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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
蝶よ花よ
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蝶よ花よ(3)


「驚いたよ、まさかまた君と会うことになるなんて思いもしなかった」

 店の隅にある席に座った男はこの店自慢の、ドライフルーツとナッツたっぷりのパウンドケーキと紅茶を口にし、微笑んだ。杏子は私も、とこくこくと頷いた。会いたくてたまらなかった相手なのにまともに顔を合わせることが出来ず、膝の上においた拳をぎゅっと固く握りしめ、テーブルの上に載った昔ながらのパンケーキを凝視するばかり。内側から熱されている体は柔らかくなるどころか、冷たい水に触れたガムの如くかちこちになっており、頭はすっかり真っ白になっていた。


 会いたくて、会いたくて仕方の無い人だった。もう二度と会えない人だと思っていた。だがまたこうして会えた。そのことがたまらなく嬉しく、だからこそ杏子は動けなかった。

 彼ともし会えたら色々と聞きたいことがあった、沢山話をしたいと思っていた。だがいざ本人を前にすると緊張のあまり喋ることが出来ない。あまり黙っていたら嫌われてしまう、何か話さなければと口を開くが出てくるのは言葉とは到底言い難い珍妙な音だけ。美味しいパンケーキを食べて少し心を落ちつけようとフォークを手にするが、ぽろっと零れて床に落ちる。店員がたまたま近くにいたのですぐ代わりのフォークをくれたが、杏子は恥ずかしくて仕方が無かった。


(嗚呼、私ったらみっともない姿しか見せていない。ろくに喋りもしないで、かちこちになって、フォーク落として……恥ずかしい。私、この人にはこんな情けない姿見せたくないのに)

 今すぐこんな自分を見ないでと逃げ出してしまいたくなったが、ここで逃げたらもう今度こそ永遠に会えなくなるかもしれない。逃げるにしても、この体は当分まともに動きそうにない。早鐘を打つ心臓は今にも口から零れ落ちそうだ。いや、実はもう零れて外へ出ているかもしれなかった。普通、とはいえない状態の杏子を見ても男は訝しがる様子も、嘲る様子もなくただ優しげに微笑んでいる。その笑みは大丈夫だよ、と杏子に言っているように見えた。少しだけ気持ちが、楽になる。


「君はこの街の人なの? それとも以前会った街の人?」


「え、あ……あの、こ、ここ……この街で暮らしているわ。あの時はたまたま遊びに行っていただけ。あ、貴方はあの街の人ではなかったようだけれど、あ、あの、こ、この街の人なの?」


「いや、僕はこの街の人ではない。ちょっと遠くで暮らしているんだ。ただ時々この街には来てね、その度この店に寄るんだよ。ここは静かで落ち着くし、お茶もお菓子も美味しいからね。結構お気に入りなんだ」


「まあ、本当に? あの……私もよ。私もここが好きで、よく利用しているの」


「そうなの? へえ、それじゃあもしかしたら同じ時にこの店に居た時があったのかもしれないね。けれど君ほど美しい人に気づかずにいるなんてこと、ないか。……なんて、これじゃ口説き文句みたいだね」

 男はきょとんとしてから再び微笑み、それからはははと苦笑い。美しい、口説き文句。その言葉に杏子はどきりとする。そして喜びで胸を満たすのだった。男に美しいと言われて嬉しいと思ったのは初めてだ。どぎまぎしている杏子を見た男は頬杖をつき、かと思えば今までと違う妖しい笑みを浮かべた。それは胡蝶が見せる笑みに近い、どんな人間の心も一瞬で己の手中に収める恐るべき魔力をもったものだった。その瞬間彼は人間の殻を捨て、その中にあった異界の住人としての自分の姿を晒した――そんな錯覚を覚える程の変わりよう。


「口説いても……良いかな。実は僕は一目見て君に惹かれた。あの時道を聞くだけでなく、本当は名前やどこに住んでいるかも聞きたいと思ったよ。けれど流石にそのような真似は出来ないと思ってね。でも、後悔した。矢張り例え君にあさましい男だと思われても、あの時聞いておけば良かったと。ずっと、ずっとね君のことを考えていた。」

 耳元で囁かれているような感覚。ほう、ほう、という甘い吐息が自分の耳にかかっているような気がして、体がかあっと熱くなった。そして、彼の言葉に驚愕するのだ。

 この人もあの日以来ずっと自分のことを考えていたなんて!

 それではまるで自分と同じではないか。自分と彼はあの日あの瞬間、同じ想いを抱いたのだ。自分だけでは無かったのだ。このような物語的な恋が本当にこの世にはあったのか。


「実は今、とても緊張しているんだよ。カップを持つ手も震えてしまって、落としてしまったらどうしようと不安に思っているんだ。君の前で恥ずかしい思いはしたくないのに。情けない男だよね」


「わ、私! 私もよ……」

 困ったように笑う男の言葉は、自分の気持ちそのままだった。何もかも同じで怖い位だ。それは喜び、幸福からくる恐怖であった。何でも過剰になれば恐怖になるのだ。え、と目をぱちくりさせている男を見、でもずっと見つめていたらとてもじゃないが耐えられないから、すぐ視線を下へやる。握る拳に汗が滲むように、膨れに膨れ上がった想いは溢れじわりと体に滲む。それを今、彼は感じ取ってしまっているだろうか。

 

――ねえ杏子、貴方は私や両親を裏切らないわよね。悲しませないわよね?――


 胡蝶の声が聞こえる。甘い吐息の幻が耳にふうっとかかる。

 駄目だ、これ以上はいけない。いや何でもないとごまかすのだ、そして別れなければ。ここで自分も同じ気持ちだと言ったら、もう後には退けなくなってしまう。万が一にも両親や胡蝶を悲しませるような事態が起きてはならない。それを起こさぬ為にはここで別れるのが一番だ。そしてこの店には二度と立ち寄らず、偶然にも会うことがないようにする。そうしなければいけない。

 美しい天女が何度もかけた言葉は杏子が一歩前へ進むことを阻害する呪いのようになっていた。その言葉が頭の中で繰り返し再生され、彼女を冷静にさせようとしている。両親や胡蝶より大切な恋などこの世にあるものか、強い気持ちを持って彼を拒絶しよう、そして今までで一番の『恋』は宝物として心の奥底に大事にとっておくのだ。さよなら運命の人、私は別の運命の為に貴方を捨てなければいけないのだ。

 杏子は口を開いた。続きの言葉を待っている男の為に。


「私もよ、私もずっと貴方に会いたいと思っていたわ。ひ、一目見ただけなのに……私、忘れられなかった。あ、あんなこと本当にあるものなのね。名前も住んでいる所も知らない人……きっと二度と会うことはないと思っていたわ。そう思いながら、会いたいと願わずにはいられなかった。だからとても私、嬉しいの。嬉しくて、し、しか、仕方が無いの」

 口から出てきた言葉は、泣く泣くした決意とはまるで違うものだった。このまま先へ進んではいけない、きっと良くない結末を迎えることになる――けたたましい警告音が頭の中で鳴り響き続ける。その音を聞き続けながらもなお杏子は言葉を続けた。


「あ……あ、あ、貴方に口説かれるなら私本望よ。産まれて初めてなの、こんな気持ち」

 こんなことを話してはいけない、これでは駄目だということは分かっていた。それなのに思いに反して自分の口から出てきた言葉は、彼の言葉を受け入れる意を示すものだった。両親や胡蝶のことを思うと胸が痛い、だがその気持ちを彼女は『大丈夫、この人かららあの醜い赤黒い炎は見えない。この人なら大丈夫だ、少なくともすぐ手を出してくるなどということはあるまい』などという何の根拠もない考えで抑えつけようとしていた。いざとなったら蝶がどうにかしてくれる、という考えもあった。

 男は口をぽかんと開けながらそれを聞いていたが、やがて顔を真っ赤にしながら初めて杏子から目を逸らした。軽く握った左の拳に覆われた口は今、喜びの形をしているだろうか。その姿を可愛らしい、と思ったらますます胸の鼓動が激しくなった。年頃の、ごく普通の人間の男の子らしい顔。先程の妖しい笑みを浮かべた顔と同じものとは到底思えず、またその差が余計彼女を魅了したのかもしれない。


「まさか、そんなことが……それじゃあ僕達、揃ってあの時一目惚れ?」

 杏子は頭を激しく振って頷く。再び男と巡り合えた時、これは夢ではないかと考えた。その後夢ではなく現実だということを実感し、そして今は矢張り夢なのではないかと思ってしまう。想っているのは自分だけではなかったなど、到底信じられなかった。だがきっと嘘ではないだろう。

 しばし、お互い真っ赤にした顔を合わせようとはしなかった。カップを持つ手が、震える。


「……運命ってやつかな」


「え?」


「すごく気障ったらしい言い方だけれど。あれって運命の出会いだったんだね。だからこうしてまた巡り会えたんだ、僕達は。運命の出会い、運命の人。……いたんだね、本当にそういう人って」

 はにかみながら笑う男と、杏子の目が合う。天井に吊るされた黄と橙のステンドグラスランプの灯りが増し、店の中静かに流れる洋楽が心に染みる。運命の人と出会い、恋に落ちた女性の曲だ。眩い輝きと音楽、自分、そして目の前にいる『運命の人』――それが今の杏子の世界の全て。


(逃げられるわけがないじゃない。だって、だってこれは運命なのよ。運命から逃れられるわけないじゃない。嗚呼、だから運命の人など自分には居てはいけなかった。でももうこの出会いを私、あってはならないものだったなんて思えない。大丈夫よ、大丈夫。要は最後の一線を超えなければいい。恋をしても、肉体関係さえ持たなければ何も問題ない。平気よ、この人はきっと分かってくれるし、私もそれだけ我慢すればいい。我慢は得意だから、大丈夫、大丈夫)

 二人は話をし、まず『友達』から始めることにした。まだお互いのことなど知らないし、いきなり恋人同士というのは何だか違和感があったのだ。そしてそれは彼女にとって助けの言葉となった。『友達』だから大丈夫だ、という逃げを与えてくれたから。その逃げは所詮姑息なものだけれど。


 杏子と男はそれからお友達として、お互いのことを色々話した。男の名前は上藤杏(かみふじきょう)というらしい。同じ『杏』という名が入っていることに驚き、そしてますます彼に運命を覚える杏子だった。

 全く彼は不思議な男で、年齢を聞けば「十八ってことにしておくよ」と言い、住まいを聞けば「君が来られないような場所」と言う。学校には通っていないらしく(家庭の事情云々は特にないらしいが)、今時珍しく携帯を持っておらず、今の今まで人ひとり通らぬ山奥にある屋敷に一人閉じ込められていたと言われても驚かないだろうと思える程世間のあれこれを知らない。杏子も両親がニュース以外のTVをあまり見ない上、自らもあまりバラエティや音楽番組を見ることが無かったから流行りの人や物には疎いが、どうやら彼はそれ以上らしい。話していると「それさえ知らないのか」と驚愕することもある。そして外国語や和製英語なども苦手である様子。一方でとんでもないことを知っており、どうやら知識に相当な偏りがあるらしい。

 自分のことはあまり語らず、はぐらかす。そのくせ彼は杏子の全てを引き出そうとする。いや、引き出すのではなく彼が声を通じて杏子の中へ入り込み、奥深くまで潜ってきているといった方が正しいかもしれない。彼は下へ、下へ入り込み沈んでいく。そして何もかもその目で見ようとしている。彼の声は頭をぼうっとさせ、微睡の海に杏子を沈める。遠くから聞こえる声に、杏子は何も考えられぬまま次々と質問に答えるのだ。

 

 そうして彼女の中に入り込んでいく杏の雰囲気はころころと変わった。年相応らしい顔になったかと思いきや、異界の住人の如き妖しさを見せ、また優しげな顔になり、ふとした瞬間背筋がぞっとする程冷たい瞳で杏子を刺す。無邪気な青年になったかと思えば、聡明で落ち着いた雰囲気の青年になり、冷酷で残忍な青年にもなる。まるで万華鏡のような男だ。だがその気味悪さを覚える程の変わりよう、掴みどころのなさが杏子をより惹きつけた。


「貴方は……貴方はとても不思議な人ね。本当の貴方の姿は、一体どれなの?」

 思わず尋ねていた。


「君がこれだと思った僕が、本当の僕かな。そういうことにしていいと思う。君はどの僕がいいかな? なんてね」

 彼はそう言って頬杖をつきながら妖艶な笑みを浮かべる。初めて会った時も妖しさを感じてはいたが、今はその比ではない。そしてその強さは杏子のものを軽々と越えていた。もしかしたら彼は人間ではなく異形の者なのかもしれない。格好は薄い青の長袖ボタンシャツにジーンズと胡蝶とは違って現代人らしいものだが、こちらの世界で人間として暮らしている異界の住人もいると聞く。隣にある桜町、そのはずれにある喫茶店で働いている男性も実は化け狸なのだ、と彼女が以前話していた。その店を訪れたことがあり、その男性を見たこともあったが胡蝶のような妖しさはなくとても異界の住人とは思えなかったが、胡蝶がそうだと言ったのだからそうなのだろう。普段人の世で暮らしていなくても時々こちらへ遊びに来る者もいるし、この世界で産まれこの世界だけを知る者もいる。


(この人はもしかしたら、普段は境界の向こうにあるという異界に住む者なのかもしれない。そして時々現代日本に馴染む格好をしてこちらへやって来る……)

 その考えを馬鹿げている、の一言で捨てられる杏子ではない。この世に天女様がいるなら、妖や精霊や幽霊がいてもおかしくはない。実際胡蝶も「いる」と言っている。だからそれらは確実にこの世にいるのだ。


「不思議といえば、君もとても不思議な人だね。間違いなく人なのに、人が持つものではないものを持っている。……君はそれをどうやって手に入れたの?」

 彼の瞳は杏子の背後にいる胡蝶の姿を見ているように見え、ドキリとした。彼女の存在は家族以外の誰にも知られてはいけない。十七年の秘密。そして彼女のことを語るということは、自分の秘密も語るということ。まだ話しだしてから二時間も経っていないのに、彼はもうそこまで辿り着いてしまった。杏子の奥の奥にしまっている、最大の秘密に。


「大丈夫だよ、話してしまっても。僕は君を理解出来ない人ではない。そして君も僕のことをきっと分かってくれる。本当はもう少ししてから明かそうと思っていたけれど、今でもきっと大丈夫だ。明かしても君は僕と友達でいてくれる。その先に進むことだってきっと出来る……ねえ、君は気づいていると思うけれど僕は人ではない。けれど時々こちらへやって来てね、面白そうな場所があるとそこへ足を運ぶんだ。君に尋ねた店も、本屋にあった本に載っていたのを見て興味を持ったんだ。ねえ君、これは君と僕だけの秘密だよ。君にだけ話した。後にも先にも、君以外に話すことは無い。ねえ、だからねえ教えてよ君の秘密を……僕の運命の人」

 彼はテーブルを挟んだ向こう側に座っている。だがまるですぐ隣に座り、肩を抱かれ耳元に唇を寄せられているような心地だった。彼の『君と僕だけの秘密』という言葉が杏子の体内へ入り込んでいく。少しの間に秘密を、誰も知らない秘密を語ってくれた彼。それならば自分も、同じように。しかし幾らなんでもそれは、と躊躇う。


「大丈夫、誰も君の声は聞こえていない。僕だけが聞ける。さあ、話してごらんよ」


「私は……」

 ぎゅっとスカートを握りしめ、俯く。胡蝶の顔が浮かび、誰も私のことも貴方のことも理解出来はしない、だから誰にも話しちゃ駄目よという声が聞こえる。彼女の言葉は今まで杏子にとって絶対で、彼女の言葉を信じなかったこともなかったし、彼女が絶対するなと言ったことを破ったこともなかった。両親の言いつけも同じように。

 だが杏子は話したくて仕方なかった。今まで杏子はずっと誰にも言えずにいたが、本当は誰かに言いたかった。大切な友達の時子などに全てを吐きだし、本当の自分を理解してもらいたいとずっと思っていた。だが時子に話しても流石に信じてくれないだろう。何もかも誰かに吐きだしてしまえばずっと楽になるだろうに。

 話しても誰も信じてくれない、笑われるだけ、理解などされない。でも分かって欲しかった、誰かに――家族以外の人に。目の前にいる彼ならば、人ではないという彼ならば理解してくれるかもしれなかった。

 理解してもらいたい、知ってもらいたい。何も知らない人達だけに囲まれ、嫌味を言われ、あることないことを言われ、告白され、襲われ……そんな日々は沢山だった。誰か一人だけでも、『外』のコミュニティに一人だけでも本当の自分を理解してくれる人がいればいいのに、とずっと願っていた。

 杏子は「胡蝶様、ごめんなさい」と一言謝ってから口を開く。


「私は……私は実は一度死んでいるの。産まれてすぐに。けれどそれを天女様に助けられたの……」

 語りだすと、もう止まらなかった。杏子は会って間もない彼に誰にも言わなかった『秘密』を洗いざらい話してしまった。杏ははじめ驚いたような表情を浮かべたが、後は真面目な顔をして黙って聞いていた。そして全て語り終えると、ふっと微笑んだ。


「そうか、そうだったんだね……だから君は人間でありながら、人間が本来持ちえないものを持っていたんだね。家族以外の誰にも語ることが出来ず、その大きな秘密を一人抱えていたんだね。辛かっただろうね、苦しかっただろうね。でも大丈夫だよ、僕がいるから。僕には好きなだけ吐きだしていいからね、君が少しでもそれで救われるなら」


「ええ、ええありがとう。……ありがとう」

 杏子は嬉しくて仕方が無かった。杏の声から、彼が自分の全てを理解してくれたことが分かる。それがとても嬉しくて、幸福で、安堵に涙が零れそうであった。

 嗚呼、この人にならついていける。相手が人間でなくたって構わない、この人となら、きっと。

 二人は遅くまで語らった。杏子は胡蝶と共にいる時、いや或いはそれ以上に幸福に満たされた時間を過ごした。だからもうそろそろ帰らないと、と杏が言った時は悲しくて仕方が無かった。魂の一部が切り離されたような痛みを覚える位、もう杏子の中で彼と自分は一つになっていた。

 杏子は彼にメールアドレスを聞きかけ、それから彼が携帯を持っていないことを思い出し肩を落とす。せめて彼が携帯を持っていたら離れていても話が出来るし、いつどこで会うか決めることも出来るのに。


「ごめんね、杏子。ただ僕、あの手持ち電話を持つつもりはないんだ。手持ち電話の手紙機能を使えば、いつでも君と語らえるというのに。僕はああいう機械は苦手で……向こうには無いようなものだからね。でも大丈夫。手持ち電話が無理なら、手紙でやり取りすればいい。古典的だけれど、なかなかしゃれていて良いと思うよ。君にとっては新鮮だろう。僕の従者に明日手紙を持たせてこの店の前に立たせるよ。彼から手紙を受け取ったら返事を書いて。従者には毎日この店の前にいてもらう。大丈夫、君が来るまでは他の人の目に映らないようにしてもらうから、怪しまれることはないだろう。手紙が書けなかったり、用事があって来られなくても問題ないよ」

 従者には決まった時間までいてもらい、もし杏子が来なかった場合は帰るそうだ。しかし毎日ここで何時間も待たせるなど申し訳ない、と言ったが杏が「大丈夫だ」と何度も言うので、最後にはその案を受け入れた。そして二人はまた会える日を心待ちにしながら別れた。

 帰路を辿りながら時々杏子は己の白い頬をつねる。桜の花びら咲く程つねるから、痛い。その痛みを感じても、今日の出来事は夢なのではないかという思いを捨てきれなかった。行きつけの店で偶々会って、話をして、相手も自分のことを想っていて、友達から始めてくれて、自分のことも理解し受け入れてくれて――自分にとって都合の良い展開だけがこれだけ続いて夢だと思わない方が無理な話だ。だが夢ではないのだ。

 杏のことを思うと、胸が高鳴る。その音が外に漏れぬよう祈る。ああ私は彼が好きだ、どうしようもない位好きだ。今日話したことでますます好きになった。


「杏子、今日は遅かったのねえ」

 だが彼女が幸福な気持ちを抱いていられたのも家へ帰るまでのことだった。ただいま、と玄関のドアを開けリビングへ入った杏子は凍りついた。にっこりと笑う胡蝶の姿を見たからだ。一足先に夕飯を食べていた胡蝶と両親の姿を見た瞬間彼女は、今己が彼等の望まぬ自分になっている事実に突き刺された。


――杏子、恋などしなくていいのよ貴方は。しても辛いだけよ。男の人と交際してはいけないわよ。そんなことされたらお母さん倒れてしまうわ、きっと。今でさえもし貴方が男の人と関係を持ってしまったらと不安で仕方が無いのに、男の人とお付き合いなんてしたら毎日毎日不安で苦しくて死人の様になってしまうでしょうよ――


――杏子は良い子だから、私達を心配させるようなことはしないね。いいか杏子、例え誰かに恋をしてしまってもその想いは忘れるよう努めなさい。忘れる苦しみより、想い続ける苦しみの方がずっと酷いものだろう。一人では無理なら胡蝶様にお願いしなさい。きっと忘れさせてくれるだろう。私達も出来るだけ忘れられるよう協力するから。杏子、お前は私達を悲しませたりはしないね? 可愛い私達の娘――


――杏子は私達のこと、裏切らないわよね? 悲しませたりしないわよね?――


 しつこい位聞かされた言葉の数々。言い聞かせて縛って押さえつけようと必死だった三人。しかしそんな彼等の手をすり抜け杏子は一人の男を愛し、その想いを忘れず、相手に告げ、秘密を語った。

 今杏子は彼等が最も恐れている未来へ続く道を歩いている。三人に知られぬよう、そっと、黙って。そう思ったら幸せによる胸の鼓動は、緊張と罪悪感によるものに変わった。胡蝶はそんな彼女の思いも知らず、会えて嬉しいでしょうとばかりに笑んでいる。


「こ、胡蝶様今日もいらしたのですね……確か三……三日前にもいらしてましたよね」


「ふふ、珍しいでしょう? これほど短い間隔で来たことなど殆ど無いものねえ。ほら貴方が私と会えないと寂しいと言うから。兎の様に寂しさのあまり貴方に死なれてしまったら私困るもの。だからすぐ来たのよ。もっとも私は気まぐれだから、すぐ以前と同じ頻度に戻ってしまうかもしれないけれど。まあ杏子ったらそんな顔をして、余程驚いたのね。でも嬉しいでしょう? 嬉しいと言って頂戴な、そうしなければ私拗ねてしまうわよ」


「勿論、嬉しいですわ胡蝶様。ま……毎日でも会いたい位です」

 無理矢理笑顔を作り、本心を声に混ぜぬよう細心の注意をはらった。胡蝶はそれは良かったわと幼子の様に無邪気に笑う。それを見て杏子は内心ほっとする。


(ああ、良かった。私の変化に気づいてはいないみたい。もしあの人とのことが知れたら大変だわ。知られようものなら、きっと全力で引き離されるに違いない。下手すれば、あの人は恐ろしい目に遭ってしまう……それだけは避けなくては。それにしても私は……嗚呼、命の恩人や両親の想いに背いて……!)

 杏子は杏との恋を美しい宝物、素晴らしい物語だと思っていた。だが今になって自分がとてつもなく悪いことをしている気持ちになった。許されざる罪を犯した罪人に自分はなってしまったのではないか?

 何も知らない両親はいつも通り杏子に優しく、胡蝶も矢張りお前は美しいと愛でてくれる。だが彼等から愛情を受け取れば受け取る程、苦しくなる。偽物の笑顔を浮かべながら食べる夕食は何の味もせず、誰の話も、自分がしている話さえ頭に入らない。恋と嘘と罪と罪悪感と嫌悪感がぐるぐると巡り続け、それらがばれたらどうしようと思ったら生きている心地がしなかった。


 夕食の後、胡蝶と自室で話をしている時もその状態は続いた。彼女はきっと両親以上に敏感だろうから、ボロを出せば杏とのことがばれてしまうかもしれない。彼に恋慕し、彼にもう一度会いたいと思っていただけの時でさえ「もし恋心を知られたら」と思ったら気が気でなかったのに、それより更に進んでしまった今など罪悪感とばれたらどうしようという気持ちが作った針のむしろの上で正座し続けているような心地。

 お前の髪は美しいわねえ、とさらさらと髪を手ですかれる度、心臓を白く冷たいその手で鷲掴みにされたような気持ちになる。


「杏子、今日は少し顔色が悪いようよ。大丈夫? またつまらぬ男に言い寄られたのかしら?」


「え、ええ……また今日も。しかも大変乱暴で強引な男だったものですから……」


「そうだったの。災難だったわね。でも今日はそのことを私に話してくれなかったわね? いつもなら話してくれるのに」


「これ、これから話そうと思っていたのです。口にするのもおぞましいと思えるような男だったので、なかなか話すことが出来なかったのです。私は胡蝶様には自分のこと全てを包み隠さずお話しますわ」

 作り笑いをして言うと、胡蝶は納得したように頷いた。嘘一つ吐いただけで胸が苦しく、また痛む。もういっそのことばれてしまった方が楽になるのではないかとさえ思う位だった。それだけ両親や胡蝶に嘘を吐き、真実を隠すことは杏子にとって大変で、罪深いことで、おぞましいことであった。

 胡蝶の手が両肩に置かれ、艶やかな唇が頬に触れそうな程近くにある。甘い吐息を通じて杏子の中へ入り込み、隠し事を見つけ出そうとしているように思うと気が気でなく、悲鳴をあげて逃げることが出来たらどれだけ良いだろうと思う。もしかしたらすでに見つけているのかもしれない。

 耳元でいつもと同じ言葉が囁かれる。


「杏子、貴方は恋などしなくて良いのよ。恋などしなくても、伴侶など得なくても貴方は幸せに生きていける。両親が死んでしまっても、私がいるわ。私が貴方をずっと守ってあげる。ずうっと幸せにしてあげる。だから男に恋などしないでね、一緒になどならないでね。恋などしても苦しいだけよ、良いことなど一つもないわ。命がけの恋など、馬鹿げている。貴方は聡い娘だから、絶対そのようなことはしないわよね? 貴方の命は貴方だけのものではない。私や両親を裏切り、悲しませることだけはしないでね。約束よ?」

 耳にたこが出来る程聞いたその言葉も、聞きようによっては「貴方が男と恋に落ちたことは知っている。けれどまだ引き返せるわ、気づかないフリをしている内に別れてしまいなさい。そしてその恋をすっかり忘れてしまうのよ」と言っているように聞こえる。

 今までそんなこと言われなくても分かっている……それだけで済ませていた言葉が今は痛く、そして恋によって上がっていた体温を急速に冷ましていく。


(そうだわ……私は恋をしてはいけないのよ。好きな人を作ってその人と一緒になっても……幸せにはなれないし、いつか過ちを犯して命を落とすかもしれないと毎日怯えることになる……両親も、胡蝶様も同じように。私が恋をしても誰も幸せにはならない。この恋を諦めるなら、悲しみ苦しむのは私だけで済む。でももしそのまま進めば私も両親も胡蝶様も苦しむことになる……今ならまだ、引き返せる)

 その夜杏子は夢を見た。自分と杏とのことがばれた夢だ。両親はどうして私達に怖い思いをさせるの、貴方が男の人を好きになっても誰も幸せになれないのよと杏子を泣きながら責める。そして目の前にいる杏に向かって「うちの杏子を誑かすな」「人の幸せを奪って何が楽しいのか」と詰った。杏子はそれでも杏と離れたくなくて手を伸ばし、彼もまた手を伸ばすが届きそうで届かない。


「私は、私はあの人といたいの! 最後の一線を越えたりなどしないから、お願い、お願いよ私の我侭を聞いて! あの人のところへ行かせて!」

 必死に叫び両親の束縛から逃れようとする杏子の肩に、手が置かれる。


「裏切り者」

 酷く冷たい声で、そして妖艶な声で胡蝶は言い放った。その瞬間杏は無数の黒い蝶に覆われ、悲鳴と共に消えていった。そして胡蝶は天へと昇っていく。


「さようなら、私の美しい蝶。私を裏切った貴方を、もう私は愛せない。殺してしまいたいほど憎いけれど、許してあげる。でも、もう二度と会わないわ。さようなら」

 杏子にとって彼女に詰られ、離れられることは耐えがたい恐怖だった。杏子は杏が先程までいた場所から、天へ昇っていく胡蝶へ視線を移し叫んだ。ごめんなさいごめんなさい、謝ります、もう二度とこのような真似はしません、だから許してください、私の天女様……。

 叫んでも胡蝶は戻ってこなかった。そして彼女の体が完全に虹色の雲たなびく黄金の空に溶けて消えたところで杏子は目を覚ました。天井を見上げながら杏子はぜえぜえと荒い息を吐き、胸を抑える。冷や汗が体を次々と伝い、ベッドを濡らす。夢だということに気づいたのは少し経ってからで、彼女は良かったと安堵するが夢は頭から離れない。普通の夢の様に忘れてしまうことが出来たら良いのに。


(あれは夢。けれど、現実になりうるもの。このまま進めば私は何もかも失ってしまうかもしれない。彼だけでなく、胡蝶様も私の前から消えてしまうかもしれない。あの方の愛を私は……嗚呼、そんなこと考えるだけで恐ろしい!)

 杏という愛しい男と巡り合ってなお、胡蝶の愛情を失うことは耐えがたい恐怖であった。彼女の中で唯一絶対の神となっている彼女に見捨てられたら、生きていけないとさえ思う。だが杏と別れることも辛い。彼と決別した自分は、最早自分ではなくなってしまうとさえ思った。それでも一番恐ろしいのは、胡蝶の愛を失うことの方かもしれなかった。

 学校で過ごしている間、杏子の頭の中は夢のこと、これからのことでいっぱいだった。今日杏は従者に手紙を持たせると言っていた。昨日の喫茶店の前まで行けば彼からの手紙を受け取ることが出来るだろう。だがそれを本当に自分は受け取って良いのだろうか。両親や胡蝶を裏切り続けていいのだろうか。


(受け取らない方が良いかもしれない。……何日経っても私が来なければ彼もきっと理解するはずだ。あの人は私の事情を理解しているから。あれは美しい夢だったんだ。そう思うことにすればいい。夢を現実にしない為に、現実を夢にすればいい。そうすれば苦しむのは私だけで済む……一度手紙を受け取ったら私きっと引き返せなくなるわ。止めるなら今の内)

 しかし学校から帰る杏子の足は自宅ではなく、あの喫茶店へと向かっていた。これではいけない、止まれ、止まれ、と念じても止まることは無かった。頭の中ではそう言っているが、脳と心は杏子に「今すぐ止まって家へ帰れ」と命じてはいなかったからだ。

 結局杏子は喫茶店の前まで来てしまった。彼女がそこへ辿り着いた瞬間そらからばさばさという羽音と共に何かが降り立った。鳥かと思ったが、杏子の目の前に立っていたのは一人の少女だった。古風な顔立ちの、白いブラウスに赤いスカートを履いたその少女は杏子に白い封筒を差し出した。路地裏の、人通りも殆どない場所にある店なのでその瞬間を見ている者は杏子以外にはいない。


「主様からの手紙です。返事をくれることを望んでいる、と主様はおっしゃっていました」

 彼女はそれだけ伝えるとばさばさ、という羽音と共に消えてしまった。残された杏子は手に持った手紙を見つめる。見ている内喜びと幸福が溢れ出し、そのまま体の内にあった罪悪感や迷いを外へと出していった。杏子はその手紙をカバンに入れ、軽やかな足取りで本屋へ行った。文房具も取り扱っており、そこで便箋と封筒を買った。和風のシンプルながらしゃれた柄のものだ。杏子は欲しかった玩具を手に入れた幼子のようにはしゃいでおり、思わず笑みが零れる。


(ああ、あの人からの手紙! 本当にきた! これをどうして受け取らずにいられるでしょう。だって初めてなんですもの、これほど男の人を愛したのは! 愛した人ともっと仲良くなりたい、繋がっていたいと思うのは当然のことよ。父さんや母さん、胡蝶様には申し訳ないと思っているわ、けれど思っていてもどうにもならないことだってあるわ。別に大丈夫よ、だってまだ彼とは友達ですもの。恋をするなと言われてはいるけれど、男の人と友達になってはいけないなどと私は言われたことなどないわ。友達だからいいのよ、そうよ……文を交わす程仲の良い友達。友達を、自分を理解してくれる人を得ることは良いことよ……時子には決して教えることが出来ないことも教えられる友達だっていなければやっていけないわ。そう、だから大丈夫裏切っていることにはならない……これから恋人になっても、体を許さなければ良いのよ。それさえ守っていれば、良いのよ)

 はしゃぎながらも自分に言い聞かせ、普段通りのトーンでただいまと言って真っ先に部屋へと向かう。そしてドアの鍵をしめると手紙を取り出した。香でも焚き染めてあるのかふわりと甘い匂いがする。顔も心もとろりと溶けてしまいそうな、体に心地良い痺れを与えるような素晴らしい香りだった。綺麗な文字で書かれた手紙はそれほど長くはなかったが、文章の長い短いなどどうでもいい。彼が自分の為に手紙を書いてくれる、それだけで嬉しいのだ。

 しかも手紙の内容といえば、驚く程正確に杏子の心情を当てているのだ。まるで心の中を読んでいるかのようだった。しかし気色悪いとは思わず、むしろ自分のことをこれほどまでにこの人は理解しているのだと感動した。


『――君は引き返せる、今ならまだ間に合う。僕より両親や天女を選ぶことは間違っていないだろう。僕も出来るだけ君を苦しめたくはない。もし両親や天女を選ぶなら、手紙にそう書いて欲しい。もう会わない、そう一言書いてくれたら僕は潔く君を諦めよう。僕の願いは君の幸せだから。僕を選んでくれるなら、これからもよろしくお願いしますと書いてほしい。そしたら僕は喜んで君との付き合いを続ける。勿論それを決めた後、矢張り会うのは止めようと思い直してもいい。それは君の自由だ。僕は出来るだけ最後の一線を超えないよう努力しよう。僕は君を殺したくないから。でももし僕がどうにも我慢できずに手を出してしまいそうになったら、迷わず天女の守りで僕を止めてくれ』

 そのようなことが書かれていた。杏子はどぎまぎしながらも手紙に「これからもよろしくお願いします」と書いた。自分が杏の想像通り悩んでいたことも、何もかも包み隠さず手紙で告げる。彼ならその気持ちの全てを理解してくれるだろう。だから安心して醜い部分も弱い部分も露わに出来る。手紙を書きながら両親と胡蝶に謝る。謝りながらも気分は高揚していた。

 これから私には素晴らしい未来が待っている。その未来を捨てることなど私に出来ない!


 杏子は次の日、店の前に現れた従者に手紙を託した。私は決して後悔しないわ……そう思いながら。

 こうして杏子と杏はまずは友達として、付き合いを始めたのだった。


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