紫怪火(3)
*
紗久羅は自室にある勉強机に顔を突っ伏し、嘆きの息を吐いた。不幸な事故でタエ子が亡くなったという事実が、未だ信じられずにいる。昨日の彼女の笑みを、声を思い出す。まさかあれが最後になるなんて。もう手押し車を押して、この弁当屋で惣菜を買うこともない。声を聞くことも、笑顔を見ることも、話すことももう出来ない。昨日まで出来ていたことが今日になっていきなり出来なくなる……考えれば考えるほど、信じられないことだ。親族でもないし、最近はそこまで会っていなかった人だったがそれなりに関わり合いのある人だったし、結構紗久羅はタエ子のことが好きだったから矢張りショックではあった。多分こうして憂うのは今日くらいのもので、明日になればいつも通り笑って騒いで馬鹿やって、やかましい紫怪火を怒鳴ることも出来るだろう。そして一週間もすれば、タエ子が死んだという事実は自身の日常から完全に遠ざかるだろう。でも、今日は、今日だけはいつも通りに振る舞える気がしなかった。
「まさか……死んじまうなんて」
紗久羅の想いを代弁するかのように紫怪火が呟いた。彼はこんな状況でも大騒ぎする程空気が読めないわけではないようで、静かに紗久羅の傍に寄り添うようにして浮いていた。紗久羅はそんな彼がタエ子には何も憑いていなかった、と言ったことを思い出す。
「……タエ子ばあには、何も憑いていなかったんだよな。死神なんて、いなかったよな」
顔をあげ紫怪火を見ながら確かめるように、自分に言い聞かせるように問う。いつもならがっと紫怪火を掴み、ぶんぶんとその身を揺り動かしながら、まるで責めるように聞いていたことだろう。紫怪火は少し間を置いてから彼女の問いに答えた。
「いない、いなかったよ。死神もいなかったし、事故とか起こして人を殺すようなやつもいなかった。……こんな状況じゃ、信じてもらえないかもしれないが」
紗久羅はいや、と静かに首を横に振る。
「……信じるよ。お前とは四日しかいないけれど……そういう嘘を吐くような奴には思えないから。でもいっそのことこれが妖怪野郎の仕業だったら、それでもってそいつがお前の目に映る奴だったら良かったかもなんて思う。そしたらタエ子ばあ、助かったかもしれないし。なんてな、そんなこと考えちまう」
「信じてくれるんだ、俺のこと。ねえちゃんのことだから、色々言われるかと思ったよ。やっぱりタエ子ばあには何かが憑いていたんだ、それなのにお前がなにも憑いていないって言うからって」
彼は自分の言葉を信じるという紗久羅の言葉に感激している様子だった。紗久羅は苦笑いして、そういう八つ当たりをすることだってあると言った。むしろそういう時の方が多いことは自分自身が一番良く理解していた。ただ今回はあまりの衝撃に、他人にぶつける思いさえ全て体の外へ流れ出てしまっていたのだった。
「タエ子ばあが死んだのは、事故のせいだ。それで、それに妖怪とかそういうものは関係していなかった。そうなんだよな、きっと。というかそれが普通だ。あたしってば向こうの世界のことを知っちゃっているからなあ……妖怪とかがあたし達の日常を脅かすことがあるのを知っているから、どうしてもそっち方面で物事を考えちまう」
「ねえちゃん、関わりすぎなんだよ。異界っていうのは、ひとたび関わるとどんどん侵食していくぜ。侵されて、喰われて自分が異界そのものになっていく。それでそれが向こうの連中を呼び寄せて、関わって、侵食されて。侵されていなかった頃の自分になんて戻れやしない。結構それって恐ろしいものだと思うぜ」
「あたしだって別に好きでこうなったわけじゃねえよ。あのくそ狐野郎があっちの世界に連れていきさえしなけりゃ、今頃もうちょっと平和に暮らせたに違いないんだ」
出雲が紗久羅を異界へ連れて行くことを決めたのは、菊野と紅葉が読めた空気を全く読めなかった紗久羅に原因があるといえばあるのだが。今では異界や妖という存在は彼女にとって身近なものになり、自分の日常に組み込まれたものになってしまっている。そして異界へしょっちゅう足を運んだり、出雲の住む満月館へお茶とお菓子をたかりに行ったりしている。異界に侵された身は異界に惹かれ、吸われ、そして異界の住人を引き寄せる。それだから、タエ子の言葉を弱気な心が見せた幻覚と簡単に片づけられなかった。
紗久羅は机の上に置いてあるお茶の缶の蓋を開けた。その中には飴やキャラメル、チョコを入れていて口寂しい時にひょいひょいとつまんでは口に入れているのだった。適当に伸ばした手がつまんだのはレモンミルクキャンデー。パステルイエローの紙に包まれたそれを舐めもせず、しばらく彼女はじいっと見つめていた。
「どうしたんだいねえちゃん。食わねえのかい?」
「このキャンデーさ……小さい頃、タエ子ばあがよくくれたんだ。タエ子ばあから貰って初めて舐めて、なんかすごく好きになって……この飴貰うととっても嬉しかった。タエ子ばあもこれが好きでこれをよく舐めていたっけ……しょっちゅうタエ子ばあからレモンの爽やかな匂いと、ミルクの甘い匂いがしてさ。この匂いはあたしにとってはタエ子ばあの匂いだった。最近は飴をあまり舐めなくなったみたいでその匂いがすることも殆どなかったけれどさ……」
爽やかで、すっぱくて、甘い香り。それを嗅いだら「はい紗久羅ちゃん、手を出して」と言うタエ子の姿が頭に自然と浮かぶ。紗久羅が手を差し出すと、彼女は手に持っていた黄色いキャンデーを握らせる。紗久羅がにっこり笑ってありがとうと言えば、彼女はとても幸せそうに笑って「どういたしまして」と言うのだ……。だがもうその顔を見ることも、彼女からこのキャンデーを貰うこともない。
そう思ったら色々な思いが込みあげてきて、紗久羅はキャンデーをぎゅっと強く握りしめながら机に顔を伏せる。そんな彼女に紫怪火は寄り添う。何も言わず、静かに、優しく。
結局紗久羅はその日レモンミルクキャンデーを舐めることが出来なかった。
夜、眠りについた紗久羅を紫怪火は静かに見下ろしていた。灯りも消え、静かになった部屋の中で動いているのは寝息を立てる紗久羅の体と、紫怪火の紫色の火だけ。
「……俺ってば嘘つきな奴だよな。本当はあのばあちゃんには妖が憑いていた。俺の友達が……憑いていたんだ。でも紫怪火があのばあちゃんにも憑いているって話をしたら、ねえちゃんを安心させる為に俺達がどういう奴なのか説明しなくちゃいけなかっただろう。けれどあのにいちゃん達がわざわざ話さないでいてやっていたことを話すのはなんかなって思ってな。別に紫怪火って名前は出さずに、どういう妖が憑いているかってことだけ説明すりゃ良かったんじゃと今頃思ったけれど。……でも……結果的には黙っていて良かった。しかしなんで……まさか……あの女が……」
紫怪火の告白などまるで聞こえていない紗久羅は気持ちよさそうに寝ていた。そんな彼女と過ごせる時間も残り僅かだ。紫怪火は紗久羅の寝顔をじいっと見つめ、それからタエ子と彼女に憑いていた友達のことを思う。
「俺は……俺は何としても役目を全うする。それで笑ってお別れするんだ。でももしあの女が……くそ、何か手を打たないとな」
そして夜は巡り朝が訪れる。紗久羅の朝はここ数日と変わらず最低なものだった。
「おいおいねえちゃん朝だぞ朝、ほらからくり時計がぴいぴい叫んでいやがるぜ。ああうるさいったらねえなあ、これ。耳がびりびりに裂かれそうだぜ全く、いや俺に耳なんてくっついていないけれどよう、でももし耳ってもんがあったら今頃さきいかになっちまっているさ。出来ることなら俺が止めてやりたいが、そいつは出来ないからな、ねえちゃんがさっさと止めねえといつまで経ってもぴいぴいぴいすけぴいごろうだぜい。ほらほらねえちゃん、起きた、起きた! 起きて飯食って学校行かなくちゃ駄目だろう。今日の朝はごはんにアジの干物に卵焼き、それから味噌汁だぜ。味噌汁は手毬みたいな麩がぷかぷか浮いていたぜ、ありゃあ綺麗だなあ。食わずに手毬歌でも歌いながらつきたいものだねえ、でも俺には手がねえからなあ。ああ、自分の体でつきゃあいいのか。まああれは小さいからなあついても楽しくねえか。出汁の効いた汁吸ったお麩って美味いよなあ、噛むとじゅわじゅわって出てきてさ。ほらほらねえちゃんさっさと起きろい、うるせえぞこのからくり、本当にうるせえ」
「お前の方がうるさいんだよ!」
怒りとイライラをエネルギーに変え起きあがった紗久羅は、時計を叩き割る勢いで止めながら怒鳴る。紫怪火はおお怖い怖い、と至って暢気な声で言った。
「怒りで体が吹き飛んで、全身ばらばらになりそうな勢いだ。朝からそんなじゃあ身がもたないぜえ、ねえちゃん」
「誰のせいでこうなったと思っているんだ、くそが。昨日は大人しかったくせに! 常にあの状態でいろよ、頼むから!」
「そりゃあ無理な相談だぜ。時間っていうのは限りあるものだ、人生とは無限のものではなく有限のものだ。黙っている時間が増えれば増える程、喋れる時間ってのは減るんだ。俺はね、喋っている方が好きなんだ。常に何か喋っていないと気が済まねえ、そういう性質なんだな。だから限りある時間を俺はこうして声を出してくっちゃべることにたっぷりと使いたいわけよ」
紗久羅はその答えにがっくりと肩を落とす。昨日は空気を呼んで黙ってくれたが、今後(といっても後今日を入れて三日だが)あんな風に彼が静かに、大人しくしてくれることはないことがはっきりしてしまったからだ。
「くっそ……どうせ妖怪なんだからあたし達よりずっと長生きするくせしてよ! 時間なんてたっぷりあるんだから、あたしと別れるまでの間位大人しくしてくれていてもいいじゃねえかよ!」
そう言っても紫怪火は呑気に笑うだけである。その笑い声が腹立たしかったので枕をぶん投げてやれば、とうとう学習して直接攻撃はしなくなったかなどとむかつくことを言ってまた笑う。しかし枕は彼の体をすり抜けていった為、いまいち攻撃した気持ちになれず、何か悔しい。
彼はいつも通り朝食中も父が読んでいる新聞の音読を始めたり(但しカタカナは読めない)、ニュースを見てああだこうだ言ったり。といっても内容をよく理解していない為言っていることは大変いい加減。あまりに素っ頓狂なことを仰々しく言うものだから、紗久羅は食事中幾度かむせてしまった。おおう、これが噴飯ものってやつですなあと呑気にけらけら。しかし彼がこんな様子だからこそ、自分もいつもと変わらぬ日々を何も考えず送ることが出来ているのかもしれない。
バスの中でもひとしきり騒ぎ、学校へ行っても只管喋っている。
「おうおう、またガキ共がぐるぐる走ってらあ。ひいこらえいこら、大変そうだねえ。わざわざ死にそうな思いをするなんて、俺はごめんだね。俺だってよ、うんと早くうんと長い距離をひゅるひゅる飛んでいたら疲れるぜ。こうやって宙に浮いて飛ぶのもさ、力を使うわけよ。でも汗は出ねえなあ。俺は大便も小便も出ねえし、悲しくても涙一つ流せやしない。流したいと思ったこともねえけれどよ。血も涙もない奴なんていうなよ、俺だって怪我すれば血は出るんだからな。前も言ったろう、紫色の炎みたいなのがちろちろっと出るのよ。まあもしかしたらあれも血じゃねえかもしれないが、血じゃなかったら俺は血も涙もない奴になっちまう。でも血があるなら、血も涙もない奴よりは情のある奴になる。だからあれは血だ、血なんだよ、うんうん」
「お前ってば、相変わらず変なことばっかり言うよな」
彼の言っていることはいつも変で、どうツッコめばいいのかよく分からないものばかりだ。しかしその変な発言を心のどこかで面白がっている自分がいることに、紗久羅は気づいていた。声も大きいし、所構わず喋るし、気の休まる時がなく大変迷惑であったが、彼のお喋りのくだらなさは何だか嫌いになれない。そんなこと口にしたら調子に乗るだろうから言わないけれど。
授業中は紗久羅が教科書に描いていた落書きを見て大声で爆笑し、紗久羅は「大声で笑うんじゃねえ、落書きしていることがばれるだろう!」と勝手に自滅し、近くの席の女子達に「最近井上さんおかしいよね」と小声で話され。どうも彼が自分や柚季にしか認識出来ないことを忘れてしまう。しかも日数が経つほど彼という存在が自分の世界に馴染んでいっているので、余計彼の異質さを忘れてしまっているのだ。彼は本来この場にいるはずのないもの、普通の人間には知覚されていないもの――それを忘れてしまう位に彼はもう紗久羅の世界を構成するものの一つになっていたのだ。紫怪火は自ら己の罪を暴露しちゃうなんて、ねえちゃんってばやっぱり面白いなあと爆笑している。誰のせいでこうなったと思っているんだ、と紗久羅は手に持っていたシャープペンを机の上でぷかぷかと浮いていた紫怪火に向けて振り下ろした。
……シャープペンは見事紫怪火の体をすり抜け、机にごつん。当たり所が悪かったのか、ぱきっという嫌な音と共にひびが入った。
「なあおっさん、このお喋り糞灯籠どうにかしてくれよ! あたしがこいつをひっ掴んで、石塀か何かに叩きつけて粉々に割る前に!」
「まあ随分やかましいみたいですねえ……」
「昨日の夜は静かだったのに、昨日の夜は静かだったのに!」
なんで昨日の夜だけ、と英彦に聞かれたので紗久羅は昨日のことを話してやった。彼女が死んだ、という言葉を吐くのは思ったよりも辛いことで、自分が彼女をどれだけ慕っていたかいなくなってから悟った思いだ。話を聞いた英彦は哀悼の意を述べ、それから紫怪火に目を向け苦笑い。
「せめて授業中位は静かにしてやってくれないか。学生の本分である勉学をおろそかにさせるわけにはいかないのでね」
「俺が黙っていたとしても、ねえちゃんどうせ本に落書きとかして遊んでいるだけだよ。ねえちゃんってば今日も本にくっだらねえ落書きしてよ、それがばれて先生に怒られてやんの」
「お前のせいでばれたんだろうが! くそ、柚季美術室に今すぐダッシュして彫刻刀持ってこい、彫刻刀! あそこにならきっとあるはずだ! それかでっけえノミ! こいつの体を今すぐ削ってくれる!」
「彫刻刀もノミも紫怪火の体をすり抜けちゃうから意味ないわよ……」
「気持ちだよ、気持ち! こいつの体をめっちゃ彫って傷つけている気持ちになれればすり抜けようがなんだろうが知ったことか! ああでもやっぱり実際に彫ってやりたい! おいおっさん、彫刻刀とかでこいつを傷つけるように出来る術とか持っていないのか!」
持っていませんよ、そんなのと英彦は言うが紗久羅から全力で視線を逸らして言っているところを見ると、実際のところはあるらしい。本当はあるんだな、あるんだな、なら今すぐ美術室から彫刻刀をパクってくるからその術をかけてくれ、と訳の分からないことを喚き散らす紗久羅を宥めるのは非常に大変な作業であった。
結局英彦は紗久羅に紫怪火を喋らせないようにする札をささっと用意し、彼女に渡したのだった。使うのは授業中など限られた場所だけにしてやれ、ずっと喋れなかったらあんまり可哀想だから、と念を押されながら。紗久羅はそれをはいはいと適当に聞き流しつつ礼を言い、図書室を後にする。そのまますぐ帰ろうとしたが、途中まで大人しくついてきていた紫怪火が突然止まり「あのにいちゃんにまだ話したいことがあるから先に行っていてくれ」と言う。
「おっさんと? 何を?」
「それは秘密。俺にも聞かれたくない話の一つや二つはあるわけよ。ふふん、良い男っていうのは秘密を沢山持っているものさ」
「それどっちかというと女じゃねえか……? つうか一つや二つじゃ大した……まあいいや、行ってこい行ってこい、そして二度と戻って来るな」
それは嫌、と言いながら紫怪火はすうっと紗久羅から離れていき元来た道を戻っていった。彼がどんな話をするのか気にならないわけではなかったが、放っておいて柚季とさっさと帰った。彼はしばらくして「たっだいまー」と言う言葉と共に帰ってきたので、盛大な舌打ちと共に迎える。今日も彼に『バーカ』をねだられ、それがあんまり切実で、そしてうるさかったので結局根負けして買ってしまった。
「紗久羅ってば将来子供甘やかしそう。うざったいって言っている灯籠にさえこれなんですもの、自分の子供じゃ尚更よ」
「別に甘やかしているわけじゃねえよ。こいつってば何をどうしても静かにならないんだもの」
「さっきのお札使って無理矢理大人しくさせれば良かったじゃない」
あ、忘れていたと本気で忘れていたように言うので柚季はため息。一方の紫怪火は鼻歌歌ってくるくる回って大満足の様子だ。
「なあなあねえちゃん、明日はさ、明日はさ、一緒に食べようぜ! 店か家で! 一緒にさ、ぺちゃくちゃ喋りながらバーカ食うの! 一人で食べるより二人で食った方が楽しいと思うんだ。な、なあ一緒に明日は食おうぜ!」
「何でお前明日も買ってもらうの前提なんだよ! こっちは毎月少ない小遣いをやりくりしなくちゃいけないから大変なんだぞ! お前の分だけでも結構な痛手なのに自分の分なんて……ていうか古花堂! そうだ古花堂行ってお前の持っている金をこっちの世界の金に換えろ! そうすりゃあバーガーだろうが馬鹿野郎だろうが幾らだって買ってやる!」
「お金はこの前の橘香京で全部使っちゃった」
「気づくのが遅かった! よく考えてみればあたしこいつに滅茶苦茶奢ってもらっていた!」
明らかに今まで彼に買ってやったバーガー代以上のものをばんばん食べさせてもらっていたことを思い出し、頭を抱える。柚季はまた向こうに行ってきたの、と呆れている様子。
「ねえちゃんとバーカ一緒に食えるの楽しみにしているぜ」
そう言ってきしし、と紫怪火は笑うのだった。
六日目の紫怪火は大人しかった。いや、大人しかったというか大人しくさせたというか。他のものはすり抜けても、力を込めたお札がすり抜けることはないらしい。また彼の体についている間、お札は紗久羅や柚季位にしか見えないようなので「変なものが宙に浮いている」とクラスメイトが騒ぐこともない。久しぶりに授業中の教室は静かだった。しかしその静寂が続いたのもそう長い時間ではなかった。
柚季の「あっ」という小さな声を、お札を剥がした紗久羅は聞いた。紫怪火にも顔があったらきっと驚いた顔をしていたことだろう。自分だって正直、そんなことをする自分に驚いていた。
(……どうもこいつのやかましさにすっかり慣れちまったらしい。逆にこいつが静かだと落ち着かねえ……!)
もう彼がぺちゃくちゃ喋ることが当たり前の日々になっていたので、それが急に取り除かれても戸惑うだけだった。うるさいより静かな方が良いはずなのに、辛いと思ってしまう。また彼のくだらないけれど何だか笑えてしまう発言を聞けないのは残念に思える。
紫怪火は感激のあまり紗久羅へ勢いよくダイブ、直後紗久羅と柚季にだけ聞こえるごつんというすさまじい音。頭に紫怪火の硬い体が当たった紗久羅は「痛え!」と悶絶、周囲は困惑。
「ああ、ごめんようねえちゃん。あんまり嬉しかったものだから、つい。いやあ本当嬉しいねえ、何のかんの言ってねえちゃんは俺のこと好きだったんだなあ、うんうん」
「この糞灯篭! いい加減にしやがれまた札貼るぞ!」
「はい寝ぼけているらしい井上、ここの問題解いてくれ」
紗久羅の奇行や意味不明の発言にも慣れたらしい先生が冷静に下す罰。紗久羅は札を剥がすんじゃなかったと後悔したが、結局その後札を使うことは無かった。
休み時間になると大抵紫怪火は教室に出来ているグループの内の一つに混ざり、誰に気づかれることもなくお喋りを楽しんでいた。聞こえている人なんていないのにそんなことをやっていて楽しいのか疑問であるが、少なくとも彼は楽しいと思っているらしい。そうして積極的に輪の中に突っ込んでいるお陰か、クラスメイトの名前や性格、人間関係諸々を把握してきているらしく、あまり滅茶苦茶なことは言っていない。もし彼が人間で今喋っている人達に認識されていたとしたら、割ときちんと会話が成立していたことだろう。
紫怪火は下校中、誰々とこんなことを話した、誰々はこんなことを話していた、と会話の内容や感想を言ったり、誰々が言っていた何々ってどういう意味なんだ、どういうものなんだ、と聞いてきたりする。その声は弾んでいて、例え誰に聞こえていなかったとしても彼等と過ごす時間を楽しんでいることが分かる。そしてもう彼はあのクラスの一員、あの学校に属する者気分でいるのだった。
「あいつらとも明日でお別れかと思うと、寂しいなあ。ねえちゃんと別れることはもっと寂しいけれど」
「あたしはお前と別れられて清々すらあ。バーガーも買わなくて済むようになるし、周りから珍生物見る目で見られないようになるし!」
「珍生物扱いされるのは、堪え性がないからだよ。ねえちゃんってばようやく俺を殴らないことを覚えたけれど、俺を程よく無視することはいつになっても覚えないものなあ。まあ俺としては、俺の言動や行動に逐一ねえちゃんが反応して、挙句皆に奇異の目で見られる様を見る方が楽しくて良いけれどね。それにしてもねえちゃんってば、結局俺の分しか買ってくれなかったなあ。一緒に食べたかったのに、あ、じゃあ半分こ、これを半分こにすりゃあいいのか! 食える量減るのは残念だけれど、一つのものを分け合って食うっていうのもなかなか」
「食わねえよ、一人で食ってろ。……なあ、それはいいんだけれどよ。……なんか今日、ずっと誰かにつけられているような気がするんだけれど、これはあたしの気のせいか?」
紗久羅はそう言って立ち止まり、後ろを振り返る。そこには誰もいないが、誰かが自分の後をつけていて、じっとこちらの様子をうかがっているという疑念を払拭できない。紗久羅がそれを感じたのは今日のことで、今まではそんなものを感じはしなかった。しかも自分をつけているのは一人ではなく、複数の様子である。が、視線を感じた方を見ても何も見つけられない。それがたまらなく不気味で仕方ない。
しかし紫怪火は何も感じないという。彼が感じないなら実際そうなのかもしれないが、どうしても「気のせい」という気持ちになれない紗久羅だった。
*
そして、七日目。札を貼られていない紫怪火はいつも通りやかましく、紗久羅に酷い目覚めを与えてくれた。紗久羅はすり抜けることを分かっていながら彼に向かって枕を振りまわし、不機嫌という言葉をこり固めて作ったような視線を向けるのだった。
「……朝には消えていると思った。まだ憑いているのかよ」
「まだ憑いているんだねえ、これが。まあ夕方頃にはお別れだよ。嗚呼俺はこの日が来ることを待ち望みながら、この日が来ないことも望んでいたんだ! え、矛盾? ふふんねえちゃん、物語っていうのはいつだって矛盾の中から生まれるものさ……どういう意味かって? あっはっは、意味なんてねえよ! ただなんかそれっぽく言ってみただけさ!」
「ほう、あんたも一応あたしとお別れすることを望んでいたんだ。あたしは只管待ったぜこの日を。ああ長い一週間だった! 明日は気持ちの良い朝を迎えられると思うと胸が喜びでいっぱいになるぜ。夕方と言わず、今すぐ消えてくれてもいいぜ。っていうかお前が憑いたことで起こった良いことって何なの? 今の所お前がいて良かったって思ったことが……強いていうなら橘香京で美味いものが食えたってこと位か」
「ひ・み・つ。まあ今日には分かるから安心しろって」
ほらほら早く飯だぞ飯、と紫怪火に押されるようにして紗久羅は部屋を出る。英彦達が祓わなかったところを見ると、自分にとって決して悪くないことが彼によってもたらされるのだろうが、それがどういったものなのかまるで見当がつかない。悪くないことのはずなのに、紫怪火がどういう妖なのか話してくれない理由も気になる。ご飯を食べ、学校へと向かう。今日も何かにつけられているような気味の悪い感覚を覚えた。
最終日であるせいか、紫怪火のテンションはいつも以上に高くやかましかった。また聞こえもしないのにバスの乗客や学校の先生、クラスメイト達に別れの言葉を送りまくっており、何だかとても空しい一人お別れ会を見ている気持ち。またそうしていない時は紗久羅にひっついていた。まだ寒いというのに、冷たい石にぴったりくっつかれ、体にある僅かな熱さえ奪われていくような気がしたし、何より大変うっとおしかった。しかし札を貼っても動きは止められないので意味が無いから使わない。今日最後の授業の時も、後少しでお別れなんて寂しいよう辛いようと言いながらすりすりしてくるので、水張っていないプールにぶち込むぞ、と怒鳴り散らしまた周囲から奇異の目で見られる始末。あまりのうっとおしさに、紗久羅の罵詈雑言っぷりも五割増し。しかし罵られることさえ紫怪火は楽しんでいるようだったから、どうしようもない。
紫怪火の要望で図書室へ行き、彼は英彦にも別れの言葉を告げた。何故か「ありがとう」と礼の言葉も述べていたが、紗久羅には意味が分からなかった。英彦は戸惑いもせず「どういたしまして」と言っていたから、彼には意味が分かっているのだろう。
「バーカ、バーカ、ふふふふふん、バーカ、バーカ。今日は二個食えるぞバーカバーカ。ねえちゃんと一緒に食えないのは残念だけれど嬉しいぞ、バーカ、バーカ」
別れの日もいつもと同じようにハンバーガーを買ってもらえた紫怪火は満足気に歌っている。一方紗久羅はいつも以上にうっとおしく、やかましかった紫怪火に散々振り回された為ぐったりしていた。誰かにつけられている、という感覚が疲れに拍車をかける。改めて紗久羅は本当に何も感じないかと紫怪火に尋ねるが、昨日と変わらぬ答えが返ってくるだけだった。
(本当にこいつは感じていないのか? 本当は感じているけれど、何も感じないって嘘を吐いているだけなんじゃないか? あたしでも感じることを、こいつが何も感じないなんて妙な気がするし。でもそうだったとして……何で黙っているんだ? こいつ、まさかあたしをつけているものの正体を知っているんじゃないか? 知っているけれど、黙っている。そんなことする必要がどこにあるのか分からないけれど……)
疑問を抱きながら二人は歩く。少しずつ春に近づいてはきているけれど、まだ外は寒くて日が暮れるのも早い。薄暗い空、道、そこに落ちる二つの影法師、明日には一個消えて、一人きり。
「……ねえちゃんとももう少しでお別れだなあ」
ふと、紫怪火がそんなことを呟いたのを紗久羅は聞いた。その声はとても寂しそうだったけれど、紗久羅は寂しさなど感じなかった。少しの間は彼の居なくなった日常を非日常的なものに錯覚してしまうかもしれないけれど、きっとすぐ日常は日常に戻り、紫怪火のいた日々が非日常へと変わっていくことだろう。不本意ながら物寂しさを覚えてしまうかもしれないが、それだってほんの僅かな間のこと。
「そうかい。ふん、あたしは全く寂しくないね。心からお前が居なくなってくれることを嬉しく思うよ」
「ねえちゃんってば相変わらず酷いなあ。でも分かっているよ、それもただの照れ隠しなんだってことがさ」
「照れ隠しじゃねえし、本当のことだし」
「そういうことにしておいてやるよ」
「そういうことなんだよ、馬鹿が。お前のその『何だかんだいって俺はねえちゃんに愛されていた』って自信はどこから来るんだよ、全く」
「にひひひ。あ、そうだねえちゃん。別れる前にバーカ食わせてよ。俺……家に着く前にお別れしちゃうからさ、ここで食わせてよ、最後のバーカを」
「だからバーガーだっての。なんでそんな頑なに間違え続けるんだよ。ていうかそういうことはさっさと言いやがれ。ええと……」
誰にもばれないようにさっさと食わせて、さっさと別れてしまおうと思いながら紗久羅はバッグを開ける。がさごそ、という音が酷く寂しいものに聞こえたのが、自分でも意外なことだった。
しかしバーガー二つとポテトの入った袋を取り出す前に、紗久羅の動きがぴたりと止まった。何かとてつもなく冷たくおぞましいものが突然体内に注ぎ込まれたのだ。そしてそれは体内で一瞬にして固まり、紗久羅を石の様に動かなくしたのだった。彼女の中に流れ込んできたもの――それが前方からこちらへ近づいてくる『何か』の放つおぞましい気であることに気づくまでに、そう時間はかからなかった。同時に後方からばさばさばさという不吉な羽音と、きいきいという不気味なそして妙に甲高い鳴き声が聞こえる。複数いるらしいそれからも、前方にいる者と同じものを感じた。少なくともこの世に存在していいようなものではないだろう。恐らくは、妖。しかし後方にいる妖がどんなもので、今どの辺りで何をしているのか確認することが出来ないのが、怖い。
(くそ……何だ、体が、動かない。気に、あてられて、嗚呼。冷たい、気持ち悪い、怖い、怖い、怖い……)
黒いものに満ちた頭は確実に近づいてきていることが分かる『死』への恐怖を只管訴え、呼吸を困難にし、紗久羅から体温を奪う。逃げることもカバンの中に突っこんだ手を抜くことも出来ずにいる程、彼女の体は石に近いものになっていた。だがその体はがたがたと小刻みに震えている。まるで地震が起きた時の、テーブルの上に置かれた花瓶の様に。
怖い、苦しい、冷たい、気持ち悪い、死んでしまう……助けて。
やがて紗久羅にそれ程の恐怖を与えている者が前方から姿を現した。それはぼろぼろの着物を身に纏った女だった。その着物にも、地面についている長い黒髪にも、赤い液体や臓物らしきものがこびりついている。血に濡れていない部分の肌は青白く、目はぎょろりとしており今にも零れ出そうな程。そしてその右手には、大きな斧。その斧にも出来れば見たくないものがべったりとついており、数え切れない程の『死』がそこについているのを嫌でも感じ取る。そのおぞましい化け物は紗久羅を見てにたり、と笑った。大きく開けた口、黄色い歯。女は子守唄を歌いながら、こちらへと近づいてくる。
「嗚呼……まだちゃんと別れの言葉も言っていないのになあ。もうお別れか。ねえちゃん、良かったな。待ち望んだ俺とのお別れの時間がやって来たぜ」
紫怪火はこのような状況の中でも喋れるようだった。その声には別れを惜しむ思いは入っていたが、死への恐怖や驚きは感じ取れなかった。まるでこの化け物の襲来を予期していたかのようだった。
なぜ彼はこのようなものを目の前にしながら、恐怖一つ感じていないのだろう。まさか自分は死なないということが分かっているから? この化け物と紫怪火はグルで、お別れということは紗久羅が死ぬことで生じるものなのでは? 混乱する頭は最悪のことだけを考えた。
「……良い子だ……ねんねしな……」
若い女、老婆、男、獣――それらの声が入り混じったような、声。聞いただけで黒い虫の群れが腹の中を動き回る。言うが早いか、女はすさまじいスピードで紗久羅の眼前までやって来るとその斧を……紗久羅に向かって振り下ろした。紗久羅は目を閉じることさえ許されず、ただただその斧に頭をかち割られる瞬間を待つことしか出来なかった。
だが、その斧が紗久羅に当たることは無かった。寸前何かが紗久羅を後方へ突き飛ばし、そして代わりにその凶刃を受けたのだ。すさまじい音が聞こえ、同時に化け物が斧をそれから抜き取り一旦後方へと飛び、距離を置く。尻餅をついた紗久羅の前に、彼女を庇った硬くて重い物体がすさまじい音と共に落ちる。
紫怪火が、地面にごろりと転がっている。頭はひび割れ、無残な傷が見え、そこからちろちろと紫色の炎が零れ、地面に落ち散る藤の房の様相。紗久羅は彼の名を呼び、今すぐにでも駆けより様子をうかがいたいと思ったが、体は先程までと変わらず動かないままだ。このままでは彼が庇ってくれた意味がまるでない。
女は再び斧を構え、紗久羅を見てにたりと笑った。唇から絶えず紡がれるのは、子を黄泉へ誘う死の子守唄。
「良い子だ……ねんね……しな」
逃げられない、矢張り殺される。紗久羅は女が自分のすぐ近くまで飛ぶように走ってきて、その斧を己の頭上へと振り下ろす様を見ているしかなかった。
だが斧は今度も紗久羅を捉えることが出来なかった。ぎゅっと凝縮された光が線となり、女を斧ごと吹っ飛ばしたのが見える。吹き飛ばされた女の体は地面に強く叩きつけられ、おおおおと聞いているだけで吐き気を催すおぞましい声をあげながら悶絶していた。その女に、トドメの光が放たれ……女は塵も残さず、消えた。その瞬間紗久羅の体の中で固まっていた黒いものが溶け、少しずつ外へ出ていくにつれ彼女は自由を取り戻していった。
助かった。自分が助かったことをそこでようやく理解したら、力が抜けてしまった。あまりの出来事に、涙さえ出ない。
「紗久羅ちゃん、大丈夫だったかい!?」
「……梓姉……?」
梓がこちらへ向かって駆け寄ってくるのが見えた。どうやら女を倒したのは彼女であるらしい。その彼女の後方には二つの人影。一人は英彦の使鬼である蕾、もう一人は見知らぬ男性だった。紗久羅が背に聞いていた不気味な羽音と鳴き声はもう聞こえない。その主を二人が始末したのかもしれなかった。
自分をつけていたのは蕾と見知らぬ男性だったのか。そうだとして、一体何故自分を?
梓が怪我はなかったかい、と言って紗久羅に手を差し伸べる。紗久羅は何が何だか訳が分からぬまま首を横に振りつつ手を伸ばしかけたところで、紫怪火のことを思い出した。紫怪火は、大丈夫なのか。紗久羅は這うようにしてぼろぼろの紫怪火の傍までいった。炎の血にうっかり膝をつけてしまったが、少しも熱くない。
「お、おい……しっかりしろ、お、おい……!」
返事はなかった。まさか死んでしまったのか、と最悪のことを考え、同時に脳裏に浮かぶのはタエ子の笑顔。紗久羅はまだ力が抜けて上手く動かせない体に鞭打ち、紫怪火の体を揺さぶり、何度も何度も呼びかける。幾度も続けたところで、酷くか細い――蚊の羽音一つでかき消えそうな程小さな声が紗久羅の耳に聞こえた。
「……言ったろう……ねえちゃん……お別れだって」
あまりに力無い声。目の前で喋っている灯籠が、今の今まで自分の横で元気よく喋っていた者と同一人物であることが信じられない位だ。
「お別れって確かにそう言っていたけれど……何で、意味が分からないよ……! まさかお前こうなることが分かっていたのか? あたしを庇って死ぬことが? お別れって、そういうことだったっていうのかよ!?」
「そうだよ……俺は……この時、この瞬間の為に産まれてきた妖さ。ねえちゃん……紫怪火ってのは……紫の怪しい火と書いて、紫怪火という。でもな……実は……別の字も書くんだ。死を回避する……そう書いて死回避ってな。紫奇灯……ってのもな、死を忌避するとも書くんだ……俺は、憑いた、人間に訪れる死の運命を……肩代わりする妖なんだ」
死の運命を、肩代わり。息を呑み、紗久羅は梓を見た。彼女はその通りだよ、と頷いた。
「紫怪火っていうのは、病気や寿命以外――例えば事故、事件、自然災害とかそういうもので死ぬ運命にある人にとり憑く妖なんだ。紗久羅ちゃんは本来……今日、あの妖に襲われて死ぬ運命だった」
事もなげに言われた、とんでもない事実に呼吸を忘れる。頭上に斧を振り下ろされた瞬間のことが頭をよぎり、体から血の気が引いていった。自分は本来あのまま頭をかち割られていたのだ、あの斧で。そして十六年の人生が閉じる……はずだった。
「そういう死の運命を肩代わりするんだねえ、紫怪火っていうのは。死ぬことが分かっていてとり憑くなんて、なかなか私には理解が出来ないことだけれど、彼等にとっては誰かの代わりに死ぬことこそが、自分達の生まれた『意味』なんだねえ。そして死の運命を肩代わりされた人間は、本来課せられた運命から逃れることが出来る。そうされなければ、紗久羅ちゃんは死んでいた。私達も助けることは出来なかった……紗久羅ちゃんが襲われている瞬間に出くわしはしたけれど、私も、後ろにいるあの二人もさっきの妖の眷属に攻撃されて紗久羅ちゃんを助けられなかった」
「そ、それじゃあ紫怪火は……こいつは……」
「お別れだって何度も言ったじゃねえか……ねえちゃん。向こうの世界にももう帰らないと言っただろう……そういうことだよ……」
「そんな……」
つい先程まで、彼にはさっさと消えてほしいと思っていた。そうすれば紗久羅はひとまず平穏と静寂を取り戻せる。だがこんな形で消えてほしいなど微塵も思ってはいなかった。しかも自分の代わりに死ぬなんて、そんなこと到底受け入れることなど出来なかった。
――ねえちゃんがどれだけ怒鳴っても無駄無駄、俺が決めたといったら決めたんだ。なに、別に永遠にねえちゃんにとり憑いているわけじゃない。七日経ったらしっかりきっかり離れるさ。ねえちゃんが行くなと泣こうが叫ぼうが、ね。それにねえちゃんはきっと俺に感謝することになると思うぜ――
――うん。……もう使うこともないからなあ。どうせ使うならねえちゃんに格好良いところ見せたいじゃん?――
――時間っていうのは限りあるものだ、人生とは無限のものではなく有限のものだ。黙っている時間が増えれば増える程、喋れる時間ってのは減るんだ。俺はね、喋っている方が好きなんだ。常に何か喋っていないと気が済まねえ、そういう性質なんだな。だから限りある時間を俺はこうして声を出してくっちゃべることにたっぷりと使いたいわけよ――
紫怪火の今までの言葉が頭の中でぐるぐると回る。そしてその言葉に隠された思いの数々を今になってまとめて受け取った思いだった。
「馬鹿、死ぬなよ……あ、あたしは別にお前に死んで欲しいなんて、そんな……生きて別れろよ、死んでお別れなんて、そんなの、そんなの許さねえぞ!」
「そりゃあ出来ない相談だ……嗚呼、もうねえちゃんの顔も殆ど見えねえや。なあねえちゃん……俺、楽しかったぜ……七日間、とっても。ねえちゃんは迷惑だったかもしれないがな。……俺はねえちゃんを守ることが出来て、嬉しい。とても幸せだ……俺は紫怪火として生まれ、紫怪火としてちゃんと死ねる……。ねえちゃん……俺の代わりにいっぱい……生きてくれよ。この前死んじまったタエ子ばあ位、いやそれ以上長生きして……くれよ……あ、そうだねえちゃん……最後にバーカ食わせてくれよ。最後の晩餐ってやつだ……へへへ」
「い、いやだ……くそ、なあ梓ねえちゃんどうにかならないのか!? こいつ、助けられないのか!? あたし、こいつのことやかましくてうざったくてどうしようもない奴って思っていたけれど、でも死んでほしいなんて、そんなの……!」
死んでしまえ糞灯篭、と怒りに任せて言ったことはある。だが心からそう思ったことなどただ一度もなかった。紗久羅は梓に希う。だが梓はそれは無理だ、と首を横に振るだけだった。
「死の運命を肩代わりした紫怪火が死から逃れる術はない。……見送ってあげなよ、紗久羅ちゃん。認めたくないかもしれないけれど、嫌だ嫌だと喚いたってどうにもならないことだもの」
「でも……」
「うだうだ言っている間に、紫怪火、死んじゃうよ。もうね、逃れられない未来なら……彼の望むままにして、笑って送ってあげな」
紗久羅は紫怪火をじっと見つめる。いつもバーガーを放った火は今にも消えそうになっており、もう彼の生が長くないことを残酷なまでにはっきりと示している。梓の言う通り、このまま嫌だ嫌だと言っている内に彼は最後の願いさえ聞き届けられぬまま逝くことになるだろう。
送ってやるしかないのか。紗久羅は震える手でカバンから紙袋を取りだし、そこからバーガーを一個。包装をとり、それを今までに無い程優しく火の中へ入れてやると、彼は美味い美味いと小さな声で満足そうに言い、もう一個は紗久羅に食えと言う。紗久羅は半分を紫怪火にくれてやると、もう一個は泣きながら食べた。
「……鬼の目にも、涙、だな……」
「うるせいやい……」
「ありがとうな、ねえちゃん……嗚呼、二人で一緒にバーカ食べる夢、叶ったな……俺、幸せだ。そっちのねえちゃんも……助けてくれてありがとうな……」
梓はどういたしまして、と一言言いながら懐から取り出した小瓶に、紫怪火から漏れ出した火の如き血を入れている。貴重なものだから、とっておきたくてねと彼女は言う。この場にあまりに似つかわしくない行動及び言動だったが、それを咎める気にはならなかった。
「さようなら、ねえちゃん……俺、一足先に行くわ……ねえちゃんはゆっくり……きてな……もし向こうでまた会えたら……一緒にまた食おうな……バーカ……」
それが、彼の最期の言葉だった。ハンバーガーを飲みこんだ紫色の火はますます弱くなっていき、そしてやがて完全に消えてなくなり、二度と灯ることはなかった。しばらくして彼の体は眩い紫色の光を放ち、同時に粉々に砕け、光が消えた時には跡形もなかった。血も少しずつ薄くなり、すぐ見えなくなる。紫怪火が存在していた痕跡は、もうどこにもない。
紗久羅はハンバーガーの包装紙を握りしめながら、彼が先程までいた所に涙をぽたぽたと落とす。
「くっそ……バーカじゃなくてバーガーだっての……最後まで間違えやがってよ……くっそ……」
紗久羅はしばらくそのままずっと泣いていた。まさか彼との別れに涙を流すことになろうとは、思いもしなかった。頭に浮かぶのは本当にろくでもない思い出ばっかりで、でもその思い出一つ一つが紗久羅の胸を締めつけるのだった。
こうして紗久羅と紫怪火の七日間は終わり、これから彼のいない日常が始まる。
*
時は少し戻り、放課後の三つ葉高校図書室。仕事をしていた英彦を呼ぶもう聞きなれた声が聞こえ、彼はふと顔を上げた。にいちゃん、にいちゃんと紫怪火がこちらまですうっと飛んできているのが見える。紗久羅の姿はない。
「一体どうしたんだい」
「……にいちゃんに話があるんだ。いや、実は気になっていることがあってな」
彼に顔があったらきっと深刻な表情を浮かべているに違いなかった。今まで聞いたこともないようなトーンで気になっていることがある、と言われ何か嫌な予感がした。どうぞ、私で良ければ聞くよと言ってもすぐには口を開かなかった。英彦は急かさず、黙って彼が話しだすのを待っていた。
「……昨日ねえちゃんの知り合いのばあさんが車に轢かれて死んだことは知っているよな」
英彦は先程紗久羅から話を聞いていたから、ああと頷いた。
「あのばあさん、あそこで死ぬはずはなかったんだ」
「え?」
「……あそこで死ぬ運命からは逃れられるはずだった」
「それは……まさか」
眉をひそめた英彦の問いに、紫色の火が揺れる。ああそうだ、と頷いているようにそれは見えた。
「あのばあちゃんには、俺の友達が憑いていた。俺とそいつは一緒に向こうを歩いている時境界を越えてこっちに来ちまった。来たはいいけれど向こうに帰る術を俺達は持っていない。もしかしたら神様ってやつが俺達を運命の相手のところへ導いてくれたのかもなあ。兎に角俺達は来てしまったものは仕方ない、向こうでは見つけられなかった『自分の命を使いたいと思える者』でも探すかってことになって、夜の桜町だっけか? あの町を歩いていた。俺達はあのばあさんの家の前を通り、その時ばあさんが車に轢かれて死ぬ運命を見た。直接相手を見なくても、ただ近くを通るだけで俺達は寿命以外の『死』を見ることが出来るんだ。俺はそれを見たものの何も感じなかったが、友はびびっとくるものを感じたらしくばあさんに憑いた」
そしてその後目の前にいる石灯籠は、妖に殺される運命にあった紗久羅を見つけ彼女に憑いたのだ。紫怪火曰く、友人の紫怪火はタエ子が死ぬ前日までは確実に彼女に憑いていたという。
「俺達は死ぬのが怖くなってとり憑いていた体から離れるってことはしない。死ぬのは怖いし、嫌といえば嫌だが、それ以上に自分の命と引き換えに誰かを守れることを誇りに思う妖だ。俺もねえちゃんの死の運命の肩代わりするのを選んだこと、後悔はしていない。……俺達は逃げることなんて、しない。あいつだって同じだ。死ぬのが怖くなったから逃げるなんてことは絶対にするはずがないんだ。それなのにばあさんは死んでしまった……つまり事故が起きた時、あいつはいなかった」
「では……誰かがおばあさん――タエ子さんでしたっけ? 彼女から貴方の友人を引き剥がした?」
「俺はそう思っている。ただ、あのばあさんがそれを誰かに頼んだようには思えないんだよ。ばあさんはあいつのことを何故か死神だと思っていたようだが、それをどうこうしようと考えているようには思えなかった。家族もばあさんの言うことを本気にしちゃいなかったようだったから、術師とかそういう類の連中に何か依頼したってことはないだろうし」
「つまり本人やその関係者に頼まれた者が……ということではないと。タエ子さんに紫怪火が憑いているのを見た者が勝手に祓った……? けれど紫怪火を祓う者なんてそうそういないはず。妖の知識がなく、そういう類のものを見かけたら何も考えず祓うような馬鹿の仕業か、はたまた悪意の塊のような人物か」
「俺さ、実は心当たりがあるんだ」
考え込む英彦は紫怪火の沈んだ声を聞き、顔を上げる。火の色は普段よりも暗く冷たく見えた。
「俺達がこっちに迷い込んできて、運命の相手を探している時一人の女に会ったんだ。もう家なんてどこも灯りが消えていて、多分殆どの人間が寝静まっている頃だから相当遅い時間だと思う。そんな時間だってのに灯りになるもの一つ持たず歩いている変な女だった。俺も友達もぎょっとしたぜ、まじで。一瞬こっちのお仲間かと思ったけれど人間だった。もっとも俺達のことが見えてはいたから、にいちゃんと同じく霊力はあるみたいだったが」
「夜遅い時間、灯りも持たずに外を出歩いている女性……」
「確か着物を着ていたぜ。こっちの世界じゃもう珍しい格好になっているみたいだし、美人だったから昼に歩いていたらさぞ目立ったろうな。……こっちはねえちゃん見て一瞬びびったってのに向こうはちっとも驚かないでよ、むしろ夜こうして歩いていると貴方達の様な異界の者に会えて嬉しいわとかなんとか言って……それで、そのねえちゃん俺達のことを『欲しいな』と言ったんだ。化け物みたいに綺麗だけれどおっかねえ笑み浮かべてよ、頭いかれているとしか思えなかったな、あれは。でもその後『でもまだ早いか』とかなんとか訳の分からないことを言ったかと思うと、さっさと去っちまった」
着物を着た人間の女性。それを聞いた時英彦の脳裏に一人の女性の姿が浮かび、冷や汗が頬を伝った。詳しい容姿について紫怪火から聞くと、その人物と残念ながら合致している。
「俺はあの女がばあちゃんに憑いているあいつを引っぺがしたんだと思っている。それであいつを手に入れたんだ。何で最初に会った時に手に入れようとしなかったのか分からねえけれど、でもそんな気がするんだ」
「……紫怪火を引き剥がしたら、憑かれた人間はどうなるのか確かめたかったのかもしれない」
「は?」
「あえて君達を泳がせ、誰かに憑いたところで引き剥がしとり憑かれた人がどうなるのか見た……そして引き剥がした紫怪火は自分のものにした」
英彦が予想している人物なら、そういうことを平気でやりかねなかった。彼女――桜川家長女――名を楓、という――は、古くから伝わっていることが真実であるかどうか自分の目で見て確かめる為なら手段を選ばない。その結果人や妖が死んだり不幸になったりしても構わないと本気で思っているのだ。
「そんなことしたらどうなるかなんて……分かりきっていることじゃねえか」
紫怪火はとり憑いた人間に訪れる事故や事件等による『死』の運命を肩代わりする妖。その妖をとればどうなるか、そんなことは分かりきっていることだ。だがそんな風に分かりきっていることでも自分の目で直接見て確かめなければ気が済まないのだ。紫怪火はやっぱりあの女、イカれていたんだと小声で呟いた。そして人間ってのは恐ろしいものだと火を震わせる。
「俺ももしかしたら引き剥がされるかもしれない。そうしたらねえちゃんは確実に死ぬ。事前に何かが起きることが分かっていても、それを止めることは出来ない。俺にしかねえちゃんは助けられないんだ。……ねえちゃんには随分嫌われているけれどよ、でも俺はねえちゃんを助けたい。俺はね、ねえちゃんのこと結構好きだよ。……俺は、せめて俺は自分の役目を果たしたい。ちゃんと果たして、笑顔で逝きたい。だからあの女に邪魔されるわけにはいかないんだ。でも俺には運命を肩代わりする以外の力はない」
「成程、それで私に相談してきたと。……彼女が井上さんから君を引き剥がそうとするかどうかは分からない。もしかしたら君が井上さんの死の運命を肩代わりして死ぬ様子を見る為、放っておくかもしれない。紫怪火の最期を彼女が一度も見たことが無かったとすれば、きっと自分の目で見ておきたいと思うはず。けれど、万が一のこともある……絶対に守れる、という保証は出来ないが私の使鬼に井上さんを見張らせよう」
そう言うと紫怪火はほっと安堵の息を漏らした。そして頼んだぜにいちゃん、と言ってその場を去る。
その後ろ姿を見ながら、もう少し紫怪火に優しくしてあげてほしいと紗久羅に言ってあげたい、と英彦は思う。自分のことではなくただただ彼女の命のことだけを考えている彼に、温かい言葉一つかけてあげて欲しいと。しかし紫怪火がどういう妖か知らない紗久羅が、只管騒がしい彼に優しくすることなど出来ないだろう。かといって真実を教えれば気まずくなるだろうし、彼女が自分が助かる代わりに紫怪火が死ぬという事実を「ああそうなんですか」とすんなり受け入れるような子だとは思えない。きっとどうにかしろと騒ぐだろうし、どうにかしてその運命を回避しようと躍起になって余計なことをしかねないし、どうにもならないと分かれば不機嫌になるだろう。
(まあ紫怪火は今のままでも幸せなのだろう。自分の命と引き換えにしても助けたいと思う人と出会えたことを、彼は心から喜んでいる。そういう妖だからな……しかし……桜川楓、か。まだ決まったわけではないが十中八九彼女だろう。矢張り桜町に足を運んでいるのか……)
英彦は佳奈と連絡を取り、また家に電話をし何人かに紗久羅についていてもらうよう頼んだ。勿論彼女には気づかれないように。それを終え、再び司書としての仕事に戻るが紗久羅と紫怪火、それから桜川楓らしき人物のことが気になって集中出来なかった。窓の外に広がるのは果ての無い暗闇。その闇に不安をかきたてられながらも、恐ろしいことが起きないことをただただ祈る英彦だった。
*
もう一方の紫怪火も今日、死にました。ええ勿論、自分が憑いた人間の運命を代わりに担って。ひび割れた体から紫色の炎が漏れ出て、血の様に辺りに流れて、とても綺麗でした。お兄様がくれたカメラも使ってみました……でもまだまだ実用的、とはいえないですわ。もやのようなものしか映っていなくて……残念です。それなりに映るものと、そうでないものがいるというのは不便ですわね。いずれは全て映せるようにしてくださいね。大丈夫、紫怪火はまだもう一体私が捕まえたのがいますもの。きちんとしたカメラが出来れば彼で試せばいいのです。その前に彼等の体のつくり等についてじっくり調べるのもいいですわね。ああ、でもお兄様ったら扱いが乱暴ですからうっかり殺してしまうかもしれませんね。それにお兄様の作っている『あれ』に保管する為の紫怪火も必要ですわね……ストックがもう少し欲しいところですが、なかなか見つけられるものではありませんものねえ、困りましたわ。
ああ、勿論紫怪火を引き剥がされた方はお亡くなりになりましたわ。ええ、とても不幸な事故で。予想通りの結果ですから驚きはないですが、でもこういうことは実際試してみないことには真実であるか虚偽であるか分かりませんものね。酷い女ですって? まあ、ふふふ。そうですわね酷い女ですわね私。だってこれっぽっちも罪悪感なんてないですもの。元々あのおばあ様は死ぬ運命だった。紫怪火に助けられるということ自体がイレギュラーなこと。彼女は元々の運命を正しく辿っただけのこと。そもそも病気がちでもうそこまで長くなさそうな人でしたもの、あの事故がなくったってどうせ近い内に死んでいたことでしょう。
もう一体の紫怪火が憑いていた子を、英彦にいさまの使鬼が見張っていたようです。もしかしたら私があのおばあ様から紫怪火をとったことに気づかれたかもしれませんわね。紫怪火が憑いた高校生の女の子と英彦にいさまは知り合いのようですし、その子とあのおばあ様も知り合いだったようですから。あのおばあ様が死んだことを、自分が憑いている女の子を介して知った紫怪火が私に思い当たって、英彦にいさまに相談したのかも。他にも術者が一人……佳奈さんに連絡して寄越してもらったのかしら。まあ私はあの子から紫怪火をとるつもりは毛頭ありませんでしたが。
ちなみに、紫怪火に憑かれた子を襲ったのは幼子を殺され、失った母親の魂が集まって出来た妖――ことりのおんなだったようです。この妖は本来世の母親に自分と同じ苦しみを味あわせる為、幼子を殺すものですが……魔に憑かれていたたのでしょうね。あそこで死んでいなければ、町中の人間を見境なく殺していたかも。まあ境界を飛び越えてすぐだったのか何なのか……彼女以外で被害に遭った人はいなかったようですわね。
それではお兄様、詳しい報告は後程。……私はもう少し桜町で遊びます。この町には色々な妖が封印されているようですし、それらを少しずつ解いてみるのもいいかもしれません。放っておいても妖達が向こうからわんさかやってくる上、あちこちに妖が封印されている。素晴らしい場所ですわねここは。ふふ、それでは。