第四夜:胡蝶の夢(1)
時系列としては「鬼灯夜行」と「桜の夢と神隠し」の間位。三人称。
『胡蝶の夢』
今宮広海は今、ただの生ける屍であった。
ろくに洗っていない髪は油でべたべたで、妙にぎらぎらしている。顔も唇も青く、頬はやや痩せこけている。目の下に出来たくまは濃い色をしていた。瞳の色も、そのくまと同じ位どんよりと暗く、光の無い、死んだ魚の目の様。髭は剃ることをやめたせいで、だらしなく伸びている。数日前から着たままのシャツやズボンは汗を吸ってじめじめしていた。しかし今の彼はそんなことすら気にしていない。
彼自身も酷い有様だが、部屋の中も同じ位酷い。カーテンは閉めっぱなしで、折角の太陽の光もろくに差し込まない。電気もつけていないから、ほの暗い。テーブルにはカップラーメンや弁当、コンビニのおにぎりの残骸が散らばっている。まだ中身が入っているものもある。それに集る虫もそのまま放置だ。布団はたたみもせず、ぐちゃぐちゃに床に敷かれている。この頃全くつけられなくなってしまったテレビは静かに佇んでいる。洗濯されていない服や下着が散乱し、放置された食べ物の臭いとそれらの臭い、どんよりとした空気が混ざり合い、恐るべき悪臭を生みだして部屋中に漂っている。友人や家族からのメールや電話は全て無視され、彼の携帯にむなしく溜まり続けている。
雀の鳴く声で目を覚ました彼は、何かを食べもせず、歯を磨かず、何もせずただぼうっと座り込んでいた。焦点のあっていない目には何が映っているのだろうか。
彼がこのようになってしまったのは、一ヶ月前からだ。それ以前は、掃除だってそれなりにしていたし、食事だってきちんと(といってもインスタントが多めだったが)摂っていた。風呂にも入り、歯も磨き、大学にも行き、TVを見ては大笑いしていた。亡霊や生ける屍とは一切無縁の、至って普通の毎日を送ってきていた。
何故、そんな彼が。
彼には恋人……いや婚約者がいた。名前は倉橋亜里沙。広海の実家の真向かいにある家の娘で小さい頃から遊んでいた、いわゆる幼馴染というものだった。中学の頃からお互いを異性として意識するようになり、中学卒業と共に恋人同士となった。どうせ長く続かないだろう、などと言われていたが喧嘩こそすれど別れることはなく高校を卒業。お互い大学に進学した後も、付き合いは続いていた。そして彼は一大決心し、大学を卒業してしばらくしたら結婚して欲しいと彼女にプロポーズ。返事は、OK。二人は婚約した。
幸せだった。二人で過ごす時間は、何よりも大切で愛おしい時間だった。
数年後には、幸せな家庭を築いている、はずだった。
しかし、そんな幸せな未来は一瞬にして崩れ去る。
一ヶ月前、倉橋亜里沙が交通事故によって命を落としたのだ。友人と買い物をした帰り道、信号無視した車に撥ねられて。彼女を撥ねた男は捕まった。けれど、彼女は病院で息を引き取った。
二人が何年もかけて積み重ねてきた大切な時間。それ以上積み重ねられることは、もうない。減ることもないが、増えもしない。そのままの状態で、止まってしまった。
積み重ねられた時間の先にあるはずだった、幸せな未来。それは、見知らぬ男によって壊された。取り戻すことは出来ない。
彼女の死と共に、広海の時間は止まった。以来、彼の体は魂の抜け殻のようなものになってしまった。
*
そんな広海が、ある日久しぶりに外へ出た。理由は特に無い。何となく出ようと思ったから出ただけだ。着替えた後、財布を持って家を出た。携帯は、家に置きっぱなし。今は、誰の話も聞きたくなかった。
久しぶりにまともに浴びた太陽の光。それは、白い炎をまとった剣のようだった。容赦なく、すっかり痩せてしまった体を突き刺す。皮膚も骨も、何もかもが引き裂かれ、焼かれていく。
外の世界に溢れている音。蝉の鳴き声、子供達の笑い声、鳥の鳴き声、車の走る音、風鈴の涼しげな音色……その全てが、今の彼の耳には届いていない。
目に映るもの全てに、色がない。ぐにゃぐにゃした輪郭、白い物体。人も猫も鳥も、皆。居て、居ない。何もないつまらない世界だ。その世界を歩いている間思い出すのは、忌まわしき日のことだ。
大学の友人と遊んだ帰り道で、携帯電話が鳴った。見れば、母からだ。何だろうと思いながら、電話に出る。
のん気な声と共に電話にでた広海を待っていたのは、予想もできない信じられない報告だった。母の、酷く弱弱しく掠れた声を広海は一生忘れることは出来ないだろう。
――亜里沙ちゃんがね……死んじゃったの――
母はそれだけ言って、泣き崩れた。
広海の頭は真っ白になった。何を母が言ったのか、分からない。一瞬で頭の中が熱くなった。いや、或いはあまりに冷たくなって逆に熱く感じたのかもしれない。脳は動くことをやめた。考えることも驚くことも、詳しいことを聞くことも、言葉の意味を理解するのも……ましてや、泣くことなど出来るはずもない。
それ以上何も話せなくなってしまった母に代わり、父が電話に出た。父の声もまた掠れていた。父から詳しいことを説明されたが、言葉一つ一つが聞いたそばからばらばらに分解されていき、意味の無いただの文字になっていく。亜里沙という彼女の名前すら、人の名前として認識できない。
しばらくして、分解された文字が言葉として組み立てられていく。けれどそれでも、事態を飲み込むことは出来なかった。
亜里沙が死んだ。友人と遊びに行った帰り道、車に撥ねられた。病院に運ばれたけれど、数時間後に息を引き取った。
たったそれだけの言葉理解することすら儘ならない。
父に、彼女が運ばれた病院の名前を聞いた。すぐ隣の街、三つ葉市にある病院だ。頭の中に残されている「言葉」が膨張していく。今にも破裂しそうだ。
広海は急いで病院へと向った。
そして、永遠に覚めない眠りについている亜里沙を、見た。亜里沙の母が椅子に座ったまま呆然としている。
最初は涙も出なかった。ただ立ち尽くすことしか出来なかった。数日前に会った時は元気に笑っていた彼女が微笑むことはもう無い。信じられなかった。彼女によく似た人形が、横たわっているだけだと……そう思いたかった。けれど、目の前にいるのは間違いなく自分が愛した女性なのだ。
もう何もかも訳が分からなくなる。こみ上げてきた色々な思いが、涙となって外へと吐き出される。どれだけ泣いても、彼女は目を覚まさない。もう自分の声は彼女の耳には届かない。
全てを吐き出し、残ったのは空っぽの体だった。
毎日のように、その日のことを思い出す。今はもう涙も出てこない。何もかもが空っぽになってしまったからだった。意識は遥か彼方へ行き、ここでは無いどこかを彷徨い続けている。
ふらふらと向った先は、桜町商店街。意識がこの世界に向いていないせいだろうか。店は白い箱に見える。大きな箱、小さな箱が並んでいる。そして店の人や客は、白いもやもやした物体に。広海は自分がどこにいるかもよく分かっていなかった。歩いても歩いても、色のない物体が続くだけの世界は、見る価値もないものだ。外へ出ても何も変わらない。だから広海は、殆ど外へ出なくなった。出ても出なくても同じだからだ。
どこからか、食べものの良い匂いがした。広海のお腹が鳴る。そして初めて彼は、昨日からろくに物を食べていないことを思い出す。その匂いがする所は、弁当屋だ。『やました』という名の小さな弁当屋で、広海はよくそこで弁当を買って食べていた。その匂いが一瞬だけ広海の意識をこちらの世界に戻す。久しぶりにあの弁当屋で弁当を買うか。意識はまたすぐにどこかへ行ったが、広海の足はゆっくりと弁当屋へ向っていた。
弁当屋まで後少し、というところで広海は足を止める。弁当屋の前に誰かが立っていたのだ。不思議なことに、周りにいる人間には色も顔もはっきりとした形も無いのに、その人物だけははっきりと彼の瞳に映ってきた。色も顔も……ある。一人ではなく、二人だ。
一人は女。頭のてっぺんに一つお団子を作り、残りの髪の毛は下に真っ直ぐ流れている。お団子の付け根の辺りにはかんざしが幾つかついている。黒い着物には色鮮やかな何かが描かれている。金色の帯が日の光を浴びて眩く輝いている。
もう一人は男……だろう。髪の毛が長く、腰程まである上に細身ですらっとしているが、女の様な丸みを帯びた体ではないから恐らく男だ。藤色の着物に、青い帯。
二人は確かに人間の形をしていた。けれど、どこか異質に見える。他の建物や人間はまともに見えないのに、この二人だけきちんとした形をして見えるのは妙だ。白の世界という水に浮いた油の様な……周囲に溶け込んでいるようで、全く溶け込んでいない二人組に、広海は目を奪われた。周りの人が、突然立ち止まった広海をじろじろ見ているが、彼はそのことに気づいていない。彼らのことなど見えていないからだ。
女が、しばらくして広海に気づく。瞬間、冷たい電流が体中に流れる。衝撃と、寒気。この場から逃げろ、という警告が頭の中で発せられるが体は動かなかった。女は広海に近づいていく。男もそれに気づいて後を追う。
あっという間に女と男は広海の前に立ち、静かに彼を見つめていた。
どちらも広海よりはやや年上……20代半ばから30歳位に見える。作り物かと思う位整った顔立ち。整いすぎて、逆に恐ろしい。
「あら、私が見えるの? 今は二人して気配を消していたつもりだったのだけれど。それとも、今私達をはっきり見ているのは貴方だけかしら?」
女が首を傾げる。彼女の髪を飾るかんざしは、蝶の絵が描いてあるもの、蝶を象った飾りのついたものなどがある。着物の絵柄もよく見れば、虹色の蝶が描かれていた。
「まあ、偶にそういう人っているのよね。どれだけ姿を隠していても、見つけてしまう人って。でもおかしいわね、貴方からは何も感じないわ。ねえ、出雲貴方はどう?」
「私も感じないねえ。まあ、こんな男どうでもいいじゃないか。私はさっさといつもの様にいなり寿司を買って帰りたい」
「そう。まあそれならいいわ。私も興味無いし、人間なんて。あら?」
広海を無視して話を続ける女が、頭上を見る。思わず広海もつられて上を見る。すると、空から見た事も無い蝶が飛んできた。その蝶も、しっかりと今の広海の瞳に映っている。
その蝶は、虹色の羽根を持っていた。模様は無い。その蝶は虹色の鱗粉を撒き散らしながら、徐々に広海に近づきやがて彼の頭上に止まった。思わず振り払おうとしたが、手が動かない。
「あら、お前、その男が気に入ったの。……ふうん、成程ねえ。まあお前の好きな様になさい。ふふ、貴方。その蝶に気に入られたということは、決して手に入れることの出来ない何かがあるってことなのね」
広海はその言葉を聞いて、彼岸へ行ってしまった亜里沙の顔を思い浮かべた。死んでしまった彼女とこの世で会うことは永遠に無い。彼女をどれだけ求めても、無駄なのだ。決して手に入らない……彼女も、彼女と過ごす『未来』も何もかも。
彼が否定しないのを見ると、女は笑みを浮かべた。明らかに何かを企んでいるような笑みだった。女が次に発した言葉は、意外なものだった。
「手に入るわよ」
広海は、大きく目を見開いた。その言葉を聞いた途端亜里沙との思い出が頭の中を巡り、体中の血が沸騰して熱くなる。
「ああ、但し夢の中でのみだけれど。その蝶を貴方に貸してあげるわ。寝る前に、その子の鱗粉を被ってみなさい。そうすれば素敵な夢を貴方は見る事が出来るわ。餌も必要ない、楽でいいでしょう? ふふ」
女は笑い、くるりと後ろを向いて広海から遠ざかっていく。出雲と呼ばれた男もまた楽しげな笑みを浮かべて後に続く。そして瞬き一回している間に、二人の姿は完全に消えてしまった。
刹那、約一ヶ月もの間消えていた世界の色や形は元に戻り、聞こえていなかった音が再び聞こえ始めた。現実には有り得ない不思議で不気味な邂逅が、彼の意識を自分の体に引き戻したのだ。
しかし世界が久しぶりに元通りになっても、あの蝶は消えることなく楽しげに広海の頭上を飛び回っている。
一ヶ月ぶりに、烏の鳴く声を聞いた。
*
一応弁当を買い、広海は帰路についた。途中、自分から離れようとしない蝶を入れる為の虫かごを買う。家へ帰るまでの間、女の言葉が頭の中をずっと巡っていた。蝶の鱗粉をかけて寝たら、自分が欲しいものを夢の中で手に入れることが出来る……そんな話、普通だったら信じない。しかし何故だろう、あの女が嘘をついているようには少しも思えないのだ。それはあの女が、色も音も一切ない世界で、色も形も声も全てを保って存在していたからだろう。きっとあの女も、あの出雲というらしい男もこの世の者では無いのだ。現実から離れて彷徨っていたからこそ、彼らを見る事が出来た。
この世の者ではない奴らならば、現実にはありえない蝶を持っていたっておかしくない。
馬鹿馬鹿しい、ろくなものを食べていないせいで頭に栄養がいっていないからこんなことを考えるのだろう、きっと。しかし、そんな風にものを考えたのも随分と久しぶりのことだ。この世の者とは思えない男と女によって逆にこの世に意識を引っ張り戻されてしまうとは。
広海は自分の住むアパートに戻り、ドアを開ける。どんよりとした空気が彼を迎える。電気をつけるのは面倒だから、そのまま入る。薄暗い部屋に、蝶の虹色はよく映える。恐ろしいパンドラの箱に残っていた最後の「希望」という名の蝶も同じような姿だったのだろうかと柄にも無いことを考えた。
その後は、TVも見ず、本も読まず、結局何をする訳でも無くぼうっとしていた。やることは、何も無かった。
あっという間に、日は沈み代わりに白い月があがった。外はもう真っ暗で、明かりをつけていない部屋の中も真っ暗になった。部屋にある唯一の光は、あの蝶で、広海同様何をする訳でもなくただ無闇に飛び回っている。何となく目障りになってきて、虫かごを開けた。そしたら蝶は、広海の考えていることを理解したのか、自らかごの中に入っていった。
その蝶をぼうっと眺めながら弁当を食べた。最近は何を食べても味がしなかったが、今回は仄かに味がした。しかし味があっても無くても、今の広海にとってはあまり関係の無いことだった。
消えていた色や音は大分元に戻った。けれど全てが元に戻った訳では無い。あってもなくてもどうでもいい世界ということに変わりは無く、意識は相変わらずふらふらとあちらこちらを歩いている。
ゴミの散乱している床に寝転がり、明かりのついていない電灯をぼうっと眺める。
――手に入るわよ――
わずかに残る意識を支配するのは、あの女の声だ。今まで聞いてきたどんな声よりも妖しく、浮かべる笑みは善意ではなくあからさまな悪意に満ちていた。
あの女の言うことは嘘ではないと思う。だが、彼女の言う通りにした結果待っているのが幸福であるとはどうしても思えない。あれはきっと救いの神などではない、死神だ。あの時のことを思い出しただけで全身から温もりが奪われる。
言うことを聞かなければ、愉快な人生は送れないだろうが、これ以上堕落した人生を送ることはないだろう。あの蝶を殺すか逃がすかすれば、また今までと同じ日々を送ることが出来る。それが、最善の選択肢のような気がする。
けれど。
ぼやけた視界に映るブックラック。その上に、伏せられた写真立てがある。広海はふらふらと立ち上がり、その写真立てを手に取った。
そこに映るのは、カメラに向かって幸せそうな笑顔を浮かべる自分と亜里沙の姿。今年の春、遊園地でデートした時の写真だ。
広海は、久しぶりに亜里沙の顔を見たような気がした。彼女が死んでからというもの、彼女の映った写真などを極力見ないようにしていた。
特別美人な訳でもない。けれど、広海は彼女の笑顔が好きだった。彼女は本当によく笑った。陳腐な表現だけれど、太陽のような笑みをいつも浮かべていた。
その笑みが、写真の向こうにある。いや、最早写真にしか残ってはいない。今の広海の頭に残っているのは、病院で見た変わり果てた彼女の姿ばかりだ。
もう一度、彼女と会いたい。
写真を見つめるうち、空っぽになっていたはずの体の中が熱くなって、彼女への強い想いが溢れてくる。彼女の笑顔を見たい、無邪気な声を聞きたい、彼女に触れたい、派手な喧嘩だってしたい。
未だふらふらし続けていた意識が、あの二人組を見た時と同じように自分の体にすっと戻ってきて、頭の中を激しく揺さぶり、心を沸騰させていく。
夢の中だけでもいい。彼女と会いたい。例えその先に待ち受けているのが破滅という名の結末だったとしても。
今まで無くしていた気力というものを取り戻し、目に光が再び灯る。広海は、虫かごを開ける。蝶はゆっくり虫かごから出る。そして、彼の頭上を弧を描きながら飛び始める。やがて、蝶の体から七色の鱗粉が落ちていく。まともに光の差していない部屋の中で、その鱗粉は眩い光を放っていた。
降り注ぐそれを、広海はただじっと見つめていた。
やがて蝶は広海から離れ、自ら虫かごの中に戻っていく。広海は虫かごの蓋を閉め、また床に寝転ぶ。
そして、静かに眠りへと落ちていった。
*
雀の鳴く声、部屋の中を満たす日の光。何かが沸騰している音、甘い米の香り。部屋の中は朝を告げる音と匂いでいっぱいになっていた。
それでも広海は未だ寝ていたくて、ふかふかの布団から出ることなく眠っていた。
誰かが広海の頭をぺちんと叩く。びっくりして広海は目を覚ます。
見れば目の前に誰かがいて、自分の顔をじっと見つめていた。
さらさらしたセミロングの髪は光を受けて白く光り、爛々と輝く瞳は広海を見つめている。大好きな黄色の洋服でやや小さな体を包み込んでいる。
「こら、早く起きろ。遅刻するぞ」
亜里沙が、そこに居た。
「うわ、亜里沙!?」
勢いよく起き上がったものだから、自分のおでこと亜里沙のおでこがごっつんこ。鈍い痛みがじわじわ広がる。
「何するの、馬鹿なのあんた。ていうか、何そんなに驚いているの? 同棲中の恋人が目の前にいるのがそんなにおかしい?」
膝立ちしたまま腰に両手をあて、亜里沙は頬を膨らませた。怒るとハリセンボンの様に頬を膨らませるのが、子供の頃から癖だった。
生きている。物言わず、青い顔で眠っている、あの時見た彼女とは違う。
どうやら「ここ」では亜里沙と自分は同棲しているらしい。よく見てみれば、今広海が居るのはあのアパートでは無いようだった。あそこよりも少し広い。
「いや、おかしくは、ない」
その言葉を紡ぐだけで、胸が熱くなる。油断すれば涙を流してしまいそうだ。広海の様子がどことなくおかしいことを亜里沙は感じたのだろう。変なの、気持ち悪いと一言呟いて肩を竦める。
「どうでもいいけれど、さっさとご飯食べてよ。私も大学行かなくちゃいけないんだから、あんただって今日は一コマ目からなんでしょう」
「大学? あれ、俺大学卒業する前に同棲しているの」
「今更何言っているの? 駄目だ、あんた完全に寝ぼけているわ。エロ本でも見て夜更かししていたんじゃないの?」
「してねえよ、馬鹿」
「馬鹿はあんただ」
そう言うと、何がおかしいのか亜里沙はぷっと吹き出し、その後くすくす笑う。彼女にとっては些細な言い争い(という程でもないが)さえ楽しいのだ。
それは広海にとっても同じだった。特に今は、彼女の言動、仕草全てが愛おしく懐かしい。気づけば広海は彼女を抱きしめていた。温かい。夢の中とは思えない。亜里沙は彼の腕の中で目を丸くした。
「何よいきなり! もう、馬鹿な上に変態なのあんたは!」
「そこまで言うことないじゃんか。まあ、とりあえず飯にしようぜ」
亜里沙はぶつぶつ何か呟きながら台所へ向かう。
今日の朝食はご飯と、ワカメと油揚げの味噌汁と卵焼き。ややご飯は水分が多くぺちゃぺちゃしていて、味噌汁は味が濃く、卵焼きはスクランブルエッグ寸前のぼろぼろとした形をしている。
もう少し料理の腕をあげろよな、そう言いながら口にする彼女の料理。夢の中のはずなのに、はっきりと味がした。食べ物の味をこんなにはっきり感じたのは本当に久しぶりだ。夕方食べた弁当の味だって殆どしなかったのだから。味噌汁はしょっぱいし、卵焼きは酷く甘い。けれど、美味しいと思った。食べ物の味がするというのはとても幸せなことで、それだけで心が満たされる。ましてや、もう二度と食べられないと思っていた彼女の手料理となれば……。
今なら涙を流しても、味噌汁がしょっぱいからと言い訳できるかもしれない。
朝からご飯をおかわりして、広海は満腹になった腹をさすりながら大学へと出かけていった。どうやら「夢」の中で自分達が住んでいるアパートは「現実」の自分が住んでいるアパートからさほど離れていない場所にあるようだった。道も大して変わっていなかったから、駅にも特に戸惑うことなく行けた。
電車で一時間近く、その後歩いて五分程で着く場所にある広海の大学。随分と久しぶりに見た気がした。すでに教室で喋っていた友人達。彼らのことなどずっと忘れていた。しかし「ここ」の彼らは広海と大学で毎日顔を合わせている。ここは、亜里沙は死なず、自分が引きこもりになることなく、しかも二人で同棲しているという世界なのだから。
友人達は広海の姿を認めると、大声で「おはよう」と言った。広海もおはようと挨拶を返す。そして、実にくだらないことについて色々語り合う。途中、広海と亜里沙の話になり、散々からかわれた。終いに下ネタに走るものだから、いい加減にしろよこの野郎といって殴るふりをする。それでも止まらないから、今度は本当にぶってやった(といっても軽くだが)。
友人と、こんな風に喋ったのも一ヶ月振りだ。なんてことはない話ばかりしているのに、胸が弾む。
こうして時間は過ぎていき、食堂で昼飯を食べ、久しぶりに講義を受け、また友人と喋って別れ、帰路につく。夢の中なのに、おかしなことは特に起きていない。講義の内容も至ってまともだったし、急に場面が変わったり、誰かがありえない行動をとったりすることも無かった。
(本当にこれは夢なのだろうか)
夢ではなくて、現実の世界では無いのだろうか。そんなことを思う。
家に帰ると、亜里沙が夕飯の準備をしている。亜里沙の通う大学は、広海の通う大学よりも近い所にあるから、帰りも彼より早いのだ。
やや焦げたハンバーグ、バターたっぷりのほうれん草とコーンのソテー、味のあまり無いすまし汁がその日の夕飯だった。
風呂に入り、眠りにつく。そして目覚め、また同じような毎日が続く。夢の中のはずなのに、夢も見る。温もりも感じるし、空腹になったり喉が渇いたりもする。TVに出てくる芸能人も現実に出て来る人達だし、番組の内容等も現実のものと同じだ。
そうしているうちに、こちらの世界が夢の世界であることを忘れていった。
それから数日後のことだった。
その日は土曜日で、亜里沙と水族館へと行った。小さい頃、亜里沙の家族と自分の家族とで来たことのある水族館だ。
「懐かしいわね……。あんた、確かここで迷子になったのよね。ふらふら勝手に離れちゃって。しばらくしたら放送であんたの名前が出てきたからびっくりしたのを覚えているわ」
「え、あの時迷子になったのってお前じゃなかったっけ」
「何自分の都合のいいように記憶をいじくっちゃっているのよ」
亜里沙はじとっとした目で広海を見る。確かに言われてみれば、あの時迷子になってわんわん泣いていたような気もする。しかしくだらないことを覚えているとは。
「そういうお前は、マグロを指差して、あれ美味しそう! って大声で叫んだじゃないか。その後も他の魚見る度にあれ美味しそう、あれは不味そう、あれってどんな味がするのかなあとかさ。水族館で働いていた人達、苦笑いしていたぜ」
「嘘、私そんなこと言ってない」
「都合のいいように記憶を勝手にいじらないでください」
先ほどのお返しだ。しかし亜里沙も負けていない。笑う広海の左足を思い切り踏みつける。地味に痛い。
そんな阿呆らしい喧嘩をしながらも、二人夢中になって水槽を覗いていた。
しかし幸せな時間は唐突に終わりを告げる。体が、何かに引っ張られるような感覚。水槽が急にぐにゃりと歪んだ形になり、魚達の姿が段々ぼやけて消えていく。足元の感覚が失せてきて、頭がぼうっとしてきて、やがて貧血を起こしたかのようにその場に倒れた。
*
雀の鳴く声が聞こえた。外から来る日の光を拒絶した、薄暗い部屋。硬い床、こもった空気、散乱しているゴミ。
自分は先ほどまで水族館に居たはずなのに。ここはどこだろう、亜里沙の姿が見えない。何で部屋はこんなにも暗くて汚いのだろう。気のせいか、部屋が縮んでいるような……。
霧がかかったようにぼやけている頭の中。しばらくすれば霧は晴れ、先ほどまで居た世界が「夢」の中の世界であったことを思い出す。ここは現実の世界。目を覚ますのと同時に、あちらの世界から呼び戻されてしまったのだ。
あの蝶は、虫かごに入っている。
ゆっくりと広海は起き上がる。ここは亜里沙の居ない世界だ。手のひらをじっと見つめる。彼女を抱きしめた時の温もりがまだ残っている気がする。ゴミと一緒に床に放置していた携帯を手に取る。日にちは、眠りについた時から一日しか変わっていない。夢の世界で何日過ごそうが、現実の世界では眠りについている間の時間しか経っていないようだ。
また、夢の中でのことを忘れることも無かった。どんな会話をしたか、何を食べたか、何をしたのかはっきり覚えている。
夢の中で笑っていた友人は、大学へ行こうとしない広海を心配し、今手に持っている携帯にメールを送ったり、電話をかけたりしている。未読のメッセージが随分とたまっていた。友人だけではない、母からのメールや電話も……。
久しぶりに、携帯を開き溜まったメッセージを読んだり、留守電に入っているメッセージを聞いたりした。彼のことを心配する友人や親の思いがそれには込められていた。亜里沙が死んだ後、友人や家族のことなどどうでもよくなっていたが、夢の中での彼らの姿を思い出すと、どうでもいい存在などと思えなくなってくる。
広海はゆっくりと立ち上がり、汚くなった部屋を掃除し始める。何となく、そうしたいと思ったから。
こもった空気を外に出し、明かりをつけ、ゴミを片付ける。たったそれだけで不思議と気分が軽くなった。
あの世界は夢の世界。現実の世界では無い。それを思うと残念だし、胸が苦しくなる。
しかし、また眠ればあの夢を見る事が出来る。今またすぐに眠ることは出来ないが人間は必ず睡眠をとる。夜になれば眠くなり、あの蝶の鱗粉を浴びて眠りにつけば……。
そう考えるとこの世界で生きることも苦では無いと思った。一日を乗り越えた先には幸せな時間が待っているのだから。