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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
飛び散る果実
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第六十二夜:飛び散る果実

 

 子実食い(こみぐい)という妖がいる。この妖は子供の姿に化け、主に一人でいる子供の前に現れる。そして仲良くなり、相手が油断したところで子供を赤い果実に変えてしまい、喰らってしまうという。

 この妖は少食で、果実にした子供を食べきることは無い。食べ残した果実は道に散らばり、そしてあっという間に腐って異様な臭いを発するという。その妖の姿を見た者は彼に喰われた者だけである。

 

『飛び散る果実』


 ある日のことである。桜町を、一人の少年が歩いていた。少年の名前は信彦といい、現在小学三年生だ。友達の家を出、家へ帰る途中だった。今度は友達にあのゲームで勝ってやるんだ、そう意気込みながら蹴る小石はかんこんかん、と音をたて道を転がっていく。最後、友達の「お前本当このゲーム下手くそだな」という言葉を思い出したら腹が立って、いっとう強く蹴った石は信彦が思った以上に遠くまで飛んでいった。

 かん。勢いよく飛んでいった小石が誰かの足にこつんと当たってしまった。その人物は石が当たったことに気づくとこちらを振り向いた。しまった、と信彦は思った。相手は自分と同じ位の子供と思われたが、相手が子供だろうが大人だろうが石をぶつけてしまったら謝らなければいけない。急いで走りながらごめんよ、と謝罪の言葉を口にすると少年は「別に、構わないよ」というような表情を浮かべながら首を横に振った。

 少年は青と白の縞模様の着物を着ており、坊主頭でずっと昔から時を渡って現代へやって来たと言われたら信じてしまいそうな姿をしていた。その体からは何故か甘い匂いが漂っている。その匂いが彼に妖しさと怪しさを与えている。少年は信彦に「全然痛くないから、平気」と言ってにっこりと笑った。かと思うと手を差し伸べ、一緒に遊ぼうよと言う。


「いいでしょう? 僕、久しぶりにこの村で遊びたい」

 信彦はえ、と眉をひそめる。


「村じゃなくて、町だよ。ここは桜町だよ」


「そうなの? じゃあ変わったんだ。まあ村でもなんでもいいじゃない。ね、遊ぼうよ」

 変わったんだ、とはどういうことだと信彦は戸惑いを隠せない。この町が昔桜村と呼ばれていたことは知っているが、それが『桜町』に変わったのは大分前のはずだ。目の前にいる少年はどう見ても自分と同い年位だ。久しぶり、と言っているところを見ると彼はかつてここで暮らしていた、もしくはここに来たことがあるということ。それが何年前か知らないが、間違いなく『桜町』になっていた頃のはずだ。それなのに、桜村と言ったり、桜町という名前に変わったことを知らなかったり、大変妙である。

 手を差し伸べる彼が浮かべる笑みが、とても歪んだ不気味なものに見える。輝く瞳に信彦は今まで感じたことのないような狂気を見た。

 本当にこの少年は大昔からタイムスリップしてきたのかもしれない。そうでないなら幽霊か、もしくは……妖。信彦は幼い頃から祖母に人ならざる者の話を聞いていた。人とは違う感じのする、妖しいものを見たらすぐ逃げろとも言われていた。真剣な表情を浮かべながらの語りは、そういうものを信じていないものにも「もしかしたらいるのかもしれない」と思わせる不思議な説得力があった。そして目の前にいる少年からは、祖母のいう『人とは違う何か』が感じ取れる。

 祖母は幼い頃から桜村奇譚集というものに載っているという話を色々してくれた。信彦はその中に、今の状況と似たものがあったような気がした。そして彼はその話を思い出そうとする。思い出さなければいけない、と自分の中にいる自分が訴えていたから。だが信彦はその訴えを聞き、子供の前に子供の姿をして現れる者の話を思い出す前に少年の手をとり「うん、遊ぼう」と言っていた。そして少年と一緒に駆けて行く。


(あれ……どうして手を繋いでいるんだろう。こいつ、もしかしたらとても危ない奴かもしれないのに)

 生きている人のそれとは到底思えぬ位異様に冷たい手、甘い匂い、感じたこともないような空気。それらが信彦に危険信号を発しているのに、気味が悪いと思っているのにその手を振り払うことが出来ずにいた。

 そして信彦は不信感や恐怖以上に、彼に惹かれる気持ちの方が強いことに気づいた。逃げたくない、一緒に沢山遊びたいという気持ちが頭と胸を満たしている。体も心も、少年から離れられない。強い磁石に引っ張られているような、そんな感覚。その力に引っ張られ、頭と胸を「一緒に遊びたい」という気持ちが満たす程、不信感や恐怖は消えていく。そして信彦は色々なことを考えたり、思い出したりすることをやめた。


 信彦は少年の誘いに乗り、色々な遊びをした。木登り、駆けっこ、相撲。相撲などまともにやったことなど今までなかった。少年はひょろっとしていて一見そんなに強そうには見えなかったが、何度やっても勝てなかった。負けてばかりで悔しかったし、何度もすっころぶことになったからあっという間に体中土まみれだし、ちょっとした傷もあちこちに出来てしまったけれど楽しいと思った。TVゲームばかりしている彼だったが、体を思いっきり動かして遊ぶことも好きだったし、何より自分に勝つ度笑顔になる少年があんまり楽しそうだったから、自分もつられて楽しい気持ちになったのだ。


「お前、強いな。駄目だ、全然勝てない。何でそんなに強いんだよ」


「これでもかぞくの中だと一番弱いよ。僕のかぞくにね、すごく強いのがいてね……もう何度やっても勝てないの。他のかぞくにも勝てないけれど、あいつには結局勝てなかった」


「家族って……兄ちゃんか?」


「兄ちゃん? ああ、兄ちゃんかな。僕より長いし、ずっといるから兄ちゃんだね。君は兄ちゃんとかいるの?」


「俺は一人っ子だから、いないや。いたら面白いかなって思うけれどね。あ、それと俺の名前は信彦。自己紹介していなかったな」

 信彦、そう信彦っていうんだよろしくと言って少年は笑った。信彦は少年に、お前の名前はと尋ねた。すると少年は少し考え込む仕草をし、それから口を開く。


「最近名前呼ばれていないから、忘れちゃった。おかあにまた会えば思い出せると思うけれど」

 そっか、と信彦はたったそれだけ言った。それから少年に相撲のコツを色々教えてもらい、その後はブランコをどこまで高くまで漕げるか、という競争をしたり泥団子を作ったり、砂場で山を作ったり。どの遊びも単純で、大したものじゃないのだけれどとても楽しかった。気づけばもう少年は信彦にとって無二の親友の様になっていた。そういう存在になっていたからこそ、どんな遊びもものすごく面白いものに思えていたのかもしれない。二人は遊びながら沢山の話をした。少年は今流行りのTVも芸人も、アニメも特撮ものも何にも知らなかったので、しょっちゅう「それって何?」「どういう意味?」と聞いてきたので、信彦はそれを説明するのに大忙しだった。少年は『かぞく』から聞いたという歌手や有名人の名前を挙げてくれたが、全く馴染みの無い名前ばかり。どうやら相当昔の人のようだが、詳しいことを聞いても「かぞくに聞いただけだから知らない」と言う。こちらの話が少年に通じなかったように、少年の話も信彦には半分も伝わらなかった。それでも楽しいと思えるから、不思議だ。

 二人は今辺りを適当にぶらぶら歩きながらお喋りしていた。空は赤に染まり、雲は赤と紫、それから黒。

 グロテスクな位濃く、そして鮮やかな赤色の空を眺めながら交わすお喋りの話題は、自分達の家族についての話になっていた。


「そっかあ、信彦はおかあもおとうもいないんだね。僕と違って、おとうもいないんだね」


「うん。事故で死んじゃったんだって。……今はおばあちゃんと二人で暮らしている。おばあちゃんはすごく優しいし、良い人だけれど時々寂しくなる。授業参観にも、運動会にも、お父さんとお母さんは来てくれない。死んじゃったんだもん、来られるわけないよね。でもね、つい探しちゃう。いっぱい人がいるとさ、もしかしたらその中に自分のお父さんとお母さんが混ざっているかもしれないって思って。……でも、いない。おばあちゃんは生きているから、来てくれるけれど」


「そっか、寂しいね。僕はおとうはいなかったけれどおかあはいたから、平気だったよ。おかあはとっても優しくて、あったかいよ。だから僕はおかあが大好き。でも、おかあさまも好き。僕は今、おかあさまとかぞくと一緒に過ごしているの」


「おかあさまとおかあって一緒じゃないの?」


「違うよ。おかあは僕の一番目のおかあで、おかあさまは僕の二番目のおかあなの」


「……うーんと……離婚して、お父さんが新しい女の人と結婚したの?」

 何それ、よく分からないと少年は言う。信彦は説明しようとしたが、変なことを言わない方が少年の為かもしれないと子供ながらに考え、そっかと言うだけでそれ以上追及はしなかった。

 それよりも信彦は、少年の「おかあはとっても優しくて、あったかい」という言葉の方のことばかり考えた。両親は信彦が二歳の時に亡くなったらしい。ということは一応彼等に抱きしめられたり、声をかけられたりすることはあったわけだ。しかしその時の記憶は全くなく、一つ位覚えていてもいいのに自分の頭はおばかさんだ、と思ったら悲しくなる。そして、自分の母親も少年の母親のように優しくて、あったかい人だったのだろうかと思う。写真でしか見たことのない姿を思い浮かべる。そしてその人が広げた腕の中に信彦は飛び込んでいく――けれど、温もりもその体の柔らかさも感じない。想像が出来ない……。


「お母さんってどんな感じなんだろう。想像、出来ないや」

 ぽつりとつぶやく。それを聞いた少年は寂しげな表情を浮かべた信彦を見てにっこりと笑った。


「信彦はおかあさまにぎゅっとしてもらいたい?」


「してもらいたい。後、お母さんの作った料理とか食べてみたい。……俺、そういうことをしてもらえる皆が凄く羨ましい。そんなこと言ったらなんか馬鹿にされそうだし、恥ずかしいから言えないけれど。でもなんかお前には話しちゃった」


「それじゃあさ、僕の家に今から行こうよ」


「は?」

 良く分からない流れに信彦は目をぱちくりさせる。少年は名案だ、と言わんばかりの顔だ。そして少年はたったったと駆け、信彦の前に立ち塞がる。信彦の進路に立ち、赤い空と赤黒い雲を背にしている彼はにこりと微笑んだ。その微笑みに信彦は一瞬寒気を覚えたがすぐ気のせいだと思った。


「家には僕のおかあさまがいる。おかあさまは、誰のおかあさまにだってなるよ。おかあさまに会ったら、おかあさまは信彦のおかあさまにもなるよ。おかあさまは料理も上手で、美味しい料理を作って信彦に食べさせてくれるよ。家には他にもかぞくがいる。皆とても優しいし、面白いよ。そのかぞくだって、信彦のかぞくになるんだよ。きっと信彦もおかあさまのことやかぞくのこと、気に入るよ。そうだ、それが良い。ねえ信彦、今から僕の家に来いよ」


「え、でもいきなりそんな遊びに行っちゃっても大丈夫?」


「大丈夫だよ。おかあさまは子供が好きだもの。きっと喜んで迎えてくれるよ。だから今すぐ行こうよ、僕も信彦に遊びに来てもらいたいな。おとうさまはいないけれど、おかあさま一人いれば十分幸せだよ」

 唐突な申し出に信彦は少しだけ戸惑った。本当にいきなり、しかもこんな時間に遊びに行っていいのだろうかと。そうして悩みながらも、彼の心は甘美な申し出に蕩けていた。信彦は親が欲しかった。優しい祖母のことも大好きだし、彼女に感謝もしているけれどそれでも両親を求めてしまう。

 今少年についていけば、彼の『おかあさま』に会える。そしてそのおかあさまは、誰のおかあさまにもなるという。おとうさまはいなくてもおかあさまはいて、その人に会えば信彦にも『おかあさま』が出来るのだ。もう少年がどれだけおかしいことを言っても、人ならざる者の空気を漂わせていても、信彦は妙に思ったり怖いと思ったりしない。今までの会話のおかしさにも、もう気づいていない。だから信彦は最後には「うん」と頷いてしまった。


「あ、でもその前におばあちゃんに遊びに行くって言わなくちゃ」


「そんなの、言わなくても大丈夫だよ」


「大丈夫かな……?」


「大丈夫だよ。さ、行こう。待っていてね、今道を開くからね」

 少年に大丈夫だよ、と言われたら大丈夫だという気持ちになる。だから祖母に遊びに行くことを伝えることを彼は止めた。心配するかもしれない、後で怒られるかもしれないという考えも今の彼にはない。何故なら少年が大丈夫だよと言ったから。少年は何かぶつぶつ呟いている。そしてしばらくすると信彦と少年の前に、黒い扉が現れた。その黒は今まで見たどんな黒よりも黒いように見えた。少年がよいしょと言いながら押すと、きいいと化け物の鳴き声のような音をあげて扉は開いた。扉の向こうには地下へと続く石段があり、壁には一定の間隔で行灯がかけられている。しかしその灯りはそこまで眩いものではないから、先は殆ど見えない。その不気味な雰囲気に信彦はごくり、と唾を呑む。急に寒気を感じ、体がぶるぶると震え、歯と歯がぶつかってかちかちという音をたてている。石段と壁と行灯だけの通路はとても恐ろしい場所に

通じているように見えてならなかった。そしてその先には……。

 だが少年がぽんと信彦の肩を叩き「大丈夫、大丈夫」と言った途端またその不安も恐怖も殆ど消えてしまった。不気味といえば不気味だが、下りた先に待ち受けているものは思っているほど恐ろしいものではないという気持ちになってくる。


「信彦は先に行っていて。僕も後からすぐに行くからさ。大丈夫、怖くないよ。おかあさまがいる場所だもの、怖いはずがないじゃないか。大丈夫、階段の下には楽しいこと以外は待っていないよ」

 そう言うと、少年は果てない闇の続く石段を指差した。信彦はこくりと頷き、それじゃあ先に行っているね、と言って石段を一段、二段、三段と下りていく。行灯の灯りがあっても矢張り暗く、ちゃんと下を見ていないと足を踏み外しそうだ。扉がぎいい、と音をたてて閉まっていく。少年はまだこの石段を下りてきていないのに。しかしすぐ行くと言っていたのだから、きっとすぐまた扉を開けて信彦を追ってくることだろう。

 ひんやりとした空気が信彦を包み込み、熱を奪っていく。そして下りていけばいく程闇は濃くなり、最早壁にかけられている行灯が放つ申し訳程度の光では、ほんの少しだって照らすことは出来ない。もう最後は完全な真っ暗闇の中を歩いていた。闇の中を一人で進むのは、怖い。でもそれよりも嬉しいとか、楽しみ、という気持ちの方が大きかった。その気持ちが眩い光となって信彦を照らし、手をとり、導いてくれている。


 この先におかあさまがいる。自分のおかあさまになってくれる人と、自分のかぞくになってくれる人が。

 信彦は最後の石段を下りた。そして……。



 その日の夜、桜町のある道路に気味の悪い何かが散らばっているのを、町民の一人が見つけた。赤黒いそれはどろどろで、中にはざくろの果実に沢山詰まっている果肉に似たものが混ざっており、それがぎらぎらと妖しく輝いていた。すえた臭いがし、グロテスクな見た目も相まってそれを見た者は吐き気を催した。最初に発見した町民は、ある人物を探している途中だった。その人物というのは近所に住んでいる小学生の子供で、名前を信彦という。彼は昼過ぎに外を出たまま、行方が分からなくなっていた。祖母やこの町民をはじめとした近所の人、交番のお巡りさん等で手分けして辺りを探したものの見つからずにいた。彼の姿を夕方頃目撃した近所の子供達曰く、彼は信彦と同じ位の歳頃の着物を着た少年と一緒にいたそうだ。しかしその少年に子供達は見覚えがないらしく、また大人達にも心当たりが無かった。

 結局信彦は見つからなかった。


 こういう子供が行方不明になり、同時に気色悪い謎の物体が道にばらまかれているのを発見する――という出来事は桜町で、過去に幾度かあった。舞花市や三つ葉市でも、似たようなことが度々起こっている。桜村奇譚集の話をよく知る者、親や祖父母から話を聞かされた者はそれらの事件は『子実食い』の仕業ではないだろうか、と考えた。子供に化けて子供に近づき、油断したところでその子を果実に変え、喰らう妖。そんな妖による仕業とされる出来事が過去に何度もあったから、昔は「見知らぬ子供を見たら化け物だと思え。友達になったら果実にされて食われてしまう」「一人で遊んでいると、子実食いに食べられる」と子供に言い聞かせる親が多かった。もっとも、今は祖父母と暮らしている子供以外にそんなことを言い聞かせられている者はまずいないが。

 この妖は桜町やその周辺の街にしか現れないとされている。


 信彦は両親を早くに亡くしており、今は祖母と二人暮らしをしていた。この祖母は子実食いの存在を知っており、彼の失踪と同時に不気味な赤い物体が道に散らばっているのを町民が発見したことを知ると、それを引き取って手厚く葬り、それから間もなく自宅で倒れ、以来寝たきりとなってしまった。そしてある日彼女は静かに息を引き取ることになるが、それはまだもう少し先の話だ。

 信彦が居なくなってしばらくの間は町の空気も暗く重いものになっていたが、それが薄れいつもの桜町に戻るまでにそう時間はかからなかった。この奇怪でおぞましい出来事から、妖という『非現実的な存在』が関わっているとされている出来事から誰もが目を逸らした。この出来事と向き合うということは、そういったものが実在し己の世界を侵食しているという事実を受け入れることになるからだ。人々は自分の世界を守る為、自分の身を守る為に『無知』を貫く。信彦が行方知れずになったことも、異様な匂いを発する赤い物体のことも、子実食いという妖の存在も知らない風に振る舞って、日常を取り戻そうとする。……それが何の力も持たない人間が使える唯一の身を護る術であることを、何となく理解しているのだ。正面から向き合えば、世界は壊れる。そして一度そうなれば二度と元には戻れないこと、目を向ければ向ける程強い力で引きずり込まれ、深みにはまっていくばかりだということを何となくでも知っている。そんなことはまだ知らない子供達も、大人達に引っ張られるようにして無理矢理日常へと戻っていった。


 さくらや紗久羅は、そんな風に目を逸らすことの出来ない人間だ。いや、もう目を逸らしたところで何の意味もない位深みにはまっている人達だった。二人はこの事件が起きてすぐ、出雲のいる満月館を訪ねた。

 そこで二人は、子実食いという妖は実在しないことを彼から聞かされた。そして道に飛び散っていた赤い物体が信彦ではないことも。しかし彼の失踪に異形の存在が関わっていることに変わりはなく、また彼に明るい未来がないことも聞かされた。信彦はもう、桜町等がある辺りの地下に重なるようにして存在する『異界』の者になってしまっただろうということ、この世界で長く生きることは出来ない体になってしまったこと、彼を助けることは出雲にも不可能で、やがて元の世界が恋しくなり「帰りたい」と願った時が全ての終わりであることも聞いた。

 そして子がいなくなっては果実が散らばり――という出来事は永遠に繰り返されるだろう、という知りたくもない事実も知った。


「あそこはかなり特殊な場所だから、私にも行くことは出来ない。じいさんの道具を使っても、無駄だろうね。まあ、諦めることだ。信彦という子は子実食いに果実にされて、喰われた。そう思った方がまだ幸せだよ。そう思って、さっさと忘れることだね。どうにもならないことをずっと覚え続けていることほど、面倒で悲惨なことはないからね。もし君達がどうしても忘れられないでうじうじし続けていたら、私がその記憶を引き出しの奥にしまってあげるよ。君達の心を挫けさせて、苦しめるのも楽しいけれどあまりずっと苦しみ続けていても楽しくないんだよね。やっぱり程よく苦しみ、程よく騒いでくれなくちゃ」

 冗談じゃねえ、あたし達は玩具じゃねえってのと紗久羅は反論するが出雲は笑ってお茶を飲むだけだった。目の前には彼が出してくれたレアチーズケーキがある。そしてそのケーキには赤黒い、どろりとしたベリーソースがかかっている。赤黒い、どろどろとした、果実。町のある道路に散らばっていた、名も知らぬ子の……。


 結局二人はそのケーキを食べることが出来なかった。そして彼女達も少しずつ日常の輪の中へと戻っていく。まるでそんな事件など最初からなかったかのように、無理矢理に。やがては無理矢理ではなく、自然に日常を過ごす。

 信彦がこの町に『帰って』来るのは百数年後のことである。



 僕は、走っていく。久しぶりに帰ってきた村を、走って、走って、走って。おかあさまの所にいる間に、村は随分と変わってしまったけれど、そんなことはどうでも良かった。また帰ってこられた、それだけで僕は嬉しい。

 信彦は今頃あの階段を下りて、おかあさまに会っているだろう。おかあさまから貰った力は本当に効果があったらしい。信彦はすんなりと僕の言うことを聞いてくれた。彼はおかあさまとお話しし、そしておかあさまの作った美味しい料理を食べているに違いない。でも僕は二度とあの料理を食べられないし、二度とおかあさまに会うこともない。何故なら僕は今から自分の本当の家に帰るからだ。後から行くよなんて言って、信彦をちょっと騙してしまう形になったけれど、おかあさまも『かぞく達』も優しいし、ご飯も美味しいし、とっても面白いものが沢山見られるし、とても着心地の良い着物だって着せてくれる。きっと彼もすぐにあそこを気に入るだろうから、僕のことを嘘つきといって怒ることもないだろう。


 僕はおかあさまに言われたことを思い出す。家が、おかあが恋しくなった僕はおかあさまに「帰りたい」と言った。おかあさまは悲しそうな、寂しそうな顔をしながら「私が寂しくならないように、お前の代わりに誰か一人こちらに連れて来たら、帰っても良いよ」と言ってくれた。おかあさまは一人でも自分の子供が減ってしまうと、寂しくて苦しくて我慢できないそうだ。今まで帰っていった『かぞく達』も皆そうやって新しい『かぞく』を連れてくる代わりにこことお別れしていた。僕もそんな一人に連れてこられたのだ。

 僕は分かった、と言ってここへ帰ってきた。そして信彦に会った。信彦はとても良い奴だから、きっとおかあさまも気に入るだろう。彼はしばらく村には帰れないけれど、そんなこと気にならない位向こうで楽しく暮らせるはずだ。


 僕も楽しかった。向こうで過ごす毎日は、とても楽しくて、幸せだった。でも、それでも僕は村に帰りたくなった。帰って、こっちの友達と遊びたい。そしておかあに会いたいんだ。小さい頃死んじゃったおとうの代わりに、一人で僕を育ててくれたおかあ。きっとおかあは一人になって、寂しいに違いない。ああ、僕はなんで今までおかあのことを忘れていたんだろう。おかあさまも大切で、大好きだけれどでも僕はおかあが一番好き。嗚呼、またおかあに会いたい。おかあに会ってただいまって言って、そしてぎゅっとおかあを抱きしめるんだ。そしてきっとおかあも僕のことを抱きしめてくれる。あったかい、大きな腕で抱きしめてくれる。

 さあ、家へ帰ろう。おかあが待っている家へ。僕は走る、走る、息を切らしながら走る。知らない家、知らない道が沢山あるけれど、それでも僕には分かる、自分のある家がどこにあるか。


 おかあ、おかあ、おかあ。今行くよ、走っていくよ。だから、待っていてね。

 嗚呼、段々と体が痺れていく。なんだろう、力も抜けていく気がする。ちゃんと今僕、足を動かせているかな。そもそも今僕の体に今、足はある? なんか、村が、家がさっきよりも大きくなった気がする。僕の背、縮んじゃったのかな?

 どうしたんだろう、うんと振っているはずの腕が見えない。ぼくの腕、無くなっちゃった。僕、体、段々、無くなって、力、ない、変な匂いもする、目が、霞んで、ぼやけて、光が、光が、沢山光が見える。腕を大きく、広げて、おかあが笑っている。


 おかあ、おかあ、嗚呼、おかあ。お、か、あ。ただい……。

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