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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
胡蝶の夢
33/360

胡蝶の夢(4)

 夢の世界では、平凡ながら平穏な毎日を過ごしていた。亜里沙は相変わらずお菓子作りに奮闘しているが、一向に上手くなる様子が無い。数日前、広海の母が、亜里沙にチョコレートケーキの作り方を教えた。チョレートケーキが完成した後、母は広海に「彼女はある意味凄い」と小声で言い、ため息をついた……ということがあった。彼女の料理センスの無さは、料理が得意な母でもどうしようもないレベルらしい。基礎が出来ていないのにアレンジを加えようとしたり、レシピに書かれている説明に対する解釈が斜め上をいっていたり。それでも、かろうじて人類が食せるものになるというのはある意味、奇跡かもしれないと広海は思う。


 広海の母が全力を尽くして軌道修正した結果、チョコレートケーキは亜里沙が作ったにしてはまともなものになっていた。甘すぎない、程良く苦い味、微かに香るお酒の匂いがたまらない。


 母は、あんたが亜里沙ちゃんと結婚したら、びしばし彼女に料理の基礎を叩き込んでやると意気込んでいた。広海は「結婚」という言葉を聞いて何だか急に気恥ずかしくなって、馬鹿言うなよと言った。

 結婚しないの?と母に聞き返され、広海はそういう訳じゃないけれどともごもご口の中で言いながら、チョレートケーキを頬張る。


 結婚。この世界では当たり前のように出来ること。聞くだけで体中がむず痒くなる単語は、もうあちらの世界では聞くことのできないものだ。母が笑いながらその単語を口にすることが、何だか嬉しかった。あちらの世界の母は恐らく二度とその単語を、広海の前で口に出すことはないからだ。母は、亜里沙が義理の娘になることを楽しみにしていた。彼女は亜里沙のことが大好きだった。

 けれど、亜里沙が広海の妻になることが出来なくなったのと同じ様に、母の義理の娘になることも、もう無い。


 広海は、紅茶を一口飲む。

 こちらの世界では広海だけでなく、母もまた幸せなのだった。そして、亜里沙の両親も。


 あちらの世界に居るのは、不幸で、深い傷を負った人ばかりだ。亜里沙はその命を奪われ、彼女の両親は一番の宝を失い、広海は半身とも呼ぶべき存在を失い、母は実の娘のように可愛がっていた存在を失い、広海の友人は彼の奇行や妙な言動等に振り回されることになった。亜里沙にだって多くの友人が居た。親友と呼べる存在も居た。その人達だって、傷を負い苦しんでいるはずだ。


 何故、あちらの世界へ戻ってまで苦しい思いをしなくてはならないのだろう。

 あの世界には喜びなんて無い。幸せになろうとしたけれど、幸せになろうと足掻けば足掻くほど地へ堕ちていく。


 もういっそ、夢から覚めなくてもいい。

 そんなことを、広海は思うようになっていった。


 落ち着いたらまた外に出ようと決めてから、一ヶ月以上経った。しかし広海は一向に外へ出ようとしなかった。

 明日こそ、明日こそはと思いながらだらだらと先延ばしにしていた。何も苦しい思いをしなくて済む毎日が、あまりにも心地良かったから。人間、一度楽を覚えるとこうなる。


 人との関わりを避け、温もりに満ち溢れた夢の世界に入り浸っているうちに、広海の思考は堕落していく。

 とうとう「明日になったら」と考えることすら、やめてしまった。


 心を落ち着けて、外に出たところで何になるのだろう。良いことは何一つ無い。例え心の傷が癒えていったとしても、失ったものは永遠に返ってこない。亜里沙が不慮の事故で死んだという事実は、体の底に沈殿し、些細なことがキッカケで浮かび上がり、多くの人を苦しめるだろう。亜里沙を死なせた犯人も、きっと。

 重く黒いそれを、死ぬまで永遠に抱き続けなければいけない。


 けれど、目を瞑って眠りにつけば、少なくとも広海は亜里沙に会うことができる。誰も傷ついていない世界がそこにはある。

 あそこに行けば、苦しい思いなんてしなくてすむ。わざわざ外に出て、訳の分からない言動や行動を繰り返して周りの人に冷たい目で見られたり心配されたりする必要も、苦しい思いをする必要も無いのだ。

 連絡をずっと取らなければ、やがて友人も完全に広海のことを見放し、親も呆れてもう何も言わなくなるかもしれない。けれど、夢を見ればいつでも彼らには会える。何も問題は無い。


 広海が強く思えば、夢は現実に、現実は夢になる。夢の世界こそが、広海の世界、広海の全て。

 広海に蝶を渡した女の思惑通りにことが進んでいるような気がするのはやや癪だが、もうどうでもいい。大体、夢の世界で生きたからって死にはしないだろう。あの女が笑おうが、監視していようが、もう知ったことではない。


 広海は決めた。自分は、亜里沙と共にあちらの世界で生きることを。


 そう決めた瞬間、自分でも驚く位楽になった。


 それからの広海は、現実の世界の全てを捨てて、夢の世界に入り浸るようになった。兎に角、一日中眠り続けた。眠くなくても、無理矢理目を瞑り、半ば強引に眠りについた。もう彼にとって昼も夜も無い。食事や排泄、買い物など生きる為に必要な最低限のことをする時だけ、動く。

 どうしても眠れない時は、処方してもらった睡眠薬を飲んだ。


 時々、あの女が家の中に現れて、何か言ったり、声をあげて笑ったりしたが、広海はそれを無視した。こんな女の言うこと等どうでもいいのだと思ってからは、女のことを少しも怖いと思わなくなった。


 携帯電話の電源は切ってしまった。もう外界と連絡を取る必要は無いから。


 広海は、蝶と同じ様に小さなアパートの一室という「虫かご」の中に閉じこもり、ただじっと静かに体を横たえて、眠り続ける。


 現実を捨てて、生き続け、夢の世界ではあっという間に時間が流れていき、広海は大学を卒業し、小さな会社に就職した。

 まだなかなか仕事が覚えられず、怒られたりなかなか上手くいかなかったりすることも多かったが、それでもやりがいを感じていた。仕事の同僚ともうち解け、時々飲みに行くようになった。高校や大学時代の友人と連絡を取り合うことは以前より少なくなっていったが、時々街中でたまたま会うことはあった。


 亜里沙は、雑貨屋でアルバイトをしている。こちらもそれなりに楽しくやっているらしい。時間が合った時は、一緒に家まで帰った。

 慌しくも幸せな毎日を送っていた広海は、あることを考えていた。


 亜里沙が出かけて家に居ない時、自分の机の引き出しを開け、そこから封筒を取り出す。その中には、こつこつと貯めたお金が入っている。まだまだ、少ない。


 数年前、一応プロポーズをして婚約したが、未だ婚約指輪と呼べるものは渡していなかった。お祭の屋台で買ったおもちゃの指輪(しかも子供向けだから小さすぎてはめられない)を一応渡したが、流石にそれで終わりにはしたくない。

 改めて指輪を渡し、プロポーズをしたい。結婚して、幸せな家庭を築く。そう簡単に出来る訳では無いことは分かっている。それでも望まずにはいられない。

 必ず叶える。この世界でなら、何だって出来る。強く望めば手に入らないものは無い。

 あまり立派なものは買えないかもしれないが、頑張ろう。早く亜里沙の驚く顔が見たい。夢を叶える一歩を踏み出す為のお金を見ながら、広海は微笑んだ。


 時間はどんどん流れていく。仕事にも大分慣れ、入社した当初は全く出来なかったことも、出来るようになっていた。後輩も出来た。なかなかノリの良い話しやすい奴だが、ちょっと間が抜けている。

亜里沙との関係も良好で、周りからはバカップルとからかわれることも多い。彼女の料理の腕は、あがったような変わらないような。相変わらず微妙な菓子を作り続けるが、お菓子以外の料理は割とまともになってきた。暇を見つけては、何度もケーキやクッキー作りに励んでいる。


 お金も、大分貯まった。今ならあまり高くないものなら、婚約指輪だって買ってやれる。それを買って彼女に渡すということは、次のステップを踏み出すという意思表示になる。両親と相談したり、式場等について調べたり、色々する必要がある。お金の問題もあるし、よしやろうといって出来るものでは無いが、頑張りたいと心の底から思った。


 広海は、亜里沙が友人と出かけている間に店へ行き、婚約指輪となるものを探した。アクセサリーショップなんてまともに足を運んだことがないから、若干緊張したが、そうやって緊張してしまう客には慣れっこらしい店員のお陰で、緊張も徐々にほぐれていった(ただ、ものすごく高いものばかり勧めてくるのには困ったが)


 彼女の指のサイズについては、数年前プロポーズした時に聞いていた。いずれ指輪を買ってやるが、その時指のサイズが分からないと困るときちんと聞いていたのだ。まあ、それから急激に太ったとかそういうことも無いだろうから、大丈夫だろうと思い、メモに書かれた通りのサイズのものを買った。


 銀色の指輪を二つ、買った。あちらの世界ではとうとう買ってやることの出来なかったものが、手元にある。それがたまらなく嬉しくて、あまりの嬉しさに泣きそうになったが、どうにか涙をこらえる。


 そして次の週の休日。広海は、亜里沙をレストランに連れて行った。高級とまでは行かないが、そう多くは行けないレベルの所だ。何で急にと訝しがる亜里沙に、たまには奮発して美味しいものを食べるのも悪くないだろうと言い訳した。

 プロポーズにレストランなんて、何かキザっぽいなあと思ったが、普段生活している家の中でするよりかは幾分ましだろう。数年前と同じ様に、近所の寂れた公園でするのも何だかなあだし……。


 特別おしゃれはしなかった。普段通りの服装で、財布と婚約指輪の入った小さなカバンだけ持っていく。亜里沙もいつもと同じ格好だ。


 レストランの中は落ち着いた雰囲気で、朱に染まり始めた夕空を閉じ込めたような色の照明が天上を飾る。流れているのは、落ち着いたクラシック音楽。題名は知らない。聞いたことも無いが、有名なものなのかもしれない。

 料理は適当に頼んだ。決して安くは無かったが、記念すべき日を飾るには相応しいものに思える。いや、記念すべき日になるかどうかは未だ分からない。そこは広海の頑張り次第。


 どう話を切り出せばいいのか分からず、始めのうちは、仕事場での話や、TVやら芸能界やら、全く関係ない話をしていた。自分でもおかしくなる位、多弁で早口になる。こういうところではもう少し静かにしなさいよと窘められても、止まらない。一旦話すのをやめたら、もう何も話せなくなり、結局指輪を渡せずじまいになるかもしれないと思った。


 そんな広海を、もぐもぐと食事をしながら見つめていた亜里沙が、急に食べるのをやめた。あまり喋りまくっていたから、機嫌を損ねたのかと一瞬どきりとしたが、どうもそうではないらしかった。


「……あんた、私に話すことがあるんでしょう?」


「え」

 広海はドキリとし、思わず話すのをやめた。


「あんたって、いつもそう。何か大切なことを話したい時って、馬鹿みたいに多弁になるのよ。そのくせ、自分が一番言いたいことはなかなか言わないで。私が何か言いたいのって聞くまで、話さない。私のおもちゃを壊した時とか、告白した時とか、プロポーズした時とか、全部そうだった。……それで、あんたは私に何を言いたいの?」

 亜里沙の、輝く瞳が広海を捉える。その表情は真剣だった。

 ああ、確かにそうだったと広海は思った。大切なことをなかなか言い出せず、関係のないことを誰かが何を言いたいのか聞いてくるまで、話し続ける。それは彼の悪い癖だった。

 広海は一回息を大きく吸い、静かにゆっくりと吐く。


 とうとうこの時が来たのだ。広海は、亜里沙を真っ直ぐ見つめた。大切なのは言葉ではない、気持ちなのだ。


「改めて、お前に言っておきたくて。……結婚しよう、亜里沙。お金は未だ全然無いけれど……けれど、俺はお前と一緒に居たい。幸せにしてやれる保証なんて、どこにもないけれど、それでも、頑張るからさ」

 その言葉に亜里沙は口をぽかんと開け、目をぱちくりさせていた。しかしやがて顔を真っ赤にしながら俯き、ちらりとこちらを上目遣いで見つめた。


「やっぱりね。……あんたがこんな所にわざわざ連れてくるなんておかしいと思ったのよ。もしかしてなんて思っていたら……やっぱり。ああもう、恥ずかしい、こんなに人が居る中で」

 余程恥ずかしいらしく、声が上擦っている。恥ずかしい思いをしているのは、広海も同じだ。こんな恥ずかしい思いをしたのは彼女に一度目のプロポーズをして婚約した時以来だ。


「で、へ、返事はどうなんだよ。言わせておいて、嫌ですとか言ったら承知しないぞ」


「何よそれ、私に選択肢は無いってこと? まあ、最初から選択肢なんて一つしかなかったけどさ。……はい、喜んで。幸せにしてくれなかったら許さないから」

 

 その言葉を聞いて、ほっとして、広海は思わず笑った。亜里沙もつられて笑い出す。暖かな気持ちが体中を満たしていく。


 ほっと気が緩んでいて、危うく指輪の事を忘れてしまいそうになっていた。

 慌ててカバンを開けて、そこから彼女に渡す為の婚約指輪の入ったケースを取り出す。亜里沙がその小さなケースをじいっと見つめ、あっと声を上げた。顔を真っ赤にし、頬を膨らませて笑っているような泣いているような、何ともいえない表情を浮かべる。


「そ、それもしかして」


「婚約指輪ってやつだよ、所謂。未だ渡していなかっただろう」


「指のサイズ合っていなかったらどうするのよ!? 嵌めようとしたら小さすぎて駄目でしたとかなったら、泣くわよ私!」


「何年か前に指のサイズ聞いておいただろう? そのサイズ通りに作ったから大丈夫だろう、多分。それともお前、あの時からそんなにおデブになっているのか?」


「そ、そういう訳じゃないけどさ」


「万が一駄目だったら、まあその時はその時だ。チェーンでもくっつけて首飾りにしちゃえば問題ない」


「全く、しょうがない奴」

 肩を竦めた亜里沙は、くすくすと笑った。そしてひとしきり笑った後、手を広海の方へと差し出した。広海は緊張した面持ちで、その手をそうっと受け止める。


 彼女の指に、指輪を嵌めようとする。「あちら」の世界では叶わなかったこと……それが今「こちら」で「現実」になろうとしていた。

 彼女の手は暖かい。じんわりとひろがる、優しい温もり。彼女は冷たくなど無い。彼女は生きている。ここで、今広海を見つめて微笑んでいる。


 死んでなどいない。彼女は、ここにいる。


 彼女の居るこの世界こそ、自分の世界なのだ。


 ずっと望んでいたこの一瞬。止まっていた時間は再び動き出す。

 亜里沙の指に指輪を近づけていく。ゆっくりと、ゆっくりと。


 あと、少しだ。心臓は早鐘を打ち、喉はからからになっている。食べたものが胃の中でぐるぐると目まぐるしく動き続けている。滲み出る汗。


 ああ、あと少しだ。


 そう思った広海の耳に、どんどんという何かを叩く音が聞こえた。ゆったりとした空間には似つかわしくない、古びたチャイムの音が同時に聞こえる。

 広海の目の前の世界はぐにゃりと歪み、亜里沙の指や婚約指輪の形は歪なものになり、全ての色が混ざり合い、真っ暗になった。


 広海は、はっと目を覚ます。そこはレストランの中ではなく、みすぼらしいアパートの一室だった。鳥のさえずる声が聞こえ、刺々しさも大分薄れた太陽の光が閉じたカーテン越しに見える。床などに散らばった、カップラーメンの容器や飲みかけだった炭酸飲料水から不快な匂いが漂っている。

 虫かごにいる蝶が目に止まる。綺麗な羽根を動かし、のんびりくつろいでいる。


 夢の様な地獄に呼び戻されてしまったのだ。しかも、自然に目が覚めた訳ではなく、ドアを叩く音とチャイムを鳴らす音のせいで。


「今宮さん。今月分の家賃をいただきに来たんだけれど」

 それは、大家である女の声だった。耳障りな声がドアの向こうから聞こえてきた。


 大切な一瞬を、待ち望んでいた一瞬を、未来への一歩を、邪魔された。

 また眠りにつけば、あの続きの世界へ行ける。しかし多少のタイムラグは発生する。きっと次に眠りについた時には、指輪は亜里沙の指に嵌っているだろう。


 広海の体の中は空っぽになり、頭の中が真っ白になった。その間にも、ドアを叩く音とチャイムの鳴る音は途切れることが無い。

 その音を聞くうちに、空っぽだった体内に何かが生まれた。憎悪と怒りの感情だった。内臓が鉄の棒で掻き乱された様になり、頭はかあっと熱くなる。歯をくいしばり、手を固く握り締めた。


 邪魔をされた。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!何故邪魔をする、ふざけるな!

 広海は勢いよく立ち上がる。机の上には、今月分の家賃の入った茶色い封筒が置いてある。それをぎゅっと握りしめ、玄関へ向かう。


 玄関のドアを開けると、大家が立っていた。ずんぐりむっくりした体型、ぼさぼさの髪に、汚れだらけの服。大家は、こんにちわと言ってにんまりと笑った。虫歯だらけの歯。いやらしい顔。そんな醜い化け物の様な女が、大切なものを台無しにした。

 大家は、べちゃくちゃとその場で喋りだす。広海には、目の前にいる女のどの言葉も聞こえなかった。聞きたくもないおぞましい声だ。包丁で刺してやりたいと、そう思った。

 広海は無言で封筒を差し出した。大家はそれを受け取り、また何か話している。ここの大家はそうやってすぐに長話を始めようとするのだ。


 時間が惜しい。こんな世界なんかに、こんな女なんかに割く時間などどこにも無い。頭をかきむしり、叫びたくなる衝動をどうにか抑える。

 ああ駄目だ、もう我慢できない。


 広海はとうとう大家の体を押しやって、ドアをがちゃんと乱暴に閉め、鍵をかけた。ドアを閉める瞬間、ぽかんとしている彼女の顔が見えた。その後、何かぶつぶつと呟いていたが、家賃を貰った以上もう用は無いと判断したらしく、すごすごと立ち去っていった。


 広海は大家の体に触れた両手を見つめる。じめじめとした嫌な温もりが残っている。亜里沙の手の温もりは消えて、大家のそれが両手を支配する。洗面台に駆け込み、手を夢中になって洗った。彼の手を優しく包み込んでいた温もりすら奪った、あの大家を心から憎らしいと思った。


 むしかごの中にいた蝶を乱暴に取り出し、その鱗粉を被ってまた眠りにつこうとしたが、なかなか寝つけない。その間にも、黒い感情が血液と共に体中を巡り続ける。


 眠らなければ、眠らなければ。眠らなければ、狂って死んでしまいそうだった。

 蝶は、そんな広海をただ静かに見つめていた。


 広海と亜里沙は、少しずつ結婚への道を歩み始める。急いでやらなければいけないことではない。自分達のペースで進めばいいのだ。

 一生懸命仕事に打ち込む一方で、亜里沙と相談する。最初のうちは本当に漠然としたもので、真っ白な画用紙にクレヨンで思い思いの世界を自由に描いている風だった。ここら辺の話は大いに盛り上がった。あれは駄目とかこれは駄目とか、細かいことを考える必要がなかったからだ。

 しかし、少しずつ具体的……例えばお金のことや日程の事等を考え始めるようになると、そうもいかなくなる。画用紙に描いた夢の様な絵が次々と×マークで消されていく。仮に親に借りるにしたって限度がある。先のことを考えるとあまり無理は出来ないし、でも無理が出来ないからって地味なものになるのは嫌だった。

 理想と現実の狭間で揺れて、喧嘩をしたり、全てを投げ出しそうになったりもした。


 しかし、そういったものも少しずつ乗り越えていった。乗り越えれば、眩い光に満ち溢れた世界が待っていることを、知っているからだ。

 不安も大きいが、それ以上に希望や期待が大きい。二人して待ち望んでいたものを得るためには、少しずつでも壁を乗り越えていかなければならなかった。


 「現実」の世界の広海は、壁を乗り越えることを諦めた。乗り越えたところで、その先には何も無いと思っているからだ。

 「夢」の世界の広海は、壁を乗り越えていこうと強く思っている。乗り越えれば、その先に素晴らしい未来が待っていると信じているからだ。


 広海は確実に何かが得られる世界へ逃げた。現実と夢の区別がつかなくなり、苦しみ、苦しんだ挙句に片方の世界から逃げることを彼は選んだ。周りの誰も傷ついていない……虚構の世界の方を彼は、選んだ。


 話は少しずつまとまっていき、広海はまず亜里沙と共に彼女の両親の家へ行き、亜里沙と結婚する旨を伝えた。小さい頃から二人にはずっと会っているし、よく話もしていたから、スムーズに話もできるだろうと思っていたが、そうはいかなかった。思いっきり緊張し、何度も舌を噛みそうになりながら話した。

 彼女の両親は、そんな彼を優しく迎えてくれたし、二人が結婚するということを心から喜んでくれた。出来る限り、相談に乗ってくれるとも言ってくれた。


 続いて、広海の両親の元へ向かう。流石に自分の両親相手なら大丈夫だろうと思ったら、そうでも無かった。訳の分からないことを口走り続け、亜里沙に小突かれるまで本題に移ることが出来なかった。彼の両親も、特に反対する訳でもなくすぐ了承してくれた。


 双方の両親は大いに盛り上がり、積極的に二人を助けてくれた。お金のことや、将来の事等もよく相談した。

 とうとうウエディングドレスを選ぶ段階に入った。亜里沙はこの日が来るのを指折り数えて待っていたという。まるで遠足を心待ちにしている子供の様だった。数々のドレスを前に、あれもいい、これもいい、どれがいいかな、こういうのはどうかなとか何とか言いながら、はしゃぐ彼女の姿は、まさに遠足にどのお菓子を持っていこうか悩みつつはしゃいでいる子供そのものだった。


 幸せそうに笑う亜里沙の横顔を、広海は飽きもせず見つめ続ける。

 待ち望んでいたものが、もう少しで手に入る。そう思うと、たまらなく嬉しくなって、広海は声を上げて笑い出す。

 当然亜里沙と、店員にはドン引きされ、酷く恥ずかしい思いをすることになったのは言うまでも無い。

 

 広海の心は、夢の世界に居る間は幸せで一杯になるが現実世界に無理矢理引き戻された途端、その気持ちは彼方へと去り、代わりに頭がおかしくなりそうな位熱を帯びた黒いもので満たされる。


 広海の眠りは様々な「音」によって妨げられた。


 隣の部屋の住人が、友人と共に酒盛りを始め、大きな笑い声をあげる。

 アパートの目の前の道路を、音を立てて走るバイク。

 誰かが上るたびにがんがんと音の鳴る鉄製の階段。ドアの鍵を開ける音。

 登下校する子供達の話し声。

 

 音の無い世界など、有り得ない。生の営みの中、多かれ少なかれ音というものは出るものだ。

 しかし、その生きていく上で必ず出てくる「音」というものが、今の広海にとっては一番おぞましいものだった。眠く無いのに無理矢理寝ていることが殆どだから、些細な音で目を覚ます。耳栓を試してみたが、どうにも落ち着かない。


 何かの音で目を覚ます度、頭がおかしくなりそうになった。いっそ皆死んでしまえばいいのにと心の中で呪うことさえあった。この世界があの女と出会う前の様に、色も音も無い世界に戻ればいいのにと思うこともあった。

 だがどれだけ苦しもうと、音の無い世界が来る訳は無いし、ずっと眠って居たいと願っていても、目は覚める。

 怒りと憎しみの感情を、物にぶつけて少しでも気分を落ち着けようとした。周りにあるものを投げとばし、蹴飛ばし、叩きつける。壊れようが割れようが、どうでも良かった。この世界にあるものなど、もう何の意味も持たないのだ。


 またある日のことだった。

 眠りについていた広海は、誰かがドアをノックする音で目を覚ました。高校時代の友人達と、結婚の前祝という名の飲み会をしていた時のことだった。久しぶりに会った友人達との話は弾み、丁度盛り上がっていた所だったのに。

 広海は近くにあった壊れた携帯電話を壁に投げつけた後、立ち上がる。


 ドアを開けると、そこに立っていたのはまさに夢の中で一緒に飲んでいた、高校時代の友人達だった。「こちらの」世界で会うのは数年振りのことだった。「あちらの」世界の彼らと外見に大差は無い。男が二人に、女が二人(こちらは広海のというより、亜里沙の友人といった方が正しいかもしれない)広海をじいっと見つめていた。可哀想な人を見るような目だった。


 再会を喜ぶ気持ちは、少しも沸いてこなかった。代わりに沸いてきたのは、あの黒い感情。


「……何で来たんだよ」


「あの……おばさんから、お前のこと聞いてさ、心配になって……その……」

 ドアを叩いていたらしい男は、高校時代の一番の友人だった。しかしその友人の顔も今は、以前自分の眠りの邪魔をした大家と同じに見える。醜くて汚れたものが、目の前に立っているようにしか見えなかった。


 夢の中では、広海に笑顔をくれている友人達。だが、ここの世界にいる彼らは広海を苦しめるだけの存在だ。

 友人の皮を被った鬼なのだ、彼らは。


 全ての感情を声に乗せ、広海は叫んだ。


「うるさい、邪魔をするな! 誰も俺の眠りを邪魔するな、帰れ、帰れ、何で邪魔をするんだ! 皆、俺を地獄に引き戻そうとする……俺は幸せなんだ、俺はあそこがいいんだ、ここは嫌なんだ。俺は、俺はもうここには居たくない、何でここの世界のお前らは、俺の邪魔をするんだ! いや……お前達は偽者なんだ……あいつらの、俺の友人達の……あの女が化けているんだろう、残念だったな……俺は騙されないぞ……消え失せろ! それが嫌だと言うんだったら、今すぐ俺が殺してやる!」

 かっと目を見開き、傘立てに置いてあった傘を振り回した。女二人は泣き出し、男二人は呆然としながら広海を見た。そして少しずつ後ずさりすると、逃げる様に帰っていった。

 しばらく見えない何かを追い払うように傘を振り回し続けていたが、やがてそれもやめて、ドアを閉め、部屋に戻った。ドアの鍵をかける余裕は無かった。


 そして、その場に力なく座り込んだ。


 もう、限界だった。


 あちらの世界で言えば、今日は亜里沙との結婚式だ。

 しかし今までのように、式の途中でこちらの世界に邪魔をされないとは限らない。また眠れば問題は無いかもしれない。だが、折角盛り上がっていた気持ちが一気に下がり、楽しいはずのものも心の底から楽しめなくなることは確実だった。


 ほんの些細な出来事でも邪魔をされれば、腹が立つ。これが一番望んでいたこととなれば……。

 有り得ないとは言い切れない。今回だけは少しも邪魔をされないなんてことは無いだろう。広海の夢のことなど誰も知らない。皆が広海のことを考えて生きている訳でも無い。


 それならば、どうすればいいのだろう。


 「ああ、いっそ、永遠の眠りにつくことが出来たら……」

 その言葉を呟いた途端、広海ははっと気がついた。そして、歪んだ笑みを浮かべる。狂気が最高潮に達した者の笑みだった。


「そうだ、永遠の眠りにつけばいいんだ……」


 二度と目を覚まさない方法が、あるではないか。どうせ、こちらの世界にもう用など無い。こちらの世界で生きる必要などどこにも無い。


 そう、永遠の眠りにつけば、全てが解決する。二度とこちらの世界に戻ることは無いはずだ。永遠に、眠り続けることで、夢を……いや「現実の」世界で生きることが出来る。


 亜里沙とずっと生きていける。誰にも邪魔されること無く、幸せに生きていける。

 結婚して、子供を作って、亜里沙のことも子供の事も大事にしてやるのだ。仕事も頑張って、後輩の相談にも乗ってあげられる頼れる上司になろう。いつか孫も抱いてやるのだ。二人でしわくちゃになるまで生きて、そしてあちらの世界で死ぬ……。


 この世界に、何の未練も無い。


 広海はふらりと立ち上がり、蝶の鱗粉を体中にかけた。もうこの蝶と会うことも二度とないだろう。蝶は何も言わないし、広海を止める様子も無い。いつものことだ。蝶は虫かごの近くをひらひら飛んでいる。


 ふとTVの方を見ると、TVの前にあの女が立っていた。女はただこちらをじっと見つめていた。それでいいの?と言っているかの様な目をしている。

 女は姿を変え、広海の姿になった。広海は自分の目の前にいる彼を見つめて一言呟いた。


「……馬鹿な奴だ、お前は」

 そして、その姿は次の瞬間、跡形もなく消えていく。


 こちらの世界や、夢の世界に居た広海の前に現れた女。それは、本物の女では無く、彼の心の奥底にほんの少し残っていた「これ以上、夢の世界に入り浸っていては全てが駄目になってしまう」という気持ちが姿を変えたもの……つまりは、広海自身であったのかもしれない。

 死や不吉を連想させる、あの女の姿をとることで、道を踏み外そうとしている広海に警告をした。広海が自分自身に出した危険信号……。

 だが、広海はその危険信号を受け取らなかった。見ようとせず、逃げた。そしてその結果が、これだ。


 もう、広海を止める者は誰もいなかった。


 広海はゆっくり目を閉じる。

 真っ白なドレスに身を包んだ亜里沙が、太陽のように明るく眩しい笑顔を浮かべている。胸に色とりどりの花を束ねたブーケを抱いて。


 もう少しで、そんな彼女に会える。彼女の隣に立ち、微笑んで、口づけを交わし、永遠の愛を誓い……。


 ああ、そして、そして……。


 しんと静かで、カーテンが閉じられ、明かりもついていない薄暗い部屋。その部屋の中に誰かが、入ってきた。


 黒い髪、黒く妖しく光る瞳、真っ赤な唇。……広海に蝶を渡した、あの女だった。


 短い廊下の先に、小さな部屋が一つある。きょろきょろと辺りを見回すと、彼女が探していたものはすぐに見つかった。

 虹色に光る蝶がむしかごの周りを飛んでいる。女の顔がぱあっと輝き、ぴょんぴょんと軽やかなステップを踏んで、虫かごの前まで行った。蝶は女の存在を認めると、虫かごから離れ、彼女の頭上で嬉しそうにくるくると回る。


「久しぶりだったわね。ふふ、元気そうで何より」

 そう言って笑った後、虫かごを見て、顔をしかめる。


「嫌だわ、お前今までこんな狭い所に閉じ込められていたの? 可哀想に。酷いことをするわ、こんなに可愛いお前を、こんな物に……ああ、嫌だ嫌だ。ああ、愛しい私の蝶……苦しかったわよね」

 飛び回る蝶を優しく抱きしめ、撫でまわす。まるで自分の子供を慈しむ母親の様な、愛情と慈悲に溢れた瞳で蝶を見つめながら。


「おまけに部屋の中はとても汚いし、臭いし……酷い有様だわ」

 物が散乱している部屋は、見るに耐えないものだった。

 女は長居は無用と、さっさと帰ろうとした。そして一歩後ずさった時、足が何かに当たった。

 女は目をぱちくりさせ、振り返って自分の足元を見る。


 そこには、真っ赤な血に染まった……今宮広海の死体があった。彼は、満足そうな笑みを浮かべて死んでいた。

 広海の顔を見て、女は自分が蝶をあげた相手のことを今思い出した。誰かに貸したことは頭の隅で覚えていたが、どこの誰でどんな奴だったかなど忘れていたのだ。

 血の匂いにも、広海の存在にも今の今まで気がついていなかった。女にとって大事なのは、蝶の方だ。蝶を取り戻すことだけが目的だったから、気がつかなかった。


 女は、もう息をしていない広海を見つめる。だがその顔に、どんな感情も浮かんではいなかった。愛情も、憐憫も侮蔑も、何も無い。温度の無い、冷たい眼差しを彼に向けている。

 女にとっては彼など、道端に転がっている石ころ同然だった。どうでもいい存在なのだ。


「ふうん、死んだんだ」

 蝶が、女の耳元に近づく。女はうんうんと頷く。女は、蝶の言葉が分かる。女は、死んだ蝶の魂が集まって出来た存在なのだ。彼女にとって蝶は同族。同族の言葉だから容易に理解できる。


「結局、現実と夢の区別がつかなくなって、夢の世界こそが現実の世界だと錯覚して、終いに永遠の眠りにつく為に死んだと。成程ねえ」

 広海を哀れむ様子は無く、女はただ事実を淡々とした口調で述べた。


「馬鹿な人ね。……夢は生きているからこそ見られるものであって、死んでしまったら夢も何も見ることなんて出来ないのにねえ」

 

「結局、自分で全てを終らせたのね。貴方が一番望んでいたものも手に入らず、一番見たかった彼女の姿を見る事が出来ないまま。ふふ、でもまあ死んだことで、先に逝った本物の彼女と再会出来たかもしれないけれどねえ。一生再会することなく終るかもしれないけれど。ま、どうでもいいか」

 本当に、胡蝶にとってはどうでも良いことだった。


 胡蝶は、幸せそうに微笑んでいる広海をそのまま放置し、部屋を出た。勿論、蝶も一緒だ。


 空は少しずつ暗くなり始めていた。鬼灯と、紫陽花と、桔梗の様な色が混ざっている。時間が経つごとにその全てが闇に溶け込んでいく。


 女は、立ち止まること無く、歩き続ける。すでに広海のことなど忘れている。今日は何を食べようかとか、そんなことばかり考えていた。

 蝶はちらりと、広海のいるアパートのある方を見たが、それだけだった。


 一人と一匹の姿は少しずつ闇に溶けていき、やがて完全に消えてなくなった。


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