故郷は幻の二月の淵に(17)
*
夜空を駆けろ星天馬 瑠璃の水裂け星天馬
水を裂けば 角が擦れる
角を擦れば 舞い散る七色
夜空を駆けろ星天馬 空に作れ螺鈿の道を
顔にペイントを施し、星柱を振りまわし、白い衣に身を包んだ子供達が星掛けをしながら駆けている。その光景も最早陽太の中ですっかり夏の風物詩となっていた。しかしこの風景も今年で見納め、奏のような例もあるが恐らくはもう二度と見ることの出来ないものだろう。陽太はそっと頬に描いたペイントに触れる。初めて祭りに参加した時は颯馬に描いてもらったが、今ではもう自分で描ける。手に持つ星柱が魅せる煌めき。もう最後だからといっとう良いものを作ろうと自分では頑張ったつもりで、実際今までで最高の出来であるように思えた。
今後のスケジュールや設置した会場等の確認をしている内、大鷲が空硝子にヒビを入れる。あちこちに設置された灯りが光を抱き、地上に溢れる七色星々。現実世界を夢幻に染めるその輝きを見ると、ああお祭りが始まるんだなという実感がより湧いてくる。そして始まる星降ろし。初めての満星祭りの時は客席に座って見ていたが、今年は舞台裏であっちへ行きこっちへ行きで大忙し。緊張の面持ちの若星子達を「頑張ってください」と月並みの言葉と共に舞台へ送り出し、全身全霊を捧げ満身創痍になっている彼等を迎え、お疲れ様と声をかけ後の世話をする。
一日目から三日目は殆どふるさとのさと職員としての仕事に追われていた。パトロール、イベントの準備や進行、迷子の世話、道案内……。食事は仕事の合間を縫って摂り、二日目には草十郎の店を訪ね山賊汁を食べた。祭りの準備の時にも彼とは会ったがまともに話など出来ず、今も同じようにお互い忙しい身だからまともな会話は出来なかった。それでも草十郎は嬉しそうだったし、陽太も久々に彼と話せて嬉しいと思った。
あるイベントの行われる会場の場所を聞き、ありがとうと礼を言って去る人の後ろ姿を見、祭りを楽しむ側も良いが、こうして動かす側に回るのも酷く大変で「今すぐゴミ箱に放って捨ててしまいたい」と思うこともあるものの、やりがいを感じ面白いと思う。自分達の仕事の積み重ねが一つの大きなものを生み出し、それによって人々が笑顔になる――そのことをたまらなく素晴らしいと思った。それまでは進んで何かを動かす側に回ることも殆どなかったが、この国に来たことで自分がそういうことを好きで、やりがいを感じる人間だということが分かった。自分が今まで知らなかった部分をこの国は露わにしてくれ、そして陽太の世界を幾つも塗り替え、そして未来へ続く道の数も増えた。もしここに来ていなければ、その道が生まれることは無かったかもしれない。けれど。
進行を任されたイベントの最終準備を進める中、陽太は思う。
(この気持ちは向こうへ帰っても続くだろうか。僕は単純に幻淵が好きだからここを好きになってもらうような、ここに住む人来る人を笑顔にするようなことをするのにやりがいを感じているだけかもしれない。それじゃあここではない場所では? 向こうでも僕は同じように、これ程までに頑張れるだろうか……楽しむ側ではなく、楽しませる側に回ることの方に喜びを感じるだろうか?)
ここへ来て自分の世界は広がったが、ここを後にしてもまだその世界は広いままで、新しく出来た道はそのまま残り続けるだろうか。ここで得たもの、気づいたものは向こうへ帰った途端記憶の彼方へ行ってしまいはしないだろうか。そもそも向こうが自分にとって幸せな世界になっているとは限らない。帰ってみたら家族がいなくなっていたとか、とんでもない事件や事故に巻き込まれていたとか、受験に失敗したとかそんな良くないことが起こっていて酷いことになっていた――ということもありえるのだ。
向こうへ帰った時、自分はどうなってしまうのか、どんな風になっているのか。想像の出来ぬ未来に不安を覚えない陽太ではなかったが、それよりも向こうへ帰ることを楽しみに思う気持ちの方が強い。向こうの友達がどのように成長しているか、自分が向こうでどんな四年を過ごしたか早く知りたい、大切な人達に早く会いたい――それは間違いなく去年の今頃は持ち合わせていなかった思い。
朝から晩まで働き通しだった陽太は三日目の夜から晴れて自由の身となり、最後の満星祭りを楽しむ側へと回った。
集合場所であるイベント会場をきょろきょろ見回していると、喧噪に混じって聞こえる陽太の名を呼ぶ美しい声、見ればひらひら白い蝶、否白くしなやかな手。
「陽太、こっちだよこっち! 早くおいでよ理子も晃も、颯馬ももう来ているよ!」
陽太を呼ぶ沙羅とその隣に立つ双樹の姿はよく目立つ。特別派手なペイントを施しているわけでもないし、衣装もその他に身に着けているものも周りの人達と大差ない。にも関わらず二人の姿は目立っていて、遠くからでも簡単に見つけられる。只人が持たぬ輝きを彼女達は持っており、そしてそれは歳を重ねる毎に確実に強くなっているのだった。また二人はその強い輝きをますます眩いものにさせる容姿の持ち主で、それもまた年々進化しているように思える。人間離れの美しさ、顔のペイントを拭い去り衣装をキトンとヒマティオンに変えれば、そこに御座すはギリシャの神々。人間がそうやすやすと触れてはならぬ存在に思え、故に美男美女ながら逆にもてない。陽太も例え奏という想いを寄せている人がいなかったとしても、沙羅に恋することはなかっただろう。恋するなどおこがましいと思えるのだ。しかし喋れば年相応の、普通の娘であり、恋人にはなりたいと思わないが友達ではいたいと思える。
「仕事、お疲れ様です」
「まだ祭りの片づけとか、色々仕事はあるけれどね。あ、颯馬久しぶり。理子さんと晃さんも久しぶりだね」
双樹から労いの言葉を貰った陽太は久々に会った友人に手を振った。笑って手を振り返した理子は草薙庵で共に暮らしていた時よりも髪を少し長くしており、昔より大分落ち着いた女性らしい雰囲気がある。晃も以前よりやや逞しくなっており、頼もしい感じになっていた。二人は人目も憚らず手を繋いでいる。様々な出会いを経て成長しているのは陽太だけではなく、また年上な分理子や晃、颯馬達は彼の一歩先をいっているように思え、まだまだ彼等に比べると自分は子供だと思う。といっても祭りの中はしゃぎはじめれば皆同い年の子供のようになってしまうのだけれど。
「理子さんごめんね、笛の演奏聞きに行けなくて」
「いいわよ別に。あんなのいつだって聞かせられるもの。なんなら後で披露してあげるわ」
「それじゃあボク達と合奏しようよ、手頃な場所でさ。天に、皆に楽と歌を捧げようじゃないか。きっと盛り上がるよ、周りの人達皆が踊りだす。楽しいよ、きっと、いいや絶対に」
実にいいねと満場一致。それはそうと、と颯馬。
「今年はお前達神を降ろしていないんだな。珍しいこともあるもんだ!」
「何を言っているんだ君は、ボク達に神が降りたことなど一度もないぞ」
「あるから言っているんだよ!」
「祭りの力で様子がいつもと違ってしまっているのを、神が降りたのだと勘違いしているだけさ。馬鹿馬鹿しい!」
一蹴。彼女達は相変わらず自分達に双子の星神が降りていることを自覚していないのだ。颯馬に指摘され、そういえばそうだなと陽太は思った。沙羅が風邪を引いて祭りに参加出来なかった時も、二人して双樹の体に降りてまで祭りに参加したような彼女達なのに、今回はどちらにも降りている様子がない。もしかしたら帰郷者である陽太達と過ごせる最後の満星祭り位は……という神の配慮なのかもしれなかった。
そう、もう最後の満星祭りになるのだ。来年はない。そう思うと心臓が潰れるような心地がしたが、こんな気持ちで過ごしても楽しくないと思いなおす。最後の祭り、残された時間は短いが精一杯過ごそう。
夜も明、地に満つ星、灯り。橙や黄、赤、青、緑、紫――天に吊るされた星寄せ飾りや提灯、屋台に設置された照明等が灯す灯りはあらゆる境を潰し溶かす夢幻の光。全てが溶けた現の中の異界を人々は行き、歌い踊り騒ぎ飲み喰らう。普段なら気が狂ってしまうだろうと思われる程の喧噪だって、今は愉快な時間と共に流れるBGM。
今なら好きな物を好きなだけ食べられる。ここで食わねばいつ食べると言わんばかりに皆よく食べた。陽太も祭りが終わった後いつも苦しい思いをするのに、食べる、食べる。目についたもの全てを喰らう怪物にでもなったような気持ち。この国にしかない食材を使ったもの、この国にしかない料理を特別多く食べたのは陽太だけではなかった。皆食べられる内に食べておこうという腹づもり、腹が膨れても膨れてもまだ食べる。この味を、その食べ物に詰まった思い出を死を迎えるその日まで忘れないように、食べて、食べる。
勿論食べるだけではない。踊り狂ったり、イベントに参加したり、肩を組みながら天に向かって高らかに歌を歌ったり、星掛けを口にしながら川で幼児の如くはしゃいだり。浦和邸へ行って颯馬の世界を変えた星寄せを見、のどかと二回目に会った時共に見た思い出の人形劇を見、久しぶりに颯馬とふざけ合い、颯馬と晃の馬鹿な掛け合いに呆れつつも笑い、颯馬と理子の懐かしのやり取りに無駄に感動し、草十郎に生意気な口を叩いた結果頭を思いっきり叩かれた颯馬を見て笑い、久々に会った友人達と語った。
衣を脱ぎ下着姿になった酔っ払い達が馬鹿踊りをしていても誰も気にしない、むしろいいぞやれやれと囃したて、輪に混ざり、嗚呼馬鹿騒ぎ。酒を飲んでいない颯馬も、脱ぎこそしなかったがそこに混ざって馬鹿踊り、最後にはそれを呆れながら見ていた沙羅達まで加わって。境の消えた世界は人を馬鹿にする。だがその馬鹿になる感覚が面白い。
「相変わらずこの祭りになると皆色々な部分がいかれるよなあ! こんな滅茶苦茶になるまで食って踊って騒いでさあ。そりゃあ向こうでも祭りの時はテンションMAXだったけれど、にしてもここまでハメ外すことはなかったぜ!」
「本当にね。それにしても向こうのお祭りかあ……懐かしいなあ。僕に住んでいる町でも毎年夏祭りが催されるんだ。桜山って山の前でやるお祭りでね、名目は村に昔住んでいたすごい力を持った巫女様と、その巫女様と相討ちになって倒れた悪い化け狐の為のものらしいけれど、中身は基本普通の夏祭りなんだ。一応巫女と化け狐に舞を奉納するんだけれどね……見たことがないや」
そう言って陽太は桜町に伝わる巫女と狐の伝説を語ってみせた。友人はその存在を信じていたが、陽太は作り話として聞いていた。しかし最近は、こういう国が実在しているのだから妖等が実在していたとしてもおかしくないと思っている。
「隣の三つ葉市って所では毎年花火大会が開かれてね、夏といえば桜山のお祭りよりむしろそっちの祭りの方が印象強いかもしれないなあ。向こうの世界の花火の方が色とか色んなものが派手だよね……懐かしいなあ」
「俺の住んでいる街では、鬼踏み祭りってのがあったぜ。すげえ怖い鬼の絵が描かれた布の上で、武装した男達が舞うんだ。これがすごく激しい舞でさ、しかもおっかない面をつけているから迫力が半端無いんだ。俺、チビガキの時に泣いちまったらしいぜ」
「へえ、変わったお祭りね。あたしの住んでいる所にはそういう変わったお祭りはなかったわねえ。夏祭りはあったけれど。お祭りといえば、昔友達と浴衣着てお祭りに行ったらちゃらい男達にナンパされてあせったっけ」
「お前をナンパする物好きがこの世に存在したのか! センスねえなあその兄ちゃん」
センスがないとはどういう意味よ、と理子が颯馬に食ってかかる。言った通りの意味だよ馬鹿とあかんべえをすれば、理子がたこ焼きを食べ終わり用済みとなった楊枝をそこに思いっきり突き立て、ぐさり。痛いなこの馬鹿、うるさい自業自得よウルトラ馬鹿、と喧嘩する二人の時は在りし日へ逆戻り。飽きる程見たそのやり取りがとても懐かしく見える。
「颯馬が何と言おうが、理子は素敵な女性さ。ちなみに僕の住んでいる街では褌一丁で、生きたウナギの頭を口に含み、馬に乗り乳首にカニの爪がついたピアスをつけた男が市中を駆け回るという祭りがあるよ」
「嘘だろ!?」
「はっはっは、勿論嘘さ」
「ですよねえ!」
晃のくだらないジョークに笑いながら、気づけば話は向こうの世界についてのことになる。こんな芸能人がいたよね、この漫画が好きだったんだけれど続きが気になるとか、自分の故郷はこういう所だとか――そんな話。誰かの話を聞くと懐かしさで胸がいっぱいになり、そしてそれが今まで忘れていた事柄を思い出させ、それを語ることで他者の記憶を引き出した。ここまで向こうのことで大盛り上がりしたことは今までなかったかもしれない。
「……随分楽しそうだね」
そんな沙羅の不機嫌な声を聞くまで、四人はずっと喋っていた。腕組みしている沙羅は随分むすっとしており、双樹はとても寂しそうな顔をしていた。その様子が四人の胸を締めつける。
ごめん、と謝罪の言葉を口にすれば「……別に」と沙羅。別にとは言っているが、相当へそが曲がってしまっているらしい彼女は四人を置いてきぼりにするように早足ですたすたと歩く。本当にごめんよ、つい夢中になってしまってと四人が何度も何度も謝って、ようやくその足が止まった。
「構わないさ。……元々君達は向こうの人だもの。この頃になると、帰郷者達は今まで口にしなかった向こうの世界のことを喋るようになってくる。以前もボクと双樹は帰郷者と親しくなった……年上のお姉さんで、とても優しい人だった。その人も最後の年には向こうの世界のことばかり話していた……そんな頃になってようやくボクは思い出した、嗚呼そうだこの人は帰郷者だった、ずっとここにいるわけではないのだと。ボクはその人のことが好きだったから、彼女と別れたくなかった、でもあの人は行ってしまった。別れたのがボクも双樹も辛くて仕方なかった……でも、もうその人の顔も声も名前さえもボクは覚えていない」
天を仰ぐ沙羅の姿を見た時、初めて陽太は気づいた。陽太達帰郷者がこの国に住む人達と辛い別れをしなければいけないように、この国に住む人達もまた親しくなった帰郷者と別れる辛さを味わうのだと。今までそれは考えもしなかったことだった。
「ここに住んでいる人達も忘れてしまうの? 僕達帰郷者のことを」
ああ、と二人が同時に頷く。
「君達が完全に向こうの世界に属する人に戻った時、ボク達にとって君達は夢の人になる。一緒に遊んだこととか思い出しても、それが本当にあったことなのか分からなくなる。全ては夢の出来事になっていくんだ。君達と違って、ボク達は何度も出会いと別れを繰り返す。何度も、何度も出会って美しい思い出を作ってはそれを手離す。手離しても、手離しても懲りずにまた新しい出会いと思い出を求めるんだ。嗚呼、忘れていたよ。君達は向こうの人だったね。こうして満星祭りを共に過ごすことも、もうないんだね」
今まで皆さんが向こうの世界のことについて話すことってあまりなかったですものね、と双樹が呟いた。
この国に属する者として生きていた陽太達は、最後の年を迎えるまで殆ど向こうのことについて話すことはなかった。だがこの頃は段々と向こうへ属する者に戻りつつあり、今まで考えもしなかった向こうのことを考えることが多くなっている。この国に住む人達はその頃になって、親しくしていた人達が帰郷者であったことを思い出すのだという。そして別れが近付いていることを自覚するのだ。
「段々と君達は離れていく。ボクも君達から離れていく。帰郷者と関わる以上、四年に一度必ず来る時だ。離れて、別れて、朧になる。……ボク達は君達と別れることを本当に辛くて寂しいことだと思っているよ。でも、その気持ちも共に過ごした日々の思い出も君達が帰った途端遠ざかっていくんだ」
自分達が彼女達を忘れていくように、彼女達もまた自分達を忘れる。彼女達もまた別れの辛さを味わうこと、自分達が忘れられる側にもいること、そのことに気づかされ胸が痛む。出会いは別れの約束を生み、双方に痛みを与える。苦しみは一方だけでなく両者に等しく与えられるのだ。
陽太は最近向こうのことをふるさとのさとの職員や見回り烏、近所の人達に聞かせることがあった。それを皆微笑みながら聞いていたけれど、心の奥底では何を思っていただろう。心は、笑っていただろうか?
「ねえ君達。……ボクの前では向こうの話をしないで。せめて祭りが終わるまでは……この国の人としていて。ただのボクの我侭だけれど。ボクはまだ忘れていたい。君達との別れが近付いていることを、君達が向こうの住人でいることを」
僕もお願いします、と双樹が沙羅と共に頭を下げた。それに反対する者はおらず、皆静かに首を縦に振った。自分達もまだ忘れていたかったから。別れと忘却の未来を。
重苦しい空気はそこでおしまい。祭りの空気に身を委ねれば、あっという間に元通りだ。
「おや陽太君、コラボ商品の試食会以来だね。陽太君が建てた素敵な企画のお陰で、良いものが作れたよ。売れ行きも好調さ、本当にありがとう」
「颯馬の坊主じゃねえか、久しぶりだなあ! お前人形作りを今やっているんだってなあ。手先が器用ってことは知っていたが、驚いたよ。お前さんと人形なんて、糸で結びつけようとしても出来ないもの」
「あ、理子ちゃん。今日もお熱いわねえ、ひゅうひゅう!」
「お茶のお兄ちゃんだ! お兄ちゃんの淹れたお茶、美味しいんだよね。お茶兄ちゃんまた絶対行くからね、その時はもっともっと美味しいお茶出してね。後さ、後さ、星神の話も沢山してね! ねえねえ芳江、俺お兄ちゃんみたいにかしこくて、美味しいお茶を淹れられる男になりた……痛い!」
「親を呼び捨てにするなって何度言ったら分かるのあんたは! あら、ほほ、ほほほ。あらふるさとのさとの人も一緒なのね。この前は本当にありがとうございました……ほら、あんたもちゃんとお礼を言いなさい。あの時ちゃんと言ったからいいじゃありません!」
とまあこんな調子で沢山の知り合いに声をかけられた。陽太達はこの国で自分達はこれ程までに多くの人と繋がってきたのだと改めて気づかされる。その繋がりは向こうへ帰っても消えることはないが、酷く霞んでしまう。そのことを今は考えたくなかった。沙羅と双樹が願ったように、今は今だけは別れを忘れよう、自分達が向こうの住人であることを忘れよう。
遊び、飲み食い騒いだ彼等が四日目、祭りの終わりが大分近づいた頃向かったのは星降りの森。あれが良い、これも面白い、これが素敵と言いながら森を彩る星寄せを見ていた六人はある星寄せの前で止まり、天へ向かって伸びるそれを見上げた。
「おう、実物を見るのは初めてだな。うん良い出来だぜ颯馬スペシャル改!」
「その名前やめてよ……。でも確かに良い出来だよね、確実に初めて作った時よりも進化しているよこれ」
六人の前にある星寄せは陽太と颯馬、理子、晃の四人で作ったものだ。最後の満星祭りに草薙庵のメンバーで作った星寄せを幻淵に飾りたい、と言いだしたのは颯馬だった。三人はその提案に乗り、颯馬が送ってきたデザインを基に星寄せ飾りを作った。ちなみに颯馬スペシャル改というださい名前は、デザイン図に颯馬が書いたふざけて書いたものだ。星寄せ全体のデザイン及び飾りのデザインは、初めて作ったものに改良を加えたものである。晃にとっては思い入れのないものではあるが、彼は文句を言わなかった。
「あの時は僕と颯馬が死ぬ気になって作ったけれど、今回は理子さんと晃さんが頑張って作ってくれたんだよね」
ふるさとのさと職員としての仕事で馬鹿みたいに忙しかった陽太と、満星祭りの時に展示する人形等を作っていた颯馬は僅かな時間を使って飾りを作っては草薙庵に送ったが、それ程多い数は作れず結局二人よりはまだ時間に余裕があった理子と晃がここに飾られているものの殆どを作ったのだった。そしてとても運が良いことに、再びその星寄せをこの森に飾ることが出来たのだった。
「晃は手先が器用だな、まあ俺には劣るけれど。完成度高いよなあ、まあ俺には劣るけれど。それに比べて理子のは……これ大丈夫だよな、血とかついていないよな。お前どうせ穴だらけになるまで指を刺しまくったんだろう」
「そんなに刺していないわよ! 失礼しちゃうわね! 血もついていません、ちゃんと確認しましたからね!」
「確認したってことはついている恐れがあったってことだ」
「違うわよ馬鹿! ほら見なさいよ、手! 全然怪我していないでしょう!」
「ふん、怪我なんてすぐ治るもんだ。愛しの晃様に舐めてもらえばそれこそあっという間に完治……痛え!」
馬鹿なことを言っているんじゃないわよ、という怒鳴り声と共に振り下ろされた容赦ないげんこつ。その顔は真っ赤だ。全くこの二人は本当に仲が良く、祭りの間も何度こんなやり取りをしていたことか。
「確かに理子の指は穴だらけだったが、僕が舐めたら一瞬で穴は塞いだっけね。舐め舐め治療法及び愛の力はすさまじいな」
「もう晃まで!」
颯馬の冗談に乗っかり笑う晃から、嫉妬の匂いが微かに香る。彼はふざけたことを言うことで理子の意識を自分の方に向けたかったのかもしれない。そのやり取りを見て笑いながら、星寄せをじっくりと眺める。
自分の作った物は前よりは上手くなったがそれでもまだ少し不恰好で、理子の作ったものもそれとどっこいどっこい、晃のは作りが丁寧で、颯馬の作った物は他の三人と比べ物にならない位クオリティが高く、この人はどれだけ上達すれば気が済むのだと感心してしまう位だ。そこに、晃と同じ位作りが丁寧な草十郎作がちらほら。
陽太と颯馬でひいひい言いながら星寄せ飾りを作り、舞の練習により死人の様になっていた理子がそれでも懸命に作ったあの日々。次の年に颯馬は草薙庵を出、晃がやって来た。あの時の星寄せ作りは陽太のせいで辛く重苦しいだけの時間になっていた。そのことも晃にヤキモチを妬いて酷いことを言って傷つけたことも、今ではもう良い思い出になっている。それから陽太が草薙庵を出、理子は笛に夢中になり、晃はお茶と出会った。最初に星寄せを作った時にいた世界は、もうずっと遠くにあり、今はそこより先の新しい世界を歩んでいる。懐かしいデザインの星寄せを見た時、先へ進む為に置いて行った世界の姿が脳裏に浮かび、懐かしさと愛おしさに泣きそうになった。
「……良い星寄せが作れて良かった」
そう呟いた陽太を見て、ああそうだねと三人頷いた。彼等もまた過ぎ去った世界を眼前の星寄せの中に見ているのだろう。また四人の世界に入っている、と沙羅は少し頬を膨らませたが、まあ仕方ないかと肩をすくめて笑う。
六人は最後の星寄せの写真を撮り、それからその前で集合写真を撮った。そして幻淵の思い出が詰まった星寄せを後にするのだった。
祭りの最後、理子が笛を披露してくれた。沙羅と双樹がそれに合わせて得意の楽器を演奏しながら、美しい声で歌を歌う。最初は手拍子したり、体でリズムを刻む程度だった陽太達は音楽が盛り上がるにつれ気分が高揚し、最後には一緒に歌いながら踊りだした。その輪に近くを通りかかった者達が加わり、どんどんと人は増え言葉を交わしたこともない見ず知らずの他人と、十年来の友達であるかのような態度で手を繋いだり叩いたり、肩を組んだり歌ったり。祭りに境はなく、知人も他人も無い。他の誰もが自分で、自分はここにいる人全てである。世界は自分、自分は世界、全てが一つ、一つが全て。
楽しい時間は瞬く間に過ぎていく。陽太達は一生分やったのではないかという位歌い踊り、騒ぎ、そうしている内に最後の満星祭りは終わった。踊り疲れた六人は倒れるようにその場で仰向けになり、空を見上げた。
「……終わったね」
「ああ、終わっちゃったな。陽太、お前片付けに行かなくていいのか?」
「行かなくちゃいけないけれど、まだ時間はあるから大丈夫だよ」
正直、この場を離れたくなかった。一分一秒でも長く、皆と一緒に居たかった。こうしている内は祭りは終わらず、皆と一つのままでいられる気がした。ここで片付けに行ったら本当の本当に祭りが終わってしまう。そして皆離れ離れになり、再びそれぞれの世界を歩み出す。考えていることは皆同じなのか、誰もそこから立ち上がろうとしなかった。
「……ずっとこうしていたいね」
「そうだなあ……」
「このままなら一緒だものね、ずっと皆一緒……」
「けれど、もう終わりなんだ。ちゃんと終わりにしなければいけないんだ」
そう言う晃は星座盤を悲しそうな目で見つめていた。星座盤の中央に浮かんでいる絵を見ているのだろう。それがあるということは、祭りが終わったということを示す。そこに映し出されている絵を見るということは、祭りが終わったことを認めるということ。認めたくなかったが、まだ祭りの世界の中に居たかったが、それでは駄目なのだ。皆、ため息を漏らしながら星座盤を見る。こんなに苦しい気持ちを抱きながらそれを見たのは初めてだ。沙羅と双樹の以外は皆同じ絵が映し出されている。今まではこの先に起こることを告げる絵だったが、今回は違った。
帰郷者最後の満星祭り――それが終わった後に映し出される絵は『お疲れ様、さようなら。向こうでもどうか幸せに』という意味を持つものだ。ここの住人でなくなる陽太達を星神達は占わない。代わりに別れの言葉を贈るのだ。
祭りが終わった。そしてもう次はない。来年の今頃、この国に陽太達はいない。陽太達のいない世界で皆笑い、歌い、踊り、飲み食らうのだ。陽太達はこの国になれず、この国は陽太達にはなれない。祭りの力で一つになった世界に、陽太達はいない。その逃れようのない未来を、美しい絵は告げていた。
もう来年はここにはいない。沙羅と双樹と一緒に遊ぶことも、草十郎の作った汁を飲むことももう出来ず、星寄せも作れず、星寄せ飾りの出来を良くすることも出来ず、ふるさとのさと職員と死にそうになりながら祭りの準備をすることもない。
向こうの世界で生きる代わりに、この世界を失う。
「終わりたく、ないなあ……ずっとこのままで、いたいなあ……」
そう呟いた陽太は泣いていた。陽太だけではない、皆泣いていた。泣かないって決めたのに、もうと理子が涙声で悔しそうに言った。颯馬は涙にぬれた顔に星座盤を押しつけ、晃はどんなものより残酷なお告げだよこれはと笑いながら言ったが、その瞳からは涙が際限なく溢れその声は震えている。祭りが終わった途端思い出させるなんて、酷いやと沙羅と双樹。
六人は只管泣いた。泣いて、泣いて、泣いて泣いてまだ泣いた。明日からちゃんと笑って別れまでの道を歩けるように。
その様子を「今日は沢山泣きなさい、誰も笑いはしないから」と星神達が美しく瞬きながら見守っていた。
*
全てが終わり、想いが夢に溶けて見えなくなる前に。満星祭りを終え、両者共に落ち着いた頃陽太は奏に会いに行った。祭りを終え、ますます向こうの世界に頭や心は寄っていたがそれでもまだ奏への想いはちゃんと残っており、彼女の姿を見た途端心臓がバクバクし肉も内臓も血も何もかもが沸騰したような思いがした。もしこうして会った時に彼女への想いを失っていたら、今まで程胸が高鳴らなくなっていたらどうしようかと不安に思っていたが、いつもと変わらない状態だったのでほっとした。してから、こんな情けない状態になっていることを「良かった」と思うのもなんだか間抜けだなあ、と肩を落としたが。
奏は陽太の頭に手を伸ばし、目を細めた。それは姉が弟を見る目、或いは母が息子を見るような目で。
「また大きくなったわね。本当にどんどん背が伸びるわね」
「はい。僕も正直ここまで伸びるとは……前はむしろちょっと低い位だったのに」
陽太の見る世界はもうこの国に初めて来た時とまるで違う。それは単純に背が伸びたというだけではなく、陽太の中に蓄積していった時間の中に詰まっているもの――人との出会い、関わり、心の触れあい、自分の起こした行動、思考等が世界を変えていったのだ。彼だけでなく颯馬も理子も晃も、この国を訪れた帰郷者誰も彼もがその目に映す世界の形を変えてきた。変わったことで失うものもあるが、それは決して寂しいだけのことではない。
奏の姿もまた、初めて出会った時とは違うものに見える。あれ程大きく見えた彼女は背が伸びた今小さく見えたが、その存在はあの時よりもずっと大きなものになっている。そして彼女といる時はより一層世界は華やいで見えるのだった。
二人は屋台で買ったチュロスを手に街中を歩きながらお喋りする。会話の内容といえばいつもと変わらず本のことか、お互いの近況報告だ。お互いの、といっても結局陽太が殆ど一方的に自分はこういうことをした、あんなことした、自分の働きを褒められた、恥ずかしい失敗をした――と喋っているだけで、奏は相槌を打ったり、笑ったり褒めたりばかりで自分のことについてはあまり語らない。体も心も大分大人になったはずなのに、奏と喋るといつだって陽太の時間は三年前或いはもっと前に戻ってしまう。変にはしゃがず、もっと自分は大人になったんだぞということを主張したい彼だったが奏へ抱く強い想いがそうはさせなかったのだ。
「おや奏ちゃん、この前の彼氏とまたデートかい」
前回ここを訪れた時に会ったおばさんと再びすれ違い、またからかわれる。陽太は赤面し俯いたが、奏は顔を赤くすることも、動揺することもなく苦笑いするだけだ。
「だから違いますよ、陽太君は友達であり弟なんです」
照れ隠しでもなんでもなく、それが本心であること位は嫌でも分かる。密かにうなだれる陽太を見て、おばさんは笑いながらも陽太に同情の目を向けた。頑張れ、ではなくこりゃもう駄目だね諦めなさいと言われているような気がする。それは陽太も分かっている。彼女の気持ちが覆ることは、陽太の告白を聞いたとしても決してないだろう。変わるものもあれば、変わらないものもあるのだ。
それでも、例え言ったところで世界が変わらなくても陽太は逃げないと決めた。どうせ向こうへ帰れば幻のようになる想いでも、言葉にしたところで何も変わらなくても、絶対に言うのだと心に決めている。自分の想いを伝えられない辛さを彼はもう知っているから。
相手に抱いていた想いの名前に気づくのが遅かった二人――約束を手離し旅立つのが早すぎた少女、約束の場所へ辿り着いたのが遅すぎた少年が「君だけは、後悔するな」と陽太の背を押してくれている気がした。
二人は美しく大きな川を傍に見るカフェにいた。さっきチュロスを食べたばかりなのに、テラスに設置された丸テーブルの上には注文したケーキと紅茶がある。川の流れは静かで、そして昼間なのに夜空に浮かぶ星々が映りこんでいるかのようにきらきらと煌めいていた。光の川、或いは星の川という別名のあるその川はこの州名物の一つである。
その川と、帰郷者をこの国へと誘った川が重なる。あの川も帰郷者を迎え送る灯が溢れ天の川を流れていると錯覚した位輝いていた。そのことを話したら、私もここへ来る度思い出すのだと奏が頷いた。
「あの光景を見た時、私は涙が出る位嬉しかった。まさかまたここに帰って来られるなんて思いもよらなかったから」
川を眺めながらあの日のことを思う奏を陽太は見、紅茶を一口飲んだ。陽太にとってあの川は始まりの場所であり、出会いの場所だった。目の前をいく川の流れは陽太に流れていった多くの時間を見せる。そして物語は始まりへ。
懐かしさを覚えながらも、どこなのか分からない、どうしてどんな流れで来たのか分からない、夢か現かさえ分からぬ場所に困惑していた少年。その少年に大丈夫だよ、という言葉を優しい笑みと共にかけてくれた一人の女性。
「……僕にとってあの川はとても大切な場所です」
意を決し、一呼吸。真っ直ぐ前を向いて奏を見る。そして奏も真っ直ぐ前を向き、陽太を見た。その瞳は急に真剣な顔つきになった陽太に少し困惑しているように見えた。
「奏さんと出会った場所ですから。こうしてお茶を飲みながら楽しくお喋り出来ているのも、あの日同じ舟に乗ったから……大丈夫だよって隣に座っていた僕に奏さんが話しかけてくれたからです」
「そうだね、そうだったわね。それで話をしたら読書が趣味で好みのジャンルが同じで、同じ作家を好きで……それで気が合って、こうして話しているのだったわ。あの時話しかけていなかったら、別々の舟に乗っていたらこの楽しい時間は存在していなかったかもしれないわね」
そうして浮かべる笑みも、優しい声もあの日から変わっていない。しかしそれらが出会った時以上に美しく、魅力的に感じられる。同じようで違う。そう感じるのはその姿を見、声を聞く自分の心のありようが変わったからだ。自分が変われば世界が変わるのだ。
陽太は微笑みを返し、それからもう一度息を深く吸って吐きだした。その出会いが自分にどれだけのものをもたらしたか、ちゃんと伝える為に。
「あの日同じ舟に乗っていて、良かったって本当に思います。あの出会いはとても大きいものでした。一緒に過ごした時間も、交わした手紙も宝物です。奏さんは素敵なお姉さんでした……奏さんが僕のことを弟のように思ってくれたように、僕も奏さんのことを本当のお姉さんのように思っていました。でも、今は違います。きっとずっと前から気持ちは違った、でもその気持ちの名前に僕は気づかなかった……子供だったから。今も奏さんからしてみれば子供でしょうけれど、でもあの時とはもう違うんです」
え、と困惑する奏を陽太は真っ直ぐ見つめた。照れず逃げず真っ直ぐと。真っ直ぐな想いを伝えるのに、目を逸らしては伝わるものも伝わらない。そして奏も逃げず、はぐらかさず、陽太を真っ直ぐと見つめ返した。
「奏さん。僕は、奏さんのことが好きです。姉として慕っているのではなく、女性として見ているんです。つまりその……恋しているんです、奏さんに」
真っ直ぐその瞳を見つめ返し、真剣な態度で聞きながら奏は大分動揺しているようだった。瞬きの数が明らかに多くなり、まあ…という驚嘆の声が微かに漏れたのを陽太は聞いた。当然だ、弟として見ていた子に突然告白されたのだから。心臓は絶叫し、痛みと苦しみを陽太に与えたが構わず話を続ける。
「奏さんのことが僕は好きです。勘違いじゃないです、冗談でもないです。……でも、分かっています。僕は奏さんの弟以上にはなれないって。付き合ってくださいとは言いません。好きだけれど、ちゃんと恋だけれど……でも、恋人になりたいとか、そういうことは思っていなくて、いえ思っているには思っているんですけれど……そういう気持ちよりもこのままでいたいという気持ちの方が強いというか、あの自分でもよく分からないんですけれど。ぐだぐだですね、すみません。それでもこの気持ち、伝えたかったんです。言わなければきっと後悔すると思ったから。想っていたのに、何よりも誰よりも大切に想っていたのに……その気持ちを相手に伝えられなかった人を知っているから。その人達はもう二度と相手に想いを伝えられない……再会できたとしても、お互いもう別人になっているから。もう片方がもう少し早く気付けば、そしてもう片方が約束を手離すのが遅ければ……伝えられたのに」
陽太はその時初めて自分が前世を思い出したこと、自分の前世の想い人がのどかだったことを彼女に話した。そのことは颯馬にも話していない。奏は驚きの表情でその話を聞いていた。そしてその話を聞き、陽太がどうしようもなかったことに後悔していること、その後悔を再び味わわぬようこの日意を決して想いを伝えたのだということを悟ったようだ。
「ごめんなさい、困らせてしまって。でもどうしても伝えたかったんです。向こうへ行って、この気持ちが遠ざかってしまう前に。奏さん、僕は奏さんが好きです。奏さんと会えて本当に良かったです。あの日同じ舟に乗って良かった、あの日話をして良かった……こうして一緒の時間を過ごせて良かった。奏さんから貰ったもの、全てが宝物です。僕は忘れません、自分に好きな人がいたことを。手紙を交わし、言葉を交わし、共に笑った日のことを。その人にちゃんと想いを伝えたことも、全部。そしてもし叶うなら……奏さんにも覚えていてもらいたいです。今日のことを……僕の言葉を」
言葉に全ての想いを包んで、奏へと手渡す。
奏は手で口を覆いつつちらと陽太を見、それから俯き、身悶え、しっかりせねばと言わんばかりに己の赤らむ頬を叩き、陽太を真っ直ぐと見た。
「正直に言えば、とても驚いたわ。まさか陽太君がそんな風に思っていたなんて考えもしなかったから。自分が女で、陽太君が男の子だってことを意識もしなくて。そう、そうね……陽太君の言う通り、私にとって陽太君は弟みたいな存在で……それが変わることはないわね。ごめんなさい。でも……でもありがとう。ちゃんと想いを伝えてくれて、ありがとう。好きだと言ってくれてありがとう。私は今とても幸福な気持ちだわ。温かい気持ちを、陽太君がとても大切にしてきた気持ちを貰ったから。陽太君とは違う形のものだけれど、私も陽太君のことが大好き。会えて良かったと……あの時話しかけて良かったと思っているわ。私にとっても陽太君から貰った手紙や写真は宝物。陽太君のことを私も忘れない。勇気を出して想いを告げてくれたことも忘れない。遠ざかることと、忘れることは違うものだもの。ありがとう、陽太君。私に沢山のものをくれて」
そう言って奏は満面の笑みを浮かべた。その笑みは今までで一番輝いて見え、そしてそれに負けぬものを返す。伝えて、伝わって、受けとめられた。胸がじんわりと熱くなり、涙一滴。それと共にあの日抱いた強い後悔の念が生み出していた刺がとれ、外へと出て行った気がした。
陽太と奏は時間が許す限り、お喋りした。思い出話だったり、本の話だったり――先程までと変わらない話。奏が陽太を見る目は想いを知った分だけ変わったが、大きく変わったわけではない。ほんの少しだけ変わって、後は変わらず先程までのまま。だがそのほんの少しが陽太にとってとても大切なものだった。
時間は瞬く間に過ぎ、二人は二月の淵が現れるその日までにまた会えるといいねと言って別れた。
その日陽太は夢を見た。立派に成長したまことと、陽太と輝ける日々を過ごしたのどかが向かい合っていて、そしてまことがのどかに好きだと告げる。その言葉を聞いてのどかは顔を真っ赤にしながら涙を流し、私も好きだ、私の一番はまことだと言った。そんな彼女をまことは抱きしめ、のどかも自分よりも一回り背が高く、一緒にはしゃぎ回っていた時とは違いたくましく男らしい体つきになったまことを抱きしめ返した。
それは永遠に有り得ない、陽太の――まことの願望が生み出した幻に過ぎない。だが別に幻でもいいと陽太は思う。
(夢の中だけでも、いいじゃないか。こんな幸せな物語があっても。夢の外には出られないものだけれど、それでもいい。叶わないと知りながらも交わした約束があったみたいに、現実には起こりえないと分かっていながら見る夢があっても……)
手を繋ぎ、まこととのどかは笑い合っている。そして自分に話しかける。まこととのどかとそして自分、颯馬は朝が来るまで夢の中で遊んだ。小さな子供のようにはしゃいで、泥だらけになって。馬鹿みたいに遊んで「ありがとう、さようなら」と手を振って別れた。陽太と颯馬と別れたまこと達はまた手を繋ぎ、幸せな後姿をこちらに見せながら帰っていく。
その日から、陽太がまことのことを思い出すことは殆ど無くなった。まことが自分の前世であることなど忘れてしまったようになり、まこととのどかの夢もそれっきり見なくなった。




