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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
蝶よ花よ
333/360

蝶よ花よ(6)

 

 そして――杏子にとって『運命』の日が訪れる。

 両親は学校から帰ってきた杏子を迎えると、入れ違いになるように両親が家を出た。玄関のドアを閉める直前、母が心配そうな表情でこちらをちらりと見る。杏子が本当に恋をしていないか、その人物をこの家に招き入れようと考えてはいないだろうかと未だ不安に思っているのだ。大丈夫よ母さん、私は死なないわと心の中で言いながら微笑み、手を振って二人を見送った。

 それから三十分程経った後、杏子は例の喫茶店の前で待っている杏を迎えに行った。彼の姿を見た瞬間、今日は彼とずっといられることを実感し喜びのあまり飛びつく。勢いよく自分の胸に飛び込んできた彼女を杏は苦笑いしながら抱きとめてくれた。その温もりが杏子の中で燃え盛る炎を大きくする。


 私はこの人のものになりたい、この人を私のものにしたい。手を握って抱きしめあうだけじゃ足りない、もっと、もっと、もっと、全部、一つ残らず欲しい。もう友達という名前にしがみついていたくはない、我慢もしたくない、大丈夫私は死なない、死なないなら何の問題も無い。

 今すぐこの人の全てを、私の全てを。私はこの炎でこの人の全てを燃やし尽くす、私もろとも。


 杏子と杏はレンタルビデオ店でDVDを借り、家で食べる為のお菓子を買ってから家へ向かった。家に帰ったら胡蝶がいた、などということがあったらどうしようと若干不安ではあったがそんなことはなく、誰もいない静かな家一つだけが二人を迎える。杏子はオムライスを作り、二人でそれを食べた。母が何かすぐに食べられるものを作っておこうかと言ってくれたのだが、こうして彼に手料理を振る舞いたいが為に断っていたのだ。惚れ惚れする程美しい所作でそれを食べる彼から「美味しいよ」という褒め言葉を貰い、嬉しくて、だけど少し照れくさくて、顔がかあっと熱くなる。


「月並みの言葉だけれど、きっと君は良いお嫁さんになるよ。君の旦那さんになる人は幸せだろうね」


「あら、訳ありの私と結婚してくれる殿方なんて誰がいるのかしら」


「僕以外に誰かいる?」


「いるわけないじゃないの。貴方位よ」

 そう言って二人で笑う。きっと杏は叶わぬ夢の一つを話しているつもりだろう。だがその夢は現実に出来るものだ。それを今すぐにでも言ってやりたかった。だがもう少し、サプライズはギリギリまでとっておくのだ。夕飯を食べた後はお菓子をつまみながら二人でDVDを見る。一本目は以前映画館で見たアニメ映画を製作している会社作の長編アニメ、二本目は有名な恋愛映画。ソファに腰かけた二人は寄り添い合い、お互いの体温を感じながら映画に見入っていた。男の人と一緒に恋愛映画を見る――この家で決してしてはいけない行為を今、こうして堂々としている。禁忌を犯すことの何と甘美なことか。


(嗚呼、夢みたいだわ。こうして自分の家で彼と一緒に映画を見ているなんて。今頃父さんと母さんは友達と楽しくお喋りしながらお酒でも飲んでいるのでしょうね。そうしている時、自宅で娘が言いつけを破って男の人と一緒にいるなんて夢にも思っていないでしょう。母さんはまだ心配しているかもしれないけれど)


「なんだか、とてもいけないことをしている気分」


「おや、いけないことだろうこれは。しかも今までで一番いけないことだよ。男の人をこの家に連れ込むなんて。しかも二人きり、他には誰もいない時に」

 くすり、と杏が笑う。その妖しい声で囁かれると「いけないこと」という単語が、この世で最も淫らな言葉に聞こえる。そしてその言葉は杏子の体を疼かせた。ごくり、と唾を呑みこむ。


「……心から愛する人と一緒にいることの何がいけないことなのかしらね。とてもいけないことをしている気持ちだけれど、でも本当は少しもいけないことではないはずよ。皆は当たり前のようにしていることなのに、私がするのは許されない」


「可哀想だけれど、仕方の無いことだよ。……男に抱かれれば死ぬ運命だもの、男を出来る限り近づけたくない気持ちは分かるよ。例え絶対手を出しませんという誓約をさせても、もしかしたらと思ったら不安でならなくなるだろう。君のご両親も、天女様も君を失いたくはないんだ。彼等にとって君は大切な宝物なのだろう。……一度その宝物を失った苦しみを、ご両親は知っているから、尚更恐れ、君の変化に敏感になることだろう。杏子、僕だって本当は君の全てを欲しいと思っているよ……僕は君を誰より愛しているもの。それに僕は男だからね、どうしたって求めてしまうよ。いっそ君が死んでもいいから、そんなことを思うことだってある。でも僕は君を失いたくない。……だから、だからこのままでいい。誰にも知られないまま、許されないままの恋で構わない。我慢だよ、杏子。もしかしたら、いつか、君が死なずに済む方法を見つけることが出来るかもしれない」

 そう言って隣に座る彼は寂しそうに笑う。そんな彼の頬に杏子は静かに触れた。もう一時だって我慢など出来ない。全てを話そう、そう思った。


「……私、友達はもういやよ。それはおしまいにしたい」


「そうだね、もうその名前はおしまいにしてもいいかもね。君と僕は今日から秘密の恋人同士だ」

 それじゃあ、友達の時はしなかったことをしましょうと杏子は言った。今日の君は随分積極的じゃあないか、とやや困惑した様子を見せながら杏は杏子に口づけた。彼の温もりが唇を通じて流れ込む。体がマグマでも流し込まれたかのように熱くなり、その熱に杏子の体は喜びの叫び声をあげる。もうTVから聞こえる声も、強く抱きしめあって口づけている姿も二人には聞こえていないし見えていない。

 今まで我慢していた分、とばかりに何度も口づけた。それはずっと望んでいたものだったのに、何度何度されてももう杏子は満たされなかった。彼女の中にある炎が激しく燃え盛る、もうそれは杏の全てを手に入れなければ収まることはないだろう。もう足りない、口づけだけでは足りない、足りない、もっと、もっと、もっと……!

 静かに唇を離した杏が、いきなりこんなにごめんねと恥ずかしそうに目を逸らし頬を赤らめながら言った。そんな彼に自分から口づけて、ごくりと唾を呑みこんでから杏子は口を開いた。


「ねえ杏、私の全てを貰ってちょうだい」


「え?」


「この先のことをしましょう。私、もうそうしなければ満たされないわ」


「何を言っているんだ、杏子。そんなことしたら……だって……僕は君を死なせたくはないと」


「死なないのよ! 私、男の人に抱かれても死にはしないの! 胡蝶様……天女が嘘を吐いていたのよ、私を穢れなき作品のままでいさせる為に! 偶々あの人が誰かと話しているのを私、聞いたの。……あの人は私が自分を裏切ったら縁を切るとも言っていた。特にこちらに危害を加えることはしない、そう言っていたわ。嘘じゃないわ、本当よ。貴方に抱かれたいから嘘を吐いているわけじゃない。私だって死にたくはないもの……貴方とずっと一緒にいたいもの」

 杏は杏子の告白に面喰っているのか、目をぱちくりさせている。こんなことを突然言われたら誰だって戸惑うだろう。杏は彼女の言葉の真偽を見極めようと、口を固く結びじっと自分を見ている杏子の目を真っ直ぐと見た。

 しばらくお互い何も言わなかったが、ふう……という息を漏らしてから杏が口を開いた。


「……良いんだね? 後悔は、しないね」


「ええ、後悔などするものですか。高校生でこんなこと……と思わないこともないけれど、構わないわ。もうどうなったって構わない。ずっとずっと私は我慢し続けてきた。もう、我慢なんてしたくない。杏、私の全てをもらって。そして貴方の全てを私にちょうだい」


「もう、止まらないよ」


「いいわ、それで。私は貴方のものになって、あの人の手から逃げるの。私は本当の意味で自由になるんだわ」


「それじゃあ僕は囚われのお姫様を救いだす王子様だね」

 ええ、そうねと二人で笑う。

 二人は二階にある杏子の部屋へ行った。昨日胡蝶に髪を梳かしてもらったこの場所で、彼女が最も望まなかったことをするのだ。夜の濃い闇が部屋の中を満たし、月光はカーテンに阻まれ入り込めない。

 そこで杏子と杏は結ばれた。杏子に拒絶された守りの蝶は彼女の体から出ていくと、窓をすり抜け外へと出て行った。胡蝶のもとへ帰っていったのかもしれない。彼等が帰った時、胡蝶は全てを察するだろう。そして怒り、憎み、嘆き悲しむだろう。でもそんなことはどうでも良かった。杏の全てを手に入れることより大切なものなど何もない。

 何があっても絶対離れるものか、自分達は二人で一人なんだと言わんばかりにお互いの手を固く握りしめる。その間は杏への想いが溢れて止まらず、幸福とか嬉しいとかこの世に存在する言葉では言い表せない気持ちでいっぱいになる。強く激しい想い満ちる頭はかえって真っ白で何も無いようになった位だ。あまりの想いに体が引き裂かれそうになり、悲鳴をあげて死にそうだ。でも死んだって構わない、彼への想いに殺されるなら本望だ。

 杏子は燃え盛る炎で杏を燃やし、そして杏の炎に焼かれる。自分の想いと、相手の想いで二人は滅茶苦茶になった。それは二人にとって最高の幸福だった。

 最後、杏子は自分が胡蝶の美しい手が作る檻から抜け出し、青空へと飛んでいったのを感じた。


 荒い息を吐く杏は「これでもう、全部僕のものだね」と微笑み、杏子に口づける。闇は彼をもっとも妖しく、美しくする。闇に照らされ浮かび上がった恐ろしさも、得体の知れなさも杏子にとっては彼を輝かせる装飾品であった。天女の手を逃れ、一番の望みを叶えることにも成功した杏子は喜びの涙を零して彼を抱きしめる。


(ほら、何ともない。やっぱり私は死なないんだ……あの人の言うことは嘘だったのよ)

 強く、強く彼を抱きしめる。これで二人は永遠に一緒、運命の人と私は死ぬまで生きられる。

 その直後だった。どくん、と心臓が今まで聞いたこともないような音をたてた。そしてその時心臓がまるで爆発して無くなってしまったかのように、急に息が出来なくなった。


「あ……あ……」


「杏子? 杏子!?」

 杏子を抱きしめていた杏が異変に気づき、ばっと体を起こした。


「あ、あ……く」

 苦しい、苦しい、苦しい。露わになった胸の辺りをおさえ、口から苦悶の声をあげ、足をじたばた動かしベッドのシーツをかき乱す。苦しい、という言葉さえまともに出なかった。みっともない位もがいても苦しみは消えず、むしろますます酷くなっている気さえした。

 何故、どうして。杏子は訳が分からなかった。胡蝶は確かに「男に抱かれたら死ぬというのは嘘」と男に話していた。それなのに苦しくて仕方が無い。そしてその苦しみは杏子を『死』へと引きずり込んでいる。

 胸が焼けるように熱い。今の今まで彼女の胸の内にあったあの激しい炎とは違う――死、という名の炎に焼かれているようだった。その熱はすさまじい痛みを杏子に与える。形容出来ない程痛いのに、悲鳴をあげることさえ出来ない。更に杏子は自分の中で何かが暴れ回っているのを感じた。得体の知れぬそれは自分の体から出たがっているようだ。もしかしたら胡蝶が杏子を助ける為に入れた魂が出ようとしているのかもしれない。死が音をたてて近づいてくる。このままでは間違いなく自分は死んでしまう。


(嫌、嫌、死にたくない……死にたくない!)

 死を追い出そうと杏子は暴れ狂った。杏が近づけない位に。

 助かりたい、生きたい、死にたくない。とうとう杏子はベッドから転がり落ちた。だがもうその衝撃も、痛みも感じない位苦しい。そんな彼女をベッドから離れていた杏が見下ろしている。


「た……て……きょ……」

 杏子は必死に彼へ向かって手を差し伸べる。しかしその手を杏はとってくれなかった。声もかけてくれないし、助ける為に何かしようともしない。人形の様に棒立ちになっている彼の顔は驚く程冷たい。とても死の淵に立たされ、苦しむ恋人に向ける顔ではなかった。深い闇はその顔をより冷たくし、鋭利な刃物となって杏子の胸を深々と何度も刺す。

 どうして、どうしてそんな顔をするの。ねえ、杏、杏! 助けて、私を助けて、お願い、死にたくないの、助けて、助けて!

 そんなことを叫ぶことさえ出来ない。やがて胸からびきびき、というとても嫌な音が聞こえた。何かが彼女の胸を破り、外へ出ようとしている。肉を裂かれるようなすさまじい痛みに涙が溢れて止まらない。

 杏子を杏は黙って見下ろしている。冷たい瞳の中には蔑み、憐みも含まれている気がした。そんな彼の背後にいつの間にか女が立っていた。女の周りには今の今まで杏子を守っていた、虹色に光る蝶が飛んでいる。その光に照らされた姿……長い黒髪、蝶の髪飾り、蝶の刺繍が施された黒い着物。その姿を見て杏子は目を大きく見開いた。


「こ、ちょ……」


「あらあら。まるで死にかけの蝉みたいねえ」

 女――胡蝶は杏子の姿を見ても眉一つ動かさず、冷たく笑う。その蔑みの表情を今まで杏子は彼女から貰ったことなど無かった。死にかけの蝉――それは守りの蝶により悪夢の中に閉じ込められた人間が悶え苦しむ様を評した姿。醜い、蔑まれて然るべき姿。自分とは無縁だったはずの姿。

 胡蝶は自分と杏子の間にいる杏の方へ近づき、そして彼を後ろから抱きしめる。杏は驚きもせず、また拒否することもなかった。まるで胡蝶のことを知っている様子に、驚きを隠せない。

 

「だから僕は言ったのに。……天女の言うことも、僕の言うことも信じすぎてはいけないと」

 そう言った瞬間、杏の体がぐにゃりと歪んだ――気がした。そして瞬きする間に彼の姿はすっかり変わっていた。今胡蝶に抱かれているのは杏ではなく、長髪で細身の男だった。一糸まとわぬ姿から、藤色の着物を着た姿へ。そして髪の色も同じく藤色で、瞳は血の様に赤い。

 桜山神社で胡蝶と話していた男だった。

 どうして、何故、何故。杏子の瞳は驚愕に大きく見開いた。


 びきびき、と嫌な音がする。実際に肉が裂けているわけではないが、本当に裂けているのと同等の痛みが杏子を襲い続ける。その中で彼女はあることに気づいた。


 杏の名前は上藤杏。

 上藤。かみふじ……髪藤。目の前にいる男の髪は、綺麗な藤色だ。

 杏子は全てを悟った。


 杏は確かに運命の人だった。だがそれは作られた運命であり……また、その運命の名は『死』であった。ばりばり、というすさまじい音と共に杏子の体から何かが抜け出る。杏子は涙一つ零し、そして動かなくなった。

 永遠に彼女は動かない、生き返らない。絶望しながら、愛など一つも無かったことを悟りながら逝った。

 そして彼女の体から抜け出したものはふわふわ飛んで、胡蝶の眼前まできた。胡蝶は杏だった者――藤色の髪の男――出雲から離れると、それをぎゅっと抱きしめた。嬉しそうに笑いながら。


「いらっしゃい、私の蝶。やれやれ、ようやく手に入ったわ」

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