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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
胡蝶の夢
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胡蝶の夢(3)

 ある夏の日のことだった。

 広海は、友人達に飲みに誘われた。大学に再び顔を出した時は未だ飲みに行く気にはなれなかったが、今は楽しく飲めそうな気がしたから、喜んでその誘いを受ける。こうして人としての生を取り戻すことが出来たのも、あの夢のお陰だ。気味の悪い、この世の者では無いだろうあの女に感謝する気持ちにはなれないが、あの女がくれた蝶には感謝したい。そして、電話やメールにも応じずうじうじしていた自分を、責めることなく受け入れてくれた友人や母にも。


 割と晴れ晴れとした気分で、広海は集合場所へ向かう。大学のある街に、友人の知り合いが働いているという居酒屋があるらしい。

 少し早めに着いた広海は、集合場所である駅の改札口前でコーヒーを飲みながら友人達を待つ。夕方になっても未だ外は暑い。日は俺は未だ沈まないぞと言わんばかりに輝いている。頬を流れる汗を手で拭う。


 誰かが広海の隣に立った。何となくそちらに視線を向け、広海は固まった。

 そこに居たのは、亜里沙だった。

 まさか。ここは夢の世界ではないはず。それとも、俺は今眠っているのだろうか?いや、眠った覚えは無いが……混乱する頭をぶんぶん振り、再び隣を見る。しかしそこにいたのは亜里沙ではなく、見知らぬ女性だった。髪型や着ている服等は彼女にどことなく似ているが、全くの別人だ。

 女性は、自分のことをぽかんと口を開けながら見ている広海のことを気味悪く思ったのか、困惑と嫌悪に満ちた目で広海を一瞥すると、その場を去る。


 訳の分からない出来事に頭を抱えていると、友人がやってきた。友人はどこか具合の悪そうな彼を心配する。広海は、大丈夫だと答える。やがてメンバーも揃い、皆で居酒屋へ向かう。


 焼き鳥やビール、刺身等を頼んでわいわい騒いだ。酒を飲んでいる内に、先ほどのことなどすっかり忘れていた。

 心の底から楽しいと思った。下らないことで大笑い出来る喜びを、広海は噛み締めていた。きっと、このメンバーの中で一番今日の飲み会を楽しんでいるのは広海だろう。


 (そういえば、つい最近もこうやって皆で飲んだな)

 酒で微妙にぼうっとしていた頭でそんなことを広海は思い、ふとあることを思い出した。


「あ、そうだ。この前は悪かったな」

 友人が、何が?と瞬きして首を傾げた。何のことを指して言っているのか分からないようだった。


「いや、ほらさ。この前バーベキューに行った時、亜里沙がべろべろに酔っ払って、大暴れしただろう。おまけにあいつ全然後片付けにも参加しないで迷惑かけ……」

 そこまで言って、広海ははっとした。それは夢の中での話だ。友人達とこうして飲むのも久しぶりのことだし、彼らとバーベキューになど行っていない。ましてや、ここに亜里沙は居ない。


 案の定、周りの空気がしんと静まり返る。友人達は皆困惑した表情を浮かべている。その視線は、久しぶりに大学に行った時に受けたものに似ていた。そして空気は重苦しく冷たく、痛い。まるで霰でも降っているかの様だった。


「悪い、俺酔っ払っているみたいだな。この前そういう夢を見てさ……やべ、マジ恥ずかしい」

 耐え切れず、俯く。友人達は、何だそうなのか、まあ気にするなと答えるもその声は小さい。

 その後、友人達が積極的に盛り上げ、冷えた空気は消え失せ一見元通りになったように思えたが、空気の底に沈んだ何かは消えることなく沈殿し続けて、折角の時間を、台無しにした。


 その日のそれだけの失敗ならば、何も問題は無かっただろう。しばらくすれば友人達もけろっと忘れてくれて、元通りの日々が過ごせたはずだ。

 しかし同じ様な失敗を、一度や二度ならず何度もすることになる。


 現実の世界と、夢の世界の区別が、つかなくなっていった。


 夢の世界で見たバラエティ番組やニュース、ドラマ等を話題に出してしまう。確かに夢の世界の番組は、あくまで夢の世界でのもの。番組名や出演者が同じでも、内容まで完全に一致する等ということは無い。


 夢の世界で買い物をした時、買った物。食べ物だったり本だったり靴だったり……。目を覚まし「そういえばあれ買ったんだよな」と部屋中を探すが、どこにも見当たらない。散々探した挙句、それを買ったのは夢の世界でのことだというのを思い出す。

 現実の世界と夢の世界では、毎日を過ごしている家も違うし、部屋のレイアウト等も全く違うのに、二つの世界での出来事がごちゃまぜになってしまう。


 勿論、逆もある。その場合は、亜里沙や夢の世界の友人達に怪訝な顔をされる。


 日にちの感覚も無くなっていった。現実の世界と夢の世界だと、時間の流れが違う。基本的に夢の世界の方が早く進んでいる。そのせいで、今日が何月何日の何曜日であるのか、時々分からなくなった。カレンダーにマークをつけることで、どうにか乗り切ろうとするが、それでも混乱してしまう。


 何が夢で、何が現実か。


 ただの夢ならばこうも混乱することは無かっただろうが、あの蝶の見せる夢は限りなく現実に近いものなのだ。物を食べればはっきり味がし、暑さや寒さも感じ、走れば疲れ、酒を飲めば酔う。夢から覚めた瞬間、夢の中での会話や出来事を忘れてしまうことも無い。時間も妙に早く進むことが無いし、有り得ない現象が起こることも無い(ここで言う有り得ない現象というのは、亜里沙が生きているとかそういうことでは無く、五十メートルを三秒で走るとか、一瞬で別の場所にワープしているとか、漫画のキャラクターが街を歩いているとか、そういうものだ)

 夢であることなどつい忘れてしまう位、リアルな夢。

 けれど、蝶が見せるのはあくまで夢なのだ。


 そんな広海を心配して、大学の友人が彼を訪ねてきた。酒やつまみを持ってきて、広海に薦める。広海はそれを有り難く受け取り、皆で飲み食いする。

 変な言動を何度も繰り返している自分のことを放っておかず、何度でも励ましてくれる友人の存在はありがたい。しかし何か、心にちくちくと小さなトゲが刺さっている感じがして、すっきりしない。


 友人達は笑っているが、その笑顔はどこかぎこちない。「同情」という文字を浮かべた様なその表情が、痛い。


 友人が来たことを嬉しく思う一方で、どうして来たのだと彼らを責める気持ちもあった。


 彼らが帰った後、すぐに眠った。

 また苦しい世界になってきた現実から逃げて、夢の世界へ行く。そうして夢の世界にどっぷりとはまり込み、同じ失敗を繰り返す。


 少しずつ、夢が現実を浸食し、どこからが夢でどこからが現実なのか分からなくなっていった。


「あ、あの栗美味しそう。モンブランとか作ってみたい!」


「お前にそんな大層なものが作れるもんか。俺、炭になった栗の乗ったゲテモノモンブランなんて食いたくないぞ」

 こちらの世界はもう九月に入り、少しずつ秋に近づいてきた。店には梨や林檎、栗といった秋を感じさせるものが並び始めている。


「そんな酷いもの作らないもん。それじゃあ、この林檎でアップルパイ作る」


「林檎入れ忘れた林檎なしアップルパイとか、シナモンと胡椒を間違えていれたものを作りかねないから却下」


「いくら私でも、胡椒とシナモン間違えないわよ! 匂い嗅げば分かるもん!」


「この前砂糖と塩間違えた奴の言葉なんて信用できるか」

 と言うと、亜里沙は買い物かごで広海の背中を叩く。店の物を乱暴に使うなと怒鳴るが、それでもポカポカ叩いてくる。周りの人が見ているだろうが、と言ったらようやく静かになった。


 亜里沙の料理の腕前は、なかなか上がらない。普通の料理はまだましになってきたが、菓子になると途端に酷くなる。オムライスは割とまともに作れるようになったのに、クレープは作れない。

岩の様なクッキー、塩の味しかしないチョコレートケーキ、黒こげな上に油ぎとぎとのドーナツ、少しも固まっていないゼリーらしきもの……それはそれは恐ろしい代物を次々と生み出しては、広海を苦しめた。レシピ通りに作っているはずなのに、どうしてそこまで酷いものが出来上がるのか、広海にもよく分からなかった。


 しかし、料理の腕などどうでもいい。彼にとって、この世界はとても居心地のよい世界だった。

 勿論、亜里沙や友人と喧嘩したり、不快な気持ちになったり、現実の世界と混同した結果妙なことを言って亜里沙達にどん引きされたりすることもある。

 それでも、こちらの世界は温もりに満ちている。同情と困惑の入り混じった目で見られ続けることも殆ど無いし、重苦しい空気に押し潰されてしまいそうになることも無い。


 何より、彼女の笑顔を見る事が出来るし、彼女の声を聞いたり、彼女の微妙な料理を食べたりすることが出来ることが、嬉しい。

 あちらの世界で彼女を失って気づいた。彼女の居ない世界がどれだけむなしく味気なく恐ろしい世界であるのか。

 こちらの世界で彼女と再び会って気づいた。彼女が自分にとってどれだけ大切な存在であったのか。


 ここまで彼女に依存している自分の事を、正直気持ち悪い男だと思っている。それでも、彼女と過ごす毎日を幸せに感じずにはいられない。

 亜里沙は、広海が今何を思っているか知る由も無く、林檎とにらめっこしている。そんなことしたところで、彼女に美味しい林檎と不味い林檎を見分けられる訳が無い。仮にそれが出来て、美味しい林檎を選べたとしても、彼女が調理すれば食べ物とは呼べない代物に姿を変えてしまう可能性が高い。

 しかし、林檎と必死ににらめっこしている彼女は可愛かったし、何より微笑ましい光景だったから、広海は何も言わずカートに乗せたカゴに食料品や日用品を次々と入れていった。


 やがて亜里沙は、自分の見る目を信じて選び抜いた林檎と梨を持ってきて、カゴの中に入れた。

 幸い客はあまり多くなかったので、すぐ会計に移ることが出来た。


「いらっしゃいませ、有難う御座います」

 舌で体を舐められている様な感覚になる、ぞっとする位艶やかな声。聞き覚えのあるその声。広海は、恐る恐る顔をあげる。


 会計をしているのは、蝶を与えたあの女だった。

 スーパーの店員の格好をしているが、広海には直に分かった。照明を浴びて七色に光る、水で濡らした様につやつやの長い髪。見た者を刺し殺してしまいそうな、瞳。カゴに入っている林檎より赤くて、妖しく輝いいている唇。

 足が震え、思わず広海は意味の分からない叫び声をあげてしまった。

 亜里沙と、近くにいた客、店員らが一斉に広海を見た。


「何変な声あげているのよ、びっくりした」


「あ、いやごめん。変な虫が居たような気がして。気のせいだったみたいだけれど、寝不足かな」

 そう言ってごまかした。改めて店員の顔を見る。しかしそこに居るのはあの女ではなく、どこにでもいそうな普通の女の人だった。亜里沙は店員に、驚かせてごめんなさいと謝る。広海も軽く頭を下げる。

 確かに、あの女だったのに。亜里沙と帰り道話している時も、ずっとあの女の笑った顔が頭の中を巡っていた。


 それから数日が経った。亜里沙がアップルパイ作りに奮闘している間、広海はふらふらと散歩をしていた。

 蝉の大合唱シーズンこそほぼ終ったが、まだまだ暑い。もうしばらくすれば涼しくなるだろう、むしろ早く涼しくなってくれと思いながら汗を拭う。


 あまり暑いから、我慢できずに近くのデパートに逃げ込んだ。冷房が効いていて、とても気持ち良い。アイスカフェオレでも飲んでしばらく涼もうかと思った。


「この世界は、夢なのよ。本当、貴方分かっていないわね」

 背後から聞こえる声。広海は体を硬直させる。振り返らず逃げてしまいたいと思ったが、逃げられず、結局後ろを振り返ってしまう。

 あの女が立っていた。デパートという場所に全く合わない、蝶と花の描かれた黒い着物を着て、あの笑みを浮かべて。


「この世界に深く入れ込んで、こちらの世界が現実であったらいいのにとかそんな馬鹿なことを考えているから、頭が混乱して、こちらの世界で起きたことをあちらの世界で話してしまったり、こちらの世界で買ったものを、あちらの世界で探してしまったりするのよ。現実は現実、夢は夢ってちゃんと割り切らないと……とんでもないことになっちゃうかもよ」

 女はその場でくるりと回り、あはははと笑う。そんな気味の悪い女の存在に、広海以外の誰も気づいていないようだった。


「でもまあ、私としてはその方がいいけれど。幸せな結末なんて、少しも楽しくないじゃない。自分の不幸はとても不味いけれど、他人の不幸は蜜の味だもの。私、甘い蜜が大好き」

 にっと笑い、口を小さく開けると、ぺろりと自分の指を舐める。吐き気がするほど艶かしい。

 広海は全神経を足に集中させ、そこから逃げ出した。


「俺は割り切っている! ここが夢の世界だって……現実じゃないんだってこと位、ちゃんと分かっている!」

 掠れた声でそう叫びながら。


(あの女の思い通りにはならない、絶対にならない。現実の世界でも、こちらの世界でも幸せになってやる。あいつに甘い蜜を与えはしない。絶対に……!)


 家に帰った後、亜里沙特製のアップルパイを食べた。胃が焼けて消えてなくなりそうになる位甘かった。


 そう決意したにも関わらず、現実の世界ではどう足掻いても幸せになれそうに無かった。

 夢の世界で友人から借りた漫画を、現実の世界で探し回り、挙句その友人にメールをしてしまう。友人から、お前にその漫画を貸した覚えは無いという返信をされて、気づく。

 財布に幾ら入っているのか、分からなくなることもある。会計の時、何度も恥をかいた。

 昨日亜里沙にアップルパイを作ってもらったということをうっかり話してしまった。友人達の、反応に困った顔が彼の心を突き刺す。


 大学後期の授業が始まってすぐのことだった。

 延々と一本調子で続く講義はやがて子守唄となり、広海を眠りの世界へと誘う。

 友人に体を揺すられて目を開けた時には、もう授業は終わっていた。


「お前爆睡していたぞ。サインペンがあったら、額に肉って書いてやったのに」

 笑う友人につられて笑う。だがしばらくして、あることに気がつき、頭が真っ白になった。


 ここは「どちら」の世界だ?

 現実の世界で眠っていたのか、夢の世界で眠っていたのか。

 自分はどう友人と接すればいいのだろう。今は亜里沙を失った方の広海なのか、亜里沙と幸せな毎日を過ごしている広海なのか。

 急に、分からなくなってしまった。冷や汗が流れ、呼吸が出来なくなり、固まった顔は自由が利かなくなる。


 そうだ、携帯電話。震える手で携帯電話を取り出す。夢の世界と現実の世界では、時間の流れる速度が違う。

 滲み出る汗。震える手。携帯電話はするりと広海の手をすり抜けて、床に落ちる。


「おい、お前どうしたんだ、大丈夫か?」

 大丈夫と言うことも出来ず、床に落ちた携帯電話を血走った目で睨む。最早、世界を知る術は携帯電話で今日の日付を見る事以外に無いのだ。ここで失敗すれば、またあの痛々しい視線に突き刺されることになる。

 携帯電話を乱暴に広い、画面を覗き込む。


 そうか、ここは亜里沙が居ない方の世界だ。


 自分がどちらの世界にいるのか分かって、ほっと息をつき、顔をあげる。

 笑ってごまかそう。……しかし、再び思考は停止する。

 友人達の背後……ごちゃごちゃと小さい字の沢山書かれた黒板の前に、あの女が立っていた。またあの笑みを浮かべ、こちらをじっと見つめている。


 あの女は、蝶を渡した後はこちらの世界には出てこなかったはずなのに。それでは、ここは夢の方の世界なのか。だが、日付はこの世界が現実の世界の方であることを告げている。


「どうしたんだよ、お前未だ寝ぼけているのか?」

 砕けた口調で話す友人だったが、浮かべる表情から滲み出ているのは、また頭がおかしくなったのか?という戸惑いと憐憫という、刃物の様な鋭く冷たく重たい感情だった。

 それならばここは、矢張り現実の世界なのだ。もう一度黒板の前を見るが、そこにはもう女の姿は無かった。


 広海は、席を立つ。頭がどうにかなってしまいそうだった。これ以上居たら、またぼろを出す。出さなかったとしても、一日中体を、心を刃物で突き刺され続けることになる。


 逃げなくては。そう思った。広海は一言、具合が悪いから帰るとだけ言って大学を後にした。早足で駅へ向かい、桜町に着いた後は走って家まで行った。立ち止まったら駄目だと思った。立ち止まったら、また自分を見失ってしまいそうだった。


 古びたドアを乱暴に開け、部屋に入り、閉める。無我夢中で鍵をかけてリビングに倒れこんだ。喉が焼けるように熱くなり、腹の中が熱した鉄の棒でひっかき回されているようになっている。痛くて、苦しい。

 むしかごの中に居る蝶が、静かに広海を見つめている。


(俺を苦しめて、そんなに楽しいか!)

 広海は、いっそあのむしかごの中にいる蝶を握りつぶしてやろうかと思った。自分をこんなにも苦しめている蝶が急に憎らしくなる。しかし、蝶を殺せば、もう亜里沙に会うことも出来なくなる。


 しばらく床の上に寝そべっているうちに、荒くなっていた呼吸は元に戻り、熱さも痛みも消えていく。冷たくなった汗が、手足を伝う。


 何もかも、上手くいっていたはずだったのに。

 夢を手に入れたことで、生きる気力を取り戻し、平穏な毎日を取り戻した。友人や、町の人とも以前と同じ様に話せるようになってきていた。

 色も形も無かった世界が元通りになっていき、喜びや悲しみ、怒り等の様々な感情が戻ってきた。


 きっと、いつか全てを受け入れて、新しい人生を歩んでいけると思っていた。

 広海は、そう信じていた。信じているつもりだった。だが現実は……。


(少し、休もう)


 今は、心を落ち着けなければいけないと思った。しばらく外出を控えよう。外へ出なければ、少なくとも周りの人間の目を気にしなくて済む。広海以外誰もいない空間で現実と夢の区別がつかなくなって失敗しても、大した問題にはならない。限られた空間だけで生活していれば、二つの世界をごちゃまぜにしてしまう割合も少しは減るだろう。

友人達と連絡を取り合うのも、しばらくの間やめよう。

 気持ちの整理がつけば、案外上手くいくかもしれない。


 広海は友人数名に「しばらく大学休む、悪い」とだけ書いたメールを送った。


 部屋の外から出ない。そのアイディアは、思いのほか上手くいった。

 他人の目を気にすることなく、言葉の一つ一つに気をつける必要も無い。たったそれだけのことなのに、気持ちは随分楽になった。

 一人、狭い部屋の中に一日中居るというのは、酷く退屈なことではある。しかし、眠りにつけば友人や亜里沙達と喋ったり遊んだりすることが出来る。夢の中でゲーセンへ出かけてゲームだって出来る、カラオケへ行って歌うことも、ファミレスでご飯を食べることも出来る。

 現実の世界では殆ど外に出ないから、外でしたことは全て夢の世界の方でしたことなのだと考えることが出来たから、以前のような失敗もやや少なくなった。失敗してしまったとしても、問題ない。それを話す相手も、それを見ている相手もいないのだから。

 現実の世界でやったことを夢の世界で話してしまうということは、あった。それでもあちらの方の友人達は「何ぼけているんだよ、馬鹿」と言って笑うだけだった。


 友人や母からメールや電話が幾つか来たが、殆ど無視した。多分本気で心配してくれているのだろう彼らには少し申し訳なく思った。あれだけ変なことを言ったりやったりしても、未だ気にかけてくれることを感謝した。けれど、矢張り彼らのあの何とも言えない表情を見たくは無い。もう見ない為には、今こうして気持ちを落ち着けるしかない。

 広海はそう自分に言い聞かせながら、毎日を過ごした。


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