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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
故郷は幻の二月の淵に
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故郷は幻の二月の淵に(10)


 颯馬がいなくなった草薙庵は思いの外静かで寂しくなった。竜頭に思いを馳せるようになってからの彼は大分大人しくなったが、それでも全く騒がしくなかったわけではなかったし、行くことを決めて吹っ切れてからの颯馬は以前の状態に戻ったから、大分賑やかだった。

 一人になった部屋はがらんどうに見え、随分と明るさを失ったように思える。満ち溢れていた声も颯馬という存在が出していた空気も、僅かな間にすっかり外へ出て行ってしまい今はもう殆ど残っていない。いずれは彼が残したもの全てが消えてしまうことだろう。


「あいつがいないと本当静かね。けれど静かすぎるのも困ったものだわ……あいついないと、張り合い無くてつまんない」

 近頃はこれが理子の口癖となっており、草薙庵に居る時は常につまらなそうな顔をしている。もしかしたら彼が竜頭へ行って一番堪えているのは彼女であるかもしれない。草十郎もクソガキがいなくなって随分楽になったと言う一方で、良い子ちゃんばかりっていうのもつまらないものかもしれないと言っている。二人にとっても、颯馬は大事な仲間、家族の一員。陽太と同じように、心にぽっかり穴が空いたような思いをしているのだ。

 だが、そんな思いもいずれは消えていくのだろうなと陽太は思う。彼のいない世界、彼のいない時間というのが当たり前になっていき、新しい『日常』に皆慣れていく。いつまでも寂しいままじゃない。そのことがまた寂しくて、でもそれは仕方の無いことなのだ。そうして世界は日々新しくなっていく。


 彼から手紙が来たのは二月の初め頃で、相も変わらず汚い字と写真が入っていた。陽太と理子はそれが届くとすぐ開き、夢中になって読んだ。颯馬の書く文章はお世辞にも上手いとは言えず、漢字の書き間違いなども多かったが、彼がいかに興奮しているか、向こうでの暮らしを楽しんでいるかは十分すぎる程よく伝わってきた。颯馬は今時雨庵という、草薙庵と同じように帰郷者に住む場所や食事を提供する家でお世話になっているという。そこの大家はおばあさんで、曰く縁側と湯のみに入った緑茶と三毛猫とお日様がよく似合う感じの人だという。どうやら見た目だけでいえば草十郎とは正反対の位置にいる人の様だ。草十郎には縁側も三毛猫も似合わない。熊や猪を担ぐ姿こそ彼にはふさわしいのだ。時雨庵には帰郷者が三人おり、いずれも自分が酷く平凡でつまらない人間に思える位強烈な個性を持っている様子。皆個性的ではあるが良い人達で、すぐ仲良くなれたという。元々颯馬は誰とでもすぐ仲良くなれるような人だったから、人間関係諸々のことは最初から特別心配していなかったが、それでもああ良かったなとほっと胸を撫で下ろす。そうして安堵しながらも、ほんの少しの寂しさにちくりと胸を刺されて、痛む。彼もまた、いつかは陽太や理子のいない新しい世界に慣れていくのだろう。


 竜頭は大州の一つで、海に囲まれた京である。幻淵よりも東側にあり、より日本らしい雰囲気を漂わせているそうだ。なまこ壁に黒光りする瓦が美しい、古風で心落ち着く静けさ漂う佇まいの建物が多い。水の都と称されるこちらもまた迷路のように複雑に入り組んだ構造をしており、運河が縦横に走っている。聞く限り和風ヴェネチアと呼べるような場所の様だ。探検しがいのある場所で嬉しいという文章を読んでいると、彼の眩しい笑顔が目に浮かぶ。当分は幻淵に居た時と同じように、あちこちを気ままに歩き回る予定であるらしい。きっと二月の終わりの桔梗会で会った時に、探検の結果や日々の暮らしのことを色々と話してくれることだろう。二月十五日――この国では『ふいごの日(恐らく十五いごという語呂合わせ。こちらの世界でもそういう語呂合わせは多いようだ)』であるその日に竜頭であるというふいご祭りのこともきっと話してくれるはずだ。

 最後に彼は「俺がいなくて超寂しいと思うけれど、兎みたいに死ぬんじゃねえぞ」などとふざけたことを書いて手紙を終わらせた。そんなことで死ぬもんかい、と陽太は苦笑い。理子の手紙にも同じようなことが書かれていたらしく、彼女は「ご心配なく。こちらは寂しさで死ぬどころか、喜びのあまり涙が出そうよ」って返事を手紙に書いてやるわ、と意気込んでいる。


 颯馬がいなくなってからも陽太は時々幻淵を気ままに歩き回っていた。沙羅等と一緒のこともあるし、一人で歩くこともある。数え切れないほど歩いてきた場所でも、新しい発見をすることがあるから面白い。路地裏に佇む喫茶店のフルーツサンドがとても美味しいこと、歩いている時によく見かける猫が飼い猫であったこと、ヤクザのような見た目ゆえに見かける度、絡まれたらどうしようとびくびくしていた男が実はとても心優しい人であったこと、決まった時間にある家の前を通ると聞こえるピアノの音、近道、新たな場所へ通じる道、雪が降った日にだけ販売されるお菓子を売っている店……。これだから探索はやめられないのだ。今までに発見した色々なことを、今度颯馬に会った時に話してあげようと陽太は思う。新しい世界には新しいものがあり、今まで生きてきた世界にはないものも多くある。だが新しい世界になくて、古い世界にしかないものも沢山ある。陽太は颯馬より一歩後ろを今歩いている。しかしそれは恥ではない。ゆっくりと自分のペースで歩きながら、自分が今歩いている場所にしかないものを見つければそれで良いのだ。


 そうして探索も続けているが、頻度や時間は以前に比べれば減っており、代わりに草薙庵や図書館、お気に入りの店で本を読むことが多くなった。そとで元気にはしゃぎ回ることもまた面白いことだが、読書もまた陽太にとっては楽しいのだ。こちらの世界の本は後三年すれば読めなくなる。奏の様に再びこちらに里帰り出来る場合もあるが、そうしょっちゅうあることではない。だから一冊でも多くこの世界にいる間に読んでおきたい、そう思っている。奏やその他の読書友達と「これが面白い」「これが好きならこれもオススメ」などといった情報を交換したり、同じ本を読んで感想を言い合ったりするのも面白い。向こうにいた時も同級生の周りからちょっと変わっている子と評されている女の子など、一応本について語れる子はいたが、今の方が圧倒的に多い。こちらの世界の民話や、有名な童話、伝説等を読むのも面白いし、こちらで人気の作者の作品を読むのも楽しい。中には帰郷者が里帰り中に執筆、出版した作品もあり、そういうのを読むのも楽しかった。こちらとあちらの違いあれこれを書いたエッセイで人気の作品もあり、これを読んで「え、向こうだとそうなの!?」と驚く人々の姿を想像してしまった。のどかは恐らくこういう類の本も読まなかったのだろう。ふと、外つ国へ旅立った彼女のことを思う。


 そして二月二十八日、幻淵で桔梗会が開かれた。これは毎年行われるもので、同窓会のようなものであり、また彼等の誕生日会でもある。季節外れの花の名は帰郷とかけてつけられたものらしい。それを聞いて、桜町にも実家へ帰ってきた家族を迎える際桔梗の花を象ったものを入り口のドアに飾る風習があるらしいことを思い出した。以前同い年の読書仲間からそれを聞いたのだった。

 全員が参加するわけではないが、それでもあの例の旅館には大勢の帰郷者がやって来ていた。颯馬と一か月ぶりに会えるし、また奏も今日はこちらへ帰って桔梗会に参加するとのことだったので大変楽しみにしていた。楽しみすぎるゆえに、胃が痛い。


 赤い絨毯とシャンデリア、美しい花が活けられた大きな花瓶、豪勢な食事がずらりと並ぶ純白のテーブルクロスが敷かれた長テーブル……この桔梗会の為だけに存在する部屋で帰郷者達は久しぶりの再会を喜んだり、お喋りに花を咲かせたりしている。理子も同じ舟に乗ってここへと来た帰郷者と楽しそうにお喋りしている。


「やあ、陽太君。一年ぶりだね」


「あ、片倉さん! お久しぶりです」

 お茶を手に微笑む老人の姿を認めた陽太は顔を輝かせ、ぱたぱたと駆けよる。


「元気にしていたかい、陽太君」


「はい、とっても元気です。片倉さんはお元気でしたか?」


「うん、私も元気にやっているよ。梅香という小さな州でひっそりと暮らしているよ。長閑な風景が素晴らしくてね、とても心落ち着く場所だ。今は雪が降り積もっていて、どこも真っ白でね……近くに住んでいる人が飼っている柴犬がいつもそこを楽しそうに駆けまわっているんだ。じき、あちこちに植えられている梅が花を咲かせて、良い香りに包まれるだろう」

 そう言って、片倉は自分が一年どんな風に過ごしたのか色々と話してくれた。自然が身近に寄り添っており、四季の移り変わりをよりよく感じられるその場所は、彼の向こうの世界における故郷を思わせるという。大きなイベントもなく、派手なことなど起きないが、それゆえに心落ち着ける癒しの里となっていると彼は嬉しそうに語った。また、人と人の繋がりもより強く感じるそうだ。


「毎日歌を詠んだり、小さな畑を弄ったり、猫と戯れたり……穏やかで優しい日々を過ごしているよ。陽太君はどうかな、幻淵でどんな風に過ごしているかな?」

 片倉は陽太の話をにこにこ笑いながら聞いてくれた。気ままに探索とは素晴らしいね、まだ消えずに残っている子供心がくすぐられるよと彼は遠い昔を懐かしむように言う。陽太は片倉を誘い、明日一緒に幻淵を歩くことにした。もっとも、階段や坂道が多いこの京を老人が子供と同じように歩き回るのは難しいから、近場を軽く散歩する程度であるが。

 更に新見もやって来て、三人で盛り上がった。一年も会っていなかったということがいまいち信じられない。なんだかあれから半年位しか経っていないような気がしたのだ。ここには後三年はいる。まだ三年もある、と思う一方で後三年しかないという思いもある。一年がこれ程あっという間に過ぎたのだ、三年という月日だって瞬く間に過ぎることだろう。あの坊やも保護者役ということで特別に参加を認められた人と一緒に来ており、きゃっきゃと笑いながらサンドイッチを食べ、オレンジジュースを飲んでいる。去年よりも少しだけ大きくなったように見え、きっとこの国と別れる頃にはもっと大きくなっていることだろう。颯馬はまだ来ていない。寝坊して舟に乗り遅れた、ごめんと言われても驚かない自信はあった。

 この旅館で過ごしていた時特別よく話していた人との交流と、美味しい食事を楽しんでいた陽太は颯馬以外にも会いたい人がいたことをすっかり忘れてしまっていた。朝までは緊張のあまり胸も胃も痛かったというのに。だから、ばっと手で両目を塞がれた時「颯馬の仕業だ」と思ったのだ。その白く滑らかでまるで花びらのような手が颯馬のそれであるはずがないのに。


「ちょっと颯馬ってば何をす……って、ええ!?」


「あらあら、颯馬君と間違えちゃった? ふふ、久しぶりね陽太君」

 手の主――奏は彼女にしては珍しく、茶目っ気たっぷりの子供っぽい笑顔を浮かべ立っていた。心の準備ないままの再会に陽太は口をぱくぱくさせるしかない。彼と話していた人達は陽太が奏に好意を抱いていることを知っているから、邪魔しないようにと静かに去っていく。実はこの時颯馬も会場に着いており、陽太の姿を認めたのだが、奏といる所を見て「仕方ねえなあ」と溜息、先に理子にちょっかいを出しに行った。

 一年ぶりに見た奏は以前にも増して綺麗に見えた。具体的にどこがどう変わったわけでもないはずだが、不思議と以前以上に輝いて、そして魅力的に映った。緊張のあまり彼女が何を喋っているのか、そして自分がそれに対してどう答えているのかさっぱり分からない。そんな状態の陽太にも奏は優しく接してくれ、お陰で陽太も少しずつ落ち着きを取り戻していった。


「そういえばこの前陽太君に薦めてもらった本、読み終わったわよ」


「え、本当ですか!?」


「あら、私が嘘を言うと思った?」


「そ、そんなことはないですけれど……」


「この前の手紙を書いた時はまだ読み始めたばかりだったんだけれどね、ここで直接陽太君と本について話せればと思って、頑張ってシリーズ全巻読んじゃった。とても面白い作品だったわ……一巻は正直あまり盛り上がりが無くて読むのがちょっと辛かったけれど、二巻から段々と面白くなっていったわね」


「そう、そうなんですよ! 幻淵にいる友達にも二巻以降は面白いんだよって言ったんですけれど皆くじけちゃって……本当、面白いのに勿体無いです!」


「そうね。でも私も陽太君の言葉を信じて読まなかったら、一巻で投げていたかもしれないわ。素敵な本、教えてくれてありがとう」

 そう言って奏が微笑むと、顔がかあっと熱くなる。嬉しくて、むず痒くて、恥ずかしくて、どうしても奏と話していると普通ではいられなくなる。終始胸がばくばくいって、痛いし苦しい。それなのに、とても幸せだった。一番幸せな時間と呼べるかもしれなかった。他の子と本について語るのも楽しいけれど、奏さんと話すのが何より楽しい。陽太は今度は颯馬のことを忘れ、夢中になって奏と話した。手紙でのやり取りよりも矢張り直接こうして話す方が楽しいし、より多くのことを話すことが出来る。こちらの世界で読んだ本だけでなく、向こうの世界で読んだ本のことも話したし、それぞれが今住んでいる場所について話しお互い想像を巡らせ、まだ見ぬものに想いを馳せる。人から色々と話を聞くだけで、世界がどんどん広くなるのを感じる。今日だけでも自分の世界はずっと広くなった、少なくとも陽太はそう思っていた。


「今度もしよければこちらに遊びに来てね、歓迎するわ」


「あ、はい! い、いつか……」

 実は今までに何度も奏にはそう言われている。だがなかなか行く決心がつかないのだった。一人で遠くへ行くことが怖いわけではない、奏に会いたくないわけでもない、幻淵から出るのが億劫なわけでもない。ただ何だか彼女に会いに行く為に、一人船や電車を使って行くというのが恥ずかしいように思えて仕方なかったのだ。颯馬に「竜頭に来いよ」と言われたら喜んで行くだろうし、相手がのどかや理子だったらそれ程恥ずかしいと思わないはずなのに。行きたいけれど、行けない。全くどうしてこんなに恥ずかしいなんて思うんだろう?


(やっぱり颯馬達が言うように……ううん、分からないや。大好きなお姉さんってことは確かだけれど……)

 陽太がそんなことを考えていることなど気づいている様子もなく、しばらくの間奏は自分が住んでいる州がどれだけ素晴らしい所か色々と語っていたが、何かに気づいたような表情を浮かべた途端話すのをやめてしまった。


「あら……ごめんなさいね、陽太君。私は一回、これで。また時間があったらお話ししましょうね」


「え、何でですか? もっと僕色々とお話ししたいことが……」


「だって……ほら」

 そう言って奏は陽太の後方を微笑みながら指差す。振り返ればそこには懐かしくないようで、とても懐かしい顔があった。後ろを見やった陽太の訝しむ顔が、笑顔へと変わる。陽太の背にいた人物はようやく気付いたかという顔をしてこちらへと駆けより、陽太とハイタッチする。


「よう、陽太! 一か月ぶりだな!」


「颯馬、久しぶり! そっか、颯馬もここに来ていたんだよね!」


「何だよ、俺のことはすっかり忘れていたのかよ、薄情な奴だなあ!」


「あはは……あの、奏さんと会う前までは覚えていたんだよ、うん」


「男の友情より女か、お前も所詮男よのう。まあいいや、本当久しぶりだよなあ! いや、別に久しぶりって程じゃないよなあ、一か月ぶりじゃあ。でもすげえ久しぶりって感じがするんだよなあ……不思議なもんだな」

 それは陽太も同じだった。一年ぶりに会った人達より、一か月しか離れ離れになっていなかった颯馬の方がずっと長い間会っていない感じがしたのだ。約一年の間彼とは毎日顔を合わせており、自分の日常に颯馬がいるのが当たり前だったから、少しの間顔を合わせなかっただけで途方もなく長い間会っていないように錯覚してしまっているのかもしれなかった。こうして言葉を交わすのさえ、えらく久しぶりな気がした。

 颯馬は竜頭での暮らしについて色々と話してくれた。


「……それでな、竜頭中の職人が力作を火を司る星神に奉納するんだ。硝子細工に陶器、アクセサリー、刀……いつも以上に気合入ったのが沢山! 料理人も火を扱うし、火を使って作られる包丁を扱うから、料理を作って納めるんだ。一般人にも色々な店が特別なメニューを振る舞うんだ。そいつらをさ、袴姿のおっちゃんとかが行列作って運ぶんだけれど、なかなかすごい光景だったぜ。ええと厳粛っていうの? 何かこう厳かな感じがして、見ているこっちの心も引き締まった。でも面白いことに、その人達は奉納しに行く時はそんな感じなのに、元来た道を戻る時はすげえお祭り騒ぎ、本当にさっきの人と同一人物かよって思う位雰囲気ががらっと変わるんだ。俺は帰りの時の方が好きだな。で、料理以外の奉納品は三か月後に一般の人に売られる。あんまり購入希望する人が多いから、いつも抽選になるって。特に人気の職人が作ったものなんて……ちなみに、料理はその日の内にこれまた抽選で当たった人に振る舞われるらしい。俺は外れちまったよ、残念」

 颯馬の話はそこまで具体的ではないが、それでも聞くだけでわくわくした。一応全国的に火を扱った何かをする人はこの日、神社にお参りに行ったり、自分が作ったものを奉納したりするが竜頭程大規模にやる所は殆ど無い。一般家庭はせいぜいイカ料理を食す位だ。


「俺もお好み焼きの生地のような奴にイカたっぷり混ぜて焼いたのを食ったなあ。ソースがすごく美味かった。他にもイカ焼きとかも食ったし……何だっけ、確か元々火の神って人間だったんだっけ?」


「そうそう、元はイカ漁をする人だったとか。イカ自体好物だったみたいだしね。あ、でも何でその人が火を司る星神になったのか調べていなかった……颯馬は知ってる?」


「時雨庵の主の花江ばあが話してくれたんだよな……ええと、何か色々あったんだってさ」


「いや、色々あるのは分かっているんだよ。具体的に何があったか聞きたいんだけれど」


「俺がそういう話聞いてさ、きちんと覚えていると思う?」

 思わない、と陽太は呆れるしかなく。後で自分で調べた方が良さそうだ。颯馬は竜頭の探索結果を色々と教えてくれた。あれを見つけた、これを見つけた、迷った、こんな人に出会った、こんなことをした……手紙には書ききれなかった沢山の物語が彼の口から次から次へと語られていく。朱塗りの橋、高らかに響き渡る舟歌、鉄を叩く音、工芸品を取り扱った店の並ぶ通り、道ならぬ道を悠々と歩く猫、倉を改装して作ったカフェで食べたあんみつの味、狐や天狗のお面専門店にいた異質な空気纏う店主、頑固で口は悪いが腕は確かな職人……。そのことを話している颯馬の目は、それを聞いている陽太のそれ以上に輝いており、彼がすぐに飽きて幻淵へ帰ってくることはまずないだろうことが分かる。多分最後まで竜頭の民として生きることだろう。彼の目は、竜頭で迎える輝ける未来を真っ直ぐ見つめている。それが嬉しくて、少し寂しい。


「……あっちを歩いているとさ、本当に懐かしい感じがする。初めて足を運んだはずなのに、もう何度も来たような感じがするんだ。嗚呼、やっぱり故郷だったんだなって思うよな……それだけじゃなくてさ、今俺はものすごく『やり直したい』って気持ちになっているんだ。あそこで過ごす内、どんどんその気持ちは強くなっていった。よく分からないけれど、多分前世の俺は竜頭に住んでいる時何か失敗をしたんだ。もしかしたらその失敗から逃げる為に外つ国へ旅立ったのかもしれない。何から逃げたのかも分からないけれど……はあ、こういう前世の自分ってやつの気持ちに引っ張られるのってすごく嫌なんだけれど……でも、最終的に竜頭で生きることを決めたのは俺だから。ここで胸を張って誇れるような生き方をしたいって決めたのも、俺だから。前世の自分が決めたことだとは思わないでいれば、まあ良いかなって。まださ、向こうで具体的にどんなことをするか決めてはいないんだ。幻淵で暮らしていた時と同じようなことをして終わりってことも有り得るかもしれないけれど……でも俺は決めたんだ、ちゃんと決めた。竜頭で生きていくよ、俺。多分その考えが変わることはないんだ」

 そう決意を語る彼は随分と大人びて見えた。たった一か月しか経っていないのにますます自分の先を行っているような気がする。彼はいつか新しい世界で、新しい生き方を決めるだろう。そして、例えそれが上手くいかなかったとしても、元来た道を戻り、自分が決めたことから逃げることはないだろう。逃げるように新しい世界へと飛び出して行った前世の自分とは同じにならないはずだ。陽太はそれを信じる。信じられるからこそ、頑張ってねと心から応援出来るのだ。


「どこかで、何かの修業をするとか良いんじゃない?」


「修行ねえ……これをやりたいってのが見つかったらそれも有りかもな。ただ仮に弟子入りして修行ってことになっても、三年後にはこの国とお別れすることが決定しているからなあ……中途半端に終わっちまうだろうなあ……まあ、ゆっくり考えるさ。今日明日でやること決めなくちゃいけないってことはないんだしさ」

 当分は幻淵にいた時と同じように過ごし、そういった日々の暮らしの中から自分のやりたいことをきっちりと見つけるつもりだそうだ。具体的なビジョンはまだないが、それでも彼は一歩一歩前に進んでいる。そんな彼の話を聞きながら、陽太は考える。

 

(僕はどうしようか。このままでも良いし、新しいことに挑戦してみるのもいいのかもしれない。例えば幻淵の外へ出てみるとか……)

 今日は色々な人から、沢山の話を聞いた。幻淵の外に広がる世界の話はどれも面白かった。幻の中で生きているような気持ちにさせる、一年中霧に覆われた所、大きな森が一つの州となっており、樹の上や巨大樹のうろに住居や店がある所、積み木の都と呼ばれる遠くから見ると、カラフルな建物が積み重なって一つの塊になっているように見える所、様々な技術を駆使して作られた海底都市、住民より野生の猫と兎の方が多い島、海上にある巨大な船の上に出来た都等々……。そういった変わった特徴がない所の話も十分面白い。

 そういった多くの物語が、幻淵にのみ向いていた陽太の目を外の世界へと向けさせる。のどかからも色々と旅の話を聞き、それを面白いと感じはしたが彼の目を外へ向けさせるまでには至らなかった。一人の人から沢山話を聞いたのではなく、大勢の人からそれぞれ話を聞いたのが良かったのかもしれない。


(自分が以前どこで暮らしていたのか気になるけれど……でも、それを知りたいとは思わない、今のところは。でも、幻淵以外の場所に足を運んでみるのはちょっと、面白そう。ここ以外で暮らしたいってわけじゃないけれど、でもちょこちょこっと旅をして、色々な所を見て……うん、そういうのもいいかもしれないなあ!)

 こうして新たな選択肢が増えていくのは大変わくわくすることだった。今日聞いた様々な物語は、自分を良い方向へ引っ張ってくれる気がして、もっと色々な人から話を聞いてみようと陽太は心に決めた。勿論奏とももっとお話をしたい。


 陽太は決めた通り奏と話をしたり(その時奏から誕生日プレゼントを貰い、しばらくの間舞い上がっていた。そして来年は彼女にプレゼントを何かあげようと決意するのだった)、一度も話したことの無い人に勇気を振り絞って話しかけ、話を聞いたり、颯馬と理子と三人ではしゃいだり、近場を歩いたりし、それからこの国における誕生日を祝う歌を皆で歌い、ケーキを頬張り、同じ日に産まれた人を祝い、同じ日に産まれた人から祝われた。抽選会にミニライブ等ちょっとした催しもちょくちょくと。

 この日のことはきっと一生忘れないだろうと思う位楽しい時間はそしてあっという間に過ぎていく。

 その日は旅館に泊まり、次の日は約束通り片倉と近場を散歩し、奏と昼食を食べた。颯馬はこの日草薙庵に一か月ぶりに戻り、草十郎の夕食を食べ、三人で夜遅くまでくっちゃべってから寝、そして竜頭へと帰っていった。草十郎は彼がいる間「折角静かになったのに、またうるさくなっちまった」とぼやいていたが、その顔はとても嬉しそうだった。


 そして人々は幻の二月の淵へ至ることなく、三月へと落ちていく。ありそうでない幻の淵、そこに足が乗ることはなく、すっと落ちて気が付けば三月一日。

 一年目以上に二年目はより早く時間が流れていった。

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