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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
紫怪火
323/360

紫怪火(2)


 紗久羅の朝は、最悪としかいえないものであった。まず寝ている間はウェディングドレスを着た自分と、タキシード姿の紫怪火がチャペルで結婚式を挙げている夢を見た。自分と紫怪火が仲良く教会から出、そしてさくらや一夜、奈都貴、柚季、出雲や弥助に祝福される。そして紗久羅はブーケを投げ「あたし、幸せです」と満面の笑顔で言うのだ。「あたし幸せ……んなわけあるか!」とその様子を見ていた現実の自分はツッコミを入れるが、夢の中の紗久羅は気づかない。挙句紗久羅と紫怪火の熱いキッスを見せつけられ絶叫する。しかし夢というのは覚めて欲しいと思う時に限って覚めないものだ。結局二人のツッコミ所しかないいちゃつきっぷりを延々と見る羽目になった。

 そして部屋の中に目覚まし時計のうるさい音が鳴り響き、更にそれ以上に大きく不快な声が聞こえる。


「おいおいねえちゃん、朝だぜ朝! もう起きる時間じゃねえのか。しかしなんだいこのじりじりびりびり騒ぎやがっているのは!? 虫か、動物か。ねえちゃんが飼っているのか? いや違うなこれからくりか、からくりかあ! それにしてもうるせえなあ、なんてえ音出しやがるんだ。こんな不快でうるせえ音を聞くからくりなんかわざわざ置いて、ねえちゃんってば変な趣味していやがるのなあ。ああ、というかこれ時計ってやつか? 向こうでは殆ど見かけないものだから分からなかった。おうおう、針が動きやがらあ。ああしかしうるせえ、うるせえ、うるせえやかましい、酷い音だ、おいねえちゃんこれどうすりゃいいんだよ、まじでうるせえよ。なあねえちゃんこれすごくうるさい」


「てめえの声の方がうるせえわボケ!」

 不愉快な目覚めと共に起きあがった紗久羅は目覚まし時計のスイッチをまるで叩き潰すかのように押し、その近くでふよふよ浮いていた紫怪火を睨みつける。紫怪火の方は全く暢気なもので相変わらずおっかねえなあねえちゃんは、と笑った。それから彼はおはよう、と言ったがそれに答える気にはならなかった。


「あ、無視、無視? いやだなあねえちゃんそんな冷たいことしないでおくれよう。挨拶っていうのは基本だよ、基本。心と心を通わせる為のさあ。え、そんなことする必要ないって? 酷いなあ、そんなあ。ねえちゃんそんなぷんすか怒っていたら、体に良くないぜえ。俺を受け入れちまえばいいんだよ、そうすりゃあ楽になれるって、な、な?」


「誰が受け入れるか! ったく、忌々しいったらありゃあしない。祓わない方が良いものらしいから、憑けておいてやっているけれど……くそ、害のある奴だったらさっさと九段坂のおっさんが祓ってくれただろうに。おい、なんでお前あたしに害を及ぼさない奴なんだよ、お前が無害なせいでこっちは散々だ!」

 そんな滅茶苦茶な、と流石の紫怪火も呆れている様子だ。紗久羅は滅茶苦茶なことでも言っていなければやっていられないんだよボケナス、と言いながらリビングへと向かった。今日の朝食は豆腐とわかめの味噌汁とご飯、それから目玉焼き。いただきます、と手を合わせてから紗久羅は目玉焼きにさっと醤油をかける。それから黄身を割ると程よくとろりとしたものが出てきて醤油と混ざり合う。これをごはんにのせて食べるのが、紗久羅は好きだ。かりかりに焼けたベーコンにも醤油がかかっており、そこから香ばしい良い匂いがした。紫怪火は鼻も無いくせに嗅覚は存在しているらしく、美味そうな臭いだなあとと紗久羅が目玉焼きを食べるのを見ながら呟いていた。一緒に食べている父には矢張り紫怪火は見えないらしく、時々彼女が「うるせえ、黙れちょろちょろあたしの視界に入ってくるんじゃねえ!」などというとびくっと体を震わせ、紗久羅を見た。まあ姿が見えていたとしても紗久羅の声は相当大きかったし、井上家で唯一強気じゃない性格の人だったから同じように驚いていただろうが。

 歯を磨き、制服に着替え(紫怪火は無理矢理部屋の外へ追い出した)、髪を整え学校へ行く。紫怪火は昨日と変わらず、ぺちゃくちゃ喋りながらバス内を飛び回っていた。彼は紗久羅以上にじっとしていることが苦手であるらしい。その様子を見ながら紗久羅は深いため息をついた。


(渡遷京の連中がいなくなってようやく静かになってと思ったらこれだもんな。しかも明らかにあいつの声の方があいつらのより大きく聞こえる。しかも一度喋り出すと延々と口を開いていやがるし)

 短気な紗久羅にとって、紫怪火のやかましさは耐えられるものではなかった。まだ遠くで喋っているならいいが、自分の耳元でぎゃあぎゃあ喚かれるとたまったものではない。いや、短気でなくとも耐えられるものではなかろう。憑かれていたのが柚季だったら、怒りと疲れのあまり『うっかり』祓ってしまっていたかもしれない。教室に着くと柚季が「おはよう」とにこやかに言った後、彼女に憑いている紫怪火を穢れでも見るかのような目で見た。


「おはようさん、可愛いお嬢さん。おうおういいねえ、その目。ぞくぞくするねえ。美人はどんな顔しても良いもんだ、いひひ」


「私貴方に挨拶したわけではないのだけれど。というか化けもの灯籠に美人って褒められても嬉しくないし」


「ああ、その冷たい声もたまらないねえ。俺ってば、俺ってば、被虐趣味に走っちゃいそうだよう」


「ほう、被虐趣味か。じゃあめいっぱい痛めつけてやらあ……い、いた、いて……え!」


「ねえちゃん本当学習能力ねえのな」

 全く何も考えず手が出てしまうのは紗久羅の悪い癖だった。紫怪火が人間と同じように喋るので、彼の体が石(もしくはそれに近いもの)で作られていることをすぐ忘れてしまう。近くにいた人達は紗久羅が突然何もないところめがけ拳をやったかと思ったら「ぎゃあ!」という悲鳴と共に悶絶しだした為、井上は何をやっているんだと訝しげな目でその奇行を見ていた。

 授業中も紫怪火は大変騒がしく、先生の問いに対し一人いい加減なことを言ったり、体育の授業の時は皆と一緒にジョギングをし始め(走っているというより、飛んでいるといった方が正しいのだが)、疲れてもいないのに疲れているフリをしてから「なんてね、全然疲れてないよん」と一人分かりきったことを言って笑ったり、紗久羅の前に座っている人の頭の上で逆立ちしながらスピンし始めたり、生徒の一人が落書きをしているというどうでもいい情報を大声で暴露し、その子の傍についてどんな絵を描いているか実況を始めたり。どうやら漫画かアニメのキャラを描いているらしい(しかもノートにいっぱい)が、その子がオタクであることは周知の事実(但し本人は隠しているつもり)なので、そんな絵描いているのかと驚くこともない。それだけ落書きしていて、いつも成績は良いみたいだから羨ましいよなあとぼうっと思う位だ。昼休みの時もずっと喋っている。


「ああ、もうあいつに口があったらガムテでぐるぐる巻きにして黙らせられるのによお! おお、あの化け灯籠を作り給うた神よ、どうして貴方はあの馬鹿に口を作ってくれなかったのでしょう!」


「教えて進ぜよう、それは口を作るとそれをガムテでぐるぐる巻きにしようとする者が出てくるからじゃ……ってね。紗久羅も辛いだろうけれど、私も大概辛いわ。授業に集中出来やしない。まあ今回に限らず、私は皆には見えないものを見ちゃって大変な思いをすることが結構あるけれどね。この前だって教室に変なのが出てきて……」


「そういやこの前授業の時、いきなり悲鳴あげていたっけな。寝ぼけていたってその場取り繕って、及川さんが珍しいねって皆に言われてな。霊力も大変だな、全く。あたし達に対処出来ないことも出来る代わりに、あたし達が見ることも関わることもなく済んでいる奴まで見えちまう」


「ひゃひゃひゃ、ねえちゃん達美味そうなもの食っているなあ。美人のねえちゃんが食っているのはなんだそれ、白はんぺんか? 白はんぺんに野菜挟んで食うのが人間は好きなのな、あちこちで見かけるぜ、それ。具はそれぞれ違うけれど。白はんぺんはおでんのが好きだな、出汁たっぷり吸いこんでよ、美味いもんな。醤油とバタで焼いたのも好きだぜえ。は、サンドイチ? なんだい白はんぺんじゃあねえのかい。そうかいそうかい、確かに言われて見りゃ白はんぺんの割にはかさかさがさがさ婆の肌、だもんなあ。おうおう、ねえちゃんはおにぎりかい。おにぎりはいいねえ、俺は辛子明太子とか高菜が好きだな。めんたい高菜とか、ちりめん高菜もいいねえ。でっかくて炊きたて熱々の米をぎゅっぎゅっと握ってよ、海苔で巻いてよ、がぶり! かあ、たまんねえなあ!」


「……お前飯食えるのかよ」


「食えるぜ。この火の中に食べ物放るとな。もっとも手がねえから、誰か手のある奴に入れてもらう必要があるが。まあ人間ほど頻繁に食うことはねえな、食わなくても生きていられるし。それにしても人間ってのはよく食うねえ、本当に。そんなに食わなきゃやっていけんのかい? かあ、大変だねえ。食わなきゃ死ぬなんて、人間ってのは本当に弱い、弱いもんだねえ。でも俺はそういう弱さ、嫌いじゃねえぜ」


「あたしは妖怪のしぶとさとしつこさと無駄な頑丈さが大嫌いだね。勿論お前のこともな!」

 冷たいなあ、と紫怪火はけらけらと笑った。彼は昼休み中、柚季との会話に無理矢理入り込み邪魔なことこの上なかった。無視しても、無視しても懲りずに割り込んでくるし、あまりのしつこさに耐え切れなくなり紗久羅がうるせえ黙れと怒鳴っても、お構いなし。午後も彼は通常運転で、放課後が訪れる頃には二人して「血管が、血管が……」とぼやき、奈都貴に可哀想なものを見る目で見られた。

 気分転換に街へ出ても、結局紫怪火が憑いている以上晴れるものも晴れやしない。ハンバーガー店に入ると彼はうひょー面白いとか言いながら辺りを飛び回る。そして店員が「いらっしゃいませえ」と言う度それを真似して彼がいらっしゃいませえ、と言う。どうも言い方を面白いと感じたらしい。


「いらっしゃいませえ、ご注文はお決まりでしょうかあ、お持ち帰りですかあ、何円になりまあす、何々お待ちのお客様あ、お待たせいたしましたあ。あの笑顔の作り物感、なんか面白いねえ。その笑顔といい、喋り方といい……精巧なからくり人形みたいだ。いらっしゃいませ、いらっしゃいませえ! あ、このねえちゃん可愛いな。ねえねえいらっしゃいませえって言って言って、俺に言ってよ、ねえねえいらっしゃいませえって俺に言って」

 カウンターに立っている女性店員の前でわさわさ動きながら紫怪火はしつこくいらっしゃいませコールをしている。そんなことしても聞こえるわけねえだろう、馬鹿がと紗久羅は近くのテーブルで頬杖をつきながら呆れ気味に呟いた。しかし。


「いらっしゃいませ」


「え?」

 ドアから客が入って来た様子もないのに、その女性はそう言った。間違いなく彼女は紫怪火を見て言っているのだ。しかもその声にはかなり刺がある。流石の紫怪火もこれには困惑している様子だ。それを見て紗久羅と柚季は呟く――見える人、この街結構ごろごろしているんじゃいか、闇深すぎだろうここ……と。そんな二人は店員に「何めんどいもの憑けているのよ馬鹿」というオーラをぶつけられ、さっと視線を逸らす。紫怪火はびっくりしたなあ、まじでいらっしゃい言われるとは思わなかったと言いながらこっちへ戻ってくるとあっという間に元通りのやかましい灯籠に。


「なあなあねえちゃんやねえちゃん、俺そのバガ? バーカ? 食ってみたい」


「はあ? 何でだよ」


「何でって、どういう味か気になるからだよ。ここに入ってからさあ、ずっと店の中が良い匂いでいっぱいでさ、美味そうでさ、食ってみたいんだよ。飯っていうのはさ、人生を楽しむ為に食うものだ。俺はね、人生を超楽しみたいわけよ。分かる? 分かるよなあ、誰だって人生楽しく過ごしたいもんなあ。めっちゃ楽しく生きて、笑いながら死ぬ! うんうん。その為にはな、俺どうしてもバーカ食いたいわけよ。馬鹿みたいな名前だが、美味そうだもの。馬鹿美味いって言葉はさ、もしかしてこのバーカから出来たのかな? となればめっちゃ美味いのは火を見るより明らかだ。な、な、頂戴よ一個頂戴よ。あ、出来ればバガだけじゃなくて芋揚げ? とその地獄に沸いている血の池の如くぶくぶくしている変な飲み物も。頼むよねえちゃんよう、どうせ後六日でお別れなんだからさ、な、な? 頂戴頂戴頂戴頂戴!」


「ええいやかましい! おのれは欲しい物ねだる幼稚園児か! くそ……!」

 紗久羅は自分がそんな幼稚園児だった時代のことを思い出し、意外な場面でそんな自分に振り回されていた母や菊野の気持ちを理解することとなった。あんまりうるさいので仕方なく紗久羅は立ち上がり、持ち帰りでセットを一つ頼むことにした。対応したのは例の店員で、特に紫怪火について口にすることはなかったが、やたら刺のある声と機械的にも程がある満面の笑顔が非常に怖い。だがそこにはわずかながら紗久羅に対する同情の念を感じられた。気のせいだったかもしれないけれど。ハンバーガーセットの入った紙袋を持って戻ってくると、紫怪火がやったあと喜びの声をあげる。


「バガ、バーカ、バーガ、なんだか分かんねえけれどやったね! ありがとうよねえちゃん、いやあねさん、いやいや女神様! 俺は一生貴方についていきますぜえ!」


「一生憑かれたら困るんだよボケ! いいか、食うのは家に帰ってからだからな。下手なことをして、周りの何も知らない人間に怪しまれるのはごめんだ」

 実の所誰もいないはずの方を向いて叫んでいる彼女は、すでに何人かの客にやばいものを見る目を向けられているのだが。柚季はストロベリーシェイクを飲みながら「すでに手遅れなのよねえ……」と呆れるばかり。そもそも怪しまれるのはごめん、というところまでしっかり大きな声で言ってしまっている。

 紗久羅はこれで少しはこの馬鹿灯籠も大人しくなるか、と思ったが今度は買ってもらった喜びで変な舞を舞いながら奇怪な歌を大声で歌い、紗久羅を囲むようにぐるぐる回る回る。しまいに勢い余って紗久羅の頭に体が、ごんと。ぐわんぐわんと揺れる頭の中に溜まっていたマグマが衝撃で、外へ飛び散った。


「この糞灯篭いい加減にしろよ、バーガーセットやらねえぞこらあ!」

 立ち上がり、あらぬ方向を見て怒鳴った紗久羅に集まる視線。柚季は頭を抱え、早く帰りたいと呟くのだった。


 ぷんすか怒りながら桜町へ帰る紗久羅の後を紫怪火がついてくる、憑いてくる。彼は彼なりに紗久羅をなだめようとしていたが、怒りの原因である彼に声をかけられても苛立ちが増すばかり。しかも彼は一言も二言も多い性質なので、結果宥めるどころか煽ってしまっているのであった。

 家に帰ると紗久羅は紙袋をそのまま石灯籠の火の中へ放ろうとした。


「ちょ、それはやめて、袋からは出して! 袋の味もしちまうから! 俺よ、死ぬまでに色々なもの食べておきたいなあと思うけれどさ、だからといって紙袋は食いたかねえよ! 待て、待つんだねえちゃん、落ち着くんだ。というか何でそんな構えるんだよ、そんな構えなくてもいいよ勢いよく投げなくてもいいよ、な、な!?」


「ったく、手間のかかる野郎だ! 灯籠の分際で! くっそ、なんでこのあたしが勝手にとり憑きやがった馬鹿灯籠の為にバーガーセットを買わなければならないんだ! こんなの、貴重な小遣いを溝に捨てるようなもんじゃねえかこん畜生! あそこはな、ちょっと高いんだぞ! そうしょっちゅう食えないんだぞ! ああ、もう!」


「わあ、ねえちゃん叩きつけないで俺のバカ叩きつけないで! ほら、そこで駄目にしちまったら勿体無いだろう、な、な、俺に食わせておくれよ」


「おらよ!」


「だから包装!」

 紙袋から取り出したバーガーを、包装ごと紫怪火にぶん投げる。紫色の怪しい火の中にそれは入り、ぼうっという音をたてて燃えていった。紫怪火は最初こそ「うお、紙味……」と呻いていたが、次第に中に入っていたテリヤキバーガーの味を感じたらしく、最後には「超美味い!」と叫んだ。きっと顔があったなら、きっとぱああっと光り輝いていたことだろう。


「うめえ、うめえ、うまいなバカ、美味い! そうかこれが馬鹿美味いの語源となった」


「なってない、なってない」


「そうなのか? いや、でもうめえよ……この甘辛いたれと、肉と玉ねぎと、葉っぱと、ふんわりしていて仄かに甘い……なんだっけ、パン? うめえ……」

 そりゃ良かったな、と言いながら紗久羅は今度はポテトをぶん投げる。再びパックの紙味を味わうことになったが外は程よくかりっとしていて、中はほっくり、程よい塩味のポテトの味にご満悦。最後はコーラを飲ませてやった。……紫怪火の要望を無視し、コップごと。彼はストロー及びプラスチック製の蓋も食すことになってしまったが、何ともいえない甘さと刺激を気に入ったようで美味い美味いと言っていた。


「ああ美味かった。俺橘香京で色々飯食ったけれど、これは食ったことがなかったからな。芋揚げは食ったことがあるけれど、こういう細いやつじゃなかった。ああ橘香京、今となっては懐かしいなあ……あそこでもっと色々食っておきたかったなあ」


「……橘香京って世界中の色々な美味い飯が食えるって京だっけ」


「そうそう。やっぱりねえちゃん向こうのことに詳しいのな。俺はそことは別の京で観光案内みたいなのをやっていてさ、それで貰った金を持って時々あの京に行って色々食ったんだ。あそこの飯はなんだって美味い、金は体の中に貯めていてさ、必要に応じて出すのよ」


「お前は貯金箱か」


「はは、よく言われるなあ。でもまああまり行ったことはねえけどな、橘香京には。俺ってばまだ生まれてそんなに経っていないし。ねえちゃんよりもずっとずっと年下さ。まだ二年も生きていないよ、多分。もしかしたらそれよか生きているかもしれねえが、ぶっちゃけ何年生きているかなんてどうでもいいことだしよう。……しかし、まさかこっちに来ることになるとはなあ。俺は向こうで人生を終えるのだと当たり前のように思っていたんだがなあ」


「なんだよお前めっちゃ年下じゃん。妖怪イコール何百歳って頭だったけれど、最初から何百歳の状態で生まれる奴なんていねえもんなあ。で、お前向こうに帰りたいの?」

 もう向こうには帰れねえよ、と紫怪火は苦笑いする。


「弥助や出雲に頼めば帰してもらえるよ。ああでも馬鹿狐の場合素直に帰してくれるとは限らねえか。あたしからは後六日で離れるんだろう? その後向こうに帰れば?」


「いや、俺は一生ここで暮らしていくよ。それでいいんだ。ああそれにしても美味かったな、バーカ! なあなあねえちゃん、明日も食いたいな、食いたいな、食いたいなあ!」


「ああもううるせえなあ! それと、バーカじゃなくてバーガー、ハンバーガーだっての!」


「ハンバカ、ハンバカ! 俺はまた食したい!」


「なんだよ半馬鹿って! 知るかよ、なんであたしがお前の為に何度も買ってやらなくちゃいけないんだ!」

 俺とねえちゃんの仲じゃないの、どんな仲じゃボケと懇願しながらひっついてくる紫怪火を引き剥がそうと躍起になる。そうしながらもなんとなく、自分は朝も明後日もこの灯籠野郎にバーガーを買うことになるだろうと思っていた。そしてその嫌な予感は残念ながら的中してしまうのだった。

 紫怪火は紗久羅が嫌々宿題をやっている時もひっきりなしに話しかけ続け、夕飯を食べている時も「美味そう、食べたい、くれくれ」のコール、結果どん引きしている家族の視線を一身に集めながら紫怪火の火に食べ物を放ることになった。風呂に入っている時も、浴室に入ってくることはなかったがドアの前から延々と話しかけまくってくるし、TVも紗久羅の背後にふよふよ浮きながら見ていた。こちらの世界の知識が大してないので、意味が分からないことがあると「あれってどういう意味」「何で笑っているの」としつこく聞いてきたが、特にそういう知識がなくても分かる場面を見るとげらげら笑ったり、感心したりしていた。


「人の世界は面白いからくりがいっぱいあるなあ。箱の中で人が動いてやがらあ。しかも別にあいつら、この箱の中に入って動いているわけじゃないんだろう? 仕組み聞いても俺馬鹿だから理解出来ないけれどよう。同じものを国中の人間が見られるなんて、面白いじゃあないか。それでもって昨日これ見たあれ見たって友達と喋るんだろう? しかしわざわざ芝居小屋とかに行かなくてもこんな面白いものが見られるなんて、良いよなあ。だがそういう所に行って生で見るのもまた楽しいんだよなあ。皆でよ、げらげら笑ったり、泣いたりしながら見てよ、丁度良い所を見計らって『よっ、日本一』とかって声掛けてよ、最後は仲良く拍手だ。まあ俺は拍手出来ないがな。そういう所はこっちにもあるのかい? そうかい、あるのか、あるのか。行ったことは? へえ、ないのかい。ああいうのも面白いぜえ」


「あたし、劇とか歌舞伎とかそういう系統ってあまり興味ないからなあ。映画とかならともかく」


「映画?」


「このテレビってやつよりももっと大きい画面で見る映像だよ、簡単に言えばな。その映像をずらっと並んでいる椅子に座って、大勢の人間と館内で売っているものを飲み食いしながら見るんだ。芝居小屋とかで見るのと違って、生の劇じゃあないけれどね」

 紫怪火はその説明でえらく映画というものに興味を抱いたようだが、お前なんかと一緒に行ったら作品に集中出来ないから絶対行かない、と釘を刺しておいた。今度柚季と見に行く予定があったが、その時にはもう紫怪火はいない。紫怪火は今回は駄々をこねなかったが、ちぇっと残念そうに言った。……その代わり明日のバーカは二個な、と余計な言葉を付け加えもした。誰が買うかよ、馬鹿めとそっぽを向くと「これは買ってくれそうな予感!」と言って一人勝手に舞い上がっている。だから買わねえと言っているだろうが、と怒鳴る紗久羅を風呂上がりの一夜が呆れたように見ていた。


「……事情知らない奴が見たら、今のお前最高に頭がおかしい人間だぜ」


「分かってらあ。でもこの家の人は皆何となく事情察しているだろうからな、外にいる時とは違って抑えないで済むから楽だ」

 全然抑えられていなかったよな、と紫怪火がぽつり。ごもっともである。そんな彼の体を手でぺしっとはたいてやった。何も無い所をはたくのを見て、一夜は肩をすくめた。妖怪にとり憑かれた、という妹の話を何の疑問も持つことないまま受け入れている自分はもうすでに手遅れなのだ、と思いながら。

 紗久羅は時々紫怪火の「どういう意味? どういう意味?」「これ何、これ何?」という質問攻めに辟易しつつも、割と仲良くTVを見続けた。紫怪火は気持ち良さを覚える位よく笑うので、何だかいつもよりもその番組が面白く見え、普段なら大して笑わない場面でも声をあげて笑った。感想や番組の展開の予想を言い合いもした。

 この日は少しだけ、良い気分で眠れた。


 次の日は土曜日で、昼間は三つ葉市で柚季と遊んだ。周りが騒がしい分、紫怪火のやかましさも授業を受けている時などに比べればまだ気にならないものの、うるさいことに変わりはなかった。全く彼は喋り続けねば死んでしまう病気にでもかかっているかのようだ。喋れる時に喋らなきゃ、いつ喋るんだと訳の分からん持論がどうやら彼にはあるらしい。しかし彼が一緒でもそれなりに楽しめはしたので良かったと二人は思う。


「全く、この灯籠ったらよいしょが上手いんだから。もう、すっかり乗せられてまた服買っちゃった……ああ、お小遣いピンチ」


「へへへ、可愛い、似合うと本当に思ったから言ったまでのことよ。こっちのねえちゃんが同じ服を着ていたら間違っても言わなかっただろうぜ。こっちのねえちゃんが着たら女装か何かと勘違いしちまう」


「てめえそんなこと言うと、このバーガーやらねえぞ」


「それだけは、それだけは勘弁して下せえねえさん神様聖女様! いやほらね、ねえちゃんよう。人にはそれぞれ似合うものと似合わんものがあってだなあ、ねえちゃんはこう男の子っぽい感じの格好が似合うわけよ。袴に刀のお侍の格好とか、ねえちゃん絶対似合うと思うぜえ。逆にこっちのねえちゃんは女の子っぽい衣装は似合うが、男の子っぽいのは似合わない。こっちのねえちゃんにはお姫様の衣装を着てもらいたいねえ、金銀きらびやかなかんざし頭にじゃらじゃらつけてよ、赤い打掛をよ身に着けてもらってよお、なあ分かるだろう? 別にねえちゃんのことけなしたわけじゃあないよ、俺は、うん。だから俺のバーカは俺のバーカのままであって欲しいのよ、うん。あ、今日は紙外した状態のが欲しいな。紙味は味わいたくないからよう。しっかしそれにしてもこの京は賑やかだねえ、本当。さっき行ったショキングモル(ショッピングモール)って所もすごかったなあ、ああいう色々な店が入っている建物ってのは、向こうじゃあまり見かけないからなあ。ないわけじゃあないけれどよ。万京(よろずきょう)っていう京にはこれに似たのがあるらしいが。滅茶苦茶でかいらしいぜ……そこに行きゃ着物も飯も生活用品もなんだって揃うって話だ。元々あの京は欲しい物全てが手に入る京と言われているからな。しかし色々なものがあるのはいいが、どれもこれもつまらねえ形の建物ばかりだなあ、こっちは。なんかどういうわけか知らねえが、俺には死人に見えるぜ。いや、建物はそもそも生き物じゃねえんだから生きているも死んでいるもねえだろうがよう。巨人の死骸を店や住居にしているんじゃないかと思える」

 本当によく喋る奴だなあ、と思いながら聞き流し二人は二人のお喋りを楽しむ。時々紫怪火が同意や意見を求めてきたが適当に「ああうんそうだな」とか「さああたしにはよく分からん」と返すだけだった。そうして冷たい態度をとってもなお彼は喋り続け、話しかけ続けてくる。本当にこいつドMなんじゃないかと思える位に。他にも近くにいる人達の会話を聞き、それを二人に大声で伝えたり、ウィンドウショッピングをしたり(ウィンドウにへばりつき、服を見ている石灯籠の図のシュールっぷりといったらない)、色々な店の制服品評会をしたり、気に入った女性をナンパしたり(当然相手には見えていないが)、自由気まま。無視されても、いい加減な対応をされてもお構いなしで一人楽しんでいるようだ。


 紫怪火のせいで大変やかましかったものの楽しい時間を過ごしてから柚季と別れ、夕方は弁当屋『やました』の店番をする。紫怪火は紗久羅の傍らでぷかぷか浮きながら今日の感想を延々と喋っており、これがまたうるさい。あんまりうるさいので静かにしろと怒鳴れば、うるさいのはお前だボケ孫と菊野に怒鳴られる。


「ねえちゃんちのばあさん、おっかねえなあ。ねえちゃんの短気ですぐ怒鳴るところは、あのばあちゃん譲りなんだなあ!」


「そうだよ、ばあちゃんは短気だしすぐ怒鳴るし、超おっかない。だからばあちゃんを怒らせるなよな、怒られるのはあたしなんだから」


「肝に銘じておくぜ。もっとも俺に肝があればの話だけれどな、あっはっは」

 あっはっはじゃねえよ、と紫怪火を両手でがちっと掴む。ほっぺをつねってやろうと思わずそうしたが、彼にほっぺはない、つまめるものなど一つもない。


「いやだねえちゃん、なんだよそんないきなり迫っちゃって、俺ってばまだ心の準備が」


「迫ってねえよ、責めてんだよ!」


「攻めているなんて、そんなそんな、もうねえちゃんってばあ」


「お前絶対あたしが思い浮かべているのとは違う漢字使っているだろう!? 兎に角これ以上あたしを怒鳴らない、あたしが怒鳴られない為にはお前には黙ってもらうしかないんだよ! 分かったら少しは」


「こんばんは、紗久羅ちゃん」


「何がこんばんはだよ、何今このタイミングで挨拶……ってあれ? あ、違うやべえお客さんだ! え、ああ、ああ! タエ子ばあ、こんばんは! い、いらっしゃいませえ!」

 使い古された手押し車と共にやって来たのは一人の老婆。背中が曲がって幼子の様に小さくなった、福を呼び込みそうな笑顔が印象的な彼女は菊野と仲が良く、紗久羅と一夜は幼い頃彼女からよくお菓子を貰っていて、おかしのばあちゃんと呼んでいた。彼女の家に時々遊びに行き、折り紙やあやとり、お手玉を教わりもした。近頃は病気がちで体の調子が良い時に顔を見せる程度だが、昔は毎日のようにこの弁当屋を訪れていたものだ。タエ子は紗久羅ちゃんは相変わらず元気が良いわねえ、とにこにこと笑っている。紗久羅の奇行及び不可解な言動に対して何も言ってこなかったのはありがたいことだった。おだんごを結った髪はもう白髪しかない。自分がちっちゃい時はもう少し大きくて、髪も黒かったなあとぼんやりとそんなことを思う。


「今日はブリ大根を貰っていこうかしらねえ」

 はいよ、と紗久羅はブリ大根の入ったパックを取り出し会計をする。紫怪火は紗久羅から一旦離れ、どこかへ行ってしまったようだ。


「ありがとうねえ、紗久羅ちゃん。……ふふ、こうしてここで買ったものを食べられるのも、後少しになりそうねえ」


「は? 何でだよ」


「私、もうすぐ死んじゃうから。今ね、私には死神さんがついているの」

 にこにこ笑顔のままタエ子はとんでもないことを言った。ぎょっと紗久羅は思わず「はあ!?」と叫んでしまった。彼女はそんな紗久羅の態度を不快に思うこともなく、家族と同じ顔していると言ってころころと笑う。

 

「本人は死神なんかじゃないって言うけれどね、きっとそうよ。私にしか見えない、死神さん。だって彼からは死の匂いがするのですもの。私と同じ匂いがするのよ、彼。もしかしたら彼女、かもねえ。声が男の人のものだから彼と言ったけれど。……だからね、私はきっと後少しで死んでしまうのよ」

 そう言って笑う彼女は全てを受け入れているかのようだった。妖というものがこの世に実在するのだから、死神がいたっておかしくはない。だが彼女の話を信じるということは、彼女が近い内に死ぬという事実を受け入れることになってしまう。昔ほどの付き合いは無いにしても、彼女のことを好ましいと思う気持ち事態に変わりはない紗久羅にとっては到底受け入れられぬ話であった。


「変なこと言うなよ、タエ子ばあ。そんなの幻覚だよ幻覚。病気で弱気になった心が見せているんだ。そうだよ、そうに違いない。あたしには分からない位辛い思いしているんだろうけれどさ、でもそんな弱気になっちゃ駄目だよ。ほら病は気からって言うじゃん? そんな近々死ぬんだなんて思っていたら治るものも治らないし、病気が悪化して死期が近くなっちまうよ。だからそんな後少しで死んじゃうなんて、言うなよ。な?」


「ふふ、ありがとうね紗久羅ちゃん。……そうねえ、死神に負けるわけにはいかないわねえ。頑張らないとねえ」


「そうだよ、頑張らなくちゃ。大丈夫大丈夫、まだまだ生きられるって! 根拠ないけれど!」

 あらあら、と精一杯自分を励まそうとしてくれている紗久羅を見てタエ子は笑った。そして改めてありがとう、というと彼女は手を振ってゆっくりと手押し車を押しながら家へと帰っていく。その小さな後ろ姿を見送っていると、今度は梓がやって来た。彼女も最近ちょくちょく店を訪れては弁当や惣菜を買っていく。


「ここのお弁当もお惣菜もとっても美味しいからね。私ってば料理苦手だからねえ……兄貴の方は無駄に上手だったけれど。うちの兄貴ってばえらく凝り性でねえ」


「あたしの兄貴とは大違いだな。まあ、簡単なの位なら出来るけれど。一応ばあちゃんの孫だからね。ほい、お釣り」


「どもども。……さっきのおばあちゃんと仲が良いの? 近所に住んでいて、時々私も挨拶とかしているんだけれど」


「うん。うちのばあちゃんと仲が良くてさ、あたしも昔はよく遊んでもらったりお菓子貰ったりしていたんだ。最近病気がちで、こっちに来る回数は大分減っちゃっているから会うのちょっと久しぶり」


「そうかい、親しい人としてはちょっと心配になるよね。それにしても紗久羅ちゃん……面白いもの憑けているねえ」

 と梓はいつの間にか紗久羅の傍らに戻って来ていた紫怪火に目を向ける。梓にも彼の姿が見えるらしい。


「まあそいつは悪い奴じゃあないからね。むしろ良い奴だから、大切にしてあげなよ、うんうん」

 こいつのことを大切にしようとしたら胃に穴が空いちまうと言ったら、彼女は色々苦労しているようだねその顔を見る限りと言って笑った。そしてそれじゃあまた今度、と手を振って去って行った。


「ここらは本当に見える奴が多いんだなあ」


「梓ねえちゃんは元々ここらに住んでいた人じゃないけれどな。最近引っ越してきたんだよ。……それにしてもタエ子ばあ、心配だなあ。死神が見えるとかなんとか言っちゃって……はあ。死神なんているわけないって言いはしたけれど、ぶっちゃけいてもおかしくないことを知っているからなあ……知らない方が良かったことを知っちまうとこういう時難儀だよなあ」


「……大丈夫だよ、あのばあさん。憑いているのは死神なんかじゃない」


「へ?」


「いや、なんでもねえ」

 タエ子ばあのことを考えていたら、彼の言葉が耳に入ってこなかった。何と言ったのだと聞き返しても、いや何でもないと彼は体を振った。どうせ大したことは言っていないだろうと紗久羅は思い、まあどうでもいいけれどと店番を続ける。

 ここで彼女が聞き逃していて良かったのかもしれない。後に紫怪火はそう思うことになる。もし聞いていて、後々彼女が紫怪火の言葉の真意に気づいたら、おぞましい事実を知ってしまうことになるから。


 紗久羅はタエ子の発言を忘れようと紫怪火とやかましいコントを繰り返し、夕飯中もぎゃあぎゃあ騒いで菊野にどつかれ、TVを見てげらげら笑い、風呂を覗こうとした彼に洗面器を思いっきりぶつけてやった。

 そして次の日は日曜日、よく晴れた日だった。紗久羅は紫怪火とさくらと共に向こう側の世界へ行った。


「いやあまたこっちに来られるとは思わなかったなあ! しかも橘香京へ行くんだろう、橘香京! あひゃひゃ、楽しみだねえ! ねえちゃんってば、俺の為に……ありがてえ、ありがてえ」


「別にお前の為じゃねえし。ただお前の話聞いていたら、あそこで美味い飯食いたくなっただけだし。だから馬鹿狐に連れて行ってもらおうと思ったんだ、それだけだ、それだけだからな! あたしは別にお前の為なんて思っていないんだからな!」


「素直じゃねえなあ、ねえちゃんってば。ああ、俺ってばめっちゃねえちゃんに嫌われていると思っていたけれど、そうでもなかったんだなあ。あの冷たい目も、酷い言葉も、皆愛情の裏返しだったんだなあ! ありがとうねえちゃん、俺もねえちゃんのこと超愛しているからねえ!」


「うるせえあたしはてめえのことなんて愛していないっての! そしてひっつくな、きもい、滅びろ、石割れろ!」


「紗久羅ちゃん、もうちょっと優しくしてあげて……ところで紫怪火さんは今何を言っているの、ねえねえ、どんな姿をしているの? とっても気になるの、ねえ今何て言っているの、大体予想つくけれど教えてねえねえ!」


「さくら姉もうるさい!」


「……紗久羅もうるさい」

 満月館の前でぎゃあぎゃあやっていると、騒ぎに気付いたらしい鈴が玄関の戸の前に立っており、前髪に覆われたくりっとした瞳でこちらを睨んでいた。そして紫怪火に気づくと「ふうん。……別に憑かなくても良かったのに」などと言ってから、入るなら早く入ってと戸を指差す。さくらは鈴ちゃんってばそんな恐ろしいことを、と呟きながらも満月館(現在日本家屋になっているので若干違和感のある呼び方だが)へ入っていき、紗久羅と紫怪火も中へ入っていく。

 出雲は橘香京へ行きたいと言うと、すんなり了承してくれた。気分が乗っていないとてこでも動かない彼だが、今日は出歩く気分だったらしい。


「本当は紗久羅と二人っきりが良かったんだけれどねえ……仕方ない。おまけのさくらも、消すわけにはいかない紫怪火も一緒に連れて行ってやるとしよう。鈴はどうする? 行くかい?」


「紗久羅達と一緒じゃ何食べても美味しくないから……いい」

 と相変わらずの口の悪さ。出雲と二人きり、静かに一日を過ごすという予定を潰された分声に込めている刺が三割増しになっているような気もした。お土産必ず買ってくるからねえ、と鈴の頭を撫でてやると出雲は例の障子が描かれた紙を壁に貼り、橘香京と書く。紙は本物の障子に変わり、紗久羅達を橘香京へと誘った。

 数日ぶりにこちらの世界に帰ってきた紫怪火はテンションが上がりに上がり、いつも以上にうるさくなっていた。京内も大変騒がしかったが、至近距離で騒ぐ彼はなおうるさい。その声に紗久羅と出雲は顔をしかめては、こいつこの世から消してやろうかと殺意を抱く(またさくらが「紫怪火ってどんな声をしているの」とかなんとか質問攻めするのでますますやかましい)。と、大変やかましかったがこちらへ戻ってこられたこと、橘香京でまた美味しいものを沢山食べられることを心から喜んでいる様子だったので仕方ないなあ、という気持ちにもなる。抱いた殺意も、飯を食っている間に忘れていった。

 

「あ、そういえばさ……出雲。死神って実在するの?」

 出雲オススメの、あんこのたっぷりついた草団子を食べていた紗久羅は昨日のことを思い出し、思い切って聞いてみた。出雲は何でそんなことをいきなり、と首を傾げる。紗久羅はタエ子のこと、彼女の発言について彼に話してやった。出雲は串に刺さっている最後の草団子を食べるとシラウオの如く細く白い指をやった唇を開く。


「死神っていうのは、いるよ。ただ我々が死神と呼ぶのは、君達のいうものと違って死を間近にした人の前に現れたり、その人の魂を鎌で刈ったりするものじゃあないけれどね。そういうのはまた別の妖のやることだ。それを人間は死神と呼ぶようだけれど。私達が死神、と呼ぶのは死の国に住まう娘達のことだ。彼女達は死した魂を導いたり、記録帳に死した者についての情報を記録したり、死の国を様々な形で脅かそうとする者達をとりしまったりする。……そして彼女達はまず地上にはやって来ない。だからそのばあさんに何か憑いているとすれば、君達にとっては死神でも私達にとっては死神ではないものだねえ」


「……昨日ばあさんを見たけれど、俺には何も見えなかったぜ。人間の魂とかを刈る妖とかだったら、俺の目に見えるはずだ。俺ってば結構目が良いからな。普通なら死期が近付いている人にしか見えないようなのも、見える。だからきっとねえちゃんが言った通り、弱気になっているばあさんが見た幻だよ。ばあさんには何も憑いていない、俺が保証する」

 いつになく真面目な様子だったし、出雲も「紫怪火っていうのは本当に目が良い。彼が何も見えていないと言うなら、そうなのだろう」と太鼓判を押したから、紗久羅はとりあえず紫怪火の言うことを信じることにした。気を取り直して目についたものを食べている時紫怪火と出雲が何か話していたのだが、食べることに夢中だった彼女は気づかず。

 紗久羅達は日が完全に沈むまでひたすら食べた。紫怪火はちょっと高い店に入って、紗久羅達に美味しいご飯を奢ってくれた。支払いの時本当に貯金箱のように体を振って金を出したので、おかしくなって紗久羅は笑ってしまった。彼は気前よく金を出し、奢って奢って奢りまくる。出雲が「私が良いところを見せようと思ったのに、悔しい」と本当に悔しそうに言う位派手な金遣いだった(そんな出雲もちゃっかり奢ってもらっていた)。


「お前そんなに金使っていいのかよ」


「うん。……もう使うこともないからなあ。どうせ使うならねえちゃんに格好良いところ見せたいじゃん?」


「あたしから離れた後、こっちに帰れば良いのに。本当に向こうで暮らすつもり?」

 まあなあ、と紫怪火。余程向こうのことが気に入った様子。


「ふうん、まあお前があたしから離れた後どこでどう暮らそうが知ったこっちゃないけれどな」

 どうしても帰りたくなったらあたしの所に来い、そしたら連れていってやらんこともないと言おうと思ったが、離れれば自分も紫怪火のことが見えなくなるだろうし、そこまでしてやる義理もなかったので黙っておいた。


 出雲やさくらと別れ、紗久羅は重い腹を抱えながら家へと帰った。紫怪火は随分とご満悦の様子で、これで思い残すことはないとか言っている。それじゃあ今すぐお前の息の根を止めてやろうと言ってやったら、冗談に怖い冗談で返すのやめてくれようと言われた。


「あ、そういや今日まだバーカ食ってない!」


「散々向こうで飯食っただろうが! 今日はなし!」


「じゃあ明日は、明日は!?」


「気が向いたら買ってやるよ」

 自分達のうん倍は食べておいてなおバーガー食いたい、などという紫怪火にただただ呆れるしかない。しかし今日彼に色々奢ってもらったので、仕方ないから明日は買ってやるかと心の中で思う。正直にそう言うのは癪だから、気が向いたらなんて言ったけれど。


(しかし今日は良く食ったなあ。それに紫怪火はうるさかったし、出雲の野郎は相変わらずだったけれど……まあ、楽しかったなあ)

 だがその幸福な気持ちを抱けていたのも、家へ帰るまでのことだった。紗久羅がただいま、と言って戸を開けると、やたら元気の無い父の「おかえり」という声が返ってきた。不思議に思ってリビングに行ってみると、そこには暗い顔をした父と一夜、それから今の時間ならまだ一階にいるはずの菊野の姿があった。リビングは今すぐ窓を開けたいと思う位どんよりとした空気が漂っており、幸福な気持ちは一瞬にして霧散した。


「何、何どうしたんだよ皆そんな顔をして」

 一番暗い顔をしていたのは菊野だった。まるで死人のような顔――彼女がそんな顔をしているのは珍しいことだ。だが最初に口を開いたのは、そんな一番酷い顔をしている彼女だった。


「……ついさっきね、タエ子さんが亡くなった」


「……は? え、は!?」

 重い口から紡がれた言葉の意味が紗久羅は一瞬分からなかった。『死』という言葉は耳から頭に入って、それから心臓へと急速に下っていく。頭は真っ白になって、心臓が暴れ狂う。どくんどくん、という嫌な音、その音と共に激痛を訴える頭。そんな彼女に追い打ちをかけるように、言い聞かせるようにもう一度菊野は口を開いた。


「タエ子さん……亡くなったんだよ。今日、車にはねられて」 

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