表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
蝶よ花よ
331/360

蝶よ花よ(4)


 今日も杏子は杏から手紙を受け取り、幸せな気持ちでいっぱいだった。杏子も杏も手紙を書くのは早く、相手から受け取ったら次の日には従者の少女に渡していた。殆どの場合がそうだったので、偶に次の日返事が来なかった時は少し不安になる位だった。文章の長さといえば杏子の方がいつも圧倒的に多い。彼女はどんなに瑣末なことでも杏に知ってもらいたくて、兎に角何でも書いた。杏の方はその内の幾つかに返事をしながら、自分の周りに起きたことを簡潔に書く。それ程長くはないがよくまとまった文章で、だが機械的、事務的なものではなく心がこもっているのを感じる。それを読む度自分は何でもかんでも書いて、まとまりの無いものを寄こして格好悪いと恥ずかしく思うが、いざ彼から手紙を貰い返事を書こうと便箋を前にすると興奮してしまい、まるで落ち着きのない子供のような内容になってしまうのだった。


(だって、だって思ったことも経験したことも何でも残らず彼に伝えたいのだもの。こんな気持ちにさせてくれたのは胡蝶様以外では初めて。嗚呼、手紙だけでなくまた直接会いたい! あの人の顔を見て、声を聞きたい!)

 手紙のやり取りだけでは矢張り物足りない。文章を通じて彼を感じることは出来るけれど、それでも矢張り彼自身と直接会って話をしたかった。杏子は近頃彼と会い、街中でデートする夢や喫茶店でお喋りする夢ばかり見ている。そのような夢を見たり、想像をしたりする度に杏子はなんて恥ずかしい人間なんだろうと思いながらも頬は緩む。恋に酔い、恋する自分に酔い、幸せを噛みしめる日々。


「杏子、最近やたら機嫌が良いわね。どうしたの?」

 と母や胡蝶に尋ねられることもある。しかし杏子は笑って「何でもないわ、いつも通りよ」とごまかすだけだった。胸は痛むが、正直に話すわけにはいかないのだ。そして時子にも聞かれることがあったが、彼女にも話せずにいた。彼女のことを信じていないわけではないが、万が一のことを考えると誰にも話すことは出来なかった。それが杏子は残念でならない。自分の幸せを、恋を、杏のことを話し、他の誰かにも知ってもらいたかった、共有したかった。教室や喫茶店などで、恋の話に花咲かせる女の子達の姿を杏子は幾つも見てきた。時子からも恋人の話を沢山聞いた。

 今も時子が先日の休みに彼氏とデートへ行ったことを話している。それを笑って聞く杏子は、杏のことを話したい衝動に幾度も駆られながら必死で抑えていた。誰にも知られてはいけない恋。自分と杏だけの秘密の恋――そう考えると自分達の恋が特別なものに思えてきて、秘密という言葉の甘美な響きに酔いしれてなんとか我慢出来た。我慢しながらも、矢張り話したいとは思う。


(……羨ましいと、思っていた。輪の中に入って恋の話を誰かとしてみたかった。恋というものに、私はとても憧れていた……本当は。時子ともいつか恋の話をしたかった。私が好きになった人のことを話して、恋のことで悩んだら相談して、彼女に自分の好きな人を会わせて……いつか、いつかそんなことが出来たらと思っていた。ただ彼女の話を聞くだけじゃなくて、自分も話したかった。今私には好きな人が――杏がいる。でも、彼のことを話すわけにはいかない。どこからか話が漏れて両親に……天女様に伝わってしまったら大変だから。結局私は恋とは無縁の人間として生きていかなければいけない)

 他の人が出来ることが出来ぬ苦しみに痛む胸を癒してくれるのは、杏の手紙だ。彼は僅かな間に杏子の一番の理解者になっていた。何故なら彼は胡蝶にも話せぬこと――秘密の恋――を唯一知っている人だからだ。


『――秘密という言葉は、とても甘い響きがするね。君にとっては誰にも言えない苦しい恋かもしれないけれど、その苦しさの中に甘いものを感じるのではないだろうか。秘密は苦しくて、でもとても甘くて、良いものだね。秘密の恋って何だかいけないことをしているみたいだね。僕はそういうものが、好きだ。君は好きになれないかな? ずっと僕といけないことをしていようね、杏子。僕はそれを望むよ』

 彼はよく砂糖を吐く程甘い言葉とか、クサかったり気障ったらしかったりする言葉を書く。しかしそれを読んでも杏子は彼に幻滅などせず、むしろそんなこと言うなんてふふふ、と笑みが零れてしまう。彼の言うこと、すること何もかも杏子には素晴らしいものに感じられ、彼の何かを否定することなどまるで出来ないのだった。否定しようという考えがそもそも存在しない。杏子にとっては彼は絶対的な存在だった。喫茶店での語らい、手紙でのやり取り、ただそれだけでそうなってしまったのだった。

 読み終えた手紙を愛しい人の様にぎゅっと抱きしめる。今はもう自分を癒してくれるのは杏だけだ。近頃胡蝶と会うのは苦痛だった。彼女にばれたらどうしようと思うと気が気でなく胃も頭も痛み、彼女を騙していると胸が痛んだ。何より苦しいのは、彼女がいつも杏子に言い聞かせる言葉だった。


――貴方は私の蝶、彼等の花。私の手から羽を散らして逃げないでね、花びらを散らさないで頂戴。貴方は恋などしなくても幸せよ。恋など貴方を不幸にするだけだわ。貴方の体も心も私達だけのもの。何があっても男になど許しては駄目よ……私達を裏切らないでね、杏子。裏切らないでね……――

 裏切らないでね。その言葉が頭の中でリフレインする。彼女を牽制し、自由を奪う言葉。今までそれに縛られているという感覚はあまり無かった。ほんの少しの好意を誰かに抱いた時少し感じた程度だ。だが杏と出会ってからは、その言葉に自分がいかに強く縛られているか理解した。杏子が杏を思い、彼の手紙を読み、手紙を書き、両親や胡蝶と話している時それは縄となり、彼女を強く縛り締めつける。

 いけない、いけない、裏切り者、恋はしてはいけない、先へ進むな、いけない、いけない、駄目、駄目……。その言葉が、彼女達の想いが杏子の恋を阻害する。そしてもし彼と体を重ねれば死んでしまうという事実が生む恐怖もまた、彼女が真っ直ぐに恋の道を進めぬ理由の一つであった。


(私はそう、恋をしてはいけない。私の恋は大切な人を幸せにしない。けれどこの想いを封じ込めて無かったことにすることなど出来ない。嗚呼私の愛しい人! また会いたい! 例え許されないことだとしても! でも、でも本当にこれで良いの? ううん、良いのよ、良いのよ……ああ、でも!)

 彼女の思考は堂々巡り、下がっては進み進んでは下がる。しかしいつかはきっとどちらかに完全に振り切るだろうと予感していた。どちらかの思いを完全に捨てる。胡蝶の言葉の呪縛から抜け出すか、縛られ続けたままそれを当たり前に思う日々に戻るか、それは未だ分からない。

 しかしそんな風に苦しむ一方で、彼女はその苦しみの中に悦びを感じてもいた。苦しめば苦しむ程、体を心地良い熱が巡り、痺れ、喩えようのない快楽に溺れる。秘密、裏切り――背徳の行為。それらは胡蝶や両親の言うことを何の疑いもなく素直に聞いてきた彼女が今まで経験したことの無いもので、強い麻薬となり杏子を侵す。苦しいけれど、辛いけれど、続けていたいもの。苦しいからこそ、甘いもの。


 杏の言う通り、苦しみの中の甘さに溺れていた杏子はある日彼から来た手紙を見て、飛び上がる程喜んだ。手紙のやり取りが始まって約一か月後、ようやくまた会うことが出来るという旨の文章を見ることが出来たのだ。杏子は大声をあげたくなるのを必死でこらえながら、返事を書いた。シャープペンを握る手は震えたり、力が入ったりで何度も芯が折れた。会いたい、会いたい、また私は両親達に背く、裏切り者、嘘吐き、でも会いたい、会いたい、彼と一緒に過ごしたい――頭の中を様々な思いでぐちゃぐちゃにしながら彼女は手紙を書き終えた。書いている内は自分がどんなことを書いているのかさっぱり分からなかった。

 そして次の日、従者に手紙を託した後になって杏子はあることに気づいた。


(また彼と会える。でももし知り合いに私と杏が一緒にいる所を見られたら……?)

 二人共容姿端麗で、しかも常人が持たぬものを常に纏っているからかなり目立つ。そして知っている人に見られたらすぐばれるだろう。そこから噂がどんどん広がり、もしそれが両親や胡蝶の耳に入ったら。余程上手く変装するか、絶対知りあいに見つからないような場所で会うしかないのか。一体どうすれば良いのか、と思ったら急に不安になった。あの喫茶店だって絶対安全とはいえない場所だ。

 彼といる所を見られたらどうしよう、ただ嫌味を言われるだけならまだ良い、だがもし彼等の口から話が広がっていき、届いてはいけない人の耳に届いてしまったら、間違いなく破滅だ。友達だという言い訳は自分にしか通用しない。杏子が正直に話すまで彼等は厳しく追及し、杏の存在を突き止め、彼を杏子から奪うに違いなかった。それを考えたら胃がきりきりし、その日はまともに眠ることが出来なかった。

 だが翌日受け取った封筒の中に一緒に入っていたものを手に取り、そしてそれについて書かれた手紙を読んだ時杏子はほっと安堵の息を吐いた。杏が手紙と一緒に寄こしたのは茶色の紐に赤く丸い石のついた首飾りだった。そして彼曰くそれには(まじな)いが施されており、これを身につけると容姿が『変わる』らしい。変わるといっても本当に変わるのではなく、一種の幻術のようなものだそうだ。天女でさえ騙せると彼は自信ありげに述べている。


(ああ、あの人は私が思っていること全てを分かっている。手紙には一言も書かなかったのに、こんなものを用意してくれた。しかもこれは、手紙を抜かせば彼からの初めての贈り物!)

 杏子はにこにこしながら返事を書き、それからしばらくの間彼から貰った首飾りを眺めていた。妖しい色の石は化け物めいた輝きを見せ、杏子を魅了する。その輝きの向こうに杏の顔が見える。彼に早く会いたい、会いたい、会いたい……。その想いは一瞬たりとも杏子の中から消えなかった。これ程までに誰かと会うことを望んだのは初めてだ、あの人が初めてだ……そう思えば思う程、より杏の存在は彼女の中で大きなものになっていく。

 他のものを、追い出す位に。


 約束の日の前日、胡蝶が家を訪ねてきた。杏子はいつも通りそれを歓迎したが、半分以上はもう演技になっていた。正直「来てしまった」という気持ちでいっぱいで、折角の良い気分を台無しにされたような気持ち。思ってから「命の恩人に対して、美しい天女様に対してなんて失礼なことを!」と自分を詰るが、心から自分の気持ちに対して失望し、叱咤することは無い。

 胡蝶と喋っている時も考えているのは杏のこと、それから彼から貰った首飾りのことばかり。もし首飾りの存在を彼女に感づかれたらどうしようと終始どぎまぎしていた。しかし胡蝶はそれに気づいた様子もなく、いつものように杏子の話を聞いたり、彼女の髪をとかしたりしている。


「貴方の髪は本当に美しいわ。流れる黒髪は夜空、煌めきは星、そして光沢は月虹。夜空の美しさを全て閉じ込めたようよ。それにこんなにさらさらで、ひんやりして、夜を流れる川の水に触れているよう。嗚呼、本当に美しい髪……そこらの小娘が決して持ちえないものだわ。触れる度、恍惚する。ねえ杏子、この髪に触れていいのは誰?」

 甘くて温かい息が耳を、頬をすうっと撫でる。ただそれだけで体は言うことを聞かなくなり、身じろぐことさえ出来ない。そしてその息は彼女の体を撫で回し、彼女の中に侵入していく。それに抗うことは今でも出来ないことだった。胡蝶は髪を梳かし、唇寄せて問いかけているだけなのに、とてもいけないことをされているような心地がして、息が荒くなり、体の体温が上昇していく。


「それは勿論、胡蝶様だけです。こんな風に触れていいのは、胡蝶様だけです。私の体は、魂は、貴方のものです」


「そうね、私のもの。それから両親と、貴方。私が一番よね? 私の可愛い蝶? ふふ……貴方の父や母にさえこうして触ってもらいたくはないものだわ。私だけのものにするのよ……。ねえ、こうしてひとりじめしようとする私は強欲で醜い女かしら?」


「いいえ、いいえそんなことはありません」


「ええ、そうでしょうね。綺麗な髪……綺麗な体、誰にも触れさせない。ましてや男の手になど。ねえ杏子、この髪が男の手で汚されるのを想像しただけで私死んでしまいそうよ。貴方の体に男は触れなくていい……男など醜くて汚らわしい生き物よ。貴方、そんな者に心を許してなどいないわよね? もし心を許しそうになったら私のことを思い出してちょうだい。そしたらきっと大丈夫。分かっているわよね、ねえ杏子? 貴方、私の言うことを煩わしいと思ってなどいないわよね? 貴方の体も、心も、魂も男に渡してはいけないわよ、絶対よ。私の愛しい蝶。裏切りや秘密は時に女性を美しくするらしいけれど、少なくとも貴方を美しくすることは無いわ。貴方は裏切りも秘密も無い、綺麗な蝶のままでいて頂戴ね?」

 その言葉が中へ入り込み『杏との恋』を押し潰そうとする。潰されて、痛くて、弾けて消えそうだ。そして「私は裏切り者だ、美しくない蝶だ」と激しい自己嫌悪に陥る。胡蝶を崇め、彼女を絶対とする気持ちに陰りが見えてもなお彼女の言葉には絶対的な力がある。自分の言葉に恐るべき魔力があることが分かっているから、こうして杏子が『間違った道』を歩まぬよう毎度同じようなことを囁き続けるのだ。


(嫌だ、嫌だ、言うことを聞きたくない。嗚呼私は綺麗ではない蝶、胡蝶様が望まない蝶……でも私はこの秘密を潰されたくない、皆を裏切っていても構わないあの人を愛し続けていたい、この想いは誰にも邪魔されたくない……嗚呼、私を嫌いになってしまう、失望されてしまう、こんな私はこの世にいても意味が無い……駄目、私はもう杏さえいれば、駄目やっぱり駄目、私にとって胡蝶様も、両親も大切。命を賭けた恋など求めなくても私は幸せ、いいえ幸せじゃないわ、杏を愛し彼に愛されてこそ幸せなのよ私は)

 胡蝶が訪れる度杏子は秘密がばれないかどぎまぎし、そして彼女の言葉に悩まされる。だから近頃は胡蝶とも会いたくないのだ。彼女と別れベッドにもぐりこんでからも明日杏と約束した場所に行くべきか悩み続けた。どれだけ強い意思を固めていても、彼女が来てほんの少し囁いただけでそれは簡単にぐらつく。杏子は天女様の恐ろしさを今改めて実感する。彼女の前ではどれだけ強い気持ちも塵になる。ふうっと彼女が少し風を起こしただけで、四散する。背徳感が生じさせる甘い思いも、こうなると感じない。ただ苦しくて、苦しくて、死にそうな位になるだけ。


 しかし散々苦しみながらも結局杏子は次の日目いっぱいめかしこみ、数駅先の街を目指した。腹と頭が痛くても、気持ち悪くても、それでも足は止まらない。恐るべき魔力に死に物狂いになって抗ってまで会う価値が杏にはあった。杏、そして恋の持つ魔力は胡蝶のそれを僅かながら上回っており、だからこそ杏子は約束を放らずに済んだ。

 杏から貰った首飾りの力は絶大なようで、クラスメイトの眼前を横切っても向こうは何の反応も示してこなかったし、彼女を指差してああだこうだと言ってくる者もいない。ただの人間になれたような気がして、少し嬉しい。そして胡蝶の声の魔力は電車に乗り、杏との再会が近づくごとに弱まっていった。そして待ち合わせの場所に一足先に到着していた杏を見た時、色々な思いが込み上げてきて思わず彼に飛びついた。冷たい肌だったが、今の杏子にとっては何より温かいものに感じられる。驚いた彼に抱きとめられた瞬間、自分を侵していた胡蝶の念が吹き飛んでいったような気がした。


「なんだい、なんだい、どうしたんだい。随分熱烈な歓迎だけれど」


「ご、ごめんなさい! でも貴方の顔を見たらこうせずにはいられなかったの。もう私、ここへ来るまでの間気持ち悪くて、苦しくて、痛くて、辛くて辛くて……私、ここへ来てはいけないんだと何度も思ってしまった。けれど矢張り引き返すことなど出来なかったわ……嗚呼、貴方にまた会えてよかった! 貴方にまた会えた、それだけで私は救われた!」

 彼は杏子にとって魔を祓う者であった。優しく頭を撫でられると信じられない位心が落ち着く。


「君の天女様にまた何か言われたんだね? まあ君の命がかかっていることだし、大切に育て上げたものが誰かに奪われることは耐えがたい屈辱なのだろう彼女にとっては。気持ちが分からないわけではないけれど、君を苦しめるような言動は許しがたいものだ。僕としても君が苦しむ姿を見るのは忍びない。大丈夫だよ、杏子。大丈夫だ。僕がいるよ、僕がいるから大丈夫だよ……」

 周りの人目も気にせず杏は彼女を抱きしめながら耳元で囁く。その声が杏子の中へ入り込み、不安や罪悪感を拭い去っていった。そうなると胡蝶のことも、両親のことも忘れられた。


(そうよ、大丈夫よ……この人がいるもの。この人がいるから、私は幸せでいられるのよ。胡蝶様達にとっては幸せなことでなくても、私にとっては幸せなことなの。だからいいの……それに彼と私とは友達なのよ、何も心配することはないじゃない……)


 気持ちが一気に楽になった杏子は、杏と楽しい時間を過ごした。まずは店を回り、買い物をしたり商品を眺めたりした。ちょっと本屋に……のつもりがすっかり夢中になって長居し「君の恋人になるのは僕じゃなくて本かな」と苦笑いされ、ごめんなさいと顔を真っ赤にする。本は好きで、本屋に入るといつも時間を忘れてしまうのだった。それから杏子オススメの喫茶店でお喋りを楽しんだ。杏は甘いものが大変好きらしく「今日は奮発して」などといって杏子がびっくりする程の量を注文し、しかもそれをぺろりと平らげてしまった。あんまり幸せそうに食べるから、思わず笑ってしまう。彼の幸せそうな表情を見ていると杏子も幸せな気持ちになった。ご飯を食べた後はゲーセンで遊んだ。時子と遊ぶ時位しか行かない場所で、騒々しいので正直好きな方ではなかったが彼といればそんな所さえ心安らぐ場所となる。杏は「多分初めて入った」らしく、随分やかましい所だねと最初はここで遊ぶことに乗り気ではなかったが、様々なゲームをやっている内それなりに面白いと思うようになってきたのか、笑顔が浮かぶようになってきていた。


「あ、また駄目だ。くう……これ程失敗すると、大変悔しいね。意地でもとりたくなる」


「本当杏ったら下手くそねえ!」


「君だって似たようなものじゃないか。そのぬいぐるみだって店員のお情けで貰ったようなものだろう」


「まあ、そうだったかしら?」


「そうだったとも」

 クレーンゲームで珍プレーをかまし続ける杏と、くまのぬいぐるみを抱きながらその様子を見ていた杏子は二人してくすくすと笑う。二人共何をやっても下手くそで、レーシングゲームをやれば逆走したりあちこちにぶつかったりしてなかなか先に進まず、ホッケーゲームをやればオウンゴールをしたりスカしたり、リズムゲームをやればパニックを起こすわ押せないわで散々。プライドがこのままではズタズタだと、意地になって何度もやるけれど殆ど上達しない。お金は減るが腕は上がらぬ。そんなだったが二人共充分に楽しんだ。たまにはこういうもので遊ぶのもいいね、と二人で言い合って笑った。ゲーセンから出てから、映画館で映画を見た。杏は見慣れぬ巨大なスクリーンと大音量に相当驚いている様子だった。内容は幻想的な和の世界が舞台の作品を得意とする会社が作った長編アニメで、美しい映像に杏子は見惚れ、隣に杏が座っていることも忘れる位夢中になった。

 映画館を出てからは、街中を歩きながら映画の感想を言い合った。言い合った、といっても殆ど一方的に杏子が話していたのだけれど。相槌を打ち、微笑みながらそれを聞いていた杏がそういえば、と話を切りだした。


「あの舞台そっくりの場所が向こうの世界にあるんだよね。有名な観光名所でね……もしかして制作に関わっている人の中に、向こうの世界に行ったことがある人が混ざっているのかも。そう思う位そのままだった」


「人間が貴方達の住んでいる世界に行くことがあるの? こちらの世界に人間として暮らしている妖がいることは知っているのだけれど」


「あるさ。知らぬ間に境界を飛び越えて迷い込む――こちらでいう神隠しにあって来る者もいれば、こちらとあちらを繋ぐ道を可視化する道具を用いて自由に行き来している者もいる。ここと向こうの間にある壁なんて障子紙一枚分位しか無いもの。それがふとしたことで破れれば、あちらの者がこちらへ、こちらの者があちらへ行くことだってある。とても薄くて、隣同士で、同一の世界の様で僅かに違う、でもその僅かな違いが大きい。僕達はどれだけ似た容姿をしていても、決して君達にはなり得ないものだよ」

 杏が路地裏へと入っていったので、杏子もそれに続く。薄暗い、建物と建物に挟まれたそこは異界へ続く道のように思えた。いや、もしかしたらここはすでに異界なのかもしれない。こちらと向こうの話を聞きながら歩いている為か、人ではない彼と歩いている為か、そんな錯覚に陥る。ある程度歩いた所で突然杏が歩を止め、振り返る。杏子の前に、闇と先の見えぬ道を背負った杏が静かに立っている。その姿は恐怖を伴う美を描いた絵画のようで、どきりとする。


「杏子、よく覚えておいてね。僕達異界の住人を、君達の持つものさしで計ろうとしてはいけないよ。計ろうとしても、計れないから。僕達の持つそれと、君達の持つそれの長さも、刻まれている目盛りも全く違う。僕は君を心から愛しているし、君も僕のことを想ってくれている。でも僕が人ではないこと、忘れないで。それを忘れてしまうと、いつか痛い目を見てしまうかもしれない。僕も最後まで君を不幸にしないでいられる自信は正直ないんだ。それを分かってね、そして覚悟してね。その上で僕を愛してね」

 そう言って彼は笑った。その笑みに、杏子は全身に大量の氷を流し込まれたような衝撃を受けた。息が出来ず、体中が冷たくなり、がくがくと震えた。心臓はどくん、という音をたててからしばらくの間凍りつき動かない。絶対的な恐怖、得体の知れないものに対峙し、にじり寄られ壁際に追い詰められたような感覚。以前胡蝶にうっかり「恋する人のことを羨ましいと思う」と言ったことがあった。それを聞いた彼女が怒った時も、今の杏と同じだけの恐怖を杏子に与えた。その時杏子は「彼女に殺され、喰われるのではないか」と思った。ほんの些細なことでそんな恐るべき未来が訪れる予感がしてならず、しばらくは悪夢にうなされたものだ。今目の前にいる彼にも同じ思いを抱いた。何かつまらないことで、人間が想像だにしない理由で自分を殺めてしまうのではないか、酷い目に遭わせるのではないかという考えがふっと浮かぶ。


 人と同じように笑って、遊んで、食べて、飲む。でも人ではない。そのことを今改めて思い知らされた思いだった。だが、それだけの恐怖と衝撃を与えられても、杏子の中の愛は消えなかった。

 人間とは全く違うものさしが原因で、理不尽な目にいつか遭うかもしれない。でもそれが何だというのだ。愛し愛される日々を送れるなら、彼といられるなら、なんだって構わない。自分を生き返らせる為なら悪魔とだって契約してやると人ならざる者の手をとった両親と同じだ。遠くにある、訪れるか訪れないか分からぬ未来よりも、手を伸ばせば容易に掴める幸せの方が大事だ。

 杏子は震えながらも杏の手をとる。この恐怖は必要なものだ。恐れるからこそ受け入れられる。恐れもせず「分かった」と言うのはただの愚か者なのだ。


「ええ、ええ……分かっているわ。私は馬鹿ではない。理解して、恐怖して、その上で私は貴方を愛するわ。怖いけれど、でもその恐怖に揺らぐ愛じゃない。私は貴方のことを心から愛しているわ。きっとこれ程の想いを抱かせるのは貴方だけ。貴方を失えば私は死ぬまで胡蝶様や親の望む『誰にも恋しない女』でいられるでしょう。でも私はもうそうなるつもりなどないわ。私は貴方とずっと一緒にいる。永遠に貴方のことを愛し続ける。どうしてこれほどまでに貴方のことを好きになったのか、理由なんて知らない。どうでもいい。大事なのは貴方を好きという事実。……この想いは胡蝶様達から何か言われる度揺らぐかもしれない。でも大丈夫、どれだけ揺らいでも無くしはしない。無くすものですか。私どれだけ迷っても最後には貴方を選ぶわ」

 彼への愛は湧き続け、止まることを知らない。もうわけが分からない位杏子は杏のことを愛していた。彼女の言葉に嘘が無いのを感じ取ったのか、杏は良かったと安堵の笑みを浮かべる。先程のあの恐ろしい笑みを浮かべた人と同一人物であるとは到底思えぬ程、優しい笑みだった。だがすぐにその笑みは消え、かと思えば彼は杏子の耳に唇を寄せ、そして囁いた。


「杏子。……僕のことを信用しすぎても危ないように、君の天女様とやらもあまり信じすぎてはいけないよ」


「え?」


「天女は天に住まう美しい人。体だけでなく、その魂も清らかで美しいと云われている。でもね、その清らかさや美しさを決めるものさしは、天界のものだ。天界のいう『清浄』と君達のいう『清浄』は違う。君達にとっては残酷で恐るべき行為でも、彼女達にとっては何でもないことである場合もある。愛情の形も、優しさの形も、何もかもが違うんだ。もしかしたらいつか天女の『愛』に君は殺されるかもしれない。或いはある日突然君を愛でるのに飽きた天女に、入れた魂を抜かれたり、醜い化け物に変えられたりすることだってあるかもしれない。君の家族にだっていつか何かするかもしれない。彼女達はね、そういうことを何の躊躇いもなく出来るんだよ。それは僕達も同じだけれど。相手が命の恩人でも、信じすぎてはいけない。覚えておいて、杏子。……彼女達は僕達よりも恐ろしい生き物だということを」

 そう言うと杏はまた優しく微笑んだ。


「さあ、帰ろうか」

 杏子は彼に手を引かれ、駅まで歩き、そこで別れた。これからはもっと頻繁に会える、という喜ばしい詞をお土産に。しかしその言葉より強烈に残ったのは「天女のことを信じすぎるな」という言葉だった。杏子の中に入り込み、こびりついたそれはなかなか剥がれおちない。


(胡蝶様は私の命の恩人。私がこうして生きているのも、杏と恋が出来ているのも胡蝶様のお陰……あの方がいたから、今の私がいる。人並みの生活を送ることは出来ないけれど、辛いこともあるけれど、それでも、生きている。生きていけている。私に命を、未来を……両親に幸せを与えてくれた天女様。人とは違う価値観を持って生きている方……分かっている、それは、分かっている。でも、あの方が私におぞましいことをするかもしれないなんて……そんな」

 胡蝶に怒りを向けられた時、いつか殺され喰われるかもしれないと思った。でもそんなことを思ったのはその時と悪夢にうなされた数日間、後は幼かった頃だけで、それ以外の時はそんなことを考えたこともなかった。彼女は未だ杏子にとって絶対的な神であり、疑うという行為など出来ない存在だった。

 天女は自分を愛し、守る存在。その考えは杏の言葉を以てもひっくり返らない。だからといって信じすぎない方が良いという彼の言葉が杏子の中から消えたわけではなかった。



 初めての『デート』を境に、杏と会える日がぐっと増えた。最低でも週に一度は顔を会わせるようになった。平日は例の喫茶店で会ってお茶をし、休日は舞花市や近くの街で遊ぶ。彼と会う時は必ず首飾りをつけていたから、誰にも注目されず、何も言われないので楽だったし、何より知人に杏とのことがばれることもないから安心だった。杏といる時、杏子は満たされる。彼は、彼との逢瀬には麻薬的な強い中毒性を持ち、散々遊び語らっても、別れてすぐもう「会いたい」という思いでいっぱいになり気が狂いそうになる。そして会う回数が増える程強欲になり、多くを求めた。ただ手を繋いで笑ってお喋りして遊んでいるだけでは足りない、もっともっと先――『友達』という言葉を超えたところへ行きたいと願う。願いながらも、結局は『友達』の自分に言い訳出来る言葉に甘えてしまい、先へ進めない。


 ファッション雑誌に目を通したり、利用したことがなかった店を訪れて服のバリエーションを増やしたり、あまり持っていなかったアクセサリー類を買ったり。また少女漫画や恋愛小説を買って読んだりするようになった。そういったものを杏子が読んでいるのを見ると両親はあまり良い顔をしないから、自分の部屋でこっそり読み、読んだら物置の奥に隠す。別に悪いものではないのだから隠さなくても良いのに、と思うともやもやする。恋愛系のドラマにも興味を示すようになったが、矢張りこれも両親が良い顔をしないので見られない。そんな風にフィクションの恋愛に興味を示しつつ、リアルの恋愛にもより一層の興味を持つようになった。時子にもデートはどこへ行くとか、どんな話をするとか、カップルに人気のスポット等はあるのか、とかより詳しい話を自分から聞くようになった。自分ではさりげなさを装ったつもりだったが、実際はあからさまにも程があった。だが時子は空気の読める人物だったから、気づかぬふりをして色々なことに答えてくれたし、有益な情報をくれたりした。いつか杏子の方から事情を話してくれるだろうから、その時を待つつもりだろう。そんな彼女に何もかも話せないのは本当に辛い。杏程ではないが、彼女も杏子にとっては支えの一人だった。彼女は杏子のことを特別扱いしないし、変な目で見ないし、愚痴だって聞いてくれる。彼女の彼氏である陽太も良い人で、男ではあったが割と気楽に接することの出来る人だった。時子以外の女子達の恋愛話にも耳を傾けることがあり、共感したり驚いたり情報を得たり。もっともこちらは勝手に聞いているだけだが。

 

 しかしそうして恋愛ごとにかまけてばかりもいられない。授業中は勉強になるべく集中し(杏のことを考えてしまうこともあったが)、予習・復習も忘れない。この辺りをあまり疎かにして目に見えて成績が落ちれば、怪しまれてしまう可能性があるからだ。元々だらだら長い時間はせず、比較的短い時間で集中的に勉強するタイプの人間だったから、杏と過ごす時間が増えてもそれ程大きな影響はなかった。

 それでも色々と行動に変化があったことに変わりはない。

 杏と会う為着飾って家を出ようとした杏子を母が引き留めた。彼女の顔はいやに曇っていた。


「杏子……貴方今日もお出かけ?」


「え、ええ。今日は夕飯も食べて帰るからいらないわ」


「……近頃貴方、出かけることが多くなったわね。学校から帰ってくるのも遅いし。友達と遊んでいるというけれど……本当に友達?」


「そうよ。友達じゃなければ、他に誰がいるというの?」

 あくまで杏とはまだ『友達』なのだから、嘘は言っていない。しかし母は納得せず、不安に満ちた表情を浮かべながら杏子に迫った。


「いつも友達と遊ぶ時、貴方そこまで着飾っていなかったじゃないの。今までつけないようなアクセサリーもつけて……新しい服を買うことも多くなったし……それに、それに今の貴方ったらお父さんに出会った頃の私と同じ顔をしているわ。心から人を愛した時の私の顔に。男の人なの、ねえ杏子、貴方もしかして男の人と会っているの?」

 震える声で尋ねる母にがしりと肩を掴まれる。杏子は一生懸命首を横に振り否定をした。


「違うわ、本当よ。ただ最近友達の格好とかを見て、私ももっとおしゃれとかしてみたいなと思うようになっただけ。人の注目をますます集めるようになってしまいはしたけれど、でもそれ以上に楽しいの。おしゃれに目覚めたのよ、ええ、そうよ。私が男の人と会う? そんなことするわけないじゃない。恋だってしていないわ、本当よ。男なんて汚らわしい生き物、私の命を脅かすものでしかないわ」


「杏子、杏子、それは本心でしょうね? ああ杏子、私もう……もう……杏子、どうか私達を不安にさせないで。もう私、貴方を失いたくないのよ。娘の死に顔なんて二度と見たくない。男の人と会っただけで死ぬ身ではないけれど、でも貴方が男の人と二人きりでいるのを想像するだけで心臓が止まりそう。とても耐えられない。本当にただ友達と会うだけなら良いけれど、男の人に会いに行くというなら止めて頂戴。例え友達でも、嫌だわ。男の人に幸福などないわ。恋などしても貴方は幸せにはならない。杏子、間違っても男の人の中に幸福を見出すなんて馬鹿なことはしないで。恋は貴方にとって不必要なもの。貴方も私達も不幸にするものよ。杏子、杏子、愛なら私やお父さん、天女様が幾らでもあげる。他の人にそれを求めなくても幸福でいられる位、沢山」


「わ、分かっているわ。本当に友達と遊んでいるだけよ。母さん、信じて頂戴。私の命は私のものだけではない。易々と放って捨てるようなことなどないから安心して」

 そう微笑みながら杏子は一生懸命母をなだめた。早く杏の元へ行きたい、電車に遅れて彼を待たせたら大変と思いながら。杏子の言葉に最後は母も納得し、貴方がそう言うなら信じるわと言って涙を拭う。そして杏子を送り出した。行ってきます、そう言って家を出た杏子は足早になる。

 歩いている内、ふつふつと腹の底から湧き上がるものがあった。黒く、熱く、粘り気のある……それは激しい怒りの感情だった。母にこれ程の怒りを覚えたのは初めてだった。


(男の人に幸福が無い? 恋などしても幸せにならない? 不必要なもの? 冗談じゃないわ! 今の私に一番の幸せを与えているのは、杏よ。あの人を想い、あの人に想われることが私の幸せ。あの人の愛に勝る愛などありはしないわ! 私の幸せを勝手に決めないで。いつもいつもいつもいつも、あの人達は勝手に決める。勝手に決めて人を守っている気になって……どれだけ愛されても、私はもう満たされない、私を満たしてくれるのは彼だけなんですから! 何十何百の愛を貰ってもあの人の愛一つがなければ意味なんてない! 何が幸せなのか決めるのは私自身、そう私自身よ。そもそもあの人達は私のことを考えているわけじゃない。結局、自分達のことしか見ていないんだ。自分達の幸せを、私に押しつけているだけ!」


 本当はずっと昔から自分は両親や胡蝶に対して苛立ちを覚えていたのかもしれない。ただ気づかなかっただけで。天女の愛は杏子を人並み外れた容姿にした。結果必要な人は遠ざかり、醜い炎を胸の内に秘めている男ばかりを近づけた。告白を断り続け、女子に嫌味を言われ、危害を加えようとするものに蝶をけしかけた結果『危害を加えたり、近づきすぎると呪われる』などという噂をたてられ、恐れられた。男の人と交われば死ぬ体になった。男の人に好意を抱いても、三人を不安にさせまいと無理矢理恋心を封じなかったことにした。いつだって彼等のことを考えて行動せねばならず、そして彼等に守ると評して縛られてきた。他の人に出来ることが出来ない苦しみを味わい続けた。


 杏に会い幸せな気持ちで帰った後恋はするなとか私達を悲しませないでとか、裏切らないでとかいつものようにそういったことを言い聞かせてくるので、萎えてしまう。折角の良い気分を彼等はいつも台無しにする。そうしておきながら『杏子を守っている自分』に満足している。それがどうしようもなく腹立たしい。

 男と交われば、死ぬ。そのことがあるから心配していることは分かっている。失った辛さを知っているから、もう二度と失いたくないとより強く思っている――それも分かっている。分かっていても、どうにも抑えられないものはある。


 杏とデートし、家に帰ると胡蝶がいた。いつも通り夕飯を食べ、自室で語らい、いつも通り髪を梳かしてもらう。彼女はいつもと同じように杏子の美しさを褒める。かつては彼女に褒められることに最大級の喜びを感じていたが、今は何も感じない。杏子に喜びをくれるのはもう杏だけだったから。

 私の蝶、夫婦の花。それを聞くと今はむっとする。それが自分をペット、人形扱いしている言葉に聞こえてならないからだ。そして心の中で軽蔑する。

 胡蝶様、貴方が飼っていた蝶はもうとっくにその白い手から逃れていますよと。父さん、母さん、貴方達が育ててきた花はもう貴方達の為になど咲いていないわ、と。


「本当に綺麗になったわ……近頃はますます。まるで恋する乙女の様ね。恋した乙女というのは、信じられない位一気に綺麗になるというもの。お母さん、心配していたわよ。貴方が誰かに恋しているのではないかと。別にその相手が女性だったら構わないわ。でも男が相手では良くない。ねえ杏子、貴方本当に男に恋などしていないでしょうね? その身と命を差し出しても構わないと思える程愛している男など」


「いません。誓っていません、胡蝶様。信じてください」


「私の目を見て言って頂戴、杏子」


「見ているではありませんか、これほど真っ直ぐに」

 体勢を変え、胡蝶の瞳を真っ直ぐ見る。胡蝶はそんな彼女の顔を白く冷たい手で優しく覆う。まるで壊れ物でも扱っているかのように。


「いいえ、その目ではないわ。貴方の中にある本当の貴方の目をこちらへ真っ直ぐ向けて頂戴。内の貴方は私を見ていないような気がするわ。今まではずっとちゃんと見てくれていたのに」


「見ています、誓って見ています。私は貴方の蝶、父さんと母さんの花。それは一生変わりません。女にも、男にも、恋している人はいません」


「そう。それなら良いのだけれど……ねえ杏子。私達を裏切らないでね。絶対によ」


「ええ、分かっていますわ。私の愛する天女様」

 そう言って杏子は微笑む。もう彼女の言葉に縛られる杏子ではなくなっていた。胡蝶の言葉から魔力は消え、何を言われても無でいられるようになった。杏の「彼女のことは信じすぎない方が良い」という言葉はずっと杏子の中にこびりつき、消えていなかった。それが胡蝶に対する『嫌悪感』や『不信感』を生成したようだ。一度生まれたそれは膨れ上がり今や胡蝶は美しい天女、絶対的な存在ではなくなっている。親と胡蝶自身による洗脳が解けた思い。

 正直、もう杏と会う時罪悪感など覚えなくなっていた。彼等の思いに背いた行為――杏との恋、逢瀬はもう彼女に苦しみを与えない。今は甘いものだけを与えてくれる。二人だけの秘密の恋が生みだす甘いものに杏子は溺れ、そして『恋していることを誰にも打ち明けられず、両親には祝福されず、一線を越えることも出来ない可哀想な自分』に酔った。理不尽な運命を呪い、呪いながら恋を悲劇的で美しいものにするスパイスにしていた。


(いいじゃないの、別に。ようは最後の一線を越えなければいいんだ。全てを求めるけれど、でも私だって死にたくはない。……この秘密の恋、守り通してみせる。私の幸せの為に)

 もう今の杏子は誰にも止められない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ