第六十夜:紫怪火(1)
『紫怪火』
漫画やドラマに、こんな展開がある。小鳥歌い光射す朝、目を覚ましふと隣を見やるとベッドに見知らぬ(見知っている者の場合有り)異性が眠っている、というものだ。そもそも寝ている場所が自分の部屋でない、なんてこともある。お互い全裸或いはそれに近い状態になっていることもあり、まさか自分は酔った勢いで関係を持ってしまったのか!?――なんて。大抵酒のせいで肝心の昨夜の記憶がなく、何が起きたのか本気で分からない。で、ここからひと騒動あったり恋が始まったり。
しかし。
「……な」
漫画でも小説でも、こんな展開はなかなかお目にかからないだろう。現実なら尚更だ。
ちゅんちゅんという可愛らしい小鳥の鳴き声、朝日。布団を被っているにも関わらずいやにひんやりした体、何か冷たいものがぴとっとくっついているような違和感、不快感。むぐむぐ言いながら紗久羅が目を開ければ、目の前には――石灯籠。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。目を覚ましたらベッドに石灯籠が寝ていたという事態を瞬時に呑みこみ受け入れることなど、幾ら異界の住人や彼等の起こす騒動に関わりまくっている紗久羅にも出来ぬこと。
挙句その石灯籠がいかにもお調子屋っぽい男の声色で「あ、おはようねえちゃん」と口を聞いたものだからたまったものではない。瞬きを忘れた目と、林檎がすっぽり入りそうな位まで開けた口。そんな間抜け面を見て石灯籠はけらけら笑う、口も無いのにけらけら笑う。
その数秒後、井上家に紗久羅の絶叫が響き渡った。それを聞いた父親がどうかしたのか、とドアを叩いたが今の紗久羅はそれに返事をする程の余裕が無かった。ベッドから跳ね起きた紗久羅の視線の先には彼女の絶叫に面喰いベッドから飛び出した石灯籠の姿。彼(?)はぷかぷかと宙に浮き、ベッドの上に座って戦慄いている紗久羅を見下ろしていた。見下ろしている、といっても目はない。宙に浮かんでいること、人語を喋ること、そしてその身に灯す火の色が不気味な紫色であることを除けばごく普通の六角石灯籠である。ただサイズは小さめで紗久羅の腰程までしかなかった。
「いきなりそんな大きな声を出さないでくれよ、驚いたじゃあないか」
「驚いたのはこっちだボケ! な、なんだよお前は!?」
「俺? 俺は訳あって今日からしばらくの間ねえちゃんにとり憑く妖さ」
「はあ!? とり憑く!? 冗談じゃねえ、なんでこのあたしがてめえにとり憑かれなくちゃいけないんだ! そんなのお断りだっての!」
「でも、もう決めちゃったことだし。それにすでに憑いちゃっているんだよなあ。夜にねえちゃんを見つけてな、ちょちょいっと。まあ安心してくれよ、別にねえちゃんにも周りの人間にも危害を加えはしないからさあ」
危害を加える加えない関係あるかい、何が何だかさっぱりだけれどさっさと失せやがれと、きっと睨みびっと指差し怒鳴っても、石灯籠は聞く耳持たず。
「ねえちゃんがどれだけ怒鳴っても無駄無駄、俺が決めたといったら決めたんだ。なに、別に永遠にねえちゃんにとり憑いているわけじゃない。七日経ったらしっかりきっかり離れるさ。ねえちゃんが行くなと泣こうが叫ぼうが、ね。それにねえちゃんはきっと俺に感謝することになると思うぜ」
黙れ何を訳の分からんことを言っている、と唐突すぎる展開と俺に感謝することになるという言葉に紗久羅は吠え、いかにも硬そうな石灯籠をぶん殴ってやろうと拳を振るがひょいひょい避けられる。凶暴なお嬢ちゃんだと石灯籠は笑い、それを聞いてますます腹を立て、おのれその息の根止めてやるととうとう憤怒する紗久羅、殺虫剤を噴射。部屋中がスプレーの変な匂いで充満しても、当然のことながら石灯籠には少しもダメージがない。
「変な匂いのお香だなあ。人間さんは随分と妙な匂いを好みなさる」
「お香じゃねえし、殺虫剤だし!」
「おいおいねえちゃん、俺は虫じゃねえよ虫じゃ。妖だよ、妖。石灯籠の妖様だ、見て分からんのかい? それともこっちにゃ石灯籠そっくりな虫がいるのか」
「いねえよ! くそ、兎に角失せろ失せろ失せろ!」
「うるさい、下まで聞こえているよこの馬鹿孫が!」
石灯籠へ向けた言葉に返ってきたのは、一階から上がって来たらしい菊野のドアを思いっきり蹴る音と罵声。七十過ぎの婆さんだというのに、全く元気である。石灯籠は「おおおっかねえ、おっかねえ。女がおっかねえのはこっちも向こうも一緒だな」と言って暢気に笑うのだった。
「……で、今お前には変な石灯籠がとり憑いていると」
そうなんだよ、と深いため息をつき項垂れる紗久羅は今高校へ向かうバスの中にいた。その隣に座っているのは奈都貴で、また面倒なことに巻き込まれたものだなとこちらもため息。彼の目にバスの中をふよふよ飛び回り客の品定めをしたり、初めて見たものに興味を示し紗久羅にあれはなんだいこれはなんだいと質問しまくったりしている石灯籠の姿は映っていないようで、また声も聞こえていないらしい。それでも彼が紗久羅の話を信じているのは、この世の中石灯籠に憑かれるという珍事が起きてもおかしくないことを知っているからだ。紗久羅の喋り方や表情に鬼気迫るものを感じているせいもあるだろう。紗久羅は周りに聞こえないよう小さな声で話を続けた。
「もうずっと喋り通し喋っていて、うるさくて仕方ないし、あっちこっち動き回ってすげえ目障りだし、着替えるから部屋から出ろと言っても石灯籠に裸見られても問題ないだろうとかぬかしやがるし……まあ無理矢理追い出したけれどな。全くもう訳分かんねえよなんなんだよ、何であたしがあんなのに憑かれなきゃいけないんだ。不幸中の幸いはこいつは基本憑いているあたしにしか見えないってこと位だ。ばあちゃんや母さんにも見えていないみたいだし、兄貴にも見えていない。皆の目に映るような奴だったら、今頃大騒ぎだ全く……ただ本人……本石? まあ本人でいいや……石灯籠野郎曰く、霊感の強い奴とか妖怪連中には見えるんだとさ」
「じゃあ及川とか、九段坂さんには」
「見える可能性がある。柚季が見たら絶句するだろうなあ……」
だろうな、と奈都貴は頷いた。そして学校に居る時位は平和な時間を過ごさせてよ、と半泣き状態になるに違いないと思ったらなんか今から胸が痛むと紗久羅。そんな二人のところに石灯籠が戻ってきた。
「遠くにすげえ高い建物がごろごろしていやがる。山ん中どっすどっす我が物顔で歩いていやがる山男が小人に思える位だ。小人どころかノミになるな、ノミ。あの建物共が動きだしたら山男なんてぷちんだ、ざまあないねえ。山に生えている木よりも背の高いあいつでさえそうなら、俺なんてもう、もうね。それにしてもあれだけでっけえ建物があんなに建っているなんて、ここらに住んでいる人間は馬鹿が多いのか? ほらよく言うだろう、馬鹿と煙は高い所が好きってな。ねえちゃんの住んでいる所はああいうのが少ないから、きっと馬鹿じゃない奴等ばかりが住んでいるんだなきっと。しかしでかいでかいと言っても、摩天宮様にゃあ勝てねえな。何せ向こうは天を擦るかと思える位のものだからな、一回見たことがあるがありゃあすごかった。芸術面においても、向こうの方が圧勝だ。馬鹿と煙の好きなものが高い所なら、あそこのてっぺんに住んでいるって姫さんは究極の馬鹿なんだろうなあきっと。どれだけ別嬪でも馬鹿な女はごめんだな、もしブスだったら目もあてられねえ」
うるせえ、ちったあ静かにしろと小声でたしなめても石灯籠はくっちゃべり続ける。
「牛もいねえ、馬もいねえのにひとりでに動くこの車もすげえなあ。しかも速いときている。こいつはなんだ、実は生き物か。到底生き物には見えねえが、生き物なら勝手に動くもんな。となりゃ俺達はこのバスとかいう生き物の体内にいるわけか。通りで中があったけえわけか、生き物の肉ってえのはとってもあったかいからな。ねえちゃん達が座っている青いのは臓物かい、よくそんなものに座っていられるねえ。そういや向こうにも同じく生き物の車があるなあ、気持ち悪い見た目の化け物でよ、そいつの中に入って揺られていくんだ。入るというか、呑みこまれるんだな。こいつみたいにぬめり気はねえが、肉の温もりが気色悪くて俺は一回しか乗らなかったが」
「……それって、呑み車?」
「なんだい、姉ちゃん知っているのか! そういや姉ちゃん向こうの匂いがぷんぷんするもんなあ、ここまで匂うとなると向こうにも行ったことがあるなさては。隣に座っているにいちゃんからも匂うぜ匂う。そうかそうか、だから俺の姿を見ても思ったほどは驚かなかったんだな! 俺みたいな化け物も見慣れているんだろうなあ。あれ、じゃあ見慣れているくせにあれだけ驚いていたのか」
「見慣れていようがいまいが、自分のベッドに石灯籠が寝ているのを見たら誰だって驚くわボケ。兎に角無い口にチャックして少しは静かにしやがれ。静かに出来ないってなら、あたしから離れてどこか行ってしまえ、むしろそっちの方が良い。あたしはあんたに憑かれることを許可した覚えはないんだからな!」
「何かに憑かれた奴は皆そう言うさ、望んでなんていない許可してなんかいないってね。ひひ、でもねえちゃんが望むまいが拒否しようが関係ないんだねえ、俺には。とり憑く奴は、とり憑かれる奴の事情なんてお構いなしさ、普通はそうだね、うん。まあ安心しなって、俺は狐や幽霊とは違って悪さはしねえよ。何度も何度も朝から言っているじゃねえか。ねえちゃんは俺に憑かれたって、狂いもしねえし命も心も削られやしないよ」
「あたしはお前のせいですでに気が狂いそうだし、心もガリガリ削られているっての! 変な石灯籠にとり憑かれて、自分にしか聞こえない声で喋り通し喋られて、自分の視界をうろちょろされてまともでいられる奴がいるもんかい! 兎に角七日だろうがなんだろうが、とり憑かれるなんてまっぴらごめんだ。そんなに誰かにとり憑きたいならなっちゃんにでも憑けばいい」
お前は最低か、と隣に居た奈都貴が紗久羅を睨む。俺だってごめんだ変なのにとり憑かれるなんて、とお断り。元々石灯籠に奈都貴に乗りかえる気がないから断ろうが断るまいが関係ないのだけれど。
「ねえちゃん、諦めな。俺はねえあんた以外にとり憑くことなんかしないよ。俺がとり憑くのはあんただけ、もうそう決めたったら決めたんだ。嫌だ嫌だ言っても仕方ないんだ、なあねえちゃん人間諦めが肝心よ。仲良くしようぜ七日、ほうれ友好の印だすりすりすり……って痛え! といっても痛いのは俺じゃなくてねえちゃんの方だが。ねえちゃんよう、そりゃ石灯籠殴ったら痛いだろうよ。まさか考えなしに殴って来るとは思いもよらなかった。ねえちゃん、とり憑いているねえちゃんだけは俺を触ることが出来るんだ。だからねえちゃんだけは俺を殴れる、殴れるけれど痛いだろう。俺の体は石製だからなあ」
お前は馬鹿か、全く頭で考えるより早く手が出るんだからと呆れる奈都貴に引っつき紗久羅は「痛いよ辛いよ慰めてよなっちゃん」と気色悪い甘え声を出し、引っつくな馬鹿と押しやられる。なんだい二人はこれかい、と石灯籠。もし手があったなら小指をたてているに違いなかった。仲良く否定した後、紗久羅は石灯籠を睨みつけた。
「お前、そうやって軽口聞いていられるのも今の内だからな。絶対お前なんて祓ってもらうからな!」
おお怖い怖い、と石灯籠は言うがあまり怖がっているようには思えない。何か自分は絶対に祓われないという自信があるようだった。学校前に着いたバスから降りると当然のように石灯籠もついてくる。石灯籠は学校の様子に大変興味があるようで、校舎を見るなり大騒ぎ。
「そうかこれが学び舎なんだな、へへえ随分でっけえなあ。嬢ちゃんも坊ちゃんも皆同じ着物着て歩いていやがる。そういやねえちゃんもにいちゃんも同じだなあ、学び舎ってのは皆同じ着物着て行くものなのかい、へえ。何か誰も彼も同じに見えらあ。複製人間の行進でも見ているようで薄気味悪いなあ、ええ。外を走り回っているのはまた違う格好しているな、朝からあんなに動き回って精が出ますこと。俺は朝からあんなに動きたくはないわなあ、朝はごろごろしているに限る」
紗久羅が無視しても、彼は一人で喋っていた。
「おお、おお、中は格別騒がしいねえ。まるでこの建物の中に丸ごと一個の京が入っているかのようだ、ああうるせえうるせえ、酒も廓も芝居小屋も面白いものは何も無いのによくもまあこれ程騒げるものだ。でも俺は静かな所より、こういう騒がしい所の方が好きだねえ。騒がしいってのは楽しいってことだ」
「皆よりお前の方がずっとうるせえ、いい加減黙りやがれっての!」
石灯籠は口笛ぴゅうぴゅう、黙るつもりは毛頭なし。生徒達があらぬ方向を向きながら怒鳴っている紗久羅を訝しげに見ているが、本人は石灯籠に気をとられていて気がつかない。教室に入ると柚季が紗久羅に気づきおはようと言いかけるが、眩い笑顔は一瞬にしてぎょっとしたような顔になり、開けたままの口と華奢な体はふるふる震えている。
「……こりゃ間違いなく見えているな」
「やっぱり、見えちゃうよなあ柚季には……」
あちゃあ、と肩をがっくりと落とし手で顔を覆う。石灯籠は柚季のことを一目で気に入ったようであの子超可愛い、ねえちゃんよりも好みとか、やっぱり女の子っていうのはああいうもののことを言うんだよなあとか、勝手なことを言っている。
「なっちゃんはともかく、柚季に憑くのだけは許さねえからな!」
「俺はいいのかよ、俺は」
「大丈夫大丈夫、心配しなくても俺が憑くのはねえちゃんだけだから。好み好みじゃないは関係なくね。あ、俺しがない石灯籠ですよろしくねこっちのねえちゃんよりずっと可愛いおねえちゃん。だから痛いってば、そんなに俺のこと強く殴りまくっていたら手駄目になっちまうよう」
柚季は学校に来てまでこんな珍生物とあいまみえたくはなかったと言わんばかりの顔をしている。無理もない、彼女は昨日も妖に散々振り回されへとへとになっていたのだ。いかに大変だったか、という愚痴を紗久羅は延々と聞かされていた。柚季が近くまでやって来た紗久羅に小声で「一体何があったの?」と聞かれる。何があったか、説明出来るほど紗久羅も正直状況を把握出来ていないからただ一言「朝起きたら憑かれていた」と言うしかなかった。
石灯籠は授業中も大変うるさかった。
「ひゃひゃひゃ、何を言っているのかさっぱり分からない! なあねえちゃん、分かるの? こんな難しいことが分かるの? やべえなねえちゃんまじ頭良いなあ。なああれ何て読むの、あれ何て読むの? 俺は馬鹿だからちっとも見当がつきやしねえ。数字は読めるよ、数字は。俺だって一も百も読めねえ程馬鹿じゃない。馬鹿じゃねえが、後の変な字はちんぷんかんぷんだい、なあねえちゃん教えてくれよあれは何て読むんだい?」
「うるさい黙れ」
シャープペンを握る手に力が入る。別に授業など好きではないし、真面目に聞いてなどいないがそれでもすぐ近くで大声で騒がれ邪魔されたら気分が悪い。教室内が比較的静かな分石灯籠の声は余計大きく感じられ、聞こえないフリをすることは困難だった。同じく彼の声が聞こえている柚季の体がぶるぶる震えている。紗久羅と違い真面目に授業を受けている彼女はたまったものではないだろう。
「しっかしねえちゃん、よくそんなじっと座っていられるなあ。喋りもしないで、難しい言葉を記録したり、訳の分からねえ呪文みたいな言葉を延々と聞いたりよう、それをずっと続けるなんて俺には出来ない芸当だね。やっぱり生き物は動き回り喋りまくってなんぼだよなあ。黙ってじっとしているなんて、石がやることよ。おおっと俺は石灯籠だったなあ、じゃあ俺は動かず静かにしていなくちゃいかんのかねえ。いやいやそれは違うな、俺は石である前に生き物だ。生き物としての生き方をするべきなんだ、なんだいねえちゃん舌打ちなんかしちまってよう。しかし本当動かねえなあ、ぺっちゃくちゃ喋っているおガキさん達もいるにゃあいるが、まあ皆よく大人しくしていられるものだ。もしかしてここにいるの皆人間だと思っていたけれど、実はお地蔵さんだったりするのか? お地蔵が人間に化けていて、楽しくないことをやっている時には地蔵に戻る。で、面白い時間だけ人間に化けて大騒ぎだ。楽しくないことは、人間だろうが地蔵だろうがやりたくないだろうからな。冗談だよ、俺だって地蔵と人間の区別位つくぜ。ただあんまり動かないから、地蔵みたいだなって言っただけさ。ところでねえちゃん、今坊さんみたいな頭のおっさん……先生? が喋っている内容の意味がまるで分からないんだが、あれどういう意味? どういう意味? ああでも俺ちゃんと教えてもらっても理解出来ないだろうなあ」
ぽきっと、芯が折れる音。
「うるせえ! てめえがくっちゃべっているせいで何も聞こえねえわボケ!」
もうここが教室であることも忘れ、紗久羅の周りをぐるぐるしていた石灯籠を怒鳴りつける。頭に上っていた血が若干引いていくと、紗久羅はここが教室であり今が授業中であることを思い出した。先生と生徒達の視線が紗久羅に集中する。奈都貴と柚季は額をおさえ「やったよ……」という顔。
「え、いや、あ、あはは……なんか白昼夢見ていたみたいっす。すみませんねえ、あはは、はは……」
「なんだい俺の話全然聞いてねえなと思っていたら白昼夢見ていたのか、それじゃあしょうがねえなあ。ところでどんな夢見たんだい、ねえちゃん」
「うるせえ! この場取り繕う為の嘘に決まっているだろうが!」
「はい正直者の井上、この問題解いてみて」
ぎゃあしまった、と紗久羅は口を抑えてももう遅い。教室中が爆笑の渦に包まれ、奈都貴は紗久羅の方を見て「ご愁傷様。まあせいぜい頑張れ」と声に出さずに言った。皆紗久羅の奇行の意味を知らないし、知るつもりもなく、ただもう面白ければなんでもいいといった様子。何でいきなり叫びだしたんだ、ていうか誰に向かって言っていたんだ、という疑問を変に抱かれ訝しげな目で見られるよりはましだけれど。
仕方なく黒板の前まで歩く紗久羅の背に石灯籠の「ねえちゃん頑張れ、頑張れ、俺超応援しているから!」という声援。誰のせいでこんなことになったと思っているんだこん畜生、と叫びたいのは山々だったがここで叫べばまた笑われることになるので必死にこらえる。あの野郎後で覚えていやがれ、という言葉を心の中で吐くに留まっておく。元々それほど得意でない上、肝心の解き方が石灯籠のせいで聞けなかった為どうにもならず、即お手上げ。結局先生に軽くお叱りを受け、授業は終わった。
こんな感じで石灯籠にずっと邪魔され続けた紗久羅は昼休み、柚季に泣きついた。幸い中庭の紗久羅達がいる辺りにはそこまで人がいないから大声で喋りさえしなければ、周りに怪しまれることはなさそうだった。
「柚季お祓いして! 今すぐこのくそ灯籠をあたしから取っ払ってくれえ!」
「俺糞灯籠じゃなくて石灯籠だよ、どう見たって糞では作られていないだろう糞では」
そういう意味じゃねえよ、と食ってかかる紗久羅におっかねえおっかねえと石灯籠はきひひと笑う。柚季は自分と速水を見ているようだ、とため息をつきながら石灯籠をじっと見つめた。
「祓えって言われてもねえ……私妖を追っ払ったり、倒したりしたことはあるけれどお祓いはしたことがないのよねえ。まあ自分の体から鏡女を追い出したのを祓うとカウントするなら別だけれど。お祓いってやり方分からずに適当にやるとかえって酷いことになるらしいのよねえ……下手なことして紗久羅の身に何か起きたら嫌だし、何より妖が絡んだ面倒事に巻き込まれたくない!」
「素晴らしい本音をありがとうよ……っ」
「それに……なんだろう、私の勘なんだけれどこの石灯籠って祓う必要が無いように感じるのよねえ。何となくそんな気がするの。とりあえず九段坂さんに相談してみたら?」
祓う必要が無いってなんだよそれと口を尖らせながらも、紗久羅は英彦に相談することに賛同した。柚季よりも彼の方が余程こういうことには詳しいし、お祓いだってきっとやれるに違いないと思ったからだ。弁当を食べ終わると二人はすぐさま図書室へと向かった。カウンターにいた英彦は紗久羅のおいおっさん、という声を聞き顔を上げると二三度瞬きして「おやまあ」とのんびりした声を出す。こういう状況には慣れているといった様子だ。
「おっさん、こいつ何なの朝起きたらとり憑いていたんだけれど!」
眼鏡をくいっと上げ、英彦は石灯籠をじいっと見つめる。そうしていた時間はそう長くなく彼は迷うことなく答えた。
「紫怪火……ですね。紫の怪しい火と書いて紫怪火、です。紫色の火が灯っているでしょう? 紫色の火を灯す、人語を話す奇妙な灯籠であることから紫奇灯とも呼ばれています」
「そうそう、人間達にはそう呼ばれているねえ。しかしにいちゃんは俺を見てもちっとも驚かないんだねえ、わあぎゃあ喚いていたねえちゃんとは大違いだ」
私は小さい頃からそういうものと関わっていますから、と英彦。化け物使いの家系かつ柚季と違い生まれつき霊的な力を発現していた彼は、物心ついた頃からずっと妖のいる世界を生きてきたのだ。妖と戦い、話し、彼等が絡む事件に関わり、妖や幽霊に憑かれた人間を見てきた。色々慣れたからといって異形の者に対する畏れ、自分達とは違う輪の中で生きているという事実を忘れているわけではないが、彼等を見たからといって必要以上に騒ぐことはない。騒がずにいながら、その身と心はきちんと切り替わっている。
「なあおっさん、これさっさと祓ってくれよ! おっさん出来るだろう? 出来るだろう、なあ!」
「専門ではないですが、多少の者なら祓えます。紫怪火もそれほど強い力を持った妖ではないですから、私の力でも祓うことは出来るでしょう。が、彼等紫怪火をとり憑いた人から引き剥がす必要は全くないんですよ」
「はあ!?」
「むしろ祓わない方が貴方にとっては良いことなんです。安心しなさい、彼も永遠に憑いているわけではありません。……来たる時が来れば離れますよ。そうでしょう?」
「そうそう、七日後にはいなくなるさ。そう何度も言っているのによう、ねえちゃん全然聞いちゃくれないのよ」
「七日もこんなうるせえ化け物と一緒にいられるかっつうの! おっさん、どうにかしてくれよお!」
「ですから、放っておくというのが最善の手なんですよ。……まあ、紫怪火ももう少し大人しくしてやってください」
石灯籠――紫怪火は、はいと言ったがその声の軽さといったらなく、まるで改善するつもりがないということが丸わかりだ。英彦は「あまりうるさいようなら少しだけ大人しくさせてあげますよ」とだけ紗久羅に言った。おっかねえ、おっかねえと紫怪火。
紗久羅はこいつを祓わない理由はなんだ、と英彦に聞くのだが彼は教えてくれずただいずれ分かる、とだけ。気になって仕方ないから何度も聞くが矢張り彼は話してくれなかった。そうこうしている内に昼休みが終わりそうになった為図書室から去る。紫怪火はほんの少しだけ静かになったが、うざったいことに変わりはなかった。紗久羅は改めて英彦を問い詰めようとしたが、言ってもきっと無駄だよと柚季と奈都貴に止められたので断念し、今度は喫茶店『桜~SAKURA~』へ。そこにいた弥助は紫怪火を見るとあれまあと頬をかく。
「……おおう、紫怪火か」
「なんだにいちゃん俺達のお仲間かい。本当にいるもんなんだなあ、こっちの世界で人間として暮らしている奴って。俺には絶対ないねえ、なんせ目もねえ鼻もねえ口もねえ、そもそも体は肉じゃなくて石で出来ているもんなあ。いや、もしかしたら石っぽい材質では出来ているが厳密に言うと石じゃねえのかもしれねえなあ。石っぽいけれど肉なのかもしれん。肉だけれど血は出ねえなあ、代わりに紫色の炎がちろちろちろってさあ。まあ石じゃなくて肉だったとしても、俺は人間として生きられねえなあ。手も足もねえし、基本的には人の目には見えねえしなあ。まあ勝手に人間のフリしてなんてことは……ああ、出来ねえなあ」
「もうずっとこんな調子でこいつ、うるさいんだよ! なあ弥助、こいつ祓うことは出来ねえのか? 九段坂のおっさんは祓う必要が無い、そうしない方がむしろ良いとかなんとか言うけれどやっぱりこんな奴と一週間もいたくない!」
と言われてもなあ、と弥助は困り顔。しばらくして「どうしようもねえよ」と首を横に振り、奥で仕事をしている満月に聞こえないような声で言った。
「あっしには祓う力はねえ。まあそいつを死なない程度にボッコボコにして脅してご退場願うってことが出来ないでもねえが……でも紫怪火に憑かれている奴以外が触れるには妖力とか霊力を使わねえと……あっしは苦手なんだよなあ……そういう力があまりねえし、込めたところでどうしようもねえし。それに例え出来たとしてもあっしはやらねえよ。英彦だっけか? 彼の言う通り、わざわざひっぺがす必要のない奴だからさあそいつは」
「こいつを憑けておいて、一体あたしに何のメリットがあるんだよ。九段坂のおっさんは教えてくれなかったんだ」
「ああ……まあ確かに言ったら言ったでなあ……。まあ理由はおいおい分かるっすよ」
「何で教えてくれないんだよ」
「教えたくないからっすよ。まあやかましい奴に憑かれて辟易しているのは分かるが、変な気を起こしてそいつを引き剥がさないことだな。さて、あっしは仕事仕事……」
と逃げて行ってしまった。もうなんでだよ、と大声を上げて頭をかきむしる紗久羅を客達がぎょっとした表情で見ていることにも本人は気づいていない。紫怪火は「まあ仲良くやろうぜねえちゃん」とげらげら笑っている。
ええいこうなったら仕方ない、くそ狐野郎に聞いてみるしかないと弁当屋に来た出雲に開口一番「あいつ何なの!?」と聞いてみる。なんだい藪から棒に、と出雲は整った眉をひそめる。紗久羅はショーケースを通り抜けたり、店の前を通り過ぎる女の子のスカートの下を覗いたり、近くでだべっている奥様方のおしゃべりに参加したり(勿論おばさん達に彼の声は聞こえないのだが)とやりたい放題の紫怪火の方を指差した。出雲は紗久羅が彼に憑かれていることを一瞬で理解したらしく、あれ君のだったのと事もなげに言った。
「なんなんだよあの紫怪火とかいう妖怪は! あいつがとり憑くとどうなるのか、九段坂のおっさんも弥助も教えてくれないんだ。何なのあいつ、あたしに何か良いことしてくれるわけ?」
「ふうん……まあ教えたがらない心情が分からないでもないかな。多分奈都貴や柚季に憑いていてもはっきりとは教えなかったんじゃないかねえ、気持ち的に。まあ、私はとても優しいからね。化け物使いの男と馬鹿狸の心情を汲んで、教えないでおいてあげよう! うん!」
「誰にも教えてもらえず、やきもきする姿を見て超楽しもうって顔しているんじゃねえ!」
「なんと、紗久羅如きに心を読まれるなんて!」
「否定しないんだな、否定しないんだな!?」
結局出雲もけらけらと紗久羅を馬鹿にしたり、質問に答えず笑ったりするだけで教えてくれやしない。彼は散々紗久羅で遊び、いなり寿司を買うと紫怪火に「紗久羅を頼んだよ、それじゃあねえ」と声をかけてさっさと行ってしまった。
「ようし頼まれた。よ・ろ・し・く・なあねえちゃん! 仲良くしようぜむちちゅちゅっと」
「ぎゃあ、ちょっと近づくな触るな冷たい気色悪い! 何が紗久羅を頼んだだよあの糞狐ふざけんな、うわだからすりすりすんなうざいきもい死んでしまえ!」
「そんな死ねなんて酷いなあねえちゃん。まあほら、妖も人間もいずれは死ぬから。俺もいつかはねえちゃんの言う通り死んであげるよう!」
「今すぐ死ねばいいのに!」
「ええいうるさいねえ、この阿呆孫が! 大声でぎゃあぎゃあ独り言言っているんじゃないよ! 何さ下手くそなマイムマイムまでやってさ!」
「パントマイム!」
と怒鳴る菊野の間違いを訂正しつつ、彼女にごつんと殴られる。紗久羅にやたらひっついていた紫怪火はそれを見てげらげら大笑い、それに腹を立てて思わず彼を殴りつければ当然のことながらその身の硬さに悶絶する。本当に何をやっているんだこの馬鹿孫は、とぼやきながら菊野は奥へと戻って行った。
その後やって来たさくらにも紫怪火のことを聞いたが、まあ紫怪火が憑いているの羨ましいとか言いだし後は一人の世界に入り込み、紫怪火とは恐らく全く関係ない訳の分からないことを大して息継ぎもせず延々と喋りだす。そんな彼女を無理矢理現世に引きずり戻し、紫怪火を祓っちゃいけない理由ってなんだと聞いてみるが彼女も答えてくれない。
「さくらちゃん、朝紫怪火にとり憑かれたのよね。ということは当然学校へ行った時九段坂さんに話を聞いたのよね。紗久羅ちゃんのことだからこいつを追っ払ってくれとかなんとかいったに違いないわ……祓ってくれという紗久羅ちゃんに対して、九段坂さんはきっと祓うことは出来ないと言って、どうしてだと聞いたけれど答えなかった……答えたくない気持ち、分かるかもしれないわ。九段坂さんが教えなかったことを私が教えるわけにはいかないわ。まあ大丈夫よ、紫怪火は悪さをしないもの」
と今までの流れを推理してしまったさくらも教えてくれなかった。誰も彼も教えてくれない。紗久羅は段々気味が悪くなってきて、聞かない方が良いような気持ちになってくる。桜村奇譚集を読めば分かるかもしれないが、もうなんだかどうでも良くなってしまったし聞いたところで紫怪火を体から引き剥がせるわけもなし。
かくして、紗久羅と紫怪火の七日間が始まるのである。