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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
故郷は幻の二月の淵に
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故郷は幻の二月の淵に(12)

 

 開け放たれた窓から、徐々にスピードを緩めながら若葉の匂いと共に一羽の烏が入ってきた。慣れた様子で窓のすぐ傍にある止まり木にちょこんと乗ったことに気づいた陽太が、用箋バサミとペンを手にそちらへと向かった。広々とした部屋の中には他にも沢山の烏がいて、自由気ままに動き回っている。始めの頃は烏だらけの空間に不吉さや禍々しさを覚えていたが、今は全くそのようなことは思わなくなっていた。


「おかえり、善治。ご苦労様。今日はどんなだった?」

 陽太が尋ねると見回り烏である善治は、見回り中に見たことや、どこで誰がどんな風に迷子になっていたかということなどを次々と話す。ばさばさという羽音や烏達の話し声は相変わらず騒々しいが、すっかりその様子にも慣れ、気が散ったり話を聞きもらしたりすることも殆どない。地上を歩き回ることで知れることも多いが、上空から眺めることで得られるものも多くあり、そういったことを知ることの出来るこの時間は陽太にとって貴重であった。勿論個人的に面白いというだけでなく、仕事の助けになるような話も多い。むしろ本来はそういった話を聞く為に陽太は今ここにいるのだ。


「あの『たぬきのしっぽ亭』は今日も大盛況だった。牛タンシチュー美味いのか?」


「美味しいよ、この前雄一郎さんと一緒に行ったけれど。店の雰囲気もレトロな感じで、心が落ち着くんだ。それに不思議と懐かしい気持ちになるんだよね。オムライスもふわふわとろとろで、その上にかかっているデミグラスソースも美味しいんだ。ケチャップ版もあってね、そのケチャップがまた美味しいんだよ。甘味と酸味が絶妙のバランスでとても良い匂いがして……ってごめんつい無駄話しちゃった」


「いいってことよ。新しくあの店が出来て、あの辺りは賑やかになった。近くのスープ屋の味も良くなって、最近客の数がまた増えてきているようだ。あそこは昔すごく美味いことで有名だったんだが、店主が天狗になっちまって、情熱も失せていって、初心を忘れて、忙しさのあまり手を抜くようになって段々と味が落ちていって客の数が減ったんだ。で、客足途絶えて親父さんはやる気を無くしてますます味が落ちた。でもあの店のオニオングラタンスープを食った瞬間スープに対する情熱を思い出して、やる気になったんだとさ。それでもって味も店を出した時に近くなってきたって。あの店には負けないぞって頑張っているって。おっと俺も余計なことを喋ってしまった、すまんすまん」


「構わないよ、そういう話も僕は沢山聞きたいから。そっか、あそこのスープ屋って昔はそんなに美味しかったんだ……知らなかったや。今度改めて行ってみようかな。前、颯馬――友達と一緒にあの店でスープを飲んだことがあったんだよ」


「そうか、そうか。ただ賑やかになった分迷子も増えた。あの店は分かりにくい所にあるからな。近くに出ている案内の看板にも問題があるみたいだ。迷った奴等に話を聞くと、大体は看板の案内通りに進んだって言うんだが……その読み方を間違えている」

 皆が看板のどこをどう読み間違えて迷っているのか、それを陽太は用箋バサミに挟んだ紙に記入していく。彼等は幻淵中を飛び回っている時に見つけたものや、迷っている人を助けたりしている時に気づいたことを次々と挙げていく。勝手に「これはいらない情報だ」と決めつけず、彼等の挙げた事項は残らず記録する。一見どうでもいいことでも、実はそうではないということも少なくないからだ。

 一通り報告を終えると、善治は陽太と雑談を始める。ここへ来た当初は、どの烏も最低限の報告をするだけだったが、こちらから話を振ったり、餌やりや掃除といった世話を一生懸命やったりしている内、少しずつ仲良くなっていった。今はこうして仕事とは関係の無い話をすることでよりその絆を深めている。彼等からより良くより多い情報を得る為には、信頼関係を築くことが何よりも大切なのだ。新人は彼等と良い関係を築き、幻淵の様々な情報を得理解を深める為見回り烏の世話をすることになる。


 ご苦労様、と善治に改めて声を掛けるとまた別の烏がやって来る。彼からも話を聞いていると、仁左衛門が戻ってきた。彼は帰ってくるなり「明日幻淵に馬糞の雨が降るってよ」とか「パン屋のばあさんが一時間に十回あくびした」とか「うさぎが三回まわってワンと言いながら皿を回して鯵を食べてから便所で読経して鯨に挨拶した」とか、いい加減なこと、本当にどうでも良いこと、意味不明なことを次から次へと喋るとまた外へと飛び立っていった。陽太は空へ消えていく彼の姿を見てため息をつく。彼とは永遠に信頼関係など築けないに違いなかった。それは職員の九割以上が思っていることだ。どうやら昔は働き者だったらしいが、ある一人の職員が原因で人を信じなくなり、真面目に仕事をやるのが馬鹿らしいと思うようになってしまったらしい。陽太は颯馬と一緒に迷子になり、仁左衛門に助けを求めたが助けてもらえず憤慨した時のことを思い出す。あの頃はしょっちゅう道に迷ったものだが、今はもうあの辺りの地理は殆ど頭に入れており、自信を持って道案内出来るまでになっている。現在住んでいる辺りのことは現在足をもってお勉強中だ。


(もうあれから二年経ったんだなあ……)

 陽太は見回り烏の部屋を掃除してから、報告を記録した紙を手にその部屋を後にする。東西折衷の建物内に爽やかな風を送り込む窓についているレースのカーテンが、くすぐったそうにその身を揺らしていた。その奥にはレンガ造りの寮があり、陽太は今そこで寝起きしている。


 幻淵のことをもっと知りたい、幻淵のことをもっと皆に好きになってもらいたい――その為に出来ることを探していた陽太が辿り着いたのがここ『ふるさとのさと』である。幻淵に関する情報の収集・発信(州内、州外問わず)、ツアーやイベントの企画運営、見回り烏の管理、観光客向けのパンフレットの作成等業務は多岐に渡る。観光客を多く呼び込む為に奔走し、州民に愛される『迷い路の都』作りをする為に奔走する。幻淵内を歩き見回り烏同様に迷ってしまった人を助けたり、観光客に情報を提供したり、州民とコミュニケーションをとり情報を得たりすることもある。そんな場所で陽太は働いている。年齢などの関係で立場としてはアルバイトのようなものだ。仕事の時は、パトロールや見回り烏の世話等を通じて幻淵のことを学び、情報を得、休みの時は辺りを自由に探索して新しい発見に胸躍らせたり、新たに出会った人々と交流を深める。


 ここは幻淵内に幾つか存在する『ふるさとのさと』の本部で、比較的坂や階段が少なく平らかな場所にあり、道もそれ程入り組んでおらず、草薙庵周辺とはまるで違う景色が広がっている。草薙庵からそう遠くない場所にも『ふるさとのさと』の支部があったのだが、新しい一歩を踏み出す為、そしてまだ多くを知らないエリアのことをもっと知る為に、敢えて草薙庵から離れた場所にある本部で働くことを決め、寮暮らしを決めたのだ。庵を出ることを告げた時皆残念そうな表情を浮かべながらも、前へ進む陽太を応援してくれた。草十郎は寂しくなるなと言いつつも「俺はイチャバカップルの桃色空間の中一人取り残されることになるんだな」と割と本気で嘆いており、それを聞いた陽太はちょっと気の毒に思い、苦笑い。陽太と和解してからというもの、理子と晃は遠慮することがなくなり二人一緒の時は絶えずいちゃついているのだ。


 報告をまとめた紙を提出したところで、部屋にぞろぞろと職員が入ってくる。つい先程まで満星祭り関係の会議を行っていたのだ。あの祭りの運営には草十郎のような一般の州民も携わるが、委員会の核にいるのはふるさとのさとの職員である。


「やあ陽太君、今日の烏番は終わりかな」


「はい、終わりました。あ、今珈琲淹れてきますね」

 会議を終え戻ってきた内の一人は明之(あきゆき)という二十歳の若い男で、陽太に色々と仕事のことを教えてくれた人だ。陽太は彼と彼以外の職員の為にせっせと珈琲を淹れ、どうぞと差し出す。陽太の仕事は主に見回り烏の世話と幻淵内の見回り、それから諸々の雑用だ。そこから徐々に仕事の範囲を広げ、最終的にどの仕事を担当するのか決めるのだ。


「満星祭りはまだ先のことなのに、もう結構忙しいんですね」


「まだ先のようでいて、そうではないんだなあこれが。それでもまだ今はましな方だよ、じきもっと忙しくなって職場は修羅場と化すんだ。祭り関係のことだけではなく、通常業務もこなさないといけないしね。僕もここで働き始めたのは陽太君と同い年の時だけれど、あまりの地獄絵図っぷりに身をぶるぶる震わせたものさ。そして今僕は体を震わせる方ではなく、幼気な少年を恐怖と忙しさのあまり震えさせる側にいるってわけだ。去年なんて、満星祭りなんてひっ掴んでゴミ置き場にぽいっと捨ててやるって思ったもんね……」

 陽太から差し出された砂糖多めの珈琲をすする明之の目は去年の自分と職場の様子を見つめ、虚ろになっている。その姿を見る限り、今の内に覚悟を決めておいた方が良いのかもしれない。そう思いつつ、わくわくもしていた。あの大きな祭りを動かす者の一人に自分がいる、皆にあの愉快な気持ちを届ける祭りを動かす手伝いが出来る、そう思ったら嬉しくて仕方が無かった。


(去年までは本当、考えられないことだった。こんな風にどこかで働くことも、お祭りの運営側に回ることも、草薙庵を離れることも……)

 永遠に変わらぬものなどそうそうあるものではない、そんなことは分かっているつもりで、それでいて分かっていなかった頃。颯馬がいて、晃はまだいなくて、理子は笛と出会っていなくて、陽太は草薙庵にいて、外の世界にはまるで目を向けていなくて。あの頃と今では色々なことが違い、それは寂しいことでありまた喜ばしいことであった。今は世界が変わったことに対する寂しさを少し抱きながらも、新しい世界を生きる喜びで毎日が楽しくて仕方ない。


 一通り仕事を終えた陽太は寮にある自室に戻り、机の上に便箋を置いた。颯馬と奏に手紙を書くのだ。何を書こう、どんな風に書こうか、これを書いたら二人はどんな反応をするだろうか、そんなことを色々と考えながらペンを走らせる陽太を優しく見守るのは机に置いてある一体の人形。颯馬が先日相変わらず字の汚い手紙と共に寄こしたもので、黒地に極彩色の花と蝶の描かれた着物の生地とレースを使って作られた東西折衷のドレスを着たおかっぱ頭の少女の姿をしている。理子には色違いのドレスを着た、似た顔立ちの少女の人形を渡したそうで「相棒達に贈る双子の人形だ」と手紙には書いてあった。二月の桔梗会で会った颯馬は身長こそ殆ど変わらないが、ますます大人っぽい顔立ちになっており、それが時の流れと彼の精神的な成長を陽太に教えたのだった。根っこはいつまでもやんちゃでお調子屋でお馬鹿でうるさい、出会った頃の颯馬のままだけれど、あの時から変わった部分も多い。陽太も自分が肉体的にも精神的にも、故郷へ帰って来た頃とは違うことを自覚していた。近頃身長が少しずつ伸びてきており、女の子と大差なかった声が低くなりつつあることも感じている。


 陽太は手紙を書き進めながら、これからのことを思う。近況を書けば書く程、その先起こるだろう様々な出来事が自分の中で膨らんでいくのだ。その来るかもしれない未来、来て欲しい未来に陽太の心は躍るばかりだ。


(今はまだ出来る仕事も少ないけれど、これから先頑張れば出来ることも増えるだろう。情報誌の作成もやってみたいし、ツアーの企画なんかも面白そうだ。明之さん位の歳になる頃にはきっと満星祭りの運営とかにもばっちり関わって、他の仕事ももっと出来るようになっていて、後輩とか出来て僕はその人に色々と教えて、何年もじっくりと時間をかければもしかしたら仁左衛門の心を開くことも出来るかもしれない。元々彼はとても優秀な見回り烏だったというし。今は任されていないけれど、生まれたばかりの見回り烏を育ててみたいな、いつか。その烏に色々なことを教えて、立派な見回り烏にするんだ。大人になって、お金を稼いで……いつか自分好みの家を建てて、そこで暮らすんだ。そしてその家からこの職場に通って、それからそれから……)

 何年、いや何十年先のことを考えながら進む筆はある時ぴたりと止まった。それは陽太がある事実に気づいたからだ。


(そうだ……僕は帰郷者だった。ここにはずっといられないんだ)

 今はこの国に属する者として生きているが、それは永遠のことではない。次の二月二十九日、幻の淵が幻でなくなるその日、陽太は元の世界に帰らなくてはいけないのだ。向こうの世界には家族や友人がいる。そして彼にとっての本当の故郷は桜町だ。だが今は向こうのことなどまるで考えられなかったし、家族や友人の顔もうろ覚えで、どうにかそれっぽいものを思い出しても本当にそれが自分の家族や友人であると確信することは出来なかった。自分のいるべき場所は最初から最後までここ閏の国のような気がしてならず、向こうの世界に帰るということは未開の地、或いは自分の脳内だけに存在する妄想世界にダイブすることと同義に思える。ほぼ身に着けることなく終わる学ランやほぼ過ごすことなく終わる中学時代のことも、向こうで自分の代わりに過ごしている『影』がどの高校を選ぶのかも、何もかもがどうでも良かった。考えることは、二年後には別れなければいけないこの国での暮らしのこと。自分の思い描く未来に、向こうの世界の家族や友人、桜町のあれこれは含まれていない。


――でもね、じき帰りたいって思うようになるのよ。二月二十九日が近付く毎にね、今度はこの国が御伽の世界になって、御伽の世界になってしまっていた自分が住む本当の世界が現の世界になるの。まるで考えていなかった家族や友人のことを思うようになっていって、四年の間自分は向こうの世界でどんな風に過ごしていたのか、どんな未来を選んだのか気になってくるの。向こうの世界を思う気持ちが強くなればなるほど、この世界への思いが遠のいていく……とても不思議で、とても寂しい気持ちになるわ――

 今年の桔梗会で奏が話してくれたことを思い出す。向こうに帰りたいなんてこれっぽっちも思わないと言った陽太に対して、そう彼女は言ったのだ。体験者の言葉だったが、いまいち信じられずにいた。その言葉が嘘なのでは、と思える程陽太の気持ちはこの国にあった。


 それでも、遠くない未来帰りたいと願うようになるのだ。属する世界が変わるだけで思いなど簡単に変わってしまうのだ。

 手紙を書き終えた陽太は外へ出、手紙を投函するついでに辺りを歩いた。


「おや、陽太君こんにちは」


「こんにちは! あ、この前お店でいちごカスタードパイを買いましたよ。とても美味しかったです! 生地がさくさくで、イチゴの酸味とカスタードの甘味が丁度良くて! ベリータルトも食べましたよ、見た目がとても綺麗で、何か少し食べるのが勿体無かった位です」

 近くのケーキ屋で働いている女性に声を掛けられた陽太は、先日買ったお菓子のことを思い出す。狐色のさくさくのパイ生地の上に、パステルイエローのカスタードクリームがたっぷりのっていて、更にそれを目を焼くかと思われる色をしたいちごが飾ったいちごカスタードパイ、紅玉に黒瑪瑙、一握りの翠玉溢れる宝石箱をそのままお菓子にしたようなベリータルト、蜜が塗られてきらきらと。甘味と酸味のバランスが丁度良く、見た目程くどくなくぱくぱくと食べたことを覚えている。


「あらありがとう。これからはびわのゼリーやメロンのケーキが出るから、そちらも是非食べてね。メロンのケーキはね、二種類のメロンを使うのよ。黄緑色のと、橙色の。それをくりぬいてね、たっぷりのせるの」


「うわあ、美味しそう! 僕、メロンケーキとかメロンタルトとかって食べたことが無いから楽しみだなあ」


「ようせいのケーキ、ようせいのケーキ!」

 会話に割り込んできたのは、同じく近くに住む子供二人だ。陽太はやや屈んで二人に挨拶する。すっかり覚えた名前を口にすると二人は人懐っこい笑みを浮かべる。


「妖精のケーキ?」


「うん、あのね、あのケーキね、雪の上を黄緑と橙色に光る妖精さんが飛んでいるように見えるから、ようせいのケーキって呼んでいるの。わたしが考えたんだよ!」


「違うやい、最初に言ったのは俺だい!」


「ちがうよ、わたしだよ、ユタ君はまねっこなんだよ!」


「まねっこじゃないよ! 愛子ちゃんの方がまねっこだよ!」


「こらこら、喧嘩しないで。そっか妖精のケーキか……良い名前だね、とっても素敵な名前を考えたんだね。うん、もうちょっとしたら買いに行こうかな」

 二人は誇らしげに胸を張ってみせる。お互い自分が褒められていると思っているのだ。ケーキ屋の女性と二人の子供と別れる。道中えらく図体のでかい猫を飼っているおばあさんに飴を貰い、挨拶を交わした花屋のお姉さんと短い雑談、今が時期の花について教えてもらった。ごろごろとろとろのいちごがたっぷりかかったバニラアイスを食べ、おにぎり屋のおばさんに新作メニューの情報を聞き、すっかり自分に懐いたお散歩中の犬と戯れつつ飼い主と話し、よく会うおじさんと今年はクモモドキガニ(見ようによってはクモに見えるカニ。見た目はなかなか気持ち悪いが、美味しい。特にミソが濃厚で甘いことで有名で、幻淵付近でよく獲れる)が豊漁であることを聞き。


「よう陽太坊」


「こんにちは陽太君」


「ぼっちゃんこんにちは」

 あちこちで声をかけられ、その度笑顔で挨拶を返したり、立ち止まって話をしたり。仕事や趣味であちこち回る内、知り合いも大分増えてきた。名前も住んでいる所も知らないが親しくなった人も少なくない。そうして輪が広がれば広がる程、得るものも増えていくのだ。その世界の広がりを感じる度、いつかこの広がっていった世界と別れなくてはいけないことを辛いと思う。生まれた繋がりも、大切な出会いも全部こちらに置いていかなくてはいけないのだ。

 絶対に帰らなければいけない、という決まりはないらしい。絶対に帰りたくないという意思があれば、ずっとこの国に居座ることも出来る。そう奏からは聞いている。だが……。


――それでも、貴方は帰るのです。帰らなくてはいけないのです――

 ここにずっといたい、と願う時陽太の頭の中にある一人の男の声が響く。そういえばあの人と会ったのはこの辺りだったな、とレンガ造りの建物が多い通りを歩きながらその人との出会いを思い出す。

 あれは陽太がまだ『ふるさとのさと』に来てすぐのことだ。今日と同じように颯馬と奏に手紙を出した帰り道、初老の男性が袋が破けて中に入っていたものを盛大にぶちまけた場面に遭遇した。陽太は転がった果実を拾い集め、その人に渡したのだ。


――ありがとうございます――

 陽太からそれを受け取った彼は微笑み、礼を言った。その笑みは儚げで、顔色の悪さと体の不健康な細さも相まって、今にもすうっと消えてしまいそうな人で。本当に彼は実在する人物なのか、優しい陽気に微睡む自分が作り出した幻ではないかと思えるほどだった。

 これどうぞ、と陽太は近くの店で紙袋を幾つか貰い男に渡した。再び礼を言いながらそれを受け取る男の手は冷たく、それが彼を幻ではないと証明したが、今度は幽霊に思えてくる。病気を患っているのだろうか、とその時は思った。


 陽太は男にお礼に家でお茶をご馳走すると言われ、一度は断ったもののお気に入りのお店のケーキにつられ、二度目は断らずに「それじゃあお言葉に甘えて……」と男の家へと行った。男の家は薄暗く、装飾も殆どない寂しい所だった。お茶とケーキをご馳走になりながら、お喋りをする。その間もずっと男の表情には儚さと暗さがあり、この世界の一切を楽しいとは思っていないようにも見えた。美味しいお茶とケーキも、彼に本当の笑みを与えてはくれない。


――そうですか、陽太君は帰郷者なのですね。……実は私も帰郷者なのですよ。いえ、だったと言った方が正しいでしょうか……――


――だった?――

 陽太が首を傾げると、男は微笑みながら頷く。その笑みは自らを嘲っているように見えた。


――陽太君は、知っていますか。帰郷者は必ずしも外つ国……元の世界に帰らなくてもいいことを――

 それは奏から聞いて知っていた。陽太は頷き、自分はこの国での暮らしを楽しんでいること、帰りたいとは少しも思っていないことなどを話した。帰りたいと思うようになるという話が信じられない、例えそう思っても帰りたくはない、ふるさとのさとの職員としてここ幻淵でずっと生きていたいと、己の胸の内を初対面である男に明かす。それを聞いている時の男の顔は切なく、苦しそうで喋っている内に段々と胸が詰まって息苦しくなってきた。


――本当にこの国のことを愛しているのですね、陽太君は。でも、駄目です。どれだけこの国のことを思っていても、帰りたくないと思っていても……それでも、貴方は帰るのです。帰らなくてはいけないのです――

 幽霊と見紛う程生気のなかった瞳に、その時だけ命の灯がつき陽太に絶対の意思を感じさせた。その輝きに気圧され、戸惑いながらも陽太は問う。家族や友人がいるから、向こうが本来の世界だから矢張り帰らなくてはいけないのかと。男はこくりと頷いた。しかしそれをどうしてここに残ることを決めた人が言うのだろう?


――今は一時的にこの世界に属する者となっていますが、本来君は外つ国に属する者です。そここそが本当の居場所であり、いるべき場所なのです。ここは新しい世界へ足を踏み出すことと引き換えに失った、古き世界なのです。新しい世界を選んだ以上古き世界にはいられません。新しい世界から離れて、古き世界に再び足を踏み入れるなどということは本来なら出来ないことです。これは例外なのですよ。夢のようなものです、ここで過ごす日々というものは……夢を見ている間は夢の中こそが現実の世界になり、現実の世界が遠くの世界、夢の世界と化す。けれど夢はいつか覚めるもの。貴方は『起きろ』という声を聞いたらちゃんと目を覚まし、夢から覚めなくてはいけません。そしてまた自分が選んだ新しい世界で生きるのです。そうしなければ、いけないのですよ――


――夢……――

 それは甘美な、それでいて残酷な響きに思えた。ここでの出会いも、思い出も、得たものも、広げていった世界も、全ては夢の中のもので四年の歳月が過ぎたら全部置いていかなくてはいけないのか。夢の中に、全部、全部。そう思ったら胸が痛む。捨てたくない、捨てる位ならずっと夢の中で生きている方が良いと思った。


――私も陽太君のように、外つ国へ帰りたくないと思っていました。……この国へ来る前に妻を病で亡くしましてね……向こうは私にとって無価値になっていたのですよ。しかしそれでも次の二月二十九日が近付くにつれ、向こうへ帰りたいという思いが湧いてきました。無価値だと思っていても、私が本来生きるべき世界は向こうです。私は夢から覚める準備をし……向こうの世界に属する者に戻ろうとしていました。帰りたい、帰りたい、友人は元気だろうか、向こうの世界ではどんなことが起きただろうか……そんな風に、今まで全く考えていなかった向こうのことを考えるようになりました。でも、私は帰りませんでした。そういう気持ちを無理矢理抑えてでも、この国へ残ることを望んだのです――

 そして男は他の帰郷者が外つ国へ帰っていくのを見送り自分は残ったのだ。私はそうするべきではなかったのだと男は深いため息をつき、陽太を見る。いやその瞳は陽太を見てはいなかった。恐らく今の彼は、過去の自分の姿を見ているのだろう。


――外つ国へ通じる道が閉じた瞬間、私の中の『帰りたい』という気持ちは嘘みたいに消えて無くなりました。ですが……この国を想う気持ちは戻って来ませんでした。私は目を覚まして現実の世界へ行くことも出来ず、かといって夢の世界の地にしっかり足をつけて生きることも出来なくなりました。どちらにも属していて、どちらにも属していない、そんな中途半端で曖昧な者になってしまった。次の二月二十九日が近付いても、向こうに帰りたいと思うことはありませんでした。一度夢から覚めることを拒否した者は、もう二度と起こしてもらうことは無いのです。今はもうどちらの世界も遠く、どちらにもしがみついていたいと思える程のものを感じられない……帰りたいとも思わないし、ここにいたいとも思わない……。私と同じ選択をした人は多かれ少なかれ同じ想いを抱いていることでしょう――

 幻や亡霊に見えるのは、そういうところが原因であるかもしれなかった。ここにいながら、ここに属する者ではない人。そして彼は永遠にふらふらとこの世界を漂う亡霊でいる。普通の人間に戻れる日はやって来ない。そして程度に多少の差はあれここに残ることを決めた者は例外なく皆こうなるのだ。二つの世界を繋ぐエレベーターは一度途中で止まると二度と動かなくなる。ドアを開けて逃げることも出来ず、死ぬまでそこで暮らす。

 そんな残酷な事実を突きつけられてなお「それでも僕は帰りたくない、絶対残ってみせるんだ」とは言えなかった。男は万が一にも陽太が自分と同じ道を歩まぬよう、あらん限りの生の輝きをその笑みと声に込め、優しくそれでいて強く諭す。

 

――ちゃんと帰りなさい。悲しくても寂しくても、夢から覚めて本来自分がいるべき世界で生きなさい。君は私と同じようになってはいけませんよ――


 それからも陽太は何度も「帰りたくないな」と思うことはあった。探索で見つけた店や面白いものを観光客に紹介して喜んでもらった時、行事に参加した時、あちこちに足を運んだ時。この国ともっと関わっていきたい、もっと深くまで知りたいと思う時ずっとここにいたいという思いが湧いてくるのだ。だが、どれだけそう思っても、男の声が陽太を止める。陽太は自分がその声に逆らうことは無いだろうと予感していた。

 自分の為にも、そして忠告してくれた男の為にも次の二月二十九日が訪れたら帰らなくてはいけない。でも、帰ったらそれで終わる。奏のように再びこの国を訪れる者もいるが、滅多にないことだという。これが最初で最後なのだと思ってまず間違いないのだ。


(ここでどんな風に生きていくのか決めたのに、もう後二年位しか時間はない……もっと、もっとという気持ちを満たすには全然足りない時間だ)


 時間が無い、時間が無い、時間が無い――時間など無限にあるものだと当たり前のように思っていた陽太だったから、これ程までに時間が無いと焦ったのは初めてのことだ。その焦りは竜頭人形作りを学ぶ颯馬も、理子や晃も感じていることに違いなかった。限られた時間の中で自分は一体どれだけのことが出来るだろう?

 焦りと不安は日毎に増すが、だがそれに押し潰されて日々を楽しめなくてはますます貴重な時間を無駄にしてしまう。今の陽太達に出来ることはがむしゃらに、そして一生懸命毎日を生きることであった。

 山笑う季節が過ぎ、灰の空と雨にすっぽりと世界が覆われる時期がやって来て、そして山滴る季節が訪れる頃になると、陽太は時間が無いことに対する焦りや不安を忘れる程忙しくなっていた。満星祭りに向けた動きが本格的になってきたからだ。この頃になると奏も『魔女』としての仕事が忙しくなり、颯馬も星寄せ飾りや祭りに使うらしい人形作りで忙しくなり、手紙のやり取りも止まる。


「もう嫌だ、満星祭りって名前見るだけでゲロ吐きそう……」

 机に広がる書類を虚ろな表情で見ながらぼそりと呟く明之に、軽く焼いた食パンにレタスとトマト、厚切りベーコンにクリームチーズを挟んだ特製のサンドイッチと珈琲を差し出す。それぞれの好みに合わせてベーコンの厚さ、パンやベーコンの焼き具合、チーズの有無諸々を変えたサンドイッチと矢張りそれぞれの好みに合わせて淹れた珈琲(もしくはお茶)を明之は今にも死にそうな声で礼を言ってから食べ始めたが、その間も仕事は続ける。元々仕事の片手間に食べられるようにと作ったものである。陽太はぺこりと軽く頭を下げ、他の職員に食事を渡しに行く。とても仕事はどうですか、順調ですかとかなんとかそんなことを聞ける状態ではない。ちょっとした雑談という名の息抜きさえする暇も心の余裕も今の皆にはないのだ。


 雑用であっちへ行き、こっちへ行きを只管繰り返す。誰も彼も気が立っていて、職場内の空気は軽く焼いたパンやベーコン、珈琲の香り、それからぴりぴりと体を痛くする空気と夏の熱が混ざり合い異様な空間と化している。そんな中にいるから皆余計ぴりぴりしているのかもしれず、仲良く揃って「満星祭りなんてふん縛って大きな石をつけて海底に沈めてやろうか」と思っているような顔をしているし、人使いも荒くなる。正直陽太達は彼等のパシリにでもなっている気分だった。そんな忙しい中でも職員は最低一人一個は星寄せ飾りを作らなくてはいけなかった。しかも作る物はくじで決まり、手間のかかる飾りにあたった者は悲鳴をあげていた。星寄せ飾り作りを罰ゲームのように捉えている人など、彼等位のものだろう。陽太達新人組は彼等より時間に余裕があるので、星寄せにつける飾りの殆どを作ることになっており、あちこち駆けずり回って職員達の世話をしつつ、ひいこら言いつつせっせと手を動かし一個、二個、三個、いやもっと。


「……本当、ここまで修羅場になるなんて思っていなかった。僕も当日幾つかのイベントで司会をやったり、アシスタントをしたり、準備とか出演者の出迎えとかしたり、色々仕事がある」


「はっはっは、大変だな、大変だな。まあここが祭りの近くになるとすごいことになるのはいつものことさ。でもまあこんなだからこそ終わった時の達成感が良い感じにこう、やばいんだよ」

 良い感じにやばいって何だよ、と陽太は苦笑いする。ぴりぴりしている職場内で唯一の癒しの場所はここ見回り烏の部屋である。彼等はいつも通りでぴりぴりモードとは疎遠なのだ。報告を聞いた後の烏との会話が疲れた体と心を癒すのだった。


「まあ頑張れや若人よ。これもまた祭りの楽しみ方の一つよ」


「若人って、なんだかすごく長生きしているおじいさんみたい」


「あんたよりはずっと長生きだ。もう五十三年は生きているぜ」


「え、そうなの!? そんなに長生きしているの!」


「さあ、知らね。烏は何年生きているかなんて気にしないもん。もしかしたらまだ五年しか生きていないかもな!」

 五年と五十三年じゃ大違いだよ、と脱力する陽太を見て烏はけらけらと笑うのだった。


 そしてとうとうやって来ました、満星祭り。祭りの日が来たからといって体を休めることは出来ない。イベントの進行、パトロール、迷子のお世話等などだ。初めて満星祭りを経験した時はこんな風に祭りの運営側に回るとは思いもしなかった。しかしこれもまた一つの祭りとの関わり方、そして楽しみ方。小さなイベントで司会を務めた時は頭が真っ白になっていて正直自分が何を話し、どんなことをしていたのか思い出せない位だったが最後割れんばかりの拍手を貰った時、ああやって良かったなと心から思う。自分達が企画し進行したイベントで皆が笑顔になってくれる。それがたまらなく嬉しかった。それはこういう立場にたたなければ決して経験出来ない思いだ。そしてその思いは自分達以上に忙しかった明之達の方が上だろう。忙しなさにばたばたしながらも、もうその顔に「満星祭りなんて沈めてやる、もしくはゴミ箱にぽいっと放ってやる!」という思いは書かれていない。


「ほう。今年はお前、運営側に回ったのか」

 今年も変わらず沙羅の体に宿っている姉神が感心した風な声をあげる。彼女の手にはピーナッツ入りのチョコをたっぷりかけたスティック状のクッキーと、見事な細工の飴。対する双樹の方は見ただけで舌が痺れ悲鳴をあげる食べ物を手にしていた。


「一年目は我等とはしゃぎ回り、二年目は仲間と喧嘩中で最初はふてくされていたっけな。そして三年目は祭りを引っ張る側に回ったか。面白いな、人間というのはいつも違う顔を見せてくれる。きっと来年はまた違う姿を見せてくれるのだろうな。……そういえば次が最後の満星祭りになるのか、お前」

 そう、次が最後。こうしてあっちへ行きこっちへ行き、あれをやりこれをやりとやっている内に湧いてくるのは「次はこうしたい」「次はこういうこともやりたい」という思い。しかしその全てを陽太は叶えることが出来ないのだった。余程悲しそうな顔をしていたのだろう、まあ元気を出せと沙羅がクッキーを口の中に突っ込んでくる。一気に口の中の水分が吹き飛び、同時に悲しみも消えたような気がした。


「この私が甘味をくれてやったのだ、元気を出さぬことは許さんぞ」


「そんな理不尽な……」


「進め、小童。うじうじしている暇などお前にはないぞ。あれも出来ない、これも出来ない、これも出来ないまま終わるなんて嫌だとかそんなこと考えても仕方なかろう。思ったこと全てが出来ないことなど分かりきっていることだ。分かりきっていることを考えてぴいぴい言っている暇があったら、動け、がむしゃらに生きろ。只管やりたいと思っていることをやれるだけやれ。あれもしたかった、これもしたかったとうじうじ考えるのは向こうに帰ってからで良かろう」


「小童……」


「そうだ、小童だ。童で済ませているだけましと思うことだな。私からしてみればお前などまだ産まれてすらいない位だ」

 自称五十三年生きた烏とは矢張り規模がまるで違うな、と思いながら陽太は自分のことを励ましてくれた姉神にありがとうございます、と礼を言うのだった。

 どの人も等しく祭り中は最低一日休まなくてはいけない。陽太はその日を使って沙羅と双樹等の友人とめいっぱい遊んだ。久しぶりに会った人と過ごす時間も楽しかったし、明之等『ふるさとのさと』の職員や草薙庵を出てから出会った人と新たな時間を紡ぐことも同じ位楽しかった。食べたいものを食べるだけ食べ、歌い、踊り、一切の闇の無い目が痛くなる程の輝きの中を過ごす。嗚呼世界は眩しくて、ただ眩しくて眩しくて。

 四日間の満星祭りはあっという間に終わった。本当に始まったと思ったら終わっていた、と感じる位あっという間に。片付けを終え、反省会やお疲れ様会も終わり、緩やかに日常が戻っていく。お疲れ様会の時の明之の「陽太君達が雑用を引き受けて頑張ってくれたからこそ、僕達は全力で祭りに取り組めたんだよ。僕達だけじゃなくて、陽太君達もこの祭りを動かす一人だったんだよ間違いなくね」という言葉が嬉しかった。でも来年は雑用だけではなく、もっと深く関わりたいという思いもあるのだった。


 そして夏が終わり、秋が訪れる。 

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