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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
雛宴
339/360

雛宴(2)


 時間は幾らか戻り、及川の君と及川姫がまだ柚季の部屋にちょこんと置かれているただの人形だった時。

 夜に沈む桜町は少しずつ宴へ向かう雛達の青や桃や黄緑の光に照らされて、闇に溶けて消えた輪郭を僅かに取り戻していた。黒塗りの漆器の空から剥がれ落ちた星々ではないかと思われるような数多くの光が町の頭上に、或いは町という体内に、地面にある。そしてその美しい光は通常人間には見えないのだった。

 弁当屋『やました』の二階にある井上家。そのリビングにある箪笥の上にもひな人形は飾られていた。紅葉が三歳の時に菊野が買ったもので、ガラスケースの中には女の子の目をきらきらと輝かせるようなものが幾つもある。


 緋毛氈の台の上に二つ乗った親王台、青々とした畳のへりには繧繝錦(うんげんにしき)、緑に青に赤に、菱形花菱。夜でなければきらきら煌めいていただろう金屏風、見る者の姿を映す黄金の紙の鏡。若い乙女の頬の様に微かに桃の、桜はらはら雪洞二つ。夫婦雛の間に置かれた三方。黒塗りで、金の鶴が一羽飛んでいる。そしてそれに乗せられているのは瓶子(へいし)が二つ。その中に入っているのは紅白の梅ささる、水引で飾られた熨斗(のし)。夫婦雛の前には菱餅。桃の花、残雪、若草、近づく春の色三つ。それから赤い紐鮮やかな黒い六角の貝桶。


 親王台の上に座る夫婦雛。男雛は黒地に金の菊花咲き乱れる縫腋袍(ほうえきほう)、腰に金色の飾剣(かざたち)、帯は石帯。手には笏を持っている。顔はしゅっとしていて、凛々しい表情。隣に座る女雛の顔はふっくらとしていて、優しげな表情。黒々とした頭には金色の釵子(さいし)があり、それは太陽の形をしているようにも見えた。その下には額櫛。赤の唐衣には黄や青紫や緑や桃や金の、様々な花咲き乱れて万花の園(桜山にある、あらゆる花が咲く園のこと)。春思わせる五衣の重ね色目、その下に見える赤い(ひとえ)、背に見える裳は白で、描かれているのは松に梅。手に持つ檜扇は金に紅、緑青に瑠璃の松に梅に鶴、吉祥絵。垂れる六色の錺糸。


 下段には金の桜花に白い雲の美しい黒塗りの箱。その中には小さな小さな、豆粒の様な百人一首が入っており一枚一枚きちんと絵と文字が描かれているから驚きだ。他にも書棚、ちがい棚、硯箱。

 ケースの横には紅葉特製の桃雛と、折り紙で作った箱に入ったひなあられ、甘酒の入った小さな徳利、更に小さな正方形の紙があり、そこには『箱』と書かれている。

 と、座っていた夫婦雛が眩い光を放った。その光は只人には見えないものだ。そして二人の体から白い煙のようなものがひょろひょろと出てのぼっていく。そしてそれはケースを出たところで形を変え、色がつき、目鼻口が浮かび上がり最後には下にいる夫婦雛と同じ姿になった。オリジナルに比べると若干色が薄く、実体がなく、また光っている。同様に桃雛からも煙が出てそれはオリジナルと同じ姿に形を変えた。夫婦雛はゆっくりと目を開けると向かい合い、ぺこりとお辞儀。


「一年ぶりですねあなた。一年に一度の雛宴が今宵も始まりますね。今年も無事この日を迎えられたことを嬉しく思います」


「勿論私もだ。おお小桃、小桃。お前もこちらへおいで」

 井上の君に小桃、と呼ばれたのはひな人形に寄り添うように置かれた桃雛だ。ひな人形程ではないが、大分前に紅葉が作ったものなのでそれなりに古く、時間を蓄積した布の色は元のものから離れてしまっているが、これはこれで味があって良いのだと井上の君は思う。男雛も女雛もこの小桃(命名したのは作成者である紅葉)を実の子供のように可愛がっていた。

 小桃は目も口もない顔をあげる。そこにはきっと零れんばかりの笑みがあっただろう。そして小桃はふわふわと浮いて、二人の前まで行くとぺこりとお辞儀した。


「お久しぶりでございます、お父様、お母様」

 小桃もまた二人のことを親として慕っており、彼等のことをお父様お母様と呼んでいる。そしてそう呼ばれると二人はたまらなく幸福になるのだった。


「久しぶり、といっても押入れの中で毎日お話はしていたけれど。でもこうして動いて、きちんとその顔を見て話すのは久しぶりね。さあ小桃、もっとこちらに。そう、良い子ね。可愛い可愛い小桃、お前をこうして抱きしめられるのはこの日だけだからね」

 女雛は目を閉じ、微笑みながらふっくらとした小桃を抱きしめる。小桃は嬉しそうに身じろぎしながら一年に一度の幸せですと言った。本当にお前は可愛い子、とその言葉に胸に甘く温かいものが溢れる井上姫だった。続いて井上の君が小桃の頭を優しく撫でる。これが彼等が決まって初めにすることである。


「さて、三人共に無事に一年を過ごせたことは確認出来た。早速だが宴へ向かおう。今年は舞花市の吉田家だ。あの家は確か初めてだったね」


「吉田家には素晴らしいお道具が沢山あるそうですわね。それと、手毬。どちらもあの家に住むおじいさまが作られたとかで、私それを見るのが今から待ち遠しいです。小桃もそうね? お前は雛達と共にあるお道具を見るのが好きだものね」


「ええ、とても楽しみでございます。私は一度吉田様の家にあるそれらを見て見たくて仕方が無かったのです。話を聞いているだけであれ程胸が踊るのですもの、実物を見たら私心の臓が止まってしまうかもしれません」


「そんな、止まるだなんて。そうしてお前が死んでしまったら私も夫も悲しみのあまり死んでしまいます。お前を失う位なら、いっそここでお留守番させていた方が良いかもしれませんね」


「え、そんな意地悪。お母様、そのようなことをおっしゃったら私嫌いになってしまいます」

 と拗ねる小桃。その姿もまた愛らしいと思いながら井上姫は彼女の頭を優しく撫でた。


「まあそんなこと言わないで。嫌われるなんて、そんなの死なれるのと同じ位苦しいことです。それなら矢張り連れて行かないといけませんね。でも吉田様のお道具や手毬を見ても決して死なないでくださいね。私達のことを思えば、出来ますね?」

 ええ勿論ですお約束します、ですから連れて行ってくださいませお母様。小桃は切実にお願いしているようだった。井上姫はええ勿論連れて行きますとも、と笑顔。本気の会話、というより他愛もない遊びの一つである。どちらも綺麗なものを見たからといって本気で死ぬなどと思ってはいないのだ。


「さあ、三人仲良く行くことが決まったのだからすぐに準備を始めよう」

 井上の君はそう言ってふわりと『箱』と書かれた正方形の紙の前に降り立った。そうしてその紙の上にそうっと小さな手をかざすと、文字が光ったかと思えばそこから金と紅の梅描かれた、黒い小さな箱が出てきた。赤く結ばれた紐を解き、蓋を開ければ見えるのは鮮やかな赤。

 桜町や三つ葉市、舞花市のひな人形の前にはこういった紙がよく飾られている。人間にとってそれはただの紙だが、彼等にとっては書かれた文字通りの食べ物になり、道具になる。そしてそれは書いた人の思いがこもっていればこもっているほど良いものになるのだった。昔はひな祭り定番の料理や道具の名前を書いていたが、近頃はケーキやカレー、おままごとセットやゲーム機など何でもありになってきている。


 井上姫はひなあられに手をかざす。するとそのひなあられからひゅるひゅると煙が出てきて、井上の君が開けた箱の中に入っていった。続けて甘酒にも手をかざせば同じように煙がしゅるしゅると出てきて、同じように入っていく。そして今度はケースの中に飾られた菱餅にも手をやり、こちらも箱の中に。それが終わると棚の上の何も置いていない部分に。すると何も無かったはずの場所から煙が一つ、二つ、三つ、しゅるしゅると。それは菊野が夕から眠るまでの間に彼等の為に供えてくれたちらし寿司、はまぐりのお吸い物、菜の花のおひたしだった。例えこの場になくても、一瞬でも供えている時間があればそれは彼等のものになり、雛宴に持っていくことが出来るのだった。菊野は毎年これらを作り、供えてくれる。


「私達はどこにでもいるような雛だけれど、菊野おばあ様の作る料理は特別です。優しくて温くて、とても美味しい。皆さん菊野おばあ様の作る料理を大変喜びます。その顔を見ると、私もまるで自分が褒められたかのように嬉しくなるのです」


「我々の自慢だね。私も食べるのが楽しみだよ」


「私も楽しみです、お父様お母様。それとお母様。お母様は自分達はどこにでもいるような雛といいますが、私にとっては唯一の、特別な、最高のお母様です。勿論お父様もです」

 可愛いことを言う、と井上姫は小桃の頭を撫でた。


「百人一首と貝桶はどうするかい?」


「吉田様が素晴らしいものをお持ちですがとりあえず持っていきましょう。持っていたところでこの体が重くなるわけでもないですし」

 そうだな持っていこう、と井上の君はまず食べ物から出た煙の入った箱を持つと、自分の体へぐっと押しつけた。箱はすうっと彼の体の中へ入りすっかり見えなくなる。手に持って移動する者もいるが、どちらかといえば体の内に『入れて』移動する者の方が多い。貝桶も百人一首のセットもすっかりその身の内に入れてしまうと、三人は窓をすうっとすり抜けて外へ出た。


 世界を覆う、金に銀の箔散らした黒塗りの器。その中は冷たい水で満ちていて、だがそれも日増しに温かくなっており春がいよいよ訪れることを感じさせる。その水の中に沈む町は縮こまりながら、温かい春がやってくる日を今か今かと待ち遠しく思っていた。水で満ちた器の中を、淡く優しい光が右へ左へ、行き交う。

 三人は外へ出ると地上へと降り立ち、氷の様にひんやりとしたアスファルトの地面を歩きだす。空を行く者の方が多いが、三人はこうして地に足つけて歩いて行くことの方が好きだった。空から小さくなった世界を見るよりも、地上から大きな大きな世界を見ることの方が好きだから。そうして地を行くひな人形も決して少なくはない。あちこちから雛達の話し声が聞こえる。夫婦で仲良く語ったり、すれ違った雛に挨拶したり。


「あら橋本様、こんばんは」


「あらあ、井上の姫様一年ぶりでございますねえ。今年はどちらの家へ?」

 前方からやって来た橋本姫は相も変わらず大きな声だ。その声は空に浮かぶ月を撃ち落とすことが出来ると云われている。耳を塞ぎたくなるのをこらえながら今年は舞花市にある吉田家に行くのだと答えれば、返ってきたのはまあまあそうなんですの、という先程よりも更に大きくよく響く声。彼女の隣にいる橋本の君は顔をしかめながら堂々と耳を塞ぎ、更に井上姫の進行方向から聞こえる「きゃあ」という悲鳴。その声の主は長田家の雛達。長田家に居る六十近くの女が若い頃に和紙で作ったもので、非常に小さい。どの位かといえば、小指に乗せられる程だ。白く発光していなかったら、招かれた家に辿り着くまでの間に何度踏み潰されるだろう。実際宴の最中、酔って前後不覚になってしまっている雛の下敷きになったことは数多くあるそうだ。


「雷かと思ったら橋本姫の声だった!」


「あれ、姫様がひっくり返っておられる。姫様、姫様しっかりしてください。大丈夫です雷が落ちたわけではありません、橋本姫様の声です。嗚呼、体が痺れてしまったのですね。しっかり、しっかり姫様」


「長田姫はまたひっくり返ったのかい。彼女はすぐひっくり返る。あのひっくり返り芸もある意味では一年に一度の風物詩だねえ。それにしても失礼しちゃうねえ、人の声聞いてひっくり返るなんてさ」


「そりゃあひっくり返るだろうさ、お前のその無駄に大きな声を聞けばね。私はひっくり返るのを越して、お前の声で体が爆発しそうだ。すまないねえ、長田姫。うちの馬鹿声姫が迷惑をおかけして」


「誰が馬鹿声姫だい! 誰が!」


「我々は三つ葉市の志村家に参るのですよ。あすこの姫は賢くてお優しく、歌を詠むのも上手でいらっしゃる。彼女は我々男雛の憧れの的だ。井上の君はお会いしたことは?」

 妻である橋本姫を無視して、橋本の君が尋ねた。井上家は一度も志村家を訪ねたことはなかったが、彼女のことは男雛の間で有名だった。また志村の君の方は女雛の人気を集めており、志村の雛はアイドル夫婦と呼べるものである。


「いや、私はまだ一度も。いつも話には聞いていますが」


「会わない方が良いに決まってます、お父様。私お母様以外の女の人にうつつをぬかすお父様なんて見たくありませんもの」


「ははは、大丈夫だよ。私が愛するのはお母様だけだよ。他の女性に目移りなどしないとも」


「小桃殿は本当にお父様とお母様のことが好きなのだね。ははは、私と違って君のお父様には素晴らしいお母様がいらっしゃるからきっと大丈夫さ。私はといえば、志村姫を見ると胸がどきどきしてね、そしてそれから悲しくなってくる。嗚呼私も声が無駄に大きくない、品のある、賢く気立ての良い美しい姫君を妻に迎えたかったとね」


「はん! それはそれは奇遇だねえ、あたしも志村の君を見る度に泣きたくなってくるよ! ああなんであたしは弱いくせに調子づいて酒飲む度珍妙な行動ばっかりとって嫁に恥かかすような男が旦那なんだろうなってねえ!」

 と言って、二人してその場で喧嘩し始める。この夫婦喧嘩も毎年恒例のイベントのようなもので、ひな人形達にとっては春の風物詩の一つ。こうなると誰にも手がつけられぬ。三人官女や右大臣左大臣に担がれた長田姫を先頭にした長田の行列は「ひいひい、恐ろしや」と言いながら闇に溶けて消えていった。井上姫は二人をどうしようか、と井上の君に目くばせする。彼は処置なし、と無言で首を横に振った。

 喧嘩する橋本夫妻をやや離れた所から見ている影が幾つか。そこには布製の、ころっころした可愛らしい夫婦雛、背後にはクレヨンで顔の書かれた折り紙の雛や、紙粘土で作られた、絵の具で彩色された雛等がいる。それらは幼稚園や保育園で子供達がきゃっきゃと言いながら作ったもので、多くの雛はにっこりと笑っている。彼等はいつもにこにこしていて、陽気な性格が多かった。今年子供達に作られたのだろう彼等は、布製の雛――根岸家の雛に連れられ宴の会場へ向かっている。根岸家の雛は園児や小学生が作るこの雛が好きなようで、毎年あちこちを回っては彼等を集め世話しているのだ。その為この二人は『根岸先生』と周りから呼ばれている。


「はい、あちらに見えますのは我々雛にとっての春の風物詩の一つ『橋本の夫婦喧嘩』です。彼等は十歩歩く毎に喧嘩している、と称される程頻繁に喧嘩しております。しかし決して仲が悪いわけではなく、むしろ五年前に行われた『仲が良い夫婦雛大会』で堂々の一位になった程心通じあった、仲が良い夫婦なのでございます。このような大会や、変わった催し事が時々行われます。これも恐らく悪いものを浄化する為か何かに必要なことなのでしょう。さて、その近くにおりますのは井上の雛でございます。あの方々の持ってくる料理の味は天下一品にございます」

 にこにこと満面の笑みを浮かべ、上向きにした手のひらでまだ喧嘩している橋本夫妻を指す根岸姫は、先生というよりまるでツアーのバスガイド。

 井上夫妻は彼等と橋本夫妻にぺこりとお辞儀をするとその場を去った。


 空は見上げれば星降る。右へ左へ、あちこちへ。地を行く雛の光、闇に浸った道路は夜の川の様で。そして雛達はその川を流れる灯籠。

 人の雛いれば、ウサギや猫等動物の姿の雛もおり、また子供に人気のキャラクターやアニメのキャラクターの雛もいる。腕利きの職人によって丁寧に作られたものもあれば、機械で大量生産されたものもあるし、素人が趣味で作ったもの、子供達が作ったものもあるし、なかには子供向け雑誌の付録についていたものもある。そして同じ人型でも大きさ、容姿、着物の柄や色や重ね色目、手に持つ檜扇のデザインなどはまるで違う。牛車や箱の道具一つとっても違い、千差万別雛行列。そら、すれ違う女雛男雛の姿したこけし、ぱっちりとした現代的な顔つきの雛、人気の着せ替え人形ひな人形バージョン、組木細工のひな人形、招かれた家に入っていくのは壁掛けのひな人形。布製男雛と女雛が縫いつけられた、上部に壁に飾る為の紐がついた赤い布がすうっと玄関のドアに吸い込まれていく。つるし雛だって宴に参加する。三角、桃、鶯、鶴等の可愛らしい飾りが赤い紐で繋がり連なって、ふうよふうよと飛んでいく。

 彼等はどこかの家に飾られているものだったり、商品だったり、公民館等に飾られているものだったりする。この辺りの土地のものは飾られていようが、押入れにしまわれていようが、雛飾りであれば誰もが宴に参加できるのだ。


「ごきげんよう、井上の君、井上姫様」


「これはこれは、津田姫。お久しぶりでございます」

 すれ違いざまに挨拶をしてきた津田姫と津田の君は車に乗っている。ただしその車は牛車ではなく、真っ赤なスポーツカーのミニカーだった。津田家の長男坊が「うちにぎっしゃはないから、代わりにこの車に乗って雛宴に参加して」と供えだしたもので、三年前から彼女達はこれに乗って移動している。運転席に乗っているのは津田の君だが、彼が実際に運転しているわけではない。後部座席には三人官女が乗っていて、お喋りに夢中の様子。美し姦し三人娘のぎゃはは、という声が車内に響き渡って大変賑やか。

 夜道を走り遠ざかっていくそのミニカーを見送ると、今度は大きめの牛車が通り過ぎて行った。その牛車の上には仲睦まじい夫婦がちょこんと座って星を眺めながら語らっている。牛車の中にいるのではない、牛車の上にぽんと乗っているのだ。何でも昔持ち主の家族が見ていたTVで、走るバスの上に人間が座っているのを見て「自分達もああしたい」と思い、このような妙な乗り方をするようになったらしい。彼等本来のサイズだと牛車の上には乗れないが、実体ではない雛達は望めば何でも出来る。明らかに自分より小さいサイズの牛車に乗ることも出来るし、上に座って移動することだって出来るのだ。


 ぐんぐんと近づいてくるのは、男雛女雛三人官女に右大臣左大臣五人囃子の雛行列。先頭にいる、うぐいす色の衣美しい女雛は胸に梅の枝を抱いている。枝はプラスチック、花は布で出来ているらしいが、そんな偽物の花も可憐な姫君が抱けば、豊かな春の香する本物の美しの花になる。

 彼女と隣にいる男雛はやたら緊張している面持ちで、動きもやたらぎこちない。初めて雛宴に参加する雛、というわけではないようだが見ているこちらまで緊張し、体が固くなってしまう程のかちこち具合。しかしそれを名誉の緊張と思っている節があり、今自分達がそのようになっていることを誇っている様子。

 そんな女雛が「あっ」といって転んでしまった。その拍子に手から離れた梅の枝は飛んでひらひら待ってぽとりと落ちる。慌てて男雛が彼女を起こしてやった。井上姫はささっと駆けより、地面に落ちた紅の花つけた枝を拾い起きあがった彼女に渡す。


「大丈夫ですか、梅の姫様」


「ええ大丈夫です。ありがとうございます、万花の方。私は舞花市の田中家の姫でございます。貴方様は?」


「私はここ桜町の井上の者ですよ、田中の姫様。それ、とても綺麗な梅の枝ですね。本物と見紛うた程です。けれど貴方の手から零れた途端、これはただの作り物に戻りました。美しい雛様がもってこその花ですね。それにしても一体貴方、どうしたのです。随分と緊張している様子でしたが」

 井上姫にそう尋ねられると、田中姫は俯きながらぽっと頬を染める。その色は再び胸に抱き生命を得た枝につく花と同じ色。


「ええ……実は私達今宵八の桃花が一花、桜町の柏木様に招かれたのです。私達嬉しくて嬉しくて。あの方々の家に招かれるという幸運を得る日が来るなど夢にも思っていなかったものですから。けれどなにぶん初めてのことで……偉大なる御方々にお会いするのだと思ったら緊張してしまって。もし粗相をしてしまったらどうしようか、と思ったらますます。もう体が痺れて、自分の体が自分のものではないかのように言うことを聞きません」


「まあ、そうでしたの! 柏木様の家へ。八の桃花にふさわしい、素晴らしい七段飾りであると聞いたことがあります。そして毎年素晴らしいご馳走が振る舞われるとも。羨ましいですわね。けれど田中姫様のお気持ち、よく分かります。私達も以前八の桃花が一花、日向様に招かれたことがありましたが……とても緊張したものです。ですがあまり緊張してしまっては、折角の宴を楽しむことが出来ませんし、かえって失敗してしまいます。気を張らず、楽にされた方がよろしいですよ。過度な緊張は毒です」

 と井上姫が微笑むと、そうですよといつの間にか彼女にぴたっとくっついていた小桃が口を開く。


「色々頭の中で考えすぎればすぎる程、かえって良くないことが起きますよ。私も日向様の家に招かれた時、ああしないようにしようこうしないようにしようと頭の中でごちゃごちゃと考えていたら、やらないようにしようと決めていたことばかりやってしまって、やらなくてはと決めたことは一つも出来ませんでした。そして失敗してしまった、どうしようとあせっては失敗して……の繰り返し。最後は緊張とあせりのあまり、倒れてしまってご迷惑をおかけしました。お母様の言う通り、緊張のしすぎ、考えすぎは良くないのです」


「そう、そうですわね……ありがとう、可愛らしい桃のお姫様。井上姫もありがとうございました。もう少し気持ちを楽にして参ろうかと思います。ね、貴方」

 うむ、そうだねと頷く田中の君。二人は改めて礼を言うとお供を引き連れ去って行った。それを見送りながら、彼等が心から宴を楽しめると良いですねと呟く。そして三人も吉田家を目指して歩き始めた。彼等雛は歩いているといっても、実はほんの少し地面から浮いている。だから正確にいえば歩いているのではなく、飛んでいるのだ。そしてその速度は意外と速く、小さな体の割に目的地までは早く着くのだった。

 屋根に座って酒を飲み飯を喰らっている雛達がいる。主な会場は家の中だが、こうして屋根や庭で飲み食いしている者もいた。中にはブロック塀に腰掛け語らう者の姿もある。そして時折行き交う雛達に声をかけるのだった。


 花村家の女雛が妙に不機嫌な様子で、ずかずかとみっともない足音をたてて歩いてくる。無地の唐衣も、怒って、怒って、真っ赤だ。井上姫の記憶が正しければ彼女達は毎年牛車で向かっていたはずだが、趣向を変えてみたのだろうか。いやどうもそうではないらしい。


「全く何度思い出しても腹立たしい、あの憎たらしい拓哉坊! 私達の美しい牛車を口の中へ入れるなんて! 母親も母親です、それを見てきちんと叱るどころかこんなの食べても美味しくないわよと笑うだけ! あの母親は甘いを通り越して愚かです、あんなだから拓哉坊は悪い子に育つのだわ。嗚呼、私達の愛しい牛車……とてもじゃないけれど、口の中に入れられて唾液でべとべとになったものになど乗りたくありません。例え綺麗に洗ったとしてもです」

 隣にいる男雛は困ったように笑いながら「そうだねえ」と相槌を打つだけだった。大人しい性格の彼は殆ど自分の意見は言わず、少しわがままでやや怒りっぽい花村姫の意見に常に同意しているのだ。花村姫はそんな彼の自分の意思がまるでないような部分を嫌っており、ずっと続くと「少しは自分の意見を言ったらどう」と怒鳴る。そのくせ彼が自分に口答えしたり、自分が想定していたのとは違うことを言ったりすると怒ることも多い。そんな面倒な彼女だったが、花村の君は心から彼女を愛しているらしかった。これは下手に声をかけない方がよさそうだ、と二人はすれちがいざま会釈するだけで済ませた。


 このように、ただ歩いているだけで様々な雛の様々なドラマを目にする。この大きな世界の上で雛達は人知れず泣き、笑い、怒り、楽しむ。夜の闇を塗り潰す数々の光、そして本来『動くはずの無いひな人形』が動き喋り飲み食いする姿が生み出す夢の様な世界。この夢の様に美しく、そして愉快な世界を知らぬまま生きているなんて勿体無いな人間は、と井上姫は思う。いや知られていないからこそこの世界は美しく、夢という言葉が似合うのかもしれない。


 馴染みの雛や、初めて顔を合わせる雛に挨拶したり短い会話を楽しんだり。そうしているとあっという間に舞花市の北側(桜町方面)に位置する吉田家へ辿り着いた。

 家の前にある庭には招待された雛達の乗って来た牛車が整然と並んでいる。牛車一つとっても、色合いや模様、大きさなどが違うから面白い。豪奢なものあれば、シンプルながら美しいものもあった。目に飛び込む黒に金に赤に緑に……。中には牛がついているものもあり、闇の中でもうもう鳴いている。


「今年も間違えて別の家の車に乗って帰ってしまう人がいるだろうか」


「確か三年前急ぐあまり長倉様が伊藤様の、伊藤様が長倉様の車で間違えて帰ってしまったのでしたわよね」

 二人の車はよく似ていたからね、と井上の君は笑う。車に名札をつけているわけではないので、そういう間違いは度々起こった。この土地に住む人達の中には雛達が自分達の牛車はこれだとすぐ分かるように目印になるものをつけてくれる者もいるが、少数であるし雛達も「間違えたらその時はその時だ」というスタンスなので積極的に目印になるようなものをつけることはない。間違えても、次の年の宴の最中にひなのかみが入れ替えてくれるのか、宴から帰る時ぱっと見ると正しい牛車が置かれているから良いのだ。

 乗り手を失った彼等は今、静かに眠っている。再び自分の出番が来るまで。


 玄関の扉の前にある段差はふわりと飛んで越えていく。人にとっては何でもないものでも、雛達にとってはうんと大きく、そして特別なものになる。何度見ても人の世は不思議の世界に思え、ここまで来るのも冒険気分、飽きもせず。

 すうっと扉をすり抜けると、すでに会場へ来ていたのだろう雛達の笑い声や喋る声などが耳に飛び込み、そして体を震わせる。玄関から伸びる廊下、突きあたりにある階段、あちこちにある部屋、思い思いの場所に座って飲み食い遊び。三人はまず自分達を招いてくれた吉田の雛に挨拶をしに行く。彼等は今この家唯一の和室にいるらしい。廊下を挟んだ右側、前から二つ目の部屋が和室だ。そこへ行く間廊下で騒いでいた雛達が「こんばんは」「お久しぶり」「もうすでに大盛り上がりですよ」などと声をかけてくる。


 和室の中も大盛り上がりで、畳やちゃぶ台、違い棚の上や押入れの中に座して大勢のひな人形が思い思いのことをしていた。部屋の中は甘酒や酒の香り、ちらし寿司の甘酸っぱい香り、ひなあられや菱餅の甘い香りにはまぐりのお吸い物の香りでいっぱいだ。

 正面奥に飾られた五段飾り。美しくもどこか生気を感じられないのは、今魂とも呼べるべきものが外へ抜け出しているからだろう。その左隣には時の蓄積を感じる色をした、木製の戸棚がある。硝子戸の向こう側にはずらりと手毬が並んでおり、ひな飾りの右隣にある木製の長机の上には緋毛氈が敷かれ、そちらに手のひらサイズの様々な道具が置かれていた。これらはここ吉田家に住む老爺が趣味で作ったものである。彼はこういうものを作るのが大好きらしく、今ここに飾られているものは彼の作品のほんの一部だそうだ。小桃は一瞬で釘付けになり、声にならぬ悲鳴をあげ、それからふらふらっと吸い込まれる様にそちらへ向かって歩いて行く。しかしまだ吉田夫妻に挨拶をしていない。


「こら小桃、あちらを見るのはご挨拶をしてからですよ」

 と井上姫がたしなめても聞こえていない様子。もう意識はすっかりそちらにあり、周りの様子が見えていないようだった。そんな状態であったから、座ってお喋りしていた女雛の一人にぶつかってしまった。


「まあ、驚きました。あら可愛らしい桃の方」

 ぶつかったことで我に帰った小桃は慌てて頭を下げる。正確に言うと体全体を傾けており、傍から見れば倒れて起きてを繰り返すおきあがりこぼし。

 小桃がぶつかった女雛の唐衣は赤く、そこに薄桃と金の桜が咲き乱れている。その上に薄桃の肩帯がかかっており、五色の風を切って飛ぶ鶴が描かれていた。彼女は小桃にぶつかられて驚いてこそいるが、それを不快に思ったり腹立たしいとは思っていない様子だった。


「これは失礼しました、美しい桜の方。その、吉田の君と吉田姫はこの部屋のどちらにいらっしゃるのでしょうか。私、お二人に挨拶しないとあの美しい手毬とお道具をじっくりと見られないのです」


「あらあら。貴方はああいったものを見るのがとても好きなのですね。ここ吉田家が雛、吉田姫は私ですよ。隣にいるのが私の夫である吉田の君です」

 にこにこと笑いながら女雛――吉田姫は隣にいる男雛を紹介する。喋る速さはゆっくりめで、彼女が温厚でのんびりした姫であることが伺える。男雛の縫腋袍の色は山吹で、それより幾分濃い色で雲立涌(くもたてわく)の文様が描かれている。

 井上夫妻は慌てて駆け寄り、娘的存在である小桃の非礼を詫びた。それからすっとその場に座り、小さな両手を畳の上についた。吉田夫妻も二人と向かい合い、姿勢を正す。


「お初にお目にかかります、吉田の君、そして吉田姫。わたくし共は桜町からやって参りました井上と申します。こちらはわたくし共の娘の小桃です。本日はお招きいただきありがとうございました」


「井上の君、そして井上姫ですね。初めまして。貴方方のお持ちになる料理のことは、よく耳にしています。大変美味しいとかで、私とても楽しみですわ。ねえ、あなた」


「ああ、とても楽しみだね。井上の君、井上姫。今日は思いっきり楽しんでください。貴方方が幸福な時間を過ごすことを心からお祈りいたします」


「お父様、お母様ご挨拶はこれで終わりましたね。私早くあちらの手毬とお道具を見たいです。ね、ね、良いでしょう?」

 彼女に目が存在していたら、きっときらきらと輝いていたことだろう。挨拶が終わってすぐ、吉田夫妻の前でそのようなことを言いだすものだから井上夫妻は呆れたが、吉田夫妻は気分を害した様子はなくむしろ可愛らしい子だと笑う。


「どうぞ、ご覧くださいませ。手毬やお道具は別のお部屋にも沢山あります。後でそちらも見せて差し上げましょう」

 吉田姫に言われ小桃はわあい、と喜びの声をあげると一目散に駆けていった。井上姫は改めて小桃の非礼を詫び、そして彼女の為に色々見せてくれることに対して礼を言う。それから井上の君は体の内にしまっていた箱を取り出し、そこに入れていた料理を一通り出して吉田夫妻に渡した。持ってきた料理を最初に渡す相手は、自分達を招いてくれた夫婦雛と決まっているのだ。二人は大変喜び、早速食べるのだと言った。その後、彼女達と喋っていた雛達にも料理を配る。料理は無限に取り出せるのだった。


 そして井上夫妻と小桃の雛宴が始まった。

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