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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
胡蝶の夢
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胡蝶の夢(2)

 冷蔵庫にあった余りものであまり美味しくない朝食を食べた後、友人にメールを送った。自分を心配して何度もメールをくれたことに対してのお礼と、そのメールをずっと無視し続けていたことを謝罪するものだ。

 返事はメールでは無く電話できた。夢の中で久しぶりに聞いた声と同じものだった。けれど夢で聞くのと現実の世界で聞くのとは矢張りどこか違う気がした。心の中にじんわり沁みてくる声。一ヶ月前までは当たり前のように聞いていたはずのものだったのに……。


「心配かけさせやがって……大丈夫なのかよ」


「ああ、何とか。すっかり大丈夫かと言ったら嘘になるけどさ」


「そっか。ったく、全然返事寄越さないから不吉なことばっかりずっと考えていたよ」


「実際死人の様なものだったよ。今もそうだけれど」


「皆心配しているよ。まだ気持ちの整理つかないのは分かるけどさ、顔出せよ。無理に講義受けろとは言わないけど」

 教授や友人、食堂のおばちゃんの顔等を思い浮かべる。夢の中では会ったけれど折角だからこちらの世界でも会ってみたい。今までこんなこと考えたことも無かった。夢が亜里沙の死という現実の前に消え去っていた思い出を呼び覚ました。


「ああ、分かった。明日……行くよ」


「そっか、うん、じゃあ明日待っているぜ」

 そう言って友人は電話を切った。しばらく天上を見上げる。今度は意を決して実家に電話をかけてみる。久しぶりに聞いた母の声。

 どう話を切り出せばいいのか分からなくて、掠れた声で自分の名前を告げた。酷い声だと思った。母は短い叫び声をあげ、言葉にならない何かをしばらく呟いた後、良かったと安堵の声をあげた。声は広海以上に掠れていて、鼻水をすする音が聞こえてくる。泣いているのだと思った。


 友人相手と同じように話すことは出来なかった。ただ申し訳ない気持ちでいっぱいで、ごめんと連呼するだけだった。母の方も何を言えばいいのか分からなかったらしく、ご飯は食べているとか風呂には入っているかとかそんなことをぽつりぽつりと聞いてくるのみだった。あまりに痛々しくて何度も電話を切ってしまいそうになる。母をそうさせている原因が自分にあることなど分かっている。ふと自分の世界に閉じこもり、周りの人のことなど少しも考えていなかった自分のことを恥じた。

 母は涙声で、今度お前の好きな煮物を作ってもっていくからねと言って、電話を切った。亜里沙の話は出てこなかった。話題に出しても良いものなのかどうか分からなかったのだろう。

 久しぶりに聞いた母の声が、胸に沁みた。


 掃除をしたり友人や母とメールや電話のやり取りをしたり……。最近全く出来なかった、いや、やろうとも思わなかったこと。

 ただ一度の夢が、広海の中の何かを変えた。全てが元通りになった訳ではないが、夜になる度あの夢を見ていれば、いずれはこの世界でも以前と変わらぬ毎日を送れるかもしれない。


 家を出て、食糧や生活用品を買い集める。今日は久しぶりに、ちゃんとしたご飯を作ろうと思った。何がいいだろうか、ハンバーグでも作ろうか。亜里沙よりもずっと上手に作れる自信がある。

 その日は、明かりのついた部屋で手作りのハンバーグを食べた。大根おろしを乗せて醤油をかけた、和風のハンバーグだ。形は不恰好だが、焦がすことなく作ることが出来た。我ながら上手く出来たと思う。それでも何故だろう、亜里沙が作ったものには適わない気がする。

 TVは未だつける気がしなかったから、シャワーを軽く浴び、部屋で眠くなるまでごろごろしていた。


 目蓋が重くなり始めた頃、また蝶を虫かごから出して鱗粉を浴び、眠りについた。


 広海は水族館に居た。どうやら、昨日見た夢の続きのようだった。続きから始まるなんて、ゲームみたいだなと心の中で思う。しかしそんなことはどうでも良かった。

 隣にいる亜里沙はやたらはしゃいでいる。あの魚可愛い、とか綺麗、とか模様がなんだか気持ち悪いとか色々なことを話しかけてくる。兎に角彼女はこういう所に来ると俄然テンションがあがって、普段以上にお喋りになるのだ。


 水の中を、悠然と泳ぎ回る魚達はとても気持ち良さそうだった。あの水槽の中に入って泳いだら、どれだけ気持ちいいだろうと思う。館内は涼しいが、外は暑い。出来れば外に出ないで、このまままったりしていたいものだ。しかしそうもいかない。もう少しでイルカのショーが始まるのだ。外はきっと太陽が燦燦と輝いていることだろう。考えるだけで嫌になる。だが、イルカは可愛いし亜里沙がどうしても見たいというのだから、仕方が無い。


「お前、イルカ見てあれ美味しそうとか言うなよ」


「言うわけないじゃん、馬鹿。イルカなんて食べないし。大体あれ食べ物じゃないでしょ」


「イルカを食っている地域だってあるんだぞ」


「うそ、マジで!?」


「マジ。TVで見た事がある。兎に角、美味しそうとか不味そうとか言うなよ」


「だから言わないってば。そこまで私食い意地張っていないし」

 また頬を膨らませ、ぷいっと目を逸らす。笑いながらそのぷくっと膨らんだ頬をつついてやったら、本気の肘鉄を食らった。鈍い痛みに、思わず呻く。


 イルカのショーは思いの他楽しかった。ただ矢張り暑かった。汗で濡れるシャツが気持ち悪い。いっそ目の前にあるプールに飛び込んで、イルカと一緒に泳ぎたいと思った。

 

「今度一緒にプールにでも行くか」

 気づかないうちに出た言葉に、亜里沙はにっこり笑って頷いた。プールから勢いよく飛び出して、輪をくぐるイルカも笑っているように見えた。


 お土産に七色に輝くイルカの描かれたペンダントを買い、早速二人でつけて帰る。

 その日の夕食は、マグロとサーモンとイカのお刺身。

 よく水族館に行った後に食べる気になるなと、広海は心の中で思うのだった。


 それから数日後のことだ。広海は、夏休み前の試験に向け図書館で勉強をすることにした。本当はテスト勉強なんて面倒臭いことはやりたくないのだが、全くやらずにいる訳にもいかない。亜里沙もうるさいので、仕方なくやることにしたのだ。


 テキストと筆記用具をカバンに入れる。桜町の隣にある三つ葉市には、大きな図書館がある。別にわざわざ外に出なくても良いのだが、家でやっているとどうしてもゲームやマンガに手を伸ばしたりTVを見たりして、結局勉強をしないような気がしたのだ。実際中学や高校の時はそんな感じでろくに勉強出来ず、散々な結果になることも珍しくなかった。


 相変わらずうだるような暑さ。頭は発火しているんじゃないかという位熱を持っていて、じんじんと痛む。汗はぬぐうのも面倒になる位流れている。先ほど自動販売機で買ったペットボトルのお茶も、あっという間に温くなった。この炎天下で元気なのは、蝉と蛙位のものだ。また彼らの声がうるさくて頭に来る。暑い時にうるさいものを聞く程いらいらすることは無い。

 今頃亜里沙は、エアコンの効いた涼しい部屋の中でのんびりしているのだろうなあと思うと少し彼女がうらめしくなる。しかし、図書館まで行けば涼しく快適な空間が待っているはず。ここは耐えねばならない。


 三つ葉市に入り、図書館のある街の中心を目指す。坂を下り、街を二分する水瀬川にかかる橋を渡れば、あっという間に着く。

 冷房の効いた図書館の中はさぞかし心地よい空間であろうと思いながら、坂を下る。


 その坂を上ってくる人が居た。この暑い中、黒い着物に黒い和傘を射して歩いている。よくあんな格好で歩けるものだと感心していた。

 自分は坂を下り、相手は坂を上る。当然その人の姿がはっきりと見えてくる。坂を上ってくるのは、女性の様だった。髪の毛は長く、日の光を浴びてぎらぎら輝いている。あんなに髪が長いと、さぞかし暑苦しいだろうなと思った。


 牡丹の描かれた和傘に隠された顔が、ちらりと見えて、広海はその場で立ち止まった。女の顔に見覚えがあったからだ。


 広海に蝶を預けたあの女だった。氷の様な髪、真っ赤な唇、好奇と悪意に満ちた瞳。女も広海の存在に気づいたらしく、彼の前に立ち、その歩みを止める。


「手に入った? 貴方の望んだものは」

 口を開こうとしても、蝋で固められたかのように動かない。それでも何とか、首を縦に振ることは出来た。女は笑う。


「良かったわね。幸せな時間を手に入れて。死人の様な顔だったのが嘘みたいだわ」

 女は和傘をくるくる回す。心の底から祝福している訳で無いということは、悪意に満ちた笑みを見ればすぐに分かる。

 急に女は広海に顔を近づけた。黒い瞳は、月の光を浴びた黒曜石の様に輝いている。その奥にあるのは得体の知れぬ恐ろしい何かだ。唇は、赤い血の様。つい先ほど誰かを殺して、その死体から出る血を塗ったかのようだ。


 鬼。女は人を貶め、喰らう、恐ろしくも美しい鬼なのかもしれない。


「忘れないで。これは所詮夢であることを。この世界は、現実では無い。現実と夢の区別がつかなくなると……大変なことになるわよ、気をつけてね」

 冷たい声でそう言い放つと、また女は微笑み、呆然と立ち尽くしている広海を置いて、坂を上っていった。慌てて彼は後ろを振り返ったが、もう彼女の姿は見えない。


 忠告。しかし、彼女が本気で忠告している様には思えなかった。むしろ、広海がそのまま破滅の道を歩むことを望んでいるかの様だった。恐らく彼女は夢の中で彼のことを見ているのだろう。素敵な玩具が、自分の思惑通りに堕ちていくさまを見る為に。


 分かっている。この世界は現実では無いこと位、彼は理解していた。亜里沙はもう居ない。彼女のご飯を食べることも、彼女とデートすることも、ましてや同棲することなんて……本当はもう出来ない。


 けれど、せめてこの世界では亜里沙が死んでいるという事実を忘れていたかった。こちらの世界こそが現実で、あちらの……亜里沙の居ない世界の方が夢であると、思っていたかった。


 大丈夫だ、あの女の思い通りにはならない。

 広海は力強く歩きだし、図書館へと向かった。


 広海は、テキストを開きノートに重要事項をまとめている途中で目を覚ました。


 今日は目玉焼きと焼いてバターをつけたパンを食べ、久しぶりに大学へ向かう。夢の中では当たり前の様に通っていた大学だから、大して懐かしいとは思わない。けれど、いざ構内に入ろうとすると足がすくんでしまった。皆の反応も気になるし、どんな話をすればいいのか分からない。夢の中の様に気楽に話すことが出来れば良いのだが、すぐにそれが出来るようになるとは到底思えない。


 いっそ引き返して、家の中に閉じこもり、亜里沙や今までと何一つ変わらない友人や大学の待つ夢の世界へ逃げてしまいたい。けれど、あの世界へ逃げてばかりでは、あの女の思惑通りになってしまうような気がした。


 深呼吸をする。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。

 広海は、覚悟を決めて門をくぐり最初の授業のある教室を目指した。


 教室のドアを開けると、昨日電話で話をした友人がいた。その周りにはメールを送った友人達もいる。彼らは広海の姿を認めるとお喋りをやめ、しばし沈黙する。しかししばらくすると優しく笑って広海を出迎えた。


「久しぶり」


「ああ、久しぶり」

 広海はぎこちない笑みを返す。適当な席につき、友人と語り合う。


「お前痩せたなあ。飯ちゃんと食っているのか」


「最近は食っているよ。ちょっと前まではまともに食べていなかったけれどな」


「今度焼肉食いに行こうぜ。俺が奢ってやるよ、いっぱい食って太りやがれ」


「サンキュー。絶対行こうな。奢りだからな、俺絶対金払わないから」


 その後は殆ど喋ることも無かったので、友人の話を聞いていた。彼らは広海が大学を休んでいる間に起きたことを色々話してくれた。教授が奥さんと喧嘩して、顔中引っかき傷だらけにして大学に来たことや、近所に住む人が飼っている犬が構内に迷い込んで大変だったこと、皆で巨大お好み焼きをひいひい言いながら食べたことなど。どうでもいいことといえばどうでもいいことなのだが、そういうどうでもいいような話が何よりも楽しい。

 今度は広海の肩をぽんと叩く。


「お前、折角戻ってきたのはいいけれどテストがすぐそこに待っているぜ。テスト範囲はもういつもの場所に張り出されているけれど……大丈夫か?」

 夢の中でテスト勉強は多少している(というかやっている途中)。テスト範囲が同じなら有り難い。


「どうにかなるだろう。お前らのノート写させてもらおうかな」


「馬鹿め。俺達がまともにノートをとっているとでも?」


「うわ。最悪だ。お前ら少しは真面目にやれよ」

 広海は落胆し、机に突っ伏した。そんな彼の頭が何か軽いもので叩かれる。見れば、それはノートだった。


「冗談だっての。ほれ、ノートだ。有り難く受け取れ」


「おお、心の友よ」

 汚い字と図が色々描かれている。夢の中の世界とは少しやっているところが違うようだったが、殆ど同じだった。これならどうにかなるかもしれない。


 自分が思っていたよりも、友人達と気楽にお喋りが出来て良かったと、内心ほっとする。夢の中で会っていたおかげかもしれない。もしあの夢を見ていなければ、仮に大学に顔を出したとしてもどうしたらいいのか分からなくなって、ろくに喋ることも出来なかったかもしれない。


 最初のうちは、教授や講師の人、同じ授業を選択している人達にものすごく驚かれた。それだけなら大したことは無いのだが、教室内にどこか気まずく重苦しい空気が流れ、広海を苦しめた。一ヶ月という時間は短いようで長い。彼らの目にはもう広海という存在は、自分達の空間に入り込んできた「異物」として映っているのかもしれない。おまけに広海が大学に顔を出さなくなった原因は「婚約者を亡くした」という、割と重いものだ。一体どう接すればいいのか、どういう目で見ればいいのか分からないのかもしれなかった。


 そんな彼らの複雑な感情が、空気を澱ませていき、広海を窒息させる。胃がきりきりする。逃げたいと正直何回か思ったが、ここを耐え夜になればまた亜里沙に会える……と亜里沙の笑顔を思い浮かべながらどうにか、逃げたい衝動を抑えつける。


 こんなことが毎日続いたら地獄だと思っていたが、幸いにも嫌な空気は、時間が経つごとに少しずつ和らいでいった。皆彼の存在に慣れてきたのだろう。自分のことについて、小声で何か喋っている人も居たが、友人達が気を遣って積極的に話しかけてきてくれたお陰で、そちらの方をあまり気にせずに済んだ。

 まだ空気は重苦しくて痛いけれど、それもじきに無くなって、以前と変わらない大学生活を送ることが出来るようになるだろうと思った。


 友人に一緒に飲みに行こうかと誘われたが、未だ何となく気分が重いから断った。いつか絶対に行こうと約束する。


 家に帰り、靴を脱ぐ。明かりをつけていない部屋は真っ暗だったが、あの蝶の居る所だけ、淡く光っている。その光は虹を閉じ込めたようで。赤、黄色、青、緑。人を幻想の世界へ導く蝶に相応しい光。

 しばらく蝶の光に見惚れ、ふと我に返って部屋の明かりをつける。蝶の放つ光は見えなくなった。虫かごの蓋を開けると、静かに飛び出してきて部屋中をいつもの様に飛び回る。


 今日は殆ど具の入っていないお好み焼きを焼き、ソースとマヨネーズをたっぷりとかける。帰り道酒屋で買ったビールをちびちび飲みながら、ちょっとしょっぱいお好み焼きをもぐもぐ食べた。


 久しぶりに大学へ行って、どっと疲れた。肉体的な疲労よりも精神的な疲労の方が多い。同情や好奇、戸惑いの感情が入り混じった視線が未だ肌をぴりぴりさせている。行く前から分かっていたこととはいえ、矢張りしんどいものがある。


誰もいない部屋はとても静かで、ふと寂しい気持ちになった。大学に入った時から一人暮らしで、もうすっかり一人に慣れていたはずなのに。

 

 そうか、夢の中では亜里沙と一緒に暮らしているから……。


 広海は納得する。ここに亜里沙がいればいいのにと思うと、胸がまた苦しくなる。そんな寂しさと苦しさと紛らわす為にTVをつけてみた。お笑い芸人達がわいわい騒いでいるだけの番組が映った。TVに映る彼らなど、亜里沙の代わりになどなりはしない。友人の代わりにだってならない。

 耳障りな笑い声、無駄に大きな声、つまらないギャグ。

 面白いところなんて何一つ無いのに、何故かTVの電源を切ることが出来なかった。ぼうっと見続けている内に、自分でもよく分からない位愉快な気持ちになってきて、芸人の笑顔につられて思わず笑った。

 気がついたら、大きな声をあげて笑っていた。疲れが吹き飛んで、体が軽くなる。笑うだけでこんなにも楽になれるものなのかと思った。


 ひとしきり笑った後、風呂に入り、眠りについた。


 試験も何とか無事に終わり、広海と亜里沙は電車に乗って様々な種類のプールが揃っている施設に遊びに行った。

 矢張り暑い上に夏休み中とだけあって、かなりの人が来ている。少しでも油断したら、彼女とはぐれてしまいそうだ。


 太陽の光は針となって、服を脱いで露になった肌にちくちくと突き刺さる。そんな光から身を守る為、日焼け止めクリームを念入りに塗る。しかし効果はあまり期待できそうに無い。どんなに文明が進んで、便利なものが出来ても自然の脅威には勝てないのだ。明日は、黒コゲの魚の様な状態になって、ひいひい言うことになるのだろう。

 しかしまあ、それでもいいかと広海は思う。水着姿の亜里沙を拝むことができるのだから。

 亜里沙は、ライムグリーンのビキニをつけ、ぺったんこのバナナフロートに一生懸命空気を入れている。広海はわざと手伝わず、必死な彼女の姿をじっと見つめていた。


 本当は、あちらの世界でもこうしてプールへ遊びにいく予定だったのだ。夏休みになったら、新しい水着を買って、一日中思いっきりはしゃごうと彼女と約束していた。付き合うようになってから、毎年夏になるとプールや海へ遊びに行っていた。それはいつも通りの約束で、破られるはずのないもの。

 そのはずだったのに、約束は彼女の死という最悪の形で永遠に消滅した。


 だからこそ、どうしても一緒に彼女とプールへ行きたかった。いつも通りの夏を、過ごしたかった。そうすることで、彼女と共にいつもの夏を過ごせないという現実を否定したかった。

 我ながら、気持ち悪い考えだと思い広海は苦笑する。そんな彼の複雑な思いも知らずに、亜里沙はバナナフロートと格闘している。なかなか上手く膨らまないらしい。


「何よこれ、穴が開いているんじゃない?」


「お前がヘタクソなだけだろう。そんなもの一つ満足に膨らませられないとか。不器用すぎだろう」


「じゃあ広海がやってよ。早く泳ぎたい!」


「嫌だ。俺はお前が悪戦苦闘しているのを見て楽しんでいるから」


「うわ、きもっ。変態」

 亜里沙は露骨に顔をしかめ、一歩後ずさりして広海から離れる。誰が変態だと殴る真似をすると、あははとお腹を抱えて笑い出した。


 結局バナナフロートは広海が膨らませてやった。亜里沙はそれにつかまり、ぷかぷか浮かぶ。利用者が多くて満足に泳ぐことは出来ないが、それなりに楽しんでいるようだ。広海はそんな彼女についていく。

 水は、ひんやりと太陽熱で暑くなった肌を包み込む。初めは冷たいと思って、ぶるっと震えたが、慣れればとても気持ちよく丁度いい水温だった。


 ただぷかぷか浮かんでいるだけじゃつまらないと言って、今度は波の出るプールへ行く。人工的に作られた波で体を撫でられ、何だかくすぐったい。突然亜里沙が水を思いっきりかけてきたので、倍にして返してやった。更に倍にして返された。

 広海も亜里沙も、「わあ」とか「きゃあ」とか「それ」とかそんな叫び声をあげながら、水をかけあった。水を叩くぱしゃぱしゃという音が心地よい。

 水のかけあいにも飽きると、亜里沙はバナナフロートに乗ってぷかぷか浮かぶ。先ほどのプールとは違い、ここは波の出るプールだ。体が浮いたり沈んだりする感覚が気持ちいいらしい。広海は、俺にも貸してくれと言ったが、あっさり却下された。


 スリル満点のウォータースライダー、施設内をぐるりと囲むようにしてある巨大な流れるプール。それなりの入場料を払っているのだから、思いっきり遊ばなければ損だ。簡単に食事を済ませた後、飽きもせず泳ぎ続ける。

 

 長い流れるプールを、何周しただろうか。ふと亜里沙は、小さな子供用のプールの方へ目を向ける。まさか、小さな子供に混じって泳ぎたいとか言い出すのではあるまいかと広海は思ったが、どうやらそうでは無いようだ。


「子供、可愛いなあ。むにむにしていそう」


「食べちゃいたいくらい可愛いってか? お前、食うなよ」


「食べないわよ、馬鹿言わないで。全くあんた私のこと何だと思っているのよ。私は怪物じゃないっての」

 亜里沙は、さっきまでつかまっていたバナナフロートで容赦なく広海を叩く。別段痛くは無いが、いたいいたいといたがるふりをする。そうすると、彼女はむうっと頬を膨らませる。


「子供……いいよね」

 ひとしきり叩いた後、ぼそっと亜里沙が呟く。広海はどきりとする。子供達を見る彼女の瞳は、母親のそれのようだった。


「子供、欲しいの?」

 亜里沙は頬を赤らめ、視線を逸らす。


「今は、未だ。でも結婚したら……欲しいなあって思う」


「そうか。俺も、欲しいなあ。男の子だったら、俺一緒にキャッチボールやるんだ」


「あんたそういうの得意だったっけ」


「今から練習すれば、どうにかなるだろう」


「わざわざ練習してまで? 馬鹿じゃないの。それで産まれてきたのが女の子だったらどうするのよ」


「その時はその時だ。女の子相手でもキャッチボール位は出来るしな」


「はいはい」

 亜里沙は、苦笑いしながらまたバナナフロートにつかまって、ゆっくり流れていく。

 その背中を広海はじっと見つめている。


 子供。

 この世界でなら、そんな未来も作り出すことが出来る。

 あちらの世界では、彼女を母親にしてやることは出来なかった。あちらの亜里沙も……もう居なくなってしまった方の亜里沙も、きっとこの世界の亜里沙と同じ様に望んでいたに違い無い。あちらでも、そんなことを言っていたような気がする。その望みは、一瞬にしてかき消されてしまったけれど。

 

 あちら。あちらとは何だろう。「あちら」が現実で「こちら」は非現実。いや、もしかしたら亜里沙の居ないあの世界こそ夢なのかもしれない。いや違う。そう思おうとしているだけで、矢張りこの世界が夢で……。

 何故「こちら」の方が夢で無ければいけないのだろうか。「あちら」の方が夢であっても、別にいいではないか。むしろ、その方が幸せではないだろうか。広海も亜里沙も友人も、亜里沙の両親も、皆不幸になったり悲しんだりしない世界。


 いや、こんなことを考えてはいけない。広海は頭を激しく振って、その思いを頭の中から追い出そうとする。そんな考えをしていたら、きっと幸福にはなれない。

 それでもどうしても、思う。


 こちらの世界に居る方が幸せではないだろうか、と。


「何やっているの、広海さっさと来なさいよ」

 自分を呼ぶ彼女の声。広海は分かったよと言って彼女のいる方へ泳いでいった。


 その日は、空が熟したマンゴーの色に染まるまでプールで遊び明かした。

 次の日、日焼けとプチ筋肉痛に悩まされることになったというのは言うまでも無い。


 夏は、まだ始まったばかり。広海は、亜里沙と色々な所へ出かけた。

 浴衣を着て、花火を見た。人ごみの中手を繋いで、空に咲く色とりどりの光の花を飽くことなく見ていた。屋台で林檎飴やお好み焼き、たこ焼きに綿菓子……定番の食べ物を買って食べたり、射的や金魚すくいで盛り上がったりした。金魚の泳ぐ青い浴衣を着た亜里沙は、いつもの様に眩しい笑みを浮かべる。何もかもが楽しくて仕方無いという様子。


 海にも、行った。少し塩辛いけれど、爽やかで清清しい気分になれる磯の香りが、心地よい。プールの水は消毒液の様な匂いがするから、体を包む水は心地よいけれど、心まで良い気持ちにはなれない。


 砂浜は、熱した鉄板の様に熱くなっている。慌てて広海はビーチサンダルを履いた。サンダルを介して感じる、砂のぐにゅぐにゅした感じが何ともいえない。亜里沙は、顔を真っ赤にして膨らませたビーチボールを広海に投げつけては笑っている。広海がそんなことばっかりしていると、焼きそばと焼きとうもろこし買ってやらないぞと言うと、彼女はビーチボールをぬいぐるみの様に抱きしめて、むうっと頬を膨らませる。少しの間だけ大人しくしていたが、またすぐ元に戻って、はしゃぎだした。広海も諦めて、彼女に付き合う。

 泳いで、ビーチバレーをして、海の家で食事をして。沢山遊んだ。


 大学の友人達と一緒にバーベキューもした。亜里沙も行きたいというので仕方なく連れて行く。

 川で魚釣りをした。広海にとっては初めてのことだった。友人達と、誰が一番多く釣れるか勝負し、見事「ビリ」の称号を獲得した。


 釣った魚、とうもろこし、玉葱にピーマン、ちょっと奮発して買った肉を焼き、酒を飲みながら食べた。


 亜里沙はべろべろに酔って、誰これ構わず抱きつこうとする。広海はそれを必死で止めた。酔っている時の亜里沙は兎に角たちが悪い。だからあまり飲むなと言ったのにとため息をつく広海をよそに、彼女はにこにこ笑っている。友人達はこのバカップルと声をあげて笑いながら、からかってくる。


 その後亜里沙は熟睡し、結局後片付けを少しも手伝わなかった。友人達は、こういうのは男の仕事だろうと言ってくれたが、何だか申し訳ない気がしたし、何よりずるいと思った。それでもまあ、結局は許してしまうのだが。


 いつもと同じ夏を、夢の中で過ごした。


 朝になり、目を覚ます。昨日のバーベキューで日に当たりまくっていたから、日焼けやばいだろうなあ等と思いながら体を起こす。しかし、腕も顔も、どこもひりひりしない。おかしいと思って腕を見ると、殆ど焼けていない。試しに腕をこすってみる。しかし、少しも痛まない。

 しばらくして、バーベキューは夢の中の出来事であったことを思い出した。以前に比べれば少しは外に出るようになったが、それでも長時間出ている訳では無いから、そんなに日焼けするはずが無い。大して焼けていない腕を見ると、ぽっかりと心に穴が開いてしまった様な気持ちになる。


 いかんいかん、こんなでは駄目だと頬をぱちぱち叩く。

 

 大学にも少しずつ慣れていく。ちくちくと肌を刺す、針の様な空気も段々感じなくなっていき、友人達ともより自然に話せるようになってきた。

 当たり前だった毎日を少しずつ取り戻していく。

 試験もどうにか乗り切ることが出来た。友人達も、まあどうにかなったと笑いながら言っている。


 数日後、母がタッパーに詰めた煮物と、買い物袋を手に持ってアパートを訪ねてきた。手際よく調理をしながら、母は広海に色々話かける。大体は、ちゃんと栄養のあるものを食べろとか、歯はきっちり磨けとか、あれを買っておきなさい、これは片付けておきなさいとか小うるさいことばかり言っていたが、その言葉には自分を心配する母の気持ちが込められていることが分かっていたから、広海はその言葉の数々を「うるさいなあ」と言いながらも、暖かな気持ちで聞いていた。


 母が作った料理はどれも美味しかった。亜里沙にも見習って欲しい……そんなことを思った後にふと思い出す。ああそうだ、亜里沙はもう死んでいるのだ、と。


 どこか深刻な表情を浮かべる息子を、母は心配そうに見つめた。そして、ためらいがちに亜里沙の両親の近況等を教えてくれた。彼らも愛娘の死によって、相当落ち込んでいたが、今は少しずつ元気を取り戻してきているらしい。彼女の死を完全に受け入れることは未だ出来ていないが、このまま落ち込んで亡霊の様に生きていても、娘は喜ばないだろう……と考えて。いずれ、広海ともまた話をしたいと言っていたらしい。きっと、まだ苦しみ続けるだろうけれど、きっと彼らは前を向いて進んでいってくれるだろうと母は語る。

 母のその話は、広海に亜里沙の死という現実を否応無くつきつけた。しかし一方で、亜里沙の両親が少しでも元気を取り戻していることは喜ばしいことだと思った。


 それでも、今は亜里沙の両親に会う気はしない。彼らに会えば、亜里沙の死という事実を更にはっきりとつきつけられるからだ。そして、あちらの世界が「夢の世界」であることを思い知らされる。あちらの世界を「夢」にしたくない。こちらの世界が夢で、あちらの世界こそが現実なのだと、思っていたい。


 広海は曖昧な返事をし、寂しく微笑む。

 今は無理でも、いずれ時が解決してくれるだろう。そんなことを思った。

 しかし、そんな彼の「夢の世界」に対する強い想いが、現実を侵食し始めることになろうとは、この時の彼は思ってもいなかった。


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