故郷は幻の二月の淵に(13)
芸に溺れる秋。春は音楽祭、夏は満星祭り、そして秋は芸能祭。全く『祭』という名のつくものには事欠かない国である。あちらこちらの会場で演劇、ミュージカル、踊り、舞、人形劇、落語、音楽等が披露され、観客達を楽しませる。この芸能祭は古今東西の伝統芸能や、普段は積極的に見ることはないものに触れられる絶好の機会だった。
去年は陽太も今いるホールで、あらゆる地方の伝統芸能を理子と晃と共に見たが、今年は席に座って見る側ではなく舞台裏でせっせと働く側に回っている。満星祭りが終わったからといって、ものすごく暇になるわけではないのがふるさとのさとであった。陽太の仕事は主に司会である。司会といっても演目が終わった後、次の演目の紹介をするだけのものだ。舞台を席に座ってじっくり見られないことは少し残念だったが、普段は縁の無い舞台裏を見たり、演者と直接言葉を交わしたりすることは滅多に出来ないことだから良い経験になった。
今は繰人と呼ばれる、人間が人形になりきって演じる劇をやっている。白塗りの肌はまるで陶器、台詞は別の人が読み上げ、完全に人に操られ動く人形。演目は『深山松』と呼ばれるもので、周りの身勝手な人間達により引き裂かれた男女が、故郷の山奥――深山松と呼ばれる松の前に思い出の詰まった『宝物』を埋め、それから来世で結ばれることを願い死ぬという物語。最後、その様子を見守っていた白い鳥が飛び立ち、青い空へと消えていく。その鳥はこの国では死した人間の魂を彼岸へ送り、新しい『明日』を与えると云われているそうだ。
しらばとりはぴゅうと鳴きて深山より飛びていきき、深山より飛びていきき
その最後の言葉と共に幕が閉じ、割れんばかりの拍手、鼻をすする音も快楽を伴う重みと悲しみ沈む空気に響く。この演目はかなり有名なもので、これを真似して深山松の前で心中する者や、外つ国へ旅立つ人と別れる前に深山松の下に思い出の品々を埋める者が多いらしい。陽太は気になった演目について調べたり、原作を読んだりしてみようと思うのだった。そうしてまた新しいものを得ていくのだ。
仕事や休み時の探索や勉強を通じ、陽太は沢山のことを学んでいた。この辺りのことにも大分詳しくなり、観光客相手に自信を持って色々な場所を案内出来るようになっていたし、観光に役立つ様々な情報を教えられるようになっていた。特にガイドブックには載っていない穴場や、載せる程大したものではないが面白いもの等を教えるのが陽太は好きだった。それは主に自分の趣味である探索が生んだ情報で、観光客はガイドブックを読むだけでは決して得られない情報に喜び、再び陽太を見かけた時「ありがとう」という礼と共に笑顔をくれることもあって、それがたまらなく嬉しかった。案内を通じて生まれる繋がりが一つ一つ増えていく度、わくわくする。
幻淵の住人と交流を深めることもまた楽しかった。はじめは心を開かず、会えば憎まれ口ばかり叩いていたおじいさんとも根気よく接している内仲良くなり、今は家に招かれ茶を飲む中になったし、まるで懐かず吠えてばかりいた犬も自分に頭を撫でさせてくれるまでになったし、生まれた多くの繋がりから大小さまざまな情報を得て陽太の世界はぐんぐん広がり、新商品の開発に関することやちょっとした悩みを相談されるようにもなっていた。
そして十二月も間近に迫ったある日。
――願うなら……また……会いたい……待つ……ここ……の――
初めての満星祭りで劇を見た時に聞いた声を陽太は聞いていた。美しい女の人形がこちらを真っ直ぐ見つめる。顔はあの劇の人形だったけれど、微かにとぎれとぎれに聞こえる声は違うものだ。見た目よりも幼い声が何度も、何度も待つ、待つと言っている。女は喋っている内、ほんの一瞬だが姿を変える。そしてどんな姿か認識する前に元に戻り、またしばらくしてその姿を見せるのだ。
何度かそれを繰り返している内不思議な渦が生まれ、それに巻き込まれるようにして女の姿が消え、代わりに現れたのは先日の芸能祭で見た深山松。自分と誰かがその前に宝物を埋めている。はっきりとは見えなかったが、繰人『深山松』で男と心中をした女に似ているような気がした。彼女は目を伏せ、唇を噛みしめ涙を零すのを必死に堪えながら土を掘っている。辛いのは、苦しいのは自分も一緒だった。
(一緒に来てくれれば良かったのに。今からだってまだ遅くないよ、一緒に行こう、外つ国へ……僕は君に選ばれたい。選ばれたいんだよ……)
深山松の男女は死ぬことで一緒になり、仲良く死の国へと旅立った。でも自分にはそれが出来なかった。
(旅立つのは僕だけだ。僕も一緒に、一緒の所に行きたかったのに。僕はあの人達が羨ましい。一緒に行けるから、一緒の所に行けるから。ねえ君はきっと後悔するよ。後悔するに決まっているよ……)
でも心ではそう思っていても、口に出すことは出来なかった。自分は只管女と一緒に穴を掘っている。そして自分と彼女は別れ、別々の場所で生きるのだ。
――願うなら……また……会いたい……待つ……ここ……の――
また声が聞こえる。待つ、待つと彼女は言う。決して一緒に行くとは言わない。
(待っていたって、しょうがないよ。約束したけれど、また会おうって約束したけれど……でも本当は分かっていた。もう僕等は会えないよ。この国に帰って来たって、僕は僕のことを思い出しやしないんだから。もしかしたら僕がこの国に帰って来た時にはもう君は死んでしまっているかもしれないし。だから僕はねえ、一緒に、僕は……俺は一緒に……と一緒に、待つなんて言うなよ、一緒に行くって言ってくれよ。外つ国へ行くことを俺はもう止められない。俺は旅立ちたい、誰にも抑えられないこの想い、でも――が一緒ならもっと嬉しい。だから、最期の最期まで一緒に、俺と)
そう言って『自分』は手を伸ばす。だがその手が女に触れた途端、女の姿はかき消えた。そして陽太は意識を取り戻し、目を覚ました。目の前に座っている老婦人が必死の形相で手を突き出している陽太を見、困惑している。陽太は慌てて手を引っ込め、熱を持った顔を床へと向けた。がたんごとんと体が揺れる。その揺れは心地良く、人を眠りへと誘う。窓の外を緑が走る。草原、木々、山。走り、去り、現れ、去る。青空と緑、ぽつぽつと建つ建物で構成された景色がすっぽり闇に覆われて見えなくなる。今陽太が乗っている汽車がトンネルに入ったのだ。
陽太は奏に『魔女のお茶会』に招待され、今彼女の住んでいる場所を目指している。今まで行くのをためらっていたが、お茶会に招待されたことでようやく訪ねる決心がついたのだ。奏にも手紙で「ようやく遊びに来てくれるんだね、ずっと待っていましたよ」などと書かれた始末。しかしそうして決心しながらも時々やっぱり帰りたい、などと思ってしまいもした。奏のことは嫌いではなく、むしろ好きで、だからこそ気恥ずかしさがある。おばあちゃんや友達の家に遊びに行くのとは訳が違うのだ。自分でも変に考えすぎだなと思うのだが。
しかしそんな風に恥ずかしいとか、帰りたいとか思うよりも楽しみという思いの方が圧倒的に強い。奏と会うのは桔梗会以来だから、相当に久しぶりである。直接会ってふるさとのさとでのこと等を話すのは初めてのことだ。手紙では書ききれなかったあれこれを、この機会にうんと話そうと思う。
(旅行の助けになるようなことをしていること、地元の人と交流を深めていること、見回り烏のこと……先日やった金の匙の会のことも話そう。それから、僕が今企画しているツアーのことも。ガイドブックには載っていないようなスポットを巡るちょっと変わったツアーをやるんだ。明之さん達に助けてもらいながら進めている……金の匙の会に続く、僕にとってとても大きな仕事のことを。奏さんの話も沢山聞きたいし、奏さんがどんな所で暮らしているのかしっかり見たい。手紙や本だけじゃ分からないことがきっと沢山分かるはずだ)
芸能祭を境にちょくちょく見るようになった夢のことは忘れ、奏と会うことばかりを考えた。そのことを考えるのに夢中で、外の景色をまともに見なかったことは大変悔やまれる。西風の城と見紛うような立派で芸術的な佇まいの駅を出ると、そこにはヨーロッパにでも来たかのような西風の景色が広がっていた。壁の色は黄色や白、屋根は赤茶色で、木骨造。黒っぽい茶の木骨が幾何学模様を描き、おしゃれでまた可愛らしい。多くの建物の前にはプランターや鉢が置かれ、色とりどりの花を咲かせている。屋根や石畳の上には黄色や茶の可愛らしい鳥がいて、何か楽しそうに喋っていた。立派な門のあるお城めいた建物は役所だそうで、実際かつては名門貴族の住まう城だったそうだ。他にもまるでお城のようなホテル、住宅、アパート等があった。そういった建物の内幾つかは役所同様、本物のお城だったそうだ。東西折衷、或いは東風寄りのものが多かった幻淵と違いここはほぼ完全に西風で、見かける人の顔立ちも西の人のものが多い。野菜や花、肉等を売っているにぎやかな市場を抜け、公園内にある噴水の前で陽気なおじさんが奏でているアコーディオンの音色に聞き入り、クレープ屋の甘い誘惑にぎりぎり耐えてみせる。
途中馬車に乗り、住宅街を離れ、森を抜けた先にある大きな丘を目指す。そこが今回のお茶会の会場である。
「あら、陽太君!」
丘を登り、馬車を降りたところで奏が陽太に気づいてやってきた。彼女の顔を見た途端心臓が飛び跳ね、全身の血が沸騰したかのようになる。前回会った時よりももっと大人に近づいた自分を見せようとしたのに、大人っぽくなったという言葉とはまるで無縁の、酷く間抜けで無様な様子で挨拶してしまった。しまったと思った時には、もう遅い。緊張している様子の陽太を見て奏はくすくすと笑う。そんな彼女はもう三十を過ぎているが、変わらず若く美しかった。会う度綺麗になっているような気がするのは気のせいだろうか?
緊張のあまりまともな言葉を紡げないでいる内「お茶会の間、あの家の中に置いておくから待っていてね。後でまたゆっくりお話ししましょうね」と荷物をとられ、あっという間に彼女はやや離れた所にある家へと向かっていった。荷物の中にはお土産が入っており、会ったらすぐ渡そうと思っていたのだが完全にタイミングを逸してしまった。ついていって話をする勇気もなく、仕方なく陽太は言われた通り会場内をふらふらと歩いて回ることにした。あちこちに白い丸テーブルに椅子が設置され、中央にはアフタヌーンティースタンドが置かれ、一口サイズのケーキがそれを彩っている。料理はそれだけではなく、テーブルクロスが敷かれた長テーブルにもずらりと並んでいる。テーブルにあるものを食べつつ、そちらから好きな食べ物をとって食べるという形式らしい。コーンスープ、コンソメスープ、ミネストローネスープ、サンドイッチ、バターロールや豆パンやデニッシュ、スコーン、ジャム、マカロン、ミートパイ、レモンパイにパンプキンパイにアップルパイ、ゼリー、フルーツタルト、サラダ、ローストチキン等など、種類は豊富で見ているだけでお腹が空く。
会場にはすでに多くの人がおり、わいわい喋っている。今回の魔女のお茶会は奏の属している魔女寮『カナリア』が担当する。大小様々な規模の魔女寮が存在し、奏のいるカナリアは老婆を長とした比較的規模の小さな魔女寮だそうだ。担当となった魔女寮の人達は自分の知りあいや友人、去年お茶会を担当した魔女寮の人達を招待する。
お茶会が始まると皆それぞれ好きなものを皿にとり、お喋りに花を咲かせながらもぐもぐと食べる。中には立ってお喋りしながら、という人もおり自由気まま。陽太もオニオンスープと、レタスと甘いたれに漬け皮がパリパリになるまで焼いたチキンのサンド、ひき肉と人参と玉ねぎの入ったオムレツをお供に奏と話をする。最初の内は奏と同じ魔女寮にいる魔女達を交え、自己紹介をしたりお互いの仕事について簡単に説明したり。それから魔女達は空気を呼んだのか、それじゃあ楽しんでねと席を離れ、二人きり。念願の、緊張の、二人きり。
「……金の匙の会っていうのは、ふるさとのさと主催の食事会なんです。抽選で決まった人を招く時、招待状と一緒に名前を彫った金色の匙を送るから金の匙の会って言うそうです。大体は僕みたいな新人が任されるみたいですよ。今後の仕事の練習っていいますか……本当、楽しい一方大変でした。食事メニューはどうするか、出し物はどんなものにするか、会場の飾りつけはどうするか、そういうのを予算や時間、招待する人のことを考えながら決めるんです。計画するのも楽しくて、わくわくしましたけれど、資料室にある資料を読むのも楽しかったです! 毎年の会の詳細が書いてあるんですけれど、本当に年毎に内容が全然違って……僕、先輩に頼まれて資料室に行って……あああったこれだ、さて持っていこう、ああでもちょっとだけめくって中身を……なんてやっていたら、すっかり読むのに夢中になってしまって、あんまり帰りが遅いから様子を見に来た先輩に怒られちゃいました。僕、結構そういうことがあって……先輩にはそれを『ひなたぼっこ』なんて言われているんです。僕の名前とかけて、そんなことを。資料室はそんな太陽照っていないんですけれどね」
大体は陽太が喋っていた。そして内容は馬鹿みたいに自分のことばかりで、そして「自分はこんなことをしたんだぞ、こんなに色々すごいことをしたんだぞ、えっへん、褒めて褒めて」という気持ちが丸見えな喋り方なのだった。母親に褒めてもらおうとしている子供そのものである。そして、大人と一緒に仕事している自分のことを話すことで、自分は大人の男と同じなんだというのを主張しようとしているのだ。陽太がこんな風に自分のことばかり(しかも自慢や自身の功績ばかり)延々と喋るのは親を除けば奏だけだ。いや、親相手にもここまで必死に話はしないから、今はもう奏だけかもしれない。
奏はこの国へ里帰りした時よりも幼い顔をして喋っている陽太を見て、くすくす笑いながら話を聞いていた。彼女は人の話を聞くことの方が好きなようで、こちらから色々振らない限り自分のことを話すことはないし、積極的にお喋りをすることもない。そういう部分は手紙の上でのやり取りとそう変わらなかった。聞き上手の彼女は陽太から話したいことを上手く引き出してくれる。それとお茶会のムードが陽太の緊張をほぐしてくれ、お陰でのびのびと話をすることが出来た。
彼女と話している時は元々きらきら輝いている世界が、ますます輝く。話しても、話してもまだ話したりない思い。口が際限なく動き、それに合わせて胸も弾む。誰と話すよりも、彼女と話している時が一番幸福で、そして誰にも邪魔されたくないと思える時間だった。そんな思いは出会った頃よりも明らかに強くなっている。
「ね、魔女の薬粥美味しいでしょう? こういう薬なら歓迎よね」
薬として食べたという、鶏と野菜と様々な生薬と共にご飯を似た魔女の薬粥。得体の知れぬものが幾らか入っていたので食べるのに少し勇気が必要だったが、食べてみると癖はなく食べやすく優しい味で、体がぽかぽかした。他にも魔女のパイというハーブと野菜と牛肉のパイ等も食べた。魔女料理と称されるものは体に良いものをたっぷりと使った料理が多く、美味しい薬とも呼ばれているそうだ。奏は苦い薬も注射も嫌いで、子供の頃はしょっちゅう泣いていたと困ったように笑う。病院から逃げ出そうとし、母親と泣きながら追いかけっこしたこともあるとか。そんな風にちょっと彼女が笑うだけでどきどきが止まらず、かっと熱くなった顔を見せるのが恥ずかしくてテーブルとにらめっこ。でも一方で彼女の顔をずっと見ていたいという気持ちがあり、悶々とする。
自分の胸の中にある気持ちは輝きを増し、膨らみ、今にも爆発しそうだった。
「奏さんにも子供時代があったんですね……」
「それは勿論。最初からおばさんだったわけじゃないわ、変なこと言うのね。それにしても陽太君大分声、低くなったよね。初めて会った時はあんなに高かったのに、やっぱり男の子は変わるわね。どんどん大人に近づいてきている」
奏は自分の喉を指しながらにこりと笑う。男の子、という言葉に妙にドキドキしてしまう陽太だった。そうだ、自分は男で奏は女なのだ。自分のことを彼女が『男』であると認識してくれているのは嬉しい気がする。まだ子供に見られている部分はあったが、以前よりも大人になっていることはきちんと伝わったようだ。子供っぽくはしゃいでいてまるで変わっていない部分だけ見せてしまっていたような気持ちだったが、もうこの国へ来た当時の面影など殆ど無い位低くなった声が、きちんと奏に伝えたかったことを伝えていたのだ。どうして自分はこんなにも奏に『大人の男』扱いしてもらいたいのだろう?
「それに……ねえ陽太君、ちょっと立ってもらえるかな」
急にそんなことを言われて戸惑ったが言われた通りに立つと、今度は手招きされ同じく立った奏の前へと行った。すると奏はまず自分の頭の上に手をやり、それをそのまま陽太の頭上へともっていく。
「背、とっても伸びたわね。桔梗会で会った時は私の方がまだ少し高かったけれど、今はもう陽太君の方が高くなった」
言われてみればそうだ、と陽太は今になって気づいた。初めて会った時は女性にしてはやや高めの奏よりも低かったのに(元々やや平均より低かったから、余計差があった)、今は彼女よりも少し高くなっている。最近はやたら伸びてきているので、来年の今頃はもっとその差が広がっているかもしれなかった。自分の方が背が高い……それだけのことなのに、嬉しかった。
本当に大きくなったわねえ、と微笑む奏の顔が今はとても近い。ほんの少し体を前に傾けただけで頭と頭がくっつきそうだ。さらさらとした黒髪、優しい瞳、仄かに色づく唇、透き通った肌、何もかもが近く、シャンプーと僅か匂う香水の良い香りが陽太の胸を高鳴らせる。
その時強い風がぴゅう、と吹き陽太と奏の体を叩く。天女の羽衣の如くたなびいた黒髪を抑えながら、彼女は風が去って行った方を眺め、すごい風だったわねと呟いた。その顔に、髪に、手に、太陽の光が当たり彼女はきらきらと宝石のように輝いた。
それを見た瞬間、陽太の胸の内で膨らんでいたものが弾け、その衝撃で世界の様相ががらりと変わった。
白っぽい布に覆われてどこか薄ぼやけていた世界が、布を取っ払われたことで本来あった色を陽太の前に見せたのだ。先程の風と共に今までずっとかかっていた布が去り、ようやくそれのない世界を陽太は知ることが出来た。
ここでようやく、本当にようやく、陽太は自分が奏のことをどう思っているのかちゃんと悟った。自分の抱く想いは憧れとか友情とかそういうものではなかったことを。奏に抱いていたのは恋愛感情だった。自分は彼女のことをずっと一人の、そして唯一の女性として見ていたのだ。
――いつか何か帳? だっけ? そういうのがどーんと取っ払われて、ある日自分の気持ちにででーんと気づいて、世界がどかどかどーんと変わるさ、きっと!――
初めての満星祭りで颯馬が言っていたことを思い出す。全くその通りだった。どーんと取っ払われてどかどかーんと変わった世界を陽太は今目の当たりにしている。
それにしてもどうして今まで気づかなかったんだと不思議に思ってしまう。子供だって恋をするし、自分の気持ちが恋であるかそうでないかちゃんと分かるはずなのに。余程鈍いからなのか、それとも奏の歳があまりに離れすぎている故に歳の離れたお姉さんを慕う気持ちだったのか、そうでないのかはっきりと分からなかったのかもしれない。同世代だったらもっと早く気づいただろうか。
(こんなに、こんなに好きなのに。ずっと一緒にいたいって思う位好きなのに……こんなに大きな気持ちなのに)
弾けた想いが再び収束し、陽太の胸の鼓動を早くする。そしてその想いが彼の全てを支配する。奏はお菓子をとってくる為に一旦その場を離れてしまったが、陽太はそのことに気づかずその場に立ち尽くしたままだった。世界が変わった衝撃と、やっと気づいた奏への想いの強さのせいだ。自分はこれから先、今までと全く同じように奏と接することは出来ないだろう。それは少し寂しいことであり、同時にとても喜ばしいことであった。
だがそんな陽太をやがてある思いが襲った。そしてその思いが体の熱をすうっと冷ます。その思いの名は『後悔』だった。
(もっと奏さんと会っておけば良かった……)
幻の二月の淵が幻ではなくなる日、陽太や奏は元の世界へと帰る。奏の住んでいる所は陽太の住む桜町とはかなり離れているから、向こうに帰ったら簡単には会えなくなるだろう。加えてこの国に住んでいる時は向こうの世界の何もかもが御伽噺に思えたように、向こうの世界に帰るとこの国の全てが御伽噺に思えてしまうらしい。奏は前回この国を訪れた時に仲良くなった帰郷者と、向こうの世界に帰った後手紙のやり取りをしたという。だがそんな風にやり取りをしたのも僅か数回のことだったそうだ。この国にいた時はとても仲が良くて、別れることがとても辛いと、いつまでも友達でありたいと思っていたのに向こうへ帰った途端その想いが幻になってしまったのだ。自分がその人と過ごした時間というのは本当に存在していたのか、手紙のやり取りをするだけの想いを抱いていたのか分からなくなってしまい、結果筆にのせるだけの想いを失った二人の距離は離れ、今ではもう赤の他人同然。俄かには信じられないことだし、そうはならないと思いたいが、きっと向こうの世界に帰ったら奏への恋心は幻となっていくことだろう。向こうの世界へ帰る時が、実質永遠の別れになる。それなのに自分は一人で会いに行くのが何か恥ずかしいとかなんとか言って、今日まで桔梗会以外で彼女と会わなかった。これから遊びに行く頻度を増やすにしても、そう多くは来られないだろう。陽太は好きな女性と過ごす時間を自ら捨てていた。回数にすればきっと僅か数回。だが四年という限られた時間の中、その数回がどれだけ貴重なものか。
陽太は今年の満星祭りで見た星座盤の占いの結果を思い出す。星座盤が示した陽太の未来は『激しい後悔』というあまり歓迎したくないものだった。そしてそのあまり歓迎したくない思いが今まさに陽太を襲っているのだった。変に恥ずかしがらず、もっと遊びに行けば良かった。そう後悔しても過ぎた時間は取り戻すことは出来ない。
しかし星座盤の示す『激しい後悔』はこれだけではなかった。今回の様にどうにでもなったのに何もしなかったことに対する後悔ではなく、どうにもならないことをどうにもならなかったことだと分かりながらも後悔することになる。




