故郷は幻の二月の淵に(16)
ほぼ正解で間違いないだろう仮説が頭を過っては、それを必死になって打ち消す。あっちへ行っても、こっちへ行っても、どこへ行ってものどか達の幻影はついてくる。
「川へ行こう、川! 勝負しよう! 今日こそは勝ってやるんだからあ!」
そう『自分』に勝負を挑んだのどかの幻影がぱっと消える。それを聞いたら陽太は無性に川へ行きたくなり、川を目指し歩きだした。
川の場所は教えられておらず、またぱっと見てすぐ分かる場所にあるわけではなかったのに、少しも迷うことなく辿り着いてしまった。葉も枝も幹も何もかもが生き生きとしている木々の間、申し訳程度にある道を歩いた先にある比較的穏やかな流れの川は透き通っていて、水晶の様だ。川の中堂々と突っ立っている石に当たった水は白くなって、無数の川の真珠。歩く度川原に敷き詰められた石ががらがらころころと音をたてる。その音が今の陽太には時計の針を逆回しする音に聞こえた。石がたてる音も、川の流れも、色も、その中を泳ぐ魚の姿も何もかもが懐かしい。陽太はその辺にあった石を一個拾う。これなら良さそうだ、そう思いながら。そしてその石を川へ向けて投げると石は水を切りながら対岸近くまで飛んで行った。今までこんな遊びをやったことが一度もないわけではなかったが、ここまで綺麗にしかも多くの回数水を切ったのは初めてのことだった。その後何度やっても、上手くいった。石も無意識の内にこの遊びに適したものを選んでいる。
「上手いもんだなあ」
突然の声にどきっとしながら振り向くと、いつの間にかそこには一人の男性が立っていた。まだ若く、恐らくはのどかとそう変わらぬ歳だろう。爽やかな雰囲気のお兄さんで、その笑顔を見ると爽やかで透き通った風を体に受けたような心地がする。どうやらここで釣りをしていたらしい。
「見ない顔だけれど、もしかして君……帰郷者? のどかの家に泊まっているっていう」
流石ド田舎、陽太がのどかの家に泊まっているという話はすっかり広まっているようだ。陽太はその男の人にもなんとなく見覚えがあり、暴れ回る心臓が頭にやって来てもう陽太の中は滅茶苦茶になっていた。それでもどうにかこくりと頷くと、やっぱりそうかと笑う。
「俺は良平っていうんだ。のどかとは同い年で友達だった」
「のどかさんと……それじゃあまこと君とも」
「ああ、まことのことも知っているんだ。そうそうあいつとも仲が良かった。懐かしいなあ……そういえばまことは水切りの名人だったなあ。君と同じ位上手かったぜ」
下手であってくれたらどれだけ良かったか。良平、というとても懐かしい響きの名に胸がかあっと熱くなりながら、陽太は石を投げた右手を見つめる。何かをすればする程追い詰められていき、逃げ場がなくなっていく思いがする。ここで良平と話をしたら疑念は確信に向かって進むばかりになるだろう。今の陽太にとっては美しい自然も、まことと縁のある人々も全てが恐ろしい化け物に思え、段地から逃げ出したいとも思った。何も思い出さなければ、幻など見なければそんな風に思うことも無かったのに。
良平は少しお喋りしようぜ、と近くにあった座るのに手頃な石を指差した。陽太は適当な理由をつけて逃げ出そうとしたが、自身の思いに反して体は見えない力に吸い寄せられるかのように石の方へ向かっており、気づけば腰かけていた。
最初はお互いの簡単な自己紹介で、それから良平は幻淵での暮らしや向こうの世界のことについて色々と聞いてきた。彼は段地とは比べ物にならない位大きく活気のある幻淵の様子や、外つ国の諸々の話を大変熱心に聞き、すごい面白い行ってみたいと幼子の様にはしゃいでいる。その笑顔と彼よりずっと幼い少年の幻影が重なり、懐かしさが刃となって胸を刺し、ずきずきと痛む。
話は幻淵や外つ国から、のどかのことへと変わっていく。彼もまたのどかが幻淵でどんな日々を過ごしていたか気になったらしい。陽太は佐和に話したのと同じようなことを良平に話してやった。良平は嬉しそうな、だが少し切ない笑みを浮かべながら陽太の話を聞いている。その笑みは佐和が浮かべていたものとよく似ていた。そして代わりに良平はのどかの思い出を語るのだった。佐和と同じことを話していても、母目線ではなく友達目線で語られると話の印象ががらりと変わる。のどかのある行動の真意、ある事件の真相を佐和は知らないが良平は知っていることがあったし、佐和にとってはあまり感心しない、良くない思い出でも良平にとっては愉快な思い出――などということもあった。そして自分の心は佐和より良平の話に寄っていた。そして良平はまことのことも話した。それを聞くと懐かしいとか、あの時は楽しかったとか、辛かったとか、むかついたとか、幸せだったとかそんな気持ちが絶えず全身を巡り、映像が浮かんだ。青い空に浮かぶ雲が静かに流れる。時が流れていく、いや逆戻りしている。過去に向かって白い雲がゆっくりと進んでおり、それと共に陽太の中にある時計も逆回り、針は過去へ、過去へ。
「――そしたらまことの奴、なんて言ったと思う? 俺は」
「俺は最初からこうなると分かっていたんだ。俺様は皆がやったらやばいと思うことだって進んでやる勇者様なんだぜ、本当なんだぜ、分かっていてやったんだぜ……」
「あれ、知っていたの?」
「そりゃそうだよ俺が……あ、いえ何でもないです。あの、のどかさんから聞いたんです。のどかさん、色々まこと君のことを話してくださって、その時に!」
すんでのところで我にかえった陽太は慌てて言い訳する。良平に対して、そして自分に対して。良平はそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「あいつ、まことのことばっかり話していただろう?」
「はい、沢山……彼のことばかり話していました」
「俺のことは何か話していた?」
正直良平、という名に『陽太』は覚えが無かった。多分のどかにとって彼は数ある友達の一人、彼のことを話していたことがあったのかもしれないが、具体的な名前は出していなかった。しかし全然話していなかったと言うのも気が引けて困ったように笑うだけにしたら、察したらしい良平が苦い顔。
「そうだろうなあ、俺なんてあいつにとってはそんなものだったもんな。まことと家族以外は所詮『その他大勢』だもの。まことがいなくなってからもずっとそうだ……実はさ、俺のどかのことが好きだったんだ」
「えっ、良平が!?」
「え?」
「え、あ、いや、ええ、その、すみません……」
驚愕し、大声を上げながら思わず立ち上がった陽太は慌てて座り体を小さくする。予想以上にびっくりされた上、呼び捨てされた良平はぽかんとしていたがははは、と照れくさそうに笑い頬をかきながら頷いた。
「だから俺はあいつに告白した。……外つ国への旅立ちを取り消せる期間が終わる前に。まことの代わりになれないかって……まあ、振られたけれどな。例え二度と会うことが出来ない人でも、自分にとっての一番はまことで彼以外を愛することは出来ないってさ。熱い愛を泣きながら語られたらどうしようもないよなあ、はは」
それを聞きほっと胸を撫で下ろし、また優越感のようなものに浸っている自分がいた。陽太がまさかそんなことを思っているなど思いもしない良平は「最初からどうせ駄目だろうと思っていた」と言い、陽太は「そうだろうそうだろう」と喉まで出かかった言葉を必死に呑みこむ。駄目元で突撃し見事粉々に砕け散ったことを語る良平の顔は晴れやかで、その眼差しは真っ直ぐで曇りが無い。
「でも後悔はしていないさあ、のどかがのどかでいる内に自分の気持ちを伝えたことを。多分伝えず別れていたら、ものすごく後悔していた。だってやっぱり伝えておけば良かったって思っても、もう伝えられないんだぜ。ああやっぱりこうしていれば良かったのにと思ってももう手遅れ、なんて嫌じゃないか。……大きくなってから自分がまことのことをどう思っていたか気づいたのどかも、ずっと後悔していた。あいつは自分の気持ちの名前に気づかなかったことも、あいつの手をとって一緒に行かなかったことも後悔して、後悔して……いつも自分は遅すぎるって。そんなあいつの姿を見ていたら、俺は何が何でも伝えなくちゃって思ったんだ。受け入れられなくても、ちゃんと言おうって」
(嗚呼ちゃんと伝えられたから、何もかも手遅れになる前にちゃんと想いを伝えられたから良平さんはこんなにも晴れやかな表情で話せるんだ。でものどかさんは……僕は……俺は)
その先は考えてはいけない、とかぶりを振る。意地でも一つの事実を事実として認めないのは、それを認めたら最低最悪の現実と向かい合わなければいけないからだ。それが怖いから、逃げているのだ。陽太がやたら深刻な表情を浮かべ、うなだれているものだから良平は困ったらしい。どう話を続けたらいいのか、どんな言葉をかけてやったら良いのか分からずしばらく唸っていたが、最後にぽんと陽太の背中を叩いた。驚いた陽太が隣を見ると、良平が左手に何か包みを持ちながら笑っている。そこから香る匂いに、腹がきゅうと鳴った。
「弁当食おうぜ、弁当。といっても握り飯だけなんだけれどさあ」
そういって良平が包みを開けると、そこにはご飯に青菜の塩漬けを巻いたものが三つ。恐らく良平の家で漬けたものを使っているのだろう。差し出されたそれなりの大きさの握り飯を陽太は受け取った。どうして自分が暗い顔をしていたのか問いたださないでくれた良平に感謝しながら。
「ちっと塩辛いけれど、美味いんだよこれが」
豪快にそれにかぶりつく良平にならい、陽太もいただきますと小声で言ってから遠慮がちにかじる。そしてそれを口に入れ二、三度噛んだ瞬間陽太の頭は真っ白になった。そして胸が熱くなり、目頭が熱くなり、気がつけば、ぽろぽろと陽太は涙を零していた。そのことに気づいた良平はぎょっとし、陽太の顔をのぞきこむ。
「おいどうしたんだ、陽太君!?」
その問いかけに最初陽太は答えることが出来なかった。彼の声など、聞こえていなかったからだ。口の中に広がる青菜の味と胸の中の熱、それから先程まで真っ白になっていた頭に浮かぶ見知らぬ――いや、見知った女性の笑顔だけが今の陽太の世界の全てだった。
佐和の作った青菜の塩漬けとは違った味。それは初めて食べたものではなく、何年もの間毎日のように食べ続けていたものの味。自分の魂に刻まれた、自分ではない自分の思い出の味。しかしこの味がするものをどうして良平が持っているのか、意味が分からなかった。
「おい、陽太君?」
恐らく二度目三度目ではないだろう問いかけがようやく陽太の耳に聞こえ、陽太は涙を拭きながらごめんなさいと謝る。だが涙は拭っても拭っても、際限なく零れ続けている。もしかして口に合わなかったか、それともしょっぱすぎたか、と不安そうに尋ねる良平に陽太はそうじゃないと首を振った。
「違います、え、ええと……向こうの世界にいる母さんの作る青菜の塩漬けの味とそっくりだったから、その、懐かしくて……近頃は体が向こうに帰る準備をしているみたいで、向こうのこともよく思い出すんです。母さんの作る料理の味も、それで……」
ああそうだったのか、と胸を撫で下ろす良平に陽太は平静を装って聞いた。
「佐和さんが漬けた青菜の塩漬けとは微妙に違う味がしますね。これは良平さんのお母さんが漬けたものですか?」
「いいや。これはまことのおふくろさんが漬けたものだよ」
やっぱり。ああ、おすそわけってやつですかと言う陽太の声は震えていた。良平はまあそんなところかな、と言って空を見上げる。青空を見る彼の顔は少し寂しそうで。
「……俺のおふくろ、三年前に亡くなってさ。今は親父と二人暮らしなわけ。そんな俺達のことをまことのおふくろさんは何かと気にかけてくれて、漬物とか煮物をおすそわけしてくれるんだ。時々申し訳ないことに掃除までしてくれてなあ。俺のおふくろとまことのおふくろさんは仲が良かったからなあ。お陰で俺は美味しい青菜の塩漬けを今も食えているんだ。もっとも親父は妻の漬けたもの以外は食わねえといって口にはしないけれど、でもこっそりと食っていることを俺は知っている。おふくろの漬けたものとは違っても、やっぱりずっと食い続けているものだからなあ、食わないとなんかしまらないんだよ」
でも俺が気づいているってことは内緒な、と良平は口元に人差し指をたてた手をやり悪戯好きの子供のように笑う。陽太ははい、と頷きながらまだ流れる涙を拭いた。
(ツネさん亡くなったんだな……あの人にも随分お世話になったなあ……駄目だ、僕は知らないはずなのに、知らないはずなのに。この青菜の塩漬けだって初めて食べた味のはずなのに……でも初めてじゃないんだ、僕はこの味をよく知っている)
まことの母の漬けた青菜の塩漬けを食べて涙を流す。懐かしさと、これを漬けた人を恋しいと思う気持ちは事実から、現実から背ける顔を両手で覆い、強い力で否応なくそれらと向き合わせた。ご馳走様でした、とても美味しかったですと礼を言った陽太はその場を去る。良平のもっと話そうぜという申し出を、ごめんなさいと断って。
川を後にした陽太の足はある場所へと向かっていた。それは段地を囲む山で、木々の懐かしい息吹が少年の体を撫でる。重い足取り、沈む地面、行きたくないという思いが流す汗。
(……僕は、向き合わなければいけない。向き合って、認めて受け入れて……本当は行きたくない。行ったって、向き合ったって、苦しいだけだ。目を背けて逃げてこの気持ちを、記憶を無かったことにしたい。でもきっとそんなことをしたら僕はもっと苦しむだろうし、うんと後悔もするだろう。今の内に僕はあそこへ行かなくてはいけない。辛い思いをすることが分かっていても、僕はあそこへ行って全てを受け入れなくちゃいけないんだ)
山は一本道ではなく、途中二三本に分かれることもあったが陽太は少しの迷いもなくごく自然な流れでその内一本の道を選び、進んでいった。そして彼がその道が間違いではないことを確信している。段々と呼吸が荒くなり、鼓動が早くなっているのは山登りだけが原因ではないだろう。
約束の場所が、近づいている。陽太は知らず、だが陽太の中の『彼』は知っている場所。心に迷いはあっても、正しい道を選び迷わず行ける。約束の場所であり思い出の場所でもそこへは。
歩く速度が段々と上がっているのを陽太は感じていた。体内を巡る様々な思いに頭を、腹を、喉を裂かれるような苦しみ、苦しくて、苦しくて、ゼエゼエと荒い息。自分の中にいる彼が「早く、早くあの場所へ!」と叫び、その場所を求めるようにめいっぱい手を伸ばした。何一つ叶わず、何一つ得られないのに、それでも彼は求める。早歩きになり、そして気づけば陽太は走っていた。苦しくて死にそうで痛くてたまらないのに、走らずにはいられない。たったったったという足音は、時計の針が逆戻りする音。
――待つ……待つ……待つ……――
壊れた機械の様に、満星祭りの時に見た人形劇のヒロインが同じ言葉を繰り返す。そしてその声は芸能祭で見た『深山松』にて愛する男と共に死んだ女のものに変わる。
――待つ……待つ……待つ……――
同じように彼女は同じ言葉を繰り返す。酷いノイズがかかった声、気持ち悪くなる程乱れる映像。そんな声が陽太を『あの場所』へと引き寄せる。苦しくて死にそうで痛くてたまらなくても、陽太はそこへ向かって走り続けた。
約束を、あの日交わした約束を果たしたい。そして今頃気づいた想いをちゃんと伝えたい。約束を、約束を、守って、果たして、そして全部終わらせる。彼女の為に、自分の為に。走っても、急いでも、辿り着いてもその願いが叶うことはない。それは分かっていた。でも分からないフリをして、気づかないフリをして陽太は、少年は、少女が唯一愛した人は、走った。
――待つ……待つ……待つ……――
最後に頭の中で響く声は、少女のものに変わった。やんちゃで男の子っぽい、少年最愛の子のものだ。
「待つ、待つ……」
陽太は少女の声に合わせ自らの口を動かし、彼女と全く同じ言葉を発した。もっとも実際に彼の口から漏れたものは言葉とは到底呼べないものだったけれど。
「待つ、待つ……まつ……ま……まつ……」
眼前に現れるとても愛しく懐かしい少女の幻影。その少女の目から涙が零れ、頬を伝い、地面へと落ちていく。そんな風に泣きながらも彼女は言った、真っ直ぐこちらを見て、言った。
「願うならまたまことに会いたい。いつか来てね、会いに来てね……この深山松の下に。そして一緒にここを掘ろう、それでこの宝箱を開けよう!」
少女――のどかと陽太――まこと、二人の口から同時に『約束』の言葉が出た瞬間、陽太は約束の場所に辿り着き、途端足がもつれ盛大に転んだ。痛くて苦しくて、しばらく陽太は動くことが出来なかった。激しく鼓動する心臓が地面に触れ、どっどっどという音をたてる。顔をあげたくない、でもあげなくてはいけない。陽太は泥のついた、ずきずきと痛む顔を静かにあげた。
そして陽太は見た。数十メートル先にある、周りの木々より一際大きく立派で蓄積された長い時を感じる深山松を。それこそがのどかとまこと、二人の約束の場所。そこで彼女はまた会いたいと言った。そしてまこともまた再会を望んだのだ。だがそこにのどかはいない。もう……。
陽太はのろのろと立ち上がり、ぼうっとしながらふらふらした足取りで歩きだす。ゾンビと見紛うようなその姿を見る者は誰もいない。彼が目指したのは深山松の近くにある木のうろで、そこにはシャベルが二つ隠されていた。陽太はそれを引っ掴むと深山松の下まで走り狂ったように手を動かして地面を掘った。そうすることで出来た穴は少しずつ深くなっていく。シャベルを地面に突き立てる度、陽太の魂にもシャベルが突き刺さり、そしてそれは『陽太』を掘って、掘って、それに覆われていたものを露わにしようとしていた。本来なら一生取り出されることのないはずだったもの。内側から『陽太』を叩き、暴れ回り、己の存在を、願いを、思いや思い出を主張していた者。
かつん、とシャベルが何か固い物にぶち当たった。それを覆う土を綺麗に取り除くと、缶らしきものがその姿の一部を見せる。陽太はますます激しく、必死で手を動かして穴を広げそして地面に埋もれていたそれを取り出した。
(菓子缶……確か一度だけ母さんが……母ちゃんが買ってくれた高級な菓子の缶だっけ。母ちゃんが記念に取っておこうと大事に保管していたのを俺が勝手に持ち出したんだっけ。宝物を埋めるのだから箱もいっとう素晴らしいものにしようと思って。母ちゃんはうっかり捨てたと思っていたみたいだけれど)
その菓子缶には素晴らしい花の絵が描かれていたはずだったが、泥だらけな上に腐食して酷いことになっている為にそれを確認することは出来なかった。水が入らないようにと巻いたテープもすっかり剥がれてしまっている。それでも陽太には――まことには、この世のどんなものよりも美しい箱に見えた。箱を開けると(壊した、という方が正しいかもしれなかった)そこにはのどかと一緒に入れた宝物の数々。ビニールで包んだ(あまり意味は無くなっていたが)手紙、思い出を閉じ込めた写真、楽しかったことや悲しかったことを思いつく限り書いた和綴じの薄いノート、おもちゃ……どれもこれもぼろぼろで汚くなっていたが、どれも沢山の思いが詰まった大切な宝物だ。
――絶対会いに来てね、あたしに会いに来てね。そして一緒にここを掘ろうね、絶対、絶対約束よ――
――うん、約束だ。絶対のどかに会いに行く。絶対に……――
それを見ている内、陽太の体の内から思いが溢れ出た。どうしたって堪えきれない程の量で、それは全て涙に変わり菓子缶の中へ落ち、宝物を濡らしていく。涙を見たら今度は嗚咽が漏れ、やがてそれは悲痛な叫び声になり、天へ向かい青い空を無残に切り裂く。
陽太はかつて、まことという名前の少年だった。彼はここ段地に住んでおり、両親と仲良く暮らしていた。少年にはのどかという仲の良い女の子がおり、彼は彼女といつも一緒だった。まことはとても幸せだったが、ある年に彼は家族と故郷、この国を捨て外つ国へ旅立つことを決めた。どうしようもない程の強い衝動が彼を襲ったのだ。しかしまことはのどかと別れたくなかった。だから彼は彼女に「一緒に外つ国へ行こう」と言った。例え外つ国では離れ離れになるとしても、最期の最期まで彼女と一緒にいたかったのだ。だが少女はそれを断り、まことはその望みを叶えることが出来なかった。代わりに、よく遊んだ場所に生えている大きな深山松の下に宝物を埋め「いつかきっと帰ってきて、会いに行く。そしたらこの宝物を一緒に掘り出そう」という約束を交わす。二人共本当は分かっていた――その約束が叶うことはないと。外つ国へ行きその国の人として産まれ、新たな人生を歩み出せば前の人生のことは忘れてしまう。帰郷者としてこの国へ帰って来ても、かつての故郷の名を聞きここへ帰って来ても、約束を守りこの深山松の前に来ることはないだろう。忘れてしまった約束をどうして守れるだろう。分かっていた、それでも二人は『絶対』という言葉と共にその約束を交わしたのだ。
そしてまことは外つ国へ旅立ち、陽太として生まれ変わる。彼は幼い頃、やたら間延びした話し方をしていた。親は自分達が見ていたドラマの登場人物の喋り方を真似したのだと思っていたが、実際はまだ完全に隠れていなかった『まこと』の喋り方が影響していたのだった。
陽太は帰郷者として閏の国を訪れる。そこで彼はのどかと出会った。彼女は彼の手をとらずここに残ったことを後悔していたが、別れる前に交わした約束が果たされるのをずっと待っていた。叶わないと知りながら待って、待って……でもとうとう彼女は待つのをやめた。しがみ続けていた約束をその手から離し、異性として好きだった、誰よりも大切な人が行った外つ国への旅立ちを決める。十五年経って、ようやく彼女は掴んだのだ、まことに差し伸べられた手を。
――あたしは故郷を出る……もしかしたらその後あの子が故郷を訪ねてくるかもしれないけれど、多分それはない。あたしってさ、遅すぎることはあっても早すぎることってないから。今まで来なかったなら、もう来ない――
外つ国へ旅立つ直前の彼女の言葉を思い出す。その言葉が今の陽太をずぶりと突き刺し、そしてそれは剥き出しになった『まこと』を貫くのだった。
「そうだ……君は……お前はいつも色々なことが遅かった。何かに気づくのも、行動を起こすのも、大切なことを思い出すのも……いつも遅くて、いつもそれを嘆いていて……でも、でも……何でだよ、何でこんな時だけ……早すぎるよ、今回は早すぎるよ……!」
やっとのことでその言葉を口にした陽太はたまらなくなり今まで以上に大きな声をあげて泣いた。そして地面を硬く握りしめた手で滅茶苦茶に叩く。痛いのも気にせず、叩く、叩く。陽太は自分の前世が『まこと』であったという事実と向き合い受け入れた。だが同時に彼は全てを思い出し、一つの想いに気づく前にのどかがこの国を去ってしまった為、約束を果たすことも想いを伝えることも出来ないという最低な現実も受け入れることになった。
悔しい、悔しい、悔しい!
思いは溢れる。こんな時に限ってのどかは早すぎて、まことは遅すぎた。のどかと会っている時に思い出していれば、約束を叶えられたのに。そしてのどかのことが異性として好きだったことにも気づいていれば、その想いを伝えることが出来た。だがまことがその想いに気づいたのは、陽太が奏への想いに気づいた時だった。陽太が想いの名前に気づいた時、同じ想いをのどかに対して抱いていたまことはその想いの名が『恋』であったことに気づいたのだ。だが陽太はのどかがこの国にいる間に自分の前世を思い出すことはなく、まこともまたのどかへの想いの名前を知ることはなかった。
「遅いよ、遅いよ……! 今になって気づいたって、もう、どうしようもないじゃないか……のどかはいない、もういない……! 俺がもう俺じゃなくても、せめて、せめてのどかがのどかである内に……約束を……想いを……!」
果たされぬはずだった約束は、果たされる一歩手前まで来ていた。だがその後一歩が踏み出せないでいる内にのどかは約束を手放し、本当の本当に果たされない約束になってしまった。
「のどか、のどか、のどか……! 何で気づかなかったんだ、思い出さなかったんだ、あんなにいたのに、あんなに遊んで、あんなに俺のこと話していたのに……!」
本当は分かっている。そもそもこんな風に自分がこの国で暮らしていた時何者であったのか思い出すことの方が稀であることを。本来ならこれはほぼ有り得ないことなのだ。颯馬は竜頭で暮らしていたことを思い出したが、自分の前世の名前や為人までは思い出していない。晃も前世の思いに色々引っ張られてはいたが、具体的なことを思い出していたわけではなかった。
陽太がのどかと会ってもまことのことを、約束のことを思い出さなかったことは仕方の無いことだ。それは分かっている。分かっていても、悔やみ泣き喚かずにはいられない。
「俺、ちゃんと来たよ。ここに来て、約束を守って……なあのどか、俺はちゃんと来たよ。のどか、俺はお前のことが好きだった。その気持ちをちゃんとお前に聞かせてやりたい。だから、だから……今すぐここに来てくれよ、実は旅立つのやめていたんだって笑いながらさ……のどか……」
陽太はそれからもずっと泣き続け、泣いて、泣いて、散々泣いて沢山の想いを吐きだして、それからぼろぼろの箱を元の場所に埋め直した。その箱に陽太は自分の持ち物――ポケットに入っていたハンカチを入れた。それはのどかがくれたもので、どう見ても女の子向けの絵柄が描かれているものだ。彼女は陽太が男の子であることを失念し、つい自分が「これ可愛い!」と思ったものを買ったのだ。買って渡す段階になってそのことに気づいたようだが、陽太は折角買ってくれたものだからと受け取ったのだ。このハンカチには『陽太』という字が書かれている。
もし生まれ変わったのどかが段地を訪れ、奇跡的に自分の前世を思い出したら、もしかしたらここを掘り返すかもしれない。そしてこのハンカチを目にするかもしれない。自分とまことしか埋めた場所を知らないはずの宝箱にこのハンカチが入っていたら、そしてそのハンカチに書かれている字が読める状態だったら――幾ら彼女でも気づくだろう。自分がかつて会った少年が、自分が一番に愛した少年の生まれ変わりであることに。
そんな日はきっと訪れない。分かっていても、陽太は、まことは奇跡を信じずにはいられなかった。本当は想いを綴った手紙を入れたいところだったが、生憎持ち合わせがないし明日はもう朝早くにここを出てしまう。向こうへ帰るまでにまたここに戻って……ということが出来ないわけではないが、あまり何回も掘り起こすのは気が引けた。だからこれで良い、これだけで十分だ。
帰る頃にはすっかり日が暮れていた上、明らかに目が腫れているわ泥だらけだわで彼の帰りを待っていた佐和達を随分心配させてしまった。大分苦しい言い訳をしてしまったが、一応納得してくれたらしく深く理由を追及してくることはなかった。
そして陽太はまことの両親、つまり自分の前世の両親と会った。のどかの旅先での友達が気になっていたらしい。彼等と会った時胸が熱くなり、涙を流しそうになったがそこはしっかり堪えた。彼等にも佐和にも、自分の前世がまことであることを話すつもりはない。伝えた方が良いものもあれば、伝えず胸にしまい続ける方が良いものもあるのだ。陽太はのどかとまことの両親と夜遅くまで沢山話をした。山で事実と向き合い、現実と向き合い受け入れ、そして想いを吐きだしたお陰かあまり苦しい思いをすることはなく、まことも自分を主張することはなかった為『陽太』としてお喋りを心から楽しむことが出来た。きっとまことが自分の中で暴れ回ることはないし、あの夢を見ることも無くなるだろう。
次の朝、陽太はかつての故郷に別れを告げた。佐和と手紙を交わす約束をし、まことの母から彼女の漬けた青菜の塩漬けで巻いたおにぎりを貰った。これが何よりも嬉しかった。
「はは……やっぱりこの味が一番だ」
昼にそれを食べた時、陽太は少しだけ泣いた。だが心や晴れやかであった。まことは約束を果たすことも、想いを告げることも出来なかった。でも故郷に戻り、約束の場所へ行き、陽太としてではあるが両親と会い話をし、そしておふくろの味を再び味わうことが出来た。それだけでもう彼は満足したのだ。
陽太はおにぎりを食べながら過ぎ去っていく景色を眺める。そしてそれを眺めながら彼は決意した。
奏さんにちゃんと自分の想いを伝えようと。自分はまことと違い、彼女と別れる前にちゃんと想いに気づいた。そして自分はその想いを伝えることが出来る。せめて自分は後悔しないよう、その想いを伝えよう。
心の中でまことが「頑張れよ」と言っているような気がした。