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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
蝶よ花よ
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蝶よ花よ(2)


 杏子は諏訪部夫妻の長年の望みの結晶とも呼べる存在だった。二人は子を欲していたがなかなか出来ず、苦しい思いをしていた。強い思いに反して空しく過ぎていく時、やがて双方の年齢的にそろそろ諦めよう……そう考えるようになった。だがその矢先妻は子を身ごもり、色々大変な思いをしながらも無事出産した。二人は娘に杏子と名づけた。『アプリコット』というミュージカルを観に行った時に出会い、結婚した二人の間に産まれた子供だから。二人は惜しみない愛情を注ぎ、初めての子育てにてんやわんやしながらも彼女の未来を想う。大和撫子、と周りから呼ばれるような女性に育つといいとか、甘やかしすぎず躾はきちんとしようとか、どんな風に成長していくのだろうとか。ずっと先のことを考え、気が早すぎると苦笑いすることもあった。

 杏子は二人にとって己の命よりも大事な花だった。ただそこに咲いているだけで幸せや喜びを与えてくれる、可愛らしい花。まだまだつぼみだけれど、いつかきっと開き素晴らしい姿を見せてくれる――二人はその日が当たり前のように来ることを信じていた。


 娘が産まれ、これまで以上に忙しないながらも幸福な日々を二人は過ごしていた。だがその時間はある日突然崩壊することになる。

 それは杏子が産まれて四か月と少しの頃。朝――まだ外を覆う闇が残る頃――目を覚ました母は、小さなベッドに寝かせた杏子の様子がおかしいことに気づいた。体がピクリとも動いておらず、呼吸をしているように見えなかったのだ。まさか、そんなわけない、気のせいだと自分に言い聞かせながら彼女の顔にそっと触れた瞬間母の頭は真っ白になり、遅れて悲鳴があがった。

 冷たい、冷たい、冷たい、冷たい……! その声に気づき目を覚ました父もその冷たさに青ざめ、呼吸をしているかどうかあらゆる方法で調べてみたが、何をしても杏子が息をしていないという事実以外のものは浮かんでこなかった。仰向けの状態になったまま、冷たくなった彼女の体はピクリとも動かない。ベッドの中で今寝ているのはお地蔵様なのではないか、と錯覚してしまう。二人が寝るまでは確かに呼吸をし、すやすやと眠っていたのに。


 杏子は死んでしまった。産まれて半年もしない内に二人を置いて。

 母は狂ったように泣き叫びながら杏子の頬を叩いたり、小さな体を揺さぶったりする。杏子についている『死』という現実を振り払おうと、必死に。だが杏子は泣きもしないし、息もしない。杏子、杏子、杏子……その名を呼んでも彼女は笑わない。いつもなら母に名を呼ばれるときゃっきゃと笑うのに。

 父はあまり体を揺さぶってはいけない、ともう揺さぶろうが揺さぶるまいが関係ないことが心の底では分かっていながら母をたしなめ、兎に角救急車を呼ぼうと言った。呼んでも無駄なことは彼女から消えた温もりで分かる。だが理解はしたくなかった。救急車を呼び、医師に「ご臨終です」と言われるまではまだ僅かばかりの希望が持てる。例えすぐ砕かれるものだとしても、二人はそれを手にしていたかった。


 父は向かい側にあるリビングへ駈け出そうとしたが、妻が再び悲鳴をあげたので何事だと振り返る。そして驚愕に目を大きく見開いた。妻と、彼女が殆ど覆いかぶさっている状態になっているベビーベッドの傍らにいつの間にか女が立っていたからだ。一二秒前まではいなかったはずだし、そもそも家には鍵がかかっているはずだ。


 長い黒髪、てっぺんに結った団子、そこに挿された蝶の飾りが沢山ついた簪、蝶舞う黒い着物。三十前後の、一目見ただけで恐怖を感じ悲鳴さえあげられぬ程息が詰まる妖艶さを持つ女。その女が黒い蝶を周りに侍らせながらじっと杏子を見つめていた。その内の一羽はいつの間にかベビーベッドに止まっている。

 その女に二人共面識はない。いや、この世に彼女と面識のある人間などいないように思う。彼女はどう見てもこの世の者ではなかった。もし彼女が人間だというのなら、この世に存在する全てのものは人間だ。そう感じる程、彼女は化け物じみたものをもっている。妖怪や精霊など、そういったものの存在など欠片も信じてこなかった二人だが、今なら「妖怪や精霊はいるんですよ」と誰かに言われたら簡単に信じられそうな気もした。


 死神。二人の脳裏にその言葉が浮かんだ。黒い蝶を伴って、女は杏子の魂を黄泉へ送りに来たのだ。


「まだ赤ん坊なのにねえ、可哀想に」


「あ、あんたは誰だ……ど、どこから入って来た!」

 杏子と妻を庇うようにして立った父は怒鳴るようにして聞いたが、その声は震えている。女は「私?」と首を傾げ、少し間を置いてからにこりと微笑んだ。蜜零れる椿花の笑み。父は寒気と恐怖、それから快楽の海に一瞬で溺れ、その衝撃に後ずさり。


「私はねえ、天女。空からふわっと降りてきてね、それから玄関とこの寝室の鍵を開けてここへ入って来たの。入って来たところが見えなかった? そりゃそうよね、人に見えるはずがないわ。鍵をどうやって開けたって? 別に、あんなもの私が少し手をかざしただけで簡単に開くわ。鍵や錠などという粗末な結界など我々の前では無意味と知りなさい」

 手をかざすだけで鍵を開けた、と事もなげに言われた上『天女』を名乗られ二人は困惑する。女は羽衣もつけていないし、一般的に想像する天女像とは似ても似つかなかったからだ。死神とか悪魔の間違いではないか?

 その思いを感じ取ったらしい女が呆れたようにため息を吐いた。


「自分達が知っている天女とはかけ離れた姿をしているって? それじゃあ貴方達本物の天女を見たことがある? 人間の誰かが描いた絵などではなく、実物を肉眼で? 無いでしょう。羽衣なんて別になくたって空位飛べるし、黒い着物着たいかにも不吉なものを呼び込みそうな天女だって幾らでもいるわ」

 確かにその通りだが、と二人は顔を見合わせる。しかしどうしても天女には見えない、そもそも天女なんて本当にいるのか――そんなことを考えたところで、今自分達には彼女に構っている暇はないことを思い出した。


「私達は今急いでいるんだ! 天女がどうとかいうくだらない話に付き合っている余裕はない。そもそも勝手に人の家に侵入するとは何事だ!」


「人の家に勝手に入ってはいけない、というのは人間が作った人間の為の決まり事でしょう? 天女にも死神にも妖怪にも犬にも猫にも関係などありはしないわ」


「何をくだらないことを。あんたの目的はなんだ、金か。天女を名乗る泥棒など聞いたことが……いや、そんな場合ではない。久美子、電話だ早く救急車を呼ぶんだ。この女は私がどうにかするから、早く」

 妖しい女から庇うように杏子を抱きかかえていた妻――久美子に言った言葉を聞いた女はあはは、と高笑いした。その声は生命の灯にかけられる冷たい水。何度も浴びれば灯が消えそうだ。


「私を? 貴方が? はは、それは面白いわねえ。けれど、無駄だと思うわよ。ただこの家に屍が一つ増えるだけ」

 二人はハッとする。その言葉はすでに一つはこの場に屍があることを指しているように思える。聞いた途端二人は現実へと引っ張り戻される。杏子がもう死んでいること、屍となっているという現実へ。


「もう死んでいるわよ、その子。貴方達だって本当は分かっているでしょう。可哀想にねえ、でも仕方が無いわよね。七つより前の子の魂は簡単に抜けて行ってしまう。もっとも私からしてみれば、大人だって似たようなものだけれど。人というのは本当に簡単に死ぬ。私は空を散歩している時、天へ一つの魂が昇って行くのを見てね、どこから昇ってきたのだろうと思って辿っていったのよ。そしたらここへ辿り着いたの」


「杏子は、杏子はまだ……杏子は」


「死んでいるわよ。何度だって言ってあげる。その娘の灯は消え、灯を灯していた魂は天へと上り神のもとへと行ったわ」

 女の冷たい顔が、夫婦に突き刺さる。そして彼女の言葉は幻想を突き刺し、粉々に砕いた。もうそれは二度と元の形に戻りそうもなく、同じ幻想へ再び足を踏み入れることは叶わなくなった。久美子はへなへなとその場に崩れ落ち、杏子を見つめ、強く抱きしめ、愛しい名を叫び震えながら泣きだす。父は振り返りその姿を見た。妻の腕に抱かれた娘の姿も。そして彼もまたその場にへたりこみ、妻を慰めることも涙することも出来ぬ程呆然としていた。彼に今出来ることは泣き叫ぶ妻と動かぬ娘を見ることだけ。


「……助けてあげましょうか。貴方達の大切な花を、再び咲かせてあげましょうか」

 二人は遠くの世界から聞こえるその言葉を、初め言葉として認識していなかった。ただ遠くで音が聞こえた、それだけ。二人がそれを音ではなく言葉で捉え、更にその言葉の意味を理解するまでにはそれなりの時間を要した。ようやく理解した二人はばっと女を見た。夫婦を見下ろす女は相変わらず死神めいていて、奪うことはあっても与えることなど出来そうにない。しかしこのまま聞き流すことなど到底出来ない言葉を聞いた二人は、混乱しながら詳しい話を聞かせてくれと目で促す。女はそれを見て満足そうに笑んだ。


「助けてあげられるわよ、私なら。まあその娘の魂はもう天へ昇ってしまっているから、別の魂を入れることになるけれど」


「別の、魂……。それは杏子は生き返るが、別の何かに体を乗っ取られた状態になるということか。杏子は杏子でなくなるのか」


「安心なさい、その子に入れる魂には体を動かす為の燃料以外の役目は与えない。魂というのは燃料であり、あらゆる情報を納めているものでもある。何もせずそのまま入れたらまあ間違いなく魂は、この子の頭とかに蓄積されている情報を自分のものに書き換えてしまうでしょうけれど。書き換えるのはとても簡単だもの。他者の魂による書き換えに抗えるもの――自分の魂が無いからね。書き換えられれば、記憶も為人も思考も入れた魂のものになってしまうわ。それは実質乗っ取られた、といっていいでしょうね。まあそうならないようにしてあげるから、安心なさいな」

 二人は顔を見合わせる。魂を入れるとか、情報書き換えによる乗っ取りとか、体を動かす燃料とか現実的離れした話にただ困惑するしかない。そして普通に考えれば死んだ子供の体に別の魂を入れて生き返らせるという話など夢物語、嘘、でたらめである。そんなことが出来るはずはない、だが目の前にいる女が纏う空気には説得力があった。異形の者の実在や魔法などまるで信じていない人間に「本当に出来るかもしれない」と思わせるだけの力が。だから嘘を吐くなとか、誰がそんなことを信じるかと言うことも出来ずにいた。

 二人が答えを出せずに俯いていると「ただ」と女は右手の人差し指をたてながら先程までの言葉に大事なことを付け加える。


「助ける上で何の制約も無いわけではないわ。この娘は私が助けることは出来る。けれど……この娘は一生処女でいる必要がある。純潔の結界で魂を閉じ込めるの。だからもし男と交われば魂は破られた結界から抜け出て、あっという間に死んでしまうことでしょう。助けてあげられるのは一度きり、誓いを破り息絶えればもう二度と助けてあげることは出来ないからそのつもりで」


「一生……」


「そう、一生。まあ恋人を作ることも、結婚することも出来ないでしょうね。性交渉を一切しないというのなら別だけれど、万全を期するならやめた方がいいわねえ。貴方達だっていつかもしかしたら……と思うと不安で仕方なくなっちゃうでしょう? まああくまで男性との交渉に限られたことだから、女性と恋をする分には構わないけれど。まあ安心して頂戴な、私もこの娘を最大限守ってあげるわ。守りの蝶をつけてあげる。そうすればこの娘自身が蝶の守りを心から拒まない限りは大丈夫よ。さあ、どうするお二人共。決めるなら早い内に決めてしまって。私はそう気が長くないし、そもそも気まぐれで助けてあげようかなと思っているだけだからね……うだうだ悩んでいる内にやっぱりやめた、と思うことがあるかもしれないわ。天の者ってとっても気まぐれなの。気分一つで摂理に背いて人助けすることもあれば、理不尽に命を奪ったり、誰かの人生を滅茶苦茶にしたりすることだってある」


 二人は動かぬ娘と女を交互に見る。矢張りあまりに現実離れしすぎた話である。一生生娘であることと引き換えに生き返らせてあげます、蝶をつけて最大限守ってあげます、さあどうする……そう言われて誰が即答出来るものか。そして幾ら女の纏うものに説得力があっても、簡単に信じられる話ではない。仮に本当だとして、彼女に杏子を委ねてしまって本当に良いのだろうか。悪魔の様な、死神の様な、得体の知れぬ女に。助かったとして、その後はどうなる。この女は何か要求してくるかもしれない。いやそもそも要求してくるしてこない以前の問題ではないだろうか。異形の者に娘を委ねることも、別の魂を入れて生き返らせるというこの世の摂理に反した行為を願うことも、親としてそして人間として間違っているのではないだろうか。

 生き返って欲しい。またきゃっきゃと笑って欲しい。孫の顔を見ることも、己の血を繋げることも出来ないが、それでも構わない。酷な運命が待っているかもしれない、それでも幸せになってくれさえすれば……だがその願いを叶える為に人の道を踏み外しても良いのか?


「どうする? このまま私の申し出を断って救急車を呼ぶ? 呼んだところでその娘は助からず、ご臨終ですと告げられて、それから焼却炉で焼かれて真っ白な骨になるだけよ。骨になってしまったら私にだって助けられないわよ。小さな骨になった娘を見るのと、楽しそうに笑う娘を見るの、どちらが良い? ねえ?」

 女の甘い声の囁きが、段々と二人の思考も倫理観もとろとろに溶かしていく。子育てをしながら夢想していた娘の未来――その姿が二人の真っ白な世界に現れ、笑いながらお父さんお母さんと言っている。そして手を振っている。こっちへ来て、こっちへ来てと呼んでいる。背を向ければたちまち彼女から肉は削がれ、物言わぬ白い骨となって消えることだろう。

 最初に答えを出したのは久美子だった。彼女は涙をためた目で女を真っ直ぐ見ながら、震える声で叫んだ。半分悲鳴のようなものだった。


「お願い、お願い杏子を助けて! 彼女が生き返るなら私はどうなっても構わないわ、だから、だからお願い今すぐこの子を生き返らせて!」


「別に見返りなど求めないわ。強いていうなら、私にもその子を育てさせて欲しいということ位かしら。私は美しいものが好きでね、目にとまった子をこの世のものとは思えぬ位美しい人に育て上げることが趣味なの。安心して頂戴、別に貴方達から娘をとるわけじゃないわ。ただ私が渡すものを娘に与えてほしいだけ。毒なんてやらないわよ。まあ人離れした美しさになるから、将来色々苦労することもあるかもしれないけれどね。貴方達がそれは嫌というなら諦めるけれど。それで旦那さん、貴方はどうするの?」

 父はびくっと体を震わせ唇を噛みしめる。女の声ですっかり駄目になった頭を限界まで働かせ、それから美代子と同じように叫んだ。


「私からも頼む。どうか杏子を助けてくれ! 私達の宝を、私達の花を……!」

 女はそれを聞くと満足そうに微笑んだ。


「分かったわ。それじゃあ助けてあげる。貴方達の大切な花は再び咲くことでしょう」

 そう言うと女は久美子の腕の中にいた杏子を抱き上げた。その小さな体に女の周りを飛んでいた蝶の内の一羽がすうっと入っていく。青白い光の玉――魂だろうか――を背負って。蝶はしばらくして体から抜け出した。


「まだすぐには目を覚まさないわ。先程の蝶に体の中の死んでしまった部分を治してもらったけれど、魂が体を動かすまでには少し時間がかかる」

 そう言って女は杏子を久美子へ返した。そしてしばらくの間三人は杏子を黙って見守る。

 今の時点でも夫婦は半信半疑だった。少ししたところで女に「冗談よ冗談、生き返らせるなんてそんなこと出来るわけないじゃない。体に蝶が入ったのも、タネも仕掛けもあるマジックよ」とか言われて笑われるかもしれないし、こちらが杏子に気をとられている隙に金品を奪って逃げる算段なのかもしれない。

 けれど、もし本当だったら。杏子が目を覚ましたら……。二人は願う。女の言葉が真実であることを。彼女が再び打ち鳴らすかもしれぬ心の鐘の音を聞き逃すまいと唇を噛みしめ、一切の音をたてぬようにしながら。


 それからどれ程の時間が経っただろうか。まだ引かぬ涙と緊張と希望と歪なもので満ちた部屋に、杏子の泣き叫ぶ声が響き渡った。体を震わせて、先程まで青白かった顔を真っ赤にして、泣いていた。心臓、その鐘の音が震えが夫婦の魂に伝わり、振動させ、喩えられぬ程の歓喜と感動を与え、涙が後から後から零れてくる。娘は生き返った、生き返ったのだ!

 その瞬間、夫婦にとって女――胡蝶と名乗った――は死神でも悪魔でもなく天女に、いや、大いなる神へと変わった。彼女の望みは自分達の望みになり、彼女の言葉は自分達にとって絶対になった。


 そして今日に至るのだ。



 ――あの方は天女様よ、杏子のことを助けてくれた天女様――

 度々家を訪れる胡蝶のことを両親は夢見るような顔でそう称した。だから杏子は彼女のことを天女様、と呼んだ。そしてその天女様のことは家族だけの秘密、誰にも話さなかった。

 始め杏子は『天女様』に恐怖を感じていた。彼女が身に纏っているものの得体の知れなさや強さは子供でさえ分かるものだったから。しかし恐怖を感じる一方で、どうしようもなく惹かれた。だからいつも彼女が来ると杏子は逃げてしまう。そうして逃げながらも陰からそうっと顔を出してじっと彼女を見つめるのだ。近づきたくないけれど、怖いけれど、見たくなる。

 しかし相手が自分に危害を加える人ではないことを理解してくると、段々と恐怖心も薄れていく。そうすると、惹かれる気持ちの方が勝っていく。見たこともない美しい蝶の主、そんな彼女から貰った世界で一番美しい『お守り』、そして普通の人間である自分を人離れした美しさをもつ娘に育て上げた力、そんな自分が今後どれだけ彼女の手によって美しく育っても一生叶わないと思える程の美しさ――それら様々な要因が胡蝶の存在を上へ、上へと上げていった。気づけば杏子にとって胡蝶は『よく遊びに来る怖い感じのするお姉さん』から『天上の世界に住む麗しき天女様』へと変わっていた。


 そして杏子はある日、真実を知った。自分が産まれてすぐ一度死んだこと、それを胡蝶が助けてくれたこと、その代わり男と交わってはいけない体になったこと……。胡蝶が赤ん坊だった自分にくれた『お守り』の役目も。全ては杏子の命と、胡蝶が育て愛した杏子の美しく妖しい姿を守る為だったのだ。途方もない話だったが、両親は冗談でもそのような夢物語を語ることはない性格だったことを知っていたし、何度も杏子の命の恩人だと話していた上胡蝶のことを崇拝している様子だったし、何より人が持ち得ぬ空気や美貌、この世にはいないだろう姿の蝶を沢山持っていた点など見れば嘘とは到底思えなかった。


 小学三年生の時、一人の男の子のことを好きになった。だがそのことを話した途端両親にとても苦しげな表情を浮かべられた。そしてその気持ちは忘れなさい、と何度も言われた。何故そのようなことを言うのか当時の杏子には全く理解出来なかったが、両親のその様子を見たら『恋をしたら二人を悲しませる』と考え、小さな恋心を必死になってかき消した。自分の恋は、二人を苦しめ殺す毒の薬なのだと幼い杏子は考え、以来男の子に好意を抱きそうになる度、無理矢理それを自分の中から弾き飛ばしていた。誰かに好きだ、と告白されても「ごめんなさい」と必ず返すことにした。

 真実を知らされてからは絶対に男の人のことを好きになるまい、誰の告白も受けまいと一層心に強く誓った。恋人を作る=死でなくても、両親に二度とあのような顔をさせたくなかったから。


 今はもう胸も痛まない。ピンポンダッシュやいたずら電話でもするような感覚での告白、醜い赤黒い炎を燃やしいかにも体目的ですというような告白、記念告白、今杏子が受けるものなどそれ位だ。そんなものに命を守る想いが揺らぐものか。

 自分は男性とは一緒にならない、恋はしない。女性もそういう目で見ていないから、自分は独り身のまま一生を過ごす。両親もいる、彼等が逝っても天女様がいる。だからそれでも大丈夫だ。


「そういえば杏子、明日は学校お休みなのよね。もし用事が無ければ私と一緒に遊ばない? また杏子と地上の世界を歩きたいの」


「まあ、それは願ってもないことです! 大丈夫です、明日は何もありません!」

 胡蝶の申し出に杏子は顔を輝かせた。時々彼女は地上の世界を歩きたいと言って、杏子と出かけることがある。そして買い物をしたり、食事をしたりするのだ。特別なことは何もしないけれど、それでも彼女と出かけるのは楽しいし、特別なものに感じられる。

 それじゃあまた明日会いに来るからね、と言って胡蝶は諏訪部家を後にした。


 次の日杏子は自宅を訪れた胡蝶を迎えた。おめかしをした杏子を彼女は「世界で一番美しいお人形さんね」と褒めてくれた。そして電車を使い数駅先の街へと出かけていく。舞花市や三つ葉市より大きな街で、人気の店が多数集まったショッピングモールや水族館の中にいるような気持ちになるレストランが有名である。この辺りに住む人がよく利用する場所なので偶に胡蝶と歩いている所を目撃され、あれは恋人なのだと噂するものもいるが気にしない。彼女は恋人ではないし、人間如きが彼女の恋人になるなどおこがましいにも程がある。そもそも恋愛感情も無いので、そんなこと願ってもいない。

 胡蝶は金色の蝶飛び交う黒い着物を着ている。着物という珍しさと容姿と身に纏うものが相まって、彼女の姿は非常に目立ち人々の視線を一身に受けていた。あまりに彼女が強烈な為に隣を歩く杏子は普段ほど注目を集めずに済んでおり、妖しさも薄まってはいた。その為に彼女と共に歩く時は、普通の女の子に戻れたような気持ちになる。


 二人はショッピングモールで買い物をしたり、お気に入りの喫茶店でお茶を飲みお喋りを楽しんだりした。昨日も散々喋ったというのに杏子はまだ足りないとばかりに口を開き続けた。胡蝶は呆れもせず、微笑みながらその話を聞いてくれた。


「いやだ私ったら昨日も同じこと、確か話していましたよね。ごめんなさい」


「別に構わないわよ。私は貴方のその美しい声を聞けるだけで幸せだから」

 そう言われると、ああこの声を聞かせるだけで彼女が喜ぶなら幾らだって私は話をしようと思うのだった。

 喫茶店を出、二人は最近オープンしたという雑貨屋へと入って行った。そこで気に入ったものを買い、素敵なものが沢山置いてあったからまた来たいと言いながら店を出る。


「ああ、やっぱりあれも欲しいわ。杏子、ここで少し待っていて頂戴。私急いで買って戻って来るから」

 そういえば買おうか買うまいか迷っていたものがあったなと杏子は思い出し、分かりましたと頷いた。買うものは決まっているのだから、そう時間はかからないだろう。

 可愛い雑貨の飾られたウィンドウを眺めながら胡蝶を待つが、なかなか戻ってこない。もしかしたら他にも気になるものを見つけたのかしら、ここで待っていてと言われたけれど様子を見に行こうかと再び店の中へ入ろうとした矢先、すみませんと声をかけられた。男の声だったので出来れば振り返りたくなかったが、すみませんと声をかけられて無視するわけにもいかない。仕方なく杏子は振り返った。


 そしてその相手の顔を見た瞬間、彼女は高い所から落ちて地面へ叩きつけられたような、すさまじい衝撃を受けた。全身の骨が粉々に折れてしまったかのように、痛い。そして心臓を折れた骨の内の何本かが突き刺している。それだけのものが彼女を襲ったのだ。全身の血が沸騰し、体が熱い。熱さのあまり何も考えられない。

 目の前に立っていたのは、自分と同い年か少し上位の男。背は百七十ある杏子とそう変わらぬ位で、どちらかといえば痩せている。前髪は五分分けで襟足はやや長め。艶々とした黒髪は杏子のそれとよく似ている。肌は白く、涼しげな目元が印象的だ。落ち着きのある、真面目で利発そうな顔は整っており、杏子程ではないが人を惹きつける妖しさがあった。


「すみません。この辺りには詳しいですか? 行きたい店があるのですが、なにぶん初めて来た街なので迷ってしまいまして」

 よく響く、透き通った声。杏子はしばらくの間ぽうっとしていたが「どうかしましたか?」と首を傾げる男の声にはっとし、上擦った声でどこへ行きたいのか聞いた。男が挙げた店のことはよく知っていたので、何度も噛んだり詰まったりしながらも何とか道を教えることが出来た。男はそれを聞くとありがとうございます、と言ってにこりと微笑んだ。その表情は優しく、その笑顔を見た瞬間杏子は心臓が止まった錯覚を覚えた。男はぺこりとお辞儀をし、そのまま去っていく。杏子はぼうっとしながらその姿が行き交う人々の中に溶けて消えていくのをずっと見つめていた。


「ごめんなさいねえ杏子、つい他の商品にも目がいってしまって少し時間がかかってしまったわ。地上には面白いものが沢山あるわよねえ」

 店から出てきた胡蝶の声を聞いた時、杏子は心臓が飛び出るかと思った位びっくりした。胡蝶はそんな様子の杏子を見て首を傾げる。彼女が男の人と喋っていたところは見ていないらしい。助かった、と杏子は思った。

 どくんどくん、というよりどんどんというすさまじい音をたて続ける心臓を抱えながら、それからの杏子は胡蝶との時間を過ごした。彼女が何を話しているのか、それに対し自分がどう返しているのかさえ分からない。両者の声は心音にかき消され、思考は先程の男に覆われてしまった。


「どうしたの杏子、先程から少し様子がおかしいわよ。もしかして私が店にいる間、また男に絡まれたの?」


「いえ、いいえ……なんでもありません。いつも通りの私ですわ、胡蝶様」


「そう、ならいいのだけれど」

 幸いにも胡蝶はしつこく聞いてこなかった。胡蝶に初めて隠し事をしたことで少しばかりの罪悪感を抱いたが、あの男のことを話さずに済んだことに安堵もしていた。彼女には絶対話してはいけない、勿論両親にも。

 胡蝶と別れ家へ帰ってからも、杏子は男のことを忘れられずにいた。むしろ胡蝶がいなくなったことで押さえていたものが溢れてしまったらしい。動悸も体の火照りも止まらず、どうにかなってしまいそうだった。

 摘み取り、捨てなければいけない芽。自分はこれまでにも幾度か想いが育つ前にそれを摘み取っていた。

 しかし今回はどう頑張っても摘むことが出来ず、信じられない速度で成長していく。もう芽、などとは呼べない。すでに花が蕾をつけ、間もなく開きそうになっていた。


(そんな、一目みただけなのに。言葉など殆ど交わさなかったのに。私は自分の容姿だけを見て好きになる人が嫌いだった。顔が良いからとか、体目当てとか、それだけで好きだと言ってくる人間が。それなのに、そんな私が、ただ見ただけでこんなに……! 忘れなければ、忘れなければいけないわ! あの人は今日初めてあの街へやって来たと言っていた。なら普段は別の場所に住んでいるのだわ……もしかしたらうんと遠くかもしれない。名前も知らない、住んでいる場所も知らない人――遠くに住んでいるのなら、きっともう二度と会うことはない。だから、諦めるの。そうすれば傷つかずに、苦しまずに済むわ。両親や胡蝶様を不安にさせることもない。嗚呼、でも……もう一度、もう一度会いたい……! そうよ、会うだけなら私死にはしないわ。会って話をするだけなら……)

 もうどうにもならない位杏子は彼のことを愛してしまっていた。どうしてそれ程想っているのか理由は分からない。


 それからの杏子は寝ても覚めても彼の事ばかり考えていた。学校が終わった後親に「少し帰りが遅くなる」と言ってあの街へ足を運んだこともあった。だが彼に会うことはなかった。会いたい、好きになってしまった、でも好きになってはいけない、会えない……その想いを杏子は誰にも告げることが出来ずにいた。

 時子に相談することは出来るだろう。彼女は陽気でお喋りな性格だったが、知られたくないことを周りに言いふらすようなことはしない人だ。だが万が一のことがある。僅かな綻びから想いが零れ、そしてそれが両親の目に映るようなことがあれば一大事だ。それに彼女に告げたところでこの気持ちは楽にならないだろう。両親や胡蝶に想いを悟られぬよう、彼等の前ではいつも通りの自分を演じた。その演技で騙せたかどうかは分からないが、少なくとも彼等がどうかしたのかと尋ねてくることはなかった。

 気づけば出会ってから一か月近くが経っていた。彼の事は未だ忘れられず、むしろ会えない日が続く程に会いたいと、愛しいと思う気持ちが強くなっていく。諦めようと思っても諦められない。


(これ程までに男の人のことを好きになってしまうなんて……)

 しかも一目惚れ。未だ信じられない思いだ。おまけにまた今日も登校中に見知らぬ男から告白され、女子から嫌味を言われ気分が沈んでいた。その気持ちを少しでも浮上させようと、舞花市の路地裏にある小さな喫茶店を目指す。そこは自分に嫌味を言うような女子や軽い気持ちで杏子に絡んでくるような人間などが利用するような場所ではなく、心落ち着く場所の一つだった。

 からんからんという音と共に開いた扉を閉めようとしたところで、すみません入りますという声が聞こえた。そしてその声を聞いた瞬間杏子はまさか、と振り返った。目と目が合った瞬間相手から「あっ」と言う驚きの声が漏れた。


 杏子の目の前に、あの男が立っていた。もう二度と会えないと思っていたはずの彼が。会いたいという想いが作り出した幻ではない。正真正銘の、実体のある、彼だった。

 そしてその瞬間杏子は悟る。


 これは運命だ。この人は自分の運命の人なのだ……と。

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