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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
在りし日の姿は鏡の中に
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第六十九夜:在りし日の姿は鏡の中に(1)

 

 あの美しかった日々が、消えていく。私の愛した郷が塵屑のようになって、消えていく。確かにあったはずの美しい色とりどりの宝石の様な世界が遠ざかって、夢になって、去ろうとしている。

 あの日々を奪わないで、美しい郷を灰色にしないで。

 崩れていく、崩れていく。長い時間をかけて積み上げてきたものも、呑み込まれれば一瞬。積み上げるのは難しくても、壊れるのはとても簡単。


 絶対だと思っていたのに。この世界で、この郷だけが『絶対』で『永遠』だと思っていたのに。絶対など、この世にはなかったのだろうか。

 嗚呼何より愛したものが、終わっていく。それを見るのは耐えられない。

 耐えられない、耐えられない……。


 終わるのを見せられる位なら、先に私を終わらせて。

 耐えがたい裏切りに目を向けてしまう前に、そんなものに気づいてしまう前に私を。


 嗚呼、酷い裏切りだ。なんて酷い裏切りなのだろう……。

 私は気づいてしまった、もうだからあの頃には絶対に戻れない。



『在りし日の姿は鏡の中に』


(嗚呼、やっぱりこのお店からだわ。妙な気配がするのは)

 柚季は自分の目の前にある建物を見つめながらため息をついた。彼女が今いるのは三つ葉市にある羽鳥坂(はとりざか)という緩やかな坂を上ってすぐの所。坂から続く道の左側、空き地と二階建ての住宅の間にその店はあった。

 それなりの年月を過ごしたらしい木造二階建ての建物で、屋根を覆う黒い瓦が日を受けて鈍く輝いていた。その屋根の両脇についているしゃちほこは、建造当時は恐らく眩い黄金の輝きを見せていただろうが、今は半ば泥を被った鯉の様に見え、かつてはあっただろう威厳とか貫禄とかそういったものは殆ど感じられない。柚季は出入り口であるガラス戸の上に掲げられた看板に視線を移す。緩いウェーブを描いた大きな木製の看板で、ニスが塗られている為か光沢がある。うっすらと見える木目の美しい看板には『五色堂』と書かれていた。戸に張られているしょうもないしゃれが書かれた紙によれば、読みは『ごしょくどう』ではなく『ごしきどう』というそうだ。外から見る限り、雑貨屋であるらしい。

 

 この店から柚季は異様な気配が漂っているのを感じ取った。妖達の発する妖気とか、邪気とかそういうものではないが、清浄なものとも言えない。邪なものは感じないが、歪みは感じる。以前この辺りを通った時分にはそのようなものは感じられなかったから、ずっと前からこんな風であるというわけではないのだろう。

 一体何故にそのようなものをこの店が発しているのか、その正体は何なのか柚季には分からない。ただ一つ現時点で分かることがあるとすればそれは今この店に入ったら、高確率で面倒なことに巻き込まれるということであった。


(別に気づかなかったフリをして去っても良いのだけれど……)

 妖でないにしても、一般人の持つ『常識』から大きく外れた何かが関係していることは確かだ。そういうものに関わることは柚季としては避けたい。今日だってここまで来るまでの間に何度雑魚妖怪に絡まれたか分からない。最初羽鳥坂の近くを通った際にこの異様な気配を察知した時、柚季は「無視しよう」と思った。何も気づかなかったフリをして、一刻も早くそこから離れようと考えていた。それが自分の身と心を守る為には一番であると知っているからだ。しかしここで自分が気付かぬフリをしたが為に誰かがこの気配の持ち主によって危害を加えられたらどうしよう、と考えたら放っておけなくなってしまったのだ。そして結局坂を上り、気配を発するものがいる(もしくはある)であろう店の前まで来たのだった。

 柚季は己の不幸を呪った。こっちの方面へ足を運ぶのではなかったと。散歩するにしても、別のエリアにすれば良かったと。もっともそちらへ行ったら行ったでまた別の厄介ごとに巻き込まれていた可能性はあるが。


(はあ……。今日は紗久羅と一緒に遊ぼうと思っていたんだけれどなあ。深沢君達と一緒に向こうの世界へ行くって言いだすし……にくえんぜんって何よ、にくえんぜんって。よくもまあそんな得体のしれない場所だかなんだかに行く気になるものだわ)

 他の友達を誘うという手もあるが、妖等に絡まれた時の対処が紗久羅達と居る時とは違って大変面倒だし、対応を誤ってドン引きされるのは嫌だったのでなかなかお誘いすることが出来ないのだった。結局事情を何もかも知っている紗久羅や奈都貴と行動することが多くなり、他の友達とはかなり浅い付き合いになってしまっている。及川さんは紗久羅専用のお友達なのだと評されたこともある位だ。

 柚季は改めて溜息をつきながら、そこから発せられる気配を肌でびしびしと感じ取り色々と考える。


(ものすごく悪いものってわけでもないだろうけれど、取り除くのにこしたことはないものであることは間違いなさそう。どうしようかな……とりあえずぱっと出来る範囲で調べて、それから九段坂さんに相談しようかな)

 今更やっぱりやめたと引き返すことは柚季には出来なかった。もしこの店の人に何かあったら、という考えを捨てきれぬ以上。なるべく妙なことになりませんように、溜息をつきながら祈りそれから何度か深呼吸し、ようやく決心して柚季は戸をがらがらと開けて店の中へと入った。

 店の中には棚やテーブルがずらりと並んでおり、そこに色とりどりの商品が置かれている。宝石を熱して引き延ばしたり丸めたりして作られたかのような、青や赤や緑の美しい硝子のコップや皿、しゃれた蝋燭、千代紙、かさね色目の名を冠した和紙セット、ビー玉、色鉛筆やクレヨン、置物、パワーストーン、箸、簪や髪留め等のアクセサリー……外観や店名は和風だが商品自体は和だったりそうではなかったり。商品一つ一つのカラーバリエーションが実に豊富で、店内にある張り紙によれば一部の商品に関しては取り寄せも可能で、店にはない色の商品も手に入れられるそうだ。カタログを見てみたが、一つの商品に何種類もの色が用意されており、欲しい色が必ず見つかると言っても過言ではないかもしれなかった。カタログの最後を見てみると有名な会社の名前があった。確かキャッチフレーズは『あなたの色、見つかります』で豊富なカラーバリエーションが魅力の雑貨を多数取り揃えている会社だったはずだ。


 鮮やかで幻想的な万華鏡の中にいるかのような店。しばらくの間柚季は当初の目的を忘れて店内を眺めていたが、あの異様な気配のことをいつまでも忘れていられるはずもなく。


「あれだ……」

 程なくして柚季は気配を発しているものを発見した。入り口正面に置かれているテーブルの上にそれは置かれていた。


(鏡……)

 そこにあったのは一枚の鏡。満月の様に丸い鏡で、手に持てばずっしりと重そうだ。女の子が身だしなみを整える為に使うような一般的なものではなく、祭祀等に使われる銅鏡の様なものと思われた。裏をひっくり返せばびっしりと複雑な文様や絵、文字等が鋳出されていそうだ。しかしそれを手に取り、裏返す気には到底なれなかった。触れた途端良からぬことが起きそうな気がしたし、なるべくなら近づきたくない。こういう鏡を見ていると、ここ三つ葉市へ来る直前のことやその後のことを思い出してしまう。鏡一枚割った為に彼女の人生は滅茶苦茶になってしまった。その為かあの事件以来若干鏡に対して苦手意識を持ってしまい、こういった祭祀等に使われそうな神秘的なビジュアルのものには殊更嫌な思いを抱く。鏡女が封じられていた鏡もまたこういったものだったからだ。

 ぎらぎらと輝く鏡は特別悪いものには見えないが、かといって良いものにも見えない。まともでないものであることは間違いなく、ここに置いておいたら妙なことは起きても良いことなど一つも起きないように思える。撤去するなり、鏡に宿る何かを消し去るなりしなくてはならないだろう。しかし間近に立ってみると、この鏡に宿る何らかの力は相当強いことが分かった。恐らく今の柚季ではこれを取り除いてやることは出来ないだろう。店主にばれないようこっそり速水を呼んで……と思ったが、余程のことがない限り彼は柚季の言うことを聞かない。大いなる災いをもたらすものではないように思えるものの為に動くことはないだろう。


(とりあえずこの鏡についてお店の人に聞いてみよう。どこからか仕入れたのか、それともいつの間にかこの店にあったのかとか、聞いてみないことには分からないもの。それから九段坂さんに相談するとしましょう)

 店の奥側――出入り口の真正面、テーブルを挟んだ向こう側――に小さな木製のカウンターがあり、そこにこの店の人らしき男が座っていた。どうやらその奥は居住空間となっているらしく、居間らしき部屋が見える。柚季は何度か男に「すみません」と声を掛けたが、一向に彼彼女に気づく様子はない。どうやら本を読んでいるのに夢中になっているらしい。別にそんなに大きな店ではないから、柚季と男との距離もそう遠くない。そしてこれだけ静かな所であるのだから、普通だったら気づくだろうに。さくら同様、一度書物の世界に足を踏み入れたら滅多なことでは外界からのアクションに気づかなくなるタイプらしい。店に来たお客さんを相手にする商売なのにはたしてそれで良いのだろうか。そういえば店に入った時、いらっしゃいませの一言も言われなかった。

 仕方がないのでカウンターの目前まで来る。座っていた男の姿を間近で見た瞬間彼女は悟った。


(嗚呼そうか……ここが噂の『幽霊店主』のいる店なのか)

 幽霊店主、もしくは妖怪店主と呼ばれている人がいることを、柚季はクラスメイトの女子から聞いてはいた。それがこの店の主人であることは知らなかったけれど。幽霊とか妖怪とはいうが、別に本物の幽霊や妖怪ではない。彼は(気配を完全に隠せる人でない限りは)正真正銘の人間だろう。

 彼がそう呼ばれる所以はその容姿にあるのだろう。

 痩せこけた頬、白いを通り越して青い肌、丸い眼鏡の下にある瞳は陰鬱という名の粉でよく磨いた様なもので、ぎらぎらと暗い輝きはあるが生の輝きはない。目の下にはうっすらとクマ。束ねた胸程まで伸びる黒髪は照明を受けて妖しく輝き、首や手は細い。抹茶色の着物は「これは長い間、日常的に着ているな」ということがすぐ分かる程見事に着こなし、着物に着られている感はない。これでもう少しびしっと背筋を真っすぐにし、もう少し肉がついていたならもっと美しかろうにと残念に思う程だ。

 しかしこれ程異様で、不気味な風貌だというのに醜男という印象は受けない。よくよく見てみると一つ一つのパーツや位置、バランス等は悪くなく程よく肉をつけ、健康的になれば実は美男子の部類に入るのではないかと思われた。


(何かこの人の店になら、あんな鏡一つ位あっても問題ない気がしてきた……いやいや、確かにいかにも幽霊や妖っぽい見た目だけれど、彼はただの人間。やっぱりよくないものは摘み取っておかなければこの人の為にはならないわ)

 男は間近まで柚季が来たにも関わらず、未だ彼女の存在に気づいていないようだった。結局彼女が何度も呼びかけてようやく気づき、のろのろと顔を上げた。


「おや、いらっしゃいませ……初めてのお客様ですねえ、珍しい」

 外見通りの、ややねっとりとした不気味な声。この様子だと客は滅多に来ないようだ。初めてのお客様が珍しい、という言葉を聞く限りでは一定の常連客はいるのかもしれない。


(これで良く商売成り立っているなあ……というかこんなんじゃ、万引きとかされても気づかないんじゃ?)

 呼びかけても一切反応がなかったような人だ、黙って商品を盗んでいっても気づかないとしてもおかしくはない。その事実に呆れながら、柚季は鏡が置かれていたテーブルを指さす。


「あの、すみません。あそこのテーブルに置いてある鏡って商品なんですか? 何かえっと、その値札とか見当たらなくて……」

 男は「鏡?」と首を傾げた。柚季はそうですと頷く。どういう鏡です、と尋ねるので見たままの印象を伝えると男は訝し気な表情を浮かべた。どうやらそのような鏡に心当たりがない様子だ。柚季がものを持ってきていない為、男はゆっくりと重い腰をあげた。男は思ったより背が高く、猫背でなければより高く見えたことだろう。のろのろとおじいちゃんの様に歩く彼を導きながら、柚季は「介護でもしているような気分」だと思った。

 相も変わらず異様な何かに塗れた鏡を指さすと、男は「心当たりがないですねえ」と困惑した様子。


「このような物を店に置いた覚えはないですねえ……はて」


「昨日までは無かったですか?」


「そう記憶しています。誰かが置いたとすれば今日でしょうねえ……」


「誰か今日お店に入った人はいないんですか? 何時位にこういうお客さんが来たよって……覚えていませんか?」


「お客さん……はて、今日誰か来ましたかねえ。お店に人が入って来ても気づきませんからねえ私、ひひひ」


「駄目じゃないですか、それ……」

 ひひひと気味悪く笑いながら言うことではない。これでは誰かが意図的に置いたのか、ひとりでに出現したのかも分からず、仮に前者だとすればどんな人であったのかも分からない。柚季は駄目だこりゃ、と肩を落とす。


「それにしても随分立派な鏡ですねえ。見たところ何らかの祭祀や儀式に使われそうなもので……何かのレプリカ? しかしそういう風には見えない……」

 男は鏡をそうっと優しく手に持った。柚季が「あっ」と言った時にはもう遅かった。とりあえず何も起きなかったのでほっとしたが。男は鏡をひっくり返し、あらゆる角度から観察する。矢張り裏にはびっしりと不思議な文様や動物の絵、文字が沢山あった。中央に埋め込まれた丸い石が不気味に輝き、柚季はそれを見た瞬間ぞっとする。矢張り近い内に嫌なことが起きそうな気がした。男は真剣な表情で鏡を眺めながらぶつぶつと思ったことを口にしている。すでに柚季の存在など忘れているように見える。


「ふむ……矢張り何かのレプリカ、という感じではない……例え何かのレプリカだったとしてもつい最近作られたという物ではなさそうだ……長い年月を経た……この物々しい感じ……神秘性……材質は……実際にどこかで使われていた……? 一体どこのもの……どうしてこの店に、誰が?」


「あ、あのう……」


「この文様……絵、文字……意味合いは……」


「あのう!」

 何度も呼びかけたところでようやく気づいたらしい男がはっと我に返り、苦笑いをする。


「これは失礼致しました。なかなか貴重なものに見えましたので……大学時代は一応文学や民俗学等を学んでいましてね、こういうものを見ると興奮してしまうのですよ、ひひひ。しかし本当に立派なものだ。専門ではないので詳しいことまでは分かりませんが……このような所にぽんと置かれて良いようなものではないように思えます。随分古いもののようでもありますね。一体どこにあったもので、誰が何の目的で置いたのか等はさっぱり分かりませんが……これをテーブルに置いて店内を巡り、そして忘れたまま帰った……とはあまり考えられない気がします。となると意図的に置いたということになりますねえ。……どこからか盗んだものを悪戯で置いた……? よく分かりませんが、私のものでないことは確かですし警察に届けた方が良さそうですねえ。個人的には色々調べたいところではありますが」


「え、ええと……も、もしかしたら持ち主が現れるかもしれませんし、少しの間預かっておいてそれでも誰も来なかったら届け出た方が良いかもしれないですよ」

 警察に届けられたら、この鏡の正体について探ることが出来なくなる。かといって今更「実は私のです」と嘘を吐いて鏡を譲り受けることも出来ないだろう。そもそもこんな得体の知れないものを一瞬たりとも手にしていたくはない。


(まあここに置いておくのも問題あるかもしれないけれど……。とりあえずここに置いといて、すぐ九段坂さんに相談する。九段坂さんが駄目なら、最悪速水を無理矢理動かすしかない)

 男は柚季の提案を却下するつもりはないようで、そうですねえと静かに頷いた。


「確かにお嬢さんの言う通りですね。忘れ物である可能性だって無くはないでしょうし、数日ここで預かって誰も引き取りに来なければ警察に届けることにしましょう」


「はい、よろしくお願いします」


「よろしくお願いしますなんて、変な感じですね。まあいいでしょう、ひひ……っ。それじゃあ、これは私が大切に保管を……おや?」

 とりあえずは一安心、とほっと息をついたところでくるりと奥の居間の方を向いた男の足が止まった。

 嫌な予感を胸に抱きながら柚季が「どうかしたんですか?」と尋ねると男がこちらに向き直る。その手に持っていた鏡が、天井についている照明と同じ淡い橙色の光を発していた。その輝きは徐々に強くなり、気のせいとは言い切れないものになっていった。絶対これは不味いことになる、柚季は咄嗟にそれを男の手から奪い去ろうと手を伸ばす。

 だがその手が鏡に触れる前に二人の世界が完全に光に覆われ、そしてその光は頭の中にすさまじい勢いで流れ込み、意識を焼き切った。鏡は男の手を離れて床へ落ちただろうか、それとも手の中にあるだろうか、それさえも分からなくなった。


 次に柚季が目を覚ました時には、あの色とりどりの商品が並べられた店は忽然とその姿を消していた。代わりに目に映るのは限りなく白に近い赤や黄や緑、青で塗られた世界。天も地も、物らしい物も無く、まるでかなり淡い色した螺鈿を一面に貼りつけた広大な空間に放り込まれたような。


(嗚呼もう、結局こうなるの!?)

 へなへなと柚季はその場に座り込んだ。もしかしたら妙なことが起きる前にあの店から出られるかもしれない、そう思った矢先にこの仕打ち。一瞬でも安堵させておきながら地の底まで落とすという鬼畜の所業に怒りと悲しみが溢れて止まらない。


「おやおやまあ……これはこれは」

 対して男の方はこの事態にさして驚いている様子もなく、実に呑気だった。酷いマイペースなのか、それともこういうことに関わったことがあるのか。彼の手に鏡はない。自分達が鏡の中に吸い込まれたのだとしたら、別におかしいことではないだろう。

 男を見上げていた柚季と、柚季の方を見ようとした男の目がかち合う。その瞬間、男がやや視線を逸らした。よくよく思い出してみると店で柚季と話していた間も、彼はずっと彼女から微妙に視線を逸らしていた。女性と目を合わせるのが苦手というより、この人は全般的に人と目を合わせるのが苦手なのだと何となく思う。


「え、ええと……その、これは夢です、そう夢なんです!」

 この事態をどう説明しようかと考えた挙句出てきたのはあまりにもベタすぎるものだった。これは夢だ、夢であってほしいという柚季の願望が強く出たのかもしれない。


「……あの鏡の発した光には催眠効果があって、それを浴びたが為に眠ってしまって今このような夢を見ていると?」


「う……それは」


「まあ貴方がこの店を訪ね、商品ではない鏡について聞いてきた……という所からもうすでに夢だったという可能性もありますがねえ。本を読みながら店番をしている内に眠ってしまい、そのような夢を見た。そしてこれはそこから続いている夢。だとしたら私の夢に現れた貴方という『像』のもとは一体なんでしょう……一から私の脳が作り上げたもの? それとも以前貴方という『像』のもととなる誰かと出会ったり、写真等の画像を拝見したりしていたのでしょうか。あまり記憶にありませんが」


「そ、そんな細かいことを考えなくても。ええと普通じゃこんなこと、ありえません。そう絶対に。ですからこれは夢なんです、絶対絶対夢なんです! 夢じゃなかったら泣きます!」

 柚季としてはこんな現実は夢にしてしまいたかった。目を覚ましたら逃れられる夢。そう今は目を開いているのではなく、閉じている時。今自分は夢を見ていて、これは現実ではなくて、強く望めば逃れられる世界。そう思い込み、現実逃避をしなくてはやっていられない。それにこれを『現実』としてしまえば、男の持つ世界観というものが壊れてしまう。これからも幸せに暮らしたいならば、それは決して壊してはいけない。これが夢であると主張することは、男の為にもなることだった。


「私は別に夢でなくても構いませんよ。……ふふ、こういう普通ならありえないようなことがよく起きるといわれているからこそ、私はあそこに引っ越して店をやることにしたのですよ……ひひっ。いやあまさか本当に……これなら……」

 と実に嬉しそうに、そして不気味に笑う。この人もさくら等と同じ妖とかそういうオカルト的なものが好きな人種か、と柚季はがくっと肩を落とす。この人はどんな現実も受け入れ、自分の世界ががらがらと音を立てて崩れようとお構いなしに違いなかった。それがどれだけ面倒なことを引き寄せる行為なのか知らないのだ、この人は。深みにはまればはまるほど、逃れられない恐ろしい世界。男は「ああ、もう!」と頭を抱える柚季に問う。


「お嬢さん……もしかしてあの鏡が普通の鏡ではないことに気づいていました?」


「え!? な、なななんでそんな」


「ただの勘ですよ。何となく、です。今にして思えば貴方があの鏡について私に尋ねる時、実物を手にしていなかったのは触れると良くないことが起きると予感していたからかもしれませんねえ。物を持ってきて、それを直接カウンターに居た私に見せれば早かったのに、貴方はそうしなかった。その為に私はわざわざ売り場の方まで行って確認せねばならかった。あの鏡を置いた人物のことなども妙に気にしていましたし、私が鏡を手に持った時もえらく慌てていました。警察には届けずしばらく預かっていた方が良いのではないかと言った時も随分と必死な様子でしたし。あれは警察の手に渡ると、この鏡をどうにかするにも出来ないと思ったからでは? この店にあればまだどうにか出来る可能性があるが、警察相手となると迂闊に手を出せなくなるかもしれないと」


「うっ……」


「お嬢さんは、これが夢ではなく紛れもない現実だと私以上に理解しているのでは?」

 柚季は自分の心の中の一切がこの男に覗かれているのではないかと錯覚した。今までにしても、今にしてもまるでこちらと視線を合わせようとせず、そのくせ彼はよく相手のことを見ている。柚季はどうしたものか、と俯く。何もかも喋ってしまった方が楽ではあるが、初対面の人間に話すのは気が引けるし、話したら彼がどんどん危ない所まで足を踏み入れてしまいそうな気がして不安だった。

 

(でも何も話さないとどうにも話が進まないような……とりあえず細かい説明はなるべくしないで)


「まあ……別に夢ということにしても構いませんよ。どうやら貴方にとってはそちらの方が都合が良いようだ」

 柚季が口を開く前に、男が言った。どうやら何ともいえぬ空気を読んでくれたらしい。物わかりの良い人で助かったと、安堵する。それからこれからどうするか考えた。

 ここは恐らく鏡の中だろう。それは容易に推察出来るが、ここからどうすれば出られるのかは見当もつかない。携帯を懐から取り出したが案の定圏外になっており、英彦に連絡を取ることは無理なようだった。そうなると頼れるのは速水だけだが、柚季の力ではどうしようもないこと以外にはまず手を貸さないような男だ。今回も何となく助けてくれないような気がする。それでもとりあえず呼ぶだけ呼んでみよう、多少のヒントはくれるかもしれないと考え、彼の名を呼ぼうとしたところで隣にいる男の存在を思い出す。明らかに普通の人間ではない存在を、何の事情も知らない人の前で呼ぶのは躊躇われた。男は柚季が何かしようとしていることに気づいたらしく、視線を逸らしながら言った。


「……今、私達は夢を見ています。これは現実ではなく、夢なのです。ですから貴方がこれからどんなことをしても、私は全てそれを夢での出来事であると考えることにします」

 だから気にせずやれ、ということらしい。まあここで呼ぶことを渋っても良いことなどありはしない。柚季は礼を言ってから速水の名を呼んだ。


「速水! 速水! あんたどうせ今のこの状況も把握しているんでしょう! 返事をなさい!」


「そりゃあ勿論分かっているとも。俺はいつだって柚季を見守っているもの」

 程なくしてあの子憎たらしい少年の声が返ってきた。


「ここは一体何なのよ。それだって分かっているのでしょう?」


「柚季だって分かっているだろう。そこはあの鏡の中だよ。君達はあの鏡の中の世界に招かれたのさ。しばらくすればきっとまた景色が変わると思うよ。少なくとも今よりは愉快な世界が目の前に広がるだろうさ」


「どんな世界だか知らないけれど、全く興味がないわよ! だからさっさと私とこの人を元の世界に帰してちょうだいよ」


「そう言って俺が素直に言うことを聞くと思うかい? 柚季の手にはあまる、命に関わるような事案なら手を貸すけれど、今回は全くそういうものじゃないからね。だから俺は助けないよ。助けてばかりじゃ柚季は甘えちゃうものね。俺だってさあ、心苦しいんだよ。色々なことに巻き込まれてわたわたしている君のことを、大変胸を痛めながら見守っているんだ」

 げらげらと腹抱えながら笑っている速水の普段の姿に説得力などパンくず一欠片程だってない。どうせ今回もこの鏡の中の世界とやらに頭を抱えている柚季を見て大笑いするに違いなかった。それをどれだけ腹立たしく思っても、どうしようもない。速水を無理矢理でも従わせる術を彼女は持っていないからだ。本当に憎たらしいと思いながら、柚季は男を指さした。


「じゃあせめてこの人だけでも元の場所に戻してあげてよ! それなら出来るでしょう?」


「勿論出来るともさ。俺は柚季さえここに放置出来れば後は何だって構わないんだ。だから望むならそのお兄さんはこっちに連れ戻してあげるよ。でもさあ柚季、君はそれでいいの? 君の大嫌いな、普通とは違う奇妙な世界にたった一人放り込まれるのってかなり辛くない? 気分的に誰か『味方』がいた方が楽じゃない?」

 確かに鏡の中の世界とやらに一人、というのは心もとない。自分と同じ世界に属する人がただ一人いるだけでも気持ちは多少なりとも楽になるだろう。柚季がどうしよう、と男の方を見ると彼はひひひっと笑う。

 その気味悪い笑みを見ると背筋がぞっとし、こんな幽霊とか妖みたいな人じゃあ居ても居なくても変わりないどころか、かえって落ち着かなくなるかもしれないと思ってしまう。


「私は一緒で構いませんよ。なかなか見る機会の無い夢ですからね、じっくり堪能しておきたいです」


「ということらしいよ。化け物じみた見た目の男だって、いないよりはましだろうさ。嗚呼、あと少しで鏡が自分の作り出した『本物の虚像』の世界への門を開くよ。鏡はそうして君達を客として招き入れる。何、恐ろしい世界などではないから安心しなよ。君達は鏡が満足するまで、適当にその世界を歩き回っていればいいんだ。そうしていれば、いずれ帰してくれるさ。君達はあくまでお客さんであって、永遠に居て欲しい人達ではないのだから。俺は時々君達をからかう為に顔を、いや口を出す予定だからよろしくね」

 速水の声がフェードアウトしていく。そしてそれと比例するように、二人の前に突如現れぷかぷかと浮いている光の玉が大きくなっていき、あっという間に全身を包み込んだ。


 そしてはっと気が付くと、柚季と男は電車の中にいた。


 

 

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