなくなった状態にあるのかは分からない。どちらにしても、もう本来今日なんかはそのことについてあれこれ考えることはないんじゃないかな。けれど姫さんは考える。もう放り投げようと考えながらも、必死にもがき続けている。それはきっと、大切だからだよ。簡単に『もうやめた』って放り投げたくない位に。姫さんはちゃんとした答えが欲しいんだ。納得が出来る答えが見つかるまで、甘い誘惑に抗い続けている。僕はそう思う」
もうすっかりタメ口ばかりになっていたが、その分飾っていない言葉に聞こえた。彼はすうっと立ち上がると、まだ自信を失ったままの佳花に手を差し伸べる。
「最後までやりきろうよ、姫さん。多分今の内にやりきらないとどうにもならなくなる。ここで全て放ってしまうのは楽だけれど、きっと姫さんはそれを心から望んではいない。何なら僕も少しだけ手伝って差し上げますよ。姫さんには一応それなりに恩を感じてはいるし、うちの姫様も口では『昨日のことは気のせいだったかもしれない』とか言っていたけれど、何だか納得いかないって顔していたし。でももし姫さんも姫様も僕に何も求めないなら、僕も何もしない。僕にとって今回の件はどうでも良いことではあるからね」
「私は……」
自分はどうしたいか。差し伸べられた手を見つめながら佳花は考える。このままではいけない、という気持ちとこのままでいいやという気持ちが自分の中でせめぎあっているのを感じる。こんな風に悩むことではないはずなのに、と修羅の言葉を聞いて尚自分に絶望した。それでも最後には一方の気持ちが勝った。
「私は、このままで終わらせたくないと思っています。昨日の自分がおかしかったのか、今の自分がおかしいのか。何が原因でこのようなことになったのか、きちんと調べたいです。今の内にやらなければこの気持ちさえ消えてしまう。それに私は妖姫です。今回の件は自分だけの問題ではありません……自分のことばかり考えて、それを失念していました。もし妖が人間に何かしたというのなら放っておくわけにはいきません」
そうこなくっちゃ、と修羅はその答えを聞いて満足げに笑った。是非力を貸してください、と伸ばした佳花の手を掴んですうっと立たせる。そして二人は今回の件について色々調べる為に山を下りた。
*
山に下りた二人は二手にわかれ、それぞれ調査を開始する。また屋敷に居た中で酒に酔いつぶれていたり、ぐうすか眠りこけたりしていない妖数人には桜町や三つ葉市の調査をお願いした。何らかの異変が起きたのが舞花市だけとは限らないからだ。ひとまず修羅と別れた佳花は姫荻高校へと向かった。三年間通い続けた道に違和感はなく、記憶が曖昧で遠回りをしたということもなかった。また日常に組み込まれていたこの道も、少しずつそれから外れていくのだと思ったら寂しい気持ちになる。帰り道に時々寄っていた店の人と話をしたが、佳花が姫荻高校の生徒であったことをおかしいと思っている様子はなかった。姫荻高校の校舎を見れば、数々の思い出が次から次へとよぎっていく。そしてその思い出は間違いなくこの高校で作られたものであると感じた。ここ以外で勉強をし、部活動に励み、新入生を迎え、卒業した自分の姿などまるで考えられない。
(妖の気配は……特にない。学校に何かされているという感じもない。もっともこの辺りは確実とはいえないけれど。出来れば校舎の中に入りたいところだけれど、流石にそこまでは難しいわね)
手続きをとれば不可能ではないものの、昨日卒業したばかりの生徒が特別な理由も(実際は一応あるのだが)なく校内に入るのは厳しいように思える。部員に話を聞くにも今は授業中。それなら放課後、部室に顔を出す……のも、何だか気まずい。ある程度の月日が経ってから顔を見せるならともかく。彼女達には後でメール辺りを通じて話を聞いてみることにして、ひとまず姫荻高校を後にする。
次に佳花が向かったのは一軒の古本屋。路地裏にある小さな店は本棚でいっぱいで、通路は非常に狭く、人一人通るのが精いっぱいな位だ。そんな店の奥にいるのはハリネズミの様な頭にあずき色作務衣姿の、目つきの非常に悪い中年女性。いや、外見は中年だが実際はそれよりもずっと歳を重ねている。つまるところ彼女は妖であった。佳花に付き従う者ではないものの、困った時など何かと手を貸してくれる。遊盤の一種で一人遊んでいた彼女は佳花の呼びかけに顔をあげた。
「おやおや佳花姫様。何か用か」
「こんにちは、ひさえさん。実は昨日からちょっと妙なことが起きているようで……」
そこから佳花は今までの経緯を彼女に話した上で、何か昨日変わったことはないか聞いてみる。彼女は一日中店の中にこもっているわけではなく、時々店番を奥でごろごろしているであろう夫(ちなみに人間だ)に任せて外へ出ることがある。だからその時、今回の件に関係するような何かを見聞きしているかもしれなかった。
「ふうむ。あ、そういえば昨日外をフラフラしている時にちょっとばかり気になる妖の小娘と会ったな。長い髪に黒いセーラー服……黒いタイツを履いていて、なんか黒づくめだったっけね。見た目は佳花姫様と同じ位だった。ある程度隠してはいたが、多分それなりに強い力の持ち主だな、あれは。学校巡りをしているとかなんとかって言っていたっけ」
「黒いセーラー服姿……黒い髪……」
何かその特徴に引っかかるものを感じる佳花だった。つい最近そんな格好の誰かを自分は見た気がする。それも極めて重要な場面で。だがどこで見たのか思い出せない。心臓が嫌な音をたてるが、その音が記憶を呼び覚ますことはなく。
ひさえ曰くそのセーラー服はこの辺りの学校のものではなかったという。
念の為彼女は自分の針のような毛を抜き、少女へとつけた。その髪を通じて、ひさえは少女の動向を追った。髪の存在に少女は気づかなかったか、気づいていながら敢えて放置していたか、どちらかは不明だが効力が切れるその時までひさえは彼女のとった行動の数々を見ることが出来たそうだ。
「映像を見た限りでは、特に悪さはしていなかったな。あちこちの街の高校に侵入して、卒業式の最中とか終わった後とかの様子を眺めていただけだ。何故かは知らんが、卒業式があった高校だけに忍び込んでいたね。まあそれだけだったから、まあいいかと放っておいたんだが。ただ何かもやっとするんだよなあ……もしかしたらこの情報、正しいものではないかもしれないね」
「ひさえさんも何らかの干渉を受けたかもしれないってことですね。本当にただ卒業式の様子を眺めていただけではないかもしれない。記憶の障害を起こさせていた、あるいは起こさせている妖というのがそのセーラー服の少女だとしたら、見ていただけということはありえない……それにしても何故卒業式のあった学校にだけ忍び込んだのでしょう」
卒業式、黒づくめの妖。この二つのキーワードを繋げるような存在を、佳花は知っている気がした。ところがどうにもその存在のことを思い出せない。考えれば考える程頭の中にかかる霧は濃くなった。それはひさえも同じようだった。もしかしたら少女が何かしたのかもしれない。
「その他にあったおかしなことといえば、プリンかな」
「プ、プリン?」
「この店の常連客がさ、昨日プリンをあたしにくれたんだ。一個間違えて余分に買ってしまったんだって。間違えたってなんだって聞いたらさ、どういうわけか自分の家は五人家族だった気がしたから五個買ったって。でも実際は四人家族でね……家族が何人いるかなんて普通間違えないだろう。物忘れが最近酷くなっている人ってならまだしも、彼女の場合そんなことはなさそうだし。これももしかしたら今回のことに関係しているかもしれないね」
とりあえずこの店で得られた情報はこれ位のものだった。だが怪しい少女の情報が得られたのは大きい。佳花はひさえと別れ、調査を続けた。舞花市には人として暮らす妖、人間ではあるが『向こう側』と何らかの関わりを持っている者が幾らかいる。何か困ったことがあった時はそういった人達に力を貸してもらうことがあった。佳花はとりあえずあちこちを回り、彼等から話を聞いた。残念ながら目新しい情報はなかったが、黒いセーラー服の少女や、記憶の障害が起きているらしい人達の目撃談は幾らか聞くことができた。
自分は本来違う学校へ通っていた気がするとか、交友関係に違和感があるとか、そういうことを言っているのは大抵高校生らしかった。それ以外の人の場合、いるはずの人――家族或いは友人――がいない気がする、誰かのことを忘れている気がするという感覚に陥っていることが多いようだ。ただそういう旨の話を聞いたのはほぼ昨日のこと。今日はあまりそういう話をしている人はいないようだ。まだ時間的にそれほど街中に出ている高校生が多くないから、というのもあるのだろうが……。
セーラー服の少女の姿も今日は誰も見ていないらしい。それはこの辺りで今日卒業式の学校が無いことが関係しているかもしれなかった。
情報を共有する為、修羅や桜町、三つ葉市等の調査をしている妖達と連絡をとる。その為に用いたのは携帯電話――に見た目を似せた通信機で、所持者の霊力或いは妖力を動力源としている。
『ああ、その妖の話なら僕も今日聞きましたね。そのセーラー服の美少女ちゃんと話をした妖がいたんですが、なんか『腕試し或いは実験』をしているとかなんとか言っていたらしいです。詳しいことは話してくれなかったようだけれど』
「腕試し……実験……? 何か不穏な響きですね」
『自分の力がどれほどのものか試したかったんですかねえ。その結果が昨日起きた、或いは現在進行形で起きている『異変』なんでしょう。ただ学校巡りを楽しんでいたわけじゃあないだろうね。……と、それから昨日喫茶店で遭遇した女の子達と今日偶然会っちゃいました。それで、まあ上手いこと輪の中に潜りこんで昨日のことについて話を聞いてみました。やっぱり姫さん達同様、昨日抱いた違和感っていうのはもう殆ど無くなっているみたいだ。だから昨日のことなんてまるでなかったかのように、皆で仲良く遊んでいたよ。自分と皆は友達じゃなかった気がする、自分は別の高校へ通っていた気がするって言っていた子も『昨日の自分がおかしかったんだ』と思っているそうだ。自分は間違いなく皆と友達で、同じ高校に通い、三年間を共に過ごしたと今は思っているって。後は子供の通っていた高校の記憶が曖昧になっていた奥様ともまた話をすることが出来たんだけれど、こっちも同じ感じでした』
「昨日生じていた記憶の混乱は、もう落ち着いているんですね。それがはたして良いことなのか、悪いことなのか……矢張り今日は聞きませんか? 自分の記憶が妙になっているらしい人の話は」
『昨日以上に周囲の人間の会話に耳を傾けていますが、気になる話をしている人には今のところお目にかかれていませんね。まあもうちょっと時間が経てば部活やら学校やらを終えた子供達とかもっと多くなるだろうから、その時になったら何か聞けるかもしれないけれど……期待は出来そうにないかな』
修羅はまた何か分かったら連絡するといい、一旦通信を切った。次に佳花は桜町や三つ葉市等周辺の街で調査をしている妖達と連絡をとる。彼等も怪しいセーラー服の少女の情報を得ていたらしい。どうやら本当にあちこちにある高校を回っていたようだ。また彼女が人間の女と話していた姿も目撃されている。なんでも着物を着た若い女だったそうだが、話の内容もそれが誰かも不明。ただ目撃した妖曰く、関わってはいけない人間に思えたとのことだ。その人物の纏う空気がそう感じさせたらしい。
また、桜町を調査していた妖が桜山の化け狐――出雲についての情報をくれた。なんでも彼の使い魔(というなの下僕)から話を聞いたらしい。といってもこれは大した情報ではない。ただ彼が桜町商店街にある弁当・惣菜屋の娘に「誰かのことを忘れている気がする。また妖怪が何かしているかもしれないから調べろ!」としつこく言われ、渋々承諾したという話だ。それが昨日のことらしいので、今頃何らかの形で今回のことを調べているかもしれない。
(弁当屋の娘さんって確か、あの時――花を喰らって成体になろうとしていた鈴鹿さんを止めた時、一緒に居た……あの子はどうしてあの場に……ああそうだ……確か宮島さんの知り合いで……宮島さんは確か桜山の化け狐、出雲さんとも知り合いで……だから姫荻高校の文化祭に……)
出雲が姫荻高校の文化祭を訪れたのは知り合いの宮島がいたからだ。そしてその為に鈴鹿は成体になれず、この屋敷に来たといっても過言ではない。
しかし出雲と宮島、宮島と弁当屋の娘――紗久羅といったか――が知り合いだという事実に僅かながら違和感を覚える。そもそも電車で三駅先の街に住んでいる宮島と紗久羅がどうやって知り合い、親しくなったのか。しかも最近知り合ったというわけではなく、幼い頃から家ぐるみで付き合いがあったらしい。だが宮島が桜町に住んでいたことはなかったはずだし、紗久羅が元々宮島と同じ街に住んでいたということもないはずだ。二人の親が幼馴染だったとか、友達だったとかそういった話も聞いた覚えはない。それでも双方の家は昔から付き合いがあった。全くありえない話ではないのだが、何か引っかかる。
(そもそも本当にあの怪談騒ぎの終わりの時、夜の校舎に現れたのは宮島さんだっただろうか……)
紗久羅やその知り合い、それから土壇場で現れて美味しいところを全部奪っていった出雲の姿は思い出せる。だがその場に居たはずの宮島の姿だけ、他の人に比べてその輪郭がややぼやけているのだ。校舎で彼女と鉢合わせした時、自分こそが事件の黒幕ではないかと少し疑っていた宮島に問い詰められた時のことも、今だって忘れていない。だがどういうわけか、その時の映像も微かにぼやけている。おまけに一瞬別の人間に姿を変えるのだ。だが本当に僅かな間なので、どんな人間だったか分からない。ただ宮島ではない『誰か』なのだ。更に加えれば、あの場には誰かもう一人居たような気がするのだがさっぱり思い出せない。
――美吉先輩、何か言ってください。先輩は花鬼なんかじゃないですよね? 花鬼は安達さんのはずですもの。違います、よね? でも、それならどうして先輩はここにいるんですか。やましいことをしているから、話せないんですか?――
自分に問うた声が、再生される。だがその声は宮島のものとは違うような気がしてならなかった。聞き覚えの無い、それでいて不思議と愛しさを覚える声。
この声は捏造されたものなのか、それともこれこそが?
頭がぼうっとする。しばらくして改めて先程と同じ場面を思い浮かべてみる。すると今度は宮島の姿がはっきりとしていて、誰かに変わってしまうことなどない。自分を問い詰める声も彼女のものになっていた。そしてそれを聞くと、矢張り自分が実際に聞いた声はこちらだっただろうという気持ちになるのだ。誰か一人忘れている、という気持ちももう失せてしまっている。
(どちらの私が正しかったのだろう。ほんの少し前の私、今の私……)
そのことや黒いセーラー服の少女のことなどを考えながらも、佳花の足は止まることなく動き続けていた。だが考え事をしながら歩いていたので、自分が次に行こうと思っていた所とは全く違う方へと進んでしまっていた。次にここを曲がろうとか、まっすぐ進もうとか、そういったことは全く考えておらず、完全に行く先を己の足に委ねたような感じになっていた。そしてその足はある地点でピタリと止まり、そこで佳花ははっと我に返った。
「あれ? ここ、どこ……」
一体自分はどこへ来てしまったのだろう、と辺りに目をやる。バス停、道路、民家……。その景色を見た時、自分の底の方に沈んでいた何かが急速に浮上してくる、そんな感覚に襲われた。心臓が早鐘を打ち、そして何かに引っ張られるかのようにバッと左側を向いた。そこに自分の求めている何かがあるような気がしたから。
だがそこにあったのは自分が求めていたものではなかった。目の前にあるのは駐車場及び、やや大きめのスーパー。それを見た瞬間背筋が凍りつき、頭に冷水を注ぎ込まれた。自分の中でうたた寝をしていた何かが目を覚まし、絶叫する。ここにスーパーが建っている、そのことが何故か佳花にとってはとても恐ろしいことのように感じられた。
「違う……」
違う、違う。ここにあるのは、こんなものではなかったはずだ。ここには別の何かがあったはずで、そしてそれは自分にとってとても大切なものだったはずだ。それが何であったのか思い出せない、だが違う、これはここにあるべきものではない、そしてあるべきものがここにはない。
佳花は呆然とその場に立ち尽くしながら、目に映るものが何かの間違いであって欲しいと思いながら、そこにあるスーパーを見つめていた。
「美吉……先輩?」
その時だ、自分の名を誰かが呼んだのは。若い女の――聞き覚えのある声だった。佳花は声のした方へ顔を向けた。
そこに立っていたのは一人の少女。あまり手入れされていないややぼさっとした髪に大きな眼鏡。着ているのはどこかの高校の制服のようだった。どうしてか、その制服には見覚えがある……だがどこのものか思い出せない。
制服のことは思い出せなかったが、目の前に立っている少女のことはその顔を見た瞬間思い出した。どうして今まで忘れていたのか、まるで信じられない。途端、自分の中にある数々の思い出の中にいた宮島の姿が消え、目の前にいる少女へと差し替えられていく。
そうだ、彼女だ、宮島さんではない。彼女こそが本当の……。
佳花は怒涛の勢いで書き替えられていく自らの記憶に困惑しながら、目の前にいる少女の名を呼んだ。
「臼井……さん?」




