在りし日の姿は鏡の中に(6)
*
扉を開けると、二人の目の前にはどういうわけかあの趣味の悪い壁や天井に囲まれた廊下ではなく、大きな和風の部屋が広がっていた。柚季と鳳月は「は? 何で?」と間抜けな顔して呆然と立ち尽くす。
畳敷きの部屋は三方を襖が囲んでいる。その襖には静かに流れる川や山、風にそよぐ木々、そこで戯れる魚や鳥、蝶、兎や狐等が墨で描かれている。そしてそれらの絵は絶えず動いており、川の中を泳いでいた魚が飛び跳ね、蝶がひらひらと仲良く舞い、花が風に踊り、兎が戯れている。耳をすませばさらさらと流れる川の音や草花そよぐさやさやという音が聞こえ、花や木々、川の匂いがしそうだ。
前方にあるのは巨大な金屏風。前方をほぼ覆っており、屏風というより最早紙製の壁だ。屏風には薄桃の牡丹に似た花が沢山ついた大きな木、ひらひらと舞い散る花びらが描かれていた。ミイコが言っていた『コウリン』という木は丁度ああいうようなものなのかもしれない。
その屏風の前にあの船に乗っていた黒い着物の男が立っており、呆然としている二人を見て「やあ」と手を上げて挨拶。本当に仲の良い友達みたいに接してくる。しかし面に覆われている顔にその声に合った、満面の笑みが浮かんでいるかは分からない。
「やあやあ、よく来たね。もっともここへ招いたのは僕自身だけれど。船で会った時言っただろう? ミカガミから話を聞いたら案内するってさ」
「え、ええとここは?」
戸惑う柚季の問いを聞き、仮面の男は背後にある屏風を愛おしそうに撫でる。
「……ここは『真実のシイナラ』が眠る場所さ。もうここにいる誰もが覚えていない、或いは知らない姿がここにだけは存在している。この部屋を見つけ入ることは一部例外はあるものの――ここの住人には出来ない。ミカガミにすら不可能だ。何故なら彼等の中にある『真実』はここにはないからだ。自分達の中にある真実こそが、本当に本当の真実だと信じて疑わない彼等には……ここにある『真実』に辿り着くことは出来ない。当たり前だと思っていることが実はそうではないかもしれない、そういう風に考えることなどない彼等にはね。けれど君達は違う。自分達が見てきたものが本当に真実かどうか疑うことが出来ている君達なら、真実が凝り固まっていない君達ならこうして招くことが出来る」
先程までとうって変わって、寂しそうな、悲しそうな声。男がそんな胸がぎゅっと締めつけられるような声でそう言い終えると、ふうっと部屋が薄暗くなった。障子の絵も、畳も天井も殆ど見えなくなったが、目の前にある屏風だけが眩く輝いている。ふとその屏風に描かれていた花や花びらがそこから抜け出て、柚季や鳳月めがけて一斉に飛んできた。薄桃の洪水に呑まれ、思わず二人は目を閉じる。滑らかな花びらに全身を撫でられ、甘い匂いに包まれ。
その甘く心地よくも苦しい不思議な洪水からやがて解放され、恐る恐る目を開くと。
屏風に描かれていた木とそこについていた花は消えており、代わりに数々の映像が映っていた。その映像に一瞬で二人は釘付けになった。
天を覆う青はトルコ石。滑らかな、汚れなど知らない、澄みきった、鮮やかな。青に白混ざり、見ているだけで心洗われる。その空にたなびく雲の白美しい。ぴゅうろろろう、ぴゅうろろろう、大きな翼広げて悠々と飛ぶ鳥の鳴き声。そう、屏風からは音や声が聞こえる。ただ全ての映像のものではなく、その時映っている映像の内の一つから聞こえるらしい。一定の時間が経つと別の映像の音や声が聞こえるようになる。
その下には雄大な山々と、深い森に囲まれた土地。その全てを天から注ぐ太陽の光が包み込む。その光は木々の、そこで住まう生き物達の生命に当たり、強く眩い輝きを見せた。流れる小川の中を子供達がきゃっきゃと笑いながら駆けている。水しぶきも、子供の笑みも眩しい。その近くでは談笑しながら洗濯をしている奥様方。甘い匂いのする、きらきらと輝く透明なその水を見ていると、恥も外聞もなく靴をぽいっと脱ぎ捨て「わああああ」という声を上げながら飛び込みたいという衝動に駆られた。きっとそうしてもこの映像の中にいる者達は誰も自分達を嘲笑いはしないだろう。
建ち並ぶ木造の家々はどれも小さく、素朴な造り。柚季達の知るシイナラよりも全体的に建物の数は少ないし、背の高い建物も殆どない。殆どがどうやら民家のようで、買い物は小さな市場で皆済ませているようだ。木製の屋台に並ぶ食べ物や装飾品、その品揃えはお世辞にも豊富とは呼べないように見受けられるが、そこで買い物をしている人達の様子を見る限りそれでも十分満足している様子。また別の映像では談笑しながら山で獲ったらしい獣の肉と、自分の家の畑で収穫したらしい野菜を交換している人達の姿もあった。そうしてご近所同士物々交換をして何かを得ることも珍しくないのだろう。数は少ないが食事処もあり、人と妖が仲良く食事をしながらお喋りしていたり、酒を飲んだりしている映像もあった。それは人と妖が平等に、そして仲良く暮らしているこの郷ならではの光景だった。そこに映る映像とそっくり同じ様に妖と過ごせる人間は柚季達の世界にはきっといない。人と妖を全く区別せずに生きられるのはここシイナラの民だけに違いなかった。
別の映像には、紙製の蕪を模したらしい灯りを手に、愉快そうに歌い踊りながら進む行列があった。彼等は一様に熊やら兎やら狐やら、動物達の仮装をしており、顔には魔除け等何らかの呪術的な意味を持っていそうなペイントを施している。動物の牙或いはそれを模したものと石を連ねて作られた首飾りが、彼等が動く度しゃらしゃらかつかつという音を鳴らす。歌っているのはどうやら五穀豊穣を祈る歌のようだ。
その幾つもある行列が最後集まるのは、驚く程大きな木だった。そしてそれは屏風に描かれていた木だった。その木を中心とする広場には同じく蕪を模した灯りが沢山吊るされ、優しい橙の光を放っている。蕪というより、これでは丸々ころころとした人参みたいだ。その灯りの下で人々がわいのわいの騒ぎながらご馳走を食べたり、酒やジュースを飲んだりしている。本当のカブネリはミカガミの為――ミカガミを讃え、歌と踊りと綺麗なものが好きな彼女を喜ばせる為だけの行事ではなかった。日に二度ではなく、年に二度行われ実りを祈り実りに感謝する為の祭りだった。
シイナラ・テーベの映像も屏風には映し出されている。ぱっと見ここはあまり先程柚季達が見てきたものとは変わりがないようだった。ただし船着き場は見当たらない。
しかしあまり変わりがないのは頂にある神殿以外の部分だ。映し出された神殿は、非常に趣味の悪い外観ではなかった。まず神殿へと至る道が違う。宝石で滅茶苦茶に装飾された柱も、翡翠の敷かれた道もなく、代わりに色とりどりの花や木が植えられている。その先にある池も違う。蓮浮かぶ池、幸せそうに泳ぐ鯉達。そこに架けられた橋も木製で、何の変哲もないシンプルな造形だ。神殿には金も宝石も使われておらず、またそこまで大きくない。しかしそれでいて威厳や気高さを感じる。そしてただ見ているだけで心洗われる清らかさがある。神殿内も映っていたが、こちらも飾り気は殆どない。だが美しい。
田畑を耕す人々、狩りをする者、外界から持ち込んだらしい本を読む者、コウリンの下で昼寝したり談笑したり、お茶を飲んだり、遊んだり、読書をしたりする人々、川で釣りをする者、外界から帰ってきたシイナラ・タメノハーテ・チョーサの者達を歓迎する人々……。
豊かな暮らしとは呼べないかもしれないが、それでも彼等は皆幸せそうだった。
そしてその数々の映像には時折一人の女性の姿が映っていた。細身の、地に届きそうな程白い髪を伸ばした、青みを帯びた衣と裳、瑠璃の帯、春の風を色で表わしたらこんな風だと思えるような、黄緑色の領巾という周りとは明らかに違う衣装に身を包んでいる。容姿は特別美しくも醜くもない。だが彼女は常人が決して持つことのない高貴な、神秘的な、見る者に畏怖の念を抱かせる強い輝きを持っていた。映像から聞こえる声には二人共聞き覚えがある。彼女こそがあの鏡に宿る女神――ミカガミ様なのだ。
彼女は間違いなく神であった。だが神でありながら彼女はシイナラの民とまるで友人や家族の様に接している。ある映像では奥様方とお茶しながら談笑、ある映像では田植えに乱入してどろんこになりながら苗を植えている。小川に入り、子供ときゃっきゃと言いながら水をかけあい、男衆と酒を飲みながらげらげら笑い、コウリンの下で子供達と一緒に昼寝。そして神官達にガミガミ叱られながらずるずる引きずられる様にして神殿へと帰っていくのだ。その神官の中にはエイコもいた。説教する彼女と、正座してそれを受けているミカガミ。しかしミカガミはまるで堪えていないようで「貴方だって小さい時は私とコウリンの下でよく遊んでいたくせに。ミカガミしゃまだいちゅき~ってにこにこしながら言っていたじゃない」と火に油を注ぐ有様。顔を真っ赤にしたエイコのお説教は続く。
(まるっきり私達と話をしたミカガミ様とは違う……)
柚季達がついさっきまで話していたミカガミは、この映像の様にシイナラの民を家族のように思っている風には到底思えなかった。そしてシイナラの民のミカガミに対する態度もまるで違う。
ミカガミや民だけではない。シイナラ・チュカクの様子もまるで違う。目の前に映るシイナラ・チュカクは、ゴミを何も考えず滅茶苦茶に投げ捨てまくったゴミ捨て場とはとても呼べない。そこに映るのはきらきらと輝くビー玉をうんと詰めた箱の様な郷。
その次々と映る映像を男も静かに見つめている。仮面で隠れていても、彼が愛と悲哀と怒り――様々な思いを混ぜたものが詰まった瞳でそれを見ていることが察せられた。
「これが、本当のシイナラの姿……まさかこれ程違っているとは……」
「驚いただろう? でもこれが真実だよ。本物のシイナラはこうだったし、ミカガミが自分の依代――鏡の中に最初に作ったシイナラもこれと同じものだった。もっとも、滅びる前のシイナラはこれとは大分様子が変わっているけれどね。今映しているシイナラは、彼女が『あれら』と呼んでいる者が来る前のものだ。あれらが来てからはシイナラも確かに彼女の言う通り大分様変わりしたよ」
男がぱちっと指を鳴らすと、映像の雰囲気ががらりと変わる。全体的に随分賑やかになり、図書館や大浴場、学び舎、劇場等の施設が登場し、店の種類や数も増えた。建築物や食事諸々を見る限り、西洋の文化も取り入れるようになったようだ。便利な道具、機械、新たな技術、知識等を数多く吸収したことで劇的に発展し、生活もかなり豊かに、便利になった様子。しかしかなり賑やかになり、以前に比べれば緑は減ったものの、それでもあのゴミ捨て場の様にぐちゃぐちゃごちゃごちゃした汚らしさはなく、むしろ自然と文明のバランスは良い按排。豊かながらも郷は美しいままで、十分心休まる郷となっている。
だがこの郷はもう恐らく存在しない。代わりにあるのはミカガミが自身の中に作り出した偽物のシイナラ。すでに本来の姿を失った、ゴミ捨て場の様な郷……。
「一体ミカガミ様とシイナラの民に何があったのですか? 彼女から真実は聞きましたが、貴方の知る真実も聞きたい。そしてどうしてミカガミ様が自身の中に作り出したシイナラはこんなことになってしまったのです?」
「……最初から話そうか。ミカガミはかつては天上にある、神々が住まう京で暮らしていた。だが彼女は天上での暮らしに飽き、一方空から見下ろす地上の世界に興味を抱いた。そしてそこで暮らす人間や妖等の生き物にもね。彼女は自身の父にお願いし、地上にある土地の一つを納め地上の生き物と共に暮らすことを許してもらった。そして彼女は地上へ降り立った」
彼女が降り立った場所から美しい花をつける木が生えた。それがコウリンである。父がミカガミに与えた土地は当初、動物も植物もまともに暮らすことが出来ないような場所だった。邪悪で歪な力を持つ黒い炎が常にあちこちから噴きだすような土地だったからだ。曰く桜町や三つ葉市も元々は似たり寄ったりの土地だったらしい。それを桜山等に住む神が抑えたり、浄化したりしているお陰でどうにか人が住めるようになっているとのこと。だが地下に流れるその力を消し去ることは出来ず、それらが妖を引き寄せたり異界との境界を曖昧にしたりと色々悪さをしているようだ。
「彼女が来たことでそれらは抑えられ、それらが噴き出したり、それによって良くないことが起きることはなくなった。もっともミカガミの力を以ても完全にそれを消し去ることは出来ない。彼女がいる限りは生き物も植物も住める平和な土地だけれど、彼女を失えば……分かるだろう?」
冷たい怒りと嘆きをびしびし感じる声に、柚季と鳳月は心臓が凍りつく思いをしながら静かに頷く。男は話を続ける。
「ミカガミは与えられた土地にシイナラと名付けた。彼女はその土地を人と妖が共存出来る場所にしようと考え、実際その通りになった。シイナラは彼女に誘われるようにして集まって来た人間と妖が仲良く暮らす郷になった。やがてミカガミはシイナラを外界から守る為、土地を異層へと沈めた」
元は日本にある一つの郷に過ぎなかったシイナラは異界にある郷となったのだ。但し紗久羅達がよく行き来している『向こう側』に比べるとよりこちら側に近い所にある。そうして外界と違う層へ移動することで、邪な心を持つ者どもの魔の手がシイナラへ及ばないようにしたのだ。
だが完全に異層との関わりを断ったわけではない。ミカガミはシイナラ・タメノハーテ・チョーサという組織を作らせ、彼等を異層――かつて自分達の郷があった層へ送り込み様々な技術や知識を集めさせた。時にふとしたことがきっかけでシイナラに迷い込んだり、ミカガミが招いたりした者から話を聞くこともあった。但し見たり聞いたり学んだりしたもの全てを取り込むわけではなく、ミカガミと神官が話し合ってそれらの取捨選択をしたそうだ。神官達は民の意見を聞き、その意見を参考にしつつミカガミと話し合っていた。
「まあお互い今の暮らしに不満は殆ど無かったし、大きな変化を望んではいなかったから……パっと見はあちこちから技術やら知識やらを得て発展させた所には見えなかったけれどね。でも非常に地味ながら様々な面で外界から取り入れたものが役立ち、よりよい暮らしの助けになった。ミカガミはシイナラの民と共に作り上げてきた郷を深く愛し、そこで穏やかで幸福な日々を送っていた。……彼女が『あれら』と呼ぶ集団が現れるまではね」
そこで男は深いため息を吐く。そして、無言。その後に起きた悲劇について語る為の心の準備をしているのだろう。愉快な話には間違ってもならないだろうし、男が誰なのかは知らないが郷を心から愛していることは声や屏風を撫でる手の優しさ等から容易に分かる。愛する郷が滅びるまでの話など本当はしたくないのだろう。
「ミカガミ様の言う『あれら』とは一体何なのですか?」
鳳月が話の続きを促す為か、沈黙を破って問いかける。それにもしばらくの間男は答えなかったがとうとう覚悟を決めたのか重い口を開いた。
「……海外……異国……外国の術師達さ。白い肌に金や栗色、赤い髪、青やら緑やらの瞳を持つ、見たこともない衣に身を包んだ者達。彼等は『異界』について研究していてね、世界中を旅しながら異界に存在するあらゆる京や集落等を訪ねていた。こっそり、ひっそりとね。彼等は相当な力を持つ術師達で、術を用いてシイナラが存在する層に自力で入り込んだ。ミカガミには彼等を追い返すことも出来たが、彼等に邪心が無いことを感じ取ったのでとりあえずは追い出さず迎え入れた。実際彼等にはシイナラに危害を加える気持ちなど一切なかった。彼等の目的はあくまで研究で、侵略や破壊などという野蛮なことは考えていなかったからね。しばらくの間見て回って話を聞いて、調査を終えたらさっさと立ち去る……その予定だった」
「けれどそうはならなかったんですよね?」
「その通り。ミカガミはシイナラについて色々と語る代わりに、彼等の故郷のことやこれまでの旅で見聞きした物事について色々と聞いた。こちら側、向こう側どちらの話も。ミカガミだけでなく、シイナラの民も同じ様にね。人間とは全く違う姿かたちをした妖達と日々を過ごしているものだから、異国の人間ともすぐ打ち解けたんだよね。妖達もこことは全く様子の違う土地には興味津々だったっけ。そしてミカガミやシイナラの民は段々と、シイナラにも話に聞いた様々な物を取り入れたいと考えるようになった。今まで全く聞いたことがないものも、シイナラ・タメノハーテ・チョーサが持ち帰ったが結局取り入れることを一度は却下したものも。まあ、そういう気持ちになるのも分かるけれどね。彼等はとても話が上手だったし……意図せず見事なプレゼンテーションになってしまっていたんだよ」
ミカガミは彼等の力を借り、シイナラをより発展させることを決意した。シイナラの民もそれを望んでいた。今まで大きな変化を望んでいなかった彼等は、ここで初めて大きく前へ進むことを望んだ。心境に変化が起きる程、彼等の話やら所持品やらは衝撃的なものだったのだ。
「彼等も初めはその申し出を断ったのだけれどね。彼等は自分達が訪れ、調査した土地の姿を変えることを望んでいなかった。過度な干渉によってその土地元来の姿を変えることを彼等は嫌った。それに彼等も美しいシイナラのことを深く愛していた。シイナラはシイナラのままで、このままであって欲しいと思っていた……けれど結局根負けし、術師達の一部はシイナラに残り発展の手伝いをすることになった。残りの術師はシイナラを去ったが、その際シイナラ・タメノハーテ・チョーサメンバーの一部が彼等についていき共に旅をすることになったんだ、ミカガミの命令でね。彼等は今までと同様ミカガミから預かった『ミカガミ様の欠片』に様々なデータを入れ、一定期間経った後術師達とシイナラへと戻った。この欠片云々の話は君達もさっき聞いていたね? 僕は知っているよ」
確かにシイナラ・タメノハーテ・チョーサのメンバーが持っている箱とその中に入っているものの話については宙船で会った作家の男から聞いていた。術師と共に旅をすることで彼等の行動範囲はぐっと広くなり、それに比例して得るものも多くなったようだ。時に彼等は海外へ行くこともあったようだ。シイナラに残った術師は自身の持つ知識を用い、シイナラ発展の手伝いをした。時に遠方にいる者と連絡をとることが出来る術を用い、故郷や世界各地にいる仲間達に協力を求めることもあった。
「そしてシイナラは今までとは比べ物にならない勢いで発展していった。術師達はシイナラの美しさをなるべく損なわないよう、相当苦心したようだよ。入っちゃいけないスイッチが入って、あれもこれもどんどん取り入れようと言いだすミカガミやシイナラの民を抑えるのもまあ大変だったみたいだ。それでもちゃんと付き合ってくれた……彼等は揃いも揃ってお人よしだった」
「確かに……一部の人は調査の為の旅をやめてシイナラに残ったんですものね。おまけにシイナラ・タメノハーテ・チョーサの人達を旅に同行させることを許したり、わざわざ他の所を調査している仲間に協力を要請したりして……」
シイナラに残った術師達も定期的に生国へ帰り、新たな技術や知識、便利な物等を持ち帰って来た。彼等は決して途中で放りはせず、半端なこともせず、様々なバランスを考えながらもシイナラを発展させ続けた。シイナラと術師達の交流、郷作りは続いた……数十年もの間、ずっと。
「術師達もね……初めの内は渋々だったがシイナラの民と交流を続け、そして豊かになっていく郷を見て喜ぶミカガミ達の姿を見る内どんどんやる気になったみたいだ。そして自分達もシイナラの民の一人であると考えるようになっていった。ミカガミとシイナラの民、術師達は一丸となって郷を作っていった……そう、彼等は別に悪くなかった。ミカガミだってずっと彼等に感謝していたし、シイナラの民の一人として深く愛していた」
だがミカガミとシイナラの民、術師達の良好な関係は永遠には続かなかった。
「ミカガミはある日ふとかつてのシイナラのことを思い出した。ああそういえば昔はあんなだったなあってね。胸の中は温かいものでいっぱいになった。その昔のシイナラの姿と、それに対する想いを抱いたまま彼女はシイナラ・テーベの頂上から地上を見下ろし……愕然とする。うんと変わってしまったシイナラの姿にね。それが、彼女が狂う始まり。なんてことはないことがキッカケだったんだ。でもその何でもないことがシイナラを崩壊へと誘った」
シイナラは術師が来てからどんどんとその姿を変えていった。しかし意外と最初に比べてどれだけ変わったか、ということについては気づかないものだ。ミカガミも今まではそうだったのだろう。だが彼女は気づいてしまった。そして気づいた途端輝きが、愛しさが、消えてしまったのだ。
「そういうことって、あるだろう。今まで好きで好きで仕方なかったのに、いったん熱が冷めるとどうしてこんなものに夢中になっていたのだろうと心から思うことって。ミカガミの場合も同じだった。そして気づいた時にはシイナラは術師が、彼等の旅に同行したシイナラ・タメノハーテ・チョーサが持ち込んだもので溢れかえっていた。そのことでミカガミは、自分の愛した郷を彼等に侵略され、自身の手から奪われたと思うようになった。そう思うと今までと変わらず術師達を慕い、彼等が持ち込んだものを次々と取り入れようとするシイナラの民を見る目も変わっていく。そして彼女は思うようになる。シイナラの民は今、自分よりもむしろ術師達の方を愛しているのではと」
初めは小さな疑念だったが、それは日に日に膨らんでいった。些細なことさえその疑念を証明する事柄に思えていく。
「ミカガミはこれ以上術師の持ち込むものを取り入れてはいけないのではないか、郷の景観を損ねる様なものは取り除いた方が良いのではと言ったが、それに賛成するシイナラの民は殆どいなかった。皆彼等のお陰で生活が豊かになり、より良いものになったと感じていたからね。一度便利なものを手に入れたら、もうそれが無い世界では生きられない。そして何かを手に入れたらより良いものを手に入れたくなる。神と人、価値観の違いもある。ミカガミは神で、簡単なことでは死なない。だから郷がただ美しければそれだけでいいんだ。でも人間はそうはいかないよね。……何も知らなかった頃は、多少不便でも美しければ、心豊かに暮らせていればそれで良かったけれど。結局そういう考えの違いもまた双方の溝を深める原因になった」
「……ミカガミ様は、シイナラの民は自分よりも術師達の方を慕い大切にするようになったと言っていました。自分の郷よりも彼等の知識と技術を呑み込んで作り上げたシイナラの方を選んだ、酷い裏切りだと……」
柚季はミカガミが自分達にぶちまけたことを話す。彼は静かに聞いていたが、どうやらそんなことは全て知っているという風だった。彼はミカガミがどう考えていたかもよく理解している様子。話を聞き終えると深いため息を吐き、屏風に映るミカガミに触れる。
「シイナラの民は変わらずミカガミを愛していたというのに。彼等にとっての神はいつまでも彼女で、彼等が最も愛するものはミカガミとシイナラだった。確かにシイナラの民は術師達を尊敬していたし、心から愛した。けれど彼等の最愛は変わらなかった。術師達もミカガミにとって変わろうなんて思っていなかった。彼等はただ純粋に、自分達の大切な『家族』がより良い日々を過ごせるよう尽力したんだ。彼等は神になろうなど思わなかった……それなのに。ミカガミは勝手に疑い、そしてその疑いを一人で膨らませ、決めつけた」
それでも彼女は最初、どんどんと膨らんでいく黒い感情から目を背け、今までと変わらずシイナラの民を、シイナラを守ろうとしていた。彼女は自身の中に自分が最も美しいと思う時期のシイナラを再現し、それを見て心を癒すことで現在のシイナラを守りたいと思う心を、愛を失わないようにしたのだ。だがそれは逆効果となり、かえって彼女の心をシイナラやそこに住む人々から離れさせ、自身が抱く黒い感情を急速に膨らませ、見て見ぬふりをすることなど出来ない程にさせてしまった。彼女の悲しみや苦しみは怒りと憎悪に変わっていく。
「酷い裏切りなど、存在しなかったのに。でも彼女にとってそれは存在するものだった。……彼女は許せなかったんだ。自分の思い通りに動いてくれないシイナラの民達が、自分が望まぬ姿になっていくシイナラが。シイナラは自分だけではなく、皆で作り上げる郷なのだと彼女は常々言っていた。皆の美しい郷……でもきっと心の奥底で彼女には『自分が作った』『自分の郷』という意識があったのだろう。そこにある何もかもが自分のものだから、思い通りにならないことが許せなかったのだろう。そして自分以外ものが郷の中で大きな存在になることが気に食わなかった」
思い通りにならない民、思い通りにならない郷。郷の人々にとって重要な存在になっていった術師達。気に食わない。
またシイナラの民の中には術師達の話を聞く内に外界に惹かれる者もおり、望んでシイナラを出ていく者もちらほらと出ていた。今まで外界からシイナラへ迷い込み、そのままシイナラに住み着いた者はいたがその逆はなかなかいなかった。ミカガミは今まで自分の郷は外界にあるどんな所よりも美しく優れていると思っていた。だがそういう人間が現れたことで、ミカガミの中でシイナラの価値が変わっていく。今のシイナラは術師によって穢された、それ故に価値が下がり輝きが失せ郷を捨てる者が現れたのだと考えるようになる。ますますそのことで術師に対する憎しみは募り、幾ら価値が下がったとはいえ平気でシイナラを捨てた民を恨む。
そんな外界へと出た民の中には程なくシイナラへ戻ってくる者がいた。ミカガミは一度は郷を捨てた彼等でも望めば郷の中へと戻してやった。彼等は大抵外界で怖い思いをしており、それをミカガミや他の民に話す。するとミカガミはそんな恐ろしく、汚らわしい世界のものにシイナラは浸食され続けているのだと恐怖する。いつかこの郷も汚らわしいもので満たされ、外界と寸分変わらぬものに成り下がるのではないかと。いや、もうすでにそうなってしまっているのではないかと。それでも彼女には術師を追い出すことは出来ずにいた。
「シイナラの民の『酷い裏切り』に怒る心と、シイナラを守りたいという心、シイナラの民を愛する心はずっと戦い続けた。自分の為に自分が気に食わないと思うものを排除したいという気持ちと、シイナラの民の為に彼等が望むものは出来る限り取り入れたいという気持ちも。だけどそれも長くは続かなかった。心癒す為に自身の内側に作り上げた美しい郷の姿が、愛も憎しみも怒りも苦しみも悩みも何もかも消し去ってしまったんだ」
好きの反対は無関心。とうとうミカガミは本物のシイナラに対して一切の感情を持たなくなってしまった。シイナラの何もかもがどうでもよくなり、神官や術師、民の声を聞かなくなってしまった。一方で自身の中にある『精巧な模造品』であるシイナラに深い愛情を寄せた。
「ミカガミの様子がどんどんおかしくなっていることは、シイナラの民も当然気づいていた。だから彼等は一体どうしてしまったのか、何か不満に思っていることがあるのかと何度も聞いた。何度も何度も……お互いの思いをぶつけあうことで、少しずつ壊れてきている絆を修復させようとしたんだ。けれどミカガミが彼等に本音をぶつけることはなかった。大丈夫です、何でもありません、心配しないで……そう言うだけだった。シイナラの民は、以前ミカガミが術師達が持ち込んだものを取り入れるのはやめた方がいいのではないか、景観を損ねるものは排除した方が良いのではないかと提案し、自分達がそれを拒否したことを思い出した。それがいけなかったのではないかと彼等は思い、そのことについて尋ねた。でも彼女はそれでも自分の気持ちを話はせず、あれはふと思っただけのことだから気にするな……そう答えたんだ。で、本物のシイナラに関心を抱かなくなった後は返事さえしなくなった。もうその頃には彼等の声なんて聞こえなくなっていたのさ」
「そんな……。自分の抱えている思いをちゃんとぶつけていれば良かったのに。術師達だって別にシイナラを自分達の所有物にしたいと思っていたわけじゃないし、シイナラの民だってミカガミ様の言葉に全く耳を傾けない人達じゃなかったはずなのに」
もし思いをぶつけあっていたら、シイナラは破滅の運命から逃れられたかもしれなかった。今更新しく作ったもの何もかもを壊して取り除いて元のシイナラに戻すことは出来なかっただろう。だが、変えることが出来た部分もあったはずだ。今までに積み上げたものを変えられなくても、これから先の方針等は変えられる。思いをぶつけあうことで気持ちが楽になったり、納得出来なかったことが出来るようになったかもしれない。
だが彼女はそうしなかった。ミカガミがそうである以上、シイナラの民や術師達にはどうすることも出来なかった。ミカガミは一人で悩み苦しみ、勝手に相手の気持ちを決めつけ、黒い心を膨らませ、怒り、そして全てを放り投げたのだ。
「ミカガミは怖かったんだよ。自分の中にある思いをぶちまけることが。そして自分が本音をぶちまければ、当然シイナラの民も自分に思いをぶつけてくる。シイナラの民の愛が自分から離れてきていると思い込んでいた彼女は、聞きたくもなかったことを沢山聞かされると思った……そして自分が思いをぶつけることで、彼等に嫌われるのではないか、ほんの少し残っていた愛も消えてしまうのではないかとも。神が人間に弱い部分を曝け出すことも許せなかったのかもしれないね。彼女は民を信じることが出来ず、思いをぶつけ合うことで新たな一歩を踏み出す勇気も持てず……最後は自分にとって都合の悪い現実から逃れ、都合の良いことしか起こらない、居心地の良い夢の世界で永遠に生きることを選んだ。更にミカガミは本物のシイナラから立ち去り……守りを失ったシイナラは……滅びた」
最後はどうにか絞り出したような声だった。掠れていて殆ど聞き取れず、恐らくこう言ったのだろうと推測しか出来ない。彼にとって最も語りたくない、現実ではなく夢であって欲しいときっと今でも思うだろう――美しい郷の終焉。
「シイナラはミカガミが居なければ、人はおろか獣も植物もまともに生きられぬ土地。それは彼女がシイナラを別の層に沈めた後も変わらなかった。彼女は土地ごと沈めたわけだからね。本来シイナラがあった場所には今もぽっかりと穴が開いているよ。普通の人には近寄ることも、見ることも出来ないがね。まあそんなことはどうでもいい。……ミカガミという守りを失ったシイナラが滅びるのは早かった。土地中から噴き出した黒い炎が、何もかもを燃やし尽くした。コウリンも、家も、神殿も、店も、時計台も、花も……人間も妖も、何もかも。それに燃やされたものは塵一つ残さず消えていった。民の幾らかは術師と共に異層へ脱出することが出来たが、殆どは黒い炎に焼かれて消えた。皆ミカガミに助けを求めながら地獄の中を逃げ回り、絶望しながら逝った。逃げることに成功した人の中には妖もおり、彼等の中には今も生きている者がいる。そんな彼等はきっと今も脳裏に焼きついたあの日の地獄を夢に見るだろう」
その映像が屏風に映ることは無かった。だが映らなくて良かったと思う。彼の話を聞いて否応なく脳裏に浮かぶ映像。想像が生んだそれさえも、目を逸らしたくなるようなものだったから。
ミカガミの理想から離れたものの、十分に美しい姿を保っていた郷。その郷を、次々と噴き出す邪悪で歪な力の塊である炎が燃やす。泣き、叫び、恐怖しながら逃げ惑う人々、彼等に飼われていた犬や猫、野生の生き物達が次々とその炎に焼かれて消えていく。黒い炎に焼かれる大切な人を見て泣き叫んでも、炎は消えない。慣れ親しんだ建物も愛しい思い出と共に消えていく。空は赤黒く、雲は炎と同じ色をし、この世界に一かけらの希望も残されていないという地獄の様な現実を突きつける。それでも彼等は奇跡と救いを信じ、自分達が愛するたった一人の神様の名を呼ぶ。
だがその声に応える女神は最後まで現れず、郷は死んでいった……。
柚季の脳内に浮かぶ映像の中に、ミイコと彼女の母であるエイコの姿があった。それを見た瞬間、柚季は震える声で尋ねる。
「さっき私達が会った……ミイちゃんと、エイコさん……のオリジナルといえばいいでしょうか……彼女達はどうなったんです? シイナラが崩壊する頃にはもうこの世にいない人達だったんですか? それとも、それとも……」
それ以上は言えなかった。そして質問しておきながら答えを聞きたくないと心が叫んでいる。しかし男は躊躇いながらもその問いに答える。
「ミイコとエイコ、ミイコの父親三人は妖だった。見た目は人間とそう変わらないけれどね。ミイコはああ見えても君達よりもずっと長い時を生きている。精神年齢は幼いままだったけれど。三人はシイナラが滅びた時もいた。……けれどその日エイコも、父親も炎に焼かれて死んだ。ミイコだけが生き残り、そして今も彼女は生きている」
「そんな……」
ミイコが生きているという事実は不幸中の幸いな気がしたが、彼女は自分の生と引き換えに大好きだっただろう両親を失った。もしかしたら彼女の目の前で炎に焼かれて死んだかもしれない。鳳月も苦々しい表情を浮かべている。
「ミカガミは美しい郷を永遠に保つ為、古い物を排除することもなければ新しいものを取り入れることもなくなった。サトトザシというのは、本物のシイナラが滅びた後模造品のシイナラの中で行われたものだ。更にミカガミは模造品の中での自分の立ち位置を変え、彼等と家族の様に接することはなくなった。そして双方の関係はがらりと変わったんだ。そういう点は以前のシイナラとは異なっている。……それもこれも全ては美しいシイナラを永遠に美しいままにする為。別に自分と人との関係性を変えても変えなくても、このシイナラがおかしくなることはなかったのに。だって、ここは何もかも自分の思い通りになる世界だもの。それでも、不安だったのだろう、怖かったのだろう。そうした結果模造品のシイナラは、厳密には精巧な模造品ではなくなった……けれど見た目は精巧な模造品のままだった」
「ですが、今はオリジナルとは似ても似つかぬ姿になっています。サトトザシをしたとは到底思えない……彼女は永遠を守ると口では言っておきながら、その実何らかの方法を使って外界の物を取り入れ続けたのですよね。何故永遠を望み、変わることを望んでいないはずの彼女が統べる模造品の郷が、これ程までに姿を変えてしまったのですか? もっとも本人に郷の姿を変えている自覚はないようですが……」
それは柚季も気になるところだった。オリジナルのシイナラを見た後なら、模造品のシイナラが本当の本当に美しい永遠を保っているわけではないことに確信が持てる。でもどうしてそのようなことになってしまったのか。
男は再び屏風に映し出した、美しいシイナラの映像の数々を見ながらため息をつき、ぼそりと呟いた。
「……たからだよ」
「え?」
「飽きたからだよ……何も変わることのない郷にね」
その答えを聞き、二人は絶句する。彼女が作り出した精巧な模造品は、オリジナルのシイナラを見捨てる程愛した姿ではなかったのか。そして永遠にそのシイナラを愛し続け、守り続けたいと願ったのではないのか。
「元々彼女が地上に降りたのも、天上の京で過ごす変わり映えのしない日々に飽きたからだ。彼女は天上の退屈な毎日から逃れる為、父神に願って地上へ降りることを許された。人間やその他の動物に惹かれていたというのも嘘ではないけれどね。彼女がシイナラ・タメノハーテ・チョーサに色々な物を持ち込ませたのも、勿論民がより良い暮らしを過ごせるようにという思いもあったけれど……結局はそのまま何もかも変わらないと飽きてしまうからだったんだ。少しも変わらないのは飽きるから嫌だけれど、現状を維持したいという気持ちもあった。少し不便だけれど心豊かに、幸福に暮らせる郷――彼女が捨てた天上の京とは正反対の姿を彼女は愛していたから」
しかし術師の来訪を機にその気持ちに変化が訪れたのだろう。術師の話を聞く内、彼女はこの郷の変化を望むようになったのだろう。現状をなるべく維持したい気持ちより、飽きがこないようもっと変化をつけたいという気持ちの方が強くなった。そこで彼女のタガが外れ、気が付けばシイナラはかなり姿を変えてしまった。そしてより便利に豊かになった郷は、ミカガミにつまらなかった天上の京のことを思い出させてしまったのかもしれない。彼女はこのままいけばシイナラもあの天上の京と同じようなものになってしまうのではないか、不自由の無い代わりに変わり映えもしない、豊かな心を失った、つまらない所になってしまうのではと考えたのかもしれない。
「彼女は本物のシイナラを捨て、模造品の中で生きていくことを決めた。そして永遠を守る為新しいものを取り入れることも、何かを排除することもなくなった。……が、結局彼女は全く変わらぬ日々に飽きてしまった。だから彼女は少しずつシイナラに手を加えた。最初はほんの少しだった。神殿も多少豪華にはしたけれど、今の趣味が非常に悪いものに比べればずっとマシなものだったよ。けれどどんどん歯止めが効かなくなり、シイナラを色々な人に見せて回る為あちこち周る内、面白いと思ったものをどんどん取り入れていった。神殿ももっと自分の神としての威厳を見せつけようと派手にしていった。それだけじゃなく、シイナラ以外のエリアも作りだし、シイナラは格段に大きな郷……いや郷を通り越して最早国となった。で、元々シイナラだった所はシイナラ・チュカクという名前に変えた。そしてそこはシイナラの中心部となったんだ」
ミカガミは面白いと思ったものは何でもかんでもシイナラの中へ放り込んだ。それは物だったり知識だったり、技術だったり諸々だ。その割に一度取り入れたものは極力排除しなかった為、古いものと新しいものがごちゃ混ぜになり、余計混沌としてしまった。
「更に困ったことに……彼女自身は自分がそうして物をどんどん増やして、シイナラの姿を変えている事実を認識していないんだ。彼女は『少しだけなら』と自分で自分の行為を許し、新しいものを取り入れる。するとその瞬間、自分が新しいものを取り入れたという事実が頭からすっぱ抜ける。彼女の中ではそれは最初からあったものだということになってしまうんだ。それはシイナラの民も同じ。……君達、さっき神殿へ来る途中で再会した女性と話して、頭にクエスチョンマーク浮かべたろう? ミカガミが与えた『儀式』を執り行うと、皆ああなるんだ。結局ミカガミもシイナラの民も自分達は美しい永遠を守り続けていると思っている……実際はそうでもないのにね。もうあのシイナラは原型を殆ど留めていない。シイナラ始まりの木、コウリンも今はない……彼女は躊躇なくコウリンを取り除き、新しい建物を作った。そしてコウリンという木があったことさえ忘れた」
速水がこのシイナラは精巧な模造品『だったもの』と過去形で表わした理由が、男と出会うことでようやく分かった。そう、確かに最初ここは術師が来る前のシイナラそのものの姿をしていた。きっと精巧な模造品といえるようなものだっただろう。だが今はどうだ。ミカガミは新しいものを馬鹿みたいに次々とシイナラへぶちこみ、以前は無かったエリアを作り、時に神殿等元々あった建物の形を変え、新しいものをぶちこむ為にコウリン等を消し去り、カブネリの内容を変え、自分と民の関係性も変え、結果見るも無残なゴミ捨て場と化した。そして彼女は自分がやらかしたことに気づいていない。美しい郷は美しいままだと本気で思い込んでいる。
彼は――速水はオリジナルのシイナラがどうなったか、きっと何かをキッカケに知ったのだろう。そうなるまでの経緯も、彼女が自分の中に模造品を作り上げたことも、その模造品がどんなことになってしまったのかも……何もかも。柚季はこのシイナラのことを語る速水の顔を思い出す。怒りや悲しみでいっぱいになっていたその顔を。オリジナルのシイナラを知り、そしてそこを心から愛していた者があのシイナラを見れば、そうなるだろう。柚季達さえ、話を聞く内悲しみと怒りとやるせなさで胸をいっぱいにした位だ。
「シイナラは人口も随分と増えた。ミカガミが増やしたんだ……行く先々で見かけた人間や妖のデータを吸収し、それを形にしてこちらのシイナラへ入れたのさ。自分がここへ招き入れた人間のデータもちゃっかりとって、ここの民にしてしまう。彼女はきっと君達のデータも抜き出しているだろうよ」
二人はそれを聞き、えっと顔をしかめる。そして柚季は自分の分身がこのシイナラで暮らす様を想像した。あのイカれたカブネリを見て狂ったようになり、一年に一回ミカガミに会って涙し、新しいタスケモノ等を買った傍からその事実を忘れ、この郷が美しい永遠を保ったままだと当たり前の様に思う――そんな自分の姿を。背筋が凍りつき、汗がどっとふきだし、気持ち悪くなる。柚季は涙目になりながら隣に立っている鳳月の右手をがっと掴み、ぶんぶん振り回した。
「鳳月さん、どうしましょう! わ、私絶対に嫌ですよ! 絶対、絶対、例え自分の分身でも! 嫌ですよ、気持ち悪い、想像しただけでぞっとする!」
「おおおお嬢さん、わ、私の手をぶんぶん振ってもどうにもなりませんよ! 諦めるしかないですよ! 痛い痛いお嬢さん離して!」
「……それなら心配いらないよ」
「え?」
「僕はかつてのシイナラの姿を、この模造品のシイナラに住む人々に夢として見せた。といっても誰でも見られるわけじゃない……ミイコみたいな純粋な子で頭が固くなく、かつオリジナルのシイナラに住んでいた者の分身に限る。僕としても本物のシイナラの姿を忘れて欲しくなかったからね……でも、駄目だった。夢を見た人も初めの内はその夢で見るシイナラこそが、本来のシイナラの姿だった気がすると考える。だがやがてこの模造品のシイナラの姿に引っ張られ、周囲の人間の容赦ない否定にかき消され、あれはただの夢だと考えるようになった。そうして思考がかちこちに固まると、もう夢さえ見られなくなる。夢を見たことさえ忘れていく……今や僕が夢を見せられるのはミイコだけになった。でもいずれは……」
男はぼそっと小声で呟いたことについては何も言わず、自分が見せる夢のことを語った。
「この紛い物のシイナラに住む人達の頭から、本物のシイナラの姿が完全に消える日は近い。けれど、そうはさせない。今日でもう終わらせる……何もかも。もうここをこれ以上歪なものにさせはしない……必ず、終わらせる。一つだけ、僕はお願いする。元の世界へ帰った後、お兄さんの店に一人の女性が現れる。その女性はきっとミカガミの鏡を譲ってくれとお願いするだろう。……そしたら彼女に鏡を譲って欲しい。それで全部終わる。後もう一つ、お願いしよう。どうか……どうか今この屏風に映した本当のシイナラの姿を覚えていてほしい。頭の片隅にでもいいから、ずっと残しておいて。どうか、どうか」
男はそういってお辞儀を一つ。鳳月は柚季と顔を見合わせた後、こくりと首を縦に振る。
「……必ずそうしましょう。ところで最後に聞きたいのですが……貴方は一体何者なのですか? シイナラの、そしてミカガミの全てを貴方は知っているようですが」
男はきっとその質問が来ることを予期していただろう。そもそも船で会った時にも後で分かると言っていた。男はふっと微かに笑んだ。
「僕は……シイナラそのものさ。僕の中にはシイナラの中にあるもの全てがある。シイナラのことで知らないことはない。……こっちの模造品のシイナラのこともね。僕はシイナラを愛している。あの美しかったシイナラを……心から。だからここがシイナラからどんどん離れていき、汚らしいものになることが許せない。腹立たしくて、悲しくて、苦しくて仕方ない。勿論ミカガミがあのシイナラを見捨てたことも未だに許せない。悲しいすれ違いが原因とはいえ……あの地獄の日、泣き叫びながら逝った者、大切な人を失った者の姿を見たら『しょうがない』なんて絶対に言えない。しかもまだミカガミがここの姿をずっと留め続けているなら良かった……でも、でも彼女はそうしなかった! 結局飽きて何もかも変えてしまった! 彼女は二度も僕を……殺した……! もう彼女には僕の姿なんて見えやしない! 見えやしないんだ」
男――シイナラそのものである彼は両手で顔を覆う。もう柚季達のことなど見えやしない様子で、彼は一人慟哭する。悲しくて苦しくて、憎くて……でも愛しさは消えないのだろう。自分を作り出した神のことを、心から嫌うことも、それを通り越して無関心になることも出来ないから今彼は泣いているのだ。仮面に覆われる瞳はきっと涙でいっぱいだろう。その想いをすっかり歪み狂ったミカガミが知ることは一生ないけれど。
気づけば柚季の頬を一粒の涙が伝っていた。親たる神に捨てられ、二度も殺された彼の慟哭が胸に響き、生み出された感情が涙に変わって瞳から落ちたのだ。もう元には戻れない。だが終わらせることは出来る……それは彼以外の誰かがすることだけれど。
ふと柚季と鳳月の周囲が白い光に包まれる。二人はそれを見て、もう少しでこの歪な世界をお別れすることを理解した。男は顔を上げ、仮面越しに二人を見る。
「さようなら、最後のマレビトさん達。……必ず僕の言う通り、店を尋ねた女性に鏡を渡してくれ。そして本当のシイナラのことを覚えていて……」
その言葉を最後に男の姿も光に覆われて見えなくなり、二人はほんの少しの間だけ意識を失った。