エピローグ:在りし日の姿は胸の中に
*
気づけば二人は店の中に突っ立っていた。鏡に吸い込まれる寸前まで居たのと同じ場所に。店の外は暗く、しっかりあれから時間が経っていることが分かる。
「戻って……きた?」
「どうやらそのようですね」
その鳳月の言葉を聞いた柚季は体から力が抜け、へなへなとその場に座り込む。もし何かの間違いであの世界から永遠に帰れなくなったらどうしようという不安があったのでほっと一安心。鳳月は苦笑いしながら柚季を見、それから自分が手に持っている鏡を見つめる。その表情は複雑だった。きっと自分も今彼と同じ表情を浮かべているだろうと柚季は思った。
ミカガミは今も偽物の、最早模造品とも呼べぬシイナラで幸せに暮らしているだろう。そして誰も何もしなければ、これから先もずっと。美しい永遠などとうの昔に消え失せていることにも気づかないまま。
最後の最後まで愛し続けた神に捨てられ、命を、大切な人を失ったシイナラの民のことを思うと、腹立たしくなる。しかもそうまでして選んだ偽物の郷に今はもうかつてのシイナラの面影は殆ど残っていない。このままいけば、もっと酷いことになるだろう。しかし一方で哀れにも思う。自分が守ろうとしたものの姿さえ忘れていることに気づかず、自分は守り続けることが出来ていると信じて疑わぬその姿を。何もかも自分の思い通りになる世界へと逃げ、そこでふんぞり返っている様もまた哀れで滑稽だった。
鏡を見つめながら、その中で見聞きしたものを二人静かに思い返していたところで、がらっと店の入り口が開いた。その音が二人の意識を現実へと戻す。柚季は自分が未だ床に座り込んでいることに気づき、慌てて立ち上がった。
戸を開けた人物が、辺りをきょろきょろ見まわしながら店の中へ入ってくる。どうやら初めての客らしい。歳は三十代半ば位だろうか。髪を結い上げ、そこに桃色の花の飾りがついた簪を挿し、あずき色の着物を身に着けている。そして手には紫色の巾着袋。彼女は鳳月の持つ鏡に気づくと驚いたような表情を浮かべ、早足でこちらへと来た。
「嗚呼……あった、本当に……ようやく……見つけた……」
どうやらこのミカガミの鏡をずっと追い求めていた様子。余程の衝撃を受けたらしく、体も声も震えている。一体この人は何者で、どうしてこの鏡のことを知っているのだろうと色々聞きたくなるのを堪えながら、柚季は彼女を観察する。そうする内、柚季は彼女の顔に見覚えがあることに気づいた。最初は何となく、だがじっくり見る内それは確信へと変わった。
「……ミイコ、ちゃん?」
最初はエイコに、だが徐々に彼女の娘であるミイコに見えてきた。どことなく目のあたりに彼女の面影がある気がする。エイコは故人だがミイコはまだ生きているという話だったしあり得ない話ではない。郷の崩壊後精神が成長したことで、彼女の肉体も同様に大人のそれになった可能性は十分ある。
ミイコちゃん、と呼ばれた女性は目を大きく見開き驚愕している。その表情は柚季の疑問を否定せず、むしろ肯定していた。彼女は鏡に目を向け、納得したようにこくり頷く。
「嗚呼、貴方方は……見たのですね。そうです、私はミイコと申します。滅びたシイナラの生き残りの一人です……」
ミイコは両親や友人を沢山失いながらも運良く黒い炎から逃れ、術師の力で異層――本来シイナラがあった層へと移動した。そうしてシイナラから逃げ、生き残ることが出来た人は極僅かだったそうだ。それを語る彼女の悲痛な面持ち、震える声。まるで今さっき経験したばかりかのような様子。きっと彼女にとってはいつまでもそうなのだろう。黙るミイコに鳳月は尋ねた。
「その後皆さんどうしたんですか?」
「……それぞれがそれぞれの道を選びました。生き残った術師は各地を回っていた仲間と、旅に同行していたシイナラ・タメノハーテ・チョーサの人達と合流しました。そんな彼等についていく者もいました。後はこの層で暮らすことに決めた者、こことは違う層――この層と最も結びつきが強い、貴方方が『向こう側』と指す所へ移動した者もいます。……中にはあの地獄の景色が忘れられず、自ら命を絶った者、心が完全に壊れてしまった者もいます。私は生き残りの一人である妖とこの層で共に暮らすことを選びました。実父亡き後、その人が私の父となりました。ですが数十年後、彼は私を残し亡くなりました。自分の子供を目の前で失った悲しみ、苦しみが彼の命を削り、そして病を呼び寄せたのです」
その妖はシイナラ崩壊の日、自分の娘の手を引き炎の魔の手から逃げ回っていたそうだ。だが自分の足の速さについていけなくなった子供が転び、手を離してしまった。そして倒れる娘の体を黒い炎が覆った。
「彼は娘のもとへ駆けつけようとしましたが、近くにいた人に『もう手遅れだ、諦めろ』と手を引っ張られ、娘の泣き叫ぶ声を背に受けながら逃げたそうです。そうして自分を無理矢理引きずるようにして走った人も、結局彼の目の前で焼かれたそうです。その出来事が彼をずっと蝕み続けていたのです。亡くなる直前彼はようやく悪夢から解放される、あの子達の処へ行けると……とても幸せそうに言っていました。私も後を追えたらどんなに幸せだろうかと思いました。実際、もう終わりにしてしまおうかととも思いました。そんな私を生の世界に繋ぎ止めたのは、あの人の宿る鏡を見つけだしたい、ミカガミ様に会いたい……という気持ちでした」
ミイコは男と二人、各地を転々としながらいなくなったミカガミを探していたらしい。会ってどうするつもりだったのかということについては話さなかったし、聞かなかった。
「私はその一つの思いを糧に国中を探し回りました。ですがなかなか彼女を見つけることは出来ませんでした……かなり接近したことはあるのですが、後少しというところで逃がしてしまいました。それでも諦めず私は探し続けました。ずっとずっと探して、探して……ようやく会えた……」
「貴方はミカガミ様があちこち動き回って何をしているのか、鏡の中にどんなものを作っているか……ご存知ですか」
「はい……といっても知ったのは数日前のことなのです。私の夢に、仮面をつけた黒い着物の男性が現れ、何もかも話してくれたのです。彼は自分はシイナラそのものだと言っていました。最初の内は何を言っているのだろうと思いましたが、話を聞く内どうやら嘘ではないらしいと思うようになりました。そしてこれは決してただの夢ではないと。彼は全てを語った上で、私に力を貸してほしいと申し出ました。全てを終わらせる為の力を……あの人にはその力がないから。私はその申し出を受けました。私も彼と同じ思いでしたから。そして今日、彼に導かれて私はこの店を訪れました」
鏡から一瞬も目を離さずそう語った彼女は顔を上げ鳳月を真っすぐな瞳で見つめる。複雑に混ざり合った感情、そしてもう誰にも崩せぬ覚悟を二人はその瞳の奥に見た。それはあの鏡の中で会った彼女や、男が見せた映像に映っていた彼女にはないものだ。もう彼女は二度とあの穢れなき、眩い笑顔を浮かべることはないだろう。彼女の内に蠢いているだろう様々な感情は永遠に消えない。それを思うと胸が痛かった。
ミイコはお願いします、そう言って深々と頭を下げる。
「どうか、どうか私にその鏡を……ミカガミ様を譲ってください」
きた、二人は思った。男の言う通りだった。最初彼は不思議な力で予知をしていたのだと考えていたが、ミイコの話を聞く限りだと違うらしい。彼は予知したのではなく、こうなるようにミイコを仕向けたのだ――全てを終わらせる為に。鳳月は特に迷うことなく頷き、鏡をミイコへと差し出した。
「勿論構いません。元々これは私のものではありませんし、シイナラの民である貴方が持つ方がふさわしいでしょう」
「ありがとうございます。嗚呼、ようやく私の手に……ミカガミ様……ありがとうございます……嗚呼……ずっと、ずっと会いたかった……」
ミイコは安堵の表情を浮かべながら、鳳月から鏡を受け取る。そしてそれをぎゅっと強く抱きしめる。もう絶対に離すものか、そんな思いがそうさせているのだろう。彼女は再び「ありがとうございます」と言うと早々と店を出て行った。鏡さえ手に入ればここにはもう用はないし、一刻も本当の目的を達成させたいのだろう。
二人はミイコが出ていった出入り口をしばらく無言で見つめていた。
「鳳月さん、ミイコさんはあの鏡をどうすると思いますか」
「……シイナラそのものである男とミイコさんは、全てを終わらせようとしています。しかしただ彼女の手にミカガミ様の鏡が渡ったところで何も変わりはしないでしょう。そのままにしておけばすぐあの鏡は別の場所へ移動し、ミイコさんの前から姿を消すでしょうしね。だから、ただ手元に置いて大事にするわけではないでしょう。お嬢さんがミイコさんの立場だったらどうします? 自分達を見捨てた神様を、自分から大切なものを沢山奪った神様を許せますか? しかもその神様は鏡の内にシイナラの模造品を作り、そのシイナラこそが本物だと言っている。更に言えば今はもうその郷にオリジナルの面影は殆ど残されていない。そんな神様の全てを許して……昔と同じように愛せますか? 私なら絶対に許しはしませんよ。ミカガミ様は自分を愛した民を信じず、自分が愛した民を信じず、彼等を裏切った……」
「やっぱり、そうですよね。でもミイコさんに出来るんでしょうか? あれは神様の宿る鏡です。妖とはいえミイコさんはそれ程強い力を持ってなさそうですし……普通にやっただけでは無理な気がしますが」
「でしょうね。恐らく彼か、或いは別の人の力を借りるのでしょう。まあ方法はどうでもいい。別に知ったところでどうにかなるわけではありませんからね。別に彼女の行為を止めるわけでもない。……私だって同じことをしますよ、きっと。そしてそれを止める権利は誰にもない。あるとしたらシイナラの生き残りだけでしょう」
「そうですね……」
柚季もミイコがこれからするであろうことを止めようとは思わなかった。ミカガミも、彼女がゴミ捨て場の様な姿に変えてしまったシイナラも守りたいとは思わない。鳳月も同じ考えなのだろう。
しかしだからといって彼女がこれからやろうとするだろうことに対し、どうぞどうぞやってくださいと思うわけでもない。何故ならミイコがそれをしたところで、彼女が心から救われるわけでないことが分かっているから。誰も救われず、報われない。それでも彼女はするだろう。救われなくても、悪夢に終わりは来なくても、それでもやらなければ彼女は永遠に彷徨い続ける。
二人はシイナラの為に、そしてミイコの為にあの美しかった郷の姿をいつまでも覚えていようと思う。
シイナラという美しい郷が存在したことを。悲しい最期も何もかも、全て。それが彼等の為に唯一出来ることだから。
*
段々と濃くなりつつある闇の中を、ミイコは駆けていた。ミカガミを胸に抱いたまま、止まることなく駆け続けた。自分が進むべき道は目の前を飛ぶ光の玉が教えてくれた。その玉は必至の形相で駆ける彼女を見てぎょっとする人々には見えていない。だが彼女には、彼女だけには見えていた。そして自分を導いているのが、無力な自分に協力してくれる存在であることも分かっていた。
無我夢中で走り続けた彼女が辿り着いたのは、三つ葉市内にある小さな神社だった。只管動き続けていた足が止まり、ゼエゼエと荒い息を吐く。奥にある小さな社の前に立っている人物は彼女が息を整えるまで静かに待ってくれていた。やがて落ち着いたミイコは目の前にいる人物を見る。見た目は鏡のあった店にいた少女と同じ位の歳。いかにも元気で明るい悪戯っ子少年といった風だが、妙に大人びているというか、神秘的、謎めいているという表現が合うような不思議な雰囲気も併せ持っている。
この少年とミイコが会うのは初めてではない。彼とは幼い頃――まだミイコがシイナラで幸せな時を過ごしていた時に何度か会ったことがあった。彼は度々シイナラを訪れたのだった。ミカガミは彼に害意がないことを察していたので彼が勝手に出入りすることを許していた。何度か彼と遊んだこともおぼろげながら覚えている。但し彼には決まった姿というのが存在しないらしく、気分でころころと姿を変えていた。青年になったり、老爺になったり、はたまた美しい女になったり、犬や猫、烏などになったり。また特定の名前もなかったので、皆適当に呼んでいた。彼が何者なのかは知らない。人間でないことは間違いなく、妖という感じもしない。もしかしたら精霊或いは神様なのかもしれなかったが、今そんなことはどうでも良かった。
「シイナラの導きで、ようやく再会出来たんだね……ミカガミと。僕もそいつに会うのは随分と久しぶりだよ」
少年はミイコが抱えたままの鏡に目を向ける。再会を喜ぶ気持ちなど微塵もないことは誰の目にも明らか。それはミイコも同じことだ。ミイコは無言で抱えていた鏡を石畳の参道へと置く。そして改めて鏡をじっくりと見つめた。記憶の中にあるものそのままの姿。自分でもよく細部の紋様まで覚えていたものだと驚いた。
この中にミカガミ様がいる。本当のシイナラとは似ても似つかぬ姿をした偽りの郷を愛し続けるミカガミ様が。
ミイコの体の中を絶えず暴れまわっていた、黒い感情。その色は、何もかも――それを抱える自分さえも蝕み燃やし尽くす程の激しさは、あの日全てを奪った炎のそれによく似ていた。ミイコの中で暴れまわる黒い炎。その炎にミカガミの再会という油が注がれ、今までにない程激しくなった。
怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、黒い炎となって滅茶苦茶に動き回り、今にも体の外へ飛び出しそうな……いや、もう飛び出している。体が、心が、魂を炎が蝕み焼き尽くす。だが一方でその炎こそが彼女を生かし続けてきたのだ。
血走る眼、震える体、血が出るまで強く噛んだ唇。そんな彼女の頭を少年は優しく撫でてから、ミイコにある物を手渡す。ひんやりと冷たいそれはまるで氷柱の様だった。だが氷柱ではなく、尋常ではない力の塊であるようだ。これが全てを終わらせるものか、と唾を飲み込む。
「……これで本当に全てを終わらせることが出来るのですか。ミカガミ様の宿るこの鏡を割り、偽物と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい程酷い偽物の郷を壊し、ミカガミ様を殺すことが出来るのですか」
壊し、消し、殺す。そして全てを終わらせる。それがミイコの心からの願いだった。その黒い願いをシイナラ自身が願い、また目の前にいる少年も願った。三人の願いが一致したからこそ今日この瞬間が存在する。少年はぞっとする程冷たい声を聞いても眉一つ動かすことのないまま、こくりと頷いた。
「出来る。ミカガミは元は何の神ではなかった。けれど父神の許しを得て地上に降りた時点で彼女はシイナラの神になった。だが彼女はシイナラを捨てた。捨てられたシイナラは滅びた……俺もびっくりしたよ、数年ぶりに寄ったら郷が滅びていたんだから。滅びたシイナラは黒い炎に焼かれ続けていた。もう焼くものがなくなっても、ずっとずっと。なんて、君に聞かせる話じゃなかったね……ごめんよ。兎に角シイナラは消えた。ミカガミはシイナラの神だ。例えあの郷を捨てようと、一度そうなった以上それ以外のものにはならない。そして自身の守る場所を失ったことで、彼女の力は格段に落ちた。本当のシイナラの姿を忘れたことで、余計力は削がれている。今は普通に活動出来ているけれど、いずれは全ての力を失って消える。俺達が手を下さなくてもね。でも俺としてはその前に全部終わりにしたい……昔はどうだったか知らないが、今なら確実に俺の力で出来る」
ミイコはぎゅっと氷柱の様な刃を握りしめる。少年がいつの時点であの郷を訪れたか知らないが、恐らく今なおシイナラがあった土地は黒い炎に蹂躙され続けているのだろう。元々彼女が降臨する前はそういう土地だったのだから。それを思うと、より一層体の内の炎が激しさを増す。
「俺が終わらせることも出来る。もし君が迷って手を下すことが出来ないなら、俺が代わりにやる。でも俺には本来そんなことをする資格がないと思っている。終わらせる資格があるとすれば、やっぱりそれはかつてあの美しい郷で生きていた君の様な人だ。全ての痛みを、苦しみを君に背負わせるのは忍びないと思ってはいる。自分でもなんて惨い奴だと思うよ……でもそれでも俺は願う。どうか、どうか終わりにしてやってくれ。俺は、俺もシイナラが大好きだった。だからこそ許せないんだ。ミカガミのことが。君達を信じず、ぶつかり合うことを恐れ、逃げ、裏切り、忘れてはいけないことを忘れ、今なおシイナラを穢し続ける彼女のことが。でも、哀れにも思う。愛しさだって消えていない。だから余計見ていられないんだ……」
苦々しい表情。きっと彼の中でも今、自分と同じものが暴れまわっているのだろう。シイナラそのものだと名乗ったあの男の中にも。
ミイコは両手でぎゅっと刃を握りしめ、ミカガミの真上へと持っていく。
その状態のまま、彼女はしばらくの間動けずにいた。
壊して、消して、殺してやりたい。そんな気持ちはとても強いのに、それでもなかなか踏ん切りがつかずにいた。あまりに強く激しい思いはかえって行動を抑制するものらしい。いや、或いは自分の中から決して消えない別の感情がギリギリのところで彼女を止めているのかもしれなかった。
(こんなことは……こんなことしても……何も返ってこない。父さんも母さんも、友達も、一人になった私を育ててくれたあの人も、あの人の娘さんも、幸せな日々も、美しい郷も……返ってくるものなんて、何一つ)
こんなことをすることに何の意味があるのだろう。そんなことを思う。終わらせて、何か新しいことが始まるだろうか。いや、何も始まらないだろう。始まるとしてもそれはきっと愉快なことではない。死ぬまで消えないものが一つ増えるだけ。
少年は何も言わない。あくまでミイコの判断に任せる様だ。いっそそのままやってしまえと言われた方が楽なのに、と少しだけ恨めしく思う。
躊躇いが腕をぷるぷる震わせる。ぐらぐらと心が揺れ、いっそ彼にやってもらおうかとも思う。
彼女は迷った。だがそれを終わらせる時がやがてやってくる。体内から消えぬ炎、その炎が絶叫する。
そしてその何度聞いても慣れることのない、吐き気を催し涙が溢れそうになる声が彼女の心情を一瞬で変えた。いつも以上に鮮明に蘇る、あの日の地獄が。
(……嗚呼、父さん……母さん……!)
その日、まず大騒ぎになったのは神殿内だった。神官の一人が、祭壇にあるはずの鏡がないことに気づいたのだ。ミカガミ様は鏡から抜け出して郷の者と遊んだりお喋りすることがあった。だが普段宿っている鏡は神殿に残したままにしている。ところが今日は鏡さえもなく、また彼女の気配を郷の中に感じられない。
近頃ミカガミ様は神官とも術師とも、他の住人とも話をしようとしない。まるで心ここにあらずといった様子で、どれだけ声をかけても返事一つしなくなっていた。それより少し前は適当な相槌位はしていたのに。
神官達は不安になった。彼女はとうとうこのシイナラを捨ててしまったのではないだろうかと。ミイコもそれを知り不安になった。最近彼女の様子がおかしいことは分かっていたから。それでもミイコは信じていた。ミカガミ様がシイナラを捨てるわけがない、と。
だが実際ミカガミ様はシイナラを捨てていた。それが分かるまでにそう時間はかからなかった。
ミカガミ様の守りを失ったシイナラ。そのあちこちから黒い炎が噴き出し始めたのだ。そしてその炎は包み込んだものをみるみる内に燃やし尽くしていった。あっという間に美しかったシイナラは地獄へと変わる。
突如噴き出した炎から人々はあてもなく、果てもなく逃げ惑う。術師は外部の者と連絡を取ったり、異層へ逃げる為の準備を始めたりしたが、やったところですぐ移動出来るわけではない。しかもミカガミを失い、土地や境界に歪みが生じた為に余計時間がかかった。おまけに炎が絶えずあちこちから噴き出す為、頻繁に移動しながら術を発動させる必要もあった。
その術が発動し、皆を逃がす為の準備が整うまで人々は逃げ続けた。炎はいつどこから噴き出すか分からず、安全な場所は一つもなく、炎で土地が段々と覆われる為に逃げ場がますます少なくなっていく。
走っても、走っても、果ては無い。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。今のシイナラに、美しさも喜びも幸福も、温もりも優しさも何もない。あるのは混乱、悲しみ、苦しみ、絶望、死、別れ、閉ざされた未来。ミイコは両親と只管走り回りながら、無数の絶叫を、泣き叫ぶ声を聞いた。人が、木々が、建物が炎に包まれ無残に焼かれる姿も数え切れぬ程見た。大切な人の名を叫ぶ声、助けを求める声。でもそれを聞いても何もしてやれない。ただ焼かれ、一切のものを残さず消えていく姿を見ていることしか出来なかった。目を瞑り耳を塞いで逃げることは出来ないから、嫌でも目に入る、耳に入る。怖くて、苦しくて、涙がぽろぽろと出る。でも泣いても何も変わらなかった。
父に手を引かれ走るミイコは、母の悲鳴を聞いた。ぱっと振り向くとそこには黒い炎という化け物に喰われた母の姿があった。一瞬何が起きたかミイコにも、父にも分からなかった。だがそれを理解した瞬間二人は悲鳴をあげていた。
「お母さん、お母さん、お母さん!」
優しいお母さんが、燃えている。エイコは焼かれながら「逃げて」そう言った。父の名を呼び「ミイちゃんと一緒に逃げて」と。父は涙を零しながらミイコを抱えた。ミイコは必死に抵抗する。ここから離れたくはなかった。まだ母がいるのに。母を見捨てて行けるものか。
「ミカガミ様、助けて、お母さん助けて、やだ、やだ、お母さん、お母さん、ミカガミ様、助けて、ミカガミ様……嫌だ、お母さんを助けて、お願い、お願いミカガミ様!」
必死に叫んだ。ミカガミ様はシイナラを守ってくれる神様。シイナラ・アイゾッカであった神様は自分達を一番愛し、守ってくれた。叫べば、願えばきっと助けてくれると思った。だからあらん限りの力を込めて叫ぶ。でもミカガミ様は母を助けてくれなかった。父から逃れ母のもとへ行こうと滅茶苦茶に暴れながら尚叫ぶ。炎に包まれる母の姿が見えなくなるまで、いや見えなくなっても、ずっとずっと。
ミカガミ様助けて、お願い、助けてと。声が枯れても、それでも叫んだ。喉が痛い、錆びた鉄の味がする、でもずっと叫んだ。叫べばどうにかなると信じて。けれど矢張りミカガミ様は助けてくれなかった。
父に抱えられ、助けをずっと求めながら逃げるミイコの名前を呼ぶ声が聞こえる。前方にいた友達のものだった。その子がまだ生きていることに少しだけ安堵し名を呼び返そうとした途端、その子の体が炎に包まれた。今度はその子も助けてとミイコは叫ぶ。だが救いは来ない。仲良しで、よく遊んでいた子。とっても笑顔が可愛い、大好きだったお友達。そんなお友達が、大好きなお母さんと同じ様に燃えていく。
そしてそれからしばらく経った時。ミイコは突如父に放り投げられた。地面に叩きつけられたミイコは痛みに呻きながらどうにか体を起こした。そして彼女は見てしまった……父が燃えているのを。彼は炎が自分を襲うことを察し、咄嗟にミイコを放り投げて助けたのだった。衝撃と痛み、そして目の前の光景にミイコは動けなくなる。ただただお父さん、お父さんと叫びミカガミ様に助けを求めた。父は焼かれながらも何度も言った――逃げろ、と。しかし父を置いて逃げることなど出来なかった。父を失えば自分は一人ぼっちになってしまう。そうしてそこに座り込み泣き叫びながら、母と同じ位大好きだった父が骨一つ、歯の一かけらも残さず消えるのを見ていた。
そんなミイコを誰かが見つけ、その手を引っ張る。それから彼女はその人と共に逃げた。郷中を走って走って、走りまくった。走りながらミイコは滅びゆく郷を見つめた。
美しかった日々が消えていく。愛した郷が塵屑のようになって、消えていく。美しい色とりどりの宝石の様な世界が遠ざかって、夢になって、去ろうとしている。
消さないで、奪わないで……美しい郷を灰色にしないで。
崩れていく、崩れていく。長い時間をかけて積み上げてきたものも、呑み込まれれば一瞬。積み上げるのは難しくても、壊れるのはとても簡単。こんなに簡単に壊れるなんて、知りもしないまま今まで幸福に暮らしていた。
絶対だと思っていた。このシイナラという郷だけが『絶対』で『永遠』だと当たり前の様に信じていた。
ずっと壊れない、美しい郷。けれど今郷は壊れ、消えつつある。そのことが教えてくれた。永遠などこの世には存在しないと。
逃げながらミイコは思った。いっそ終わらせて欲しいと。愛する郷が、永遠だと信じていた美しい郷が消えていくのを見るのは耐えられない。お父さんとお母さんの処へ行きたい。
逃げて何になるというのだろう。逃げ切ったってもうあの美しく、楽しかった日々は戻ってこない。父と母も、大切な友達も、近所のおじさんおばさんも、いない。思い出の詰まった建物も、神殿も、市場も、小川も、森も、コウリンも……もう無い。
これ以上終わりを見たくない。見る位なら死んだ方がましだ。生きていたって仕方がない。
そして何よりもある事実に気づくことが怖かった。そのことに気づいてしまう前に終わりにして欲しかった。その願いも叶うことはなかったけれど。
逃げる中、ミイコは目を逸らし続けたものにとうとう目を向けてしまった。気づきたくなかったことに、気づいた。
ミカガミ様はシイナラを捨てて逃げた。シイナラを、自分達を裏切った。
酷い裏切りだ。嗚呼なんて酷い裏切りなのだろう……愛を、信頼を、郷を、何もかも裏切ったミカガミ様を、お父さんとお母さんを、友達を、皆を裏切り見殺しにしたミカガミ様を絶対に許さない。
「……許さない……!」
その時の気持ちがミイコを突き動かす。後に真実を知り、ますます許せないという気持ちになった。ミカガミは郷を捨てるだけでなく、偽物の郷で愉快に暮らしていた。おまけにその郷の様子をどんどん変え、見るも無残なものへと変えた。シイナラそのものと名乗った男に見せられたシイナラは酷いものだった。だがそれをミカガミは美しいと思っている。自分が愛した郷そのままの姿だと本気で信じている。そして彼女は本当のシイナラのことなどどうでも良いと思っているのだ。
彼から聞き、彼によって見せられたものを思い出し、彼女の中の炎は激しさを増した。
裏切者、裏切者、許さない、絶対に。
「絶対に……許さない! 消えろ、全部消えてしまえ!」
ミイコは思いっきり刃を持つ手を振り上げた。救いなど、悪夢の終わりなど来ないことは知っている。背負うものが増えるだけだということも分かっている。それでも構わなかった。ミカガミの全てを消してやる、全部、全部。
思いっきり、刃を振り下ろす。鏡に刃が当たると、目が痛くなる程眩しい白い光が鏡に注ぎ込まれた。そしてその光が鏡にひびを入れ、やがてバリンとすさまじい音をたてて割れた。驚くほど簡単にそれは割れ、粉々に砕けた。砕けた鏡を見つめながら、ミイコは荒い息を吐く。ただそれ程重くない刃を振り下ろしただけなのに、苦しくて仕方ない。
(これで……たったこれだけで全てが終わった。ずっと願っていたことだった。長い間ずっと……嗚呼、積み上げるのは難しくて、壊すのは簡単。そうだった、世界とはそういうものだった……)
彼女も、彼女が作り出した醜いシイナラもこれで消えた。最期の瞬間彼女は――ミカガミは何を思っただろう。悲しみ、苦しみ、絶望しただろうか。
(ざまあない……皆、敵はとったよ。裏切者の神様は、皆を殺した神様は私が消したよ。こんなことしても皆戻ってこないけれど……でも良い。あれを消せたから……私達じゃなくて、あんなものを愛するミカガミ様を消せたから)
すうっと黒い炎の勢いが弱まっていく。それが完全に消えることは永遠にないだろうが、今までよりはずっと楽になるに違いなかった。だがそうして黒いものが弱まってくると、別のものが姿を見せる。そしてそれが、鮮やかな色と幸福に包まれた声で作られた美しい世界を蘇らせた。
美しい郷。その郷にはミカガミ様がいた。
女性陣とお茶を飲みながらぺちゃくちゃ喋るミカガミ様、男達と酒を飲んで大騒ぎするミカガミ様、子供達と小川や山、コウリンの下で遊ぶミカガミ様。エイコ達神官に説教され、唇を尖らせるミカガミ様。カブネリで皆と飲み食い踊り騒ぐミカガミ様。
ミイコはある日のことを思い出す。コウリンの下、二人でお喋りをした日のこと。乙女の頬の様な薄桃の花。樹を彩るその美しい花は風に揺られ、ひらひらと花びらを落とす。その花びらの一つがミイコの頭の上に乗った。
――あらミイちゃん、花びらが頭についているわ――
――え、本当?――
――ええ、ほらとってあげるわ。――
そう言って微笑みながら、ミカガミ様は頭の上の花びらをとってくれた。彼女の手がそっと頭に触れて、少しくすぐったくて、心地良い。ミカガミ様はとった花びらを手に持ちながらにっこりと笑った。
柔らかな日差し、手に持つ優しい色の花びら、ミカガミ様の笑顔、ひらひらはらはら降り注ぐ薄桃の優しい雨。何もかもが美しくて、尊くて、愛しい。
愛しい。愛している、愛している。この美しい郷も、美しい神様も。愛している、愛している、愛している……。
「……っ」
ぽと、ぽた、ぽとり。透明な雫が粉々に砕けて塵の様になった鏡の上に落ちる。落ちても、落ちても、いつになっても止まらない。愛しさが溢れて止まらない。
「ミカガミ様、ミカガミ様……!」
愛していた。いや、愛している。昔も、酷い裏切りを知った後も変わらず彼女を愛している。その気持ちは消そうと思っても消せなかった。だから余計に苦しかった。そしてそんな彼女を殺し、彼女が抱えていたものを壊したことが辛い。
押し寄せる後悔。鏡を壊したことだけじゃない。ミカガミ様と和解することないままあの日を迎えてしまったことに対しても。
(もっとぶつかり合っていれば良かったんだ……ミカガミ様と、私達は……。私達はミカガミ様無しでは生きていけない。だから全力でぶつかることを恐れていた。ぶつかって、嫌われて、捨てられることを。怖くて……だからミカガミ様の様子がおかしくなっても、本気でぶつからなかった。ぶつかれなかった……どこか腫物に触るような態度になっていたかもしれない。それをミカガミ様は感じ取り、余計私達を信じられなくなっていたのかもしれない。結局恐れて、逃げて……そしたら全部終わってしまった)
もしこうしていれば、ああしていればという考えがぐるぐると巡る。そしてもしその通りにしていたら、自分達は今もまだ幸せな日々を過ごしていたかもしれない。だがそれはもしもの話。どれだけ後悔しても、ifを考えても、どうにもならない。鏡は壊れ、それと共にミカガミも死んだ。そうなった以上和解も出来ない。
「う……あ……ごめんなさい……ミカガミ様……ごめ……ああ……」
いつまでもミイコは泣き続けた。そんな彼女を少年――速水が優しく抱きしめる。及川家からあまり長い間離れていたくはないが、だからといってミイコを放っておくことは出来なかった。
「ごめん、こんな……君一人に押しつけて、ごめん」
速水は彼女が泣きやむまでずっとそうしていた。そうしながら彼はシイナラで過ごした美しい日々や、ミカガミのことを思い返していた。そして彼も後悔していた。滅びる寸前の郷を訪れていたら、ミカガミと民の気持ちがすれ違っていることに気づき、どうにかしていれば。例え郷の崩壊に間に合わなくても、ミカガミが自分の愛した郷の姿を完全に忘れてしまう前に会えれば良かった。そうすればこんな結末を迎えることはなかったかもしれない。ミイコにこんなことをさせてしまったことも後悔している。
二人は絶えず押し寄せる憎しみと、怒りと、悲しみと、愛と、後悔に苦しみながら、その場にしばらく留まっているのだった。
*
ミカガミは美しい永遠の郷に終焉が来る可能性など、一ミリも考えたことは無かった。何故なら彼女が美しい永遠を望み続ける限り、この郷の永遠は守られるからだ。彼女は永遠を望み続けた。だからこの郷は永遠に美しいままだった。
突如天から白い雷の様な光がすさまじい勢いで落ちてくるまでは。何事かと思った次の瞬間、自分の美しい永遠の郷が崩壊を始める。ぼろぼろとまるで箸を乱暴に入れられた豆腐の様に、美しい郷が壊れていった。同時にミカガミは自身の体がバラバラに引き裂かれる感覚に襲われた。そして体からみるみる内に力が抜けていく。
何が起きたのかまるで意味が分からなかった。ただ分かることは、美しい永遠の郷が崩壊し、自分が死ぬということだけ。ぼろぼろと崩れていく、自分が愛した郷。
「どうして、そんな、馬鹿な……やめて、やめて私の美しい郷を壊さないで! 嫌、嫌よ、駄目、この永遠を壊さないで、嫌、死にたくない……私は、私は、私の郷は永遠なのよ! やめて、壊れる、何で、駄目、やめて!」
ミカガミが叫んでも郷の崩壊は止まらない。そして自らの意識も段々と遠のいていく。
壊れる、何もかも消えてなくなる。美しい永遠が、一瞬の内に永遠ではなくなる。
駄目、駄目、私の美しい……美しい……。
「え……?」
壊れる郷、消えゆく意識。あっという間に叫ぶことさえ出来なくなったミカガミの脳裏にふと、ある映像が浮かんだ。そしてすさまじいスピードで次々と映像は切り替わっていく。コウリン、郷を流れる川、仮装し歌い踊りながら歩く民、自分に説教する神官、延々とお喋りをしている女達、花びらを頭にくっつけたミイコ、森、山、異層からやってきた術師達、酒を飲みながら豪快に笑う男達……。
「あれは……嗚呼、あれは……そうだ、本当のシイナラはああだった……」
術師達が来る前の郷、来た後の郷。今はどちらも愛しい。そしてその愛しさを思い出した時、ようやく彼女は思う。自分が捨てた郷のことを思った。愛しいあの郷は確実にもう、ない。
押し寄せる後悔。自分は何てことをしてしまったのだろう。自分は彼等を信じてやれなかった、彼等と正面からぶつかろうとしなかった。術師だって本当は何も悪いことなどしていない。彼等は自分と郷の住人の希望通りに動いただけだ。それなのに自分は彼等を悪者にしてしまった。
信じるべきものを信じず、恐れ、逃げ回り――結果がこれだ。だがもう全ては手遅れだった。
世界が白くなる。ミカガミの意識も白くなって、消えていく。
最後に彼女が見たのは、仮面をつけた黒い着物の男。その男が仮面を静かに外すと、そこには自分と瓜二つの顔があった。彼はとても悲しそうな瞳をしている。一方で嬉しそうにも見えた。
「ようやく見てくれたんだね。僕のことを……ありがとう。僕も一緒に行くよ……さようなら、僕を殺した母よ。さようなら……僕を生み出した、母よ」
「お前は……嗚呼……お前は……私の……私達の」
男は――シイナラはとても幸せそうに笑った。涙を流しながら。
それを最期に、全てが消えてなくなった。