在りし日の姿は鏡の中に(2)
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気づいたら電車に座っていた、と評したが本当に電車であるかは分からない。ただ、ぱっと見は電車に近い内部だった。近い、というだけで完全に一般的な電車のそれというわけではない。
床に敷かれているのは緋毛氈、壁(というべきか、側面というべきか)や天井は真っ黒だ。その美しい艶等から察するに、黒漆の様なものが塗られているのだろう。天井に吊るされているのは和紙で作られているらしい丸い照明。その和紙には桜の花びらが入っており、橙色の優しい灯りを受け夢の様にふわり浮かんでいた。
柚季達が仲良く腰かけていたのはボックス席で、向かい側の席には誰も座っていない。背もたれと座面は赤いが、後は黒い。向かい合う席の間には黒塗りのテーブルがあり、川の流れを象った文様と美麗な花々、その間を舞う蝶の蒔絵が施されていた。テーブルとして使い、汚したり傷つけたりするのは勿体無いと感じる程見事なものだった。男も、腕利きの職人の手によるものだろうと太鼓判を押す。少なくとも柚季達が携帯を飾る為に使うこともある蒔絵シールのようなちゃちなものではないことは確かだ。
「何だか漆塗りの箱の中に閉じ込められた様な心地ですねえ。動力源が電気かどうかは分かりませんが、一応電車と同じ位の速度で走っているようではありますねえ。……しかし鏡の中の世界とはどんなものかと思っていましたが、今の所それ程変わった所ではないようです。今目の前に広がっているのはのどかな田園風景ですしねえ」
窓側に座っていた男が、そこから見える景色を指さす。とんでもなく変なものが沢山見えたらどうしようと思い、しばらく窓の方を見ようとしなかった柚季はようやくそこで初めてそちらへこわごわと目を向けた。確かに男の言う通り、ぱっと見妙ちくりんなものは見当たらない。青い空、白い雲、山、木々、藁ぶき屋根の家、時期が時期なら青々とした苗や黄金の稲が沢山あっただろう田んぼ、畑等『こちら側』の世界で見るようなものが只管続いている、本当にのどかで見ているだけでほっとするような景色だ。
「い、今のところはまとも……嗚呼お願い、このままずっとまともであって頂戴……もうイカれた世界を見るのはこりごりよ」
特定の妖の持つ領域に引きずり込まれたり、妖によってヘンテコになってしまった世界を目の当たりにしたりすることが割と日常茶飯事になっている柚季は、今のところはまともなものしか見当たらないことに安堵し緊張を緩めながらも、手を合わせて祈り続けている。一方男の方はといえば。
「私は逆に変てこ奇怪な光景を見てみたいと思いますけれどねえ。色々なものがあべこべだったり、理解不能な物がずらっと並んでいたり、気持ち悪いものがあちこちにあったりするような世界……滅多に見られない夢なのに、現実とそう変わらないものしかなければあんまりつまらないですからねえ……ひひひっ。まあどちらかというと……自分でそういうものを見るより、そういうものを見て慌てふためく人の姿を見る方が楽しいかもしれません。特に普段はちょっと気が強くて生意気な口聞いてばっかりいて、更に本当は怖いものはあまり得意ではないのに『別にそういうの怖くありませんから!』って強がっちゃうような女性とか……そういう人が慌てふためき、泣き喚く姿って最高に滑稽で愛しいと思いますよ。そしてえんえんぴいぴい泣くその人にしがみつかれたいものです。その腕をにっこり笑いながら振り払うのって大変良いですよね、嗚呼大変良い……具体的に想像したら正直ぞくっとしました……お兄さん興奮しちゃいます」
(嗚呼! こっちも別の意味でぞくっとした! 幽霊や妖みたいな外見で、あんな街に怪異を求めて引っ越してくる程のオカルト好きで、その上ドSで変態の変人……! 怖い怖い怖い、何かこの人そこらにいる雑魚妖より怖いんですけれど!? あああ……いっそ、いっそ一人でここに来た方が良かったのかもしれない!)
「あ、そうだ。私……鳳月と申します。鳳凰の鳳にお月様の月で鳳月です。まだ名乗っていませんでしたよね?」
「ええと……その、及川柚季といいます」
何故このタイミングで、自己紹介をする流れでは無かったような気がするのだが、と柚季は戸惑いながらも名乗る。鳳月は窓の外を眺めながら「変なものは見つからないかなあ……彼女が見たら悲鳴をあげそうなもの。そもそもあの人は怖いものとか苦手なんですかねえ……ああでも彼女、苦手そうだなあ……」とぶつぶつ呟いている。先程の気色悪い妄想もその『彼女』とやらでしていたに違いない。
鏡の中の世界は(今のところ)比較的マシだったが、旅のお供は大分まともではない。柚季は自分の心がごりごりとノコギリで削られている音を確かに聞いた。
通路を挟んだ向かい側にあるボックス席には誰も座っていなかったが、話し声はぽつぽつと聞こえてきたから、自分と男――鳳月しか乗っていないということはなさそうだ。
しばらくは二人、無言でいた。あまり人と接するのが得意ではなさそうな鳳月はずっと窓をぼうっと眺めていたし、柚季も最低でも十は歳が離れていそうな男性にどんな話題を振ればよいのか分からなかったし、しかも相手は陰気なド変人。そんな人とまともなコミュニケーションをとれる程のスキルは柚季にはなかった。
(それにしても鳳月ってすごい名前。何か日本の伝統文化に携わっている人の芸名みたい。そういう家の人なのかしら……それか何かこう歴史ある名家のお坊ちゃんとか? 結構何気ない所作とか綺麗だし……何となく育ちとか良さそうだし。嗚呼それにしても気まずいなあ……ただでさえ鏡の世界の中に連れ込まれて辛いっていうのに、こんな無言のまま初対面の変な人と二人、どこへ向かうのかわからない電車みたいなものに乗り続けていなくちゃいけないなんて……)
一人車内を歩き回る勇気もなく、美しいテーブルを凝視するだけだった。そこに描かれている蝶は眺めている内、段々とひらひらと本当に飛んでいるように見えてきた。今にもふわっとその漆黒の闇から飛び出して、自分の鼻の上に止まりそうだ。
そうしてじっと蝶を眺めていた柚季は、ふと視界が僅かに暗くなったのを感じそれと同時に「こんにちは」という声が聞こえた。通路に誰かが立ち、自分達に話しかけてきたらしい。柚季ははっとしてそちらを向いた。
そこに立っていたのは一人の男だ。銀色の狐のマークが入った、つばつき帽は車掌の被っているそれを連想させた。白の着物に紺色の袴、黒の羽織。羽織の袖や裾には白い線が二本。とても低くて思わずどきりとしてしまうような声で男は「コウコウテン」と言った。何のことだろう、と首を傾げると速水が小声で「こっちの世界でこんにちはって意味だよ」と教えてくれた。それが嘘でないなら、彼は随分とこの国のことに詳しいみたいだ。コ、コウコウテンとおずおずと柚季が口にすると男は優しく微笑んだ。
「切符を拝見」
男は矢張り車掌であったらしい。柚季と鳳月はそれを聞いて思わず顔を見合わせる。二人とも切符等持っていないはずだった。何せ気づいたらここに座っていたのだから。そのはずなのにどういうわけか二人とも、何だか自分達は段々最初から切符を持っているような気がしてきた。その思いが強くなった時、二人はいつの間にか握っていた手に違和感を覚えた。何か小さく硬いものを握っているような感覚があったのだ。
もしやと手を開けてみれば、そこには切符位の大きさの薄い板が乗っている。材質は分からないが、紙ではないようだ。黄金に塗られたその板には墨らしきもので文字が書かれている。
「稀……人……一日乗車券?」
「稀人……マレビト、ですね。まあ確かに我々は外部から来た『異人』ですからねえ……マレビトというの表現は間違いでは」
「おおおお、おお、マレビトの方々!」
鳳月の言葉を遮ったのは、車掌の驚嘆の声。あまりに大きな声だったので二人揃ってびくっと体を震わせる。更に車掌は大きな声を上げる。
「皆々様、マレビトの方々がいらっしゃいました! 是非歓迎のご挨拶を! シイナラ・クーリャンセ!」
「シイナラ・クーリャンセ!」
車掌に続き、車内にいたらしい人々が口々にその謎の言葉を発した。直後、ぱちぱちと割れんばかりの拍手。シート越しに、乗客達の視線を感じ二人は「恥ずかしい……」とかちこちになった体を小さくし、服や着物をぎゅっと掴みながら俯いた。視線とは遮蔽物があってなおこれ程強く、ぐさぐさと刺さるものなのかとかえって感心する位だった。中には席から離れて二人の姿を見に来た者達もおり、しかもその姿が明らかに人のものではなかったので「結局こういうのがいる世界なのね! 妖みたいなのはどうか出ませんようにと祈っていたのに!」と柚季を絶望させた。注目されるのが嫌いなのだろう鳳月といえば酷い有様で、元々死人に見えるのがますますそれっぽくなっていた。もしかしたら本当に死んでいるかもしれない。
「クーリャンセ、というのはこの美しき永遠の郷『シイナラ』において歓迎の意を表す言葉です。ようこそ、いらっしゃいませという意味ですね。しかしこれはマレビトの方にのみ使われる言葉で、一般的には『イラーシタ』と言います。マレビトは我々にとって特別な存在ですから、貴方方には特別な言葉を使うのです。こういったマレビト言葉は他にも沢山あるのですよ。さて、そんな貴方方にお渡しするものがあります。まだお持ちではないようですので」
車掌は満面の笑みを浮かべながら胸の前にやった左手をぎゅっと握りしめ、ぱっと開く。どんなタネや仕掛けがあったのか、それともそんなものは存在しないのか――開いた左手の上にはいつの間にか木製の木箱があり、右手でそれの蓋をぱかっと開ける。その中に入っていたものを取り出すと箱はいつの間にか消えていた。車掌が取り出したのは紫色の勾玉がついた首飾りだった。
「これはマレビトの方につけていただく首飾りです。これがマレビトであるという証明になります。これさえつけていれば、何を買うのもタダになります。幻想絵灯籠も無料で見られますし、そのお供の食事も無料。博物館や資料館等の入館料もかかりませんし、賭け事だってお金を少しも使わず楽しむことが出来ます。但し、こちらで購入したものを貴方方の住む世界へ持ち帰ることは出来ませんので、それだけはご了承願います」
そう言って車掌は二人に首飾りを手渡す。隣にいる鳳月は「これをつけたらマレビトということが一目瞭然となって、どこへ行っても注目を浴びることになってしまうのだろうか」と言わんばかりの顔をしていた。
「あ、あのう……私達はこれに乗ってどこまで行けばいいんですか?」
「どこまで? どこへでも。どこで降りるか、どうこの美しき永遠の郷を回るかは自由ですよ、マレビトのお嬢様。一日中この大車『カラリンドウ』で過ごすのも良し、トマバ――貴方方がエキと呼んでいるものですね――毎に降りてトマバ周辺を散策するも良し。まあそうですね……うむ……どこへ降りるか迷うようでしたら、この郷の中心部である『シイナラ・チュカク』で降りてはいかがでしょうか? こちらのことがよく分かりますよ、きっと。またそこには我等が愛する神、ミカガミ様がおわします神殿がございます。ミカガミ様は美しい鏡の姿をした神様でいらっしゃいます」
「それってもしかして……」
「私達をここへ引き込んだあの鏡……ですかねえ」
と小声で話す二人を尻目に、うっとりとしながら神を語る車掌は話を続ける。
「我々一般人も一年に一度――自分の誕生日に神殿に入ることが出来ます。そして愛する神、ミカガミ様にお会いすることが出来るのですよ。そして言葉を交わせます。あの美しい瞬間の為に一年頑張っているようなものです。貴方方マレビトは自由に神殿を出入りすることが出来ます。今日中ならば何度でも。我々は一度神殿を出れば次の年まで入ることは叶いませんがね。ミカガミ様にお会いすれば、あの方がきっとこの美しい永遠の郷のことについて沢山教えてくださることでしょう。それでは私はこれにて。ちなみに先頭の車両には売店がございます。ここでは読み物や美味しい食事が販売されていますので、是非そこで旅のお共をお買い求めください」
車掌は深々とお辞儀をすると、別の乗客の切符を確認しに行った。柚季と鳳月はこの後どうするか相談しようとしたが、車掌という邪魔がいなくなったことで次々と乗客がやって来て二人に絡んできた。自分達と同じ人間と思しき外見もいれば、明らかにそうではないものもいる。彼等は二人の外見の評価をしたり、この郷がどれだけ素晴らしいか力説したり……ほぼ一方的に喋ると戻っていった。柚季は人ではないものの姿を何度も見て泣きそうになり、鳳月は歓迎の意と好奇の視線の集中砲火を浴びて死にそうになった。それも少しして落ち着いたが、終わる頃には二人の魂はすっかり抜けていてこれからどうするか相談するまでには多少の時間を要した。遠くで速水のゲラゲラ笑う声が聞こえたが、それに対して反応する気力さえなかった。
とりあえず二人は先頭にあるという売店へ行くことにした。そこで何か買って食べて気分転換でもしようという考えだった。何よりここでじっとしているのは落ち着かない。首飾りを売店で何か買うまで隠していれば、乗客に絡まれないで済むだろう。……というのか浅はかな考えだった。二人は首飾りを乗客の目に映らないように隠していたが、隠していてもどうやら勾玉から何か発せられているらしく、通路を歩く最中何度も話しかけられたり、歓迎の言葉を大声で言われたりして、恥ずかしいやら気まずいやら恐ろしいやら。
いっそ殺せと願う程の、悪意無き仕打ちを受けながらやって来た先頭車両は売店専用の車両であるらしい。テーブルと同じく黒漆で塗られているらしいカウンター。その正面には美しい蒔絵と螺鈿細工、舞い散る桜、美しき虹色の川にひらひらと落ちて華やか。ちなみに後で聞いたところによると季節によって絵は変わるらしく、夏なら美しい海とそれを泳ぐ魚、秋なら紅葉かきわけ泣く鹿、冬なら踊る六花。
牛骨そのものな頭をした大柄な男(?)がそのカウンターには立っており、背後には簡易的な調理場がある。どうやらここで調理をして料理を提供するらしい。カウンターの両端から木製の柱が伸び、黒漆で塗られた屋根がある。他にも売店はあり、出来合いの弁当やパンを売っている店、読み物や嗜好品を売っている店があった。前者のカウンターは市松模様で店員は恰幅のいいいかにも肝っ玉な感じのするおばちゃん、後者は煙管を加える着物の艶やかな女の絵が描かれているカウンターで、店員はいかつい顔をした、ぬるぬるした青緑の鱗に覆われた魚人らしい男。
「ううう……まともなのはお弁当とパンを売っている人位じゃないの。後はどう見ても人間じゃないし! 嗚呼、紗久羅達はいつもあんなのがうじゃうじゃいる所に平気で行くのね……でもものすごく良い匂いがするう……」
食欲は恐怖を凌駕する。気づくと柚季はふらふらと牛骨頭の居る店の前に居た。鳳月もそれについていった。男は一目見るなり二人がマレビトであると気づいたらしく、低くそしてうっとりする位良い声で「シイナラ・クーリャンセ!」と叫び、他の店の者、そして店の前に居た客達がそれに続いた。再び浴びる視線に身を縮めながら、二人は屋台の屋根に張られたメニューに目を向ける。その名前と匂いから察するに、人間が食べられないようなものではないように思えた。
「ここではマレビトの方々と同じ、人間も暮らしていますからね。むしろ人間の方が多い位です。ですからここで売っているものも全て、人間が食べられるものです。毒は入っていませんから安心してください」
「毒は入っていなくても……異界のものを口にすると異界の住人になってしまい、元の世界に帰れなくなsる……黄泉戸喫……。さて、ここにあるものはどうでしょうね?」
「ひい! 私ここから帰れなくなるなんて嫌です! その恐れがある位なら、食べない方が良いです!」
「そんな心配なんてしなくても良いって。ここで幾らものを食べても、柚季達がこの住人になることはないってば」
食べ物を買うことを躊躇する二人の様子を見ていてもたってもいられなくなったらしい速水が口を挟んだ。彼は柚季を異界の住人にすることを俺は望まない、だから嘘は吐かないよと付け加える。柚季は姿を見せず、声だけを聞かせる速水に「嘘を吐いていたらあんたが死ぬまで祟ってやるから」と言った上で揚げ芋を頼む。鳳月は鶏手羽甘辛漬け、それからホルモン煮を頼んだ。更に「折角だから」と恰幅の良いおばさんの店でお茶とカツサンドを買った。体型から見て小食な上に偏食家だとばかり思っていたが、別にそういうわけではないらしい。
「食べる時は食べます。食べない時は全く食べませんし、三食金平糖で済ませたこともあります、昼にレトルトカレーを食べてそれっきり何も食べないこともあれば、美味しいローストビーフだのミートローフだの作って食べることもあります。つい最近時間をかけてスープから作った豚骨ラーメンを食べたこともありますねえ……ちなみに麺も手打ちで作っちゃいました。昨日は朝に黒糖饅頭を食べて、夕方に抹茶アイスを食べただけでしたねえ……ひひっ」
どうやら相当極端な人であるらしい。料理スキルは高いが、それを一切発揮せず頭がおかしいとしか思えない食生活を送ったかと思えば、それをいかんなく発揮することもある。その差が天と地程も離れているようだ。そんな極端すぎる生活を送っているからいかにも不健康な見た目をしているのだ(勿論食以外も相当偏っているのだろうが)。彼には一刻も早くびっちり生活管理をしてくれるお嫁さんが必要なのではないか、そうしなければ色々と偏りすぎているだろう生活が原因でいずれぽっくりいってしまうのではないか、と会って間もない人間のことなのに心配になってしまう。
二人は買ったものを手に元の席まで戻る。行きよりは車内の様子をじっくり眺めることが出来た。出入り口にはこれまた立派な蒔絵が施されており、惚れ惚れとする。途中止まったトマバ――駅のホームは木造で、ぱっと見はこちらの世界のものとそう変わらない。電車を待つ椅子も木製で、座面は赤や青のちりめん。ここにも小さな売店があり、弁当などを売っているようだ。
鳳月は先程と同じ場所に腰を下ろし、柚季は隣ではなく彼の斜向かいに座った。席についてから、二人は買ったものを食べる。始めは恐る恐るだったが、特に変わった味はせず見た目通りの、普通に美味しい味だったので警戒心や恐怖心はなくなっていく。小ぶりのじゃがいもを揚げ、醤油や砂糖を使ったタレをさっと漬けた揚げ芋は外はカリっと、中はほくほく。最初は甘辛いタレの風味がふわっと広がり、噛んでいる内にじゃがいもの味がする。ほくほくとした芋の、優しく豊かな風味。ちなみに売店では揚げ芋串というものも売っており、通りかかった席に座っていた人がこれにケチャップをつけて食べていた。鳳月は自分が頼んだものを少しずつ柚季に分けてくれた。彼が頼んだ鶏手羽甘辛漬けからは甘辛いタレの香りがし、更に白ゴマがたっぷりかかっている。口に入れればその香ばしい香りがふわっと広がる。長い間継ぎ足して作られたのだろう汁の中に入れられ、ぐつぐつ煮込まれたホルモンやこんにゃくは見るからに味が染みこんでおり、実際そうだった。車内で売られているものとは到底思えない、本格的な味だった。古くからある居酒屋で出されているものと言われても誰も疑うまい。丼の上に乗ったネギのピリ辛で爽やかな味が良いアクセントになっており、しゃきしゃきという音も楽しい。カツサンドは、野菜や果物をふんだんに使って作られただろうソースをたっぷりつけたカツとキャベツを食パンに挟んだもの。見た目も味も、どれもこれも自分達の住んでいる世界のものとは何も違わない。
二人は食事をしながら、窓の外を流れる景色を眺める。現代というよりは一昔前風の、どことなくノスタルジーを感じる風景が多い印象を彼女は持った。しかし明らかに妙なものというのはあまりない。
今は木造の家が建ち並び、その頭上には幾つもの提灯が吊り下げられているのがやや離れた所に見える場所を通っている。お祭りというわけではなく、普段から吊るされているのかもしれない。夜になれば橙の街灯となって、懐かしい姿の家々を照らすのだろう。他にも都会に建ち並ぶ高層ビル並に高いだろう木造の建物が密集しているエリアとか、屋上に庭らしきものがある石造りの家がずらりと並ぶエリア、屋台街らしきエリア等があった。エリアによって雰囲気は変わるが、あまりにも非現実的すぎるものは殆どない。
「現実の世界のどこかにありそうで、どこにもない世界という感じですねえ……。似ているけれど、違う世界。ふとした瞬間に足を踏み外し、踏み入れる異界とはこのような場所なのかもしれませんねえ。無関係ではないが、同一ではない世界。現と紙一重の世界……」
(紗久羅も言っていたけれど、向こう側の世界って何もかもが違う世界ってわけじゃないらしいのよね。確かにこちら側には絶対に無いものも多いけれど、こちらにあってもおかしくないものが多い。衣食住、あらゆる文化はこちらと近しく、でも同一じゃない。言葉だってちゃんと通じるし……でもここは、出雲さんが住んでいる世界もよりこちら側に近いかもしれない。人ならざる者より、人間の方が多く暮らしているみたいだし。それにしても一体何なんだろう、この鏡の中の世界って。霊的な力を得た鏡が自分の中に生まれた領域を自分が好きなように弄って作った、鏡が見る『夢』の世界? それともどこか特殊な層にある、この鏡を介さないと行けない実在の世界?)
「ここシイナラは、この鏡の外に本当にあった郷だよ」
「え? ってぎゃああ!?」
柚季は悲鳴をあげ、それから即座にテーブルの上からにょきっと生えた生首――速水の頭をべしんと叩く。さらし首状態になっている速水は「いてっ」と声をあげたが、あまり堪えてはいない様子。鳳月はといえば至って冷静で「おや」とこの奇怪な状況に対してただ一言。
「あ、あんただからそういう登場の仕方はいい加減やめろって言ったでしょう!? あんた私の心臓を何個止めれば気が済むのよ!」
「もういい加減に慣れなよ、柚季。俺ってばしょっちゅうこういう出方しているんだからさあ。なんだって何度も見ているはずの柚季の方が悲鳴をあげて、こっちの兄ちゃんの方が慣れっこですと言わんばかりの顔をしているんだよ」
と速水は呆れ気味。それは速水の『天井や床等から頭や手だけを突然にゅっと出す』という行為にいつになっても慣れない柚季に対してなのか、それともこのような状況を目の前にしても至って冷静な鳳月に対してなのか、或いは両方か。
「シイナラ……ここはかつては鏡の中の世界ではなかったのですか?」
鳳月は顔を真っ赤にしてぶるぶる震えながら抗議する柚季を見事スルーして、速水に問う。速水はくるり、と鳳月の方を向いた。
「正確に言うと今ここにあるシイナラは、本当のシイナラじゃない。実際に存在したシイナラを基に作られた……いわばシイナラの精巧な模造品さ。いや模造品だった……ものかな」
そう語る速水の顔は心なしか苦々しい。何か思うところがあるらしい。鳳月は「模造品だった、というのはどういうことだ」と尋ねたがその問いに対しては「今に分かる」と答えただけだった。
「本物のシイナラはね、あの化け狐の兄ちゃん達が暮らしている層よりもこちら側に近い層に実在した郷だ。いや……更に元の元は柚季達が住んでいる層と全く同じ所にあった。その頃から人間と妖が共存し、静かに、穏やかに、そして幸福に暮らしていた土地だったんだ。それを少しずつあの鏡――ミカガミ様が周囲と切り離していき、そして沈めていった。あの鏡は本当のシイナラでも神様だったんだよ。シイナラを生かすも殺すも、異界にするもしないも何もかもあの鏡次第なのさ。……で最終的にはこちら側に近いけれどこちら側ではない、けれど向こう側というには遠すぎる所になった。人と妖が争うこともなく、お互いがお互いを愛し、平和に暮らす幸福な郷……。こちら側に大分近い所にあるから、丁度シイナラがあった土地に近づいた人間がふっと迷い込むこともあったらしい。そしてそのままシイナラで暮らすことになった人間や妖も中にはいるそうだよ。鏡に許された者だけだけれどね」
「そういった話を聞く限りですと……私達に『隠れ里』と呼ばれているような所なのですね、シイナラは」
「まさにそれだね。実際シイナラのことを指していると思われる隠れ里の伝承も幾らか残されているみたいだ」
「隠れ里……九段坂さんから少し聞いたことがある。……で、ここはその本当にあったシイナラという隠れ里的な土地を基に、シイナラの神様であるあの鏡が作った模造品と。つまり本物ではないんだ。じゃあ本物のシイナラは今どうなっているわけ? ていうかあんた、何でやたらシイナラのことに詳しいのよ」
「シイナラには何度か足を運んだことがあったからね。のんびりとした時間を過ごすには最適な土地だったから。俺はあの鏡に拒絶されなかったから、自由に行くことが出来た。本物のシイナラを、何度も何度も俺は見たよ。模造品ではない、本当のシイナラをね。……鏡はふらふらと彷徨っては、外部の人間を自分が作り出した模造品の中に引き込む。そして郷の中を回らせて、はいさようならと帰す。それを繰り返しているみたいだ」
シイナラが今どうなっているか、そのことについて彼は語らない。それもいずれ分かるということなのだろうか。ただ速水のいつになく重々しく、そして冷たい声を聞けば良い考えは浮かばない。そもそもシイナラの全てを決めるという鏡が、自身の郷以外の土地をふらついている時点で……。いずれ分かるとはいうが、知らないまま帰った方が幸せかもしれないなと柚季は思った。
速水が首を窓の方へと向ける。
「……後少しでシイナラの中心部『シイナラ・チュカク』に着くよ。ほら、向こうにぼんやりとでっかいウェディングケーキみたいなのが見えるだろう。あれはシイナラ・テーベって呼ばれているもので、住宅や店が建ち並んでいる。そしてあのてっぺんにミカガミ様がいる神殿があるのさ。シイナラ・テーベの裾に広がるテーベ・モートも大変賑やかな所だよ。シイナラ・テーベとテーベ・モートで構成された、シイナラ一賑やかな場所……それがシイナラ・チュカクさ」
終始速水が不機嫌そうなので、柚季と鳳月は戸惑う。柚季は彼がこれ程不機嫌な様子になったのを見たことがなかったので尚更だった。彼がこんな風になる程の何かが本物のシイナラで起きたのだろう。
速水が言う通り、遠くに大きなウェディングケーキに見えないでもないものが見える。その頂には真っ赤な、大きな建物があった。あれが神殿だろう。速水がウェディングケーキと称したものだから、それがケーキの上に敷き詰められたイチゴに見えてくる。それを眺めている内に速水は姿を消していた。
シイナラ・チュカクのトマバに着くまでの間、鳳月が隠れ里や稀人のことについて色々と話してくれて、それが結構勉強になった。簡潔ながら実に分かりやすく、なかなか面白かった。段々と話に引き込まれていった柚季の表情を見て鳳月も楽しくなってきたらしく、段々と明るく饒舌になっていった。更に盛り上がるぞ、というところで『シイナラ・チュカク、間もなくシイナラ・チュカクです』というアナウンスが聞こえた為、少し残念に思った位には楽しんだ。
そして大車『カラリンドウ』はシイナラ・チュカクへと辿り着いた。今までのよりも明らかに大きく、活気のあるホームに降り立つ。
ところでホームに降りて初めて気づいたのだが、大車の下にはレールがなくまた車輪もなかった。地上からぷかぷか浮いている車体は、どういう原理なのか知らないが浮いたまま動き出しトマバを後にした。磁力とかそういう現実的なものではなく、恐らく何かよく分からない不思議な力が働いているのだろう。ここはこちら側に近いが、こちら側ではない世界なのだから。
二人は自分達を乗せていた大車が去っていくのを見送ってから、ホームを後にするのだった。