第六十六夜:雛宴(1)
『雛宴』
「ほい、柚季。こればあちゃん手作りのひなあられ」
「わあ、ありがとう! 紗久羅のおばあちゃんってひなあられも手作りしちゃうんだ」
昼休み弁当を食べ終わった後紗久羅から渡されたパステルピンクのラッピング袋からは、仄かに甘い匂いがする。早速柚季が赤いリボンを外し、中に入っている千代紙の貼られた箱を取り出した。この箱は紗久羅が作ったものらしく、料理以外になるとじっくり丁寧な作業というのがまるで出来ない紗久羅らしく、ところどころから雑さを感じる。しかしまあ味を損なうレベルの酷さではないから良いだろう、などと思いつつ柚季は箱を開けた。ふわっと香る砂糖と、ほんのりお米の甘い匂い。淡いピンク、黄緑、黄色、それから白に茶のあられはころころして可愛らしい。そのあられに混じって、ピーナッツが入っておりこちらからは香ばしい匂いがした。
「毎年ばあちゃんがすげえ量作るんだよ。で、いつもさくら姉や友達におすそ分けしているんだ。仕方ねえからくそ狐野郎にもやっている。あたしはあげなくていいって言っているんだけれどな。作っている本人がやれって言っているんだからなあ、しょうがねえよなあ! 全くあんな狐野郎にまであげるなんて……勿体無いったらありゃあしないよなあ!」
「とか言って、本当は一番渡したい相手なんじゃない?」
「んなわけあるか、馬鹿!」
「ああそっか、おばあちゃんのじゃなくて自分が手作りしたひなあられをあげたかったのねえ。ふふ」
「そ・う・じゃねえ! 何であたしがあんな奴の為にひなあられを作らなくちゃいけないんだ」
と紗久羅は頬をぷくっと膨らませる。どうせこんな風にからかわれるのだから出雲にあげたくないけれどあげる、なんて話をしなければいいのにと柚季は笑ってしまう。紗久羅は笑う柚季が手に持っているひなあられ入りの箱を「柚季のいじわる、これは没収!」と奪い取ろうとするが、それを柚季は華麗に避けて「一度貰ったものは返しません」と一つまみ口に放る。噛むと砂糖の甘みと米の香りがふわっと口の中に広がった。
「来年こそは愛情たっぷりひなあられを作って、愛しの出雲さんにあげなさいね?」
「だから違うって言っているだろうが、馬鹿! もう、そんな意地悪言っている柚季なんて今日の夜、雛宴でも見てひいひい言えばいいんだ。あたし達には見えないけれど、柚季なら見えるだろうさ」
「……雛宴?」
眉をひそめて尋ねると、思った通り食いついてくれたといわんばかりに紗久羅がにやりと笑った。
「この辺りに住んでいるひな人形と桃雛はな、桃の節句の日の夜に動くって言われているんだ」
「は?」
「実際は本体じゃなくて、雛の中に宿っている魂だかなんだからしいけれどな。夜になると人形からするするっと本体と同じ容姿をしたものが出てくるんだとさ。それは普通の人間には見えないし、触れることも出来ない。で、そいつらは別の家にあるひな人形の所へ遊びに行ったり、逆に自宅に遊びに来たひな人形を迎えたりしてお喋りしたり、遊んだり、飲み食いしたりするんだとさ。飲み食いするものはあたし達がお供えしたものとか、ひな飾りのセットの中にあるお飾りの菱餅とか。他にはひな人形に供える『菱餅』とか『鯛の塩焼き』とか書いた紙とかな。ひな人形達に雛宴をより楽しんでもらおうと、赤文字でそういう食べ物の名前を書いた紙を折りたたんでひな飾りの前に置いておくんだ。あたし達にとってはそれはただの紙だけれど、ひな人形達にとっては本物の料理と変わらないらしい。で、そうして宴を楽しんだ後自分の本体の中へ帰っていくと」
基本的には霊感のある人間位にしか見えないが、まれに普通の人間もその様子を目にすることがあるという。特に寝ぼけて夢か現か今自分がどちらにいるのか分かっていないような人間は見やすいとか。紗久羅は見たことが無いが、桃の節句の次の日の朝にひな人形を見たら酒でも飲んだかのように頬が仄かに赤く見えたり、男雛が女雛、女雛が男雛に見えたり、服に昨日までなかった染みが出来ているのを見つけたりすることはあったらしい。大抵はすぐ元に戻った『気がする』のだが、男雛が女雛に女雛が男雛に見える現象は次の桃の節句の次の日まで続いたという。
「なんでも本体からひゅるひゅる抜けていったものの状態が、戻った時本体の見た目に影響するんだとさ。酒で酔ったり、慌てていて男雛が女雛に女雛が男雛の中に入っちゃったり、酒を着物に零しちゃったせいでそうなるんだとさ。昔は変わっているような気がするって思いながら『いやいや気のせいだ。ああいう言い伝えがあるから、そう思っちゃっているだけなんだ』っていう風にも思っていたし、むしろそっちの気持ちの方が強かったけれど」
今はきっと本当にそうなっていたんだろうな、と頬杖をつきながら小声で呟く。山に天狗が住み、化け狐がいなり寿司を買いに来て、化け狸が人間のフリして働いているような世界だ、夜中にひな人形が宴を始めてもなんらおかしくはない。少なくとも紗久羅の住む桜町や、ここ三つ葉市などでは。幼い頃――何も知らず、まだそこまで妖などという『非現実的な存在だったもの』を嫌っていなかった時に聞いていたなら、絵本にありそうな素敵なお話と思ったかもしれないが、今となってはただただ気味悪いとしか思わない。自分の部屋に飾ってある、布製のウサギのひな人形から出てきた・ものが動き出す様を想像したらぞっとした。
「全く……桃の節句にまで怪談話があるなんて、流石というかなんというか」
「別に怪談話じゃねえよ。いや、まあ確かによく考えてみれば怪談かもしれないけれど……でも無害だし、むしろ雛宴が行われることで家の中に溜まった良くないものが取り除かれるらしいから、歓迎すべきことなんだなあ。まあ元々ひな人形ってあたし達の厄を代わりに引き受けてくれるようなものみたいだし? さくら姉から聞いた話だけれどさ」
例えそうだとしても気味が悪いったらないわ、と柚季が軽く身震いしたところでその話は終わった。放課後は図書室で本を借り、それから夕飯の買い物をして帰った。柚季が本を借りている間、紗久羅は同じく本を借りに来ていた奈都貴にひなあられを渡していた。彼は昨日、十六歳の誕生日に大変な目に遭い危うく死にかけたとかでぐったりしている様子だった。どちらかというと精神的に堪えているらしい。ぼうっとしていて、紗久羅の弄り攻撃にもろくに反応しない。しばらくの間はそんな状態が続くかもしれなかった。
夕飯は一人で済ませた。両親は夜遅くに帰ってきて、柚季特製の蛤のお吸い物とちらし寿司を美味しそうに食べた。紗久羅の家も夕飯は同じようなメニューだったようで、メールを見る限り好物である菊野特製散らし寿司を食べることが出来て大層ご機嫌の様子。が最後に『動くひな人形、見られるといいね!』という喜ばしくない一文が添えられていたので『来年こそは愛がたっぷり詰まった手作りひなあられを出雲さんに食べさせてあげられるといいね!』という文を最後に入れて返信してやる。
授業の予習を済ませ、ベッドにもぐりこんだ柚季の目に窓際に飾ったひな飾りが映る。最近買ったもので、着物を着た白いウサギの赤い目はくりっとしていて大変可愛らしい。祖母の家には恐らく相当高額だろう、七段の大きく立派なひな人形があり毎年桃の節句辺りになるとそれが飾られていた。そして桃の節句当日はそれを背に友達とひなあられを食べたり遊んだり、夕方に豪華な食事を楽しんだりしたものだ。まるで空気が読めない祖母から逃げるようにこの家へ引っ越したことで、そのひな人形ともお別れになってしまったことは少し残念だが、もうひな祭りがどうとかいって騒ぐ年齢でもないし、小さいけれど可愛らしいこのひな人形があればそれで十分だ。
ひな人形は可愛らしいカーテンと、小さな金屏風を背にちょこんと座っている。そのつぶらな瞳をなんとはなしにじっと見つめていると、紗久羅から聞いた話を思い出した。途端人形が身じろいだ気がして柚季は慌ててベッドにもぐりこんだ。
(もう、紗久羅が変な話するから! ないない、ひな人形から出てきた魂みたいなものが動いて宴なんて……! ありえないったらありえないのよ!)
ありえないなどということはありえない、ということは重々承知している。が認めたくはない。柚季は頭の中に浮かべてしまった、ひな人形が動いたり喋ったりする映像を必死にふり払いながら、目を瞑って無理矢理眠りについた。
しかしそれから二時間もしない内にふとトイレに行きたくなり、むくりと起き上がった。用を済ませ戻ると暗闇の中永遠に閉じぬ瞳を前方に向けたままじっと座っているひな人形が視界に入る。あれだけ可愛く見えたものなのに、闇に浮かび微かに見せるその姿は何だか気味が悪い。幼い頃、同じように夜中トイレから戻る途中目に留まったひな人形がとても恐ろしい化け物に見えて泣きだしたことを思い出す。
(嗚呼、なんだか今にも動き出しそう……ってだからそんなこと考えちゃ駄目よ、さっさと寝てしまいましょう)
そうして不安を振り払いながら再びベッドにもぐり再び眠りにつこうとした時、変化が訪れた。ひな人形が青白く光ったと思ったら、しゅるしゅると白い煙の様なものが上ってきたのだ。ベッドの前に立ち、掛け布団をめくろうとした柚季はぎょっとし、固まってしまった。目をそこから離すに離せない。それは闇の中に発生したにも関わらず、はっきりと見えた。恐らくは光を帯びているのだろう。
その白い煙はひな人形の頭上に留まりながら形を変えていく。始めはただの球体だったが、最後には下に鎮座しているひな人形と同じ形になり、目と口が出来、着物が現れ、彩色されてすっかりひな人形の分身が出来上がった。色はやや薄く、恐らく触れることは出来ないだろうが、それ以外はオリジナルと遜色ない。
彼等は最初閉じていた目をゆっくり開き、そのくりっとした瞳をぱちくりさせた。それから辺りをきょろきょろと見回したかと思ったら、女雛の方が口を開いた。
「あら、これはどうしたことでしょう。私達すっかり動けます」
「全くこれはどうしたことだろう。ほら見てごらん、私達の体が真下にあるよ。やや、それなら今の私達はなんだろう」
戸惑う女雛の隣にいる男雛もまた困惑している様子だった。女雛は鈴を転がしたような声で、男雛は声変わりする前の男性の声だった。この二人(ウサギだから二羽、といった方が良いだろうか)はこういう状態になるのが初めてなのだろう。最近買ったものだし、作られたのもそんなに前の話ではないのかもしれない。二人は顔を見合わせ、揃って首を傾げる。
「一体どうしたのでしょうか」
「一体どうしたのだろうね」
「この辺りは不思議なことが日常的に起きるといいます。もしかしたらこういうことも、よく起こるのかもしれません。私達がただ今まで経験していなかっただけで。嗚呼そうだ、お嬢さん。お嬢さんなら分かるかもしれないわ。ほら、私達のこともきちんと見えている様子で。私なんとなく私達は本当は人間の目には映らないもののような気がしてならないのです。でもお嬢さんは不思議な力をお持ちのようだから、見える。きっとそうでしょう」
「そうだ、お嬢さんに聞くのが一番良い。お嬢さんは不思議なことに沢山巻き込まれているから、その分詳しいはずだ。不思議なものだ、私達は今までこうして見聞きしたりものを考えたりしたことなどなかったはずなのに、どういうわけかそのことを知っているのだ。お嬢さん、こうして体から抜け出ている私達は何なのでしょう? 我々がこういう風に出てきて喋ったり動いたり出来るようになるということはよくあることなのですか?」
と、固まったままの柚季は突然自分に話を振られてどきりとした。夜中に人形から何か出てきた上に、それが話しかけてきたのだ。気持ち悪い、怖い、また面倒なことに巻き込まれるかもしれない。さあっと血の気が引いて、その場に倒れそうになる。
「ちょっと、速水、速水いるのでしょう。いるのだったら出てきなさいよ」
悲鳴をあげることも、大声を出すこともぐっとこらえながらその名前を呼ぶとすっと速水が天井から降りてきて、ゆっくりと着地した。彼は左手を腹にやり、右手を口元にやって震えていた。笑っているのである。今にも泣きながら絶叫しそうな顔をしながらベッドの前で硬直している柚季の姿が、彼には余程滑稽に見えるらしい。以前君は俺の専属ピエロさとほざいたことがあり、頭をぺしんと叩いてやろうとしたが上手いことかわされたことを思い出し、ますます腹が立った。速水はくっくっく、ひいひいひい、と抑えに抑えた声で散々笑ってから、満面の笑みで「どうしたの?」と聞いてきた。
「どうしたの、じゃないわよ。見ればわかるでしょう。あれ、あのひな人形をどうにかしてよ。気味が悪くて仕方ないわ!」
「なんだい、そんなびくびくしちゃって。たかだか人形から抜け出た魂が動いて喋っているだけじゃあないか。毎日がお化け屋敷みたいな家に住んでいる君がびくつくようなものじゃないよ」
「たかだかって何よ、たかだかって。こんなの充分ホラーよ怪奇現象よ! 確かに不本意、ものすごく不本意だけれどこの家は毎日がお化け屋敷みたいなもので、今日だって何人の妖をブッ飛ばしたか。でもね、それとこれとは話が別よ。毎日のようにこういうものと対峙していようが、嫌なものは嫌。いつまでもこういうものは不気味で、怖いものなのよ。そしてそういうものを人間はどうにかして排除したがるものなのよ。こういうのを見てたかだか人形が動いているだけって思うようになったら、もうその時の自分は人間をやめている状態になっているってこと。ええそうよ、そういうことなのよ、だからどうにかなさい。何も殺せと言っているわけじゃあないわ」
「それなら自分の手で何とかすることだね。君はそのすぐ俺に甘える癖をなんとかした方がいいよ、うん。まあ俺ってば超強いイケメンだし、愛する王子様に頼りたくなる気持ちはよく分かるけれどね。おわっと、そんな怖い顔しないでよ俺と君の仲じゃないの。まあ、あまりオススメはしないよ。桃の節句の夜にこうして出てきたひな達は宴を開いたり、それに参加したりすることで良くないものを取り除いてくれるのだもの。こいつらは今年が初めてだから、今日は他人の家にお邪魔するんじゃないかな。それでも君の家に影響を及ぼす。まあこの家じゃあ祓った邪気もあっという間に元通りだろうけれど、何もしないよりは少しはましだろう」
それに、と速水はさらに続けた。
「下手に鎮めると、恨まれて魔に憑かれてしまうかもしれないねえ。人の為に出てきたものを人が無理矢理鎮めるなんてあまり良いことじゃないからね。こいつらはまだ何も知らない雛ちゃん達だけれど、それでも自分達が引込められることがいかに理不尽なことか、奥底では理解しているはずだ。君はただ喋って動くだけの人形と、魔に憑かれ祟ってくる恐るべき人形ならどちらがいい?」
「前者に決まっているじゃないの。はあ……もう、こんなの悪夢よ」
柚季は仕方なくベッドにもぐりこみ、掛け布団を頭から被った。未だ困惑した様子のひな人形を背に、私は何も見ていない聞いていない見たり聞いたりしたとしていてもそれは夢、夢、夢と心の中で繰り返しながら眠りについた。その様子を見て速水はくっくと笑ってからすうっと消えていった。寝ている姿をじっくり観察しようとすると「変態スケベ!」と言って枕を投げられるからだ。
取り残されたひな達は、一体自分達はこれからどうすれば良いのかと困り顔。
「ここで私達、じっとしているだけなのかしら」
「さっきあのお兄さんが宴がどうとか、他人の家にお邪魔するとか言っていたが……どうやって行けば良いのだろう。私達は今自由に動けるからここから出ることも出来るだろうが……ふうむ。しかし私はこのような声で喋るのだな。そして君はそのような可愛らしい声で喋る。君の声を私は初めて聞いたよ」
「ええ、私も。まさかこのように貴方と話すことが出来る日が来るなんて。でも不思議ね、どうしてかしら。言葉を交わしたのは初めてのはずなのに、私ずっと前から毎日のように貴方とこうして語らっていた気がするのです。その声もずっと前からちゃんと知っていて、私の声も貴方は知っていた気がするのです」
「それは全くもって同感だ、不思議なものだ。私達はただの人形で、意識とか知恵とか声とか記憶とかそういったものは存在しないと思っていたが、実はあったのかもしれない。毎日君と語らっていたし、お嬢さんが妖に振りまわされている様も見ていたし、我々が桃の節句を祝う人形であることも理解していた。今の今までなかったものと思っていたものは、でも本当は生まれた時からちゃんとあったのだ」
不思議ね、不思議だなと二人は何度も繰り返す。一刻もこの『夢』から覚めようと眠りについた柚季の耳にもうそれは届いていない。二人はこれからどうすれば良いのだろうと途方に暮れるより他無く、不思議と連呼し、部屋中をうろつき、それからやることがなくなって小さな手を使ってアルプス一万尺を始めた。それは自分達がまだ店にいた時、その店を訪れた子供二人が突然の思いつきでやっていたものだった。人形である二人はそれを見ていなかったし、記憶などしていなかった『はずだった』が、ありありとその時のことを思い出すことが出来た。
そうして手遊びしている時に、二人は聞き覚えの無い女の声を聞いた。窓の外から聞こえたのでカーテンで閉じられた窓の方を見る。するとその窓をすうっとすり抜けて家の中へ入ってくる者があった。きっとその光景を見たら柚季など卒倒するだろうし、ひな達もこれには驚いた。
柚季の部屋に入ってきたのは二体の人形――男雛と女雛。うさぎの雛達より二回り程大きく、人の姿をしていた。男はうっすらと紋様の入った黒い装束に身を纏い、全体的にしゅっとしている。知的かつ勇敢そうな顔立ちは文にも武にも秀でていることをうかがわせる。女は十二単。桃、黄緑、白と菱餅を思わせる重ねで、一番上の桃色の着物は無地であったが決して地味でつまらないという印象は与えない。ふっくらとした顔に浮かぶ気品ある顔立ちが衣に華を添え、その為にそう見えるのだろうと思った。衣を着こなし、優雅に微笑む女が何よりの模様である。
「まあ可愛いうさぎの方々、初めまして。私達はお隣の高橋家のひな達です。夫のことは高橋の君、私のことは高橋姫とお呼びください。貴方方のことは及川の君、及川姫とこれから呼ぶことにしましょう。主人から別に名前を与えられていれば別ですが」
女雛――及川姫は特に名を貰った覚えはなかったので、そのまま及川姫と呼ばれることにした。どうやらひな達は自分達が置かれている家の名を拝借し、男雛は何々の君、女雛は何々姫と呼ぶことになっているらしい。
「我々は貴方方を迎えに来たのです。このようになることは初めてでしょう? 雛宴、というものはご存じ?」
及川の君は先程の速水の言葉を思い出し、家の邪気を祓う為に開かれるらしいことは知っていると述べた。高橋姫はその通りです、と頷いてから詳しい話をしてくれた。
「雛宴というのはこの辺り……現在の桜町、三つ葉市、舞花市辺りで主に行われているもので、貴方の言う通り家などに溜まる良くないものを取り除くための一種の儀式のようなものです。いつから始まったのか分かりませんが、それなりに歴史はあるようですね。我々は桃の節句の夜にだけこうして動くことが出来、そして招かれた家へ赴いたり、他のひな人形を自宅に招いたりするのです。宴、というように我々はそこで食べたり飲んだり遊んだりおしゃべりをしたりして楽しみます。儀式、といっても何か特別なことをするわけではないのですよ」
「まあ、そうだったのですか……。けれど私達、誰かに招かれても招いてもおりませんわ」
困り顔で及川姫が言うと、貴方方は初めてですからねと高橋姫が不安や戸惑いを拭うような柔らかな笑みを浮かべた。
「初めて雛宴に参加する方々は、我々の様に幾度も宴に参加している者が見つけ、雛宴のことなどについて色々教えます。そして我々が招かれた家に、貴方方を連れていくのですよ。さあ、早速参りましょう」
そう言うと高橋姫は窓の外を指差した。彼女と高橋の君がまず窓をすり抜け再び外へと出て行った。及川姫は及川の君の方を見る。彼はついていこう、きっと悪いことにはならないはずだと静かに頷いた。そして二人は仲良く小さな手を繋いで窓をすり抜けて行った。月光と星溢れる夜に濡れた硝子はとてもひんやりとしていたが、不快な気持ちにはならなかった。窓の外に出た二人の体は地面へ落下することなくふわふわとその場に浮かんでいる。地上に伏せられた巨大な瑠璃の器、その中に閉じ込められた街は闇の底に沈み、己の姿を僅かに見せていた。
こちらで参りましょう、と高橋姫が指差した先には牛車がある。自分と大して変わらぬ大きさで、一人さえ中に入れぬ位のものだった。それに乗って行く、と言われても無理ではないかという不安が顔に出ていたらしい。高橋の君と高橋姫、二人はくすくすと笑って大丈夫だと言った。
「大きさというのものは関係ないのですよ。私達はこれに乗るのだ、と思えばちゃんと乗れるのです。私達もはじめは戸惑ったものですが」
「ほらごらん、天を地を行く車の数々を。どれも皆小さいが、全てにあれよりも大きなひな人形が乗り己が招かれた家に向かって走っているのだ」
及川の雛の目いっぱいに確かに闇の中を行く牛車の姿がある。人形と同じく放つ光は、微かに黄緑だったり青だったり。遠くにある牛車は光の玉に見え、一つ、二つ、十、それ以上、数え切れない位。春の夜を飛び交う蛍、その美しさにしばしの間二人は見惚れていた。
その様子を見て微笑ましいものね、と笑う高橋姫がまず牛車に乗り込んだ。その体はまるでそれに吸い込まれる様にして入って行った。次に高橋の君が乗り、最後に及川の雛二人が牛車に近づいた。牛車は対極の磁石となって、二人の体を吸い寄せる。そして気づくと二人は車の中に座っていた。前方には高橋の雛がにこにこしながら座っていた。
「ほら、入れただろう?」
「ええ、乗れました。私も及川姫も、これに乗るのは初めてです。いやこれ自体見るのは初めてだ」
「本来なら牛が引くのだが、この日は牛なくともひとりでに動くのだ。我々は安心してこの身を任せ、目的地まで向かうことが出来る。ところで四人が定員のように見えるが、実際は限界などない。五人だって住人だって百人だって乗せられるのだよ。実体のない物に限りはないのだ」
ただそうして牛車で移動している者が全てではない。元々どのひな人形にも牛車がついているわけではないし、持っていても歩いて行くことを好みわざと乗っていないものもいるそうだ。
外の様子を見やった及川姫は、すぐ横を歩く行列に目を奪われた。高橋姫もそれに気づき、まあと感嘆の声をあげる。
「朝倉の行列ですわ、相も変わらずお美しい。こうして間近で見られるなんて、嬉しいことです」
三つ葉市にある呉服屋のひな人形であるらしい、朝倉のひな達。先頭を行く男雛と女雛。男雛は黒地の衣で、金色の川、赤や緑や青や紫の大きく鮮やかな花々。手に持っているのは桃の花のついた枝で、これはどうやら本物であるらしい。しかし彼が今手に持っているが故、作り物としか思えぬ位小さいのだ。女雛の着る赤地の衣には色も模様も様々な手毬と舞い散る桜の花びらが描かれ、その手には檜扇。夜をさらさらと流れる六色の錺糸の鮮やかさ。
ちらりと見た横顔には気品があり、また一目見ただけで長い時を生き多くを見てきた者だということが分かる何かがあった。その身には『時』『歴史』と呼ばれるものや、自分と関わって来た多くの人間の『人生』が蓄積されていて、それが彼女達を彩っているのだった。そしてそれはまだ及川の雛達の中には殆ど無いものであるし、恐らくあれ程多くのものを自分達が得ることはないだろう。
二人の後ろには三人官女、右大臣に左大臣、五人囃子、仕丁等がおり、主よりは控えめだが、実に堂々とした、威厳ある歩き方をしていた。主のことも、自分達のことも誇りに思っていることがよく分かる。そんな行列の脇を固めるのは桃雛で、ひな人形同様人の手によって丁寧に作り上げられたのだろうということをなんとなく察せられる。先頭にいる二体の桃雛は桜の描かれた薄桃の雪洞を持ち、後ろにいる者達はひな壇に飾られていたのであろう数々の飾りや、食べ物が入っていると思しき黒塗りの箱等を持っていた。持っているというよりは、体にくっついているといった方が正しいかもしれない。人形にしても飾りにしても、相当高価なものであることが素人目でも分かる。
美しく、麗しく、威厳溢れる人々。同じひな人形でありながら、彼等はまるで別世界に住む人々のようであった。触れるのも、話をするのも、こうして車に乗って近くを走っているのもおこがましいとさえ思えてならない。
彼等の周りには極彩色の花が舞い、七色の春風が吹き、美しい声で鳴く鶯が飛び、桃や梅の香り漂い、そして足元には赤い毛氈の道がある。実際にはないのだが、どういうわけかそういうものが見え、聞こえ、匂っているような気がしてならない。それはきっと幻で、でも幻ではないものかもしれなかった。夢の様な行列、彼等はただそこにいるだけでこの場を鮮やかな色で満ちた夢の世界に変えてしまう。
「朝倉雛は八の桃花と我々ひな人形の間で呼ばれているものの一つなのだよ。後七つ、同じように或いは彼等以上に素晴らしいひな人形があるのだ。勿論この辺りの地域に限ってのことで、国中にはもっと素晴らしいものや、歴史のあるものも沢山あるだろうが……。彼等八の桃花を招くこと、彼等に招かれることは我々にとって最大の名誉なのだ。我々はまだないが、いつかはと思っている。といってもこればかりは運だからなあ」
そう言って高橋の君は苦笑する。
「そういえば我々ひな人形はどうやって招いたり、招かれたりするのですか。事前に招待状でも出すのですか?」
ふと疑問に思った及川の君が尋ねると、高橋の君はかぶりを振る。
「そういうものは出さないよ。招く招かれるというのはね、桃の節句の夜こうして本体から抜け出た時ふっと自然に頭に浮かぶのだ。ああ私はあの家に招かれた、あの家の者を招いたという風にね。それらを決めるのは我々ではなく『ひなのかみ』なのだ。ひなのかみというのは桜山にいらっしゃる神様で、我々がこうして桃の節句に宴を開けるのはその神様によるものだと云われている。ひなのかみ様は、全ての雛……子供達を見守る神様で、彼等が健やかに生きられるようにと我々に良くないものを取り除く儀式の宴をさせているらしい」
もっともそれは噂の範囲であり、真偽は不明だそうだ。だが実際桜山にはひなのかみと呼ばれているにこりと笑う女性を象った石の像があるという。
外の様子を見、喋る四人を乗せた牛車は目的地に徐々に近づいてきている。高橋の雛達の間には黒塗りの箱が置かれている。恐らくそこには食べ物が入っているのだろう。その時及川姫は自分達がそういった類のものを一切持ってきていないことに気づいた。
「それは皆さんで食べる為のものが入っているんですの?」
「ええ、そうですよ。小さな箱ですが、沢山の人が十分に食べられるだけの量が入っているのですよ。箱の中の無限、無限の箱なのです」
「私達今気づいたのですが、何も持ってきていません。これは失礼ではないでしょうか」
「いいえ、全く。お供えも、食べ物を模した飾りもない方々は少なくないですから、何も持たずに行く人は多いのですよ。だからといって誰も文句は言いません。だから、安心なさい」
四人の乗る車は数多く舞う春の蛍の内の一つとなり、桃の節句の夜を彩る。灯りをつけられた雪洞にも見え、とても美しい。
そして彼等の車はとうとう目的の場所――舞花市にある吉田家に到着したのだった。




