蝶よ花よ(5)
*
青い空を裂くように進むジェットコースター、御伽の世界を閉じ込めた様なメリーゴーランド、くるくる回るコーヒーカップ、水の都をイメージしたコースを周るゴンドラ、シューティングゲーム、昼のパレード……有名なテーマパークで杏子は杏と一日を過ごした。杏はジェットコースターに乗った後げっそりし「人の世には何て恐ろしいものがあるんだ……」とぼやいていた。コーヒーカップでも盛大に目を回し、ふらついていた。基本的に激しく動くものは得意では無いらしい。杏子はふらふらしている杏を見て申し訳なく思ったが彼はにっこり笑って「大丈夫、色々衝撃だけれど君と一緒なら何でも楽しい」と言ってくれたので、きっと大丈夫だろう。とんでもなく恐ろしいことで有名なお化け屋敷に入ったが、怖いと言って泣きだすこともなく出口まで来てしまった。
「いきなり人が出てくるから驚いてしまったけれど、それほど怖くなかったわ。以前別のお化け屋敷に入った時は叫び通し叫んでいたのに。まああの時はとっても怖がりな子が一緒で、その子が終始怖い怖いって泣き叫んでいたから……それが伝染してしまったのかもしれないわね。実際本当に自分が心から怖いと思っていたかというと……微妙かも」
「本物を知っている君があんな作り物で怖がるものか。おっかない格好をしている偽物より、そこらにいる人間とほぼ同じ姿をした本物の方が恐ろしいだろう」
そう言って杏は微笑む。冷たさと妖しさと得体の知れなさを感じるその笑みが、杏子に『本物』を教えてくれる。成程、確かにこのような笑みを幼い頃から何度も見てきたのだから、そこらの偽物など見ても何とも思わないだろう。血糊をべっとりつけた女より、グロテスクなメイクを施した男より、隣でソフトクリームを美味しそうに食べている青年の方がずっと恐ろしい。どれだけ愛しても、その気持ちは無くならない。
(でも彼が人ならざる者でも、私達とは違う世界で生きている人でも、構わないわ。杏だから、いい。私は彼を愛しているもの。人でない部分も、恐ろしい部分も、全てひっくるめて杏だわ。一つとして切り離してはいけないの、だって切り離したらそれはもう杏ではないもの)
杏は片方の手を杏子に差し伸べる。さっとこちらも手を差し出せばそれを優しく握ってくれた。冷たいが、温かい。熱いとさえ思うのは、そうして彼と手を繋ぐことで自身の体温が上がっているからかもしれない。手を繋いで歩く姿を他人に見られても恥ずかしいとは思わない。むしろ見てくれ、とさえ思う。明かせない恋、でも誰かに見て欲しい恋だから。首飾りの力で杏子だとはばれないから何も問題ない。
最後はプラネタリウムに入り、一面に映る美しい星々を見た。語られる星座の物語、流星、天の川。いつか二人でここに映し出されているような美しい本物の夜空を、今しているように手を重ねながら眺めることが出来たら良い、と思う。どこか遠くへ二人で旅行にも行きたいし、彼を自宅に招きたいとも思う。だがそれを叶えることは少なくとも今は無理だろうし、時子達とダブルデートをするというささやかな夢はまず叶わない。未だ絶えぬ自分に言い寄る醜い男達を一蹴するのに「もう私には恋人がいるから」という言葉だって使ってみたい。そう言ったら彼等きっと驚くだろう。その間抜けな驚く顔を是非見たい。でもそれは嘘でも言えなかった言葉だし、これからも言えないだろう。
一を得れば十が欲しくなり、十を得ればもっと多くを欲しがる。隣に座り幻想の星を眺める杏の横顔を見ていると、あれも欲しいこれも欲しいと内に居る我侭な自分が顔を出し、駄々をこねる。
初めはただ『もう一度会いたい』と願っただけだった。次は『また会いたい』に変わった。その後は会っても、会っても、満たされなくなっていった。会えば会う程杏子は我侭になり、多くを求めていった。会って話をして、笑って、こうして手を繋いでいるだけじゃ足りない。もっと多くの幸せが欲しい。
『友達』じゃもう足りない。言い訳に使う為にそういう名前になっているだけで、もう友達以上のものになっている。でももう自分に言い訳なんてしなくても大丈夫な位開き直っているから、そろそろ『友達』以上の名前が欲しかった。そしてより多くを求めたい。
強く抱きしめてもらいたい。口づけてもらいたい。それよりも先のことも考えている。それをしたら死んでしまうことは理解している。だが理解しているのは頭だけで、心は理解してくれようとはしない。いっそ死んでも構わない、だから彼に自分の全てを捧げたいと内に居る杏子は叫んでいる。そしてその叫びに負け、衝動的に口に出したくなる。しかし幾ら杏のことが好きでも、彼に抱かれるなら本当に死んでしまっても構わないのかと問われれば首を横に振るしかない。衝動的にそれを求めるけれど、死にたくはない。両親や胡蝶に怒りを覚えもしたが、心から彼等を憎く思っているわけではない。杏子とて出来ることなら彼等を泣かせ、苦しませたくはないのだ。杏の手を握る手に力が入る。全てが欲しい――こうして隣に、手の届く場所に彼はいる。なのに全てを得られない。杏子の中で燃え上がる欲望は、誰にも見られてはいけないし、外へ出してはいけない。誰も燃やしてはいけない。
杏子は生きたい。杏と共に生きていきたい。死にたくはない。だから、耐える。耐えねば絶える。
(杏が欲しい。もっともっと欲しい。私の運命の人――もっと強く、激しい愛が欲しい。けれど……嗚呼、どうして肉体関係を持ったら死んでしまう体になってしまったのだろう。赤ん坊の時死んでさえいなければ、私……そんなこと考えてもどうしようもないのに。運命は一つだっただろうに。でももし他の運命があったら、私どうなっていた? 普通に恋が出来ていて、両親からも応援されて、友達も沢山いて、恋の話も沢山出来ていた? けれどその運命に杏はいるかしら。時子もいるかしら……)
幻想の星空は美しく、だから余計悲しくなる。美しいものは傷心に沁みる。だがそうして沁みれば沁みる程、可哀想な自分に酔っていく。
嗚呼、嗚呼いっそ。悲劇に酔う心の内の杏子は叫ぶ。まるで舞台に立っている主演女優の様に、仰々しい身ぶり手ぶりをつけながら。
いっそ胡蝶が両親に言った「男と肉体関係をもてば死ぬ」という言葉が嘘であればいいのに、と。その願いを虚構の星だけが聞いていた……。
*
その遊園地デートの次の日。昨日会って遊んだばかりだというのに、もう杏に会いたくてたまらない杏子だった。遊園地から帰った後も本当に女友達と行ったのかと母に問い詰められ、うんざりしていた。そんな可哀想な自分を慰めてもらいたくもあった。彼は本当に麻薬の様な人だと思う。一度得たら手離せず、より多くを得なければ満足しなくなっていき、もういなかった時のことなど考えられなくなる。そして彼がいる時は幸福でいっぱいで、頭も体もふわふわしている。でも別れれば急に体の中が空っぽになって、叫びたくなる位辛くなった。もう杏子は彼無しでは生きられない。彼を失うなら、生きていても意味など無いと心から思う位に。
寂しくて、苦しくて仕方ない。そんな思いを紛らわそう放課後舞花市にある本屋を訪ねた。本を物色していると少しだけ心が落ち着く。幾つか面白そうな本を見つけた後、そういえばまだ新刊コーナーをじっくり見ていなかったと思って見てみれば、好きな作家の新作を見つけ気分が高揚する。そういえば発売されたのだったわよね、と平積みされたそれに手を差し伸べた瞬間。
どかっという何かがぶつかる音を背後で聞き、驚いて振り返った。見れば人が床にうつ伏せになって倒れている。どうやら盛大に転んだらしい。周りの人の「なんだびっくりした」「大丈夫か?」という視線を集めながら起きあがったのは、東雲高校の制服を身に纏った少女だった。あちこちはねた髪に、大きな眼鏡、買い替えた方が良いのではと思える位ぼろぼろで汚れている靴、というおしゃれとは程遠い姿。その少女に杏子は見覚えがあった。以前桜町のはずれにあった喫茶店――胡蝶に教えてもらった、化け狸が働いているという店を訪れた時に見かけたのだ。その店のマスターと楽しそうにおしゃべりしており、耳に入ってきた会話からどうやら彼の孫であるらしいことを理解した。
「貴方、大丈夫?」
手を差し伸べると少女は恥ずかしそうに笑いながらその手をとった。ゆっくり立ち上がった彼女は転んだ拍子に離し、盛大にすっ飛ばしたらしいカバンを回収した。
「ご、ごめんなさい私ったら……今日好きな作家さんの新作の発売日で……! もう今日は授業にも部活にも集中出来なかった位楽しみにしていて、それで本屋さんが近付いたら自然に走っていて……お店の中に入った途端足がもつれて転んでしまいました。よくあるんです」
とゼエゼエ言いながら聞いてもいないのに説明してくれた。流石に好きな本の発売日に本屋へ向かって猛ダッシュしたことはないわ、と杏子は思った。少女はなんどもぺこぺこお辞儀してお礼を述べると、息を切らしながらも早足で売り場へ行き、平積みされていた本の内の一冊を手に取る。偶然にもその本は杏子が買おうとしていたものと一緒だった。
「あら、それが目当てだったの。実は私もそれを買おうとしていたのよ」
同じ作家を好きなことがなんだか嬉しくて思わず口に出すと、直後尋常ではない位きらきら輝いた瞳が迫ってきた。予想以上の食いつきっぷりに面喰う。
「まあまあまあ、そうだったんですか! この作家さん素敵ですよね! 世界観も好みなんですけれど、文体がとても好みで! 古風な言い回しが多くてなんか受け付けないって人も多いんですけれど、私はこのちょっと古めかしい言い回しが好きなんです! 現代を舞台にしているけれど、一昔前の小説っぽい感じ、なんかよくて、あ、作品は何が好きですか!?」
すさまじいパワーに押され、好きな作品を答えると「それとっても良いですよね!」と眩しい笑みを浮かべながら彼女は言い、その作品に関する感想を延々と述べる。息を吸う時間さえ惜しいと思っているのか、殆ど息継ぎなどしていない。こちらが何か言うと、十倍以上の言葉が返ってくる。杏子は強烈な子ね、と困惑しながらもしばらくの間彼女と話した。その作家のこと、作品について語れる人が杏子の周りにはいなかったので楽しかった。他にはどんな作家が好きかとか、こういう作品がオススメだとか、そんなことも話した。
「……その本面白そうね、今度読んでみようかしら。あ、そのカバンについているストラップ素敵ね。どこで売っているもの?」
杏子は少女――さくらというらしい――のカバンについているストラップを指差した。小さな赤い手毬と狐面がついたものだ。
「これは京都へ修学旅行へ行った時に買ったんです。私和風のものが大好きなので。あ、でもこのちっちゃな狐面は後でつけたものなんです。もっとも、つけてくれたのはおじいちゃんですけれど。私不器用だから簡単な作業でもちょっと……」
と照れくさそうに笑った。おじいさんって、桜町にある喫茶店のマスターさんよねと言ったらどうしてそれを、と驚かれた。以前訪ねた時実は貴方がマスターと話している所を見たのだと告白したら更に驚かれた。その顔が面白かったので思わずくすくす笑う。
気づけば時計の針はかなり回っており、思いの外長く話していたことが分かった。色々話せて楽しかったです、とさくらは満面の笑みを浮かべ、ぺこりとお辞儀して去って行った。早く家へ帰って本を読みたい、という気持ちがあったのか走って店を出、直後「きゃあ!」という叫び声。どうやらまたずっこけたらしい。杏子は苦笑いしながら本を買い、それから杏の手紙を受け取りに行った。そして母から頼まれたものを買ってから家へ帰ろうと来た道を戻り、先程寄った本屋を通り過ぎてすぐの所で、彼女はついさっき見たものが地面に落ちていることに気づき拾い上げる。
(やっぱりこれ、あの子のストラップ……!)
あまり見かけない代物だったし、祖父につけてもらったという狐面もあるのでほぼ間違いなく彼女のものだ。杏子はどうしたものか、と迷ったが最終的に桜町まで行って届けることを決意した。喫茶店のマスターに預けておけば、彼経由でさくらの手元に戻るだろう。
結局その日は大分遅い時間になっていたので、部活の無い翌日に喫茶店へと届けに行った。マスターであるおじいさんは喜び、お礼にと珈琲を一杯ご馳走してくれた。更に帰り際お菓子まで貰ってしまったのでかえって申し訳なかったが、この店は珈琲もお菓子も結構美味しいのでありがたく頂戴することにした。
店を出ると、眼前に飛び込んでくる山。薄闇の空より暗く、妖しさと不気味さを纏う得体の知れぬ化け物の様に見える。山というのは昼も人知を超えた力を孕んだものに見えるが、その時は化け物というより神様とかもっと神聖なものに映る。昼から夜に変わるだけでまるで雰囲気が変わるものだ。
(まあ闇に包まれれば、家も電柱も人も……なんだって化け物の様な、得体の知れない不気味な物になるけれど……)
山も川も、この世にあるものは何だって不気味で妖しく得体の知れぬものを持っているのだ。それは昼なりを潜めるけれど、夜になって闇が濃くなると表に出てくる。神聖な姿も、化け物めいた姿も、元からどちらも持ち合わせているのだと杏子は思う。
闇は、内なる闇を照らす光になる。
そんなことを考えていた時、山の方――桜山というらしい――から強い風が吹き、杏子の体にぶつかっていった。一瞬の風が止んだ後、どういうわけか杏子は山の方へ向かって歩きだしていた。何だか無性に山の方へ行きたくなってきたのだ。あの風は人々を誘う、山の持つ恐るべき魔力だったのかもしれない。杏子は静かに佇む鳥居をくぐり、石段を上る。鳥居は桜山が持つ口のように見えた。その口に、山に呑まれるようにして杏子は進んでいった。桜山に作られた小さな神社――桜山神社の社がその先にはある。石段並ぶ道は山の食道、その中を杏子は上っていく……いや下っていくといった方が正しいかもしれない。その石段を上りきろうとした時、聞き覚えのある声を聞いた杏子の足はぴたりと止まった。美しく妖しい、恐ろしい力を持った声。杏子を長い間人形にしていた声。
(……胡蝶様?)
ゆっくり静かに石段を上りきった先には古く小さい社があり、その前に人影が二つ。影の主の一人は胡蝶で眩く光る蝶が何匹も入った籠(虫篭ではなく恐らく鳥籠)を手にしていた。もう一人は見知らぬ人物で、藤色の髪は腰程まであるが男性の様だ。胡蝶と同じく細身で、元々白いだろう肌が蝶の光を受けてますます白く輝いており、真珠で作られている体なのではないかと錯覚する位。一体何故このような場所で話しているのか分からなかったが、気がつくと杏子は石段の脇にある木々にさっと身を隠していた。痛みを訴える、早鐘を打つ心臓。ぎゅっと胸をおさえ、息を潜め、石の様に動かぬ杏子に気づいていないらしい二人は会話を続けていた。
「それで今日も手に入れた蝶を私に見せにきたのかい。この子達、前回見せてくれたのと同じものじゃあないかい」
「あら、違うわよ。この前見せたのはコメクイチョウ、今日連れてきたこの子達はオニグルイチョウ。ある病気にかかって死んだ鬼の体から出てくる蝶なのよ。散々苦しんで、最期は狂いながら死ぬわけ。滅多にかからない病だし、かかってもすぐ治療されてしまうからなかなか手に入らないの。以前も何羽かいたのだけれど、死んでしまって……この子達あまり長生きしないし、卵も産まないから死んだらおしまい。でもようやく再び手に入ったわ」
「へえ、そうなのかい。全く君は本当に蝶が好きだねえ……他にも遊札、闘札、遊盤……ああ、後一つ君が執心しているものがあったねえ。まだ人間のお嬢さんの育成、続けているのだろう?」
自分のことだ、と杏子はぎくりとした。
「ええ、続けているわ。あの子も立派な私の蝶。彼女が赤子の時から愛情をたっぷり注いで、大切に育ててきたわ……本当に美しい娘になったわ。今度貴方にも見せてあげたいわねえ。今まで幾人かの娘をそうして美しい娘にしてきたけれど、あの子は最高傑作。失敗作にならなくて良かったわ……失敗して全く綺麗ではない蝶になった娘を見た時は本当悲しくて仕方なくなるもの。苦労が水の泡になる程嫌なものはない。でもあの子は大成功よ……ふふふ」
「人間を自分好みの美しい娘に育てる遊び、か。天女もなかなか愉快な遊びをするものだね」
「貴方が昔よくやった人を貶めたり、殺し合うよう仕向けたり、生ける屍にしたり、嬲り殺したりする遊びに比べれば、ずっと美しい遊びよ。私、野蛮な遊びは好きじゃあないの。あの子はきっともっともっと美しくなるわ……あの美しい蝶を、私は決して手放さない。一生私が守って、愛でるの……愛して、愛して、買可愛がって、この手の中にずうっとずうっと閉じ込めておくのよ……誰にも渡さない、私だけの蝶」
うっとりとした表情、狂気を帯びた声に杏子は恐怖を覚える。その恐怖は杏子の首を絞め、臓物を握り、体を、脳を激しく揺らした。気持ち悪くて、恐ろしくて仕方が無い。吐いて、悲鳴をあげて、その声と一緒に自分の体を滅茶苦茶にしているそれを出したかったが、そうすれば二人に自分の存在を気づかれてしまう。そうなればもっと恐ろしいことになる気がして、必死に吐くことも叫ぶことも堪える。杏、杏助けてと心の中で助けを求めながら。
今の胡蝶は恐ろしくも美しい黒衣の天女ではなく、残虐でおぞましい狂った化け物に見える。今までも彼女の中にあったその部分を闇が浮き彫りにしたのだ。闇は、内なる闇を照らす光になる。
「そんなに可愛がっている娘に男が出来たら、君ってば死んでしまいそうだね。君は自分が愛でているものが誰かに奪われたり、穢れたりするのは大嫌いだものねえ。君が惚れ惚れする程美しいのだから、人間の男達も放ってはおかないだろう?」
「貴方ってば本当に物覚えが悪いのねえ。何度も私、説明したでしょう。……あの娘や両親には『男と交われば死ぬ』っていう嘘を吹き込んであるから大丈夫って。親は娘を死なせたくないだろうし、娘も死にたくはない……何より彼等は私のことを神の様に崇めているからね、私の言うことを疑いもしない。守りの蝶もつけてあるし、たっぷりと力を込めた声で何度も言い聞かせているし、絶対大丈夫よ。誰が美しい蝶を男などに穢させるものですか」
恐怖に震えていた杏子の体を、雷の如き彼女の言葉が貫く。あまりの衝撃に頭が真っ白になった。
「蝶の為なら私、どんな嘘でも吐くわ」
「成程ねえ……人間死にたくはないし、神として崇めている君を背く真似も出来ない。ちなみに万が一そのお嬢さんが男と関係をもってしまったらどうするんだい?」
「絶対ありえないわ、そんなこと。まあでもそうねえもし起きたら……その時はお別れね。本来なら死ぬより辛い目にあわせるか、ぱぱっと殺してしまうところだけれど……あの子にそんなことは出来ないわ。ただ怒って、なじって、縁を切ってそれでおしまいかな」
「へえ、君にしては優しいじゃないか」
(嘘……? 嘘、ですって?)
杏子を何としても穢れ無き乙女でいさせ続ける為の嘘。嘘、嘘、嘘……その単語が延々と杏子の中を巡り続けた。そして彼女はふらふらしながらその場を後にする。木から出る時大きな音を出してしまったが、二人は気づかないようだった。
バスに乗っている間も、手紙を受け取っている時も、家に帰るまでも帰ってからも胡蝶の声が頭にこびりついて離れない。長い間信じて疑っていなかった事柄が実は真っ赤な嘘であったことの衝撃は大きく、その日はその事実に対してどうこう考える余裕もなかった。
しかし次の日になり多少心に余裕が出来ると、ぽっとある感情が生まれた。それは喜びだった。
(胡蝶様は嘘を吐いていた……私は別に男の人と関係をもっても死にはしない。死なないんだ、死なないんだ……それなら、それなら私は杏の全てを求めてもいいんだ、我慢なんてしなくていいんだ……!)
しかも胡蝶はそうして自分を『裏切った』杏子に罰を与えるつもりはないらしい。それは彼女にとって大変都合の良い展開だ。正直面倒だと感じるようになっていた胡蝶と別れることが出来るし、両親も最初は戸惑うだろうがいつかきっと杏子と杏のことを認めてくれるだろう。娘が死なないことさえ分かれば、きっと二人のことを応援し、見守ってくれるに違いない。流石に彼が人ならざる者であることは隠さないといけないだろうが、彼なら上手くやってくれるだろう。
杏子は急激に明るく輝けるものになった自分と杏の未来を頭に描いた。そしたら幸福で胸がいっぱいになって、幸せのあまり男子の告白を受けても、女子に嫌味を言われても平気でいられた。一方で今まで自分に嘘を吐いていた胡蝶に激しい怒りを覚えもした。
(嘘吐き、大嘘吐き。あの人はずっと私達に嘘を吐き続けていた。嘘を吐かないで、裏切らないでと私にはしつこい位言っておきながら……その嘘のせいで私は今まで……ずっと……父さんや母さんもそう。その嘘の為にいつも不安で胸をいっぱいにしていた。その不安や苦しみが私を沢山傷つけて、苦しめてきた。それに何よ、人を人形やペット扱いして……! 最高傑作とか失敗作とか……何て言い方!)
自分を生き返らせてくれたのは胡蝶だ。だが自分を苦しめ続けてきたのもまた胡蝶だ。
もう彼女は天界に住む天女ではない。ただの醜悪で、自分勝手で、嘘吐きな化け物だ。杏子はそんな彼女を神のように崇め、姉の様に慕っていた自分を詰る。
(杏の言った通りだったわ。信用してはならなかったのよあの人のことは! 私は私の道を歩く、あの人の人形にはもうならないわ。あの手から逃げて、自由の空に羽ばたいてやるわ! 私は杏の全てを求める、そして私の全てをあの人にあげるの)
実は絶好のチャンスが数日後にある。両親が共通の友人と会う為遠くへ行くのだ。しかも日帰りではなく、友人宅に一泊する。つまり杏子一人になる日があるのだ。今日帰って来てからそれを聞かされた時、杏子は心の中で「やった」と叫んだ。しかも両親曰く、数日前に胡蝶が来た時彼女にその日家に居てくれるよう頼んだが、用事があると断られてしまったらしい。つまり胡蝶も余程のことが無い限り来ることはないのだ。母は友達を呼んでもいいけれど、男の人は絶対に入れては駄目よとしつこい位言ってくる。杏子は「そんなことはしないから大丈夫。入れても時子位よ」と大嘘を吐きながら彼女を安心させた。
杏子はとりあえず胡蝶と男の会話の内容は伏せつつ、杏を家へ誘った。それを書いた上で誘ったら下心が丸出しだと思ったからだ。次の日来た手紙を読むと、本当に大丈夫だろうかと戸惑う様子を見せつつも最終的には承諾してくれた。その文を見た時、杏子は「やった」とバンザイする。例え『友達』の先の先、行くところまで行くことは出来なかったとしても、彼と自分の家で過ごすことが出来ればそれだけで充分幸せだ。
杏子はその日が訪れるのを楽しみに待っていた。杏からの手紙にも楽しみだと書いてあり、同じ気持ちなんだと思ったら嬉しくなる。前日、胡蝶が諏訪部家を訪ねて来た。そしていつものように杏子の部屋へ行き、お喋りしたり、髪を梳かしたりする。杏子に『真実』を聞かれているとは夢にも思っていない胡蝶は朝のことについて話だす。
「ごめんなさいねえ、杏子。本当は明日もこちらに来たかったのだけれど、天界で外せない用があってね……どうしても来られないの。貴方を一人ぼっちにしてしまうのはとても心苦しいけれど、許して頂戴な」
「勿論ですわ、胡蝶様。……私も一人で大変心細いです。貴方一人いてくだされば、こんな寂しい思いをしなくて済みますのに。どうしても寂しくなったら友人を呼ぶつもりですけれど、彼女達が何人いても貴方一人には敵いません。でも用事があるのですから、仕方が無いです。そう、仕方の無いことなのだと自分の心を慰めて明日の夜を乗り越えます」
「本当に貴方は可愛いことを言うのね、本当愛おしい。私は貴方の様に美しく愛らしい蝶に愛されることを光栄に、そして幸福に思うわ。杏子、友達を呼ぶのは構わないけれど男友達は呼ばないでね。もっとも貴方に男の友達などいないとは思うけれど、兎に角男は駄目。恋人なんて尚更よ。嗚呼、尚更いないでしょうけれどね、ええ、ちゃんと分かっているわ。私は貴方を信じている。私、いつも不安で仕方が無いのよ。この家を訪れたら、可愛い貴方が男に抱かれた為に死んでしまったと聞かされたらと思うと……もうそれだけで死んでしまいそう。だから元気な貴方に迎えられると、嗚呼良かった生きていると胸を撫で下ろすの。ねえ、今度訪れた時貴方が死んでしまっているなんてことはないわよね? 間違っても、ないわよね?」
「勿論ですわ、胡蝶様。私がすすんで男の人に抱かれるなどということはありませんし、無理矢理手籠めにするような男が現れても大丈夫です、貴方がつけてくださった蝶が守ってくれますから」
「そうね、そうよね……」
胡蝶は杏子の髪を梳かし終えると帰って行った。それじゃあね私の蝶、また会える日を楽しみにしているわという言葉を残して。杏子はそんな彼女を手を振って送り、その姿が見えなくなると「ああ疲れた」とため息を吐く。彼女と話していると疲れて仕方がない。思ってもいないことを、心から思っている体で言わなくてはいけないし、何を白々しいと怒りに燃えもする。肩に手を置かれたり、やたらくっついたり、耳に唇寄せて囁かれたりするのもうっとおしくて、気持ち悪くて仕方が無い。べたべたしないで、と何度言いそうになったことか。
(一瞬で好きになることもあれば、これだけ短い間に心が離れてしまうこともある。長い間築いてきたものだって、キッカケがあればあっという間に崩れて、もう元には戻らない。私は今まで大事にしてきた宝物を放り捨てて、新しい、もっと愛しくて大切な宝物に手を伸ばす。私にはその宝物一つあればいい。さようなら、私の美しい天女様だった人……)
次に会った時がきっと終わりの時だ。だから今の内に別れの言葉を心の中で述べる。
明日は杏と家で過ごすことが出来る、どんな風に彼に話を切りだそう、忘れられぬ夜を過ごすかもしれない、いつかは両親や時子にも杏のことを話すのだ、きっと輝ける未来が私には待っている……そんなことを色々考えたらなかなか眠れなかった。