在りし日の姿は鏡の中に(3)
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大勢の人の好意と好奇に満ちた視線と歓迎の言葉をその身に浴びる程受けながら、柚季と鳳月はシイナラ・チュカクを歩いていた。シイナラとは違う土地の空気に染まる身故か、或いはマレビトの証である勾玉が何かを発しているからか、もしくは鳳月の右腕にしがみつき、妖の姿を目にする度ひいひい言っている柚季の服装がここでは異質(中には洋装を身に着けている者もいたが、文明開化の音がし出した頃のものなので現代風のものとは大分違うのだ)だからか、兎に角二人はよく目立った。人通りの多い道、少ない道、大通り、裏路地……どこを歩いても彼等は注目から逃れることは出来ないのだった。
「シイナラ・クーリャンセ!」
「シイナラ・クーリャンセ! この美しい永遠のその目に焼きつけてね!」
「この郷は美しいでしょう? この永遠の美しさはきっとどこにもないものでしょう」
「私達が愛する永遠に美しい郷のことを、是非貴方達の友達や家族の方に話して頂戴ね」
「シイナラほどすごいところはないんだぞう! だれもこわせない、むてきのえいえんとびがあるんだぞう! すごいだろう、すごいだろう!」
彼等シイナラの民は、自分達の住む郷を何よりも愛しているようだった。独立した層に存在した郷、その模造品は鏡の中。どちらも『外』からの来訪者というのはそう多くはなかっただろう。だから愛する郷を外部の人間に見てもらう機会もそうそうなく、だからこそ偶に来ればうんざりする位歓迎するのかもしれない。シイナラの人々は『外』に興味がないわけではないようで、色々と尋ねてくる。しかしそうして話を聞くよりも、シイナラが如何に素晴らしい郷かということについて語ることの方が多かった。鏡という境を超えた向こう側にある世界への興味を、シイナラへの愛が凌駕し、丸呑みしているのだった。
あっちへ行けばシイナラ、シイナラ。こっちへ行けばシイナラ、シイナラ。彼等の口から出る言葉は只管シイナラを、そしてミカガミ様を絶賛するもの。
「ここの住人のシイナラに対する愛が重い……」
まだ二時間もここシイナラ・チュカクを歩いていないというのに、すでに柚季は一週間飲まず食わずで砂漠の中を延々と彷徨っている様な気持ちになっていた。郷の民の中に妖が混ざっていることも彼女の精神を削る要因になっていた。害があろうがなかろうが、英彦の使鬼等ごく一部以外の妖は好きではない柚季にとっては、彼等にじろじろ見られたり、親し気に話しかけられたり、視界に入ったりするだけで心削られてしまうのだった。恐ろしい形相をした妖の男が、二人の姿を認めて話しかけてくる。彼は頼みもしないのにシイナラの魅力について語りだし、柚季は泣きそうになりながら鳳月の腕にしがみつく。自分を喰らおうとしたり、何かしらの危害を加えたりしようと襲い掛かってくる妖は、霊力を用いて追い払うなり退治したりすることが出来るが、こういう無害(精神ダメージを受けている時点で全く無害というわけでもないが)な妖相手にはそういうわけにはいかない。何かされるより、危害は加えないががっつり絡んでくる妖の方がかえって対処し辛く苦手であるかもしれないと柚季は思う。
隣にいる鳳月の目は完全に死んでおり、モーターを装着しその動力によって動いている死体の様だった。
それでも柚季よりは余程大人であり、彼女よりはずっとまともに対応している。そしてきちんと対応しつつ、相手が不快に思わない程度に上手いことを話を早く切り上げさせた。人付き合いが嫌いだが、嫌いな故に相手の自分に対する好感度を上げすぎず下げすぎずにしないようにしながら、最低限のやり取りだけで済ませられる術を身に着けたのかもしれない。ともかくそのお陰で大分助かったといえる。彼がいなければ柚季は延々と話を聞かされることになっていただろう。
シイナラは美しい、シイナラは永遠だ、シイナラは素晴らしい、シイナラに勝る郷はない……シイナラの民はマレビトを洗脳し、この郷に永遠に引き入れたいのではないかと思う程のイカレた愛。しかし彼等にその気はなく、純粋に自分達の住む郷の素晴らしさを外部から来た者に伝えたいだけなのだろう。
そのひっきりなしにぶつけられる愛のせいで、二人は駅を出てからというものまともにシイナラ・チュカク――今歩いているのはテーベ・モートと呼ばれるエリアだ――の様子がどんなものであるのか見ることが出来ないでいた。散策の余裕などとてもじゃないが無く、本当に素晴らしい所なのかどうかも分からない。むしろしつこすぎるPRのせいでろくに見ていないのに嫌いになりかけていた位だった。
しかしそんな地獄の様な時間も、永遠には続かなかった。シイナラの民のシイナラ愛の重さを嫌というほど受け取った二人がふらふらと歩いていると、恰幅の良い女性に声をかけられた。シイナラ・テーベのある方から綺麗な鐘の音が十回鳴った直後のことだった。
「ちょいとマレビトのお二人さん。申し訳ないのだけれどしばらく道の端の方に行ってもらってもいいかね。後、しばらくの間はまともに移動出来なくなるけれど堪忍しておくれ。素晴らしいことがこれから始まるからね」
今二人が歩いている道は非常に広く、運動会も出来そうな位だ。中央は馬車や人力車、レトロな見た目の自転車、バイクの様な乗り物(蒸気車、と呼ばれているらしい)が走り、両端を人が歩いている。今も端の方を歩いている状態であったが、それよりもっと端に寄れという。
よく見れば道の端――建ち並ぶ和洋折衷のレトロな建物にぴったりとくっつくように大勢の人間が集まっていた。人力車や馬車といった乗り物に乗っていた人達もそこから降り、そして無人になった乗り物や車を引いていた馬やらは車夫や持ち主が取り出した何かにすいっと吸い込まれて消えてしまった。近くにいた住人に話を聞くに、あれは『オシマイバコ』と呼ばれるもので箱に登録されたものならいつでも何でもしまえるという便利な道具であるらしい。そして彼等も中央からこちらの端の方へ早足で向かってきた。あっという間に歩道として使われるエリアは人でいっぱいになり、人の視線も嫌いなら人混みも大嫌いであるらしい鳳月が露骨に顔をしかめる。わいやわいや、賑々しい。今まで多くの乗り物が通っていた道の中央は綺麗さっぱり、誰もいない、何も走っていない。前も後ろも右も横もどこも人、人、人。振り返ると、建ち並ぶ建物の二階や三階等の窓はいつの間にかどこも開けはなたれており、そこから人が身を乗り出すようにしている。どこのもどうやら大きな一枚のガラス窓で、恐らくは今から始まるだろう何かをよりよく見る為にそうなっているのだろうと思われた。あまり建物の雰囲気とその窓は合っていないのだが、見た目などはどうでも良いのだろう。
しばらくすると無人の道の中央を何かが大きな声を上げながら歩いていくのが見えた。正体はどこからどう見ても案山子で、歩いているというよりはぴょんぴょん飛び跳ねながら前へ進んでいるといった方がより正確だろう。
「ぴいぴこ、ちいぴこ、ぴんとんちん。間もなくカブネリが通ります。ぴんとんちん、皆様道の端の方へとお寄りください。ぴんとこしゃん、どうせ私が言わなくても皆様きちんと準備していることでしょう。結構、結構、とんちきしゃん。ぽんぽこぺん」
そんな言葉を繰り返しながら彼はどんどん進んでいくのだった。柚季はカブネリとは何ですか、と隣にいた人間の女性に尋ねてみる。
「カブネリ(歌舞練り)というのは、マレビトの方々が住んでいる方でパレイドと呼ばれているものに似ているようです。歌や踊りや綺麗なものが大好きなミカガミ様の為に毎日昼と夜に行われるのですよ」
「毎日ですか!?」
「ええ、毎日です。ミカガミ様がカブネリに飽きない限りは。でもそんなことは絶対にありませんよ。だってシイナラは永遠の郷ですもの。勿論私達だってそうですよ。ここには美しい永遠だけがある。永遠がある限り、私達がカブネリに飽きることなどありません。永遠の郷は何にも飽きない喜びを私達にくれるのですよ」
女はうっとりとしながら『永遠の郷』と口にした。彼女はこれから始まるカブネリのことで頭がいっぱいらしく、柚季の方を見ようともしなかったし、それ以上は何も言わなかった。何かその恍惚の表情に寒気を覚えた柚季だったが、それよりも先程までと同様にぐいぐいとこられなくて良かったという安堵感の方が強い。他の住人達にとってもカブネリに比べればマレビトなどとるにたらない存在であるらしく、こちらに話しかけてくる者もいなかったし、うんざりする程の視線を浴びせることもない。何だか世界的大スターから路傍の石に転落したような気持ちになったが、路傍の石であった方が二人にとってはありがたかった。
しばらくして軽快な音楽と共にカブネリの行列がゆったりとやって来た。花や雫、蝶や月や果実を象った華美な簪や髪飾りをつけ、着物と洋装を混ぜた衣装に身を包んだ娘達が踊りながら進んでいる。しゃらしゃらと鳴って舞って、日を受けてきらきらと輝く髪飾りはまるで生きているかのようだ。娘達が手に持つ扇も金色に輝いて。
しかしメインは二列縦隊になっているこの娘達ではなく、彼女達に挟まれる様にして動いているフロートだろう。テーマパークのパレードで見かける様なものだ。後で聞いたところ、ここではこのフロートのことを『ネリグルマ(練車)』と呼んでいるらしい。
赤黒い車(巨大な台車といった方が良いかもしれない)の上に本物と見紛う様ながしゃどくろが乗せられたネリグルマ。双眸には赤く丸い硝子のランプ、絶えずその中で燃えるのは怪しき橙の火。昼だからあまり目立たないが、夜になればその怪しさを増し観客を一瞬にして異界――幻想世界へ誘う力を持つことだろう。腹の中には白い小袖に緋袴、その上から濃い紫の打掛を羽織った女がおり、がしゃどくろの四方を囲む様に、化け物の格好をした男女が居る。そして彼等は揃って肉がついた骨を象ったらしいステッキを曲に合わせて振り回している。
色とりどりの、五色の糸で描かれた模様の美しい手毬の成る赤い珊瑚の木の森と、そこで平和に暮らす動物達に扮した人達が元気よく踊っている。艶やかな着物がかかった衣桁、雪洞、宙にはたはたとはためく反物、十二単を身に着ける華やかな女達。世にも恐ろしき、作り物とは到底思えぬ出来の巨大な鬼の体と子鬼、四方の柱や車の側面につけられた濃い妖しい紫の火を抱く和紙製ランプ、そこで舞う舞う陰陽師。大小色、様々な種類の達磨でいっぱいの車、青い波、水晶の泡沫、ひらひらと水色や濃い青の薄い布、魚や宝玉で作られた貝があちこちに。鯛やヒラメが踊り、美しいお姫様も踊っている。金魚等の魚が舞うように、空を飛ぶように泳ぐ大小様々な硝子の球体が沢山設置された車。平安貴族の一室をイメージしたような、美しいお道具が揃った優美な車。五重塔と牛車の車。
有名なお伽噺をモチーフにしたのだろうネリグルマもあり、その中にはシンデレラや白雪姫といった海外の物語を基にしたものもあった。どうやら柚季達の住む世界の文化は文学も含めて多くこちらに吸収されているらしい。鬼等の妖、海外のモンスターに扮した人や彼等を模したものが乗ったネリグルマも多いが、ここは妖と人が共存している郷なのでこちら側の人間に比べるとそういうものを見ても非現実――幻想を感じてはいないかもしれない。それでも十分目を引かれる程素晴らしいものが次から次へとゆっくりと人々の目の前を走っている。
絢爛豪華、幻想世界。その幻想を彩るのは、ネリグルマの上空を飛ぶ畳の上に居る楽師と歌手で、美しい音色と歌声を紡いでいる。ネリグルマを飾る多くの提灯やランプ、燈篭、色とりどりの火を抱く硝子玉は夜に見ればより美しいだろう。
カブネリは頭を空っぽにして見れば大変素晴らしいものであった。しかし柚季達にはそれが出来なかった。美しい声で歌われる歌の内容が、どれもこれもシイナラやミカガミ様を過剰に持ち上げるものばかりだったからだ。
シイナラは美しい郷 朝も昼も夜も美しい永遠の郷
シイナラの他に永遠はなく 永遠はシイナラの他にはない
新しいものはなく だが変わるものもない
永遠はこの世にただ一つ
この世にただ シイナラだけにある……
という歌や、
陽は金剛の石 月は蛋白石
水は蒼石 泡沫は七色真珠
木々は琅玕翡翠
吹き抜ける風はミカガミ様の息吹
雨はミカガミ様が与えたもう甘露
ミカガミ様の愛の郷
全ては美しく 全てが至高 唯一……
という歌。
嗚呼 美しき永遠の郷の
至高の御方 唯一の神
貴女以外の神は御伽の話
異国にも神はいるけれど
全ては夢の人
本物は 現の方なのは
嗚呼 美しき永遠の郷の
ミカガミ様 ただお一人……
という歌もあった。これらの歌などまだ序の口で、もっとある意味ですごい歌はある。どれもこれもシイナラと、シイナラにあるという『美しい永遠』を褒めて褒めて……褒めちぎるとか褒め殺すとかそんな言葉では表せない位に褒め称え、ミカガミ様への愛を伝え、ミカガミ様がどれ程素晴らしい神様であるか只管言いまくるもの。シイナラの民はその歌に聞き惚れ、時に幾度聞いても素晴らしい歌と感激の涙を流し、時にドン引きするような歌詞を嬉々として合唱する。誰も歌詞の異常さには気づかない。
その異常な歌詞、異様な空気、狂気に一度気づいたらもう頭を空っぽにして純粋にカブネリを楽しむことなどとても出来なかった。始めは愉快なパレードだと思っていたのに、もう今はどうやってもそんな風には見えない。時間が経てば経つほど、テーマパークで行われる楽しくて素敵なパレードという印象は遠ざかっていった。
今の柚季にはこのカブネリがカルト教団の儀式に見え、鳳月はファンシーの皮を被った独裁国家の軍事パレードか何かに見える。この場を満たす空気に混ざる狂気が、細い針でちくちくと二人の肌を傷つけ、そしてじわじわと入り込んでいく。それがたまらなく不快で、怖かった。そうして体内に入り込んだものをヤスリで磨いて取り除いて、それを水で洗い流してすっかり体外へ出してしまいたいと強く願った。そうでもしなければ入り込んだものが脳に侵入して、毒して、いずれは自分達もここに居る人々と全く同じ者になってしまうような気がしたからだ。かといってカブネリに熱狂する人々のいない所などこの辺りにはなく、逃げることも叶わない。恐らく建物の中に入っても外と似たり寄ったりの光景が広がっていることだろう。仮にどこかに会ったとしても、そこまで行くのは至難の業である。それ程の人だかりがずっと続いているのだ。
(故郷や神様を讃える歌自体は別に珍しいものではないし、おかしなものではないのだけれど……でもこの空気、やっぱり何か気持ち悪い……)
ここはかつて実在した郷の模造品だと速水は言った。本物のシイナラもこのような雰囲気だったのだろうか。同じようにどこか狂った郷だったのだろうか。この鏡の中の幻のオリジナルである郷の住人も、ここの住人と同じようにやたらと『永遠』という言葉を使っていたのだろうか。
永遠、美しい、シイナラ、ミカガミ様。それらに気持ち悪さを覚える程執着しているのはオリジナルも一緒だったのか、それとも。柚季と鳳月は異常な空気に脳も心も汚染され、ここにある『狂気』の一部になってしまわぬよう精いっぱい踏ん張り、耐えた。
カブネリのトリを飾ったのは、黄金のネリグルマだった。そこに様々な色の水晶や、青玉や紅玉、翡翠などの宝石が散りばめられ、実に豪華だった。しかしあんまり派手でごてごてしている為にあまり美しいとは思えず、むしろ下品と思える位だった。カブネリが終わった後シイナラの民に聞かれないように小声で鳳月が「最後のあの車だけはセンスがなかった。高級な物を沢山使えば良いものではないという言葉を体現したようなものだった」と言い、柚季がそれに同意する位はっきり言って酷いものだった。その唯一酷いセンスと評された車に乗っていたのは同じく金銀宝石で作られたごってごての祭壇みたいな形をした何かで、そこには一枚の鏡がのっていた。それは曰く『ミカガミ様の写し身』だそうで、ようするにミカガミ様の模造品であるらしい。
あちこちから「ミカガミ様」「ミカガミ様」と崇めそして深く愛する神の名を呼ぶ声が聞こえる。中には写し身であってもミカガミ様はお美しい、素晴らしいと泣きだす者も居た。
(本当……カルト教団の教祖と、すっかり洗脳された信者みたい。それにしてもなんて悪趣味な車に祭壇……あんまりど派手すぎて、飾られているミカガミ様の写し身とやらがまるで目立っていないじゃないの。でもここに居る人達はそんなこと思ってなどいないんだ。多分あの人達にはミカガミ様の写し身とやらしか見えていない。金や銀や宝石が発している痛いほど眩い輝きは、ミカガミ様の発する神聖なオーラに見えるに違いないわ。皆それを体に浴びようと、懸命に手を動かしている。煙じゃあるまいし、あんなことをしても無駄なのに……)
浅草寺の常香炉から出る煙を浴びる人々と同じように、しきりに手を動かしてミカガミ様の放つオーラ――実際は車や祭壇の金銀宝石が陽の光を浴びて発している輝き――を浴びようとしている。中には持参したコップをネリグルマの方へ向け、水を汲む仕草をしてから何も入っていないそれに口をつけ、ぐっと傾ける者もいた。そしてごくごくと喉を鳴らしながら何かを呑む真似をするのだ。常香炉の周りに群がる人を見て気持ち悪いと思ったことは一度もなかったが、今目の前に広がっている光景にはぞっとするし、吐き気がする。
「美しい永遠をこの身に……ああより美しい永遠が、私の元に」
「美しい永遠の中をより幸福に……」
「美しい永遠が俺の中に入っていく。嗚呼どんな食べ物よりも美味しく、素晴らしい、最高の食べ物……嗚呼美しい永遠」
彼等は口々にそのようなことを言う。そしてその車も段々と遠ざかっていった。しばらくして先程カブネリがもうすぐ始まることを告げたのと同じ姿のカカシが現れ、一人ぴょんぴょん飛び跳ねながら何か言っている。始めはカブネリが終わったこと等を告げるものだと思っていたが、どうやら違うらしかった。
「ぴいぴこ、ちいぴこ、ぴんとんちん。ミカガミ様からのありがたいお言葉です。ミカガミ様はおっしゃられました、ぴんとんちん、今日はマレビトが二人この美しい永遠の郷に来ています。ぴんとんしゃん、けれどあまり積極的に話しかけたり、じろじろと見たりしてはいけませんよ、とんちきしゃん。二人はあんまり皆さんにじろじろ見られて、話しかけられ続けたものだからとても疲れています、ぽんぽこぺん、もう十分皆さんのシイナラへの愛は伝わったはずです、ぽーんてんしゃん。聞かれた時だけお答えなさい、皆さん距離というものは大切ですよとんぽこてん。近づきすぎず、遠ざかりすぎず、つんてんしゃん」
そのミカガミ様からのありがたいお言葉とやらのお陰で、それ以後はシイナラの民も二人から一定の距離を置き、無闇に話しかけてきたりやたらとじろじろ見てきたりすることはなくなった。話しかけられればきちんと答えるが、先程までに比べると随分とおとなしいものだった(ただ最初は大人しくても、話している内にヒートアップして暴走状態に近づくことが大半なのでそう長くは一人の人間に話を聞いていられなかったが)大変ありがたいことではあったが、どうせだったらもっと早く言って頂戴ミカガミ様、と今になってようやくそんなお触れを出した神様を少し恨みもした。
というわけで、柚季と鳳月はカブネリが終わってからようやくじっくりとシイナラの様子を見ることが出来るようになったが、疲れていたので散策するより前に、喫茶店で少し休むことにした。その店は先程までいた大通りから幾つか外れた通りにある。道が異様に広いのはカブネリのネリグルマが通るところ(他にも数本あるらしい)だけで、後はむしろ狭い方が多いらしい。レンガ作りの、窓にはめ込まれたステンドグラスがおしゃれなレトロな喫茶店があるその通りもそうで、故に両脇にある建物(主に木造。レンガ作り、石造りのものもあり)は実際はそうでもないのにやけに高く見え、無言の強い圧を感じる。この建物全てが人であったなら、私など十分もしない内に窒息死することでしょうねと鳳月が苦笑いする。
そのように狭い道が多い為、人々の移動手段は徒歩が多いようだ。馬車や人力車は先程まで歩いていた大通りのような限られたところでのみ利用され、歩きだけではきつい距離を移動する為のものであるらしい。あくまで目的地になるべく近い所まで行く為のもので、タクシーの様に目的地の前まで連れて行ってくれるものではない。より目的地に近い所へ移動したい場合は空を飛ぶ船『アマカケブネ(天駆船)』を利用する。これは羽を生やした屋形船の様な見た目の飛行船で、発着専用の建物(船着き場)が至る所にある。よく利用されているのか、空を見上げると必ずこの船の姿が見えた。これの値段はそう高くないのか専用の船を所有している家庭もあるそうだ。それらは喫茶店のマスターが教えてくれた。
喫茶店のマスターは長身細身の、眼鏡の似合う白髪の老人で、シャツにチョッキに蝶ネクタイという格好が良く似合っている。カウンターに座り、美味しい珈琲を飲んで身も心も落ち着けながら柚季達はマスターから色々な話を聞いた。元々温厚でそれ程お喋りな性格ではないようで、話している内にヒートアップして……ということもなかったのでありがたかった。
「……皆さんの口から『美しい永遠』という言葉をよく聞くのですが、あれはどういう意味で? 美しい永遠がここにはある、ここにだけ美しい永遠は存在していると皆さんおっしゃっているのですが」
ここシイナラの日々の暮らしのこと、シイナラ・チュカクのこと等についてあれこれ聞いてから、最後に鳳月は意を決してそのことについて尋ねる。そこに触れるということは、この郷の人々が抱いている狂気に触れることにもなるが、それでも矢張り気になることだった。それを聞いたら穏やかなマスターもカブネリの時の人々と同じ様子になるかもしれないと思ったが、彼は最後まで冷静だった。
「ここシイナラは変わらぬ郷、なのですよ」
「変わらぬ郷?」
柚季と鳳月が首を傾げると、はいとマスターが頷く。
「サトトザシをしてから、ここは何も変わっていないのです。サトトザシというのは、外部――別の層――の人間や物等一切を郷へ入れないようにすることです。貴方方マレビトは例外ですが……。以前はシイナラも外部――例えば貴方方の住む所とそれなりに関わりはあったのです。元々貴方方の住む所とシイナラは同じ層にあったそうですしね。かつて外部の人間もしくは妖が境界を越えてここシイナラへ迷いこむことが時々ありました。ミカガミ様が招き入れることもありましたし、稀に何らかの手段を使ってここを尋ねる者もありました。そういった方々をミカガミ様は歓迎し、手厚くもてなしたのです。そしてそういう方々から教えてもらったことをシイナラ発展の為に用いました。食べ物や生活に役立つ品、道具、技術……発展には関係ないものの、その土地に伝わる伝説等を聞いて本にまとめることもありました。そうして外部からあらゆるものを取り入れ、シイナラは発展していったのです。逆にここシイナラ独自の文化や技術を外部の者に教えることもありました。外部から得たものと、シイナラ元来のものを組み合わせて生まれたものも多々ありました」
それだけでなくミカガミ様は『シイナラ・タメノハーテ・チョーサ』という組織を作り、そこに所属する者達を外部へ遣り彼等にシイナラにはないものを探させ、持って帰らせることもあったという。それは物であったり、技術や知識であったり、書物だったり様々だったという。そうして持ち帰ったものもまたシイナラ発展へ役立てられたという。
「しかしそれも昔のこと。今はサトトザシをし、外部から何か新しいものが来ることはありません。シイナラは外部との関わりを完全に断ち切ったのです。ミカガミ様がそうすることをお決めになったのです。マレビトは時々来ますし、その方々から話を聞くことはありますが、それを取り入れて新しい何かを作ることはもうありません。…それだけではありません。シイナラは新しく何かを作ることをやめました。生活をより豊かにする為の発明、制度、建物、新しい料理も衣服も本も音楽も……。ですから何もかもここはサトトザシをしたその日から変わらないのです。新たなものが生まれることがなければ、何かが排除されることもありません」
それを聞いて二人は顔を見合わせる。サトトザシしてから、発展もしなければ衰退もしていない郷。便利なものが発明されて何かがより楽になることもないし、逆に何かが不要だからと消えることもない。新たな店や施設、住宅が建てられることもない。この喫茶店に新作メニューが登場することもないし、着物等の衣服も新作が出ることはないし、新曲とか本の新作とかが出ることもない。何も生まれない。が、何かが消えることもない。まあ勿論生活の上でどうしても出てくるゴミは処分されて消えるだろうが、そういったもの以外はこの郷から消えることなく残り続けるのだ。
「私達もサトトザシ以来老いることがなくなり、死なない身となりました。その代わり、新たな命が生まれることもありません。…勿論牛や豚や野菜等私達の食糧となるものは生まれては死にますがね。結婚する者もいない、別れる者もいない。新たな友情や人間関係が築かれることもなく、反対に絶交や絶縁という言葉もない」
「しかしまた……何故ミカガミ様はそのようなことを?」
全く意味が分からないという風に鳳月が尋ねた。マスターは穏やかに微笑みながら白いカップを拭いている。
「……ミカガミ様は、自分が愛する美しい郷を美しいままでいさせたいと願っていらっしゃるのです。新たなものが生まれれば、何かと何かが交じり合えば、良い方向であれ悪い方向であれ世界というのは変わります。例え微々たるものでも、変化していることに変わりはない。そしてそれが積み重なればより大きな変化となり、シイナラの姿は元あったものとは違うものになります。ミカガミ様はそうしてどんどん変わっていけば、いずれ自分が愛した美しい郷の姿がなくなってしまうとお考えになったのです。ミカガミ様は愛した郷が愛した姿のままでいることを強く望んでいらっしゃるのです。……ですからミカガミ様は外部との関わりを断ち、そして新たなものを作ることも何かを廃することも禁じたのです。勿論何もかもが毎日同じというわけではないですがね。私達も自動人形の様に全く同じことを同じ時間に同じ様にやるわけではありませんから。旅行へ行くこともあれば、今まで入ったことが無かった店へ行って何か新しい家具等を買うこともあります」
「え、でもそれだと……そこで新しい出会いとかあって縁とか生まれるんじゃ……確か新たな人間関係とかが築かれることもないんですよね?」
「ええ、そうです。生きていればどうしても新たな縁は生まれます。ですが別れる時に手でこういう形を作って『縁は無きもの』と言います。そうして生まれた縁を無かったことにし、その人のことは忘れるのです。後日その人と会っても、初対面のフリをします。生まれた縁をそのままにすることはありません……そうしたもの一つだってこの美しい郷を変えてしまう要因になりえますから。なるべく私達は郷の姿を変えないようにします。私もこの美しい郷を愛していますから……」
穏やかなその笑みはとても幸せそうに見えた。柚季達からしてみれば狂っているとしかいいようがないのだが、その笑みを見ると面と向かって狂っているなどとはいえない。彼等は幸せなのだ。何も変わらなくても……。
「サトトザシをした時から変わらぬ姿のシイナラ。あの日から時が止まった郷……何も生まれなければ何も失われない……まさに永遠。そしてその『永遠』の姿をしたシイナラは何よりも美しい。私達はここより美しいものを知りません。貴方方の住む所に『永遠』はないでしょう。良くも悪くも変わる代わりに、貴方方の世界に永遠は無い。貴方方にとっては失うよりも得るものの方が大切だった。でもここシイナラは……ミカガミ様は……得る代わりに失うものの方が大切なのです。失う位なら、得ることをやめるのです。失うことを恐れて何も得ないことの方が良いのか、失ってもいいから何か得る方が良いのか。どちらが正しいか私には分かりません。どちらが正しいとか、間違っているとかそういうのは無いのでしょう。ですが私はこのままで良いと思っています。この美しい永遠を私は失いたくない……シイナラにはこのまま美しいままであってほしいのです」
「サトトザシをしたのは一体どれ程前のことなのですか」
「さあ、分かりません。どれ程経ったのでしょうね……永遠の郷になってから時の流れなど考えなくなりましたから。しかし途方もなく前だったような気がします。案外つい最近のことかもしれませんがね。もう誰にも分かりませんよ……」
「……そうですか。ありがとうございました」
鳳月はそう礼を言うと柚季にそろそろ行こうと促した。柚季も隠せぬ複雑な気持ちが表れた顔のまま頷き、立ち上がった。美味しい珈琲の礼を言うと嬉しそうに微笑みながら、マスターは是非神殿に寄ってミカガミ様にお会いしてくださいね、と最後に言った。
店を出てしばらくの間は二人とも無言だった。変わらぬ永遠を望む故に、変わることのなくなった郷。時が止まった、生きているとも死んでいるともつかない郷。その中を二人は静かに歩く。そうしながら自分だったらどちらを選ぶだろうと柚季は思った。彼女は空気の読めない祖母から逃げるように三つ葉市へやって来た。そこで彼女は紗久羅や奈都貴などと出会い、楽しい日々を送っている。だが一方で彼女は秘めていた霊力を目覚めさせてしまい、妖と関わらざるを得ない非常識で滅茶苦茶な日々を過ごすことにもなった。新しい友人、新しい暮らしを手に入れるのと引き換えに、祖母のせいで苦労したとはいえ今に比べればずっと平穏だった日々を失った。
(私はどちらを選ぶ? 前いた街で暮らしていれば……鏡女が眠っていた鏡を割らなければ霊力が目覚めることもなかったし、今の様に妖に絡まれることもなかった。それなりに平和な日々を送っていた。でもそしたら紗久羅達と出会うこともなかった)
紗久羅や奈都貴、その他の友人と出会うことはなかった。以前までの暮らしは果たして彼女達との出会いを失ってでも取り戻したいものだろうか。
「……私は、少し分かりますよ。ミカガミ様の気持ち。失う位なら何も得ず、変えない。何かを得ようと、或いは変えようとして動いた結果、得ることはなくただ失うだけということもありますしね。失ってからじゃ遅い……もう二度と取り戻せないものだってある。私にもそういうものがあったのですよ。得ようとしなければ、変わろうとしなければ……失うこともなかったのに。私は何も得ることなく、ただ失いました。私は自分というものを失ってでも、私のせいで失われたものを取り戻したい……」
それ以上鳳月は詳しいことは語らなかった。ただその瞳は苦しみと悲しみでいっぱいで、見ている方の胸が苦しくなるものだった。それがどれだけのことが過去にあったか語っている。柚季はその瞳のことを、彼がほんの少し語ってくれたことを誰にも話すまい、忘れてしまおう夢の話にしてしまおうと思った。柚季が霊力を持っていること、妖と関わっていることを鳳月が夢の話としてくれているのと同じように。
柚季にも少しはミカガミ様の気持ちが分かるから、狂っているといって気味悪がっているだけではいられない。二人に限らず、そういう気持ちが多かれ少なかれ分かる人は少なくないだろう。それでもここを美しいと心から思うことはない。
柚季と鳳月は複雑な気持ちを抱きながらシイナラの散策を続けるのだった。