第六十一夜:はこにわあそび、きんぎょばち
『はこにわあそび、きんぎょばち』
ある日の休日のことである。その日は雨が降っていた。外へ出る者達は皆一様に傘を差している。その雨の様子を音にするならぽつぽつでも、ざあざあでもなく『ふわふわ』だろう。天から降り注ぐその透明な球体は、ゆっくりと、ゆっくりと、まるでスローモーション再生でもしているかのように非常にゆっくりと落ちてきて、最後は地面にこん、こんと。時間が経つにつれその音はかん、とん、から、じゃらり。後から降ってきたものが先に地面に落ちた球体に当たって、とても涼しげな音を出す。
雫の色は青、赤、黄色、緑、単色ではなく日に翳すと様々な色が見えるもの……。一口に青と言っても、昼の空の色から夜空色、殆ど無色に近いものと様々だし、赤だって橙っぽいものもあれば血の様な色もある。空から降る赤色の雫を集めれば、グラデーションが美しい夕焼けの空が生まれることだろう。雫の中には花や波といった模様が入っているものもある。大抵は透明だけれど、きらきらとした輝きの無い濁ったものもあった。
行き交う人々の足にかき分けられる、地面に溜まっていく雫の音、じゃらじゃら、ころころ。
『雨』が降っているにも関わらず、空は雲を知らぬ青。そこに鎮座する太陽から射す光で、地面に落ちても形を失わない色とりどりの雫がきらきらと輝いている。その雫の中に混ざっているのは形も大きさもばらばらな小石。宝石のような雫の前に空から降ってきたその石の白が、雫の鮮やかな色と輝きを引き立てていた。
(……この町はとうとうビー玉まで降ってきやがるようになったのか。雨すらまともじゃないなんて、どうかしている)
鮮やかな硝子の雫――ビー玉の水たまりの中を歩く紗久羅は傘を傾け、空を見る。ふわふわとゆっくり下降していくビー玉の数は先程までに比べると大分少なくなり、この雨がいずれ止むことを告げていた。夢を見ているとしか思えない光景、だが今紗久羅は夢など見ていない。じゃらじゃら、ちゃらちゃら、かん、かん。歩く度ビー玉が動く音、ビー玉同士が擦れあう音が聞こえるが、そうさせている足にはビー玉の水たまりに触れている感覚が殆ど伝わってこないし、道はビー玉と小石でびっちり埋められているにも関わらず、歩きにくさが全くといっていい程ないし、足をとらわれてバランスを崩すこともない。試しに傘を閉じてみれば、降ってくる雫が次々と紗久羅の体にこつこつとぶつかるけれど、ああぶつかったなという感覚は殆ど感じられなかった。重みも実体も殆ど無いように思われるけれど、出す音や輝きは本物と変わりない。幻のような、本物のような、雫。
人々は夢のような雨の中を、平然と歩いている。最初紗久羅は雨粒がビー玉や小石に見えているのはもしかして自分だけなのではないかと思っていたが、家族や近所の人に聞く限り誰の目にもそう見えているようだ。にも関わらず「ビー玉が降っている!」と騒ぐ者はおらず、まるで空からそういうものが降るのは当たり前と言わんばかりの態度。かくいう紗久羅も不思議な位驚きも慌てもしていなかった。普段だったら菊野にぶん殴られるまで「どういうことだよ!?」ぎゃあぎゃあ騒ぎ、柚季や奈都貴と「また変なことが起きやがっている! 何がどうなっているんだ!」と言い合い、即出雲の所へ殴り込みに行っているところだが、今回は随分落ち着いていた。今店番を終え出雲の住む満月館へ向かってはいるが、このビー玉が降ってきているという怪奇現象について聞きに行くのではなく、あくまで美味しいお菓子とお茶をたかりに行く為。
ビー玉は軒を伝い落ち、庭の芝生を鮮やかに濡らす。枝に茂る葉から零れる雫。あちこちの草木に七色の輝きを与え、車が走ればじゃらじゃらじゃらという音と共に硝子の水しぶきをあげる。照る日に濡れて、あちこちで煌めく玉の美しさ。今が真夏ならより一層の輝きを見せる、良い清涼剤となったことだろう。
紗久羅が桜山神社に辿り着く頃にはビー玉の雨は止んでいた。石段をこんころからり、玉ころり。通しの鬼灯を握るとそれらは消え、紗久羅は何度来ても薄気味悪さを感じる妖しい空間に伸びる石段を上り、満月館へ。出雲は彼女を歓迎し、こちらにあるとある京で買ったという菓子を振る舞ってくれた。
「それにしてもすごい量だな……」
「あれもこれも、と買っている内にねえ。何か今日は団子も羊羹も饅頭も大福も、みんな食べたい気持ちだったんだよ。色々な物を象った和菓子の美しさにも目がいってついつい買いすぎてしまってねえ……正直君が来てくれて助かったよ。少し前にはサクも来てね、うんと食べさせた後お土産もたんと渡しておいた」
これでも大分減った方なのか、と紗久羅は緑茶を飲みながら呆れてしまった。テーブルの上には所狭しと和菓子がずらり。出雲にどれだけ買ってきたんだと尋ねれば「今日は草団子、あん団子、みたらし団子、三色団子に芋羊羹、豆大福、黒糖饅頭、カステラ、酒饅頭、抹茶羊羹……」と聞いているだけで胸焼けする程の数の菓子の名を挙げる。それを聞く限りテーブルの上に並んでいるものが全て、ではないようだ。時々調子づいて買ってしまうんだよねえ、と黒糖饅頭をかじり茶をすする。紗久羅はお前って本当馬鹿だよなあと悪態をつきつつも、目についたものに手を伸ばしては口に入れる。鈴も出雲の隣でもぐもぐとみたらし団子を食べていた。
「そういえばさあ……今桜町がおかしいんだけれど」
「あの町がおかしいのはいつものことだろう。おかしくない桜町なんて桜町じゃない。それとも君のいう『おかしい』というのは、桜町がおかしくないからおかしいという意味かな」
「違うってば。なんだよ人の住んでいる町を珍生物みたいに言いやがって……いやさ、何かさあ……空からビー玉降らす妖怪って、いる?」
「ビー玉……ああ、サクが話していたやつか。彼女には話したけれど、君には話していなかったものね。ビー玉と小石を降らせる妖、というのは多分いないね。鳥の糞が雨の様に降ってきたっていう話は昔あったみたいだけれど。あんまり酷かったので掃除とか大変だったらしいねえ。どうやら長生きした鳥の妖をある一人の村人が罠で傷つけたことが原因だったらしい。後、目には見えない鼠の死体の雨を降らせて疫病を撒き散らす妖がいるなんて話も桜村奇譚集にあったそうだ。まああれは実際にはおらず、恐ろしい病が流行る原因を無理矢理作りだしただけなのだけれど。この村には今まで色々な珍妙な雨が降ってきた。血の雨、当たるとやたら痛い針の雨、綿の雨にええと他には……まあ、兎に角色々」
この町色々なもの降りすぎだろう、と紗久羅は話を聞いただけでげんなりしてしまった。昔なら御伽話として流しただろうが、今となってはそれを「嘘だろう」と否定出来ない。
「ビー玉や小石に関わらずありとあらゆるものを雨として降らせる妖、というのはいる。気分によって降らせるものは変わるわけだけれど……ただ、サクの話を聞く限りその妖ではないだろうね。その妖が何かを降らせた時は皆大騒ぎする。その雨が『異常』なものであると認識出来ているからね。けれど今回は誰も妙だと思っていない。サクもビー玉や小石が降って来るっていう現象を目の当たりにしたにも関わら、ずそこまで興奮していなかったしね。向こうの妖が降らせるのは本物だけれど、今回のは本物とも偽物ともつかぬ不思議なものだというし、範囲もそこそこ広いようだし……恐らくだけれどこれは『神の箱庭遊び』だね」
「神の箱庭遊び?」
なんじゃそりゃ、と芋羊羹を口に入れながら眉をひそめる。実際に現場を見ていないから確証は出来ないが、と付け加えた上で出雲は説明してくれた。
「一言で言うなら、神々の暇つぶし。向こう側の世界の天上にも神はいるが、こちら側にもいる。天上に限らず、地上や地下にもいるけれどね。桜山にもいるし。……そういう神っていうのはね、まあ相当な暇人なようなんだよ。特に天や地下に住む神はね。そんな彼等は自分の力を用いて、時々この地上の世界を玩具にして遊ぶようなんだ。建物の配置を変えたり、変なものを置いたり、そこに住む人間や動物の姿形を変えたり。限られた範囲だけを弄ることもあれば、世界全てを弄ることだってある。で、飽きたら元に戻す。桜町とかは余程目立つ存在なのか、弄りやすいのか……よく箱庭遊びの『玩具』に選ばれているねえ。君が小さい頃にも一度、あったよ確か。もっともそれを君は覚えていないだろうけれど」
「空に住んでいる神って奴が遊ぶのをやめたら、その時の記憶が消されるのか?」
「いや……というか地上に住む人達は神に色々弄られた結果生じたことに対して、何の違和感も抱かないようになっているんだ。恐らく彼等の遊びは理そのものを捻じ曲げてしまう。だからどれだけ妙なことになっていても、それが『いつもの風景』『当たり前の事』になってしまうわけで。ビー玉の雨が降ることも『当たり前』のことになっているから、何も不思議には思わないし騒ぎもしない。まあ君達みたいにこちら側の世界に関わっているような人間達はこれが『普通ではない』ってことを認識することは出来るみたいだけれどね」
神によって珍妙なことが起きても、それを珍妙であると認識しない。いつもと変わらぬ日々として認識される。何も変わらない日々だから、印象にも残っていないから、特別覚えてもいない――そういうことであるらしい。
それにしても地上と、そこに住む生きとし生けるものを暇を潰す為の玩具として利用するなんて、神様も薄情というかなんというか……と紗久羅は呆れた。
「優しく見守るべき存在を、幾ら暇だからって玩具に使うか? 普通」
「そもそも優しく見守っているかどうかも怪しいよね。天上に住んでいる人からすれば、私達など塵芥にも満たぬ存在かもよ、もしかしたら。地上に住む神程こっちと関わり合いないし、人間は人間で神を願いを叶える機械か何かだと思っている節あるし、どっちもどっちかもしれないねえ。……まあ害はないから安心おしよ。飽きたらさっさとやめて元通りにしてくれるし」
「安心ねえ……まあ今までとは違って、ものすごく嫌な感じはしないから良いけれどさ。柚季もあまりうんざりしている様子はないし。でも神様はいったい地上にビー玉だの小石だの降らせて何をしようって言うんだ?」
「さあ……? あれじゃない? 桜町とかを巨大な水槽か金魚鉢にでも見立てて遊ぶつもりじゃない? ほら、ああいうのってビー玉とか入れることがあるだろう? 次の日には町中に水藻とか流木とかそういうものが設置されるかもね」
出雲がまるで興味無さそうに言ったことが、ずばり的中した。次の日学校へ行っている時までは桜町は昨日のままだった。学校へ行ってもビー玉が降ってきたことについて喋っている者は殆どおらず、話していても昨日は雨が降っていたね、程度である。友達やクラスメイトの話を聞く限り雨が降っていたのは、桜町全体と三つ葉市や舞花市といった隣接している街だった。ただ三つ葉市や舞花市は全体で降っていたわけではないようで、桜町から大分離れた所では降っていなかった様子。桜町からそこまで離れていない場所に位置する三つ葉高校は雨が降った範囲内で、グラウンドをビー玉と白い小石が埋め尽くした様は圧巻だった。まるで日光が良く当たる場所に置かれた巨大水槽を見ているような心地。
更なる変化に紗久羅が気づいたのは、三時間目の授業の時だ。退屈でしかない授業にあくびをし、何気なく窓の外を見やるとそこに見慣れた景色はなかった。
(水藻って……こんなでかいのが植えられるのかよ……)
窓を覆うのは、緑色の薄衣。日に透かせば黄、黄緑、エメラルドグリーンと様々な色を見せるそれは、まさに緑のカーテン。それが教室の窓全体を覆っていたのだった。風に揺られ、ゆらゆらと。昼食を食べ終え、昼休みが終われば体育の授業。外へ出るといつの間にやら、あちこちに水藻が植えられていた。大きさも種類もまちまちで、びっちり植えられている所もあれば、申し訳程度にぽつんと少しだけ植わっている所もある。一応レイアウト、というものを考えながら植えているらしく、気に入らない部分があれば修正が入った。植えられていた水藻をひょいっと掴みあげたのは、亡霊のように薄く、驚く程大きい手。手首より先は無いように思う。真珠で作られているかのように、白の中に赤や青や緑という色が微かに見え、虹色。
風に揺られて、あちこちで水藻が踊っている。触れても、あまり触っているという感覚は無く口に含めば綿菓子の様にすうっと溶けて消えてしまいそうだ。青い空に、様々な色合いの緑の藻、七色のビー玉、白い小石。美しい森の中に佇んでいるような、川底に立っているような、不思議な感覚。
増えたのは水藻だけではない。巨大な流木がタワーの如く立っている所もあれば、白い石で作られたらしいトンネルが設置された道もあったし、茶色の土製の壺のようなものが置いてある場所もあった。弁当屋に遊びに来たさくらが言うには、変な像や洞窟、硝子の置物等も置いてあったらしい。どうやら神はあちこちにあれやらこれやら置いたようだ。そのレイアウトにセンスがあるかどうかは分からない。紗久羅達には全体像を見ることが出来ないし、見られたとしても分からないだろう。そもそも人間に天界センスなど分からない。それにしてもわずか二日で随分賑やかになったものだな、と紗久羅は感心した。さくらと別れた後、弁当屋を訪れたのはやた吉とやた郎だった。今日は彼等が出雲の代わりにいなり寿司を買いにきたらしい。
「間違いなく神の箱庭遊びだね。今回は金魚鉢にして遊ぶつもりみたいだよ。桜町全体と隣接する街の半分位を覆う大きな金魚鉢。うんと上空まで飛ぶとね、微かに青い金魚鉢の姿が見えた。縁は波打っていて、青い縁取りがあって。紗久羅達は今完全に金魚鉢の中にいる」
「この辺りもすっかり変わってまあ……」
とやた郎が辺りを見回し、嘆息するのも無理はない。桜町商店街の通りは背高のっぽの水藻に覆われ、そこを歩く人々は緑の世界の中を突き進む。まるで、藻の間を縫って泳ぐ魚の様に見えた。また建物の屋根等も藻や石で飾りつけられており、まともな部分を探す方が困難になっている。
そして次の日、この巨大金魚鉢の中に水が入れられた。ひんやりとした水が体を包み込む感覚、まるで水の中を歩いているような不思議な感覚。けれど水の中にいるにも関わらず息苦しさは全くないし、息を吸っても水が口や鼻の中へ入っていくことはない。翡翠京にいる妖、赤魚の店を満たしていた『虚水』そっくりだ。そういえばあの店も金魚鉢の形をしていたっけな、と紗久羅は金魚捕りをした時のことを思い返した。
(あれの超でっかい版みたいなものか、今の状況は)
試しに地面を蹴ってみると、ふわあっと体は浮き、手と足を器用に使えば泳ぐことが出来た。どうせスカートの下にはハーフパンツを履いているから見られても平気だ、とそのまま泳いでバス停まで行った。彼女と同じように泳いでここまで来た人の姿がちらほらと。その人達が上空からふわりと地上へ降りる様を見ても、驚いた顔を浮かべる者は誰もいない。微かに青みを帯びた水の中を、藻やビー玉で飾られた鉢の中をバスはいつものように進んでいる。バスの窓をすうっと撫でる水藻、水の中を気持ちよさそうに泳ぐ人々の姿、流木に空いた穴の中を通り抜け、辿り着いた三つ葉高校。普段なら部活をしている者以外は教室の中に入ったきり籠ってしまうけれど、その日は一部の生徒が宙を泳いで遊んでいるのが見え、面白そうだと紗久羅も加わってみる。水をかき、自由気ままに泳ぐことの楽しさ。今紗久羅は自分が魚にでもなったような心地で、いつまでもこうして泳いでいたいとさえ思った。しかし朝礼が始まる時間になれば、お魚遊びと一時お別れして教室へと戻っていく。教室の中も昨日まではいつもと変わらぬものだったけれど、今日来てみたら水藻やビー玉で飾られており、水も満ちていた。紗久羅の部屋も朝起きてみたら金魚鉢の中のようになっていた。どうやら神様は外だけ飾りつけるだけでは飽き足らなかった様子。
学校が終わった後、紗久羅は柚季と一緒に街中を泳ぎ回りどこにどんなものがあるか見て回った。いつもの柚季だったら「気色悪い、こんな変な光景見たくない、家に帰ってさっさと寝る!」と言っただろうが、今回は大人しかったし、紗久羅の申し出を断ることもなかった。二人は二匹の魚となって自由気ままに泳いだ。泳げば泳ぐほど体が水に馴染み、自分が水になり、水が自分になったような気持ちになっていく。少し上の方まで泳いで下を見ると、鉢の中の全貌が見えた。そして今自分達が本当に巨大金魚鉢の中にいることを実感する。テーマパークの上空写真でも見ているような気持ちがして、なんかわくわくすると柚季は笑いながら言った。確かに金魚鉢の中にも見えれば、テーマパーク内にも見える賑やかさ、鮮やかさ。
「後は金魚だけだな」
「案外、金魚は私達なのかもしれないわ」
二人以外にも、楽しそうに泳いでいる人間達は大勢いる。確かにあちらこちらで気ままに泳いでいるその姿は鉢の中の金魚そのものである。これで泳いでいるのが本当の金魚だったらもっと美しかったろうな、と紗久羅は思う。それから二人はうんと泳いで、金魚鉢とそうでない部分の境目を見た。そこには曲線を描く青みがかった透き通った硝子があった。しかしそれに実体はなく、差し伸べた手は普通にすり抜ける。
「これさ、今こうして上空にいる状態で外へ出たらどうなるんだろう。落ちる?」
「嫌だ、怖いこと聞かないでよ。……でも何だか、大丈夫な気がするわ。そんな気が何となくするの」
実はあたしも、と頷いて紗久羅は意を決して外へ出てみた。絶対怪我したり死んだりすることはないという確証が心の内にあったのだ。はたしてその通りで、外へ出た瞬間紗久羅は地に足をつけて立っていた。柚季も落ちたらただでは済まない所から外へ出てみる。同じように彼女も外へ出るのと同時に地上に足をつけていた。金魚鉢の中で、水藻の間を縫う人や像の周りをくるくる回る人の姿が見える。本当に金魚だな、と二人で言って笑った。それから再び鉢の中に戻り、今度は只管上を目指した。これだけ泳いでいれば疲れそうなものだが、そういうものは殆ど感じなかった。ずっとずっと上へ行くと、やた吉が言った通り波打つ縁が目に映った。縁は濃い青に彩られ、涼しげ。鉢に張られた水と、張られていない部分の境目。表面をちょん、と触れば波紋が広がる。手に持っていたビー玉を落とすと、ゆっくり、ゆっくり、静かに地面目指して落ちていく。ゆらゆら、ふわり。
そうして紗久羅達はしばらくの間遊んでいた。
その夜紗久羅は夢を見た。紗久羅は行列の中に居た。列は何列かあり、そこには見知った人間見知らぬ人間、猫に犬に鳥といった動物がずらりと並んでいる。七色真珠の色をした空間で、しゃぼん玉のようなものがぷかぷかと浮いていた。列は徐々に前へ進んでいき、そうするにつれ列の先頭にいる人の姿が見えてきた。
立っていたのは女で、そう若くもないが老いてもいないようにも見える。銀の髪、結った髷を飾る金銀珊瑚、しゃらしゃらと。まぶたの辺りを赤く塗っており、金色の瞳は冷ややかである。衣装は浦島太郎の乙姫様が着てそうなものだ。薄桃の領巾がひらひらと、蝶の舞。女は手に巻物を持っており、それを少しずつ開きながら順番が来た人に何か言っている。その声に抑揚はなく、機械的に巻物に書かれた文字を読みあげているだけだ。これだけの人数を相手にしているから無理もないかもしれないが、恐らくそういったことは関係なく、普段から彼女はこうなのだろうなと何となく紗久羅は思った。
女に何か告げられた者は前方にある赤い輪をくぐる。するとくぐった人は金魚に姿を変え、消え去っていく。金魚、と呼ぶにはあまりに大きいけれど。どうやら女は金魚の品種を告げているらしく、人々は告げられた通りの種類の金魚になるようだ。猫や犬といった人間以外の生き物も等しく金魚になる。
「お前は蝶尾、お前は桜錦、お前は江戸錦、お前も江戸錦、お前は水泡眼、お前は丹頂、お前はコメット……」
そうしている内に紗久羅の番が来た。女は紗久羅の顔を一瞬だけ見やるとすぐに巻物に視線を戻し、たった一言「お前は桜コメット」とだけ。紗久羅はそれを聞くとそのまま歩いていき、目の前にあった輪をくぐった。くぐっても体が軽くなったとか、そういった変化はなく先程までと変わらぬ己の手や足が見える。だが恐らく他の人には自分の姿が桜コメットとやらに見えるのだろう。輪をくぐりしばらく歩いたところで終わった。
目を覚ますと金魚鉢の中で暮らす者はなんであろうが、皆等しく金魚になっていた。
目を覚まし、自分の体が金魚になっているかどうか確かめてみる。昨日までと変わらず自分の手も足も髪も、何もかもがいつも通りちゃんとあった。ところが姿見を見ると、そこには透明の鱗を持った、紅白模様の金魚が映っていた。白い部分は鱗が透明である為か微かに桜色で、黒い目が可愛らしい。金魚とは言うが、大きさは元の人間の背丈に比例するのか非常にでかい。それでも巨大金魚鉢と対比すれば塵芥程のものだ。勿論先に朝食を食べていた父も金魚になっており、彼は金魚すくいによく使われているような金魚で、これといった特徴も無い。その特徴のなさは『空気』とよく呼ばれている彼らしいといえた。しかしその体のややオレンジがかった赤は美しい。父は箸を使っていつも通りご飯を食べているのだろうが、傍から見るとぷかぷか浮いているご飯をぱくぱくと可愛らしい口を開けて食べているようにしか見えない。開いた新聞を金魚が読んでいる、そんな姿はなかなかシュールだった。
外へ出れば金魚鉢の中を泳ぐ金魚の群れ。赤、赤白、黒、赤白黒、白、橙。単色、まだら。鱗が透明のもの、そうでないもの。長い尾ひれ、短い尾ひれ、三つ尾、四つ尾、出目、ころころ丸い体、ぷっくり水泡のついた目、特徴的なぶくぶくした頭のこぶ、天を向く目、と体の形も様々だ。同じ品種と思しきものでも、それぞれ模様や色合い、大きさが違って十人十色。同じ人が存在しないように、同じ金魚もまた存在しないのだ。
バス停でバスが来るのを待つ金魚。アルビノリュウキン、土佐錦、茶金、レッサーパンダ蝶尾、黒オランダシシガシラ……。誰もが金魚だったが、不思議と人間の時の姿も分かる。バスを待っていた紗久羅に声をかけたリュウキンは奈都貴だった。声を聞かなくても、不思議と奈都貴だと分かる。ぷっくりお腹、ずんぐりとした体。模様は白い部分が多めだが、所々橙色に近い赤で尾びれは赤から、白へ。ひらひらとゆらゆらと、優雅。ゆらゆら揺れる水草から覗く赤白黒橙、鮮やかな対比。
「俺達とうとう金魚になってしまったなあ……」
「うん。まさかあたし達自身が金魚になっちまうとはなあ。何か夢でも見ているような気持ちだよ」
見上げれば、ふよふよと泳ぐ金魚の群れ。きっと彼等も学校や会社に向かっているのだろう。皆カバンなどを持って歩いているはずだが、金魚以外のものは見えない。奈都貴も紗久羅もカバンも何も持っていない、ただの金魚である。やがて来たバスに乗り、目的地へ向かう。水で満ちたバスの中に金魚がびっちり詰まっていて、赤い出目金がハンドルの前にふよふよ浮いている。座席の上で浮いている金魚の体は座席のみならず、後ろに座っている人をも貫いているが、だからといって体が触れているという感覚はまるでないし、己の視界に支障はない。仄かに世界が、前の座席に座っている人の体の色に覆われている位。
学校へ着けば、校舎の周りやビー玉とオブジェと水草に覆われたグラウンドを走り回る金魚達の姿。サッカーボールや野球ボールが飛び交い、それを追うように様々な種類の金魚達があっちへこっちへ泳いで、可愛らしい。
校舎へ向かう金魚達の「おはよう」「おはよう」という声、廊下もいつも通り賑やかで水草揺れる中、皆仲の良い人と思い思いのお喋りを楽しんでいた。先に教室へ来ていた柚季は白コメット。赤が混ざっている紗久羅と違い、彼女は白一色だった。初めて会った時に彼女が着ていた白いワンピースを思い出す。授業が始まると金魚達はノートを開き、椅子の上にふよふよ浮かんで黒板に書かれたことを書き記している。先生金魚が持っているはずのチョークは目に映らず、傍から見れば字が勝手に浮かび上がっているようだ。金魚群れる教室はいつもよりも狭く感じられた。家庭科の授業の時はミシンの前の金魚が布を動かし、縫っていく。水と砂利と水草で出来た家庭科室とミシンと金魚、という組み合わせなどなかなか見られるものではないだろう。絵を描く金魚、歌を歌う金魚、文鎮で押さえられた半紙に向かい合う金魚、購買のパン戦争をする金魚、図書室で本を読む金魚、保健室のベッドでぐったりしている金魚、金魚、金魚、金魚。ここはめだかの学校ならぬ、金魚の学校。
学校が終わった後は柚季と、それから「一緒に泳ごうぜ!」と誘った奈都貴と一緒に鉢の中を自由に泳ぎ回った。昨日までよりも体はより軽く、より思い通りに泳ぐことが出来るようになっていた。そんな風に泳いでいる金魚は多く、青みがかった色の巨大金魚鉢の中は大変賑やかだ。ビー玉はきらきらと輝き、人をほっとさせる癒しの色をした水草は踊り、様々な色形をした金魚は美しい。青い空の水中を、赤が白が黄が黒が橙が自由気ままにあちらへこちらへ。
幻想の底に沈んだ三つ葉市を三人は眺めていた。
「街をこんな上空から見る機会なんて滅多にないよなあ。……まあいつもの街とは全然違うものに今はなっているけれど」
「そうね。空から眺めると本当に私達金魚鉢の中にいるんだなって気持ちになる。それに空を泳ぐのってとっても楽しい! でも、地上を見て回るのも楽しいわよね。ハンバーガー屋に入った途端出目金にいらっしゃいませって言われた時は思わず笑いそうになっちゃった。カウンターに金魚がいて、その後ろにはいつもと変わらないメニュー表があって、なんかその組み合わせがおかしくて。そのメニューも水草でちょくちょく隠れているし」
「ハンバーガーとかポテト食いながらシェイク飲んでいる金魚なんて、まあこういう時じゃないと見られないだろうな……本当、夢でも見ているような気分だ」
本当、そうだねと紗久羅と柚季は笑った。いつもならこんな風に笑うこともなく、きっと「冗談じゃない、こんな夢さっさと覚めてしまえ!」と叫んでいたところだろうけれど。上空から急降下して、水底に沈む街並みを今度は見て楽しむ。道路を走る車にも金魚が乗っていて、走るバイクの上に金魚がいて、ビルの窓をゴンドラに乗って綺麗にしている金魚がいる。小さい(といっても通常よりは大分大きいが)金魚は猫や鳥や犬。彼等も今は人間金魚と仲良く遊んでいた。ビルと水草夢の競演、ビー玉混じりの砂利で作られた山、無数の金魚がくぐっていくトンネル、小判に穴が空いていて中へ入れるようになっている招き猫の置物……。
しばらくして空からふわふわと白い物が大量に落ちてきた。そしていつの間にか紗久羅達は自分達が手に木の器と匙を持っていることに気づいた。だがそれは持っている人以外の目には映っていない。紗久羅は空から降ってくるものが『餌』であることを理解しており、降ってくるピンポン玉サイズの白い餌を器でキャッチすると、何の躊躇いもなく口に入れた。それは甘く冷たく、口に入れるとさあっと溶ける天上のアイスクリーム。どの金魚もそれをぱくぱくと口を開けてもぐもぐ食べていた。
青空の中の鉢も綺麗だが、微かに青い水が、鉢が、夕焼けに濡れる様もまた美しかった。赤と青の水の中、気ままに泳ぐ金魚鮮やか。
桜町へ帰ると、弁当屋『やました』の前に一匹の金魚が居た。頭が小さく、目幅が狭く、背びれはない、四つ尾の金魚で色はほぼ白だが所々赤い。口先は尖っているが、腹部は後方へいくほどふっくら膨れている。上から見たら、きっと卵の様な形をしていることだろう。優雅で上品な色と姿は道行く金魚の目を釘付けにしていた。紗久羅はその金魚が出雲であることをすぐ理解した。目に映っているのは金魚の姿でも、それが誰なのかきちんと認識出来るのが不思議なところだ。微かに紅さす白銀の体を持つ彼は紗久羅に気づき「やあ」と言った。
「お前も金魚になっていたのか」
「ここに来れば誰だって金魚になる。私も夢の中の行列に並んだよ。神は私がここを訪れることもお見通しってね。……確か出雲なんきん、とか言っていたっけかな。連中、私の名前が出雲だからって安直な理由で決めたに違いない。優雅で美しいという点はこの私にぴったりだけれど、色はどうにかならなかったのか。ごらんよ、この体を。白ばっかりだ。私が白色が嫌いなことを知っていてこの仕打ち!」
彼は大変面白くない、という様子。正直普段の彼の姿を思い浮かべたら、いつものお前と大差ないじゃないかと言いたくなる。白い肌が白い体に変わっただけである。また後日調べた所出雲なんきんという品種は白い部分が多い方が良いとされているようだ。なお天上に住む神が、出雲が白嫌いということを知っているかどうかは分からない。紗久羅は出雲の愚痴を適当に聞き流した。正直どうでもいい。
「……あたしは確か桜コメットってやつだったかな。多分あたしも、名前から決められたんだろうな。さくら姉とかどうなっているだろう」
「さっきサクに会ったけれど、彼女は桜ワキンというものになっていたね。まあ彼女も名前から決められたのだろうねえ。よくこの店に来ているツル婆は丹頂っていう金魚になっていたしね」
完全に適当に決められた人もいれば、紗久羅達のように名前を基に決められた人も少なくない様子。出雲はいなり寿司を買うと、それじゃあねと言って帰って行った。店の奥の調理場では、黄金色のリュウキンと素赤のリュウキンがせっせと働いている。前者が菊野で、後者が紅葉だ。種類は恐らく適当に決められたのだろうが、色は名前にちなんだものをしていた。
夕食を食べた紗久羅は、夜の金魚鉢を堪能することにした。同じ考えを持つのは紗久羅だけではなく、さくらも奈都貴もおり、柚季も三つ葉市から泳いでやって来た。そしてその他大勢の人々。その金魚達を照らすのは、いつの間にかそこら中に浮かんでいた手鞠だった。手鞠、といっても大玉転がしの玉程の大きさである。美しい模様が鮮やかな糸で施されたそれは光を放ち、闇色の水と金魚達を優しく染める。また、数秒ごとに鞠の光は色を変え、赤に青に紫に黄緑に黄色に橙に緑に。順番は鞠によって違い、紗久羅の近くにあるものは今黄色に光っていたが、少し離れた所にあるものは紫色に光っている。
夜の金魚鉢は今、様々な『光』に溢れていた。桜山の方へ行くと、天高くそびえる提灯の壁があり、一つ一つの提灯が橙色の光を発し、辺りを照らしている。その橙に染まる金魚達は、提灯と提灯の間には金魚一匹が通り抜けられる程の隙間があり、そこをすり抜ける金魚、それを利用して鬼ごっこして遊ぶ金魚がいた。そこだけお祭りのような輝き。
遥か上空――水面に巨大な黒い漆塗りの器があった。器というか、大きさとしてはプールといった方が正しいだろう。学校のプールより大きいそれのふちが丁度水面に接しており、ふちに手をかけてよっと上れば器の中に入れる。水面に、赤青紫黄緑の光の波紋がぽんぽんぽんと生じ、泳ぐ金魚を照らしていた。その様はまさに動く和のアート。一瞬たりとて同じ絵になることはないから、美しい。
金魚鉢のあちこちでは『~』という記号に似た形の、様々な色の光が泳いでおり、時折金魚の体を貫いたり染めたりする。まるでそれは水の流れを可視化したような。水中に浮かぶ巨大な硝子の球体に何十匹もの人魚が入り込み、泳いでいる。白色に発光する球体の中、赤白黒黄様々な色の金魚がふよふよ。他にも紫や緑、黄に発光しているものもあった。金魚の入った硝子をはめた木桶、面を地面と垂直方向にたてたそれがが列を成し華麗なるパレード。光る水に包まれた金魚の心地よさそうなこと。桶の列には時折升も混ざっていた。木の優しい色合いが、金魚の鮮やかさを際立たせていた。雪洞のような形をした器もあちら、こちら。そういう様々な『器』が町中に散らばっており、その中に自ら入って『絵』の一部になっているもの達は多い。
舞花市の方に作られていた洞窟の探検もした。その洞窟の上には豪奢な巨大おみこしが現れ、ゆっくりと進むその神輿の中を出入りしている金魚の姿がある。洞窟はえらく大きく、そして思った以上に道が入り組んでいた。灯りは所々にぽつぽつ浮いている提灯だけ。代わり映えしない風景故に方向感覚は容易に狂い、紗久羅達は危うく遭難するところであった。何とか洞窟から出ると、レースをしている金魚を見かけた。周りにいる金魚達が声援を送っている。のんびり泳ぎながら空を眺めている者、いちゃついている者、舞花市にある美吉山を泳いで探索する者、民家の庭にある木で一休みする者、巨大金魚鉢の幻想世界を眺めながら酒を飲む者……。気まぐれにこちらへやって来て優雅に泳いで散歩している出雲の姿も紗久羅は見かけた。
いつの間にか設置されていた全面障子張りの建物は体育館並の大きさで、床は黒い漆が塗られ、金魚の絵が描かれ、周りに金粉が散りばめられている。床、というよりは超巨大な漆塗りの箱の蓋。橙色の灯りに照らされた障子に囲まれて悠々と泳ぐ色鮮やかな金魚達。外から見ると、動く金魚の影絵。
更紗ワキン、白コメット、茶金ハナフサ、東錦、土佐錦、水泡眼、白リュウキン、玉サバ、藍シュブンキン、キャリコワキン、桜コメット、地金、更紗ランチュウ、オーロラ、丹頂、浜錦……。あらゆる種類の金魚は寝る間も惜しんで泳ぎ続けた。その金魚達の尾びれときたら、本当に美しかった。プロの職人が漉いた和紙の様に薄く、そして天女の羽衣の様に軽くて柔らかく、ひらひらとたなびく様の何と優美なことか。嗚呼、赤に白に黒の羽衣を身に纏い無数の天女が天を舞う。今はもう男も女も、誰も彼も皆天界に住まう天女だ。
浮遊する超巨大ビー玉風球体ドーム、空に打ちあがる光の花火、竹筒トンネル、水草に囲まれながら佇む陶器の聖女、季節外れの朝顔や紫陽花。
朝が来ても紗久羅達は金魚のままで、金魚の姿のまま登校し金魚の姿で授業を受け、金魚の姿で買い物を楽しみ、天上から降る餌を食らい、また夜になると光ある世界で遊び、金魚アートになり、天女になり。
しかしそれも永遠に続いたわけではなかった。
ある日の夜、がしゃーんという硝子が割れるような音を紗久羅達は聞いた。それは金魚鉢が割られた音だとすぐ彼女達は理解した。かと思えばどおんという地響きがし、金魚達の肝を潰す。直後遥か上空に光の穴らしきものが出現し、そしてそれは鉢の破片も、水も、水草も、ビー玉も、小石も、像や洞窟も、硝子張りの木桶も升も、手鞠も、提灯の壁も、神が地上に設置したもの全てが吸い込まれていった。そしてそれらがなくなり、町が元の様相を取り戻したのと同時に紗久羅達の意識は遠のいた。
目を覚ますと紗久羅達は人間に戻っており、神の箱庭遊びは終わってしまった。結局神様は二週間もしない内に飽きてしまったらしい。世界は日常を取り戻し、人々達は昨日まで自分達が金魚であったことなど忘れているかのように振る舞っている。彼等にとってはあれも『日常』のものだから、特に話題にすることも引きずることもない。恐らくしばらくすれば完全に忘れてしまうことだろう。
紗久羅はもう泳ぐことの出来ない空を眺めながら、神様の玩具にされるのはなんだか面白くないけれど、あんな楽しい夢ならばまた見てみたいなと思うのだった。