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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
おまわりさん
327/360

第六十三夜:おまわりさん

『おまわりさん』


 日も暮れ、東雲高校の校舎もグラウンドもどこも闇に沈んでいる。そこから部活動に励んでいた生徒達が一人、また一人と出て行き学校内は空になっていく。サッカー部に所属する一夜も「ああ疲れた」と背伸びしながら学校から出ようとしていた。


「……お」

 一夜の目に映る、校門の近くの木に寄りかかる亡霊めいた人影一つ。その人影には見覚えがあり、そしてその影の主は一夜が来るのを待っていた。その人が一夜を待つ時は、いつもあの木に寄りかかりぼけっとしているのだった。そうしながら彼女は夢物語を頭の中で紡ぐ。一夜からすればくだらない、彼女にとっては宝物のように愛しい幻想の数々を。それに夢中になっているから、一夜を待つ為に立っていたくせに彼が来たことにまるで気づいていない。別に一緒に帰る約束をしていたわけじゃないから置いていってもいいといえばいいのだが、そうしたらいつまでも彼女はあそこでああしていることだろう。はあ、とため息をついて一夜はその人影に近づいた。彼女は彼が間近まで来ても気づかずぼけっとしている。


「おい、いつまでそこでぼけっとしくさっているんだ」

 そう言いながら頬をつまんで引っ張ってやって、ようやく彼女――さくらは一夜の存在に気づいた。彼女は「ふぁひふんほー」と抗議しているが、構わずそのまま引っ張り続け、限界まで引っ張ったところで手を離してやった。さくらは頬をさすりながら、恨みがましい目で一夜を睨む。


「何をするのよ、酷いじゃないの。乱暴な男の子って嫌われるわよ」


「お前こうでもしないと気づかねえだろうが。ほれ、帰るぞ」

 そう言って一夜が歩きだすと、待ってと言いながら子鴨の如くとってとってとついてくる。こうして二人で帰ることはそこまで珍しいことではない。さくらが部活終了後校門近くで待ち、一夜はぼけっとしている彼女を現実世界に引っ張り戻し、そして一緒に帰るのだ。一夜が他の人と帰ろうとしていても、さくらの姿を認めると相手は「空気読みます」という顔をして一夜をさくらに譲る。


 相手が異性であることなど普段は意識しない。一夜にとってさくらはさくら、さくらにとって一夜は一夜で、男とか女とかそういう型にはめこんで考える相手ではなかった。勿論だからといって一緒に風呂に入れます、一つの部屋に二人で一夜を明かせますというわけではないが、一緒に帰る位なら抵抗はない。何となく一緒に帰る――それは小さい頃から度々していることで、それがずっと続いている。別に仲が良いわけではない。お互いのことを『友達』と認識しているわけでもない。だが、当たり前のように隣にいる存在ではあった。一夜の隣にはさくらが、さくらの隣には一夜が常にいる――それが普通で、日常で、だから特別な思いもない。それ位の時を彼女と過ごしていた。


 もう少しで桜町と表記された標識の向こう側へ、という時にクラスメイトとたまたま会って「相変わらずお熱いことで」とにやにやしながら言われ「そんなんじゃねえ」と抗議すれば「ああ夫婦じゃなくて親子だったね」と言われ。大体二人の仲は『夫婦』か『親子』という単語で評された。いつも傍に居て、仲睦まじいとしか思えない雰囲気を醸し出している点は『夫婦』で、色々危なっかしいさくらとそんな彼女の面倒を見ている一夜という構図はまさに『親子』である。一夜はそう言われてからかわれるのは嫌だったが、さくらと帰ること自体は別段嫌ではないし(好きでもないし、妖のことについて延々と語られるのは正直うんざりだが)、別に恥ずかしいこととも思っていない。異性として意識していないし、彼女が隣にいることは当たり前のことだからだ。さくらはそもそも周りの目など気にしないし(というか殆どの人間が視界に入っていない)、面と向かってはっきり言われない限り、自分の悪口だろうが何だろうが耳に入ってこないのが彼女だった。教室で一夜が友達からからかわれていても、自分の名が会話に出ていても全く気づかないのだ。


「……だから……まで……方がいいのよ……って、聞いている?」


「ああはいはい、聞いている聞いている」

 勿論まともに聞いちゃいない。出会った妖の話、桜村奇譚集の話、向こう側の世界の話、彼女の読んでいる本の内容、どれもほぼ興味が無いし、全エネルギーを使ってする話を真面目に聞いていると大変疲れるのだ。部活帰りなら、尚更だ。だから一夜は容赦なく聞き流す。喋って聞き流して、まともな会話なんて殆ど成立しないのに、さくらは一夜と帰ることを止めない。好意を持っているから、というわけではないのに。


(こいつも毎度毎度、よく同じようなこと喋って飽きないよな。桜村奇譚集の話なんて、俺に今までどれだけしたんだよ)

 向こう側の世界に行くようになった前も後も、彼女の口からは桜村奇譚集に載っている話がじゃんじゃん出てくる。一人興奮しながら同じ話を何度も、何度も一夜に聞かせるのだ。まともに聞いていることなど殆どないが、しつこい位話すものだから幾らか頭の隅に残っているものもある。実はそのお陰で危機を免れたこともあったのだが、そのことを彼女に話すとドヤ顔になりそうだし「その妖と会ってどうだった、どうだった!?」としつこく聞いてくるに違いなかったから、言わない。

 もう少しこちらの世界、現実の世界にも目を向けろといつも一夜は思っている。悪口や嘲笑に気づかないというのはある意味幸せなことかもしれないが、周りに一切の目を向けず自分だけの夢世界の中を生き続けることが良いことだとは思わない。時々一夜は彼女の様子を見て、どうしようもなくイラつく。彼女がどう生きようと自分には関係ないはずなのに。腕を掴んでこっちの世界に力づくで引きずり込んでやりたいと思うことが度々。そんな彼の心など露ほども知らないさくらはにこにこ笑いながらぺちゃくちゃ喋っていた。


 いつもと同じ時間が、二人の間に流れている。幼い頃から変わらぬ、時間。寄り添うようにして共に歩き、さくらが喋り、一夜がそれを聞き流す。何も珍しくない、ありふれた時間。しかし一夜は今日は何かが違うことを感じ取っていた。


(なんだろうなあ。なんかしっくりこないんだよなあ……本当に何だ、これ)

 どういうわけか一夜は今、自分がボタンを掛け違えた世界にいるような気分になっていた。はっきりとした違いではない、だが何か歪で異常で気持ちが悪い。腹の中でさわさわと水草が揺れ動き、体内を撫でまわしている――そんな気分がする。その違和感の正体が今の一夜には掴めず、それがまた気持ち悪い。さくらの表情を見る限り、彼女はその違和感を感じ取っていないようだった。

 いつもと同じ時間。だが、何かが違う時間。一夜はさくらの話を聞き流しながらその違和感の正体を探ろうとしていた。だが、その思考は一つの『音』によって突如かき消される。


 桜町に入り、後少しでさくらの家が見える頃。二人は前方から聞こえてくる不思議な音色に歩を止めた。

 高く、透き通った、全ての穢れを洗い流す清水を思い起こさせるような音。楽曲を演奏している、というよりは幾つかの音を組み合わせて作った『言語』を用いて何かと会話しているような印象だ。それと共に、鈴の音も聞こえる。夜空を彩る星々の瞬き、陽射しを浴びた澄み渡る水流れる小川の煌めきに音をあてたならこういうものになるだろうと思えるような、笛の音同様清らかで澄んだ音だ。一定の間隔で叩かれる太鼓の音もとん、とん、とんと。そしてそれらの音はこの世に存在する楽器では再現出来ないもののように思えた。


 その音を聞いた瞬間二人は己の体がどぼんと水の中に落ち、沈む感覚に襲われた。黒くて、恐ろしい程冷たい水だ。訳も分からぬ間にあっという間に二人の体はその水に包まれた。体はずしんと重くなり、一体なんだと口を開いた途端黒く冷たく禍々しくおぞましい水が体内に入りこみ、一夜は吐き気と共に苦しさを覚える。体が悲鳴をあげる。この『水』をこれ以上飲むな、体に入れるなと叫んでいるように思えた。

 周りに先程まであった塀も民家も電柱もなく、一夜は自分達が異界に迷い込んだらしいことを悟る。あまりの闇に、すぐ隣にいるさくらの姿さえ見えない。本当に今彼女は隣にいるだろうか、いや、いる。一夜はさくらの右手を握った。ここで離れ離れになったら永遠に会えなくなる気がしたからだ。冷たい水に覆われた彼女の温もりを微かながら感じる。だがその温もりも、彼女の気配もいつもとは違うものに思えた。それもきっと、この水のせいだろう。彼女が一夜の手を強く握り返す。その手が一夜を安堵させ、一方で何故か胸をざわつかせた。


(俺はこの変な世界に自分達が近付いていることを無意識に感じていたんだろうか。だからずっと違和感を覚えていたんだろうか……)

 不愉快な水に、体はどうしようもなく冷たくなっているのに流れる汗が止まらない。頭にも胃の中にも黒いものが入ってくる。怒り、悲しみ、憎しみ、苦しみ、絶望、死、災厄……おぞましいものに満たされ息が苦しい、頭が痛い、気が狂いそうだ。隣にいるさくらの首を絞め、殺したくなるような、この世にある何もかもを滅茶苦茶にしてやりたくなるような黒い衝動に襲われる。

 ぽう、ぽう。この場にまるで似つかわしくない美しい音色が近づいてくる。同時に白銀の光が一つ、二つ。その光に寄り添うようにして橙色の光が二つ。音を奏でている者が持っている灯りだろうか、いやそれにしては光の位置が高すぎるように思う。音を聞き、その光を見ていると黒い衝動が抑えられ、一夜はギリギリのところで踏みとどまることが出来た。


 一夜とさくらの方へ向かってくる者達は綺麗な二列縦隊を作り、ゆっくりと歩いている。彼等が目前に迫って来たところで、白い光の正体が皆がつけている面から発せられていることに気づいた。放つ光と同じ色をした面で、三日月型の目と口がついている。先頭を歩いているのは手に矛を持っており、それをとん、とんとついている。そして地面に柄が着く度穂先が橙色に光るのだ。彼等の衣装は一様に黒づくめで、辺りが闇に包まれていることもあって面や矛の光があっても見えづらく、はじめは頭だけの存在、もしくは面のお化けが宙に浮いているのだと思った位だ。

 妖しい黒づくめの集団は呆然と立ち尽くす二人の前まで来たところで足を止める。彼等は上も下も黒の袴姿、足袋さえ黒く、黒髪は長く伸び、僅かに見える肌は青白い。皆細身で、ぱっと見ただけでは男か女かさえ分からなかった。面に穴らしきものはあいておらず、紫色に輝く黒い石を目と口の形に加工したものをつけただけらしい。にも関わらず彼等にはちゃんと前が見えているようだ。


 先頭に立つ矛を持った二人がじっと一夜とさくらを見つめている。面を被っているから、どんな顔をして見ているのか分からないが、何となく何の感情も無い目で見られているような気がした。一夜は動くことも、お前達は誰だと尋ねることも出来ず、ただごくりと唾を呑む。その集団は、今二人を包む黒い水を集めて凝縮した存在に見えてならなかった。にも関わらず彼等が近くにいると心安らぐ。彼等は究極の『穢れた者』であり一方で究極の『清浄な者』だと感じた。そんな相反するもの同士を持ち合わせることなどあり得るのか、と一夜は混乱したがそうとしか思えないのだった。


 しばらくして列が二つに裂け、中央に人ひとり通れる程のスペースが出来る。そこを通って奥から誰かが静かに、そしてゆっくりと歩いてやって来た。他の者達はぱっと見ただけでは男か女か若いのか老いているのかさえ分からなかったが、今こちらへ向かって歩いている者だけは違った。地面につく位まで髪を伸ばした女だということがすぐ分かったのは、面をしていない為に男とは間違っても思えない顔が見えたから。ぱっと見は比較的若く、外見年齢だけでいえば出雲や弥助と同じ位。憂いを帯びた表情、儚さを覚える線で作られた体、発光する白い肌を際立たせるのは艶のある黒髪、黒づくめの衣装。闇を集めて作ったような黒い着物、袴。帯も足袋も、羽織っている打掛も黒い。手に持つ扇も黒で、打掛にしてもそれにしても模様の類は一切ない。肌が光を帯びていなければそれらのものは決して一夜達の目には映らなかっただろう。

 美しい女だった。だが、この世にある黒くおぞましいもの全てを集めてこり固めて作られたような女だった。その黒さ、濃さは他の者達――この女の従者であることがなんとなく察せられる――の比では無い。それでいて他の者達以上に清浄で、彼女が傍にいるだけで一夜達を襲う『狂い』は一層抑えられ、気持ちが楽になる。


「務めを」

 暫く黙っていた女が小さな、それでいてよく響く声でそう言い手に持っていた扇をさっと開き、地面に平行にしたまま横に薙ぐ。するとからん、からんと軽いものが落ちる音が二回。地面を見るとそこには列成す者達が被っているのと同じ、発光する面があった。女の目はそれをつけろ、と一夜達に語りかけている。しかし果たしてそれをつけて良いものなのか分からず「無暗につけようとするなよ」と手を一層強く握りしめることでさくらに伝える。そのさくらがこの得体の知れぬ空間へ来て初めて口を開いたのはその直後だった。


「……おまわりさんだわ」


「は? お巡り?」


「交番にいる人とは違うおまわりさん、よ。桜村奇譚集にその名前があるの。昏い水の溜まる怪しき場所を巡る行列、それがおまわりさん。時々私達人間が彼等の居る場所に迷い込んでしまうのだそうよ。……正確にいうと迷い込んだのではなく、おまわりさんに招かれたらしいのだけれど。本当にいたのね……」

 いつもなら興奮気味に語るような内容だが、流石の彼女もこの水には勝てぬらしく、慣れぬ人と会話をしている時以上に声は小さく、おまけに氷の様に硬くて冷たい。体の震えも手を通して感じる。


「招かれた人は、お務めをしなくてはいけないらしいわ。それを果たせば無事帰れるそうよ」


「……お務めって何をすればいいんだ?」


「桜村奇譚集によれば、おまわりさんの列に加わって一緒に歩くらしいけれど……詳しいことは分からない。本当に一緒に歩くだけで良いのかもしれないけれど」


「そのお務めっていうのを断ったらどうなるんだ?」


「断った人のことまでは伝わっていないからなんとも。ただ、断っても良いことなど一つもないことは確かでしょう。この場にもし捨て置かれでもしたら、私達無事では済まされないでしょうね。これだけ口を開いていて水を飲みこんでも正気を保っていられるのは、おまわりさんが傍にいるお陰のような気がする。もし彼等に見捨てられたらきっと私達間もなく気が狂って駄目になるわ。最悪身も心も黒く染まって、魔に憑かれたようになって、挙句化け物になってしまうかも。人や妖にとり憑いて身も心も化け物にする魔って、この場所を満たしている水のようなものだと思うわ。……兎に角、言われた通りに面を被ってお務めをしましょう。そうすればきっと大丈夫よ。桜村奇譚集に書かれていること全てが真実とは限らないだろうけれど……それでも」

 そう言うさくらに一夜はじいっと見つめられた。不安を抱えながらもその瞳は自分を信じて欲しい、と語っている。地面に転がる面からは邪悪なものは感じず、柔らかく温かなものが光となり溢れているように思える。おぞましさと安らぎ、どちらも感じる集団とその頭であろう女がこちらを見ている。どうか言うことを聞いて面を被って欲しいと祈っているようにも見えた。その祈りの中にあるのは邪な思いか、それとは逆のものか。

 言うことを聞くべきか否かしばしの間一夜は迷ったが、最後にはさくらを信じ面をつけ『お務め』を果たすことを選んだ。二人は地面に転がる面を拾い上げ、それを被る。ひんやりとしたそれは軽く、つけた途端気分が随分と楽になった。面に穴は空いていなかったが不思議と視界は開けている。かえって面をつける前よりもはっきりと辺りの様子が見えているかもしれない。女はそれを見届けるとこちらに来いと手招きしながら面をつけた者達の間を縫い、元いた位置へ戻る。二人もそれについて行った。さくらと一夜が列の後ろにつき、女が最後尾に。それを確認すると列成す者達はさっと動き、三人を通す為に作られた隙間は消えた。そして二呼吸程置いてから再び歩きだしたので、一夜とさくらもそれについて歩きだす。


 前へ進める手が足が黒い水をかく。面をつけたことで大分軽減されたものの体は重りをつけたようになっていて、冬の寒さなど暖かいものだと感じる程の冷たさが常時体を襲う。時々暴れ回ってこの美しい列をぐちゃぐちゃにしたい、大声で叫びたい、目に映るもの全てを滅茶苦茶にして跡形もなく消してしまいたい、死にたい……そんな思いが黒い灯となりぽっと一夜の胸に灯るが、先程のようにいつまでもそれは残らずあっという間に消えていく。それは面の効果であり、おまわりさんのお陰なのだろう。

 おまわりさん達は、静かに進む。列の前の方にいる者達は太鼓を叩き、鈴を鳴らし、笛を吹く。それらは合わさり、一つの言語を生み出している。この美しく清らかな言葉は誰に向けられたものだろうか?

 列後方にいる者達は手に葉のついた枝(さくら曰く榊ではないか、とのこと)や破魔矢、鏡等を持ち歩いている。この場を満たす水を吸い込んだそれらは仄かに緑がかった青い光の粒子を吐きだし、黒い海の中へ零れ落ちる。それは面を被る前には見なかったものだ。


 黒い海の中にはおまわりさんと自分達以外誰もいないと思っていたが、実際はそうではなかった。海の中には幾つもの不気味な姿の生き物がいた。無数の手や足、顔が生えている肉塊、首から下が骨だけの女、吐瀉物のようなものを身に纏った蛇のようなもの、鋼で出来た様な巨大蜘蛛……不気味でおぞましい、この海が生み出したのだと直感的に理解出来る化け物達。それらは呻き声をあげながら浮上している。海の上――恐らくは一夜達の住む人の世――を目指して。だがその内の幾つかがおまわりさんの『言語』に反応するかのように、こちらへと戻っていく。そして彼等はすうっとおまわりさんの体に吸い込まれたり、榊や破魔矢に撫でられて光の粒子となるのだった。


 一夜とさくらは「務めを」と女に言われたものの、先程から何もしていない。ただ彼等について歩くだけだ。厳かな空気を、神聖な儀式のように思われる行進を妨げてはならないと口を開くことも出来ないので、ここがどこで、彼等が何者なのかということを聞くことも出来ずにいる。


(本当にここはどこなんだ? この黒い海は何なんだ……)


「ここは朝不知(あしたしらず)の海」

 まるで一夜の心を見透かしたかのように、背後にいる女が口を開いた。


「朝不知の海?」


「貴方達の住む世界の地下と重なる場所にある海。この世界が生まれた時、或いはそれよりも前からあったとされている。死や災い、憎しみや悲しみという負の感情、それら黒いもので出来た海。生を、光を、未来を、朝を知らない海。この海の水の幾らかは貴方達の住む世界の地下に染みだしているわ。そしてその水は地上に出れば『魔』や『災い』となり、生きとし生ける者に悪い影響を及ぼす。化け物に姿を変え、人々を襲うこともある。地下に流れる気に吸い込まれるものもある。普通はその気に吸われた瞬間浄化されるけれど、貴方達の住む辺りの土地はそうはいかない。あの辺りの気は元々歪で異常だから……浄化するどころか、力を増幅させる糧とする。染みだす水の量も他の場所より多いから、余計悪い。恐らく気が呼び込んでいるのでしょうね、この海の水を」

 そしてその歪な気は土地の性質をも歪める。故に桜町や三つ葉市、舞花市は異界との境界が常に曖昧だし、異界の住人達を呼び寄せやすいし、時におぞましい化け物を生み出すこともある。そんな面倒なことを引き起こすものに、ここの水は力を与えてしまっているようだ。


「それでもまだ、昔よりは少ない方。黄泉の姫君が張った結界がそうしている。それがなかった頃……この海は地上に住む人間達をここへ引っ張り込み、底へと沈めていた。海に沈められた者は地上へ戻ることが出来ぬまま、この黒い水に全てを侵され、やがて化け物となる。そしてその化け物達の中で渦巻く黒い感情が――地上へ二度と帰れぬ悲しみや苦しみ、地上で生きる人々への羨望や憎しみと穢れた魂が水となり、海の水嵩は増した。海の水に含まれる『地上に住む人間達を同じ目に遭わせたい、彼等も沈めてやりたい』という想いは新たな人間を沈め、また水嵩は増す。水嵩がどんどん増していけば、やがて地上の世界を呑みこむ……ここと地上は同一の場所にあるわけではないけれど、影響は及ぼす。ここの水が地上を呑みこめば、恐ろしい事態になる……そう判断した黄泉の姫君が結界を張り、水嵩の増加と地上に住む人達が海へ引きずり込まれることは食い止められた」

 但し海の水が一夜達が住む世界に染みだすことは防げていない。黄泉の姫君とやらの力でも地上とこの海の繋がりを完全に断ち切ることは出来なかったようだ。そして化け物になった人間達は元に戻ることもなく、海の底で今も恨みと悲しみと怒りに呻き続けている……。光を求め手を伸ばしても、それが光に届くことはない。見ることさえ叶わない。その様を想像したらぞっとした。

 ちなみにここは朝不知の海の底ではなく、底はもっともっと下――気が遠くなる程遠くにあるそうだ。そこへはおまわりさんでさえ辿り着けず、また行きたいとも思わないという。海の闇に抗う力を持つ彼等でさえ、海の底の闇の途方もない濃さの前では無力になる。


「ここがものすごくやばいってこととかは分かった。で、あんた達はこんなやばい所で何をしているんだ?」


「我々は少しでもこの海が貴方達の住む世界へ及ぼす影響を減らす為、動いている。清めの力で水を清め、闇の濃度を薄くしている。我々はこの水の中の闇に呼びかける。それに応えた水の闇を受け止め、清めるの。この海の水で出来ているあの化け物達も呼びかけに応じ、こちらへとやって来る。その者達も、浄化する。彼等の殆どは結界を抜けられない。けれど稀に抜けられる者もいる。抜けると元の水に戻ることが大抵だけれど、形を保ったままの者もいて……そんな彼等が地上へ出、人々を襲うこともある」

 笛と鈴と太鼓が生み出す『言語』はこの水の闇そのものや、化け物達に向けられたものだったのだ。その声を聞いたものは救いを求めるように彼等の体へ吸い込まれ、そして彼等はそれを清めるのだ。彼等が海の中の闇を浄化することで、闇の濃度は薄くなる。しかし薄くなってなおこれ程の脅威をもつのだから恐ろしい、と一夜は思う。


「もっとも、この闇全てを浄化することは叶わない。この海を構成する闇は、黒はあまりにも濃すぎる。清めても、清めても、海の底から闇は湧いてくる。救われることの無い、元は人だった者達は永遠に闇を吐きだし続ける。彼等は浮上することが出来ないけれど、黒い想いは浮上する。そしてこの海に更なる闇をもたらす。彼等が仮に全員消えたとしても、この海の闇は消えることはない。この海は闇と共にあり、永遠に黒い想いを、魔や災いを吐きだし続ける」

 この海から闇が消えることは永遠にない。この海は、そういう――魔と災い、嘆き、悲しみ、怒り、憎しみ、苦しみ、死を吐きだす所だから。そういう風に生まれた場所は、永遠にそうあり続ける。理はどうあっても曲げられない。

 それならば、今一夜達の前を歩く者達は。二人の後ろを歩き、静かに語る女は。おまわりさんと呼ばれる者達は……。


「永遠にここから闇が消えることがないなら、あんた達は……永遠にこの海を廻り続けるのか。こんな頭がおかしくなるような所を歩き回りながら、放っておけば濃くなるだけの闇を浄化し続けるのか」

 おぞましい闇を自らの体に取り込んでは清め、歩く。ただ一度だって受け入れたくないようなものを彼等はずっと受け入れ続ける。でも受け入れても受け入れても闇は消えない。消えないなら、彼等の『おまわり』は終わることが無いだろう。

 彼等はそれで大丈夫なのだろうか。いつかこの闇に負け、受け入れ浄化する力を失い、狂って化け物になることはないのだろうか。


「……この海を彷徨う化け物の中には、かつて共に海を廻った仲間もいる。闇を受け入れ、それに屈することなく浄化する力を持っているからといって、永遠に呑まれずにいられるわけではない。私とて、永遠に無事でいられる保証はない。永遠に続けられるかどうかは、誰にも分からぬこと。……時々私達は分からなくなることがある。何の為に自分達はこのようなことをしているのか、自分達のやっていることに意味はあるのか、本当は何の意味もないのではないかと思うことがある。……そういう時、私は力を使い人間達をここに招く」


「私達は、ここにいることに意味があるんですね。私達はいるだけで『務め』を果たしているのですね」

 今まで黙って静かな行列についてきているだけだったさくらが、ようやく口を開いた。それを聞いて一夜は自分達の『お務め』がどういうものなのか悟った。


(そっか……俺達は何もしていないわけじゃなかったし、これから何かするわけでもなかったのか。こうしてこいつらと一緒に歩くだけでお務めってものをちゃんとしているのか)

 後ろにいる女は恐らくこくり、と頷いた。何となくそんな気配がした。


「地上に住む人間を呼び、共に歩く。我々は貴方方の姿を見て、気配を感じて、そして思い出す。自分達が誰の為にこの海の中を歩き、闇を受け止め浄化しているか。我々は貴方方が少しでも健やかに暮らせるように廻り続けているのだということを思い出す。そして願う。我々と共に歩く者達の幸せを……そうして願うと、健やかに生きる人の温もりを感じると頑張ろうと思える。ここの闇の濃度を薄くしたところでどれだけの効果があるか分からない。分からないけれど、きっとやらないよりやった方が良いのだと思える。貴方方の為に我々は生きていけているのだと、そう感じることで永遠を生きる強さを得る。……勝手にこのような恐ろしい海に招くことを申し訳なく思うけれど。けれど、呼ばせて……貴方方を。忘れない為に、闇に呑まれぬ様生きる力を得る為に」

 振り返ると女の切なげな顔が目に飛び込んだ。女はすでに二人ではなく頭上にその顔を向けており、そして右手をすうっと上へやる。その手に引き寄せられるかのように沈みゆくのは、白い毛に黒い醜悪な顔、赤い瞳の猿。一夜達からしてみれば絶対に触れたくないと思える程、おぞましいものを発するその頭を女が優しく撫でる。そしてお疲れ様、と一言。猿は一瞬だけ穏やかな笑顔を浮かべると光の粒子となって消えた。

 彼等はそうして何度もかつての仲間達を送ったのだろう。そうする度「いつかは自分達もこうなるかもしれない」と恐れを抱くかもしれない。それでも彼等はその恐れを抑えつけ、歩き続ける。闇に語りかけ、受け入れ、優しく抱いて浄化する。身につける衣装は黒く、浄化する為に常に闇をその身の内に抱き続けている人々。黒く、黒く、黒く、だが美しい。

 おまわりさん達は歩き続ける。殆どの人間にその存在を知られることのないまま、見返りも求めず、静かに廻り続ける。一夜はとうてい自分には真似出来ないだろうと思う。この闇を受け入れることも、この海の中で正気を保ったまま居続けることも、狂って化け物にならない限り永遠に終わることのない務めを果たすことなど。


 しばらく黙って彼等と共に歩いている内、突然二人は女に肩を叩かれた。


「お務め、お疲れ様でした。……ありがとう」

 たった一言、だがとても温かい一言。それを聞いた瞬間一夜とさくらは一瞬意識が遠のくのを感じ、気づくと二人は見慣れた景色の中に立っていた。あまりにも唐突なお別れ。

 そこにも闇は広がっていたけれど、朝不知の海のそれに比べれば可愛いものだ。不気味さはあるけれど、あのおぞましさは殆ど見受けられない。二人は地上へ帰ってきたことに気づくとほっと息をつき、それから自分達が彼等にお礼を言っていないことを思い出した。ありがとう、と一言だけでも言っておきたかった。きっと彼等の務めには意味がある。何の効果も無いとは思いたくなかった。だからこそ、言いたかった。それなのに、言えなかった。言うことも出来ないまま帰ってきてしまった。彼女はおまわりさんを代表して「ありがとう」と言ってくれたのに。もう一度あの海へ行きたいとさえ思ったが、それは叶わないだろう。


「俺達……お礼とか言わないまま帰って来ちゃったな。あんなおっかない所に連れて来られたのは災難だったけれど、連れてきた目的聞いたら文句も言えないよなあ」


「残念だわ。お礼も言いたかったし、色々お話も聞きたかったわ。あの海のこととか! だって滅多にないというか、二度と無いだろう機会だったのよ! でもでも、あの厳かで神秘的な雰囲気の中ぺちゃくちゃおしゃべりなんてとてもじゃないけれど出来なくて……おまわりさんが近くにいてお面も被っていたお陰で大分楽になったとはいえ、あの海の水はきつくって」

 と今まであまり喋れなかった分を取り返すと言わんばかりに彼女は延々と喋り続ける。興奮気味で、というか興奮状態である。相変わらずこういう関係になると饒舌になるよなこいつはと一夜は呆れた。


(全くいつも通り変な……いや)

 一夜はまだ自分がボタンを掛け違えた世界にいることに気づいた。そしてその歪な世界の中心には、目の前で喋っているさくらがいる。目の前にいるのは表情も、声も、喋り方も、姿も、考え方もいつも通りのさくらだ。だが、何かが違う。

 彼女の手を握っていた手を一夜は見つめる。その手が得た彼女の温もりはいつものものと違っていた(別にしょっちゅう手を握っているわけでもない。妖に遭遇した時、どんくさい彼女を引っ張る為に掴んだとか、それ位だ)。あの海の水を通じてのものだったから違うように感じたのだと思っていたが……もしかしたら。一夜はある結論へ至り、さくらを見つめた。


「……お前さ」


「ん? どうしたの?」

 ずっと喋り続けていたさくらが、きょとんとしながら首を傾げる。


「お前……さくらじゃないだろう」

 自分でも馬鹿なことを言っていると思った。目の前にいるのはどう見たってさくらだ。だが違う。何もかもさくらそのもので、でも彼女ではないもの。

 さくらは目をぱちくりさせたが、否定の言葉を吐きもせず肩をすくめた。


「やっぱり違うんだな?」


「まさか気づかれるなんて。何もかもオリジナル通りなのに。記憶も、喋り方も、顔も、考え方も全部。それなのに見破るなんて……貴方、気持ち悪いわね」


「うるさい、それを言うな。俺も正直自分が気持ち悪くてしょうがない。でも、分かっちゃったものはしょうがないだろう。あんたはさくらじゃない。全部同じでも、何かが違うんだ。長い付き合いだからな……嫌でも微妙な違いとか分かるんだよ」


「やっぱり、気持ち悪い。貴方この子のこと相当好きなのね」


「違う! 断じて違う! ていうかお前誰なんだよ、本物のさくらはどうした!?」

 好きだ嫌いだの話題から離れようと、一夜はびしっと偽さくらを指差しその正体を問う。素直じゃないのねと彼女は呆れ気味に言ってから、その姿を変えた。

 目の前に佇んでいるのは見覚えの無い女だった。髪の長い、黒い無地の着物を着た、別れて数分もしたら完全に忘れてしまいそうな位特徴の無い顔である。


「本物のお嬢さんは今頃とっくに家に帰っているわ。安心しなさい、何もしてはいないから。ああ、私は誰かって? 私は化女。誰かに化けて悪戯するだけの妖よ。狐や狸と何が違うって? 彼等如きの変身能力と一緒にしないで。私は化けた瞬間オリジナルの持つ記憶や情報をそっくり得ることが出来るし、身体能力等も丸々オリジナル通りになる。こうして変身を解くと、得た記憶や情報は消えていくし、能力も元通りになるわ。狐や狸とは変身のクオリティが全然違うの」


「……でさくらに変身して俺に近づいて、何をするつもりだったんだ」


「別に。ただ一緒に帰っておしまい。貴方が後日今日のことを本人に話さなければ何も起きず、話せば妖か何かに化かされたことに気づいて悔しがるか、何が何だか分からず気味悪く思うか……それだけ。私としては後者を望むけれど。私達化女は、悪戯するだけ。その悪戯が原因で人間が混乱するのを見て笑うだけの妖よ。まあまさか朝不知の海に引きずり込まれることになろうとは思いもよらなかったけれど」

 と化女はため息。


「……あの海で面を被るように言われた時、あんた俺にちゃんと言うことを聞けって言ったよな。悪戯で『つけない方がいいわよ』って言った方が面白いことになったんじゃないか」


「私、命に関わるような悪戯なんてするつもりないもの。まああのおまわりさんとやらは例え断ったとしても、きちんと地上へ帰してくれたでしょうけれどね。その場合彼女達のやる気ゲージがぐんと下がっただろうけれど。でもまあ、私が悪戯で嘘を吐いたせいで万が一死なれるようなことがあったら、目覚めが悪いからね。だから、言うことを聞いておけって言ったの。貴方はさくらってお嬢ちゃんを信用しているようだったから、そう言って信じてくれって顔をしたら簡単に信じてくれた。まあでも良かったわ、私が偽物だって気づいたのが今で。あの時点で気づいていたら貴方きっと信じなかったでしょうから。……それにしても幾ら十何年も付き合っているとはいえ、よくもまあ……嗚呼やっぱり気持ち悪い。貴方変態的なまでにさくらって子のことを知り尽くしちゃっているのねえ。だから微妙な違いにも気づけたんだわ」


「だから、そういう言い方するのやめろ! 別に好きでもねえし、そんな知り尽くしているわけでもねえし!」


「ああはいはい。それじゃあ私はもう行くわね。全く今日は散々よ……悪戯は失敗するし、気味悪い海に引きずり込まれるし」

 そうぶつくさ言いながら「俺は違うからな、あいつのこと好きじゃないし、変態でもないからな!」としつこい抗議を続ける一夜に背を向け、歩きだす。一夜は絶対誤解は解けていないと思いつつ、これ以上言っても多分無駄だということを悟り、諦める。ただ最後に「ありがとう」と言った。もし彼女が嘘を吐いていたら、今頃どうなっていたか分からない。彼女の言うようにおまわりさんの頭であろうあの女が、勝手に呼び出しておいて、お務めなんてしないと断っただけで酷いことをするような者には見えなかったが、人間とは全く違う思考回路を持っているのが人ならざる者だ。だから万が一のことがあったかもしれない。

 女は一旦足を止めると「その台詞はあのおまわりさん達に言うべきじゃないの。私達の為にいつもありがとうございますってさ」とだけ言い、手を挙げそれじゃあバイバイと振ってさっさと言ってしまった。黒づくめの彼女の姿は闇に溶け、あっという間に見えなくなった。


 一人残された一夜は化女の言うとおりにしようと思った。あの場では言えなかったけれど、ここで声を出してお礼を言おうと。直接言わなきゃお礼にならないわけではないから。しゃがみこみ、そして地面にそっと手をやり「ありがとうな」と一言呟いた。この世界の地下に重なり合うようにして存在する、黒い海を廻り続けるおまわりさん達に。

 きっとその想いは通じている、そう信じて。

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