第六十四夜:蝶よ花よ(1)
助けてあげましょうか。
貴方達の大切な花を、再び咲かせてあげましょうか。
『蝶よ花よ』
「申し訳ないけれど、貴方とはお付き合い出来ません」
杏子はもう何度口にしたか分からない言葉を、実に事務的に相手に告げる。相手の男子――去年同じクラスだったらしいが全く記憶にない――はやっぱり無理か、と肩を落としとぼとぼと去っていく彼を見て杏子はため息を吐く。
(無理だと分かっているなら、最初から告白などしてこなければいいのに。いい加減彼等は学ぶべきだ。この私が絶対告白を受け入れることはないことを。……何度も何度も、迷惑だわ)
無理矢理呼び出されてはどうでも良い人間に告白され、断る自分の身にもなれと思う。そして断ればやっぱり駄目だったかあとヘラヘラ笑ったり、落ち込んだり、悲劇のヒーローぶったり、キレたり。記念受験ならぬ記念告白をする者もいれば、罰ゲームに使われることもあった。最初の内は胸を痛めながら断ったものの、今となってはそんな気持ちなど欠片もなく、ただただ腹がたつ。再びため息をつき、部室を目指して歩いていると、同学年の女子二人がこちらを見ながらひそひそと話しているのが聞こえる。小声ではあるが、杏子にわざと聞かせる程度には大きい。
「また諏訪部さん断ったみたいよ。どうせろくに目も合わせないまま、冷たく振ったに違いないわ。告白お断りマシーンですものね」
「断るにしてももう少し誠実な対応は出来ないのかしら。告った男達があんまり可哀想」
「本当、顔が良いからって調子に乗っているとしか思えない。でもこんな風に振る舞っていられるのも若い内だけよ。今に老いて男なんて寄りつかなくなって、一人寂しく過ごすことになるのよ」
「あ、分かるう! あまり友達もいないみたいだし、将来絶対孤独になるわよね。それでもう少し男に優しくするべきだったって後悔しながら死ぬの。ざまあないわね!」
そう言って二人はけらけらとたっぷりと悪意のこもった笑い声をあげる。杏子は彼女達それぞれの片思いの相手が揃いも揃って自分に告白してきたことを知っている。それが悔しくて妬ましくて、あんなことを言ってどれだけ想っても報われない自分達を慰めているに違いない。杏子は何も聞かなかったふりをしてさっさと立ち去る。その背中に「うわ、無視かよ」「私達平凡顔女の言うことなんて聞こえないんじゃない、美人様には」という言葉が突き刺さるが、無視をする。
杏子は告白を断る度、生徒達に悪意や嫉妬、好奇の目を向けられる。早いもので一人の男子生徒を振ったのはほんの少し前のことなのに、もう多くの生徒達に広まってしまっているらしい。そしてその話を聞いた後に彼女の姿を見かけると、ああだこうだとひそひそ話をするのだ。また別の女生徒達の話し声が杏子の耳に届く。
「また振ったんですってね。これで何人目?」
「さあ、全然分からない。それにしてもまあ次から次へと……懲りないわね、男達って。一度振られたのにリベンジして、結局またこっ酷く振られたのもいるって。まあ夢見ちゃうのも分かるけれどね……綺麗だもの。現実にあんな人がいるなんて、信じられない」
「あの人、いつか誰かの告白にOKを出すのかしら」
「無理じゃない? あの人男嫌いっぽいし。噂だと、実は女が好きらしいわよ」
「あ、聞いたことある。すっごい美人の女の人と仲良さそうに歩いているのを見たって人、結構いるみたい。もしかして恋人とか?」
「だったりしてね。だとしたら、世の男じゃどうにもならないわね」
「私達だったらチャンス有り?」
「告っちゃう? なんてね。あ、でもあれだけの美人じゃ相当目も肥えているだろうから、私達には無理ねえ」
その女子達の笑い声が、杏子のむかむかしている胸の内をますますざわつかせる。誰かに告白される度、このような目に遭う自分の気持ちを考えてくれる人など殆どいない。悪いのは自分で、想いを告げる人達は被害者なのだ。被害なら十分こちらも被っている、と杏子は思うのだがそういう部分を出すとまた何を言われるか分からない。それがとても嫌だった。
こんな嫌な思い出来ることなら二度としたくない。お願いだからもう誰も、自分に想いを告げないでと杏子は思う。しかしそうなることは決してないだろう。
彼女を見た男達が儚い夢を抱き、叶わぬと分かっていながら想いを口にせずにはいられなくなるのも無理は無かった。彼女は誰が見ても美しい娘だった。
長く伸ばした黒髪は、銀箔と螺鈿細工を施された黒漆の箱の如く、古き良き日本を思わせる高貴にして至高の芸術品の如く。一本一本は細く、そして滑らかで絹糸の様。天女の羽衣を作ることさえ出来そうで、触れれば誰もが夢心地。形の整った眉、切れ長の瞳は妖しく輝き、頬は牡丹、潤んだ唇はほの紅く。肌は雪花石膏、全体で見れば細身だが、部分部分に程よく肉がついており、体の線には柔らかみがある。
優れているのは外見だけに留まらない。成績も優秀、勉強程ではないが運動もそこそこ出来、料理や裁縫といった家事も得意で、華道や茶道、琴も嗜み、立ち振る舞いは優雅で彼女がただ歩いているのを見るだけでため息をほうとついたり、蕩けた顔をする者もある。家は一般家庭に比べれば裕福だ。性格も特別良いわけでもないが悪いわけでもなく、両親らに甘やかされて育ったわりには酷い我侭も言わない。
蝶よ花よと育てられた彼女は人の世を舞う艶やかな蝶に、そして触れたくても決して触れることの出来ない花となった。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。
美しい娘。だがその美しさは人の領分を越えている。人ならざる者、異界の住人と説明されたら大抵の人間は「ああそうなのか」と何の疑問も持たず信じてしまいそうだった。実際化け物の娘だと揶揄する者もいる。その身が纏うものは人離れしたもので、故に彼女は人から距離を置かれがちだった。同じ趣味を持つ人間や、気が合いそうな人間を見つけて「仲良くなりたい」と思って近づいても相手に委縮され、距離は縮まらず、友情を育むことなく関係が終わってしまうこともまま良くある。彼女に告白した男達も例外ではないと杏子は思っている。彼等も仮に杏子がOKしたら、途端「あ、やっぱりいいです」と言って辞退するだろう。強い異質な力に惹かれ、目を奪われ、焦がれる。触れたいと、手に入れたいと思っているのは彼女が遠くにいる内だけで、いざ向こうに近づかれ触れられる距離まで来れば、彼女が持つものを恐れ、逃げる。だから杏子には親しい人が殆どいなかった。そのことを全く気にしていない彼女ではなかったが、自分の力ではどうにも出来ないことだ。
(それでも……それでも大丈夫よ。時子のような素敵な友達もいるし……それに私にはあの方が……天女様がいるもの。ずっとずっとあの方は私の傍にいてくださる。だから、一人ぼっちになどならないわ、何があっても)
杏子はただ一人の人のことを思い浮かべて微笑む。そして部室――茶道室へ向かい、心を落ち着かせ静かな時間を楽しんだ。そうしていると男に告白されたことも、悪口や自分の噂話を聞いたことも忘れられる。
部活を終え、学校を出た頃にはすっかり平静を取り戻していた。一人歩く彼女、たなびく髪はさらさらと、星降る夜の下の小川。手は蝶の舞。ただ歩いているだけで多くの人の目をひく。でも皆遠くから曰くつきだが素晴らしい美術品、或いは異界に住まう人ならざる者でも眺めるかのような目で見ているだけだ。街中の書店の前を通った時、数少ない友人の時子とその彼氏が楽しそうにお喋りしている姿を見た。彼といる時の彼女は、自分といる時とはまた別の顔をしている。二人はとても幸せそうだった。
(……本当はお話したかったけれど、邪魔したら悪いわね)
と肩をすくめる。帰り道を歩いている間、見知らぬ男にずっと前から見ていました、とかいう言葉と共に花束を差し出され(申し訳ないが貰うことは出来ない、と断ったが)、それを見ていた女生徒達の悪口てんこ盛りの会話を聞き、いかにも軽そうな男に絡まれた挙句その彼女に「誘惑するな」と訳の分からないことを言われ、また少し気分が落ち込んでいた。その気持ちを友達と喋ることで解消したかったが、彼氏との時間を邪魔したくはなかった。
幸せそうな二人、お互いを大切に想う気持ちでいっぱいの顔。
男嫌いかつ恋愛対象は女性である、という噂が流れている杏子だったがそれは正しいとはいえない。彼女は女性を恋愛対象として見たことなどないし、男というだけで無条件で嫌うということもないし、好意を抱いた男が今まで一人もいなかったわけではない。愛する人と幸せそうに寄り添う姿を見て「羨ましい」と思うことも少なからずあった。だがその思いはどうしても消さなければいかなかった。男と親密な関係になることはどうしても避けなければいけない、そうしなければいけない事情があるのだ。
舞花市のへそ、と呼ばれている巨大十字路にかかる横断歩道を歩いている時、見知った人間とすれ違った。見知った人間ではあるが、親しい人物ではない。かつて杏子に告白した男子高校生だ。彼は杏子の姿を認めた途端顔面が蒼白になり「ひいっ」と悲鳴をあげる。そして横断歩道を渡る人々にぶつかりそうになりながら、必死の表情で逃げて行った。杏子はその姿を冷ややかな目で送る。
(私が怖くて仕方ないんだ。……でも、貴方が悪いのよ。勝手にキレた挙句私に襲いかかろうとしたから)
大通りから外れ、住宅街へと入っていく。闇の中、家々や電柱が亡霊のように佇んでいる。家まで後少しだと思った時、杏子は突然何者かに後ろから抱きつかれた。何事かと見てみれば、暗闇に浮かぶ興奮した様子の男の姿。その男は近所に住む大学生で、以前交際を申し込まれたことがあった。優しい人で決して嫌いではなかったが断り、がっくりと肩を落とし帰る後ろ姿を見送った。そんな彼が今、瞳に狂った獣の光を宿し、杏子を羽交い絞めにしている。
「やっぱり、諦められない……さあ大人しく来るんだ。大人しく従うなら手荒な真似はしない」
もうすでに十分手荒なことをしているじゃないかと杏子は思う。自分の首を胸の下に回っている腕を振りほどこうとしたが、出来ない。細い腕だったが、それでも女性である杏子の自由を奪うには十分すぎる力をもっている。
人々は杏子に一定の距離以上近づこうとしない。皆杏子に『異界』を感じるからだ。触れたいと願いながらも、触れられない、触れてはいけないと分かる存在だと認識している。だが時々杏子のもつ妖しき気を感じぬ馬鹿や、興奮のあまりそれが見えなくなる者もおり、彼女を無理矢理自分のものにしようと襲いかかってくる者もたまにいる。男は杏子をすぐ近くにある自分の家に引きずり込もうとしていた。杏子の心臓は驚きのあまりばくばくと音をたてていたし、まるで恐怖を感じていないわけではなかったが「絶対大丈夫、彼は何も出来ない」という確信があったから、状況のわりには冷静だった。男は杏子を囚える腕に力を込め、荒々しく吐いた息を彼女へとぶつける。瞳に理性は残っておらず、自分の中にある赤黒い炎を激しく燃やすことだけを考えていた。その瞳を今まで何度見てきたことか。
だが杏子に対して抱く欲望を満たすことは誰にも出来ない。耳を突き刺す悲鳴、それと同時に緩む腕の力。ばっと思い切って腕を振り払い、逃れる。その場で喉を抑えながらふらつく男の大きく見開いた瞳からは赤い炎が消え、恐怖と驚愕の光が宿っている。開いたままの口から零れ落ちる虹色の鱗粉。それが闇に妖しき色を落としている。
「何かが、な……あああ!」
青ざめた顔、心臓をぐちゃりと握り潰すような絶叫。男は頭を抱えたままその場にしゃがみこみ、再び叫び、とうとう冷たい道路に倒れ、悶える。その姿を『天女様』が以前、死にかけの蝉の様だと妖しい笑みを浮かべながら評したことがあるのを思い出した。まさにその通りだと杏子は思いながら後ずさりし、男から距離をとる。のたうち回る男の姿はまさに命の灯が消えかかった蝉そのもの。だが彼は蝉ではない。ただやかましいだけの虫とは違い、杏子に害を成すかもしれぬ恐ろしい者だ。彼等が胸の内で燃やす赤黒い炎は、乙女を燃やす。
「……このことは誰にも言いません。けれど、またこんな風に手を出そうとしたら……許さないですから」
軽蔑の眼差しを贈り、杏子はまだ苦しんでいる彼をその場に置いて走り出した。苦しんではいるし、数日間恐ろしい夢に苛まれ心を蝕まれることになるだろうが、死にはしない。それが分かっているのは、彼を死にかけの蝉にしているのが自分だからだ。正確に言うと彼女自身が何かしているわけではないが。
杏子は走る。のたうち回っている男がもつ『死』から遠ざかる為に。男なら誰でも嫌いだと思いはしないが、告白を受けたりこうして襲われかかったりする時、彼女の中にこの世にいる全ての男をおぞましい、忌避すべき生き物だと思う気持ちが産まれる。軽蔑し、恐れ、そして彼等の無知への怒りに燃える。
(誰も知らない。私がどうして男の人と付き合おうとしないのか、誰の告白も受けないのか。誰も知らない……何も知らない……だからこれからも何度だってこういうことが起きる。何度も、何度も脅かされる。理由を知ってなも襲ってくる人もいるかもしれない。彼等はとても勝手だから。勝手で醜くて愚かで汚らわしい……こういう時、たまらなく彼等が嫌になる)
だが大丈夫だ。彼等がどれだけ愚かな生き物でも、彼女を自分のものにしようと手を伸ばしてきてもそれが届くことは無い。杏子の周りで五羽ほどの小さな蝶がひらひらと舞っている。虹色の光の体を持つ異界の蝶。男の体内に侵入し、精神世界に鱗粉を撒き当分覚めない『悪夢』を与えて戻ってきたのだ。杏子は彼等の姿を見て微笑み、ありがとうと礼を言う。彼等は嬉しそうに彼女の周りをくるくると飛んでからすうっと消えていった。
(彼等が……天女様の蝶が私を護ってくださる限りは大丈夫よ。あの方が大事にしてくださっているこの体を故意に傷つけることは誰にも出来ないし……男に殺されることもない)
虹色の蝶達は杏子のお守りであり、また彼女が距離を置かれる理由の一つであった。
彼女に危害を加えようとすると男女問わず呪われるという噂がある。それは真実である。真実であるのに限りなく作り話に近い話程度で済んでいるのは、蝶が幻で真実の光景を隠してくれるからだ。今男は道路に倒れ苦しんでいるが、他の人には彼が道路にぼけっとつっ立っている姿が見えることだろう。真実を知っているのは杏子と、彼女を襲い蝶に悪夢を与えられた人間のみ。といっても彼等に蝶の姿は見えない。彼等は目に映らない何かが体内に侵入したような感覚に襲われ、直後苦しみと恐怖を味わう。そして二度と杏子に近づこうとは考えなくなるのだ。
ある日廊下を歩いていた時、嫉妬の炎に焼かれた女生徒に殴りかかられたことがあった。しかし殴られる寸前女生徒に蝶が入り込み、その人は倒れた。周りには生徒が大勢いたが、彼等には女生徒が杏子に殴りかかったが寸前でぴたっと止まり、そのまま教室へ戻ったように見えたようだ。実際には女生徒はその場でのたうち回り、しばらくの間生徒達に踏まれたり蹴られたりする羽目になった。その後も蝶がもたらした悪夢が消えるまで――三日ほど――彼女は大変酷いことになっていたが、生徒達には普段通りに見える。だが悪夢から解放され、幻が消えると途端酷く青ざめていて具合が悪そうな彼女の姿が現れる。そして時々悲鳴をあげたり、ぶつぶつと何か呟いたりする。そして杏子の姿を認めると悪夢のことを思い出すのかますます青ざめ、恐怖に顔を歪めるのだ。そういう女生徒のように、杏子に危害を加えようとした者が数日後酷い様子になる事案は度々起きている。だから『杏子に暴力を振るったり、彼女を無理矢理自分のものにしようとしたりした者は呪われるのだ』とまことしやかに囁かれているのだ。危害を加えようとする云々が抜け、単純に『彼女に近づきすぎると呪われる』という噂まである。
その噂が彼女をより妖しく化け物めいたものにさせ、ますます人々を杏子から遠ざける。しかしそのような黒い噂があっても杏子に告白してくる人間は後を絶たないし、興奮して我を忘れている人間はその噂のことも忘れてしまうからいざという時の抑止力にはならない。結局彼女の妖しい美しさ、身に纏う気、噂で遠ざかるのは距離を置かれたくないと思う人達ばかりで、遠ざけたくて仕方ないような人間達には意味が無いのだ。欲しいものは遠ざけ、いらないと思うものは惹きつける――厄介なものだ。
先程の嫌な出来事は早く忘れてしまおうと努めながら自宅のドアを開ける。丁度廊下を歩いていた母が娘の帰宅に気づき「おかえりなさい」と微笑んだ。高校二年生の杏子の親にしては高齢の方だが、若々しく実年齢より十歳以上は若く見える。地元ではマドンナと呼ばれた程の美人であるが、杏子の様な妖艶さはなく近寄りがたい人でもない。
「杏子、今日は胡蝶様がいらしているわよ」
「胡蝶様が! ああ、そういえば玄関に草履が」
母からその名前が出た瞬間杏子は嫌なことがあったことなど忘れ、ぱあっと顔を輝かせる。今はリビングにいて杏子の帰りを待っているそうだ。杏子はぱたぱたと走り、リビングの扉を開けた。シックな家具と観葉植物の置かれたシンプルながらしゃれたリビングに入った瞬間、その中央辺りにあるテーブルの上に載った湯呑を手にとる女性の姿が目に映った。その人こそが胡蝶様であり、天女様である。胡蝶は椅子に座ったまま体の向きを変え、向かってくる杏子を真っ直ぐ見つめ、妖しく笑んだ。杏子は彼女の傍らに跪き、黒い衣に覆われた足に自身の両手を置いた。そして顔を上げ、頭上にある胡蝶の顔を無邪気な笑みを浮かべながら見る。その姿はまるで大好きな主人に「遊んで、構って」と甘えてくる犬の様だ。
「あら杏子、帰って来たのね」
「お久しぶりです胡蝶様」
「それ程久しぶりではないわよ」
「一か月会えなかったら、私にとっては久しぶりです。本当なら毎日でも来てほしい方ですもの」
「あら、嬉しいことを言うわねえ。それにしても相変わらず美しいわね。嗚呼本当に素晴らしい娘に育ったわ!」
と惚れ惚れした様子で杏子を見つめる。そんな彼女もまた美しい女だった。真っ直ぐ伸びた黒髪は艶やか。その髪を使って頭にお団子一つ作り、後は下ろしている。その団子の付け根に挿された簪には金や銀や虹の蝶を象った飾りがついており、彼女が身じろぐと星をちりばめた夜空を映した川の様な髪の上でしゃらしゃらと舞う。唇は赤く濡れ、開けば真珠の如き歯と甘く妖しい蜜を多分に含んだ花の様な舌が見える。虹色の鱗粉振りまく黄金の蝶と、鮮やかな花と風が描かれた黒い着物から覗く肢体は妖艶で、同性さえ強く惹きつけ、油断をすれば良からぬ思いが芽生えてしまいそうになる。
その妖しさ、美しさはまさに異界の者。しかし羽衣を身に纏っているわけでもないし、世間一般に広まっている天女の姿とは程遠く(美しい、という点はともかく)、黒い着物は天界よりもむしろ地下の世界を想起させる。この人は誰でしょう、と聞かれて天女だと答える人よりは死神と答える人が多そうだ。しかし本人が天女と言っているのだからそうなのだろう、と杏子は思っている。彼女にとって天女様――胡蝶の言うことは絶対なのだ。仮に天女ではなかったとしても、彼女の美しさが損なわれるわけでもなし、自分達の住む世界から遠く離れた地で暮らす者であること、杏子にとってとても大切な人であることに変わりはない。
「私の可愛い子。後で沢山お話ししましょうね。貴方も話したいことが沢山あるでしょう。全部、聞いてあげる。だから沢山喋ってね。貴方のその美しい音楽の様な声を少しでも聞いていたいから」
「はい、沢山話します。胡蝶様に聞いていただきたいこと、沢山ありますもの!」
やがて父が帰って来て、夕食の時間となった。普段は食事中殆ど喋らない杏子だったが、胡蝶がいる時は別である。幼い子供の様な顔で、ひっきりなしに胡蝶に自分の近況や最近あった楽しい話などをする。今日も男子生徒に告白されたことや、近所の男に襲われそうになったことは話さない。両親を不安にさせたくないからだ。だが後で胡蝶には話すつもりだった。男には誰にも話さないと言ったが、別にその約束を守る必要はどこにもないし、天女に話す位なら問題あるまい。
胡蝶様、胡蝶様と殆ど彼女だけを見ながら喋っている杏子の姿を見て両親は苦笑いする。そこには寂しさや一握りの嫉妬も混ざっていた。胡蝶に娘をとられたような気持ちにもなるし、杏子の実母は胡蝶で自分達は義理の親なのではないかと一瞬でも考えてしまいもする。勿論そんなことはないのだが、そう思ってしまう位彼女は胡蝶に懐いていた。懐いているというより、彼女に心酔し崇拝していると言った方が良いかもしれなかった。しかし前面に出さないだけで、胡蝶を神の様に崇め慕っているのは自分達も同じであった。
今日の杏子がいるのは、単に胡蝶のお陰。彼女ともし出会っていなければ……そう思っただけで父も母もぞっとする。もしも――を考えるだけで気が狂いそうだった。だから胡蝶には感謝しているし、一生返すことなど出来ぬ恩がある。そして娘にもうんと愛情を注ぐのだ。甘すぎると時々周りから指摘されるほどに。
夕食を終え杏子は風呂へと入る。杏子が手に取る桜色の石鹸は胡蝶が持ってきてくれるもので、それで洗えば陶器の肌になる。髪を洗う時はしゃれた瓶の中に入った青色の液体をシャンプーに一滴落とす。それもまた胡蝶が寄越すもので、髪に艶と輝き、色を与えるのだ。その髪は到底人のものとは思えず、また生命と意思を持った一つの異界の生き物であるようにも見える。杏子が体を動かすから、風に吹かれるから揺れるのではなく己の意思を持って揺れ動いているように見え、また油断していると杏子の体から離れどこかへ行ってしまいそうな……そんなことを思ってしまうようなものだった。杏子は髪も体も今日は一段と念入りに洗う。少しでも自分の体を美しく見せたかったのだ。
人を遠ざけ、要らない人ばかり惹きつける容姿を疎ましく思ったこともある。だが胡蝶といる時はそのようなことは思わず、むしろより美しくありたいと願う。胡蝶は美しい世界に住む美しい人で、自分の住む世界と自身と同じように美しいものを好んだ。彼女は美しいものを愛で、醜いと感じたものは蔑む。胡蝶は自分が美しい女に育てあげた杏子を大切にしてくれている。その愛を享受し続けるには、彼女は美しくあり続けなければいけなかった。胡蝶が美しいと言ってくれるなら、自分を我が子のように愛しんでくれるなら、化け物の娘のままでも構わない。
胡蝶に愛されること、大切にされることは杏子にとって大事なことだった。彼女はすっかり胡蝶に心酔していた。彼女を愛し、彼女に愛されることが杏子の喜びである。もっともその愛は決して恋愛的なものではない。血の繋がらない人を姉の様に思い、慕う気持ちに近いかもしれなかった。或いは神とその信者。胡蝶にさえ恋をしないなら、他の女性に恋することなど決してない。恋をするなら相手は男だ。だがその日は永遠に訪れないだろう。
いつも以上に体と髪を丁寧に洗い、汚れを落とした。女達の醜い心や好奇の目をつけ、赤黒い炎を抱いた男に触れられた体はすっかり清められた。そして風呂から上がり二階の自室へ行くと、部屋の本棚にあった本を読んでいた胡蝶が顔を上げる。読書する姿さえ、額縁に入れて永遠におさめていたいと願う程のものだった。その姿に見惚れつつ、自分などこの方に比べれば石ころのようなものだと改めて思う。胡蝶のもつ妖しさは、杏子のそれの比ではない。それは天界等の住人でない限り決して得られることはないだろう。人には決して辿り着けない、絶対的な境界の向こう側の存在であることを実感し、彼女を畏れながら尊敬し、憧れ、慕う気持ちは強くなる。
「あら、上がったのね。ふふ、それじゃあお話でもしましょうか」
杏子は胡蝶に膝枕されながら改めて自分の近況を語った。幼い頃、母と話す時はよくそんな風にしてもらったものだ。夕食の時にも話したことを改めて話してしまったが、胡蝶は初めて聞いたような態度で聞いてくれた。優しい方だから、気を遣ってくれているのだ。そして先程は話さなかったことも、話した。同級生に告白されたこと、また陰口を叩かれたこと、近所の男に襲われたこと……。それを聞くと胡蝶は可哀想に、と憐れみの目を向ける。
「まあ、大変だったのね。私の大切な蝶に手を出そうとする身の程知らずはまだまだ多いようね。けれど仕方ないわね、杏子はとても綺麗だもの。そこらにいる石ころ女とはわけが違う……触れられないと、触れてはいけないと分かっていながら手を伸ばす気持ち、分からないでもないわ。勿論貴方を男が手中に収めることを私は許さない。そうは絶対にさせないわ。醜い女達のことも、少しも気にしなくていいのよ。蝉みたいに汚い声でわんわん喚かれ続けたら辛いことは分かっているけれどねえ。うるさく喚く蝉や、辺りをうろちょろしている油虫のせいで貴方が苦しむのを見るのは忍びないわ」
そう言って胡蝶は杏子の頭を優しく撫でた。杏子は幼子の様な顔をしながら、自分が抱えている思いを吐きだす。本当の自分――弱く脆く寂しがり屋な自分を見せられるのは、どんな思いも語れるのは胡蝶だけだ。両親には心配をかけたくないからどうしてもさらけ出せない部分がある。黒い袖から覗く白く滑らかな手に撫でられるととても落ち着く。そして彼女から漂う甘い匂いも体の内に溜まった黒いものを取り除いてくれる。この時間は杏子にとって至福のものであり、明日からまた頑張る為の良い薬であった。
「さあ、髪を梳かしましょうね。その美しい髪が美しいままでいられるように。この髪が美しさを失って、貴方の周りをうろつく油虫の体と同じようになってしまったら悲しいもの」
本当はもう少しこのままでいたかったが、杏子は「はい」と言って起きあがり彼女の膝から頭を離した。
そして胡蝶は持参した黒漆の塗られた箱の蓋を開け、中から金箔の細工が施された黒塗りの櫛を取り出した。その箱には木製の小さめの箱が入っており、中を虹色の粉が満たしている。杏子に持ってきてもらったコップに入っていた水をそれにたらし、混ぜて出来た液体に櫛を浸す。そしてその櫛を使って杏子の髪を優しく梳かしはじめた。その液体こそが、杏子の美術品の様な髪を作り出しているものだ。胡蝶は杏子を美しくする為、様々なものを彼女に与えている。そしてそれら全てを杏子はきちんと言われた通りに使っている。中には非常に苦い薬もあり、正直二度と飲みたくないと思う代物だが、胡蝶にこうして大切にしてもらう為には我慢出来た。
さらさらと、さらさらと、櫛は何度も杏子の髪を流れていく。夜空を映す水の中を流れては上へ昇り、また流れていく。櫛についている液体が髪につき、満天の星が散りばめられていく。しばらくするとそれは髪に染みこんで消えていく。黒い髪に黒い櫛、黒い髪に白い手、黒髪に虹。こうして髪をいじることを許しているのも、胡蝶だけだ。櫛が髪を流れる度、胡蝶の手が髪に触れる度杏子は全身を、そして魂を撫でられるような心地になり、心臓がどくんどくんと大きな音をたてる。だが不快ではなく、むしろ恥ずかしいながら心地良さも感じる。それはきっと相手が胡蝶だから。慕い、崇める人だから。
「嗚呼、私とても幸せよ。本当に貴方は美しく育った……私はこうして人の娘を今まで幾人か育てたことがあったけれど、貴方ほど美しく育った子はいないわ。失敗したこともあったわね、確か。あれはどれ位前のことになるかしら」
「胡蝶様、他の人の話などしないで。妬いてしまいます」
「妬くなんて可愛いこと言ってくれちゃって、まあ。ふふ兎に角、貴方はずっと美しいままでいて頂戴ね。そして健やかに育って頂戴。これは私の願いであり、貴方の両親の願いでもあるわ」
「勿論分かっています。大丈夫です、だって私は蝶に……胡蝶様に守られていますもの。この守りがある内は、両親や胡蝶様を悲しませるようなことにはなりません」
「そうねえ、確かに私の蝶の守りは強固だわ。でも絶対ではない。杏子、もし貴方が蝶の守りを心から拒絶すれば、蝶は貴方から離れ守ることをやめる。どうなったって構わないと思う程男を愛してしまったらと思うと気が気でないわ。ご両親も毎日不安に思っているのよ。貴方が恋に落ちて、男にその身を委ねる日が来てしまうのではないかと。年頃ですからね、余計心配なのよ。だから貴方が毎日無事に帰ってくるのを見て、彼等は心から安堵するの。でもまたすぐ不安になって……その繰り返し。私も不安に思うことがあるわ。杏子、貴方は可哀想な子。貴方は恋が出来ない……いえ、恋は出来るわね。心を結ぶことは出来る。けれど、体が結ばれることはない。貴方の体はどの男のものにもならない、なってはいけない」
「ええ、ええ分かっています……」
そう頷く杏子の肩に手を置き、整った顔を寄せる。甘い息がほう、とかかると頭がぼうっとする。お酒を飲んで酔ったらこんな風になるのだろうかと杏子は思った。くらくらして、蕩ける。
「相手が絶対に貴方の体を求めない男だったら構わないけれど、そんな人まず現れないわ。貴方だって苦しい思いをするかもしれない。それなら最初から恋などしない方が、しても想いを告げず結ばれない方が幸せだわ、きっと。ねえ杏子、貴方は私や両親を裏切らないわよね。悲しませないわよね? この体を、そして命を男に捧げるなんて馬鹿な真似はしないわよね」
彼女は杏子に会いに来る度、必ずこうして念を押す。当然だと杏子が頷いても、次に来た時にまた同じことを言い聞かせるだろう。彼女は大切に育てた蝶がいなくなることを恐れている。両親が愛しい花を失ってしまうことを恐れているように。
こくりと頷きながら、少し前に喫茶店で時子とお喋りした時のことが浮かんだ。杏子は彼女に「恋愛に一切興味が無いわけじゃないけれど、だからといって特別恋をしたいとか誰かと付き合いたいとか、そういうことは思っていない」と話した。絶えぬ告白にうんざりしていることや、男嫌いで女が好きという出鱈目話が広がっていることを迷惑に思っているという愚痴から、そういう話の流れに進んでいったのだったと記憶している。
――私だって、今まで彼氏作りたいとか欠片も考えたことがなかったよ。まさか自分が誰かと付き合う日が来るなんて思ってもいなかったし。夕方の生徒会室に二人きりになった時に顔真っ赤にしながら告白されてね、もう本当びっくりしちゃったんだから。ただまあ私も自覚していなかっただけで、恋心は抱いていたんだと思う。だって色々考えるより先にOKの言葉が出たのよ。しかも即答。向こうもびっくりしていたけれど、言った本人が一番びっくりだったわ。後になってから嗚呼ずっと前から私こいつのこと好きだったんだなあって思って……で、恋人として過ごす内その気持ちがもっと強くなってねえ――
――いつも私にのろけているものね、時子ったら。そののろけ具合が段々と増していて、私いつか熱中症で倒れてしまいそうよ――
――あらあらそれは大変だ。それじゃあ私と喋る時はこまめに水分補給なさいな。……まあ兎に角ね、恋ってものはしたくてするもんじゃないんだなあってのは思ったなあ。したいなんて考えていなかった私が、今や友達を熱中症寸前にまで追い込む程の恋する乙女になっているんだから。こう少女漫画的にいうと『運命の人との出会い』ってやつ? そういうのをしてさ落ちるもんなんだよ恋ってのはさ、うん。だから杏子もまだ運命の人と出会っていないだけで、いつかは恋に落ちる日が来るのかもしれない。ほら恋はするものじゃなく落ちるものだというし――
運命の人、運命の出会い。するものではなく落ちるものである恋。両親や胡蝶は恋がそういうものだということ、何の前触れもなく突然訪れることもあることを知っているから不安なのだろう。しつこい位言い聞かせても、頭に叩きこんでも完全に縛ることが出来ないのが心である。
杏子は目を瞑り、頭に思い浮かべようとする。時子達のように幸せそうに笑う自分と誰かの姿を。だが完全に像がはっきりと出来上がる前に、杏子はそれを頭から追い出した。運命の人との出会い、恋愛、そのことを考えてはいけない。
(私に運命の人はいない。運命の出会いもない。あってはいけないものだ。それが私にはないことを祈らなくてはいけない。もしあったら、運命の人がいたら……出会ってしまったら……駄目、考えてはいけない)
「どうしたの、杏子? まさか貴方」
「いえ、いいえ胡蝶様。私は誓って誰にも恋していませんし、これから先もしようとは思いません。ちゃんと分かっています。私のこの体は……命は、愛に捧げる程小さくつまらないものではないと。私だって……私だって、死にたくない。つまらないことの為に折角胡蝶様からいただいた人生を捨てるなんてこと、しません」
不安げな胡蝶の顔を見ながら杏子は必死に訴えた。同時に恋することに、身も心も交わし愛し合うことへの興味や憧れを少しだけ抱いている自分に言い聞かせた。
(そうよ……両親や胡蝶様より大切な恋などありはしない。産まれて半年もしない内に逝った私が今日まで生きているのは、天女様から命の灯をいただいたから。……一度は消えたこの灯を粗末にしてはいけない、絶対に)
杏子は十七年間大切に育てられてきた。蝶よ花よ、ちやほやと。
もし何事もなく育っていたら、真面目で厳格な性格の両親達は娘を甘やかしはしなかっただろう。愛情を注ぎながらも厳しく躾けたに違いない。そう杏子も思っている。
だが彼女が何事もなくすくすくと成長することはなかった。杏子は産まれて三か月後に逝ってしまった。