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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
甘い口づけに花が咲く
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第六十七夜:甘い口づけに花が咲く

「貴方を私にくださいな。沢山、沢山くださいな」

 緋牡丹の描かれた黒塗りの箱を大事そうに抱えた女の艶笑。あの緋牡丹は、女の唇の赤が零れて咲いたものか。空は赤く燃えている。赤みの強い橙の大きな夕陽を沈めて溶かした空は、赤い、赤い。箱に結ばれたる紐もまた赤く。

 ブロック塀も道路も橙色に染まって、妖しく煌めいて異界めいて。道を這う影、佇む女、抱える箱、全てからこの世ならざる者を感じさせる。女の笑みは、見た者の体をその場に縛りつける。逃げろ、逃げろ、逃げろ、心が叫んでも体はまるで動かなかった。逃げないことが分かっているから、女は余裕ありげにゆっくりと歩きこちらに迫って来る。


「貴方の全てを、この私にくださいな」

 熱望に濡れた瞳が、こちらの目を捉える。その目が手を、足を、首を絞め苦しみと痛みと束縛を与え、一方でこれ以上にない快楽を与えた。逃げたくて、気持ち悪くて、怖くて、でもこの時間が続けばいいと願う気持ちになる。女の顔がこちらに迫る、体は殆ど密着している、冷たくて冷たくて熱い位だ。

 首筋に、氷で冷やした或いは溶かした鉄を塗った唇が触れる。鋭い痛み、痺れ、全身を駆け巡る快楽と共に血が沸き、暴れ狂う。


 そしてその唇が離された瞬間、花が咲いた。私の体のあちこちで、赤い、赤い花が咲いた。体から何かが一気に抜け、その花に吸い取られていくのを感じる。そして意識は途切れていく。

 嗚呼そうか、矢張りこの女が。


 近頃噂になっている『血吸い女』か……。

 


『甘い口づけに花が咲く』


「そうそうあの占い師のお陰で、私木下先輩と付き合えたのよ」


「あの占い師超やばいよね、あたしもあの人に占ってもらったお陰でスランプから抜け出せちゃった」


「私昨日挑戦したけれど、駄目だった。今日こそは当たりを絶対引いてやるんだから」


「例の占い師、絶対美人だよな。お面被っているから顔見えないけれど、なんか体から美人オーラめっちゃ出ている感じ。彼女と一緒に行ったんだけれどさ、俺鼻の下伸ばしちゃって……彼女にめっちゃ足踏まれたっけ」


「期間限定らしいよ、あの店。嗚呼今の内に沢山占ってもらわなくちゃ。もっとも運が良くなければ無理だけれど」

 最近あちこちで聞く『占い師』という単語。周りの話になどほぼ耳を傾けないさくらでさえよく聞くな、と思う位なのだから余程話題になっているのだろう。とはいえ流行りものにも占い師にも興味が無い彼女だから、その占い師というのが何者であるかについて特別誰かに聞くこともなかったが、昼休みの教室のあちこちで話をしているのを聞いたほのりが「本当話題よねえ」と呟いたことでその話になった。


「近頃よく聞くような気がするのだけれど、占い師って何なの?」


「ああ、サクは知らないのね。まああんたこういうのまるで興味ないものねえ……最近舞花駅の近くに占いの店が出来たのよ。期間限定で、いつまでもあるわけじゃないみたいだけれど。そこの占い師の占いがよく当たるってんで評判なの。ビジュアルはあんたの好みかもね。聞くところによると、黒髪に狐面被った女だっていうし。和装ではないらしいけれどね」

 その格好には興味があるが、占い自体にあまり興味はない。しかしここですぐ話を終わらせるのもなんだか勿体無いので更にほのりに聞いてみる。


「占いってそんなによく当たるの?」


「まあ、これだけ評判になっているのだからよく当たるんじゃない? 実際に占ってもらったわけじゃないから分からないけれどさ。値段もそこまで高くないし、変なもの買わされたりお祓いするからといって法外な追加料金をとったりするっていうあくどい商売しているわけでもないっぽいし。ただ、行けば全員必ず占ってもらえるってわけじゃないらしいわ」

 そうなの、と首を傾げるとそうらしいのとほのりが頷いた。


「なんでも受付でガラガラを回してね、そこで当たりの玉が出た人だけ占ってもらえるのですって。変わっているでしょう? 一応一日何回でも回せるらしいけれど、不思議と外れが出た人はその日何度回しても外れの玉しか出てこないとかなんとか。本当だったとしても、たまたまでしょうけれどね。……あんた本当に興味が無さそうねえ、自分から聞いておきながら。ま、分かっていたことだけれど。今のあんたの頭には血吸いの女のことしかないものねえ」


「そう、美しい血吸いの女! 今の私はそのことで頭がいっぱいなの!」

 周りがぎょっとする程大声になる位、近頃のさくらは彼女のことばかり考えていた。最近老若男女問わず様々な人間が道端などで倒れているところを発見されている。その人達に外傷はなく、しばらくすれば目を覚ます。目を覚ましてすぐは酷くぼうっとしているが、少しすれば元通りになるのだった。さて、どうして彼等は倒れていたのか、尋ねれば口々に『血吸い女に襲われた』と答える。


「血吸い女……黒い箱を抱えた着物姿の美しい女。一人きりでいる人の前に現れ『貴方の全てが欲しい』と言って近づき、首や頬に口づけてくる。彼女に口づけられると全身に赤い花が咲く……綺麗な、綺麗な赤い花が! それは比喩ではなく、本物の花だというわ! そしてそれが咲いた途端体から力が抜けて気を失う。花が赤いのはその人から血を吸っているからと言われているわ! 気を失うのも血を吸われたからでしょうね! 花は目を覚ますと無くなっているって話だし、きっと摘み取って箱に入れて持って帰って、それからゆっくりそれを味わうのでしょうよ。この血吸い女というのはどうやら全国に出没しているらしいのよね。呼称は場所によって変わるようだけれど。しかも! この血吸い女のことらしき記述が桜村奇譚集にもあるのよね! やっぱり黒い箱を抱えた美しい女で、彼女に口づけられた者は体に赤い花を幾つも咲かせて気を失う。更に平安時代に書かれたとされる諸国の不思議な話が集まった『海山霊異記』にも彼女のことらしき記述が」


「ああはいはい、その辺にしておきましょうね。ていうかそれ昨日も散々聞いたから。あたし、そんな何度も言われなくてもちゃんと覚えているから。それにても人の体に花を咲かせる女なんて気味の悪い……まあ、どうせ幻覚でしょうよ。女に変な薬でも嗅がされて幻見てぶっ倒れているだけよ、きっと。血吸い女という都市伝説的な存在に扮してね。まあ、あんたは皆を襲っているっていう女が本物の化け物だと信じて疑っていないでしょうけれど」

 頬杖をつき、呆れ気味にいう彼女に「勿論!」と返すのがさくらである。出雲の導きで異界へ足を踏み入れる前からそういうものは実在する者だと当たり前の様に思っていた人間だ、異界や妖が実在することを知った今どうして血吸い女の存在を疑うことがあろうか。弥助は血吸い女に該当する種族に心当たりはないというが、彼も全ての妖を把握している訳ではないし、血吸い女というのがこの世にただ一人しかいない者である可能性だって十分あるという。


「私は是非血吸い女に会いたいわ! 皆は会いたくない、一人で出かけるのを避けたいって言っているけれど私は逆よ。別に会ったからといって死ぬわけではないもの。会ったら絶対死ぬとなったら流石の私も会うのを躊躇うけれど……。そして! 出来れば自分の体に赤い花が咲く様を見てみたいと思うの。どんな風に咲くのだろう、と想像するだけでテンションが上がってしまうわ」


「花なんて見飽きているでしょう。あんたの頭の中常にお花でいっぱいでしょうが」


「私、とても会いたいと思っているのよ。でも会いたいと思ってもなかなか会える相手じゃないわよね。注射はあまり好きではないけれど、異界の住人に死なない程度に吸われるのならあまり苦ではないから是非この血を差し上げたいと思うのだけれど、こういう風に会うことを望んでいる人の前にはなかなか姿を見せてくれないのよね……」

 とほのりの嫌味などまるで聞いていない。全くこの娘の頭は一体どういう構造をしているのだとほのりは呆れるしかなく、こんなだから周りに珍生物扱いされ笑われているのだ。本当に困ったものだと思うが、どうしようもない。


「血吸い女は一人きりでいる人の前に現れるらしいけれど、それ以外は特にこれといった条件もないのよね……でも本当に合ってみたいわ。嗚呼、一体どうすれば会えるかしら!」


「それじゃあさっきの占い師にでも聞いてみれば?」


「え?」


「どうすれば血吸い女に会えますかって。聞けば占ってくれるかもよ。良く当たるみたいだし、彼女の言う通りにすれば会えるんじゃない?」



 そして放課後、部活終了後。


「……あたし確かに言ったわよ。占い師に占ってもらえばって? ええ、言いましたとも。言ったけれどね……あんなの冗談よ、冗談ですとも。そう、本当に……誰が本気にしろと言った!?」


「あら、櫛田さんにとっては冗談でも私にとっては名案だったのですもの。だからこうして来ているのよ」

 二人がいるのは学校からそれなりに離れた――家がある桜町や三つ葉市とは正反対――舞花駅近くのとある通り。この通りに噂の占い師が期間限定で構えている店があり、二人はそこを目指して歩いているのだった。ほのり自身は占い師に興味が無いが、さくらが店の場所を知らないので道案内役としてついてきているのだ。別に教えてやる必要など無いが、自分が拒否しても意味はないだろう。妖や異界といったものが関わると途端すさましい行動力を発揮する彼女だ、普段は絶対に喋らないような人に聞いてでも占い師の店を突き止めるに違いなかった。その日何度も言った言葉を口にしながら、ほのりは己の軽率な発言を悔やむ。


「あーあ、あんたの旦那にばれたら余計なこと言うなって怒られちゃうわ」


「だから一夜は旦那なんかじゃないわ」


「あら、あたし一言も井上だなんて言っていないけれど?」


「言わなくても分かるわ、いつもそうやってからかわれるのですもの」


「旦那じゃなければ保護者だ。ま、あんたはどっちも否定するでしょうけれどね! なんにしても、ばれたら怒られちゃう。嗚呼怖い怖い」

 ぶつくさ延々とさくらに余計なことを言ったことに対する後悔の言葉を吐き続けるほのりは、ある場所の前までくると「あった、あれあれ」と立ち止まり指差した。その先にはひっきりなしに出入りをする人々の姿があり、人気であることが容易にうかがえる。小さなビルの一階にあるその店は入り口は受付になっており、どうやら奥の部屋に占い師がいて皆を占っているらしい。内装はシンプルで、ガラガラとレジスターが置かれた受付カウンター、時計、当たりが出た人が順番を待つようらしき長いすが置かれているだけ。看板さえなく、ぱっと見ただけではどんな店なのかそもそも店なのかさえ分からないだろう。店内にBGMはかかっておらず、順番を待つ人々の声と、がらがらという音だけが聞こえる。


「あれってどれ位当たりが入っているのかしら」


「さあね。噂によれば日によってばらばららしいわよ。そもそも営業時間もばらばらで、突然休みになることもあれば朝早くから夜遅くまでやっていることもあるし、朝始まって昼には終わりってこともあるし。占い師の気分で何もかも変わるのでしょうね。本当商売ってより、趣味でやっているって感じ!」

 前に並んでいた人が次々と外れの玉を引いて残念そうに帰っていく。あんたもどうせ外れよ外れ、とほのりは笑っているが、やってみないと分からないとさくらは気にも留めなかった。そしてさくらの順番が回ってきた。受付にいた女性は三十代位に見え、肩ほどまで伸ばした髪は真っ直ぐ切り揃えられている。静かに微笑んでいるが機械的というか、どうにも感情というものが見えずお面を被っているのではないかと本気で思えるほどだ。服装は白いブラウスに白いタイトスカートで、壁紙も天井もどこもかしこも白いものだからまるで目立たず、一瞬顔と手足しか存在しない人ではないだろうかとどきりとしてしまう。


「このガラガラを回してください。金の玉が出れば当たりで、白の玉が出れば外れです。外れが出たら占ってもらうことは出来ません」

 これまた機械の読み上げに聞こえる調子で言うと、目の前にあるがらがらを指す。こういうものを回すのも久しぶりだ、とどぎまぎしながらハンドルを回すとガラガラという小気味よい音が聞こえ、やがてころころんと玉が出た。鮮やかな金色で、さくらより先にほのりの方が「嘘!」と驚きの声をあげる。

 当たりが出ましたね、と受付の女の方は冷静なものですぐ会計に移った。それ程高くはないので助かった。女は玉を持って向こうの椅子に腰かけて順番を待っていてくださいとだけ言うと、何かをレジにたてる。それを見た瞬間さくらの後ろに並んでいた人が「そんな!」と落胆する声。直後受付の女が今日の受け付けはこれで終了だと言い、並んでいた人達が残念そうに帰って行った。


「あんたギリギリセーフだったみたいね。無駄に運が良いんだから……兎に角、何があっても井上にあたしが血吸い女のことを占い師に聞いたらって言ったこと、言わないでよね。まああんたが行った時点であたしの存在がばれるでしょうけれど。旦那兼保護者の説教はごめんよ」


「だから旦那でも保護者でもないったら。それで櫛田さんはどうするの、一人なら付き添いもOKだそうだけれど」


「あたしはいいわ、ちょっと占い師には興味があるけれど」

 そういうとほのりは手をひらひらさせて、さっさと去って行った。「全く、ただの傍迷惑な人間の女に会う為に貴重なお金を……勿体無い」とぶつくさ言っているのが聞こえる。人間であるとは限らない、むしろ本物の可能性が高いのにとさくらは思ったが、ほのりは異界のことも妖が実在することも知らないのだからああ考えるのは無理ないなと思い直すのだった。

 本を読んで時間を潰している内、貴方の番ですよと声をかけられた。受付の女ではなく、どうやら客を占い師の居る部屋まで案内する役の女らしい。しかし面を被ったような表情、感情を感じられない声の調子、服装は一緒だった。気づけばもう店にはさくらと受付の女、案内役の女しかおらず気味が悪い程しんと静まり返っていた。あまりに白く飾り気のない部屋と、静寂はこの店を異界めいたものにさせていた。受付カウンターのすぐ近くに奥へと続く廊下が伸びており、そちらには僅かな灯りしかない為薄暗く先が見えず、辿り着いた先には黄泉の国でもあるのではないかと思われた。女に連れられて歩いたそこはひんやりとしていた。行きはよいよい帰ることは出来る?


 廊下の突き当たりに黒いドアがあり、そこを女がこんこんと叩くと「どうぞ」と微かに声。女はドアを開けるとさくらに入るよう促す。さくらが部屋の中に入ると女は静かにドアを閉めた。彼女は部屋の外で待機するようだ。


 部屋の中に入るとお香でも焚いているのか、甘い香りが鼻を通じて体の中に入りいっぱいにした。床は緋毛氈、壁中には黒い布がかけられている。その裾には鮮やかな、真っ赤な、美しい、不気味な、妖しい曼珠沙華が描かれていた。ここは夜の曼珠沙華広がる野か。月も星もなく、代わりにあるのは豪奢なシャンデリア。煌びやかだがそこから発せられる光は僅かなもので、最低限物を照らせればそれで良いと思っているようだった。

 中央にはダークウッドの丸テーブルと椅子二脚。手前側は空いていて、奥にある椅子には女が腰かけていた。髪は真っ直ぐで長く、星空を織って作られたサテンの布かと思われるような艶やかさ。屋台で売っていそうな白い狐面を被り、服装は裾の長い黒いノースリーブのワンピースドレスで赤いストールを羽織っている。そこからのぞく手は細く、風が吹けばふっと飛んでいってしまいそうな。その身は妖しい気を纏っており、もしかしたら彼女は人間ではないかもしれないという考えをさくらに抱かせる。顔は見えないが、平凡な容貌ではないことは肌でひしひしと感じとれた。あまりに醜いか、美しいか。恐らくは後者だと思うが、どちらにせよ異質さを感じる程どちらかに傾いていることは確かだろう。


「ようこそいらっしゃいました、さあそこに座って」

 お面に変声器でもついているらしく、彼女の声が本来どういったものなのか知ることは出来ない。きっと妖しく美しい声だろうに残念だとさくらは思いながら椅子に座る。


「お名前は」


「臼井さくらです」


「そう、さくらさん。美しい花の名前ね」

 占い師はそれから生年月日や血液型など様々な質問を投げかけた。入ってすぐは緊張していたが、甘い香りと女の問いが少しずつそれを柔らかくほぐしていき、体に入っていた力が抜けていく。そのお陰か質問にも素直に答えることが出来た。


「そういえば……占いって聞きましたけれど、水晶玉とかカードとかは使わないんですか?」

 何となく気になったので聞いてみる。今の所テーブルには何も置かれていない。それを聞くと占い師はくすくすと笑った。


「そんなものは使わないわ。まあ私にとっては貴方達の瞳こそが水晶玉で、問いに対する答えがカードの様なものかしら。そういったものがどれだけ自分自身の過去・現在・未来を映し出しているか貴方達は私ほどは知らないのよ」

 そう言うと女は貴方は昔こういう経験をしたことがあるでしょう、とか何が得意で何が不得意でしょうとか次々と言ってきた。そしてそのどれもがぴったり当たっていたのでさくらは驚いた。確かに占い師の質問に色々答えはしたし、ある程度そこから推察出来る事柄もあるだろうが、あんまり事細かく当てるものだからすごい、を通り越して気味が悪いと思わる程だった。質問の答えから推理するのは難しいと思われることさえ彼女はぴたりと当て、人の記憶や心を読み取る力を持った妖なのかもしれないとさくらに思わせた。


「すごいです……全部当たっています」


「そうでしょう。ほら、テーブルの上に何も載っていなくても問題などないでしょう。あんなものは何も映さない、貴方達を映すのは貴方達自身よ。それでお嬢さん、貴方は何を占ってほしいのかしら? 深い悩みがあってそれを相談しにきたとか、恋の相談をしにきたとか、そういった様子ではないわね。何かを求めている、探している……?」


「あの、血吸い女って知っていますか?」


「え? あ、ああ……近頃この辺りで話題になっているわね。口づけた人間の体に花を咲かせるとか何とか……その血吸い女に襲われないようにするにはどうすれば良いか、ということかしら」


「いいえ、逆! その逆なんです!」

 興奮したさくらは思わず立ち上がり、身を乗り出していた。先程まで冷静で何事にも動じない雰囲気だった占い師も流石にたじろぎ「逆?」と明らかに困惑した様子で尋ねてくる。


「ええ、そうです、そうなんです! 私は血吸い女に会いたいんです! 全国各地に現れ、都市伝説的な存在として語られている彼女。私が生まれ育った桜町や三つ葉市、舞花市等で起きた不思議な出来事を多く収めた桜村奇譚集というものがあるのですが、これにも血吸い女らしき妖が出たという話が載っています!」

 と誰も聞いてはいないのに延々と血吸い女の話をし、女はさくらの勢いや興奮っぷり等に気圧され、呆然。面の下にあるだろう目はきっと白黒、ぱちくり、口はぽかんと開いていることだろう。


「は、はあ……」


「……私はその血吸い女に会ってみたいと思うんです、平安時代に編纂された本にも載っていて、大好きな桜村奇譚集にも載っていて、都市伝説的な存在として全国各地で語られている、そんな人が今この辺りをうろついているかもしれないんですよ! これが興奮しないでいられるでしょうか! これは血吸い女に会う絶好のチャンスです、櫛田さん……あ、私の友人なのですが――彼女はそんなものは実在しない、ただ人間の女が血吸い女を装って変な薬を使うなりなんなりして人を襲っているだけだって言いますが、私はそうは思いません! 彼女は間違いなく異界の者です、花は本当に咲かせているに違いありません! 私は、自分の体に赤い花が咲くのを見てみたいのです! 語り伝えられている者と会いたいんです!」

 殆ど息継ぎもせずそこまで言い終えると再び椅子に座り直し、呼吸を整える。占い師は頭を押さえ、想像以上にネジが飛んでいたと小声で呟いたが今のさくらの耳には入っていない。


「占い師さんなら、貴方ならきっと占えるはずです! どうすれば私が血吸い女と会えるか! 会う為なら私少し位のことならやります。何でも、とは約束出来ませんがある程度のことなら! 喜んで! 兎に角私は会ってみたいのです、早くしなければ彼女はまた別の土地へと行ってしまうかもしれません! それは嫌です、私も流石に地の果てまで彼女を追うことは出来ません! ですから、ここから去ってしまう前に!」


「……好奇心猫を殺す、好奇心は桜の枝を折る。貴方、そういう風にしていたらきっといつか死ぬことになると思うわ」


「血吸い女の存在を否定はしないんですね」


「貴方、私が人間に見えて?」

 いいえ、とさくらはかぶりを振った。わざわざそういう問いをしてきたということは矢張り彼女は人ならざる者なのだろう。もしかしたらそうかもしれないとは思っていたから、正直あまり驚きはしなかったが。


「異界の、しかも人の血を吸うような女に会っても良いことなど何もないわよ」


「血を吸われるだけです。しかも少しの間気を失う程度で、倒れた人達は皆すぐ目を覚ますそうです。しばらくは頭がぼうっとして、全身から力が抜けた風になるそうですがそれもすぐ元に戻る。その程度で済むんだったら、構いません。少し位の血は喜んで差し上げます」


「十回そうなったからといって、十一回目も同じとは限らないわよお嬢さん。急に沢山の血が吸いたくなって、死んでしまう量の血液が奪われてしまうかもしれないし、変な場所で襲われて気を失っている間に車とかに撥ねられて死んでしまった……ということだってありえるかもしれないわ。世の中には百回やって百回とも同じことになる事柄だって沢山あるけれど、そうはならないことだって同じように沢山ある。私の占いが絶対ではないように、血吸い女による被害が今までもこれからも同程度だとは言い切れない。それでも貴方、血吸い女との出会いを求めるというの?」

 女が顔をぐっと近づける。狐面の向こう側に微かに見える黒い眼。じっと見ていたらそこに吸い込まれて、二度と出られなくなりそうな。異界も、同じ。一度魅入られれば、正面から見据えてしまえば否応なしに引き込まれ、取り込まれ、出られなくなる。もう占い師がそのようなことを言っても無駄な位、さくらは異界に引きずり込まれていた。だが自分はまだもっと奥深くを知るまい。それを知った時、もう自分は人ではいられなくなるだろう。彼女の瞳の奥はそんな領域までずっと、ずっと続いている。

 その闇を見てなお、さくらは血吸い女と会うことを望んだ。幼い頃から大好きだった桜村奇譚集に出てきた妖と会ってみたかった。彼等は恐ろしく強い磁石のようなもの。一度惹かれれば、それがどれだけ危険なことであるか分かっていても近づかずにはいられない。離れようとしても離れられず、どんどんくっついてしまう。対極の位置にいる自分に、それから逃れられる術などあるものか。磁石とはそういうものだ。そしてまた彼女には今までも大丈夫だったのだから今回も大丈夫という気持ちがあった。危険を理解していると言いながら、結局の所本当に理解しているわけではないのだ。

 女はさくらの瞳をじっと見つめた末、観念したようにため息を吐いた。


「仕方のないお嬢さんね。でもそうね、そこまで望むのならいいでしょう。もし貴方が血吸い女に会った結果、今までにはない程の危害を加えられたとしても私には関係の無いこと。私は占ってくれと言われたことは占う。今ここで私は占い師なのだから。……彼女と会いたいなら、明日の夕方頃桜山神社の鳥居の前にいなさい。そして彼女に会えばいい。……私の占いが間違っていなければ死ぬことはないだろうけれど、ある意味貴方にとって良くないことが起きるかもしれない。それでも良ければ、どうぞ」

 女は占う、と言ってから特別時間もかけずにそう告げた。普通ならいい加減なことを言っていると思うところだが、彼女の場合はそういうこともないだろう。さくらは手を挙げて喜びの声をあげた。


「まあ、ありがとうございます! 夕方桜山神社の鳥居の前にいればいいのですね! それなら簡単だわ、明日はお休みだし!」


「こんなことで喜ぶなんて、本当貴方のネジ山誰かに交換してもらった方が良いかも……というかネジ山さえないのかもしれないわね、貴方」

 呆れる占い師の呟きなど矢張り全く聞こえていないさくらは「ありがとうございました!」とお礼を言うと他に何かを聞くわけでもなくさっさと部屋を出てしまった。帰ってから「あの占い師も異界の人だったのだから、色々と話を聞けばよかった」と後悔する。占いよりも彼女に興味が出た頃には後のまつり。また辺りの玉が出るとも限らないし、世間話の為に行ったところで相手にしてくれないかもしれない。残念だったが明日血吸い女に会えると思ったら嬉しくなり、そのこともどうでも良くなっていった。


 次の日、夕方近くにさくらは桜山を訪れた。山の麓にある長い時を感じさせる鳥居。その鳥居に寄りかかってさくらは時が赤と橙に染まるのを待っていた。


(それにしてもある意味私にとって良くないことって何かしら……? あの物言いだと万人にとって悪いことが起きるわけではないようだけれど……)

 首を傾げたが、見当がつかない。しかしそれも後少しすればきっと分かることだと読書に集中する。その一時間後、彼女はその場に倒れることになるのだった。



 出雲が石段を降り、鳥居を抜け通しの鬼灯を巾着袋にしまうと空の橙が目に飛び込む。金と銀の星散りばめた藍がかった黒が空から徐々にたらたらたらと垂れ、世界を染めている。まだそれが落ちて濡れて消える前の橙、黄、赤の美しい。垂れた黒がじんわり染みる部分は紫色。そこもやがて完全に黒くなり、赤や橙も全てなくなることだろう。この僅かな間だけ見える燃えるような赤、夕と夜のあわいの紫は世界が見せる色の中で上位に入る程美しいものと思う。一番美しくないのは、降り積もる何にも穢れぬ白雪だ。

 何気なく足元を見やると、何故かさくらが倒れていた。微かに上下している身体を見る限り、死んではいないようだ。それを見てもたいして驚く様子もない。仮に彼女が死んでいたとしても「あ、死んでる」と一言言って終了だったろう。紗久羅が倒れていたら別だが。


「この娘は変わり者だが、地べたでぐうすか眠る趣味はなかったように思えるけれどね。……これはお前の仕業かな」


「ええ、いかにも。今しばらくの間は目覚めないでしょうね」

 出雲は背後にある鳥居に誰かが寄りかかっているのを感じ取っていた。その何者か――女の答えを聞きながら静かに振り返る。


 螺鈿をすりつぶしたものを塗した輝きと魅惑的な艶のある黒髪を結い、そこに簪、しゃらしゃらと金の細工、赤珊瑚の玉。甘く透明な、異性も同姓も等しく惑わし惹き寄せる蜜に浸した黒い瞳、秋の畦道等を染める地獄花の唇、そこから漏れる光に僅か赤い頬。紫紺の着物は無地だが、麗しいこの女の顔こそが何よりの豪奢な模様。胸に抱えているのは黒塗りの箱、咲く緋牡丹。その箱を縛っているのは赤い紐。

 人ならざる妖しさ、艶、美しさ。人間が見れば狂い、息が止まる程の美貌だが出雲はそれを見てどきりとすることも、恐れを抱くこともない。妖で、かつ彼女に負けず劣らずのものをもつ彼が戸惑うはずがないのだ。


「そういえば近頃人間に血を吸う花を咲かせる女が出没しているらしいって話を紗久羅から聞いたことがあったな。それはお前か」


「いかにも、私が近頃ここらで噂されている血吸い女。でも実際のところ私って血を吸っているわけではないのよね。人間達がそう思うのも無理はないかもしれないけれど。血なんてきっと美味しくなんてないわ、冗談でも飲みたくない」


「私は昔よく人や妖の肉を齧り、血をすすり、肝を喰らっていたがね。でもそれだって美味しいと思ってやっていたことでもない。世の中にはあれより美味しいものが沢山あるし、もう食べる必要もないからね。血を見るのは好きだけれど、吸うのは嫌だね。で、お前は何をするの」

 別に彼女が何をしようとどうでも良かったが、とりあえず聞いてみる。女は尋ねられるとふふっと笑った。すっと細い指で出雲を指差し。


「情報。その人が持っているあらゆる記憶、経験、感情。私は体中に花を咲かせ、咲かせた部位にある情報を吸い取るの。手なら、その手が触れたもの感じたものの情報を。喉ならその喉を通った食べ物の味や発した言葉などについて。そしてそれらを吸い取った花を食べるとね、吸い取った情報を見たり感じたりすることが出来るの。例えば酷い怪我を負ったことがある足に咲いた花を喰らえば、その怪我をした時の痛みを感じられる。ワニを触ったことがある手に咲いた花を喰らえば、肌触りはどんなものだったのか知ることが出来る。その人の記憶を見、その経験をした時に思ったこと、感じたことを知ることも出来る。痛み、喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、愛、憎しみ、あらゆる食べ物味、知識、秘密、出会った人の顔……何もかも全て!」

 説明している内段々と興奮してきたのか、最後にはくるくる踊るように回りだす。その顔は、恍惚。


「刃物で刺されたことがある腹に咲いた花を喰らえば、その刃物に刺された時の痛みを感じることが出来ると?」


「そうよ! 病に苦しんだことがあれば、その痛みや苦しみをそっくりそのまま感じることが出来る。痛くて苦しくて辛くて、でもそれがたまらなくいいの」


「お前は大分変わっているね。頭がおかしいんじゃないのかい、痛みや苦しみを感じて喜ぶなんて」


「長く生きる内にね、毎日が退屈で仕方なくなっていたのよ。変わり映えのしない日々、同じことの繰り返し! 貴方だってそれなりには長く生きているのだから、分かるでしょう? かといって死んで全てを終わりにする気にもならない。刺激が欲しい、新しいものが欲しい、そう願った! そして得たのがこの力。いつからこの力を使えるようになったのかまで覚えていないけれど、まあ私にとってはほんの少し前のことかしらね。他人の人生を喰らうことで、私は暇つぶしをするの。刺激になるなら、痛みでも苦しみでも構わないわ。退屈させないものなら、何でも。ただ生きているだけでは得られなかったものも多く得て、私の世界は日々広くなり続けている。世界を回り、時にはこことは別の層にある世界を回り、人妖獣問わず花を咲かせることでね。無限に広がる私の内側の世界を、私は日々歩いている。一度吸収した花が持っている情報はねいつだって引き出すことが出来るの。とても沢山あるわ……沢山。だから今は前ほどは退屈していないの」

 そう言って女は箱を愛おしそうに撫でる。まるで愛しい男の身体を撫でるかのように。それを見れば人間だったら自分が愛撫されているような心地になって、苦しくなって、身体が熱くなったことだろう。同時に心臓を掴まれているような思いもすることだろう。だがそれを見ても「あの手で撫でられたらまあそれなりには心地よかろう」と極めて冷静に思う程度なのが出雲だ。


「他にも暇つぶしに占いをやることがあるわ。陰陽師から得た知識を使って作り出した式神ちゃんと一緒にね。私の占いってとても当たるのよ。占うといっても、別に不思議な力を使って何かするわけじゃないの。長い時を生きれば沢山の人と出会い、多くのものを得る。プラスして、花を喰らうことで得たものも多くある。それらを基に答えを導き出すの。話している時の表情、仕草、しゃべり方、内容……それらを見たり聞いたりしながら、頭から蓄積されているデータを引き出し、照らし合わせてこの人はこういう人だ、これが得意でこれが苦手だ、こういうことをするとこうするとか色々考えるの。最終的に占って欲しいと言われたことに対して、最良と思われる答えを導き出してお客さんに言う。勿論今まで得たデータを基に考えても当たらないことだってままよくあるけれど、当たるも八卦当たらぬも八卦。外れたらその時はその時、仕方がない。この占いごっこもまた楽しい暇つぶしの一つ。占いをやっていれば色々な人が来て、色々な話をしてくれるし」

 このお嬢さんも私の店にお客さんとして来たのよ、とさくらを指差す。彼女はまだ気を失っていた。


「血吸い女に会うにはどうすればいいですかって聞いてきたの。血吸い女本人にね。私はそれを了承し、占いと称して適当な時間を言ったの。だって血吸い女は私ですもの、適当に言ってその時間に合わせてここへ来れば占いは当たる。でもこのお嬢さんは私と会った時のことを覚えていない。……私は人から様々な情報を吸い取る。けれど根っこから奪うわけじゃないから、忘れてしまうことはない。でもね、今回は違う。このお嬢さんがここで私と会った時の記憶を、私は根こそぎ奪ってしまった。会いたくて仕方なかった者と会った時のことを思い出せない、そもそも会ったのかさえ定かではない……このお嬢さんにとってはある意味災いでしょうし、血を吸われる以外の危害を加えられたということにもなるでしょう」


「お前が優しい妖で助かったね、全く。殺されていたらどうするつもりだったのかねえ……まあ、そういう頭のおかしいところは嫌いではないが。嫌だ嫌だと言いながら深みにはまっていく人を見るのも楽しいが、自ら道を踏み外し深みへはまっていく様を見るのもまた楽しいものさ。ま、放っておけば勝手に目を覚ますならいいや、ここに放っておけ。風邪を引くかもしれないが、構うものか。ここなら車に轢かれることもあるまい。それじゃあ私はさっさと行くよ、お前になど興味はないからね」

 

「あら、待って頂戴よ」

 さくらを地べたに寝かせたまま桜町商店街へと向かおうとした出雲を、女が引きとめた。振り向くと、女の瞳は獲物を狙う獣を思わせるものになっていた。出雲はため息をつく。


「どういうつもり?」


「貴方を私にくださいな。沢山、沢山くださいな。かつてこの辺りで悪さばかりしていたやんちゃな化け狐さん。桜山神社に祀られている、巫女と相討ちになったはずの化け狐……それが貴方なのでしょう? このお嬢さんの記憶に貴方に関するものがあったわ」


「誰があげるものか。私の思いも過去も何もかも見るということだろう? 冗談じゃない、私のものは永遠に私だけのものだ、誰にもあげないし見せるものか。力づくで、というならこちらも力をもって振り払おう。私は今までそうして自分にとって都合の悪いものは、危害を及ぼす前に振り払ってきたものだ」


「十回それが上手くいっても、十一回目が同じように上手くいくとは限らないわよ狐さん。貴方だって今まで何もかも全て振り払えたわけではないでしょう? 仮に全て振り払えていたとしても、今回もまた同じようにいくかどうかは分からない。私はきっと貴方の体に花を咲かせるわ。そして貴方の全てを貰うの」


「お前の様な女に出来るものか」


「貴方約千六百歳だそうね。ほほ、たかだか千六百年しか生きていない童が偉そうなことを言うものね。生意気なクソガキってでも、とても可愛いわよね。愛しいとさえ思うわ。そうしてぎっと睨んで……ふふ、たっぷり虚勢を張っているのが見え見えよ」


「長く生きているからって、強いとは限らない。生きた年数がそのまま強さになるわけじゃあないよ」


「そうね、確かにそう。でも貴方自分と私が正面からぶつかり合ったらどちらが勝つのか、ちゃんと分かっている。だから虚勢を張っているのよ。そんなことしても、無駄よ。私は貴方を貰うのよ」

 出雲はその場で舌打ちする。図星だったからだ。この血吸い女、出雲とは比べ物にならぬ程の時を生きているらしい。その『時間』こそが彼女の武器である。艶のある瞳、視線、唇以上に強い武器だ。女の中に蓄積されている長い、気が遠くなる程長い時がじわりじわりと影の様に伸び、近づいてきているのを感じる。それに絡め取られれば動けなくなる、否もうすでに動けない。ただ近くにあるだけでそれは人の動きを束縛する程の力を持っていた。やがて悠久の時は出雲の足に絡み、胸、足、頭にまで伸びていく。出雲にもう彼女から逃れる術はなかった。


(だからさっさと離れてしまいたかったのだ。けれど、出来なかった。力に抗えず振り返ってしまった時点で私の負けだった……くそ)

 馬鹿ではないから相手との力量の差が分かる。馬鹿ではないから戦うよりさっさと逃げた方が賢いやり方だということが分かっていた。だから逃げる前に出雲は捕らわれてしまった。じわじわと滲み出る月の雫の如き美しい汗がたらりと頬を流れて月光の滝。女は勝ち誇ったように微笑むと、ゆっくりと歩み、こちらへ一歩、二歩、三歩、ぴたりと密着。出雲の体に押し当てられた冷たい箱の緋牡丹は出雲の未来を暗示している。正直箱邪魔だな、なければその体がもっとこちらに密着したろうにと助平心。どうせ悔しいながら奪われるのだ、だったら最後に少しずつ良い思いをしたいと思う。それも女は見透かしていたのだろう、くすくすと笑う。その声は、漏れる吐息は男の理性をかき乱し思考を白くする魔性。それに呑まれないのが出雲だ。


「後でお礼とお詫びに私といいことする? と思ったけれど、そんなことしたら私ことの最中に背中を刺されて殺されてしまいそうだから、やっぱりやめておくわ」


「それは残念」

 ようやく出雲がそれだけの言葉を絞り出したところで、女の赤い赤い魅惑の、女性というものをこり固めて作ったような唇が出雲の唇に触れる。焼けるように熱く、冷たく痛みと痺れと悦びをもたらす、体に猛毒を流し込む、恐るべき魔性の口づけ。

 そしてそれが離れた瞬間、出雲は全身の血が肉がぶくぶくという不気味な音をたてて沸くのを感じた。

 嗚呼そして、彼の美しい体から花が一輪、二輪……!

 白い肌、柳の葉の様な指、手の甲に手のひら、細くしなやかな腕、長い東雲で染めた様な髪、額、頭の頂、耳、紅玉の瞳、藤の着物に隠された胸、腹、太もも、この世にこれ以上ないという位妖しく艶やかな苗床から、花が咲いて、咲いて、咲き乱れ。花が咲いた部分はすさまじい熱を帯び、それが痛みと痺れと快楽を生むのだった。女の唇が自分の唇に触れた時と同じような感覚。


 鮮やかな、赤だった。黄金を芯に鮮やかな赤色をした天女の羽衣を幾重にも重ねて作られたかの様な牡丹が、幾つも、幾つも。その色と、体内にあるものを一気に吸い取られているような感覚から人々が「血を吸われている」と考えるのも無理からぬことだった。

 今まで蓄積されてきた記憶、感情、感触、体験――様々なものが一気に吸い取られた衝撃は大きく、出雲さえ耐えることは出来なかった。体がばらばらになったとさえ思った。漂う甘い匂いは女から発せられたものか、それとも自分の体に咲く美しい花か。意識が持っていかれる。出雲は自分の過去も今まで抱いてきた思いも、何もかもを知ることになる女を恨みがましい目で見つめながら倒れていった。

 女は倒れた出雲の傍らに跪くと赤い紐をしゅるりと解き、箱の蓋を開ける。箱の中には赤い水がなみなみと入っており、女は出雲から一つ一つ丁寧に花を摘み取ってはその中へと入れていった。箱に入った花は水に呑みこまれ、沈み、見えなくなる。


「後で美味しくいただきましょう。ふふふ、楽しみね。さて、私はこれで去るとしましょう。それじゃあね、お嬢さん。そして美しい化け狐の坊や」

 女は蓋を閉じ、紐を結ぶとそれを大事に抱えてその場から去った。闇は世界の裾まで落ちて、全てを染めた。やがて目を覚ましたさくらは、すぐ近くに出雲が倒れているのを見て驚いた。何故彼が倒れているのかまるで分からない。出雲の名を呼びながら体を揺り動かすが、目を覚まさない。どうしたものかとさくらは困ったが、ここに放っておくわけにもいかないし、かといって細身とはいえ簡単に担げる程軽いわけではない彼の体をどこかに移動させてやることも出来ない。仕方なく自分が着ていたジャンパーを出雲の体にかけ、三角座りをして彼の目覚めを待った。体はだるく、頭は若干ぼうっとするが少し休めばまともに動けそうだ。


(でもどうして出雲さん、こんな場所で倒れていたのかしら。まさか出雲さんも血吸い女に襲われて……まさか。でも出雲さんがやられるなんてことあるかしら……無いような気がする。でもそれ以外の理由なんて思いつかないのよね。きっと尋ねても答えてくれないだろうけれど。ところで、私は? 私はどうして倒れていたの。占い師さんの言う通りここへ来て、その後……その後?)

 さくらの記憶はあるところでぷつりと途切れていた。何度記憶を辿っても時間はその先へと進まない。このような所で気を失っていたのだから、占い師の占いが当たり血吸い女と邂逅出来たのだろうが、その時のことを少しも思い出せない。本当に彼女と会ったのか確信が持てない位。


(私、血吸い女と会ったのよね、自分の体から花を咲かせたのよね。でも全然覚えていない! 襲われた時のことを忘れるなんて話、聞いたことが無い。それとも聞いていないだけで、本当はこういう風に忘れてしまう人もいるの? 嗚呼なんてことでしょう、私は仔細まで覚えていたかったのに! もしかしてこれが占い師の言っていた私にとってはあまり良くないこと!?)

 普通の人にとっては何でもないことだが、さくらにとってはある意味災いといえた。今は頭がぼうっとしているから思い出せないだけかもしれない、と思ったがその後も永遠に思い出すことはないのだった。さくらは肩をがっくりと落とす。涙さえでそうな位悔しくて、悲しくて。


 やがて出雲が目を覚ました。彼はおはよう、とご機嫌斜めな様子でそれだけ言うとすうっと立ち上がり、かかっていたジャンパーははらりと落ちて。さくらはどうしてこんな所で倒れているのか、血吸い女に襲われでもしたのか、と問うたが「昼寝をしていた」と言うだけだった。嘘だということはすぐに分かったが、問い詰めれば命が無いと思ったので追及はせず「ああ、そうですか」と言って、立ち去る彼の後姿を見送った。

 翌日さくらはもう一度占い師に会い、占ってもらいたいとあの店を訪ねたがもう店はなくなっており、期間限定と聞いていたがこんな告知もなく突然なくなるとは思っていなかった人々が落胆していた。さくらもがっくり肩を落とす。そしてそれと同時に、血吸い女に襲われたという人の話も聞かなくなってしまった。

 もしかして占い師と血吸い女は同一人物だったのではないか、という考えがさくらの頭に浮かんだが永遠にそれも分からずじまいなのだった。

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