故郷は幻の二月の淵に(15)
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いつもの夢を見ながら幾つもの汽車に揺られ、一日近くかかってようやく辿り着いた駅は小さく、まるでほったて小屋のように粗末な作りでもうぼろぼろだった。陽太以外にこの駅で降りた者はおらず、辺りはしんと静まり返っている。陽太と入れ違いに駅に入ったのは人ではなく野良猫二匹で、どうやら普段からここを遊び場にしているらしい。人に慣れてもいないが、特別警戒もしていないようで陽太の姿を認めても知らんぷり。
予約した馬車に乗り山を越え、のどかの故郷――小州・段地に辿り着いた頃には空と山と家と地面の境界が殆ど分からない程真っ暗になっていた。山を下りてすぐの所に、灯りを持った男女が二人立っていた。直前の手紙に『山を下りてすぐの所で待っている』とあったので、恐らく彼等がのどかの両親だろう。
「君が陽太君ねえ、初めまして」
「あ、はい。初めまして」
馬車から降りた陽太は慌てて頭を下げる。伸びる語尾とゆっくりとした喋り方はのどかそっくりだ。しかし顔はそこまで似てはおらず、快活そうな見た目の娘とは違い彼女は見るからにのんびりとした、のほほんとした感じの見た目をしていた。顔も体もデブとまではいかないがふっくらしており、その笑顔には見る人を癒す不思議な力がある。白髪交じりの髪はお団子にしており、紺と黒の縦縞模様の着物を身に着けている。
そんなのどか母に続き今度はのどか父が口を開く。
「遠路はるばるお越しいただいて……ありがとう。そして申し訳ないねえ、妻の我侭に付き合わせてしまって」
彼の話し方も妻と娘にそっくりだ。その妙に間延びした喋り方と訛りはこの地域の特徴なのだと以前のどかが話していたことを思い出す。だからのどか一家に限らずここに住んでいる者は皆このような喋り方なのだろう。その快活な印象を与える顔立ちはのどかにどことなく似ているような気がした。そういえば、と自分は父似だと以前彼女が話していたことを思い出す。頑固で怒りんぼだとも言っていたが、ぱっと見そういう人には見えない。お互い簡単に挨拶を済ませ、家を目指す。のどか母は佐和、父は栄助というそうだ。生意気な妹、とやらは今友達と旅行中だという。
家は正面に見える傾斜地にあるようだった。傾斜地だとその場から見て分かったのは、民家に灯る明かりが緩やかに空へ続く星の道のようになっていたからだ。平地にある建物は集会所や州長等ごく一部のもので、殆どは棚田の如く段々になっている傾斜地にあるようだ。州名『段地』は恐らくここからきているのだろう。家まではある程度の時間歩く必要があったが、長い時間汽車や馬車に揺られていた陽太にとってはその方がありがたかった。スルメのようにかちこちになっていた体が段々とほぐれていくのを感じる。
のどかの家は傾斜地の半ばにあった。藁ぶき屋根の家で三人(今はのどかがいないので二人だが)で暮らすには十分な広さがある。囲炉裏や、古い木と壁の匂い等に陽太は懐かしさを覚えた。こういう家は日本人心の故郷なのかもしれない、などと思う。
囲炉裏の自在鉤にかけられた鍋を温め、その中身とご飯が陽太に振る舞われた。鍋に入っていたのは醤油味の芋煮で、ほくほくとろとろの里芋に牛肉、こんにゃく、程よくしゃきしゃき感の残っている葱。芋やこんにゃくに醤油と牛肉の旨味が染みこんでおり、程良く甘い汁は飲むと体の芯まで温まり、そして手作りの優しさが疲れを癒す。最後はそれにカレールーとうどんを入れて芋煮カレーうどんにして食べた。最初は驚いたが甘めの、肉や葱の旨味たっぷりの汁とカレーは相性が良く大変美味しかった。向こうでもこれは結構定番のシメであることを、陽太は向こうへ帰った後に知った。食事を終えた後、陽太はお土産を佐和に渡した。海の幸が幻淵は有名なので、その辺りを。といっても流石に生ものは持ってこられなかったから、幻淵名物『幻淵煮(数種類の貝を醤油や砂糖と一緒に煮たもの)』の缶詰やこちらの世界に生息しているホネブトウオという魚の骨を揚げたもの等にした。二人に喜んでもらえたので、陽太はほっと息を吐く。
それから陽太は風呂に入り、殆ど佐和達と話をすることなく眠りについた。疲れているだろうから今日はゆっくりと休んでくれと言われたのだ。敷かれた布団の中にもぐりこむと、妙な懐かしさと安心感に包まれ、疲れも相まってあっという間に陽太の意識は眠りの世界に落ちていく。その日も陽太は夢を見た。自分と誰かがくっつけた布団の上に寝転んでいて、お喋りしている。酷いノイズのせいで何を喋っているか分からなかったし、映像も乱れていて自分が誰と話しているのか殆ど分からない。だが自分も相手もかなり幼く、話の内容も子供らしいものであることはなんとなく分かった。もしかしたらその相手は、よく見る夢に途切れ途切れに現れる少女なのかもしれない。
朝になり目を覚ました陽太は着替えながらぐるりと部屋を見回す内、ここがどうやらのどかの部屋であるらしいことに気づいた。箪笥にはどこかの工芸品らしきものが置かれ、棚には申し訳程度の本と、写真と文章が書かれた自作の旅行記、幻淵で彼女が買っていたのを見た覚えがあるものがあり、そして文机に置いてある写真立てにはいつの日か颯馬と理子、沙羅、双樹と出かけた時に撮った写真が飾られていた。久々に見たのどかの笑顔は本当に眩しくて。もう二度と直接見ることの叶わないその笑み、懐かしさに胸が痛みながらも笑みが零れる。そしてその隣にもう一つ写真立てがあった。
「これ……」
陽太はその写真に目を奪われた。そこには二人の子供が映っており、服も体も泥だらけになっているのも気にせずにっかり笑いながらピースしている。一人は髪も短く男の子と見紛う見た目だったがのどかであるとすぐに分かった。そしてその隣に彼女と同い歳位の少年が立っている。見ただけでやんちゃで底抜けに明るい人物であることが分かる顔で、恐らく彼がまことだろう。はじめ陽太も颯馬ものどかのいう大切なお友達というのは、女の子だと思っていた。彼のことを指す時『友達』『あの子』『まこ(当時そう読んでいたらしい)』と言い『彼』という言葉は使わず、『まこと』は男の子であると一言も言ってくれなかったからだ。全く彼女はいつでもそそっかしい(まことに恋心を抱いていたことに気づくまで、彼のことを『男の子』として殊更意識していなかったことも原因なのかもしれないが)。だから二人がまことが男の子であることを知ったのは、割と後になってからのことだった。
(仲、良さそうだな)
のどかがまことの隣に立って浮かべている笑顔は、陽太や颯馬と一緒にいる時に浮かべるものよりも輝いているように思えた。その笑顔を見ただけで彼女がどれだけ彼のことを大切に想っているのか分かり、少しだけヤキモチ。しかし妬く一方で胸が熱くなるのも感じた。のどかが幸せだと自分も幸せ、という友が友の幸せを喜ぶという気持ちか。
そんな妬ける程仲の良い二人はもう離れ離れになってしまっている。のどかと一緒に行けなくても彼は外つ国へ行くことを望んだ。期間内なら行くことを止めることも出来たのに。のどかが行かないなら自分も行かないと言えば良かったのに、それなのに彼はのどかを置いて行ってしまった。大切な女の子とほぼ叶わないだろう『また会おう』という約束を交わして。これといった理由もないのに、どうしようもなく外つ国へ行きたくなる人が多いことは知っている。旅立つ人の殆どはそれで、きっとまこともそうだったのだろう。
分かっている。分かってはいても、問いかけずにはいられなかった。
(何で外つ国へ行ったんだ。のどかがいたのに。とても大切な人がいたのに、どうして行ってしまったんだ……)
それはかつてまことと同じことをしたであろう自分への問いかけでもあったのかもしれない。直後朝食が出来たと佐和から声がかかった。朝食はごはん、油揚げと豆腐の味噌汁、青菜の漬物、卵焼き。青菜は噛むとしゃきしゃきという心地良い音がする。その塩辛さによってご飯の甘みが際立ち、甘みが塩辛さを和らげる。何度も噛んでいると青菜の風味も楽しめた。この青菜の塩漬けは段地の名産品であるらしく、また各家庭で漬けられているそうだ。
「ただの塩漬けなのにねえ、家によって味が変わるから不思議よねえ」
と佐和は笑う。それは味噌汁や卵焼きも同じだった。ふと陽太は自分の母が作った味噌汁や卵焼きの味を思い出した。そんな風に向こうで食べたものの味をちゃんと思い出せる位までになっていた。
佐和に聞いたところ、矢張りあの部屋はのどかのものだったらしい。彼女は懐かしそうに、そして寂しげに笑う。きっとのどかのことを思い出しているのだろう。
「……あそこを片付けてしまったら、のどかがあそこにいたって事実まで消えてしまいそうで。そんなことはないのにねえ。それにいつかあの子が……あの子の人生の続きを生きる子が帰ってくるかもしれないから。そんなことを思ったら、片付けるに片づけられなくて。あの子が居た時のままにしてあるのよ」
そうなんですか、としか言えなかった。恐らく余程の奇跡でもない限り、のどかの生まれ変わりがあの部屋に入って寝泊まりすることはない。彼女の人生の続きを生きる人が里帰りして、そしてこの段地に来たとしてものどかの家を訪ねることはないだろう。段地へ帰ってきた帰郷者は州長の家に泊まる。ここへ来る前に前世のことを思い出せば別だが、そんなことはまず有り得ない。それ位佐和達も分かっているのだ。それでも彼女達はその訪れぬ時を待たずにはいられない。叶わぬ約束を交わし、待ち続けたのどかと同じように。
そしてあの写真のことも聞いた。矢張りのどかと一緒に映っていたのはまことで間違いなかった。佐和は目を細め、在りし日を懐かしむように語る。
「まこと君は本当に元気な子だったよ。あの子以上に元気で明るくてやんちゃな子なんて知らないよ。それに負けず劣らずのどかもやんちゃな子でねえ、今じゃ少しは女の子っぽくなったけれど昔はもう……自分が産んだのは本当に娘だったかと疑問に思う位だった。女の子より男の子と遊んでいることの方が多かったけねえ」
「そういえばのどかさん話していました。じっとしているのは好きじゃなくて、家の中でじっくりやるようなものはすぐ飽きたとか。本を読むのも好きじゃなかったって」
そうそう、と佐和は笑いながら頷いた。
「いっつも外で遊んでいてねえ……おままごとをしていたはずなのに、気づいたら戦ごっこに変わっていたなんてこともあったねえ。夫婦喧嘩から国同士の戦に発展するとかいうよく分からないシナリオになったらしくて、一緒に遊んでいた子達が呆れていたっけねえ。他にもチャンバラ、水切り、釣り、虫とり、泥遊び、探検、秘密基地作り……まあ他の女の子も同じように外を元気に駆け回っていたけれどね、特別あの子はそういうのが好きで、逆に人形遊びやおままごと、花冠作りとかそういったものは殆どやらなかったねえ。そうそう、読書も嫌いだったねえ。元々ここには本屋とかなくて、時々移動本屋が来る程度だから本と接する機会もよそに比べれば少ないけれど、それにしてもあの子は駄目だったねえ。あの子にとって文字っていうのは命を削るものだったよう。まこと君も同じだったねえ」
陽太はご飯を食べ終え、そのまま佐和とお喋りしていた。陽太は幻淵でのどかとどんな風に過ごしたか、のどかがどんなことをしたか話した。彼女の珍エピソードも出るわ、出るわ。そうして話し出すと脳みその奥の方にしまわれていたものの数々が次々と出てきた。それ程自分の中には彼女との思い出が多くあったのだ。そしてそれは陽太の閏の国での輝ける思い出でもある。外つ国へ帰りその思い出が霞み朧げになってしまう前に、こうして誰かに自分の中に蓄積されたものを語ることは、のどかがこの国にいた証だけでなく自分がこの国にいた証を残すことにもなるだろうと陽太は思った。
佐和は陽太の話を聞きながら、自分の中にあるのどかの思い出を語る。妹と取っ組み合いの喧嘩ばかりしていたこと、まことと一緒に山の中で遊んでいる内迷子になって大目玉を喰らったが次の日にはけろっとしていたこと、佐和が自分の誕生日に焼いてくれたバースデーケーキを運ぶ時転んでしまいケーキを台無しにして大泣きしたこと、まことの家族と一緒にW家族旅行へ行った時まことと共に勝手にどこかへ行き、見つけるまでに相当な時間がかかったこと等数々の思い出が語られた。
そしてその思い出の多くに、まことの名があった。のどかを語る上でまことという存在は欠かせない――のどかの隣にはまことが、まことの隣にはいつものどかがいたのだ。佐和はそんなまことのことも実の子供のように思っていたようで、我が子のことでも語るかのように、まことのことについても話してくれた。聞く限りやんちゃ、という言葉を具現化したような存在だったらしく、どちらかといえば大人しい方だった陽太とは別世界を生きていた人だなと思う。
話を聞いていると、はっきりとした映像が浮かんでくる。そしてそれが自分が捏造した映像ではなく、実際のものであるかのように思えた。また、話を聞いている内段々と自分がのどかかまこと自身であるように思えてきて、自分が経験したことではないのに『懐かしい』とか『楽しかった』とかそんな思いを抱いてしまった。自分の思い出を佐和が語っている、今彼女が語っているのは自分のことだ――そう錯覚してしまう位の何かがきっと彼女の話にはあったのだろう。
「本当にのどかはまこと君のことが好きだったねえ。どこへ行くのも彼と一緒だったもの。あの子達は二人で一人といった感じだった。ずっとそのまま二人で一人のままいるんだとあたしは思っていたけれど……そうはならなかったねえ」
のどかは片割れを失い、まこともまた失った。最後までずっと一緒でいるときっと彼等は当たり前のように思っていただろう。まことはきっとのどかが自分の手をとってくれると思っていただろう。だがのどかはそうしなかった。彼女にとってまことはとても大切な存在だったが、それでも家族や故郷、閏の国の全てを捨ててまで手をとる決心がつかなかったのだ。だが後になって彼女は自分にとってまことがどれだけ大切な存在だったか、自分がまことをどう思っていたか気づいたのだ。そして彼が全てを捨ててまで選ぶに足る存在であったことにも。
「あの子はまこと君のことが好きだった。その『好き』って意味が、恋って名前だというものに気づいたのは大分後になってからだった。ちゃんと気づいていたら、自分はきっとあの時手をとったのに、自分はいつも遅い、気づくのが遅すぎるんだって悔やんでいた……ずっと、ずっとねえ。その人がどれだけ大切な人だったか、失ってから気づくなんていうのはよくあることさあ。仕方の無いことだよ、一緒にいるのが当たり前だったんだからねえ。あの子が自分の傍にいない時を知らなかったんだ……知らなければ、気づけないよ。それにあの時はまだ子供だったからねえ、自分が女の子でまこと君が男の子であるなんて特別意識もしなかっただろうさあ。いつも傍にいる、まるで自分自身であるような子。男の子、じゃなくてまこと君。自分は女の子、じゃなくてのどか。それ以外の何物でもなかったんだよ」
しかしのどかはまことを失ったことで彼がどれだけ大切な存在であるか気づいた。そして成長し自分が女として、男であるまことのことを好きだったことにも気づいたのだ。彼女は奏への想いが何であるかはっきりと分かっていなかった頃の陽太に、ある日突然帳が取っ払われて世界が変わって見えるようになると言っていた。颯馬とまるっきり同じことを言っているとあの時は笑って済ませていたが、きっとあれは自分がまことへの想いに気づいた時のことを話していたのだろう。
(まこと君もきっと同じ想いだったんだろうな。でも多分彼は自分の気持ちの名前に気づかないまま旅立った。どちらも本当の想いに気づかないまま別れてしまった……でも僕は気づいた。のどかさんは自分の一番大切な想いをまこと君に伝えることが出来なかったけれど、僕は伝えられる。奏さんにちゃんと伝えてから別れることが出来る。伝えずに終わったら、結局は気づかないまま終わってしまったのどかさんと同じだ。伝えるに伝えられない彼女とは違う、僕は伝えられる……)
少し遅かったけれど、のどかと違い遅すぎることはなかったのだから。
今にも泣きそうな、見ているこちらの胸が締めつけられるような表情を浮かべている佐和の話を聞きながら、陽太はそんなことを思った。
「こうして話しても話しても、思い出は尽きないねえ。それほど多くの思い出をあの子達は残していたんだ……ほら、陽太君の後ろにある柱にも沢山の思い出が詰まっている」
と佐和が陽太の方を指差した。陽太が振り向くとそこには一本の柱があり、そしてその柱には釘か何かで書いたらしい横線が幾つかあり、その隣には同じく釘のように尖った何かで書いたであろう『ノドカ』『マコト』という字があった。もう一つあったが、それは恐らく妹のものだろう。それを見た時陽太は胸の鼓動が高鳴るのを感じ、心が温かくなり、そして自然と笑みが零れたのだった。
「ああそうだ、懐かしい。ここで良く背比べをしたっけ。ずっとのどかの方が勝っていたんだけれど、いつの日か彼女を追い越したんだった。あの時はものすごくはしゃいだんだよな」
「え?」
「え? あ、え、ああ……あの、のどかさんから以前聞いたことがあったんです。小さい頃はのどかさんの方が少しだけ背が高くて、まこと君はそれを随分悔しがっていたって。でもいつの日かとうとうまこと君がのどかさんの背を追い越して、彼はそれをものすごく喜んではしゃいでいて、今度は自分が悔しい思いをしたって……なんかつい自分のことのように話してしまいましたが」
嘘だった。のどかからそんな話は聞いた覚えがなかった。そして佐和も今の今までそのことについて話してはいなかった。にも関わらず陽太は自然とそのエピソードを、いやそれどころか「やった、やったぜ、俺の方がのどかより高くなった!」と飛び回るまことと、泣きそうな顔をしながら頬をぷくっと膨らませるのどかの姿を鮮明に思い浮かべることが出来たのだ。陽太は自分の言ったことに動揺していた。まるでとても重いものでガツンと頭を殴られたような、雷に打たれたようなすさまじい衝撃。心臓が体の中で暴れ回っており、痛く苦しい。暴れる心臓に呼応するように頭がずきずきと痛み、冷や汗が額から頬へ伝っていくのも感じる。
何故、どうして、どうして、何故? まさか、まさかそんなことは。
佐和が陽太の様子がおかしいことに気づき、心配そうに顔を覗きこむ。彼女は陽太君大丈夫、と問うている。そのはずなのに陽太には「まこと君、大丈夫?」と言っているように聞こえた。その時陽太の頭の中に新たな映像が浮かぶ。ある雨の日の朝、熱っぽさを感じながらもどうしても遊びたかった為それを隠してのどかとこの家で遊んでいる最中、ぐんぐん上がっていった熱に耐えきれず倒れてしまった時のことを。その時も佐和が『自分』の顔をこうして心配そうに覗きこんでいた……。そしてそのエピソードもまた、のどかや佐和から聞いた覚えのないものだった。
陽太は混乱しながらもぱっと立ち上がった。
「あ、あのなんかすみません。そ、その……ちょっと外へ出てもいいですか? 僕段地がどんな所か気になって仕方なくて……えと、僕初めて来た所って探検せずにはいられなくて。昨日は夜遅くてどういう所か殆ど見られなかったものですから」
「え、ええそれは構いませんよ。何もないところだけれどそれでも良ければ。ごめんなさいねえ、あたしったら喋り通し喋っていて……疲れたわよねえ。お話はまた後でしましょう」
「本当申し訳ないです。それじゃあ行ってきます」
殆ど逃げるように陽太は家の戸を開け、外へと出た。生き生きと輝く豊かな山や木々の緑、穢れた空気など少しも知らないような、夢のように美しい色をした空、ぴゅうるるるると鳴きながら飛びまわる鳥、段々になった傾斜、ぽつぽつと建つ藁ぶき屋根の家々や畑、田んぼ。
懐かしい。懐かしい、とても懐かしい、懐かしい、懐かしい――『懐かしい』という名の感情が波となって押し寄せ、陽太を打ちつけ、呑みこんでいった。こことここに似た場所を重ねたわけではない。ここに、初めて来たはずの『段地』のこの風景に懐かしさを覚えているのだ。陽太は佐和に不審に思われないよう、すさまじい衝撃に痺れる体を無理矢理動かして戸を閉めたが、それからしばらくは少しも動けずにいた。体が熱い、いや寒い、どちらか分からない。大声を出して滅茶苦茶に暴れ回りたい衝動に駆られるだけのものが自分の中を駆け廻っているのも感じる。
(そんな、まさか……嘘だろう。違う、ただ僕は重ねているだけなんだ。大切なのどかを置いて旅立ったまこと君と、大切な誰かを置いて旅立った自分を……そうやって重ねているから、だから、それでまこと君のことを自分のように思ってしまっているんだ。きっと、そうだ。背比べのこととかもきっと、のどかさんから聞いていたんだ。それを無意識の内に思い出して話しただけだ。段地を懐かしく思うのは僕がきっと段地に似たどこかで暮らしていたからで……段地そのものを懐かしく思っているわけじゃない)
そう言い聞かせる内陽太はどうにか動けるようになった。段地は桜町以上に田舎で、店らしい店は殆ど無かったし人の数も少なく、まさしく『辺境の地』という名がふさわしい所だった。その代わり惚れ惚れする位豊かで美しい自然があり、ずっと暮らすには不便だが、二三日滞在するだけなら心の洗濯をしてくれる素晴らしい場所であった。そんな場所を陽太はふらふらと歩き回る。その間懐かしいという思いが絶えず体内を巡り続け、またあちこちで幼いのどかや友達らしき子供達の幻影を見た。ちゃんばら、相撲、縄跳び、戦ごっこ、水鉄砲、泥んこのぶつけ合い……しかしその中にまことの姿は一度も映らなかった。その代わりのどかも他の子達も皆こちらを見て「まこと」と言う。
それが何を意味するか、そんなの答えは一つしか……。
(そんな、そんな、そんな……まさか……僕は、僕が)