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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
故郷は幻の二月の淵に
319/360

故郷は幻の二月の淵に(18)

 


 満星祭りが終わってからしばらく続いた夏もようやく終わり、今幻淵は秋の中にあった。芸能祭を控えながら、日帰りツアーの企画を進めている。前回同様隠れた名所、普通のツアーではスルーされるような、大したものではないけれど何だか面白い場所を回る予定となっているが、今回はその間に有名なスポット――自分が紹介したいと思う隠れスポット、面白スポットに関連した場所も混ぜる。芸能祭直後に催されるこのツアーの最終調整に向け、陽太は大忙しだ。

 この国で仕事をしながら、時々向こうのことを思う。鮮明に浮かぶ家族や友人の顔が陽太の胸をぎゅっと締め付けた。寂しい、帰りたい。近頃はそんなことばかり考えていた。


(ホームシックって、普通家を離れて少しした時になるものじゃあ……三年以上経った今頃になって、なんて妙だな)

 と苦笑い。しかし家に帰りたいと願っても、帰れる日というのは二月二十九日以外にない。また帰りたいと強く願う気持ちがある一方で、ずっとここにいたいという気持ちもある。これはきっと最後の最後まで無くなることはないだろうと思う。向こうに帰りたいという気持ちの割合がどんどんと高くなるだけのことで。


「陽太君、明日は君も休みだろう? もしよければ一緒に遊ばないかい」

 そう誘って来たのは明之だ。陽太はその申し出を嬉しく思ったが、ごめんなさいと静かに首を横に振る。


「明日は友達と遊ぶ予定を入れておりまして」


「なんだ、そうか残念だな……。それじゃあまた、別の機会に」

 本当に残念そうな顔をして明之はその場を去った。近頃はこうして一緒に食事に行こうとか、遊びに行こうとかいう誘いが多い。別れを惜しむのは帰郷者だけではないのだ。

 閏の国は今『別れと新しい出会い』という名の空気に包まれている。多くの別れを寂しがりながらも、新たな出会いに胸躍らせている人々の思いが滲み出て、世界の空気に混ざっているのだ。向こうでいうならそれは三月辺りにひしひしと感じるものなのだけれど、この国だと秋から二月の終わりにかけてのものである。仕事を終え沙羅と双樹の所へ行く間にも、多くの人に話しかけられた。そうして話しかけられるのは特別珍しいことではないが、声を掛けられそこから長めのおしゃべりに発展する確率は以前より高くなっているし、会話の内容も思い出話が多くなっている気がした。十月の時点でこれなのだから、二月が近付けばもっとすごいことになるのだろう。


「やっぱり仲良くなった人とお別れするのは寂しいですからね。しかも一度別れれば実質二度と会うことはないですし」


「君の恋した奏お姉さんとやらは珍しい例だからな。きっと彼女も三度目はないだろう。三度も四度もここに帰ってきた人の話は殆ど聞かないし。そんなだから皆、別れるまでの間に少しでも多くの思い出を作っておきたいと思うのさ。気軽に会えるならともかく、最初の別れが永遠の別れになる相手だからね……別れたらおしまいだもの。本当は颯馬とも遊びたいけれど、向こうでの暮らしがあるから仕方ない」

 カップを傾けお茶を一口。沙羅と双樹とは最近よく会っている。誘うのは大抵彼女達からで、店を巡ったり、お茶をしたり、思い出の場所を巡ってみたり、劇を見に行ったり。そして話こうして会って話をする時の話題は大抵昔の思い出。口にするのは別れの未来ではなく、輝く過去。皆後ろを向いて歩く。過去に向かって歩きたいけれど、時の道を戻ることは出来ず足は只管前へと進む。そして時は今までと変わらぬ速度で流れる。


「……沙羅達は、向こうへ帰った帰郷者のことを殆ど忘れてしまうのだろう」


「……忘れるというか遠ざかるというか。まあ似たようなものか。そうだ、ボク達は君達のことを忘れる。仲良かった人がいたような気はするけれど顔は思い出せない、そもそも本当にそんな人はいたのか、一緒に遊んだり喋ったりしていたか分からなくなる。残酷な位早く、そして見事にね。それは君達も同じさ……多分だけれど」

 そう言われてもいまいち実感の湧かない陽太だった。確かに三年の間考えもしなかった向こうの世界のことを今こんなにも沢山考えているように、四年ずっと生きてきた世界のことを全く考えなくなる日が来ることもあるかもしれない。十二年も生きていた世界のことさえ彼方へ行っていたのだから、それよりもっと短い時しか生きていないこの国のことなど、でも、いや、しかし。

 今はまだ分からないだろうね、と沙羅は寂しそうに笑う。


「でも、分かるよきっと。帰ったら。ボク達も君との別れを嘆き、泣き、君がいなくなった途端記憶が曖昧になったことに涙し、でもすぐにその気持ちさえ無くす。ボクは別れに体震わせるより出会いに心躍らせるようになるんだ」


「陽太君が帰ったら僕達は陽太君のことを殆ど思い出すことはなくなるでしょう。でも、忘れるのと消えるのはイコールではありません。掬ってやることが出来ないだけで、僕達の中に蓄積された時間が消えるわけじゃありません。だからこうして、少しでも多く楽しい時間を共に過ごしたいんです。そして僕達の中に沢山の時間を溜めてお別れするんです。それにどうせ忘れてしまうからといって何にもしないなんて、あまりにつまらないじゃないですか」


「……そうだね、そうだよね」

 どうせ忘れてしまうからと思わず、きちんと奏に想いを伝えたように、どうせ忘れてしまうから楽しい思い出を作ったって意味が無いと思ってはいけないのだ。最後まで全力で生ききることが、自分の為になりまた自分と関わる多くの人達の為になるのだ。


「そういえば配られたノートへの記録は進んでいるかい?」


「あ、うん。色々書いているよ。何か書くことが多すぎてノート一冊に納められるか不安な位」

 少し前に帰郷者全員に一冊の和綴じのノートが配布された。それは服以外では唯一向こうへ持って帰れるもので、使い方は自由だが大抵の場合はこの国での思い出を記したり、この国や自分が住んでいた州についてあれこれ書いたり、他の帰郷者の向こうでの連絡先を書いたりする。写真も貼ることが許されているが、向こうへ帰った後は長くは持たず、最終的に自分以外の人や景色は消えてしまうのだそうだ。それでも陽太はすでに沢山の写真を貼り、多くの思い出を記している。

 頬杖をつき、沙羅は陽太が取り出して見せたノートを微笑みながら見つめている。


「近頃はあちこちでそれを開いている人を見かけるよ。お茶を飲んだり、公園のベンチに腰かけたりしながら書いているのさ。それは、この頃の風物詩さ。別れの季節が近づいていることを感じさせる、悲しくて寂しい風物詩」


「それに、この時期になると帰郷者向けのキャンペーンとかが色々な所で始まりますよね。通常よりかなり安い値段で旅行出来たり、取るのが難しいチケットが簡単に手に入ったり……最後の思い出作りの為の手助けをあちこちでしてくれる。ああいうのを見ると、ああ別れが近いんだなって思いますよね」

 双樹は遠いようで近い未来を見つめながら、寂しそうに笑った。最近はこんな笑みを浮かべる人が多く、そしてそれは陽太も例外ではなかった。


 セピア色の秋は、その色彩で人々をしんみりとさせる。自分の中にある思い出という名のセピア色の写真ばかり眺めて、未来を眺めない。前を向いて歩くことも大切だけれど、今は、今だけは立ち止まって過ぎ去ったものを飽くこともなくじっと見つめていてもいいだろう。

 寮に戻った陽太はノートへの記録を進める。幻淵で見つけたもの、幻淵独自の文化、お気に入りの店――自分が愛した場所のことを只管書き続ける。旅行先のことも書き記したけれど、幻淵に関することの方が圧倒的に多い。書いても、書いても、まだ書きたいことが浮かんでくる。そんな風に書いていると当時のことを思い出し、陽太の魂は現在から抜け出して過去へと向かう。楽しかった時間の中を自在に行き来し、何度見ても飽きないものを見ては、緩む頬。


(向こうに帰りたいと思うけれど、やっぱりここで死ぬまで生きていたいとも思うんだよな……)


「ですが、そういうわけにはいかないのですよ」


「やっぱり、駄目なんですよね……」

 帰りたくない、という気持ちが強くなった時陽太はあの老人の家を訪れる。彼を前にすると、無理矢理でもここに残ろうという気持ちが収まる。自分の思いを抑えたいからなどという不純な動機で人を訪ねるなど失礼なことこの上ないと分かっているが、老人の「貴方の未来を守る薬になれるなら」と嫌悪感を示すどころか歓迎してくれるので、つい甘えてしまう。


「やっぱりおじいさんは向こうへ帰らないんですか?」


「帰っても仕方ありませんからね。もうここにいるのも、向こうにいるのも同じことです。どちらの世界にも属さない人になった私にとってはね……私は死ぬまでここにいますよ。でも貴方は帰らないといけませんよ。戻るべき所に戻り、生きるべきところで生きなさい。そしてそれまでの間に、沢山の思い出を作りなさい。胸の中いっぱい、溢れる位溜めこんで。……選択を誤ってはいけませんよ。取り返しのつく過ちもあれば、つかないものもあります。私は取り返しのつかないことをしてしまいました……貴方に同じ苦しみを味あわせるわけにはいきません」

 全力で生きられる場所を失った老人の瞳を見ると、何が何でも帰らなくてはという気持ちになる。その瞳は、黒光りする酷く冷えたナイフ。それは見た者を突き刺し、そしてそれを持つ自身の心をも突き刺し続けている。しかしもう彼は痛みを感じない。それ位彼は空っぽになってしまったのだ。

 帰ることを受け入れれば、残酷な忘却が待っている。拒絶すれば、それ以上に残酷な未来が待っている。


「たとえ思い出が霞んで忘れたようになってしまっても、貴方が得たものの価値が無くなるわけではありませんよ。それは価値ある宝物として一生貴方の中に在り続けます。私のことを忘れてしまっても、そのことだけはどうか覚えていてくださいね」


 老人の言葉を胸の内に留めながら、陽太は別れの時に向かって歩き続ける。最後の芸能祭では理子の笛を聞いた。彼女の笛は素人目で見ても格段に上手くなっており、そんな彼女と合奏している沙羅と双樹も楽しそうだった。一曲目は帰郷者が作り、この国に残したとされる閏の国を讃える歌。沙羅の透き通った声がホール内に響く。二曲目は理子が四苦八苦しながら作ったもので、晃へと贈る愛と感謝の曲。


――やっぱり、別れるのは怖い。こんなに心から好きになって、とても大切に想っているのに、向こうへ帰った途端想いも思い出も夢になるなんて、酷い話。そんな酷い結末を迎えることを承知した上で沢山の時間を二人で過ごしていた。でも最近になって気づいた。……私、本当は分かっていなかった。晃と別れる日が、全てを夢のように思ってしまう日が来ることを口では分かっているとか言っていながら、頭ではちゃんと理解していなかった。ずっとずっと一緒にいられる気でいた。来年も再来年も……今でも、まだ信じられない――

 晃もつい先日陽太に同じような想いを打ち明けていた。自分は何もかも理解して受け入れていますって顔をして、理子の前では格好をつけていたけれど、でも本当は違うと。別れと忘却を真に理解し、受け入れたことなど一度もなかったと。


――そんな簡単に掠れて霞んで消えていくなんてことあるはずがないってね。信じられるものか……けれど私達は向こうの世界のことを、今年に入るまで殆ど忘れていた。家族のことも、友人のことも、一つ残らず。……それと同じことが向こうに帰った時に起きたって何も不思議なことではない。近頃はとても苦しい、理子といるとどうしても遠くない未来のことを思ってしまう。来年の今頃は彼女のことなどすっかり忘れて生きている……陽太君のことも、喫茶店のマスターのことも、全て忘れてしまう。それらを忘れて生きる自分の姿が思い描けない、思い描きたくもない――

 まるでいっそ好きにならなければ、恋人にならなければここまで苦しい思いをすることなどなかったのにとでも言いたげな表情を二人共浮かべており、近い未来お互いのことを忘れてしまうのだという思いに引きずられたせいか、陽太から見て二人の仲は大分ぎくしゃくしていた。


 陽太も時々、思う。色鮮やかな思い出を作る時、思い出の詰まった場所へ足を運んだり近くを通りかかったりする時、忘れる恐怖と忘れられる恐怖に胸が締めつけられ、こんな思いをする位なら別にこんな国を離れても痛くもかゆくもないと考える位何の思い出も作らない方が良かったのではないかとさえ思うこともあった。そんなことを思う時、老人の言葉を思い出す。例え忘れてしまっても、自分の中に溜めこんだものの価値が無くなるわけではない、それは一生の宝物として残り続けると。似たようなことを颯馬も以前言っていた。


(それに……辛い思いをしたくないからって何もしないなんて、そんなの少しも楽しくないじゃないか。そっちの方がずっと辛いし苦しい。どうせなら僕は、僕は……霞んだことを惜しいと思って号泣する位のものを得たい。嫌だ、嫌だと自分を思いっきり泣かせるようなものを沢山。泣く程大切なものを得ていないなんて、そんなの嫌だ)

 理子の演奏を聴く限り、彼女達も『辛い思いをする位なら最初から付き合わなければ良かった』という考えを捨てることが出来たようだ。隣で演奏を聴いている晃も晴れやかな表情を浮かべている。

 多分、こうして沢山の帰郷者が悩むのだろう。誰かから「帰ったら、ここでの出来事は全て夢物語のようになってしまう」という話を聞いていなくても、何となく察する。自分の頭の中が段々と向こうの世界のことでいっぱいになっていく感覚がそれを教えてくれるのだ。

 皆戸惑って、悩んで、それでも最後にはきっとちゃんと前を向く。最後まで全力でこの国で過ごす日々を駆け抜けるのだと、心に誓う。


 しかし、それが分かっていても矢張り別れは辛い。近頃帰郷者の涙腺は緩みっぱなしになり、何かあるとすぐ泣くようになっていた。二月二十九日を控えた秋から冬にかけては『雨涙節(うるいせつ)』などと呼ばれ、あちこちで涙をぽろぽろこぼし鼻をすする人を見かける。

 陽太もまた例外ではなく、最近すぐ感極まって泣いてしまう。寂しい、もうここにはいられないのだという気持ちが溢れて、溢れて、止まらない。今回のツアーが終わった後もそうだった。二回目にして最後となった、ツアーの企画と進行をやり終えた陽太に「とても楽しいツアーだった、また是非やってもらいたい」と言ってくれたお客さんがいた。陽太はそれを嬉しいと思いながら、自分が企画したこと、自分は帰郷者なのでこれが自分にとって最後のツアーになることを話した。同じツアーをやるにしても、計画をたて実行に移すのは他の人だ。


「あら、貴方帰郷者だったの。そう……これが貴方にとっては最後なのね。良い思い出になった? 私にとってはとても良い思い出になったわ」


「はい、僕にとっても良い思い出になりました。楽しんでくださったようで、何よりです。楽しかったって言葉が何よりの宝です」

 そう言ってお客さん達と別れ、寮に帰ってから陽太は大泣きした。全力でやりきり、良い思い出になった。でも、これで最後。改善点を見つけても、次はこういうことをしてみたいと色々アイディアが浮かんでも、それをどうにかするのは自分ではなく別の人なのだ。もう最後、もっともっと沢山やりたいのにもう出来ない。それを思ったら悲しくて、辛くて仕方が無かった。

 沙羅達友達とお茶をしているだけで涙が出て、近所の人と少し喋っただけで涙が出て、お気に入りのケーキやパンを口にしただけで涙が出る。そして帰郷者の涙につられて、閏の国の民もまた涙する。無数の雫が地面に絶え間なく落ち続ける季節、それが雨涙節。

 

 気づけばもう今年の終わり。社内や寮の大掃除をし、そして大晦日。この日陽太は港へ足を運んでいた。


「よっ、お迎えありがとさん」


「と言いながらさりげなく僕に荷物を差し出さないでよ。僕は持ってやらないよ」

 と手でバツを作る陽太を見て颯馬が冗談だよと笑う。この国では最後の大晦日となる今日をここ幻淵で迎える為、彼はやって来た。陽太も明之の誘いを断り、今日は草薙庵に帰って颯馬や理子と共に年を越すつもりだ。


「……最後の大晦日、向こうで過ごさなくて良かったの?」


「構わないさ。そりゃあ竜頭のことも、向こうで仲良くなった人のことも好きだけれど。でもやっぱり最後の年明けはここで――全ての始まりの場所で迎えたかったんだ……お前もそうだろう?」

 うん、と陽太は頷く。恐らくこの国を旅立つ前日も草薙庵に泊まり、そこから別れの場所へ向かうことだろう。あそこは最後の最後まで陽太達にとって一番大切な場所なのだ。陽太と颯馬は草薙庵へ向かいながら、あちこちに出ている屋台でチュロスやフランクフルト、通常よりちょっと長めのパンで作られたテリヤキチキンサンド等を買い、それを食らう。大晦日は明るく賑やかで、ちょっとしたお祭り気分。時々酷く憂鬱な表情を浮かべている人を見かける。恐らく今日外つ国に旅立つ知り合いがいるのだろう。閏の日、自分達も知り合いにあんな顔をさせることになるのだろうな、そして自分達もああいう顔になるのだろうなと思ったら胸が痛み、どうにもならない位緩い涙腺が瞳から雫を落とさせる。


「何もこんな日にお別れしなくてもいいのにな。新たな旅立ちって言えば聞こえはいいけれど、実際の所は死にに行くようなもんだもんな。大切な人が死ぬ日だもんな……外つ国へ旅立つには仕方ないことだけれど、それにしてもよくやれるよな」


「僕達もずっと昔にやったんだけれどね……。そういえばのどかさん、どうしているかな」


「どうしているかねえ。すぐ生まれ変わって新たな人生迎えているかもしれないし、まだかもしれないし。そういやあの人と別れてからもう三年経ったんだな。それだけの時間が過ぎたんだな……俺、まだ一年位しかここにいないような気がしてならないよ」


「それは僕も同じだよ。あっという間だったね……この国に来た時は四年って随分長いなって思っていたのに。あっという間に過ぎて、もう後二か月しか残っていない」

 その日もあっという間に訪れるのだろう。四年近くの時がこれ程早く過ぎて行ったのだ、二か月など瞬きしている間に終わる。そして自分達はあの舟に乗って、向こうへと続く川を流れていくのだ。


「……帰りたくないな」


「うん、帰りたくないね」

 その気持ちは草薙庵に到着し、理子や晃と喋ったり、草十郎の手伝いをしながら(別に手伝わなくてもいいと言われたが、どうしても手伝いたかった)話したりしている内どんどん膨らんでいった。夜になり、卓袱台を囲んで天ぷらとろろそばを食べている時、頭の中をここで過ごした思い出がぐるぐる廻り、頭も心もぐちゃぐちゃになりそうだった。多分もうしばらくしたら顔もぐちゃぐちゃになるだろう。颯馬が理子のえび天をとり、間髪入れず口の中に放り込む。理子は颯馬の頬を抓って返しなさいよあたしの天ぷらと抗議するが、俺の口の中でぐちゃぐちゃになった天ぷらが欲しいのかと返され、冗談じゃないわと頭を叩く。颯馬は自分の分の天ぷらを食べきっているから、彼の器から天ぷらをとって食べることも出来ない。


「それじゃあ僕の分をお食べよ、理子」

 といって晃がえび天を一つつまんで彼女の前に差し出す。理子は口を開き、それを食べようとするが寸前で晃がその天ぷらをぱくりと食べてしまった。古典的過ぎる悪戯に引っかかった理子は晃の馬鹿馬鹿、といいながら隣に座っている颯馬の頭を思いっきり叩く。何するんだ凶暴女とまた懐かしの喧嘩が始まり、最後は草十郎が「うるせえもう少し静かに食え!」と怒鳴って終了。笑って怒って騒いで怒鳴ってはしゃいで……ここを出る前まで毎日のように見てきた光景。皆いつも通り元気で、でもいつもとは違う空気が確かに流れていた。まるで皆無理矢理普段通りの自分を演じているかのようで、痛々しい。そしてその痛々しい演技を自分もまたしているのだ。

 大晦日位はいつも通り笑って過ごしたい。別れのことは忘れて。だがそれを忘れられるものなど誰もおらず、少しずつ演技という名の殻が剥がれていった。近づく別れ、この国で過ごす最後の大晦日。


「来年も再来年も、こうしていたいな」

 颯馬の呟きが、部屋の中に静寂を呼び込む。ここにいる全員が、いやこの国にいる帰郷者、彼等と親しい人全てが思っているであろうこと。


「……それは無理だよ。これが最後だ。お前等は向こうへ帰るんだ」

 叶えられない願い。叶えてはいけない願い。帰りたい、でも帰りたくない、別れたくない。草十郎も新たな帰郷者との出会いを楽しみにしながらも、陽太達と別れたくないと思っているだろう。

 結局草十郎以外は皆泣きだし、でっかい子供のお守りなんてごめんだという草十郎も涙こそ流さなかったがきっと心の中で泣いていた。年越しと一部の閏の国の人々の外つ国への旅立ちを告げる鐘の音を、これ程沈んだ気持ちで聞いたことは無いと陽太は思った。今までは新たな年の訪れに胸躍らせていたというのに。

 しけた空気は嫌いだ、明るくいこうぜと颯馬が無理して笑ってもどうにも出来なかった。そんな彼等のずきずきと痛む心に、見灯りの優しい温もり色の光が沁みる。黒い空を彩どる夢幻の星屑、後少しで自分達は川に浮かぶ星空に見送られ帰っていくのだ。


「……本当、赤ちゃんにでも戻ったような気持ちだよ」


「全くだな……」

 一緒に見灯りを眺める颯馬と自分の鼻をすする音が混ざって夢幻の光景を間抜けなものにするのだった。


 一月に入ると、向こうへ帰りたくて仕方ないという気持ちがますます強くなっていった。夢に見るのは向こうのことばかり、些細なことがきっかけで向こうのことを思い出しては早く帰りたいなあ、家族や友達に会いたいなと思う。自分が向こうでどんな四年を過ごしたのか想像するのも、恐ろしい反面面白かった。雑談する時、何かと向こうのことを口にする。仕事をしている時も、友達と遊んでいる時も向こうのことを考え、心ここにあらずの状態に陥ることがままよくあった。旅立つ前に是非この国でこれがやりたい、あれがやりたい――と思うことも随分と少なくなり、以前よりも確実にこの国への愛が遠ざかっていることを感じていた。かと思えば急に気持ちがこちらの国に引っ張られ、ああ嫌だ帰りたくない悲しいと思って涙することもあり、何だかぶっ壊れた機械にでもなったような心地。


 またそれはこの国に住む人も同じで、今の帰郷者と入れ違いにやって来る新たな帰郷者との出会いに想いを馳せ、出会いのことについて考えることに夢中になったかと思えば、新しい人など来なくていいから今いる帰郷者よどうか帰らないでおくれ、別れるのは辛いのよ、と涙を流しもする。メーターの針は一を指すか百を指すかのどちらかで、その間で止まることは決してなく、両極端。

 二月を目前に控えた晴れた日に、旅行へ行った。理子と晃、沙羅、双樹、そして颯馬と。これが恐らく最後の旅行になるだろう。どこへ行くかは散々議論になったが、古典的にして公平なくじ引きという方法により沙羅が行きたがった場所に決まった。


「ここには一度行きたいと思っていたんだよ。しかも帰郷者思い出キャンペーンのお陰で、同行するボク達も格安で行ける。最高だね! 憧れの宿も少し安くなっているし、ふふっ」

 船に乗り、その身に潮風を受けている沙羅の顔は晴れやかで青空に浮かぶ太陽さえ、おのが輝きなどとるに足らぬものだと卑下し、その身を縮めてしまうと思う程の眩さ。その笑みは光の柱となって天へ伸び、黄金色になった空は桃色の神秘の花を降らせそうだ。そんな幻想をごく自然に思い描けるだけのものが彼女にはある。昔よりも神めいて見える彼女達だった。そんな何の変哲も無い船に突如降り立った神秘の女神と、聡明な男神の姿は周りの人の注目を集めていた。彼女達の姿を初めて見た人達はすさまじい衝撃に襲われていることだろう。


(初めて沙羅達と会った時のことを思い出す。颯馬と二人、あまり綺麗なものだから変な声が出て……珍生物じゃないんだよボク達はって呆れられて。確か幻淵を探検している時、テンション上がりすぎたせいかろくに前を見ずに全力ダッシュした颯馬と沙羅がぶつかって……あの時の颯馬ったら、珍生物じゃないって呆れている彼女に土下座してごめんなさい祟らないでくださいちゃんと祀りますから、丁寧に、めっちゃ大事にしますからって訳の分からない謝罪を只管したんだよな……懐かしいなあ。二人はその時のこと、覚えているのかな)

 出会いを思い出すと、出会ってから今までのことが芋づる式に脳の底から引っ張り出される。それは途切れることを知らず、無数の思い出で頭が爆発しそうになった。そうして思い出すとやっぱりまた別れが惜しくなって。泣きそうになったのをぐっと堪える。

 皆で決めたのだ、この旅行中は別れのことを忘れようと。泣かないでいようと。

 しかしこの誓いを守れた者は結局一人もいなかった。名物の肉パン(もちもちしたパンで甘辛いタレがたっぷりついた肉とレタスを挟んだもの)を食べ、向こうでいうサグラダファミリアの様な芸術的で神秘的な建物を見、中央の塔――『祈りの塔』内に設置されているカラクリが奏でる美しいメロディに聞き惚れ、この建物をイメージして作られた巨大パフェのあまりの大きさとボリュームに目を剥きひいこらいいながらそれを口に運び、この辺りの州にしか生息しない動物を見て興奮し、あちこちで写真を撮り、『恋人橋』なる最早橋として使えない位常に観光客で溢れている橋にて恋人ごっこをして遊んでげらげら笑い(勿論理子と晃はごっこではなく本気でいちゃついていた)、沙羅が好きだという音楽家の記念館を訪れた時にはたまたま来ていたその人の孫と会って話し……と旅行自体は大変面白いものだった。楽しい、という感情がとめどなく溢れてきて皆幼い子供のように只管はしゃいだ。しかしそうやって楽しめば楽しむ程それとは真逆に位置するものも際立つ。


 旅館にて夕食を食べた後一日の思い出を語らっていたのに、いつの間にか二月二十九日の話になって、気づけば空気は冷たく重苦しいものになり、お葬式。その空気をどうにか追い払い、再びハイテンションになっても、しばらくしたら戻る。何をしても、どこにいても、帰郷者とその身近にいる人の情緒不安定っぷりはどうにもならないらしい。

 そんな風に心乱れ、涙することもあったが楽しい旅行であったことに変わりはなかった。陽太はその思い出をノートに綴り、写真を貼った。船に乗り、海を渡り幻淵へ帰るまでの間皆で「忘れない、絶対忘れない」としつこい位何度も呟いたことを思い出す。


 旅行のことも、素晴らしい思い出を生み出してくれた友のことも。忘れたくない、ずっとずっと覚えていたい。その言葉を陽太達はことあるごとに使っていた。そうして何度も何度も口にして、しつこい位自分に言い聞かせればその通りになるような気がしたから。それ位でどうにかなるようなことだと信じていたから、いや、信じていたかったから。

 そして、二月がやってきた。別れの月がとうとう巡ってきたことをめくったカレンダーが示す。


「……もう、きちゃった」

 カレンダーを眺め、陽太はため息をついた。後少しで帰れる、やったやったという気持ちと永遠に幻の二月の淵は幻のままであればいいんだ、という思いがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。外を歩いていると、あちこちの建物の窓辺に丈の短い蝋燭の周りを和紙で覆ったものが置かれているのを見た。それは古き帰郷者を送り新しき帰郷者を迎える川に流すもので、二月一日から二十九日までの間夜月光が差し込む窓辺に置いておくのだという。そして二十九日の夜に火をつけ手を離すとそれは空へと飛んでいき、不思議な力により空間を越え、川へ身を委ねる。その灯りが地上の天の川を作り出すのだ。閏の国の住人の誰もがその灯りを作るが、帰郷者である陽太は作らなかった。古き者を送り新たな者を迎える祭りの会議にも出ていないし、運営に携わってもいない。そのことが、自分達帰郷者がこの国に属する者では無くなりつつあるという事実を体現しているように感じる。


(僕達はこの国という名の輪から外れつつある。少しずつ自分達が『余所者』になってきているのを感じる……)

 異邦人、という言葉が今の自分達には似合う気がした。今まではこの国に属しているこの国の民であるという思いがあったのに。もう今では自分達は別の国からやって来た人、輪の中ではなく外にいる人、異物なのだ。そして向こうへ帰った瞬間、その輪の形、その輪の中にいる人達の姿さえ見えない程遠くへ弾き飛ばされ、この国とは縁もゆかりもないような人になる。代わりに新たな帰郷者が呼ばれ、その輪の中に入り閏の国の民となるのだ。


「悲しいか」


「悲しいよ、そりゃあ。そりゃ向こうに帰りたくて仕方なくて、夢に見る程だけれどさ……でもこの国のことも好きだから。……ここに留まっても変にはなりませんよ、今まで通り過ごせますよと言われても留まりはしないだろうけれど。最近までの僕だったら、迷ったかもしれないけれど。気持ちが向こうに引っ張られていて、早く、一日も早く帰りたいって今は思う。思うけれど、やっぱりさ……寂しいし悲しい。ちょっと前当たり前のようにいたところから追い出されて、しかももう戻れない。輪の近くにはいるのに、その中に入ることは出来なくて……輪の中にいる人誰も彼もが近くて遠い存在になって。なまじすぐ傍にいるから辛いんだよなあ。輪も見えない位遠くに行ったら疎外感とか覚えないで済むのに」

 二月に入ってから陽太はお世話になった人、何らかの形で関わった人達のもとを訪ねていた。別れの挨拶と感謝の気持ちを述べる為に。より親しい人達には旅立つ寸前に言うつもりでいる。今会いに行っているような人達はそこまで親しくなく、関わりもそこまで深くない人だったがそれでも別れを告げるのは辛かったし、話している内に色々思い出し涙腺が緩んでしまうこともあった。これでは特別親しかった人と別れる時は酷いことになるだろうと今からうんざりしている。

 今日も何人かの人に会いに行き、話をしている内悲しくなって泣いてしまった。もう近頃は涙を流さなかった日を探す方が困難な位だ。陽太と語らっている善治は、自分は帰郷者でないからこの世界から外される悲しみを知ることはないだろうなと呟く。彼はここで働いている見回り烏の中で一番陽太と仲が良く、愚痴の様な話も親身になって聞いてくれ、それが陽太にとってはとてもありがたかった。


「まあ俺に出来ることは話を聞くことと、お前にお土産を持たせてやることだけだ。思い出って名前のお土産だ。今日も沢山話を聞かせてやるよ、俺が見てきたもののことを、沢山な」


「ありがとう。君は本当、仁左衛門とは大違いだ。あいつは楽しいものじゃなくて、嫌なものしかくれないから。昨日も僕はあいつにヘコキを投げつけられて、痛いわ臭いわで大変だった」


「あいつはこの頃になると帰郷者に積極的に悪戯するからな。しかも結構性質が悪いものを。うんと嫌な思いをさせて、嫌な思い出を持って帰らせるんだとかなんとか言ってな。もしかしたら寂しいのかもしれないがな、あいつも」


「……結局あいつとは仲良くなれなかったや。もしかしたらどうにかなるかもしれないとかたまに思ったこともあったけれど、どうにもならなかったね。それが少し心残りなような、そうでもないような」


「いつかあいつをどうにかする帰郷者が現れるかもしれないな。そんな奴が出てくるのが先か、あいつが死ぬのが先か分からんが。……帰郷者は次々とやって来る、色々な奴がやって来る。いつかは運命の人がやって来るかもしれない」

 そういう日が来てもおかしくはないかもしれないと陽太は思った。その時、自分はもういないけれど。

 憎たらしい仁左衛門が、誰かに心を開き見回り烏として一生懸命働いていた時のことを思い出す――それを想像したら、ほろり涙。彼にされた嫌がらせの数々を思い出して、腹が立ちつつも涙。まさか仁左衛門と別れることさえ寂しいと思う日が来ようとは。最早以前職場に入ってきて捕まった泥棒のことを思い出しても、あの人ともお別れかと思い涙するようになっていた。手離しても、忘れても構わないものなど何一つない。この国には、一つも。

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