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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
ひなのまもり
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ひなのまもり(2)


 どれ程の間、意識は闇の中を彷徨っていたのだろうか。妙にほっとする、イグサの独特の匂いが奈都貴の意識を現へと引っ張り戻した。そんな彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、毒々しい赤色の強烈な光。それは光でありながらぬめぬめとした、強烈な臭気を発する、腐った内臓を想起させるもので今にもべちゃりという音と一緒に落ちてきそうだった。いや、実はとっくに落ちていて体を濡らしているかもしれない。奈都貴はぎょっとし、ばっと起きあがった。


「ここは……?」

 先程まで自分は町中を歩いていたはずなのだが。天井に吊るされた紙製の丸いランプから放たれる不気味な光に照らされ、奈都貴の前に姿を現しているのは小さな部屋だった。ひんやりとする、妙に湿っぽい畳と黄ばんだ障子紙、血の様な染みが幾つも出来た壁。部屋の中に充満しているじめじめとした、不気味で陰鬱な空気は赤い灯りによって増幅されているようだった。ただこの部屋にいるだけで恐怖や不安が煽られ、狂って叫びたくなる。


(確か家が見えた時に何かに足を掴まれて、それで気づいたら……くそ、妖の領域に引きずり込まれたのか……!)

 濃い闇は奈都貴に最悪のプレゼントを寄こしたようだ。頭を抱え「くそっ」と悪態をついても状況は変わらない。ふう、と息を吐きだしてから立ち上がり改めて部屋の様子を見る。

 こういった領域から脱出する方法は色々ある。一番確実なのは引きずり込んだ妖を倒すことだが、相手が余程ぽんこつか、霊力無しでも倒せる方法のある者でない限りは難しい。他にはどうにかしてここへ引きずり込んだ張本人に出してもらうか(相手が仕掛けてきた勝負に勝つ、その妖の望みを叶えるなどなど)。中には特定の条件を満たすことで脱出可能な領域もある。例えばその領域の中に隠されているあるものを見つけるとか、一定の時間逃げ回るとか、領域内でわざと死ぬとか(領域内で死んでも生きた状態で戻れるらしい)、種族や個人によって色々あるようで妖と深く関わる職業の者達は、この妖の領域に引きずり込まれたらどう対処すればいいのかというのを頭に叩き込んでいるらしい。奈都貴も幾らかは知っているが、その数などたかが知れている。対処法を知っている者より、知らない者の方が圧倒的に多い。

 霊的な力を使ってこの領域の主を倒さない限り出られない場所でありませんように、と奈都貴は心の中で祈った。正直探索以外に彼が出来ることといえばそれ位だった。


 部屋の右側には五段の階段箪笥があり、黒い取っ手は邪悪な笑みを浮かべ、ひとりでに振動し、かたかた、けたけた、笑い声。箪笥のそれぞれの段の上には日本人形が置かれ、無邪気な笑みが恐怖を煽る。

 部屋の左側には押入れがある。襖紙の一部は破れてべろりとめくれ、そこから赤い雫がぽたり、ぽたりと落ちては畳をしとどに濡らしている。肉、皮膚、血。痛い、痛いという呻き声が聞こえてきそうで奈都貴はそこから目を逸らした。

 奈都貴の背には細長い葛籠が一つあり、壁にかかっている振り子時計がかちかちと極めて事務的に時を刻んでいる。その音に奈都貴は自らの体がノミで削られているような錯覚を覚えた。正面には襖があり、恐らくそこから廊下なり別の部屋なりに移動出来るのだろう。まずはこの部屋から出ようか、とそこに手をかけたがびくともしない。


「まだあかないよ」

 何故開かないのだ、と何度も力を入れて戸を引こうとする奈都貴は突然聞こえた声に驚き手を離した。幼い少女の無邪気な声。見れば階段箪笥の上に飾られていた少女の人形達が己を閉じ込めているケースごとかたかたがたごとと小刻みに震えていた。それだけ振動していても倒れることも、落ちることもない。


「はやいよはやいよまだなにもしていないのに」


「せっかちはきらわれるよ」


「そんなんじゃすぐだめになっちゃうよ」


「どうしてもでたいならけやぶれば?」


「でたいならでればいい。でもでていいのかしら、いいのかしら、ねえ?」


「あけてこうかいするところとこうかいしないところ、そっちはどっち?」


「まだあなたにみせたいものあるのにね」

 箪笥の上にいる少女人形達が、口も開かず喋っている。その愛らしい声と声がぶつかり、その勢いで部屋中へ飛び散り、壁や床に当たり、跳ね、あちらへこちらへ、もうどこにいる誰が何を喋っているのか分からない位に。ぶつかり反射し跳ね回る声で震える部屋の中に立っている奈都貴は、その一見無邪気なようで実は濃い邪気を多分に含んだ少女達の声に、胸の内にある心ががつがつと削られているような気持ちになり、呻き耳を抑える。話し声は段々と笑い声へと変わっていき、その声は段々と高くなり、最後に金属を爪で思いっきりひっかいたようなものになったかと思うとぱたっと止んだ。

 黙った人形達は何事も無かったように、微笑みながらケースという檻に閉じ込められている。先程まであの恐るべき無邪気にして邪悪な声を発していたことが信じられない位大人しく、微動だにしない。しかし浮かべる笑みには気味の悪さがあり、じっと見つめているとじわじわと心を狂気に蝕まれそうな思いがし、また先程のように喋りだし、笑い声をあげかねないと思ったので奈都貴はそれ以上彼女達の顔を見ることをやめる。


(この部屋の中を調べるしかないのか……)

 まるでホラーゲームか何かの世界に閉じ込められたような心地だ、と思いながら奈都貴はまず押入れに手をかけた。襖の向こう側に恐ろしく濃く、歪な、漆黒のヘドロの様なものが充満しているような気がして、本当は開けたくなかったのだが、ここから生きて帰る為のヒントが隠されている可能性があるのだから、開けざるを得ない。開けたが為に死んでしまったという展開が無いとは言い切れないが、そのことについては考えないようにした。

 意を決し、押入れをがっと開けた奈都貴だったがすぐそのことを後悔することになった。襖によりかかっていたらしい何かがそれを開けたことで倒れ、奈都貴に覆いかぶさった。あっと声をあげながら受け止めた奈都貴はそれのあまりの冷たさと、腐った果物の様な匂いにぎょっとして反射的にそれを突き飛ばす。突き飛ばされたそれはがしゃん、という音をたて畳の上に倒れた。


 仰向けになった青い着物を着た女の白く滑らかな手足は有り得ぬ方向に曲がり、結った髪は油虫の様にてかり、あちこちほつれてぼろぼろだ。大きく見開かれたまま動かぬ二つの瞳は今にも零れ落ちそうで、そのくせ痛い位強く眩い光を孕み、死人でありながら強い生命力を持つ生者だった。微かに開いた口から垂れる黒くどろどろとした得体の知れぬものは、今にも無数の足が生えた虫となり畳へ向かって這っていきそうに見えた。

 始め目の前で『死んでいる』女は本物かと思ったが、落ちた時の音と関節の様子等からどうやら人形であるらしいことが分かる。そして女の腹には穴が空いており、その空洞にはびっしりと赤黒いビー玉が詰められており、それがぽろぽろ、ころんと落ちて畳の上を転がっていく。その血肉を思わせる玉は血の匂いを発し、吸っただけで口の中が錆びた鉄の味でいっぱいになる。そして自分が目の前にいる人形の腹を食いちぎったと錯覚させる。奈都貴はこの人形はこの屋敷に来た者を恐怖させる為だけに用意されたものなのだろうと踏み、彼女を凝視していても心が削られるだけだとその人形をどかそうとした。そうした上で押入れに何か手がかりがないか確かめようとしたのだ。なるべくその姿を見ないようにしながら女を乱暴に抱きかかえた瞬間、奈都貴は強い衝撃に襲われ心臓が止まる思いをした。今までぴくりともしなかった人形が突然動き、奈都貴にしがみついてきたのだ。人形は極限近くまで気が狂った人の声――最早人間性の欠片もない、獣の様な声をあげている。ごろごろと腹からビー玉が落ちてくる、その玉は異様に冷たく触れたものに恐怖と痛みを与える。


「……離せ!」

 人形でありながら異様に強い力だったが、どうにかして引き剥がし、そのままの勢いで突き飛ばすとがしゃんという音と共に開け放たれた押入れにぶつかり、そして再び倒れると二度と動かなくなった。すさまじい音をたてる心臓を鎮めようとぜえぜえと息を吐きながら、奈都貴は押入れを調べる。だがそこにはじめじめとした空気が充満しているだけで、他には何も無かった。どうやらこの押入れは嫌がらせの為だけに存在したらしい。

 次に奈都貴は階段箪笥を最上段から順番に開ける。取っ手は相変わらず小刻みに振動してかたかたと笑っている。その取っ手を掴み、引っ張った引き出しの中にはどれもこれも開けなければ良かった、と思わせるものばかり入っていた。虫湧く腐った赤い果実、ぎっしり詰まった硝子の眼球(今押入れの前で倒れている人形のそれと同じものと思われる)、蝶の羽の山、頭が蛙の赤子の人形、道化師の面、金属音の様な悲鳴をあげぐるぐると滅茶苦茶に針を動かす懐中時計、引き出しの中で行われる蠱毒……。開けた途端飛び出てきた黒い手に掴まれ引っ張り込まれそうにもなった。そして「もう開けたくない」という気持ちを無理矢理抑えながら開けている内、とうとう最後の引き出しになった。


(あまり期待出来ないけれど……)

 気味の悪いものの数々に摩耗した心を抱え、得体の知れぬ場所に閉じ込められたことによる焦燥感を抱きながらがっと一気に開ける。中には青い袋が入っていた。その袋には白い正方形の布がついており、そこには青い糸で幾何学模様が描かれている。白く太い紐が袋から出ており、袋の口はそれによってきちんと締められている。ところでその袋に奈都貴は見覚えがあった。それは中学の家庭科の授業で作ったもので、そうっと取り出し後ろを見てみると『深沢奈都貴』とマジックペンで書かれた名札が縫いつけられている。間違いなくそれは彼が作ったもので、あるものを入れる為に現在は使っていた。膨らみのある袋に触れながら奈都貴は首を傾げた。


(何でこれがこんな所に……? いや、というか何で今この袋に中身が入っているんだ? 今はこれ、空っぽのはずなんだが。もしかして、何か別のものが入っているのか?)

 奈都貴は紐を緩め、逆さにして軽く振った。もしこれで猫の頭辺りがぼたぼたと落ちてきたらどうしようかと思ったが、畳の上にぽてぽてと落ちていったのは手のひらサイズの布で出来た飾り――陽菜から毎年貰っている桃雛だった。十歳から貰っているもので、夫婦雛が一組ある為全部で七つある。桃の節句前である今は自室に飾っているはずなのだが、一つ残らず袋に入っていた。相変わらず珍妙な造形で、呆れる程この部屋に馴染んでいた。そのくせそれを見ていると妙に安心出来、これが決してこの部屋にある物達とは違うことが分かる。もしかしたら何かの助けになるのかもしれない、と奈都貴はそれらを再び袋の中に入れた。


 次の瞬間ぼおん、ぼおんと時計が大きな音をたてた。静寂を突如破ったその音に奈都貴は心臓が口から零れ落ちそうな思いをしながら振り向く。左右に揺れ動く振り子、それに合わせて聞こえるぼおんぼおんという音がどういうわけか「もういいね」と重低音で言っているような気がした。それに合わせ、今までしんとしていた葛籠が小刻みにがたがたと震える。やがてそこから黒い手――恐らく奈都貴をこの空間に誘った者――が蓋を押し上げにゅっと突き出された。右手が出、左手が出、次に頭が出、にゅるにゅると蛇の様な動きをしながらそれは出てくる。その様子に奈都貴の目は否応なしに釘付けになった。

 にゅるにゅる、どん。体全てが籠から出、四つん這いの状態になっているそれが顔を上げた。


 連結した百足の長髪、中途半端に鱗をとった魚に似た肌、長い時を経た本の様に黄ばんだ白目と死んだ魚の様に白く濁った黒目、緑色の鼻水に似た色の歯についた赤黒い粘り気のあるなにか、骨ばった手、長く伸びた赤黒い爪、赤い帯しめた黄金色の着物には血の染みらしきものが幾つもついている。見るもおぞましいその化け物は奈都貴を見ると、ききききききと鼠の様な声で笑った。その声は奈都貴にべたべたと触れ、侵入し、鋭い牙をもった口となり、奈都貴の血肉を、魂を貪らんとす。


 このまま突っ立っていたら化け物に喰われる!

 恐怖で固まった体を『生きねば』という思いで熱し、無理矢理柔らかくして逃げ出した。あれだけ力を込めてもびくともしなかった襖は簡単に開き、同時に化け物もばっと立ち上がり、動き出す。奈都貴は全力で駆けながら手に持っていた袋を開け、そこから桃雛を一つむんずと掴んだ。桃雛には邪悪なものから身を守る力があると云われている。もしかしたらこれにも、こんな歪で桃にはどうやっても見えない代物にもその力が宿っているかもしれないと奈都貴は考えた。そう考えることしか、希望を無理矢理でも持つことしか今の彼には出来なかった。絶望に呑まれればこの体は動かない。動かなければ、特別早くも無いが遅いともいえぬ速度で追いかけてくる化け物にあっという間に喰われるだろう。


(頼む、助けてくれ!)

 祈る気持ちで桃雛を来た道へ向かって放り投げると桃雛が眩い光を発し、かと思うとぐんぐん大きくなり、化け物の行く道に立ち塞がった。化け物の悔しそうなききききき、という鳴き声が聞こえる。だがその通せんぼも一時しのぎにしかならぬことを奈都貴は理解していた。何故なら背後からびりびり、という布を裂く音が聞こえたからだ。巨大化したとはいえ、所詮は綿を詰めた人形。あの鋭い爪と気色悪い色をした歯にかかればあっという間に裂かれ、喰いちぎられ、奈都貴への道は簡単に開かれる。びりびりびり、じゃっじゃっ。今は恐らく綿をかき分け突き進んでいることだろう。そして彼の人形の今の姿は、奈都貴の未来の姿となるかもしれなかった。びりびりという音が聞こえた時、奈都貴は自分の腹が食い破られ、臓物を喰われているような気持ちになる。ほんの少しでも時間稼ぎが出来た、という意味では助けになったが一方で自身の精神を攻撃するものにもなってしまった。

 突きあたりを左に進むと、長い廊下と血の染みがあちこちについた、灰色がかった緑色の壁が真っ直ぐ伸び、ずっと先まで続いている。部屋らしきものはどこにもない。ただ只管突き進むより他無いようだ。


 しかしそこはただの壁や廊下ではなかった。


(……げ!?)

 そのことを知ったのは、走りだしてからだった。突然めきめきぐちゅ、という生理的に受け付けない音と共に壁に、廊下に、天井に現れた……いや生えてきたといった方がいいかもしれない――のは、目、目、目。大きな目、小さな目、細い目、吊り目、たれ目、黒い目赤い目青い目、ぎらぎら輝いた目、濁った目、人間以外の生き物の目……どこもかしこも目、目、目!

 彼等は目でありながら蝉の鳴き声に似た音を出し、まともではない状況を更に歪なものにする。そしてその音は聞いているだけで弾けるキャンディーを放られたように頭の中がぱちぱちし、微妙な痛みを訴える。

 天井にある目は雫を垂らす。それは涙などではなく、粘り気があり、腐った魚の匂いがする。靴を履いているがまるで裸足で走っているかのように、目玉を踏む度足にぐにゃりという感触が伝わってくる。ひんやりしていて、ぬめり気があり、その感触が伝わってくる度吐き気がするが目を避けて走ることは出来ない。


 みみみみみみん、ぎいいいいん、ぎいいいいん、じいじいじいじいじい……あまりの騒々しさに、逆に無音に感じる位だ。段々と平衡感覚が失われ、自分が今どこをどういう風に走っているのか分からなくなってきている。もしかしたら今彼は壁や天井を走っているかもしれない、いやそもそも走っていないかもしれなかった。振り返ると、もうあの化け物は大分近づいてきていた。化け物は目玉を踏んだ位で心乱されぬ。

 奈都貴は二つ目の桃雛を取り出すと、えいと放り投げた。化け物の好物でも出て足止めしてくれればいいと願って。眩い光に辺りは包まれ、一瞬で周囲の光景は変わった。

 彼の望み通り、化け物の好物らしいものがあちこちに現れた。葡萄や筍だったら良かったのに、よりにもよって臓物であった。そのグロテスクな臓物は壁廊下天井から生えており、どくんどくんと脈動し、化け物を魅惑する。どうやらそこに先程まであった目が変化したらしかった。化け物は喜びの雄たけびをあげながら、それらをむんずと掴んで喰らう。化け物の目には今、奈都貴の姿は映っていないらしい。それは安堵すべきことだが、これならいっそ目玉の中を走っていた方が良かったと思う。

 臓物はどくんどくんという音をたて、濃い血の匂いを発する。ぐにゃりとして、踏むとぐちゅっという音がし、脈動を感じ、そして生温かい。背後からは化け物が臓物を美味そうに喰らうべっちゃくっちゃという音が聞こえた。


 突きあたりを右に曲がると、眼前に障子が現れた。それ以外には特に何も無い。引き返せば化け物と顔を合わせることになるので、仕方なく障子を開けて中へと入った。それからばっと急いで障子を閉めた途端「ここは安全だよ」という少女の声。息を整えながら奈都貴はその言葉が真実であることを祈った。

 部屋の中は書庫となっており、多くの本棚がずらりと並んでいる。部屋の中を満たす時の流れを吸いに吸った本の匂い。室内は薄暗く、天井で淡い光を放っている灯りは今の奈都貴には自身の命の灯火に見え、ぞっとする。本棚には赤い金属のプレートがついているが、何も書かれてはいない。その本棚に差さっている本は表紙、裏表紙、背表紙どれもこれも無地で、ぺらぺらと中をめくっても何も書いていない。これでは本というより分厚いノートである。本棚を一通り調べてみたが、どれも同じような雰囲気だった。あまりぐるぐる回ったところで意味は無さそうだが、出たところで化け物との鬼ごっこが再開するだけだ。もしかしたらゲームのように、何らかの謎を解いたら変化が訪れるのかもしれない。


 部屋右側の壁には絵画が幾つか飾られている。手がかりになるものかもしれない、と思って一応見てみたがただ奈都貴の精神を削る為だけに存在していただけのようだった。部屋の奥から順に暗闇の中、奈都貴に似た少年が血だらけで倒れている『未来』、森でお茶会をしているウサギ達を遠くから刃物や銃を手に持ちじっと見つめている狼達が描かれている『束の間の休息』、不安になる色遣いで沢山の渦が描かれた『死』、絵でありながら何故か動き、声をあげ、ぎらぎらとした眼を奈都貴に向けているあの化け物の絵『見ている』、上半分が白、下半分が黒で塗り潰されている『希望と絶望』……。


 書庫を一周した後、今度は入口入ってすぐ左側にある机を調べた。脚等に見事な彫刻が施された木製のしゃれた机で羽ペンとインク瓶が置かれている。インク瓶といっても中に入っているのは明らかにインクではなく、実の形が残ったいちごジャムの方が近いかもしれない代物。机の中を調べると、そこには二枚綴りの紙が入っていた。上部にある紙の上の方には『私達の名前は何? 本が導いてくれる。数も大事』と書いてあった。その問いの横には四角が描かれている。恐らくは解答欄だろう。本が導いてくれるといっても、何も書かれていない本が何をどう導いてくれるのだと首を傾げる。とりあえずまた書庫の本に目を通した方がいいのだろうか、と思いながら何気なく見やった壁には絵がかかっていた。その絵は『十二冊の本』というタイトルで、タイトル通り十二冊の本が描かれている。調べてみると奥に何かがあるので絵を外してみると、壁に空いた穴に絵通りの十二冊の本が並んでいた。取り出すと、それらの本は書庫にある本と違ってタイトルも本文も書かれているのが分かる。その本は奈都貴の住む世界に実在するもので、どれも比較的有名な作品だった。だが何もかもがその通りではなかった。


(あれ、どれも猫って文字が消えている……)

 ある本のタイトルは本来『猫所長とドングリネズミ』というものなのだが、何故か猫の部分が消えて『所長とドングリネズミ』となっていた。中をめくってみると本文からも『猫』という単語が消えていた。他の本も全て猫が登場するものなのだが、その単語だけがさっぱり消えており、挿絵からも猫が消えている。

 猫がいない、数が大事、本の冊数は十二冊……。

 まさかと思い、インク瓶を開け謎の赤い液体を羽ペンにつけ『干支』と書くと二枚の紙に文字がびっしりと浮かんできた。どうやら正解らしい。だがそれを答えて終了、というわけにはいかないようだった。紙には『子卯 寅辰 巳 亥 丑子』というようなものが数多く描かれており、最初の二文字は赤字だった。同時に書庫にも変化があり、赤いプレートには数字が書かれ、本の背表紙には数字が書かれたラベルが貼られ、本の中も白紙ではなくなった。


(干支を数字に置き換えればいいのか……?)

 最初の赤い字で描かれている『子卯』なら『十四』。恐らく棚につけられた赤いプレートの番号を指しているのだろう。次の『寅辰』は『三十五』、これは背表紙についているラベルの番号。『巳』は『六』でページ、『亥』は『十二』で行、最後の『丑』は『二』で何文字目。つまり十四というプレートがついている書庫に置かれている三十五というラベルが貼られた書籍の六ページ、十二行二文字目の字。試しに何冊かそれに則って探し、該当する文字を抜きだすと意味のある文章が出来たので残りも同じように探し、文字を抜きだしていった。なかなか骨の折れる作業だった上時々大きな物音がしたり、灯りが明滅したり、本が何もしていないのにどさどさと落ちてきたり、間違った本を開いた途端眼球が落ちてきたりと人の心を削るような出来事が起きもした。

 

 それでも何とか指定された文字全てを抜きだし、二枚目の一番下に浮かび上がった解答欄にその文章を書くと、かちゃりという音が聞こえた。室内に何かしら変化はあっただろうか、と周ってみると二つの絵画に変化があることに気づいた。『束の間の休息』はテーブルやいす、カップなどがひっくり返り、滅茶苦茶になったお茶会会場を逃げ回るウサギ達とそれを追いかける狼達の絵になっており、題名も『休息の終息』になっている。また『見ている』は『見るのはおしまい』という題に変わり、絵から化け物が消えていた。その二つの絵の変化は、奈都貴を不安にさせる。

 奈都貴は絵の前を通り過ぎ、一周回って出入り口の前まで来た。新しい出入り口らしきものは見つからなかった。どうやらここを出、再びあの気色悪い廊下の方へ行くしかないようだ。


 仕方ない、とそちらから出ようとした奈都貴はぴたりと足を止めた。何か黒く、冷たく重い空気が背中にべたっと塗りたくられた気がしたのだ。とても嫌な予感がして、ゆっくりと振り返った。

 そこには闇の塊といえる、あの化け物が立っていた。奇声をあげる化け物、それが号砲となり奈都貴の体を動かした。戸を開け、角を曲がると目玉や臓物は消えており、その他にはなかった壁には襖が現れていた。先程の仕掛けを解いたことで出てきたのだろう。

 一つ一つの部屋を順番に回っていくのが一番良いのだろうが、この緊迫した状況でそのようなことをしている余裕はないだろう。奈都貴は目についた襖をばっと開け、中へと入る。中に入るとそこは畳と壁と襖だけがあった。奥にある襖を開けると、同じような光景が目に入った。走りながら襖を開けては奥へ進み、また開けては奥へと進んでいく。しかし進んでも、進んでも目に映るのは同じ光景。またどれだけ走って進んでも終わりがまるで見えなかった。襖、襖、開けても開けても襖、襖、走っても走っても何も状況は変わらず、背後をひたひたとつける化け物、距離は離れもせずまた縮まりもせず、ついてくる、ついてくる、喰われる、逃げろ逃げろ……。

 いつになっても終わらぬ、そして何も変わらぬ事態に奈都貴は焦りを感じ始めていた。もしかしたらこのまま走っていても、この畳と壁と襖だけの部屋が続くだけなのではないだろうか。幸いというべきなのか、走っても走っても体が限界を迎えて動かなくなることはなかった。非常に苦しいが、一定の速度で走り続けることは出来そうだ。目玉の廊下を走っている時もそうだったので、恐らくこの空間では肉体が限界を迎えて動かなくなるという事態は起きないのだろう。しかし幾ら走り続けることが出来ても終わりがなければいずれ心が限界を迎え、そして心の死が足を止めさせてしまうかもしれなかった。


 根気強く走り続ければ、いずれは何かが変わるかもしれない。しばらくはそれを願って走っていたが、最後にはもうこれはどうにもならない、と諦めた。仕方なく桃雛を一つ掴み、背後にいる化け物へ向かって放り投げた。すると桃雛から白い煙が一気に噴き出し、化け物の視界を遮る。同時に奈都貴の視界も遮る結果となってしまったが、覚悟を決めて化け物のいる方へと走りだした。化け物の横をすり抜け元来た道を戻ろうとしたが、視界が悪かった為に煙を吸ってむせながら暴れている化け物に思いっきりぶつかり、そのまま倒れこんだ。血の混ざった息、冷たくがさがさとした肌、わさわさと絶えず動く百足の髪……。自ら命を脅かす化け物の懐に飛び込む形となった奈都貴の心臓は一瞬完全に停止し、頭は白くなり、死体とそれほど変わらぬ状態になった。が、すぐ持ち直しがちがちに固まった体を無理矢理動かして起きあがると化け物の体を踏みつけて逃げた。化け物が煙に混乱していなければ間違いなく捕らわれ喰われていただろう。その訪れたかもしれない未来の映像は否応なしに奈都貴の頭に入り込んだが、がむしゃらに手と足を動かしながらそれも無理矢理振り払い、置いていった。

 無限ループによくあるパターンで、相当多くの部屋を渡ったにも関わらず元来た道を辿ると、すぐ廊下へと出た。奈都貴は煙がもくもくと立ち込めているその部屋を離れ、少し走ってから適当な部屋にすっと入っていく。


(陽菜がくれた桃雛……こいつのお陰で大分助かっているが……)

 桃雛は化け物を通せんぼし、目玉を好物に変えて足止めし、煙を出して目くらましをしてくれた。しかし一方で巨大化した桃雛を喰いちぎる音は奈都貴に訪れるかもしれない未来を想起させ、臓物だらけの道は心を抉り、自身も視界を遮られたことで化け物を押し倒すことになってしまった。桃雛の守りは奈都貴に希望を与えるのと同時に、奈都貴の精神をじわじわと追い詰めていく。もしかしたらこの桃雛は奈都貴の希望であり、化け物の醜悪な罠であるかもしれない。使わずにいられるならそれに越したことはないのかもしれない。

 しかし、なるべくなら使わない方が良いと思っても使わずにいられないような状況が起きてしまう。

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