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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
鬼灯一夜
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鬼灯一夜(2)

 外から若い娘のすすり泣く声が聞こえ始めたのは、それから二、三分後のことだった。聞いているこっちが悲しくなるようなその声は、きっと外の空気をますます冷たいものにしているであろう。

声は段々店の方に近づいてきている。どうもこれからこの店に入ってくるようであった。


 その声と一緒に、やたら威勢の良い女の声が聞こえてくる。しくしく泣く声も充分大きいが、女の声はその比では無かった。何を喋っているのかはっきりと分かる位であった。

 どうもその女は、泣いている女を慰めているらしい。しかし女が何か言えば言う程、泣き声は大きくなっている。どうも慰めが慰めになっていないようだ。

 更にもう一人――こちらは少年(といっても年は爺さんどこの話ではないのだろうが)――のようであったが、こちらはあまり大きな声を出していないから何を言っているかまでは分からない。


 しかし店の中に居た者達は今から来るのが誰であるのか理解したようだった。

 外で騒いでいる三人は常連客であったからだ。

 やがて、戸ががらりと開いてその三人が入って来た。表に飾ってある提灯の暖かい鬼灯色の灯が、氷水できゅっと体をしめられた彼等を優しく照らしている。


「いらっしゃい」

 主人は、そういって三人を店の中に招き入れた。三人は軽く主人に挨拶すると、それぞれ席に座った。女は鞍馬の右隣、泣いている娘がさらにその右隣、少年がさらにその右隣に。


 泣いている娘を慰めていると思われる女は、艶やかな美人であった。

 黒い髪で結ったまげにささっているのは金銀で作られた飾りつきのかんざし。

 蝶や花の描かれている派手な赤い着物をわざとはだけさせ、豊満な肉体を惜しげもなくさらけ出している。若い娘には決して出せない大人の色気漂う、肢体。その体にも、顔にも白粉が塗りたくられている。


 一方泣いている娘はといえば。江戸時代の城下町でお団子でも売っていそうな感じの子であった。自分を慰めている女とは大違いで……全くといっていいほど色気というものが無かった。ついでに顔も無い。顔が無いというのは眉や目、鼻、口という本来顔についているはずのものが一つもついていない、という意味。つまり……この娘はのっぺらぼうである。外見年齢は十六、七といったところか。もっとも顔が無いからはっきりとそう言うことは出来ないが。


 その娘を困ったような顔をして見つめているのは、十一、二歳位の少年。

 彼女を見つめる目は三つある。お寺にいる小僧のような格好。


 主人は、何も言わずに三人の前に豚の角煮を入れた小さな器を置いた。

 ことことに煮込まれて柔らかくなった豚肉と葱のはいったそれからは、とてもいい匂いが漂ってきて、彼らの胃を刺激する。柳が、三人に日本酒を注いだコップを差し出した。女と坊主は礼をいったが、娘だけは何も言わずえんえんと泣き続けている。


 女が、いい加減うんざりしたような表情を浮かべる。


「全く、いい加減泣き止んでおくれよ。そんなに泣いていると、目が兎みたいに真っ赤になっちまうよ。ああ、ごめんごめん、あんたにはそもそも目がなかったねぇ」

 女がそう言うと、娘はますます大きな声をあげて泣き出した。女は、嗚呼しまったと苦い顔をした。


「ああ、あんたに目がない口がない鼻がない胸がない色気がないって言葉は禁句だったねぇ」


「胸がないと色気がない、は余計です! うわあん!」


「そうはいったって、仕方ないじゃないか。事実あんたの胸はぺったんこのぺったぺた、鯉をのっけたまな板だってびっくりするほどのぺったんこぶりなんだからさぁ。色気だってちっともありゃあしない」

 確かに。ぴいぴい泣いている娘の胸はぺったんこ。一方彼女に残酷な真実を告げている女の胸は、大きい。少したれているがそこがまた色っぽくて、良い。


「そこまで言うことはないじゃないですかぁ! 大体、私の胸が小さいんじゃなくって白粉おしろいさんの胸が大きすぎるんです! 絶対そうです、そうじゃなくっちゃ私やってられません。ああ、もうなんだかますます悲しくなってきたじゃないですか」

 泣き声は、大きくなるばかり。白粉と呼ばれた女が口を開けば開くほど事態は悪化していく。

 もし娘に目があったら。きっと今頃真っ赤になっていて、涙がぼろぼろこぼれ落ちていただろう。

 もし娘に鼻があったら。そこから鼻水が滝のようにざあざあ出てきただろう。


 三つ目小僧は、甘めに味つけされた、口の中ですうっと溶ける位柔らかい豚の角煮を口いっぱいに頬張り、飲み込み、そして感嘆の声をもらしたのち、ため息をついた。


「もう、いい加減に泣き止んだらどうですかむじなさん。その泣き声を聞きながら食べると折角の料理が不味くなってしまいます」


「そうだよ。さっさと泣き止みな。鬼灯の旦那と柳の姐さん特製の極上料理が、あんたの泣き声で台無しになっちまうよ」

 と、三つ目小僧の言葉に賛同する白粉を、彼はぎろっと睨んだ。


「白粉さんも白粉さんだ。あんた、一言多いんですよ。泣いている人をいじめてどうするんですか」


「うるさいねえ、このガキは。そうは言ってもしょうがないだろう、あたしは目もない鼻もない、口もないつんつるてんの顔なんて嫌いだなんて理由で男に振られた奴の気持ちなんて分からないんだからさ」


 言い訳がましい白粉の言葉に、狢は泣き声を返す。自分が振られてしまった時のことを思い出してしまったのだろう。ほら、またそうやって!三つ目は軽く舌打ち。

 口の周りについたもつ煮込みの汁を弥助がぬぐい、口をはさむ。


「いやはや、入ってきてそうそう五月蝿いっすねえ。白粉がこの店に来るといつも五月蝿くなる」


「ちょっとお待ちよ、(たぬ)(こう)。今回うるさいのはあたしじゃなくて、狢じゃないか」

 白粉は、むっとして弥助を睨みながら狢の顔を指差した。弥助は、白粉に睨まれても全くひるむ様子はなく、へらへらと笑っているだけだ。


「でも、狢がここまで大きな声あげて激しく泣いている原因はあんたにあると思うんですがねぇ。あんたが余計なことを言わなければ、狢だって今頃はもう少し大人しくなっていたんじゃないか? お前は、口は悪い、頭は悪い、酒癖は悪い、悪い悪い女だから」


「なにおう、この狸公め。化け狸の分際で、このあたしを馬鹿にするのかい!?」

 かんかんに怒った白粉の首がにゅるりと伸びた。蛇のようにうねっている首の先についた顔は今弥助の眼前にある。


「たかが三百数十年しか生きていない、首を伸ばす以外能のない奴を馬鹿にしてなにが悪いんだ?」

 一切ひるむ様子を見せず、ただけたけた笑いながら酒を飲む。

 白粉の顔は自分が着ている着物の色と寸分違わぬ色に染まっている。眉はつりあがり、口は歪み。


「なんだって! ああ、本当に腹の立つ奴だよう。がさつで汚くって、腕力だけがとりえの馬鹿狸のくせにさ。全く……あんたに惚れられた人間の小娘が可哀想だよう」


「あっしは、あんたのようながさつで乱暴で、厚化粧で、声と態度と胸は無駄にでかくて、取り柄といえば首を自由に伸縮させられることだけなんていう女に惚れられちまった、鬼灯の主人の方が可哀想だと思うけどね」

 白粉の顔が先程以上に赤くなる。三つ目が今食べている刻み生姜がアクセントになっているタコ飯に入っているタコも驚く位に、赤い、顔。


「ば、ばか! 本人の目の前で何てことを! ああ、やっぱり嫌いだよ、お前みたいな化け狸なんて! おのれえ……今すぐあたしのこの自慢の首で絞め殺してやろうか」


「やれるもんならやってみろ。どうせ、出来ないだろうよ。何故って? そりゃああんたがあっしを絞め殺す前に、あっしがあんたの自慢の首を引きちぎるからさ」

 弥助が白粉の首をぎゅっとつかむ。本気は出していない。だがそれでも彼女に弥助を絞め殺すことを諦めさせるには充分すぎる威力があった。白粉は苦しげな表情を浮かべ、ちくしょう!と叫びながらその首を元に戻す。

 その間も狢は泣き続けている。鞍馬と三つ目は頭をかきながらはあ、とため息。


「うるさいねえ、いつまでもぴいぴい泣いているんじゃないよ!」

 弥助に押し負けていらいらしていた白粉は、隣に座っている狢の頭をべしん!と叩く。良い音と共にくずれる狢のまげ。


「どれだけ泣いてもねえ、あんたが振られたという事実が変わるわけでもないんだからさ!」


「だって、だって」


「うるさい! いい加減泣きやみな!」


「結局手を出すのか。暴力で何でも解決出来ると思って。流石単細胞ようか……痛い!」

 言葉は途中で遮られた。意識が吹き飛んでしまう位大きな衝撃を頭に受けたからだ。鞍馬はげんこつを解き、軽く振った。


「貴様はもう黙っていろ。狢よ。そんなに泣くな。我もな、そんなに鼻が長くて真っ赤な顔をした人なんて嫌いだという理由で振られたことがあった。だが、我のこの顔を好きだといってくれた者もいる。きっとお前さんも、お前さんのその顔が好きだといってくれる人に会えるだろうさ。それまで辛抱するがよろしかろう」


「旦那、そんな理由で振られたことがあったんすか? そりゃあ傑作だ! おまけにその顔が好きだなんて言った人もいるんだって? 物好きというか、美的センスが大分あれというか」


 先程殴られたばかりだというのに、少しも懲りない。酒の勢いもあるのだろうが……腹を抱え、笑い出す。その目にはうっすら涙。

 そのわき腹を耐え難い激痛が襲った。笑いすぎて痛くなったのではない。……鞍馬に殴られたのだ。笑い泣きがただの泣きに変わるのにそう時間はかからなかった。

 一言多い性格なのは、白粉だけではなさそうだ。白粉は、憎き敵である弥助が酷い目にあったのが余程嬉しかったのか、涙を流しながら笑っている。つい先程までの弥助と同じように。


「ざまあないねぇ、狸公。くっく、こりゃあいい酒の肴になるよう」

 そういって豚の角煮を頬張り、酒を一口。弥助が苦痛に顔を歪める様子を見て、元々美味しい料理がますます美味しくなったらしい。浮かべるのは至福の表情。


「痛いっすよ、鞍馬の旦那。体に穴があくかと思ったっす」


「自業自得だ。これに懲りたら黙ることだ。……さて。狢、元気を出せ。今宵は飲み明かそう。そして嫌なことは忘れるが良い」


「ひっく、ありがとうございます鞍馬の旦那様。そうですよね、きっといつか私のこの顔を好きだといってくれる人が現れますよね。私、もう少し頑張ります。人生長いですものね」


 狢は鞍馬の優しい言葉のおかげで気持ちが落ち着いたのか、泣くのをやめた。

 皆、ほっと一息つき、肩を撫で下ろす。


「まあ、あたしの手にかかればざっとこんなもんさ」


「あんたは何もしていないじゃないっすか」

 むしろ事態を悪化させた側にいる。それは弥助も同じなのだが。



 ますます濃くなる、闇。黄金色の星が氷水の中に浮かんでいる、きらきらぎらぎらと輝きながら。一緒に浮かぶのは薄荷飴色の、月。

 何もかもが凍りついて、しんと静かに身を震わせながら、ただ、ひたすらに、いずれ訪れる温もりを、待っている。

 外がひたすら待ち続ける温もり。それが『鬼灯』にはある。むしろ、それしか無い。蜜柑の様な色をした照明、美味しい酒や料理、そして個性溢れる妖達の騒ぐ声、それらが小さな店の中を暖かいもので満たしているのだ。


「ようやくゆっくり酒が飲めるよう。鬼灯の旦那、酒をおくれ。うんときついものをお願いするよ」

 わざとらしい上目遣い。わざとらしく寄せる胸。


「はいよ。柳、いっとう強い酒を白粉さんにやっておくれ」

 そういうと白粉は不満そうに口を尖らせる。


「あら、いやだよう。あたしは柳の姐さんからじゃなくって鬼灯の旦那からもらいたいんだ」


 白粉は主人に熱く艶かしい(というか異様にねちっこい)視線を浴びせつつ、その豊満な体をくねくねと動かしてみせた。隣に座っている鞍馬はその姿を見て胸焼けしたのか、おええ、と一言。


「困りましたな。別に、私からもらおうと柳からもらおうと味なんて変わらないのに」


「変わりますよう。ねぇ、この杯にくいくいっと酒をついでおくれよ、ね、ね? いいだろう別にさあ」


「まあまあ、私は嫌われているようですね」

 柳は困ったように笑い、白粉が口を尖らせる。

 

「別にそういうわけじゃないけどさあ」 

 仕方無いねと呟き、主人は店にある中で一番きつい酒をついでやった。白粉はそれを満足そうな笑みを浮かべながらじっと見つめていた。白粉はなみなみと注がれた酒をぐいぐい飲み干す。


「ちょっと白粉さん、そんなにきつい酒を一気に飲んで大丈夫なの」


「いいんだよう。あたしはあんたと違って大人だからねえ、これ位わけないのさ」

 とか何とか言っているが、その顔は早くも赤くなっており、目も若干とろんとしている。


「僕は子供だって言うんですか? 失礼なこと言いますね。いっておきますが、あんたより僕の方が年上ですからね」

 

「生きた年数なんて関係ないさ。それに年上といったって、ほんの数年の差じゃないか、ええ? 長く生きているから大人だなんて……本当、子供だねえ。そんなんだからいつになってもチビ助のままなんだよう」


「小さいとか大きいとか、そんなの関係無い!」

 三つの目が白粉を睨んだ。どうも背が低いことを気にしているようだ。対して、べろを出し馬鹿にしたような態度をとる白粉。


「どっちもどっちだと思うけれど」

 これは弥助の言葉。

 それに続くのは、鞍馬だ。


「貴様もな。……全くどいつもこいつも」

 そう言う彼は自分のことを立派な大人だと思っている。すぐ手や足が出る彼が真実大人であるかどうかは……微妙であるが。


 舞台は変わって。我々人間の住む、私達から見れば『こちら側』となる世界にある小さな町――桜町。

 町は眠りにつく準備をしていた。まだ完全には眠っていないが、そのまぶたは大分重くなっている。


 黒く塗りつぶされた道路、その道路を照らすのは心もとない光を放つ街灯で、中にはぶおんぶおんと不吉な音をたてながらついたり消えたりを繰り返しているものもある。その周りを飛ぶ虫達の羽音もまたぶおんぶおんといっていた。


 暗闇と静寂、凍てつく冷たさの支配する町を走っている少年がいた。

 年の頃は十一、二歳。黄色い手編みの帽子と赤いマフラーが可愛らしい。羽織っているジャンパーの色は闇の中に溶けて消えてしまいそうな青。

 少年が腕を振る度赤と茶――手袋とカバン――の線が弧を描きながら走る。


 少年は、走っていた。正確にいうと……逃げていた。マラソン大会の練習をしているわけでも、趣味のジョギングをしているわけでもなかった。少年は、逃げているのだ。彼を追いかけているものから。


 『それ』は人間ではなかった。明らかにこの世のものではない――異質なものであった。

 一言で説明するなら、黒く細かい粒子が集まって出来た一反木綿。そこに赤い目と口がある。更に簡潔に説明するのなら。一反木綿ブラックバージョン。

 彼は「むけー」とか「うきょー」とか奇妙な声をあげながら少年を追いかけている。決して速くは無い。だが、まくことが出来る程遅くも無い。

 つかず、離れず。一定の距離をおいて彼の背後にいるのだ。


 少年の口から漏れる息。それは月の光にも似た色をしていた。冷たい、とても冷たい色だ。だがその息を吐き出している彼の体は、熱い。

 きっと自分は幻覚を見ているんだ、後ろには誰もいないのだ、そう思いながら幾度と無く後ろを振り返る。その度、塾の帰り道に見てしまった『それ』が幻覚でも何でもないという現実をつきつけられた。


(やっぱり本物だ、気のせいなんかじゃない!)


 助けを求めようにも、声が出ない。運が悪いことに、逃げている間誰かと鉢合わせすることもなかった。桜町は都会よりもずっと早く眠りにつく。この時間に外を出歩いている人など殆どいない。勿論多少はいただろうが。

 もやもやお化けはいつになっても消えない。


(僕が力尽きるのを、待っているんだ。もし、もしあいつに捕まったら)

 心が折れてくると、そういう悪いことしか考えることが出来ない。悪いことを考えると、足が重くなる。時々バランスを崩しそうになった。


(あいつは面白がっているんだ。きっとそうだ。だってずっと笑っているもの。バナナみたいな口から聞こえる声。あれは笑い声だ。……ああ、これが夢だったらどれだけ良いか!)

 しかし手で握りつぶされたような心臓や、血を流し込まれたようになっている喉を襲う痛みが、これが夢ではなく現実であることを告げていた。


(あんな奴がこの世界にいるわけが無い。けれどこれは夢じゃない。それじゃあやっぱり後ろにいるあいつは本物で……くそ!)

 この町は不思議なものを惹きつけやすいんだ、と祖父が言っていたのを思い出し、少年は咳きこんだ。 祖父の言葉が嘘では無かったらしいことを身をもって知った。


 少年は逃げた、ただひたすら逃げた。足がふらついても、吐き気がしても。

 時々諦めそうになりながら、それでも、走った。


 死に物狂いで走り、走り、走って。

 彼は、辿り着いた。辿り着いてしまった。


(うわ、お化け通り!)

 少年の走るスピードが少し遅くなった。


(滅茶苦茶に走っているうちに、こんな町の外れまで……しかもよりにもよって……!)


 お化け通り。それは桜町の外れ――北西――桜山の近くにある。

 ここまで来ると店はおろか、民家すら殆ど無い。特にこの辺りは群を抜いて寂しい所であった。


 ぽつんと寂しく建っている、小さな駄菓子屋と雑貨店。その店の間が『お化け通り』への入り口。

 二百メートル近くある道を挟みこんでいるのは木造の民家。

 いや、正確に言えば民家「だったもの」だ。現在この通りにある民家に住んでいる人間は誰もいない。

 そこにある建物は、最早建物――ましてや家などとは決して呼べないような代物であり、穴が空いている、腐っているのは当たり前。家と外の境界線である戸は剥がれ落ち、硝子は割れ。酷いものは跡形も無く崩れ落ちている。

 家の残骸。骨、骸。土に還ることも無くただそこにあるものたち。

 死んでいる。死んでいるはずの、ものたち。


(けれど)

 思わず立ち止まり、少年は両の拳をぎゅっと握りしめる。心臓が、頭が痛い。


(誰も住んでいないはずのあの通りには。……『出る』んだ)


 出る。それがこの骸達が葬り去られることなく、放置され続けている原因だ。

 彼等を葬ろうとした者、遊び場、たまり場、肝だめしのスポットにしようとした者達は今まで沢山居た。しかしそうしようとした者達は皆逃げるようにここから立ち去り、二度と関わろうとしなかった。


 ここには『出る』らしいのだ。妖怪や幽霊と呼ばれる者達が。彼等はこの場を侵そうとした者達に牙を向くのだという。

 ある者は怪我をし、ある者は病気になり……。


 やがてこの恐ろしい場所は『お化け通り』と呼ばれるようになり、誰も近寄らなくなった。


 少年の、ほてっていた体が急速に冷たくなる。震えが止まらなくなり、心臓を襲う痛みを吐き出すように咳き込んだ。

 近づく化け物。目に飛び込んでくるのはお化け通りの入り口を塞いでいるお粗末なバリケード。駄菓子屋も雑貨屋、ぽつぽつと建っている民家。


(どうしよう。助けを求めなくちゃ、叫ばなくちゃ)

 だが咳は出るのに声が上手く出ない。「あ」と言うことさえ出来なかった。


 がた、がた。

 風が吹き、バリケードが音を立てる。その音が少年の心臓を飛びあがらせる。


(どうしよう、どうしよう!)

 どうしてよりにもよってこんな所に来てしまったのだろう。塾がある場所から家まではそんなに距離は無かった。だがお化けが家のある方向に現われたものだから、正反対に逃げるしか無かったのだ。そして右に曲がり、左に曲がり……それを繰り返す内、家から随分と離れ、一番近づいてはいけない所にたどり着いてしまった。

 もしかしたら、上手いこと誘導されたのかもしれない。


(僕は、あいつと、お化け通りにいるお化けに食べられてしまうのだろうか)

 妖怪だの幽霊だの、そんなものは信じたくない。だが実際にその目で見てしまった以上、否定することは出来ない。

 お化けは近づいてくる、ゆっくり、ゆっくり。


(どうしよう……!)


「何をしているんだい」

 背後から、声が聞こえた。悲鳴とも嗚咽ともつかない変な声が微かに出る。

 振り返るとそこには一人の男が立っていた。あのお化けでは無い。


 二十代後半から三十代前半といったところか。背は特別高くも低くも無い。

 月の光の様な白い肌、あごの小さいその顔に埋め込まれているのは紅玉(ルビー)の瞳。

 髪の色は藤色で、手で触れたらさぞかし心地良いだろうと思われる位さらさらしている。長さは腰……いやそれ以上ある。異様な色であるにも関わらず、全くといっていい程違和感が無い。

 髪より少し濃い色の着物に、黄色い帯。


 男の体は月の光を受けて、銀色に輝いている。その姿は、この世のものとは思えないくらい神々しくて、美しい。あまりに美しすぎて、気味が悪い。男は、少年をじっと見つめていた。この冬の空のように冷たい目で。


「誰とも会うことは無いだろうと思いつつ、一応気配を消しながら歩いていたら……驚いたよ。……坊やがこんな夜遅くに、こんな所で何をしているんだい?」

 柳の葉の様な瞳が少年を掴んで離さない。ぱくぱくと口を動かしてみるが、上手く喋れない。それは冬の寒さのせいなのか。それとも恐怖か、男とこちらに近づいてきているお化けの魔力か。


「君は人間ではなく、鯉なのかい? ただ口をぱくぱくさせているだけじゃ、何も分からないよ」


「あ、あん、た、だ、だれ」

 やっと出た声。だがそれは酷く弱弱しいもので。


「誰って。私は私だよ。……で、君は何をしているんだい? まさか迷子というわけではないだろう」


「ば、ばけ、ばけものに、おわ、れて」


「化け物? ……ああ」

 後ろをふと振り返った男は事情を察したらしい。おばけの動きが一瞬止まる。


「ああ、あれね。あまり強い力を持たないゆえに、獲物を弱らせないと食べられないような雑魚だ。……雑魚っていうのは、ある意味とても強い者よりたちが悪い。弱い癖に突っ込んでくる。おまけにしつこいんだ」

 参ったな、と細い指で頬をかく。といっても真実参っているようには少年にはどうしても見えなかった。

 しばしの間思案した後、男はため息をついた。


「面倒なんだよねえ、ああいう奴等の相手をするのって……まあ私はとても優しいからね。今回は特別に助けてあげよう。坊やは運が良い。私は普段『こちら』からあの店に向かうなんて面倒なことはしないんだ。『あちら』から直接行った方が圧倒的に早いからね。今日は気分的にこちらから行きたかったものだから……。まあこんなこと説明しても意味は無い。少年、これを貸してあげる。いつか使う日が来るだろうと思ってずっと持っていたんだ」

 一人で訳の分からないことを喋っていた男は、呆然としている少年の手を掴み、何かを握らせた。男の手はとてつも無く冷たかった。だが彼が握らせたものはとても暖かかった。


 おそるおそる少年は手を開き、握らされたものを見る。

 それは一個の鬼灯であった。だが普通の鬼灯とは少し違う。中に入っている実が、橙がかった、夕陽のような色の光を放っていたのだ。その光は少年の寒さと恐怖で強張った心を暖め、元通りにしてくれた。


「それを握って、君達が『お化け通り』と呼んでいるあの道を進むんだ」


「え」

 家の亡骸がごろごろしているあの呪われた道を。気が遠くなり、少年はよろめく。


「まあ、多分大丈夫だろうさ。『あの』辺りにいるのはそう凶悪な奴等ではない」

 近づいた者に災いをもたらす妖怪達が凶悪でないはずがない。少年は思わずそう言いそうになった。しかしそれは男の視線によって遮られる。


「今の状態で人間に助けを求めようとしても無駄だよ。あの雑魚の力がそうさせているんだ。さあ、早く。しばらく進むと左手に一軒の居酒屋が見えるはず。そこには鬼灯――鬼の灯りと書いて鬼灯ね――という文字が入った暖簾が掲げられているはずだ。その店に入って、かくまってもらうんだ。鬼灯の主人はきっと君を見捨てやしないだろうから……まあそこまでいけば安全だよ、とりあえずはね」

 さあ、分かったら早くお行き、と少年はその細く冷たい手で体を押された。

 どうやら前へ進むより他ないらしい。


 少年は再び走り始めた。ただ、がむしゃらに、ろくに周りの風景も見ずに。

 ゆえに彼は気がついていない。そこにある風景が、本来あるはずのものとは違うことに。

 彼は今『お化け通り』にいない。いや。

 『こちら』の世界から……姿を消し『向こう』の世界へ足を踏み入れてしまったのだ。


「さて」

 少年が『向こう』に行ったことを確認した男は体の向きを変え、律儀にそこで待ってくれていた化け物を正面から見据える。


「やれやれ。面倒なことになってしまった。だが、仕方が無い。さっさと終わらせてしまおう。そして『鬼灯』で美味しいきつねうどんと、いなり寿司を沢山食べるんだ」

 誰に語るわけでもなく、小さな声で呟く。そして男はどこからともなく、金色の扇を取り出した。その扇には柔らかい色をした桜の花が描かれていた。


「お前なんて、この扇で充分だ。弓を使う必要も無い」

 実に優雅な動作で扇を持つ右手を振り上げ、そしてすうっと振り下ろした。

 その軌跡は弧を描き、金色の光を生じさせる。その光が消えるか消えないかの間に、男を中心にして冷たい風が吹いた。同時に現われたのは無数の桜の花びら。淡い色の花びら、甘い香り。


 右へ、左へ、舞い、踊り。月光を受けて煌くその花びらは天上より舞い降りた麗しい天女、薄桃の羽衣をたなびかせながら、男めがけて突っ込んできたお化けを包み込む。鈍くなる化け物の動き。それでも化け物はがむしゃらにもがき、花びらを振り払った。


「何と、醜い。もう少し美しい振る舞いが出来ないのかい、お前は。桜の花のように、美しく散っておくれよ。……醜いものは大嫌いだ」


 化け物が奇声を発する。すると、お化け通り周辺にひそんでいたらしい彼の仲間と思しき者達が次々と姿を現し、男を取り囲んだ。

 

「どいつもこいつも、弱そうだ。けれど弱い奴程諦めが悪い。嫌い、嫌いだよ、醜いものは」

 言ってから、男はふっと笑う。艶やかな唇が歪んだ。


「いや、ごめん。間違えた」

 男は右足を軸にして、くるりと回る。髪が、袖が、裾が、くるくる回る。ふわり、ふわりと、美しく、妖しく。

 彼の周りを取り囲む、桜の花びら。冷たい春が、今ここにあった。


「醜いものは大好きだ。あがけ、醜く。そして私を大いに愉しませておくれ」


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