第五十九夜:故郷は幻の二月の淵に(1)
あの国のことは僕達だけが知っている。
そこに僕が去年までいたことを、あの美しい故郷へ里帰りしていたことを知っている人はいない。誰も知らない内に僕達はそこへ行き、誰にも気づかれないまま帰ってきた。
あの国のことは僕達だけが知っている。あの国から旅立ち、あの国へ帰った僕達だけが。
『故郷は幻の二月の淵に』
陽太は天の川を行く木舟の上にいた。無数の星が放つ黄金色の眩い輝きが、静寂の夜の世界を照らしている。笠を被り、紺色の法被を着た船頭はこちらに背を向け静かに星をかき、舟を漕いでいる。やがて陽太は前に後ろに散らばり煌めく星々が、実は蝋燭を丸めた和紙で覆ったものであることに気づいた。舟は天流れる川ではなく、峡谷の中にあったのだ。谷は大きく、川を、彼等からすれば豆粒よりなお小さい舟を呑みこまんとしているようにも、どかっとその場に腰を下ろし(それでも遥か上空から)厳めしい顔つきでこちらを静かに見守っているようにも見える。自然とはそのどちらにもなり得るものなのだ。その谷を彩る緑、あるものは夜空との境が消えてなくなっており、あるものは明かりに照らされその姿を露わにしている。
無数の灯りは、そうでないと分かっていても矢張り星々に見える。温かな光は幻想の星、どこを見ても流れるそれは川の形を、流れを陽太へ見せる。きっと上空から見たらもっと美しく、そしてより天の川らしく見えることだろう。空飛ぶ鳥がいたら、彼等は普段通りに空を飛んでいるのか、地上に背を向け天に腹見せ逆さになって飛んでいるのか分からなくなっているに違いない。
美しい天の川の幻想を見せる川に浮かぶ木舟にいるのは、陽太と船頭だけではない。他にも十人程おり、老爺もいれば十ニの自分と同じ位の少女もいたし、中年の男性もいれば二十代位の女性もいた。一番幼いのは幼稚園児位の男の子で、辺りを見回しながら「おほしさま、おほしさま」と言ってきゃっきゃと笑っている。そうしてはしゃいでいるのは彼位のもので、後の人達は無言だった。陽太もそうだが、今自分達が置かれている状況を理解出来ず、戸惑いを隠せないでいた。
陽太は先程まで自分の部屋で眠っていたはずだった。ところが今、こうして舟の上に乗っている。身につけているのは寝ている時に着ていたパジャマで、更に見知らぬ毛布にくるまっていた。とても温かい毛布で、冬の世界をかちかちに縮こませ、固める程の冷気から体を守ってくれている。川を、谷を眺めながら陽太は考える。
(これは夢なのかな……)
普通に考えれば、そうだ。しかし冷たいながらも澄んだ空気も、蝋燭と毛布が与える温もりも、さあああという川の音も、木々の歌声も、何もかもが夢のものとは俄かには信じられず。幻想的な光景だったが、現実の世界のものであるとしか思えなかった。それを他の人も感じ取っているからこそ、戸惑っているのだろう。更に奇妙なことに陽太はこの景色を、空気を知っていると思い始めてきた。吹く風を吸い込めば懐かしい味がし、記憶を辿ればかつて同じようにこの舟に乗った自分の姿を見つけ出せるような気がする。
妙に懐かしい世界を流れる舟はこちら一隻限りかと思ったらそうではなく、よく見ると遥か後方に同じようなものが見える。きっとそこにも人が乗っていて、自分達と同じように状況が呑みこめずぽかんとしているに違いない。
しばらくして反対側からゆっくりと一艘の舟がやって来て、陽太の乗る舟とすれ違った。その舟は明らかに流れに逆らっているはずなのに、まるでそのことを感じさせない動きをしている。もしかしたら彼等にとっては自分達の舟の方が流れに沿って進む舟で、こちらこそが流れに逆らって進むものであるのかもしれない。そんな不思議なこともあるような気がした。その舟を包む空気はこちらにも増して静かで、憂いさえ帯びていた。川に輝く灯りに照らされている顔のなんと悲しく、寂しく、切ないことか。川の音に混じるのは、すすり声や嗚咽。そんな彼等の心は、これから陽太達が行こうとしている方へ引っ張られている。強い、強い力に引っ張られている心は後ろを向き前を向いていない。向こうとしても向けない……何故かそんな印象を受ける。流れていくことを拒絶し、元来た道を戻ることを願っているのか。
(僕はここを知っている気がする。この先に何があるかも……でもそれは気のせいかもしれないし、気のせいじゃなかったとしても思い出せない)
本当にこの先には何があるのだろうか。先程擦れ違った舟に乗っていた人達の様子を見る限りでは、恐ろしい場所、辿り着いたら最後二度と生きて帰れないような場所ではないようだ。しかし、何があるか分からないというのは大変不安なことだった。もしかしたら美しい川、その静かな流れの先には死の国があるのかもしれない。
「大丈夫よ、何も怖いことなんてないわ」
不安が顔に出ていたらしい陽太に優しい声をかけたのは、隣に座っている二十代半ばから後半程の女性だった。長い黒髪に、柔らかな微笑み。陽を浴び輝く木の下で微笑みながら静かに本を読む姿が似合いそうな人で、恐らくは彼女だけが(坊やを除いて)戸惑いも警戒も不安もなくこの状況を受け入れている。その落ち着きは心の強さ、或いは鈍さからきているものではない。そして彼女の「大丈夫」という言葉は、決して陽太を安心させる為のでまかせではない。優しい響きながら説得力があり、静かに不安を拭い去る。それは彼女がこのことに関して無知ではないことを示している。
「……この川がどこに続いているか、知っているの?」
尋ねると女性はにこりと微笑み頷いた。
「知っているわ。ここへ来るのは初めてではないから。でもそれは、本当はここにいる皆にも言えることなのだけれど」
「どういうこと?」
「君が君としてここへ来るのは初めてだろうけれどね。……君が君じゃなかった頃、君はここへ来たことがあるのよ。ここから旅立つ為に、この舟に乗って川を『下って』いったの。この川には下りしかないのよ。さっきすれ違ったあの舟もそう。一見上っているように見えただろうけれど、本当は下っているの。不思議でしょう」
うん、と頷いたが彼女の答えは陽太の疑問を解消するようなものではなかった。君が君じゃなかった時とは何のことだろう、ここから旅立ったというのはどういう意味だろう。もっと教えてくれ、と陽太は目で請うたが女性はただ微笑むだけだった。その笑みは「今に分かるよ」と言っているかのようだった。
眺める空は、地上に逆さに置かれた瑠璃の器。中に光を当てた色とりどりの硝子を散りばめ、氷で冷やした水を入れ、冬の星空が生まれる。吸い込むと体内へ入っていく水、その懐かしい味は陽太の心をきゅっと締めつける。温もりを帯びた痛みは、その味を知っているからこそ与えられるもの。水が揺れれば木々も揺れ、耐えられず手を離した葉はひらひらりと舞い落ち川の中へと消え、あるものは星の灯に燃やされた。
先程から、舟の周りがエメラルドグリーン色に光っている。その光の正体は、灯の下を泳ぐ魚の群れだった。ひれは虹色、瞳は翡翠。また彼等の頭には青いビー玉のようなものがついており、そこからしゃんしゃららという澄んだ、そして清らかな音が聞こえる。彼等は固まって舟に寄り添うかのように泳いでいた。
「彼等は私達を夜を漂う悪いものから守ってくれているのよ」
興味津々に川を眺めている陽太に、隣に座っていた女性が教えてくれた。頭についているものが発するその音が悪いものを祓うのだという。確かに、そのどこかの神社で買ったお守りについていた水琴鈴に似た音色には、確かに場を清め悪いものを祓うだけの力がありそうだった。
その魚に守られながら、舟は進む。苔むす岩を避け、人工的ではなく自然にこうなったのであろうという造形の岩のトンネルをくぐり抜け、葉っぱのような見た目の羽を持つ精霊達に見送られ、時々緩やかな曲線を描く川を流れていく。時々反対側からやって来た舟とすれ違う。そこに乗る人々は矢張り皆、悲しそうな表情を浮かべている。
陽太は自分の胸がどんどん懐かしさでいっぱいになっていくのを感じる。それが与える温かな痛みは、自分にとってここはとても愛しい場所であったのだということを分からせる。時々彼は何かを思い出しかけた。頭の中にあまりにもぼやけすぎて何が何だか分からぬ映像が浮かび、それがしばらくして一瞬だけピントが合ったように鮮明なものへと変わる。だが、手放してはいけないとぱっと掴む前に再びぼやけてしまい、結局ここに関することは何一つ思い出せなかった。掴めそうで掴めない、幻なのか本当に存在するのか分からないもの、眼鏡を外した時のようにぼやけていてはっきりと見えないもの。
(眼鏡……そういえば、僕なんで眼鏡をかけているんだ?)
頭に浮かぶ映像のぼやけ具合は眼鏡を外した時に見る世界のそれに似ている、そう思った時になってようやく陽太は自分が眼鏡をかけていることに気づいた。寝る前には必ず外しているはずなのに、どうしてつけているのだろう?
陽太が眼鏡に触れ、首を傾げていることに気づいた女性が微笑む。
「どうやら私達、この舟に乗る前一度あちらの世界で起きているみたいなの。多分その時に眼鏡をかけたんじゃないかしら。旅立つ前にこれだけはつけておかなくちゃって。着替えるだけの時間は無いみたいだけれど、それ位はきっと出来るのね」
「……お姉さんも、その時のことは覚えていないの? この舟に乗る前のことは」
「そうねえ、流石の私も覚えていないわね」
などと話していると、上空からばさばさという羽音が聞こえた。見上げるとそこには青白く光る白い鳥の群れがいた。彼等は輪になりぐるぐると回っている。そうして回りながら、鳴いている。それは鳴き声というより、歌声に近いものだった。讃美歌という言葉が似合いそうな、神聖なる歌、清らかなる歌に陽太も女性も、状況を飲みこめていない人々も聞き惚れた。そしてその歌にも懐かしさを覚えるのだった。美しいその歌を、自分達はどこかで――恐らくここで、聞いた。心を痛みを感じる程(それは嫌な痛みではなかった)打ち、中にある悪いものを外へ出し、清める歌声を聞いて、かつて大粒の涙を零し声をあげて泣いた覚えが朧げながらあった。そして今も陽太は声をあげて泣きたくなる衝動に駆られた。美しくて、懐かしくて、嬉しかった。この歌をもう一度聞けたことが嬉しくて嬉しくて仕方が無かったのだ。耳をすませば、聞こえるのはすすり声。どうやら陽太の前に座っている中年の男性が泣いているらしい。どうしてこんなに涙が出るのだろう、そんな戸惑いの言葉を吐きながら。隣にいる女性は目を瞑り、その歌声に聞き入っていた。また聞けてうれしい――陽太と同じ気持ちを抱いていることが、その表情を見れば分かる。その姿は大変絵になり、子供ながらどきりとした。
その歌が突然ぴたっと止み、鳥達は四方に散った。そしてその内の一羽――群れの中で一番大きかったもの――が舟の上、船頭と最前列に座る高校生位の男と老婆の間にあるスペースへと降り立った。瞬間、白い鳥は老婆へと姿を変えた。背の低い老婆は白い袴姿で、更に白い着物を羽織り、頭に白い鉢巻を巻いていた。白くないのは髪と肌と唇の色位のものだ。左右に思いっきり引っ張り、限界まで伸ばしたような細長い瞳に、垂れ下がったふっくらとした饅頭でも詰めたかのような頬。正直、あの澄んだ声を出せるとは到底思えぬ容姿であった。皆考えていることは一緒だったらしく、老婆は陽太達の顔を見てほっほっほと愉快そうに笑った。その声は矢張り老いたもののそれで、陽太達の心を震わせた歌声とはかけ離れたものだった。
「信じられない、といった様子だのう。まあ、無理もないが。……あの声は鳥でいる時だけ出せるものだ。儂以外の者――うら若き乙女も、童も同じように。流れる灯火は迎え送り、川を泳ぐ翠輝魚は闇に誘われし者を祓い、そして我等清女の歌は行く者来る者の内に溜まる悪しきものを浄化し、行く者を送り、来る者を迎えるのだ。再びこの地で会えたこと、心からお喜び申し上げる。おかえりなさい、かつてこの国で共に笑い泣き怒り喜んだ者達よ。よくぞ帰ってきた」
おかえりなさい、と言われても何が何だかさっぱり分からない。そのくせその言葉が妙に胸に沁みて、目頭が熱くなる。何故かその言葉を聞きたくて仕方が無かったのだ。とはいえ、矢張り状況が飲みこめていないから、陽太の隣に座っている女性以外は戸惑うばかり。ただいま、と老婆に言ってやることも出来ないでいた。老婆はそういう反応に慣れているのか、特別気分を害した様子もなくふふふと笑う。
「ここはそなた達の故郷と呼べる場所。……幻の二月の淵にある国――閏の国」
幻の二月の淵にある閏の国。その言葉を聞いた時、陽太の頭の中で、きいいんという金属音が鳴り響いた。それはその言葉と、陽太のずっと奥底に眠る――恐らくは永遠に目を覚まさないもの――いつかの自分が積み重ねた記憶、古い名前を持つ魂が繋がった音だった。陽太の頭の中で次々と膨大な映像が再生されていく。といってもその映像の一つも陽太は認識出来なかった。何かが流れていることは分かったが、どんなものが流れたのかは分からない。ただあらゆる記憶が駆け巡ったということを理解しただけに過ぎなかった。同じような体験を皆したらしく「そうだ、幻の二月の淵……そこに自分はいた」「その響き、覚えている。ああ、確かに覚えている」などという声もぽつぽつと聞こえた。故郷と呼べる場所、という言葉に疑問を持つものは誰もいなかった。
(そうだ、確かにここは僕の故郷だ……僕は確かにここに住んでいた)
陽太は桜町で生まれ育った。故郷と呼べる場所があるとすればそれは桜町なのだが、ここもまた自分にとっての故郷であると思える。
幻の二月の淵。二十八日のその先にあるようで無く、足を踏み入れることの出来ぬ場所。踏み出した足は幻の淵をすり抜け、そして三月へと落ちていく。必ずある、常に実体を持つ二十八日という淵のその先にある幻の淵は、四年に一度という一瞬に近い時間だけ具現化し、そしてあっという間に消えて再びその実体を失い、幻に戻る。
その幻の二月の淵にあるのがこの国、閏の国。二月の淵の更にその先、三月の真上に重なるようにして存在する幻の国。老婆のそんな説明に、陽太はただ「ああそうだ、そうだった」と頷いた。
「そなた達はかつて、この国の民であり我々と共に日々を過ごしておった。しかしそなた達はずっとこの国で暮らすのではなく、外つ国へ旅立ち新たな人生を歩むことを決めた。その理由は様々で、この国での暮らしに飽きたからという者もいれば、好奇心による者もいれば、とても悲しい思いをしもうここへはいたくないと、悲しみや苦しみから逃れるように旅立った者もいる。それぞれの思いを胸にそなた達は舟に乗り、こことは別の川を流れこの国と別れを告げた。そして外つ国にて新たな人生を送り始めたのだ」
「私達は舟に乗って……死んで生まれ変わったの? ここで暮らしていた私達は、前世と呼べるものなの?」
「恐らくは。詳しいことは儂も知らぬが、そなた達は川を下った先で『死』と呼べるものを迎え、そして肉体より出た魂は外つ国へ行き、新たな母の腹から産まれたのだろう。それは転生と呼べるものなのだろうね。だから厳密に言えばここはそなた達にとっては故郷ではない。あくまでそなた達の前世にとっての故郷であるだけの話だ。しかし我々閏の国に住まう者達はそなた達が死に、生まれ変わったとは考えていない。ただ旅立ち、この地を離れただけという考えなのだ。つまりそなた達が生まれ育った故郷はここであり、今なおこの国の民である……と我々はみなしておるのだ」
勿論かつての陽太達もそう考えていたことだろう。その考えは魂に刻まれて消えず、だからここを『故郷』と言われても違和感をあまり覚えなかったのかもしれない。勿論皆本当はこの国を出た者が川を下った先何らかの形で死を迎え、新たな地で生まれ変わったという事実を把握してはいる。旅立った者と、こうして再びこの国へやって来た者は同じ魂を持ちながらも全くの別人であること、新たな地で新たな人生を送っていることを受け入れている。理解し、受け入れながら『そういうことにしている』だけだ。
「そなた達は旅立ち、ここを離れた。そして外つ国にて生を受けた。……面白いことにそなた達は、必ず二月二十九日に産まれるようだ」
皆、それに対して「自分は違う」とは言わなかった。そして今日揃ってこの舟に座っている者は誕生日を迎えたのだ。普段は三月一日に行われる誕生日パーティーをやり、友人からちょっとした誕生日プレゼントをもらい、美味しいご馳走やケーキを食べ、満たされた気持ちのまま眠りについた。そして気づいたらここにいたのだ。
「外つ国と、幻の二月の淵は普段は繋がりを持たぬ。だが四年に一度――二月二十九日にのみ二つの世界は繋がる。そしてその時我々は二つの世界を繋ぐこの川に舟を寄越す。舟は川を下り……そして外つ国で暮らす元同胞達、つまりそなた達を迎えるのだ。残念ながらそなた達の意思は関係ないようだが……正直、どうやってこの舟が迎える者を選んでいるのか儂等にも分からぬ。ただ、迎えが来ると皆必ず舟に乗るようだ。そして全ての舟が川から消えた後、繋がりは再び断ち切られる」
陽太も迎えに来た舟に乗ったのだろう。その時のことは全く覚えていないが、嫌々乗ったわけではないことは何となく分かる。そして今こうして自分は美しい川を舟に乗って下っている。これを老婆達は『里帰り』と呼んでいるようだ。里帰り――これ程ふさわしい言葉もないだろう。恐らく先程すれ違った舟は、再び外つ国――元いた場所へ帰る人々を乗せたものだったのだろう。
四年に一度しか繋がらない、ということは自分達は四年間帰れないということか。それはとんでもないことであったが、どういうわけかそれ程慌てていない自分がいた。四年帰れないことに対する不安より、四年ここで暮らせることに対する喜びの方が大きかった。自分がいなくなったら親や友人が心配するのではないか、受験はどうするのだろう、そんな本来ならうんと頭を悩ませるはずの事柄さえ遠くにあって、まるで他人事のように考えている。更に老婆に「向こうのことは心配しなくて良い」と言われ、ああそうなんだそれなら大丈夫だとかろうじて残っていた僅かな不安さえ吹き飛んでしまった。他の人も似たようなものだった。元の世界のことなどどうでもいいや、と思っているのではないかと思われても仕方ない位暢気なもの。故郷に足を踏み入れた途端、陽太達は外つ国ではなくここに属する者へと変わってしまったらしい。ほんの少し前まで住んでいた場所が陽太達の中で遠ざかっていき、御伽の世界へと変わっていく。
老婆は「そなた達がここで過ごす四年間がどうか素晴らしいものでありますように」とだけ言うとそれきり黙ってしまった。詳しい説明は後でするようだ。皆老婆に質問することもなく、静かに景色を眺めたり、小さな声で喋ったり、座ったまま眠ったりし始める。陽太も隣にいる女性と話をし始めた。大きな声で喋ったら美しい瑠璃の器が壊れて台無しになってしまいそうだったから、小さな声で話す。女性は名前を奏といい、二十九日に二十八歳となったそうだ。趣味は陽太と同じく読書で、しかも好んで読む本の系統が一緒であった。共通の好きな本と作者がいたこともあって、話は大いに盛り上がった。本のことで語り合える人は陽太の周りにそう多くはなかったから、嬉しくて仕方が無かった。
やがて舟は前方にあった門――鳥居をくぐり抜けた。この鳥居を抜けた時点で、正式に陽太達は閏の国に入ったことになったようだ。鳥居の形は陽太の住む世界にあるそれと全く同じであった。奏曰く、ここの文化は日本のものと似通っているそうだ。向こうの世界にあるものと同じものが、この国には多くあるらしい。
「旅立った人が里帰りした時に自分達の世界にあったものを伝え、この国に住む人がそっくり同じものを作った……というわけではないらしいの。つまりこの国に住む人達自身が考案して、作った。こちらにあったものを、旅立ち生まれ変わった人が魂に刻まれた記憶を元に作った……という可能性も無いわけではないかもしれないけれど、どうなのかしら。不思議よね」
うん、とても不思議だと陽太は頷いた。それから奏にこの閏の国のことについて色々聞いてみたが、彼女は微笑むばかりで何も答えてくれなかった。百聞は一見に如かず、自分の目で見て確かめなさいということだろう。陽太は質問するのをやめ、自分のことを話したり奏自身のことを聞いたり、最近読んだ本について語り合う。『懐かしき故郷』での暮らしに胸躍らせながら。高鳴る心臓は、美しく静かな世界に高らかに響く行進曲。
そうして話している内、舟は終点――大きな湖に辿り着いた。湖もあの黄金色に輝く灯りでいっぱいで、まるで満天の星空を切り取って貼ったよう。そんな湖の中央に小島が浮かんでおり、舟はその前までやって来て止まった。眠っていた者も目を覚まし、老婆に促され舟を下りた。小島の上には立派なお屋敷にありそうな門と塀があった。それ以外には何も無く、また開かれた門の奥は真っ暗で何も見えない。しかし何か空間の歪みのようなものを感じられ、離れた空間と繋がっていることが察せられる。
「まずはここをくぐり、閏の国の首都(こちらでは首都と書いてそう読むらしい)へ行ってもらう」
最初に船頭が門をくぐり、皆それに続いていく。坊やも暗闇を恐れることなく、とてとて歩いて門をくぐっていった。さあ、私達も行きましょうと言って奏が陽太の右手を握り、前へと進む。手を通じて伝わる彼女の温もりに、陽太は顔を真っ赤にする。元々期待とちょっとばかりの不安で弾んでいた心臓はその動きをますます激しくさせた。
そして陽太は奏と共に門をくぐった。暗闇の中に入った瞬間二人は眩い光に包まれ、思わず目を瞑ったがそれでも歩くことは止めなかった。光に包まれていた時間はそう長くなく、目蓋の裏が闇色になった頃二人は再び目を開いた。
「おかえりなさい!」
門をくぐり抜けた陽太と奏を待っていたのは、爆発音と間違えてしまいそうな位大きな声と拍手、にこにこ笑うとてつもない数の人々だった。