エピローグ:蝶は蝶を手に入れる
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胡蝶と出雲は一階のリビングに居た。杏子と『杏』が映画を見、初めて口づけを交わしたソファに腰掛け、出雲はふうと伸びをする。
「ありがとうね、出雲。今回は大分長い間私の『蝶集め』に付き合ってもらっちゃったわねえ。数か月、別にやりたくもないことをやらされて大変だったでしょう」
「構わないさ。むしろ得をした気分だったよ、何せあれ程綺麗な娘と色々出来たのだからねえ。まあどうでもいいもの見せられたり、聞かされたり、縦横無尽に動く奇怪な乗り物に乗らされて散々な目に遭ったり、大変なことも沢山あったけれどね。彼女と会うと何時間も拘束されることになるし。まあこういう恋人ごっこには慣れているけれど」
「貴方男女問わず多くの人間をおとして、堕としたものねえ。大体相手がいる人を」
「懐かしいねえ、昔はよくやったものだ。嗚呼それにしても本当、良い思いもしたけれど大変で面倒な思いも沢山したねえ。手紙を毎日のように書くなんて、もう二度とやりたくないよ。あれは本当に面倒な作業だ。好きな人相手にやれ、と言われても面倒でうんざりするだろう。どうでもいい娘相手じゃ尚更だよ」
「って、あの手紙書いたの殆どおいら達じゃあないか」
「殆ど、というか全部だよね」
リビングのソファの背後にあるテーブルに、いつの間にかやた吉とやた郎が座っており勝手にお茶を淹れて飲んでいた。杏子と杏が出かけたりお茶をしている時はいつも彼等が近くにいて様子を伺い、会話を聞いていた。そしてそれを基に四苦八苦しながら手紙を書いていたのだ。出雲は偶に口を出すことはあったものの筆をとることは一度もなかったし、そもそも杏子からの手紙も読んでいない。手紙は従者の娘に化け、杏子に渡したり彼女から手紙を受け取ったりした。
「あれ、あのお嬢さんは愛しい恋人が真心こめて書いたものだと信じて疑わなかったんだよなあ。可哀想に」
と言いながらやた吉はお茶をごくり。全く同情していないわけではないが、心から憐れんでいる様子はない。隣でうんうん頷いているやた郎も同じようなものだ。そんな二人に「ありがとうねえ、後日ちゃんとお礼するからねえ」と胡蝶。出雲は下僕が私の言うことを聞いて働くのは当たり前、といった顔をしているが後日「興味が無いから」と言って異界では有名な高級旅館への招待券を二人に渡す。
「で、あの『殻』から産まれた蝶はどうだった? 丹精込めて育てた甲斐はあったかい?」
「最高よ、最高! 期待通りの最高傑作。羽も、体も、髪も瞳も悪い部分が何一つとして無いわ。本当……惚れ惚れする程美しいわ。この『ハナオトメチョウ』は」
胡蝶の近くを、飛ぶ一人の……いや一羽の蝶。正しく言うなら、蝶の羽が生えた身長三十センチ程の娘だ。その姿は杏子によく似ている。だがそのハナオトメチョウと呼ばれた娘は杏子よりも妖しく、そして美しい。彼女と並べば杏子さえ普通の人間になる。豊かな髪はより艶やかで美しい輝きを持っており、白い肌は真珠の粉を塗した様。異形の妖しさを湛えながら浮かべる表情は穢れ一つ知らぬ幼子の様だった。羽はステンドグラスの様で、黒く比較的細かい網目模様の中にはめこまれた様々な色は、どれも惚れ惚れする程美しい。その蝶は胡蝶の肩に止まると、にこりと笑む。そしてそれを見ると胡蝶は恍惚の表情を浮かべ、余程嬉しいのか珍妙な笑い声をあげた。
「もうね、もうね本当に美しい子になったわあ。殻を美しく、丁寧に、そして愛情をたっぷり注いで育てれば育てる程美しく育つ蝶。この子ってば育てるのがとても大変なのよ。同じように育てても失敗する時は失敗するし。何羽か失敗作作ったこともあるのよねえ。卵と殻の相性とかがあるのかもねえ。或いは殻と、蝶を育てる為に殻に与えるものの相性か。……本当出てくるまで分からないから正直不安だったわ。杏子は最高傑作だけれど、最高傑作から最高傑作の蝶が出て来るとは限らないから。十七年育てて、期待していたのに失敗作だったら私どうにかなっていたでしょう。でも良かった、本当に良かったわ……頑張って育てた甲斐があった」
「処女の亡骸に卵を入れ、卵を入れられた『殻』を育てる。育てた蝶は殻が処女ではなくなることで『殻』から抜け出す。中にいた蝶によって活動出来ていただけの殻は、動かなくなり元通りの亡骸になる……だったかな」
そうそう、と胡蝶は頷く。杏子の十七年は、胡蝶にとってはハナオトメチョウという異界の蝶育成の十七年であった。
十七年前の夜胡蝶は急に新たにハナオトメチョウを育てたくなり、処女の亡骸を探しにこちらの世界へやって来た。死の匂いを嗅ぎつける蝶と共にそれを探したが、なかなか見つからない。しかもその亡骸は出来るだけ新鮮なものが良い。ある程度は蝶が生きる為に『殻』を修復するが、あまりに痛んでいればどうにもならない。昔みたいに死体がそこらにごろごろしている世の中だったら良いのにと胡蝶はぼやいた。これはもう死体を『作って』卵を入れるしかないな、と思った時蝶がある家を目指して飛んで行った。蝶を追っていくと一軒の家へと辿り着いた。そこに居たのが、眠っている間に死んでしまった杏子だった。
何という僥倖、と胡蝶は早速諏訪部家に忍び込んだ。そして泣き叫ぶ両親の前に現れるとちょっとした遊び心で『天女』を名乗り、杏子を生き返らせると称してハナオトメチョウの卵を彼女の体の内に入れた。
「産まれて間もない赤ん坊だったお陰で、じっくり育てられたわ。まだまだ空っぽの『殻』だったから、より色々あげたものの影響を受けたのかもしれないわねえ。しかもきちんと良い方向に作用したようで、良かった! 丁度よく死んでいたことに感謝、感謝ねえ!」
しかし蝶が育ちきる前に『殻』が男と交われば、どれだけ半端な形だったとしても蝶は殻から出てしまい、あっという間に死んでしまう。だから胡蝶は両親に「杏子は男と交わると死ぬ」と言い、守りの蝶をつけた。また殻があんまり傷つくと中の蝶にも影響する可能性があるので、故意に彼女を傷つけようとする者が現れた時も守りの蝶が現れるようにした。胡蝶は大嘘吐きだったが、男と交われば死ぬという点は真実だった。両親も杏子も胡蝶を神のように崇め、慕い、彼女の言うことなら何でも聞いた。そして彼女の言うことは何でも信じ、疑いもしなかった。
そして十七年後、蝶がほぼ育ったことを感じ取った胡蝶は出雲にお願いし、杏子の『運命の人』を演じてもらうことにした。無理矢理襲おうとすれば蝶の守りに阻害される。また、オカルト的なもので根拠はないがハナオトメチョウを殻から出す時は、殻が心から愛した者に抱かれた方が良いとされていた。恋をさせるとより美しくなる、とも。
「あの子は杏……化けた出雲を一目見て恋に落ちた。貴方を運命の人、と思ったことでしょうね。その運命が仕組まれたことも知らずに。彼女が抱いた恋心も、作り物だしね」
胡蝶の手にはいつの間にか青い液体の入った小さなガラス瓶があった。その蓋を開けると、肩に止まっていたハナオトメチョウはきゅうにとろんとした表情になり、そしてふらふらと飛ぶとその瓶に頬ずり。その様子を可愛いわ、本当可愛いわと言いながら胡蝶は眺める。
「私はハナオトメチョウが好むこの匂いをたっぷりと出雲につけた。殻の中にいたハナオトメチョウはそれに反応し『杏』に惹かれた。それをあの殻は恋心と錯覚してしまった……それだけなのよねえ」
胡蝶と杏子が街へ出かけた時、出雲は気配を隠してずっと後ろをついてきていた。そして胡蝶が杏子から離れた時、杏という架空の人物に化けて道を聞いた。ハナオトメチョウは自分の好きな匂いのする彼に惹かれ、それを杏子は恋心と勘違いした。そして杏子はその恋心を募らせていく。彼女は再び杏と会うことを強く望んだ。だが一方でそれは叶わぬことだと分かっていた。そうして散々じらし、想い膨らませた後杏子は、実は気配を消して後をついてきていた杏と再会する。会えないと思っていた人に思いもかけぬ場所で再会した上、相手も同じ気持ちだと聞かされた杏子は『奇跡』と『運命』を感じた。名前も『偶然』にも共通しており、更に彼に唆され彼女は自分の秘密を話した。それによって杏は自分の秘密を唯一知る外部の者となり、一番の理解者になる。彼女の心はどんどん杏へ傾き、彼女の一番は徐々に彼に変わっていった。
「で、あのお嬢さんの心は徐々に親や胡蝶の姐さんから離れていった。何せ三人は自分の恋を絶対に認めてくれない人だからね。しかも日常的に恋はするなとか心配させるようなことはするな、としつこい位聞かされるんだから、うんざりもする。元からうるさいなあって気持ちもあったんじゃない? でもそれより大切に想う気持ちの方が強かったから、それを感じることはあまりなかった」
やた吉は杏子が買ったお菓子をぼりぼりと食べている。胡蝶もそれを一つ貰って口へと入れた。
「自分と愛する人を引き剥がしかねない存在でもあるからね。自分にとって都合が悪い存在になった途端、心は離れていく。自分の全てを知り、かつ理解してくれる『運命の人』である杏を好きになればなるほど、私達を疎ましく思う気持ちは強くなった。そこに加えて、杏の『天女を信用しすぎない方がいい』という言葉。これによって私に対する不信感も募っていったと。もうこの頃になると彼女にとっては私の言葉より、杏の言葉の方が大事になっていたしねえ」
そして蝶が『出し頃』になった時、胡蝶はわざと杏子に『男に抱かれたら死ぬのは嘘』という大ほらを聞かせるのだ。それにしても驚いたわよ、と胡蝶。
「なんだってあの日あの子ってば桜町に来ていたのかしら。神社でぼけっとしていた貴方を見つけて今後のことを話していたら、あの子の気配がしたものだから驚いちゃったわ」
「喫茶店にでも行っていたんじゃない? 彼女に何か用があるとすれば、あそこ位だろう」
「そうねえ確か前あの店のことを話した気がするし、一度行ったことがあるはずだし。あそこの珈琲とお菓子、美味しいわよねえ。そっか、そっか……まあそれ位しか考えられないわよね。でも、丁度来てくれたお陰で助かっちゃった」
本来はあそこで杏子に聞かせるつもりではなく、別の『舞台』を用意しそこで聞かせるつもりだった。そのことについて桜山神社にふらっと立ち寄っていなり寿司を食べていた出雲と話していた時、杏子の気配を感じたのだ。胡蝶は自身の持つ強力な妖力で杏子を引きつけ、彼女を神社まで誘ったのだった。
「あんなお粗末な隠れ方じゃ私達はごまかせないわね」
「本当に。もう笑いをこらえて喋るの、大変だったんだよ」
私もよと、胡蝶はその時のことを思い出したのかぷくくと笑う。性格悪いなあ二人共、とやた吉はため息。そんな彼等の策にまんまと嵌った杏子は胡蝶の言葉を信じ、両親が外出している時に杏を呼んだのだ。
「あの夫婦が丁度よく家を空けてくれたから、助かったわ。まああれがなくても、私が二人が家を空けるように何かしら仕組んだけれど。……それにしても愚かな娘。私に不信感を抱いていたくせに、自分にとって都合の良い発言は信じてしまうなんてね。ま、世の生き物なんてそんなものか。『真実』だと思いたい、真実でなければいけないと思う程までに貴方を愛させたのだしね。あの子は相当貴方のことを求めていたから。半端な愛じゃ、怖くて試すことが出来なかったかもしれないわ」
両親がおらず、胡蝶も来ない。しかも胡蝶は例え自分を裏切ったとしても杏子を殺したり、酷い目に遭わせたりするつもりはないと発言している。都合の良いことが重なった為、杏子はほぼためらうことなく杏を自宅へと招いた。彼女はもう胡蝶を裏切ることに何の痛みも覚えていなかった。そうするように胡蝶と出雲は仕向けてきたのだ。
胡蝶を慕い、神の様に崇める気持ちは蝶を育てている間は何かと都合が良かった。だが蝶を取り出す時には邪魔なものである。胡蝶を慕う気持ちがそれなりに残っていると、例え彼女が嘘を吐いていたことを知っても最後の一線を越えることをためらったかもしれない。胡蝶にとって愛しい蝶が穢れるのは耐えがたいことであり、酷い裏切りであるから。両親を大切に想う気持ちがあまりに強すぎてもまた、ためらったことだろう。だが杏を想う気持ちは杏子を胡蝶や両親から引き剥がした。だから彼女は迷わなかった。迷わなかったからこそ、蝶の守りを拒絶出来たのだ。
「あの子が心のどこかで迷っていたら、本人は杏に抱かれることを『受け入れた』つもりでも蝶の守りは発動していたことでしょうよ。あの守りは強固なものだから。そしたら貴方も危なかったかもねえ。ま、別にあらかじめ引き剥がしていても良かったけれど、そうしたら彼女も気づいて怪しんだかもしれないし。出雲が守りの蝶にやられてあたふたする姿もちょっと見てみたかったからねえ」
とけたけた笑う。出雲は君は本当に君は良い性格をしているよとため息。
「出雲の旦那と胡蝶の姐さんってそういう所本当そっくりだよねえ。……で、あのお嬢さんはどうするの? 寝具から転がり落ちて亡くなったんでしょう? しかも裸で」
「別にどうする気もないけれど。私にとって大切なのはこの子であって、殻ではないわ。殻に向けた愛は蝶への愛だもの。まあ、服位着せて布団の上に戻してやろうかしらねえ。ああ、私ってば優しい女ねえ」
「あのお嬢さんの親、死んだ彼女を見たら悲しむだろうね」
「そりゃあ悲しむでしょうね、私にとってはただの殻だけれど彼等にとっては自分達の命より大切な花ですもの。でも彼等がどれだけ悲しもうと知ったことではないわ。……杏子にしても、彼等にしても人ならざる者を軽く見すぎよ。我々のことは、彼等のものさしでは決して測れない」
「それは私も杏子に言ったのだけれどねえ。でも彼女も本当の意味では理解していなかったんだよ。理解出来るはずもない。何故なら彼女達は人間で、私達は異界の者。人間は人間にしか理解出来ず、異界の者は異界の者にしか理解出来ない。どれだけ異界の者と接していても、分からないものはどうやっても分からないんだ。さて、もうそろそろここを出よう」
「そうね、いつまでもここにいても仕方無いものねえ。そうだ、出雲。これからちょっと遊びに行かない? ハナオトメチョウお迎え記念に」
「いいねえ。一杯どこかで飲むのもいいかもしれない。やた吉、やた郎お前達もおいで」
了解、とやた吉とやた郎は立ち上がり丁寧に茶を飲むのに使ったコップを洗い、菓子袋を片付けた。そして出雲と胡蝶は杏子に服を着せ、ベッドに寝かせてやる。それじゃあねえ、杏子。さようなら、と胡蝶は『とりあえず』といった様子で手を振ると部屋を出た。出雲に至っては何も言わない。ハナオトメチョウは杏子にぺこりとお辞儀して『サヨナラ、アリガトウ』とたどたどしい日本語でそう言って出て行った。
そして四人は闇の中へと消えていく。
次の日の夕方近く、友人にお土産を沢山持たされて帰ってきた両親が「ただいま」と言って戸を開ける。
一階には杏子はいない。名前を呼んでも、返事が無い。寝ているのか勉強中か、或いは出かけているのか。とりあえず様子を見てみようと二人は二階へ上がる。部屋の鍵は開いている。
杏子、杏子と愛しい名前を呼びながら二人はドアを開け、そして……。