別れがさね(3)
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近づいてくる春も翳る程に生い茂る緑、美吉山、奥の奥。ここにおいては現世と異界の境など紙に書いた鉛筆の線の様なもの。覆う闇に擦られて、いとも簡単にぼやけてしまう。曖昧な境の作り出す空気はこの世において『異形』と呼ばれる存在を惹きつけ、今なお人知れず多くの者が暮らしている。山は曖昧故に彼等さえ受け入れる。しかしその山で生きる獣や鳥などといった動物達は必ずしもそうではないようで、ここらに住む動物の数はそれほど多くない。共存する者もいるにはいるが、大半は異質なものを孕む者どもを恐れ、避けるのだった。人間達も無意識の内に避け、昔からこの辺りに足を運ぶ者など殆どいなかった。故にこの辺りは殆ど人の手が加わっておらず、原初の姿をほぼ留めていた。その為妖達はここらでのんびり自由気ままに暮らすことが出来ている。彼等が美味い酒と食べ物を飲み食いし、どれだけ騒いだって誰もそれを見聞きすることはない。稀に曖昧な境が『向こう側』の住人と『こちら側』の住人を引き合わせることはあるが、そのことを人間が他の人間に話しても誰も信じないだろう。そうなる位彼等の存在は『お伽噺』になってしまっているのだから。
そんな美吉山の、誰も知らない奥の奥。そこに伸びる道と呼べるかかなり怪しいものを行く三人の男女の姿があった。一人は老爺、一人は筋骨隆々の男、もう一人は腹のやたら膨れた大女。更にその女の後ろについてどってどってと歩いているのは狸だ。狸といってもころころ愛らしい毛玉とは似ても似つかない、もう狸と呼ぶのもためらわれるというか「本当に狸か?」と首を傾げてしまう程でかい。特殊メイクを施して狸に扮した小象と言われた方がまだ真実味がある位だ。まだ夕方とは呼べぬ位の時間だというのにすでにどこもかしこも黒く塗りつぶされている上に、まともに整備されていないような所をすたすたと迷いなく歩いている。彼等にとってはまだ明るい位だったし、また彼等はしっかり整えられていなければまともに歩けぬ程軟弱ではない。
「丸腹大丈夫か、体は重くないかね」
先頭を歩いていた老爺がふと振り返り、巨漢の後ろを歩く女に問う。女はけらけら笑いながらぱんぱんに膨れた腹をぽん、と叩いた。
「何のこれしき。あれだけしまった位じゃ堪えませんよ、ほほほ。姫様誕生の際に開かれる祝宴の時位ですよ、私が苦しい思いをするのなんて。後は姫様が結婚される時とか位ですかねえ……ああいう時は今日の比ではないですものねえ、宴の規模が。ふふ、私は大丈夫ですけれど目の前歩いているこの人はどうでしょうねえ?」
「お前自分の旦那を軟弱者呼ばわりするんじゃない。俺だって全然大丈夫さ、これ位ならなんともない。お前も大丈夫とか口では言っておいて、内心はかなりきついんじゃないか?」
「御冗談を」
ほほほ、と丸腹は笑い男もそれにつられて笑う。まあその様子なら二人共問題なさそうだな、と翁。そんな翁も随分歳をとっている様に見えるのだが、足場の非常に悪い山を登っているのに呼吸が全く乱れておらず、疲労の顔などまるで見せない。この面子で唯一へばっている様子なのは最後尾をどってんどってん歩く巨大狸。
「皆さん本当元気なことで。もうおいらはへとへとですよ、山へ帰るまでの間ずっとトラックに化けていたんですからね。しかも皆さんを乗せてここまで走ったんですから、はあ。もうごろんと横になってぐうすか寝たいよお」
「もう少しで屋敷に着く、それまで辛抱せい。とはいっても屋敷に着いたところで寝る時間などないだろうが。沢山の御馳走を食わなくても良いというのなら話は別だがな」
「そりゃあ、そりゃあいけません、栄達爺! おいらが今日を楽しみにしていたのはご馳走をたんまり食えるからですよ! ご馳走が食えないなら今日という日に何の意味もありゃあしませんって」
「姫様の高校卒業には何の意味もないというのか、ぽん吉。宴などはおまけ、今日の要は姫様の卒業祝い。お前はそれよりも飯を喰らうことの方が大切と申すか」
「い、いや別にそうは言ってませんよお……」
ぽん吉は親にこっ酷く叱られた子供の様に小さくなる。栄達はしばしそんな彼を睨んでから「まあ今日の馳走を楽しみにする気持ちは分かるがな」と言ってほっほっほと笑った。冷や水に浸されたガムの様になっていた空気が元通りになり、ぽん吉はほっと一息。
そんなやり取りをしている間に一行は周りのものより一回り、いや二回りは大きな木の前までやって来た。そこで栄達は懐から赤い紐に括られた金の鈴を取り出した。
「家族帰りて道は開く」
静かに揺らせば、ちりんと鳴る音のさやけき。
それと同時に前方を埋め尽くしていた木々や茂みが大木を除いてすうっと消える。代わりに現れたのは木製の門、塀にぐるっと囲まれた和風の立派な屋敷。この屋敷は異界にあるわけでも特殊な領域(あるいは異層)にあるわけでもなく、正真正銘美吉山の奥、この場所に存在するものだ。だが術により屋敷の姿は隠され代わりに多数の木や茂みの幻が見えるようになっている。また人除けの為の結界も張られている為、ここまで来た人間(滅多にいないが)は屋敷のある場所へ足を踏み入れることなく引き返すなり、進路を大きく変えるなりするのだ。極まれに結界をも通り抜けてしまう者もいるが、その場合は何もないはずの場所で躓いたり、壁の様なものにぶち当たったような衝撃と痛みに突然襲われたり、目の前に生えている木を自身の手や足がすり抜けたりする様を見ることになる。そしてその不気味な現象に恐怖し、逃げるのだった。
この結界は屋敷の住人である栄達等にも影響する。引き返したいと思うことはないが、屋敷の姿は知覚出来ない。それを可能にする為の道具がこの鈴だ。栄達らはぞろぞろと門を抜けていった。
「あれ、栄達様お帰りなさいませ。良いものを沢山調達出来ましたか? あ、これ! なずな! それはそこではなくもう一つ奥の部屋へ運べと言ったでしょう! 嗚呼片ヶ枝それは乱暴に扱ってはいけません! 青菜、なしくび! ここで遊ぶんじゃないの!」
何やら運んだり、きゃっきゃとはしゃいだりしている妖達に注意する女を見て栄達は「忙しないのう」と苦笑い。廊下を走り回っていた青菜となしくびという子供の妖を捕まえながら、もうどこもかしこもてんやわんやの大騒ぎですよと女はため息。そんな彼女に「まあ頑張っておくれ」と激励の言葉を贈りながら、栄達は屋敷の奥へと進んでいく。
女の言う通り、屋敷の中は静かで平和な所などどこ一つ無いと思える程騒がしく、そして大変慌ただしかった。元々無駄に元気のある奴等ばかりが住んでいる為、常に無数のエネルギーの塊がゴムまりの如く縦横無尽に跳ねまわっているような所ではある。しかし今日はいつもの比ではなく、いつもの何倍もあるゴムまりがいつもの何倍もの勢いで滅茶苦茶に跳ねている様だった。準備に追われる者、宴の前哨戦と称してどこからか調達した酒を飲んで騒いでいる者、屋敷内に漂う普段とは違う空気にあてられて興奮し、大はしゃぎしている幼い妖、遠くから来た客人と騒いでいる者……。
特に凄まじいことになっていたのは厨であった。あちこちから飛び交う怒号、包丁がまな板を叩く音、肉や魚や野菜を焼いたり炒めたり揚げたりしている音、絶えずあがる湯気、あっちへこっちへ休む間もなく動く人々、誰も彼も鬼の形相。移動遊園地ならぬ移動地獄が厨にやって来た、などと様子を窺っていた丸腹がぼそり。
入ってすぐの所には頭に立派な角を二本生やした屈強な妖が、腕を組んで立っている。彼はつまみ食いをせんと厨に忍び込もうとする馬鹿者達をとっ捕まえて追い出す役目を担っていた。彼がいなければ恐らく多くの妖がこの厨へ忍び込み、料理をつまみ食いすることだろう。それ位大目に見てやればいいじゃないか、などと思うことなかれ。この屋敷に住む妖達の『つまみ食い』は最早つまみ食いなどではない。皿に盛ったものの半分は食う。半分どころか全部のこともあるし、中には皿ごとひったくっていく不埒な輩までいる。だからこんな屈強な厨の番人が必要なのだ。
「こんな地獄の中へつまみ食いしようと平然と突っ込んでいけるお馬鹿達の気がしれないね。それにしても良い匂いだ、ちょっと嗅いだだけでお腹の虫が大騒ぎする」
「同感だ。しかしもうしばらく待たねばな。それまでは部屋で大人しくしているとしよう。栄達様、俺達の中にある荷物はどうします? もう少し後になってから出しますかね」
「そうだな、あまり早くに出すと腹を空かせた奴等にくすねられてしまうかもしれん。なるべくギリギリまではその体の中に保管しておいてくれ」
了解、と丸腹と男――剛男という――は頷いた。この夫婦は体の内に物を保管出来る力を持った妖。自分の体よりもずっと大きいものだって入れられるし、中に入れたものはどれだけ激しく動いても揺らされたり壊れたりせず、入れた時と全く同じ状態で取り出すことが出来る。一体どういう原理なのかは不明だ。そもそも当人達も知らない。彼等は今こそぶっくりおでぶさんと筋骨隆々の厳つい男であるが、中に入れたものを全て取り出せばすらっとした美人と、ひょろっとしたもやしになる。むしろそちらこそが本来の二人の姿なのだ。
二人が栄達、そしてぽん吉と共に買いに行ったのは客人への土産、それから宴で食べる為の菓子や総菜、酒だ。これはどちらかといえば宴が一応終わった後、まだ飲み足りない、食い足りない、騒ぎ足りないと二次会的なものを始める妖達|(七割方宴の後幾つかのグループに分かれてこれを始める。下手すると三日三晩続く)用である。流石にこの時につまむ為のものの面倒までは料理人達も見られないから、こちら側向こう側問わず様々な店へ足を運び調達するのだ。ちゃんと用意しておかないと多くの酒と飯を求める妖達が何をしでかすか分からない。
栄達は今日の宴の為遠路はるばるやってきた客人に挨拶しに行き、丸腹・剛男夫妻は重い体を休める為、ぽん吉はへろへろの体を休める為自室へと向かった。
さて、場面変わって宴の主役である美吉山の妖姫――佳花の部屋へと至る廊下。今この屋敷の中で唯一静寂が居座れていたこの場所にパタパタという足音が響き渡る。その足音の主は幼女二人。一人は大きな目二つと小さな目二つの計四つの目を持ち、もう一人は頭から黒い猫耳が生えている。猫耳の生えている方の娘は程良く冷えた黄色の果実が盛られた器を抱えていた。甘くてほんの少し酸っぱい、梨の様にとても瑞々しいそれはここの厨で貰ったもの。何の策も無しに突撃して、見事番をしていた男に捕まり危うく放り投げられて追い出されるところだったが、すんでのところで厨の一切を取り仕切る紫陽という男に助けられた。そこで自分達がどうして厠へ入ろうとしたか事情を説明したら「しょうがないね」と言いながらくれたのだった。
佳花の部屋は屋敷の最奥にある。一人で過ごすにはやや大きいその部屋の出入り口である障子戸は閉じられている。本来は何の用で来たか述べ、入室の許可をとってから戸を開けることになっているのだが実年齢の割に精神年齢が低い彼女達はそんなことなどしない。そのまま「姫様!」と元気よく言いながら勢いよくダン、と開けた。
部屋の左側には床の間があり、水墨山水画の掛け軸と季節の花を抱く花瓶が飾られている。その前に座っている佳花は髪を解き、色とりどりの花が描かれた赤い着物を着ていた。その向かい側に見た目だけでいえば佳花とそう変わらぬ歳に見える少女が座っている。長く伸ばした黒髪に、青い無地の着物。どちらもいと麗しい花。二人は突然の来訪者に「まあ」と驚き。
「あ、鈴鹿姉様もいる! クロ、鈴鹿姉様もいるよ」
「本当だね、ヨウ。いると分かっていたら鈴鹿姉様の分も貰ったのに」
「それじゃあ私達の分を一個鈴鹿姉様にあげようね。私達良い子だからね。大好きな鈴鹿姉様に何もあげないなんて、そんなことしないもんね」
「……それは黄水果? 一体どうしたの、ヨウにクロ」
四ツ目のヨウと猫耳娘のクロの登場にきょとんとしていた佳花が尋ねれば「待ってましたその言葉、聞いて聞いて、そして褒めて」とばかりの顔、早口大声でわあ、わあ、わあ。
「あのね、これね、姫様に元気出してもらおうと思って持ってきたのよ! 姫様ったら帰って来てからというもの、ずっと元気がなさそうだったんですもの! 紫陽はきっと卒業式を迎えて学校の人達とお別れしたから寂しいんだろう、ちょっと心に穴が空いた感じになってしまっているんだろうと言っていたけれど、私きっとそれだけじゃないと思うの! 何か考え事をしているような、喉に小骨が引っかかっているような顔をしているもの!」
「でも私達、どうして姫様がそんな顔をしているかは聞かないわ! だって私達立派なれでーですもの。れでーはそういうことは聞かないものよ。そしてれでーは気遣いが出来るものなの。色々考え事をしていたり、元気が無かったりする時は甘いものを食べるのが一番だわ。私達どれだけ嫌なことがあっても、疲れても、甘いものがあればすぐに元気になってしまうわ!」
「姫様は今日の宴の主役。主役があんな顔していたら駄目よ。だからこれを食べて元気を出してほしいの! そしてね、より大勢で食べた方が元気になるの。だから私達も一緒に姫様と食べてあげる! 勿論鈴鹿の姉様にもあげるわ! ええとねえ……姫様と鈴鹿姉様が二つずつ、私達が三つずつ! 本当は姫様が二つ、私達が四つずつだったんだけれどね!」
「あらまあ、ありがと……う?」
鈴鹿は何で佳花より二人の方が多いんだ、という疑問をすんでのことで飲み込み、佳花は苦笑い。2人はえっへんと胸を張っている。その口の端、微かに垂れているよだれ。さあさあ一緒に今すぐ食べましょう、と急かす二人に苦笑いしながら佳花は礼を言う。
「ありがとうね、ヨウにクロ。ただ申し訳ないのだけれど、今は二人と一緒に食べることが出来ないのよ。私、ちょっと鈴鹿さんとお話ししたいことがあるの。……出来れば二人きりで」
それを聞くと二人は何で、何での大合唱。鈴鹿もヨウにどうしたの、二人で何をお話しするのと聞かれたが、彼女自身も呼び出された理由がまるで分からないから、さあどうしてでしょうねとしか言えない。内心自分は何かとんでもないことをやらかしただろうか、ここから追い出されるのではないだろうかとちょっと不安でもある。佳花は理由を問おうと詰め寄る二人の頭を、申し訳なさそうにしながら優しく撫でた。
「ごめんなさいね、二人共。でも二人は立派なレディだから分かってくれるわよね?」
レディ、という単語を聞いた途端二人は急に大人しくなる。二人に言うことを聞かせるにはどうやらこれが一番効果的であるらしい。目をきらきら輝かせ、拳をぐっと握りしめ、それはそれは嬉しそうに「分かった!」と声を揃え。
「私達立派なれでーだものね。出来る女は空気を読まなくちゃ。ねえ、ヨウ?」
「勿論よ、クロ。私達胃袋以外全部がきんちょって言われているけれど、そんなことないものね?」
「ありがとう、二人共。代わりといってはなんだけれど、私の分の黄水果も食べていいわよ。二人のお部屋で食べなさい」
「え、いいの!? でもこれ姫様を元気づけようと持ってきたものだし……」
「構わないわ。大丈夫、二人の気持ちを受け取っただけで元気が出たから。宴の時はきっと笑顔でいくから安心して」
「私にくれるといった分の黄水果も、二人で分けて食べてちょうだい。私は宴の時まで出来るだけお腹を空かせておくつもりだから」
佳花と鈴鹿に言われ最初は困惑していたものの、その時間もそう長くは続かなかった。彼女達はこの黄水果が特別好物なのだ。全部くれるという言葉に対し首を横に振るなどという選択肢などない。まずクロがヨウの方をちらっと見た。
「姫様を元気づける為にもってきたのに……でもその姫様が良いっていうのだから、いいわよね?」
「ええ、ええ。姫様が良いと言ったのだから大丈夫よ。紫陽に万が一ばれても怒られるなんてことはないわ。今更やっぱりいいって返すわけにもいかないし、全部私達で食べちゃおう」
うんうん食べちゃおう、と頷くクロの声からは嬉しいという気持ちが滲み出ている。いや、滲んでいるというかそれはそれはすごい量が放出されている。最後に二人は「うんと冷えている内に食べるのが一番美味しいし、姫様と鈴鹿の姉様の邪魔をしちゃ悪いからさっさと部屋へ行きましょう」と言って、猛ダッシュ、あっと言う間に部屋から去って行く。ドッタバッタドンドンドンというやかましい足音と「やったー!」という声が随分後まで聞こえた。鈴鹿は苦笑いしながら立ち上がり、二人が開けっ放しにした障子戸を静かに閉める。ありがとう、ごめんなさいねと謝る佳花に「いえ」と言って元の位置で正座する。
「……それで姫様、話とは一体。もしかして私、何かやらかしましたか? それとも修羅の大馬鹿者が何かしでかしましたか!?」
「まさか! 鈴鹿さんや修羅さんや羅刹ちゃんがここへ来てから、何か迷惑をかけたことなんてないわ! 別に今日は説教や何らかの宣告をする為に呼んだわけではないの。……実は、少し鈴鹿さんに聞きたいことがあるの」
説教などではないことに安堵しつつ、自分に聞きたいこととは何だろうと鈴鹿は首を傾げる。ヨウとクロを部屋から出したということは、あまり他の人には聞かれたくないことなのだろうか。その心情を察したらしい佳花は、別に聞かれると不味いことというわけではないと言った。ただもしかしたら聞いた人に余計な心配をかけさせてしまうようなことではあるらしい。やや聞きづらいことではあるらしく、少しの間佳花はきょろきょろしたり、身じろいだりと珍しく落ち着かない様子だったが、やがて決心がついたらしく口を開いた。
「鈴鹿さん。貴方、この屋敷へ来るキッカケとなった事件のことは覚えている?」
「……は?」
予想もしていなかった問いに対する困惑が、思わずそんな間の抜けた声となって外へ出る。覚えているかと聞かれれば、当然覚えている。鈴鹿は生きる為ある騒動を引き起こした。そしてそれは何十年、何百年も前のことではなくたったの一か月と少し前位のことである。その時朝昼晩何を食べたか、と聞かれれば覚えていないが、自分の人生に深く関係する出来事なのだ、忘れるはずがない。佳花だってそうだろう。何故そんなことを突然聞くのか鈴鹿には全く見当がつかなかったが、わざわざ聞いてきたのだ、きっと何かあるはずだ。
勿論覚えています、と鈴鹿は自分と眷属がやったことについて語る。成体となる為に必要な花を咲かせる為佳花の通う高校に種をばらまいたこと、それを育てる為に怪談騒動を引き起こし学校中を恐怖と混乱の渦に陥れたこと、種を撒いた日――文化祭があった日――に学校を訪れ、種の存在を感知していた化け狐によって最後の最後に邪魔をされたこと。計画が台無しになり、今後どうするか決めかねていた自分を「屋敷に来ないか」と誘ってくれたこと。それらを佳花はとても真剣な表情で聞いていた。鈴鹿が一通り話し終えると彼女は「ありがとう」と重く頷く。それから彼女は更に妙な質問を投げかけてきた。
「それじゃあ、私の通っていた高校の名前は覚えている?」
「はあ……それは、勿論。……姫荻高校、です」
覚えている。居たのはほんの短い間のことだったが、あそこには沢山の思い出と大切な思いが詰まっている。その場所の名を、忘れるはずがない。
ただ、何か、何か少し……いや、きっと気のせいだ。
すると佳花は校歌、その高校の構造、鈴鹿のクラスメイトだった人達の名前、特別仲良くしていた女生徒の名前、佳花が部長を務めていた文芸部のメンバーのこと、自分の目論見を阻止しようと現れた人間達のことなどについて次々と聞いてきた。その問い全てに鈴鹿は答えていく。しかしそうしていく内、段々とある気持ちが芽生え、そしてそれがゆっくり自分の中で膨らんでいくのを感じた。佳花は「そう、そうよね」と鈴鹿の答えに対して頷くがその動きがどうにも鈍い。また、どうにもその答えに納得していないような顔をしている。それを見ると鈴鹿の中のある気持ちがますます大きくなっていった。
「ありがとう、いきなりこんなことを聞いてごめんなさい。一体どうしたんだって困惑したでしょう? 私も変なことを聞いているってことは分かっているの……でも、聞かずにはいられない。ねえ鈴鹿さん、最後に一つ聞いていい? 貴方はその記憶が本当の本当に正しいものだとキッパリ言い切れる?」
「……え」
「鈴鹿さんの答えと、私の記憶は一致しているわ。けれど……けれどね、変なの。私はその記憶が『本物』であると思えないのよ」
真剣な表情で語られたその言葉に鈴鹿は驚いた。だがそこに「一体貴方は何を言っているんだ、頭がおかしくなってしまったのか」という思いは無い。むしろその逆だ。驚きのあまり声の出ない鈴鹿が、自分の発言をどう捉えているのか察することが出来なかったらしい佳花は、すうっと立ち上がると鈴鹿から見て右後方にある書机のある方へ歩き出す。部屋の中にある数少ない家具の一つであるそれの上には、教科書やノートが置かれたスタンドや鬼灯を象ったランプ、それから写真立てが一つ置いてある。佳花はその写真立てに入っている写真を鈴鹿に見せた。
「これは部室で文芸部の子達と撮った写真。あそこで撮った最後の写真になるでしょう」
部室の半分以上を占める机の奥に座る佳花、その背後に並びにっこり笑いながらピースサインをしている四人の後輩。永遠に忘れたくない、出来ることなら別れたくないと願う――今の佳花にとって人間の中で最も愛しいと思っている……はずの存在。佳花は写真に写る人間を一人ずつ指さし、名を呟く。妙にどんより曇った表情で、やけに冷たく暗い声で。
「宮島さん」
眼鏡をかけた、髪の長いいかにも大人しそうな少女。オカルトと読書をこよなく愛し、鈴鹿が引き起こした事件を自分なりに調査していた。そして結局彼女に自分が人間ではないということを知られることになってしまったが、彼女ならきっとそのことを胸の内に秘めたままにしてくれることだろう。
「小谷君」
目つきがちょっと悪くて、やや近寄りがたい雰囲気を醸し出している少年。宮島と同じく二年生。見た目は怖いが心優しく、そしてピュアな子。時代小説が好きで、書くのもそういったものが多かった。
「田神さん」
ショートヘアーの、快活な少女。一年生で推理モノが好き。でもトリックを考えられる程賢くないからといって、部活中に書いていたのは二番目に好きだというホラー物が中心だった。
「相園君」
一年生の、小中学生と間違われそうな位小柄な少年。人をくすっとさせるような文章が得意で、絵も上手だった。彼のイラスト付きエッセイに部員は何度も笑わされ、癒されたものだ。
「私にとってとても大切な人達……のはずなの。数え切れない程の思い出を彼等と一緒に作ったはずなの。でも、でもおかしい。私、この写真を見てもこみあげてくるものがないのよ。赤の他人と撮った写真にしか思えない。思い出は私の中に沢山ある。一緒に本を読んだり、小説を書いて見せ合ったり、休日に皆でどこかへ出かけたり……でもその思い出はこの子達とではなく、別の人達と作ったもののような気がしてならないの。そして私が通っていたのは姫荻高校ではなく、別の高校だった気がする」
姫荻高校の校歌は歌える。クラスメイトの顔と名前も一人残らず言えるし、校内の構造も思い出せる。運動会や文化祭、修学旅行等の行事のことも思い出せる。それでもどうしても自分が三年間通った学校は姫荻高校ではなかった気がしてならないのだ。
「本当はどこか別の高校に通っていて、そこでクラスメイトや部員達と沢山の思い出を作ってきた。でもその思い出が姫荻高校で作られたものということになってしまっている……そんな感じがするの。でももしかしたら気のせいなのかもしれない。ううん、でもこれほどの違和感を覚えているのに気のせいなんてことはない……」
目を瞑ると、写真に写る四人の後輩の笑っている顔が浮かぶ。その笑顔をいつまでも見守り続けたいと佳花は思っていたはずだった。だが今の佳花がその映像を見て感じるのは愛しさではなく、違和感ばかり。自分が本当に大切に想っていた子達はもっと違う姿、名前、性格だったはずだと一生懸命『本当』の記憶を自分の頭から引っ張り出そうとする。頭に浮かぶ顔が、体が段々とぼやけ、一瞬だけ全く違う姿になる。だがすぐにそれは消え、元に戻ってしまうのだ。
すっかり黙り込んでしまった佳花を見て、鈴鹿が何かを決心したのかおもむろに口を開いた。
「きっと、気のせいではないと思います。私の記憶も正しいようで、大事な部分が間違っているような気がするんです。姫様に聞かれたことを話している内、段々と違和感が……何もかもが偽物ではなくて、でも全てが本物ではない。私が学校で安達鈴鹿として暮らしている時仲良くなった女の子。大切な友達の名前を私は荻窪さんと言いました。ショートカットで背の高い、男装が似合いそうな子。口調も男の子っぽくて、スポーツが得意で、明るくて心優しい、男子よりむしろ女子に人気のあった子だったと私は言いました。でも……私の『親友』だった子の名前や容姿や中身は、本当に私が大切にしていた人のそれとは違う気がしてなりません」
「そう。鈴鹿さんも……」
自分だけでなく鈴鹿もそう感じるのなら、矢張り気のせいではないのだろう。自分と鈴鹿の記憶は、何らかのことが原因で書き換えられてしまっている。それも恐らくはごく一部――自分の通っていた『高校』に関するものだけ。それに関する事柄を考えると非常にもやもやする。いつ書き換えられたのか、自分と鈴鹿以外の人間にも同じような現象が起きているのか、どうしてこうなってしまったのか。いや……そもそも本当の本当に気のせいではないのか。別れの寂しさが頭をおかしくさせてしまい、そんな自分にあてられて鈴鹿も「そういえば何か違う気がする」と思い込んでしまったという可能性はないだろうか。絶対に違う、と言い切れない自分がいる。気のせいではない、という思いともしかしたら気のせいなのかもしれないという思いが交互に現れ、佳花を悩ませた。
とりあえず今日のところは、このことは二人の胸の内にしまっておくことにした。皆が朝から休まずせっせと働いて用意してくれた祝いの場の空気を悪くしたくなかったから。気にはなるものの、色々と調べてみるのは明日以降でいいだろう。
その数時間後、大座敷にて佳花の高校卒業を祝う宴が始まった。ここだけではなく屋敷にある巨大な庭も宴会場となっており、設置されたテーブルの上には豪勢で大変美味しそうな(実際大変美味しいのだ)料理がこれでもか、と並べられている。酒だって今ここにある分全部をひっくり返したら、ここら一帯を沈めてしまいそうな位あった。
宴に参加するのは美吉山の妖姫――今は佳花だ――に仕えることを選んだ妖、向こう側の世界ではなくこちら側の世界で生きることを決め、美吉山もしくは舞花市内で日々を過ごしている妖、そして佳花と同じ妖姫及びその従者。宴の初めにあった佳花の話、それから栄達による堅苦しい話までは皆必死に我慢して大人しくしていたが、それも「では、乾杯!」という言葉を聞くまでのこと。宴が始まればやんややんや、飲み食い踊りの大騒ぎ。料理や酒は追加しても追加してもみるみる内に消え、屋敷は話し声や笑い声の海の底へ。この喧騒の海の底は、本当の海の底とは何もかもが正反対。喧しくて、眩くて、圧し潰すものは何もない。食べ物や酒を持って廊下や別室、屋根や木の上へ移動して飲み食いする者もあり、静かな場所を探す方が難しい。
佳花も絶品料理の数々に舌鼓を打ちつつ、卒業を祝う為に来てくれた妖姫達とのお喋りを楽しんだ。
胸の内に巣食っていたもやもやは、美味しい料理、皆の笑顔、声、屋敷内を満たす幸福によっていとも簡単に祓われて、消えていく。皆を心配させまいと必死に『何の悩みも不安もない幸福な人間』を演じる必要はなかった。宴の間、鈴鹿に打ち明けたもの一切を彼女は忘れていたのだから。演じるまでもなく彼女は不安など何もない幸福な人間だった。妖姫仲間や妖達と話している時、高校生活に関する話題も多く出てきた。佳花は先程まで『何かが違う』と感じていたはずの思い出の数々を、何かが違うという思いを一切抱かぬまま話した。この時の彼女にとって『姫荻高校で過ごした日々』は疑いようもなく本物だった。鈴鹿も同じく佳花の部屋でした話のことも、抱いた気持ちも忘れてしまっていた。
佳花が色々と思い出したのは宴が一応終わり(あくまで一応、だが)、風呂に入って寝る支度をしている時のこと。今の今まで忘れていたという事実に気づいた瞬間彼女は愕然とした。あんなにも、あんなにも簡単に忘れられるものなのかと。気づけば胸にあのもやもやとしたものが再び現れているが、どうも先程までに比べると薄いように思われた。ぐっすり眠って目覚めれば消えてなくなっているかもしれない。そうして何もかも忘れ、今度は思い出さないかもしれない。
忘れてしまうかもしれない。多分、嫌だ。だが一方で、思う。
胸の内にあったもやもやは、こんなにも簡単に忘れられる程度のものだったのか。気づかぬ内に失ってしまったかもしれないものというのは、本当に自分にとって大切なものだったのだろうか――と。