遷都バレンタインデー(12)
*
「やっと収まった……」
世界にあるもの全てを震わせる鐘の音が止み、その音をうんと詰められて麻痺していた耳が元に戻った頃、柚季はそう呟き、耳に残っていた最後の音を出すようにぶるると首を振る。買い物を終え、相変わらずな街の様子に辟易しながら歩いていた時に突然鳴った鐘の音。少なくともこの辺りにあのような音を発するものはないはずだった。ならば、恐らくあれは渡遷京のものなのだろう。
「もう、一体何なのよ」
「京遷りの鐘、だよ」
柚季の独り言に答えるその声には聞き覚えがあった。振り返ればそこには予想通りの人物が立っており、みるみる内に彼女の顔は不機嫌になる。
「げ、花火……に静流」
「げってなんだよ、げって。酷いなあゆずきちってばさあ。そんな化け物見るような目で見ないでくれよ」
「実際化け物じゃないの! 貴方達って妖と同じようなものでしょう? 妖が化け物じゃなかったら、何だって化け物じゃなくなるっての」
「そう言うなって。しっかし本当、酷い顔。可愛い顔が台無しだぜ? まあ、俺ってば可愛い女の子が恐怖とか嫌悪とか怒りで顔を崩すの見るの、好きだから全然堪えないや。むしろご馳走様って感じ! あらあら、まだ話している途中じゃないのゆずきちってばおいていかないでよ」
気色悪いことをにこにこ笑いながら言っている花火と、分かる分かるという風に頷いている兄を置いて柚季はさっさと歩いていく。その足音に擬音をつけるとすれば、確実に『どすん、どすん』であろう。その音は二人を拒絶する音だったが、そんなもので大人しく退散するような兄妹ではない。
「ゆずきち待ってよ、もっと俺達とお話ししようぜ」
「冗談! もう貴方達となんて、一分だって喋っていたくない。喋りたいなら、速水辺りと喋っていれば? あいつなら喜んで話し相手になってくれるでしょうよ! この世界のことについても教えてくれるだろうしね! リクエストすれば、可愛い女の子にだってなってくれるんじゃない? 決まった形をもたないらしいから」
「だから、俺は喜んで協力してくれる子より、嫌がる子を無理矢理協力させる方が好きなんだって。いやだなあ、そんな気持ち悪いなんて、へっへ、もっと言っておくれよ。俺は可愛い子に罵倒されるの、好きだぜ。それにどうせ明日にはお別れなんだ、残り僅かな時間仲良くしようよ、ね?」
その言葉に柚季は容赦なく進めていた足を止める。背後にいる花火は「あ、やっと止まってくれたとにこり笑顔。
「……明日にはお別れ?」
「そう、お別れ。さっき鳴った京遷りの鐘っていうのは、明日の朝ここを離れて次の土地へ行きますよってことを知らせる為のものなのさ。いつも前日の昼頃に鳴る」
そういえば昨日静流が知らせの鐘がどうとか言っていたな、と柚季は昨日のことを思い返す。彼の言っていた知らせの鐘(京遷りの鐘)とは先程のあれのことだったのか。唐突に現れた彼等、別れもまた随分と唐突なものであった。あまり唐突だったから、花火からその事実を告げられても何の感情も湧いてこない。嬉しい、という思いさえも。本当に随分唐突ね、と正直に言ったら「うん」と花火は頷いた。
「昔は三日前の昼に鳴っていたんだけれどね。ただ例の事件が起きてからは、皆が変な気を起こす間もなく移ってしまおうってことになってね、こうして前日の昼に鳴らすようになったんだ。ま、それでも約一日の猶予はあるからねえ……結局あまり意味が無いような気がしないでもないけれど。土地を離れてからろくでもないことをしでかす奴だっているしな。でもこれ以上は短く出来ないようだし、今更元に戻したって何がどうなるわけでもないから。さて、これから大変だぞ俺達は。危ないことする奴が出てこないか、目を光らせて……後、記録もまとめなくちゃ」
「そう、それじゃあさようなら。頑張ってね」
「まあまあそう言うなってゆずきち。もうちょっとお喋りしようぜ」
「貴方達のもうちょっとって、約半日じゃないの! 冗談ぷうよ!」
冗談ぷうなんて可愛いなあ、という花火とにこにこ笑っている静流を無視し、柚季は早足で歩く。そうしたところで彼女達を振り切れるはずがないこと位は分かっているが、私達は貴方達ともう関わりたくありません、という意思表示はきちんとしておきたかった。
空を限りなく独楽に似ている虫がくるくる回りながら飛び、成人男性程もあるでんでん太鼓が腹をどんどこどんと鳴らしながら歩き、どう見ても腸にしか見えない生き物が蛇の如き動きで地面を這い、男が角の生えた兎を売り歩き、建物までぬめぬめしている、ぬめぬめ料理専門店から女が出てきて、梯子を使いながら桶に入っていた見るからにぬめぬめした何かを、壁や屋根に塗りたくり、空から『お別れ饅頭』なるものが降り、それらを住人達がわあわあ言いながら拾う……。相も変わらずの変てこ世界とも明日でお別れ出来ると思ったら、今頃喜びという感情が湧いてきて、ほっと安堵する。渡遷京が消えたところで『異形の者』との関わりも消えるわけではなく、非日常的な日常は変わらず訪れるけれど、それでもこんないかれた風景を毎日見たり、うるさい兄妹に絡まれたりしなくなるだけ幾分ましになることだろう。
かあんかあん。空めがけて、ハンマーを打ち下ろしている男がいる。そこには確かに何も無いはずなのに、何か固いものがあるかのような音がし、またある地点より先にそのハンマーが進むことは無い。あれは一体何をやっているのだろうな、とぼうっと思っていると後ろを歩いていた花火が答えてくれた。
「あれは『打ち固め』っていうんだよ。俺達の世界は、こうして別の土地と重なっていなきゃ存在出来ない位儚くて、脆い存在だ。重なったって、その脆さを完全にどうこうは出来ない。脆い空間は時に緩み、こうぐにゃっと柔らかくなるんだ。空間を構成している粒子同士の結びつきが弱くなるとかなんとかって話みたいだけれど、よく分からん。空間が柔らかくなると、どこからかよく分からないけれど、なんか良くないものがこっちに入り込んでくるんだそうだ。そいつはこの京に住んでいる奴に悪影響を及ぼすし、空間を蝕んでますますぐにゃぐにゃにする。ぐにゃぐにゃになった空間はやがて形を保てなくなり、消滅する。それを防ぐ為に、彼等が柔らかくなった空間を特殊な道具で打つことで再び固めるんだ。で、中に入り込んだ悪いものは、別の奴等が消し去る」
「何かよく分からないけれど、結構大事な作業なのね。実際消えちゃった京ってあるの? というか、どこか一つの渡遷京が駄目になったら、別の渡遷京も駄目になっちゃうの?」
「あるらしいですよ。どうも原因は星読みが次の土地へ移る時期を読み間違えたことにあるらしいです。たった数日ずれただけで空間の緩みがとてつもない速度で進行し、打ち固めが追いつかない状態になったそうです。そして結局人々は京を放り、別の渡遷京へと移ったのです。……移りそびれて、そのまま京と共に消えてしまった人もいるそうですが。その時、他の渡遷京にも多少の影響はあったそうですが、消滅するには至らなかったそうです。どこか一つの渡遷京が滅びたからといって、他の渡遷京も滅びるわけではないようです。もっとも全く影響を受けないわけではないみたいですがね」
そう答えたのは静流だった。二人は柚季が渡遷京のことにほんの少しでも興味を抱いたことを嬉しく思ったのか、聞いてもいないことを次々と得意げに喋りだす。大変迷惑である。これが幼い子供とかならまだ微笑ましく思えるかもしれないけれど、うざったい大人二人にドヤ顔で、こちらの都合も考えずどうでも良いことを語られても、うざいだけである。前方からやって来た三つ目の老婆が花火兄妹に気づき、言葉を交わす。その会話を聞く限り、二人の仕事ぶりはすこぶる良いらしく、彼女は随分二人のことを好意的に見ているようだった。
「みつ婆、そっちの目の具合はどうだい、大分良くなったかい」
みつ婆と呼ばれた老婆は、額にある第三の目に手をやりながらこくりと頷いた。静流曰く、彼女は緩んだ空間から入り込んだ悪いものにより、長い間目を患っていたらしい。京のどの辺りの空間が緩んだか、それによって被害を受けたものはいるか、などといったことを調べるのも花火達の仕事であるらしい。
「花火ちゃん達、これからまた忙しくなるだろう。あまり無理をして、この前みたいに倒れることなんてないようにね。花火ちゃん達はいつも頑張りすぎて、時々休むことを忘れてしまうみたいだから」
「大丈夫、大丈夫。ありがとうな、みつ婆。それじゃあお大事に、早く目、完治するといいな」
そう言ってみつ婆と別れた後、花火は普段から持ち歩いている記録帳にみつ婆のことを書き記す。へえ、ちゃんと仕事しているんだ、と柚季が呟くと当たり前じゃんと胸を張る。曰く滅茶苦茶仕事熱心であるらしいが、俄かには信じがたく。
「というか、貴方達でも倒れることがあるのね。妖達ってとっても丈夫だから、働きづめでも全然平気だと思った」
「そりゃあ人間よりは余程丈夫だし、睡眠や飲み食いだってうんと少なくて済むけれどさあ。流石に休む間もなく机に向かって延々と文字を書き続けたり、記録の確認をしたりしていたら参っちまうよ。本当地獄だぜ、大変ってもんじゃないもん。今日はぱとろおるだっけ? それを延々としてさ、次の京に行ったら色々引き継ぎをして、部屋に籠って延々と作業さ。で、今まで部屋に籠って作業していた奴等が今度は外へ出て今の俺達のように情報収集をする。それの繰り返しだよ。籠って出て、籠って出て」
そりゃあ大変ね、と適当に返しつつ浮かぶのは「この人達、もしかして部屋に籠りっぱなしで溜まったストレスを、私を使って発散しているんじゃ?」という疑問。しかしそれを聞いて「うん、そうかもね!」と言われたらそれはそれで腹が立つので、聞かない。
狂った街並みの中を歩きながら、花火と静流はひっきりなしに柚季に話しかけてくるがあまり構うと調子に乗るので、適度に無視する。本当にうるさくて敵わないが、これも今日までの辛抱だ。
(寂しいなんて、思うものですか。……むしろ、せいせいするわ。嗚呼、一人で食べる夕飯がこんなに恋しいと思える日が来るなんてねえ! 引っ越してきた当初は寂しくて仕方無かったのに……まあ、最近は速水がちょっかい出してくるけれど、それでもこの兄妹や、牛鍋屋の客に比べればずっと静かだものね)
この一週間、人の都合などまるで考えない彼等のせいで気の休まる時など少しもなかった。逃げるように外へ出ても、頭がおかしくなりそうな世界に眩暈を起こすだけだった。迷惑に思うことはあっても、決して愛しいとか、いてくれてありがたいとか、そんな思いは微塵も湧いてこない。
(こういう時って、ちょっとは寂しいかもって思うはずなんだけれど。迷惑で、うるさくて仕方ないのにいなくなると分かると寂しいかもって思って、何でこんな気持ちになるのか不思議って感じに。でも全然そういう気持ちにならない。そんな思いを抱く余地なんて無い位、参っているんだ)
一方の花火兄妹といえば、さっきからずっと寂しい寂しいと連呼している。それこそ頭が『寂しい』という言葉で爆発してしまう位に。
「この街にも大分愛着がわいてきたんですがねえ……もっとこの辺りのことをよく知りたいと思っていたのに、残念です」
「折角ゆずきちという可愛い女の子に出会えたのになあ! 俺達と喋れて、妖とかのことも理解していて、かつ可愛い女の子となんて滅多に出会えないのに。今度はいつそんな子にお目にかかれるやら。俺は本当に寂しいよ、別れたくないよ。仲良くなればなる程、別れが辛くなる! 」
「全然仲良くなんてなっていないんですけれど」
「胸の中が喜びや幸福で満たされれば満たされる程、別れの時の痛みは大きくなるものだ。こんな痛みは、二度と味わいたくない! 俺、人を痛い目に遭わせるのは好きだけれど、自分が痛い目見るのは好きじゃない!」
静流もその言葉に同意するように頷く。全く自分勝手な兄妹、さぞかし出雲と気が合うことであろう。彼等は心を向け、或いは交わしたものと別れる辛さを味わいたくはないと言ってはいるが、きっと次の土地へ行ったらそこにある何かに心を向け、自分達のことを認識出来る者にしつこく絡むに違いなかった。そういう顔をしているのだ。一度別れが辛くなる程のものを得た者は、別れが辛くなることが分かっていながら、自分をそうさせるものを手に入れずにはいられなくなる。
中学二年の時、親の仕事の都合で転校を繰り返している少女が柚季のクラスに転入した。例外なく柚季の学校にも二か月程しかいなかったが、彼女は沢山の友達と思い出を作り、短い時間を全力で過ごしていた。
友達を作り、楽しい時間を過ごし、あらゆるものに心を向け、幾つものものと心を交わし、そして最後別れるのと、何にも心を向けず、交わさないまま別れるの、どちらの方が幸せなんだろう――そんなようなことを彼女に聞いた人がいた。彼女は迷うことなく前者を選んだ。
――そりゃあ確かに友達を沢山作れば作る程、引っ越し先に愛着がわけばわく程別れも辛くなるけれどさあ、でもだからといって何も得ないままお別れするなんて、味気ないじゃん。別れの辛さよりも、得るものの方がずっと多いよ。お別れしたからって、皆と仲良くなった事実とか、私がそこで充実した日々を送ったこととか、思い出とか、そういうものが消えるわけじゃないし。だから私は全力で過ごすよ。心を向けて、交わして、一生に一度、その時その場所でしか手に入れられないものをうんと手に入れて、それからうんと泣きながら別れるの。まあ、昔は私も『どうせ仲良くなったって別れるだけだ、辛くなるだけだ』って考えたんだけれどね。でも小学三年の時、初恋の人に色々言われてね……それで、それからは全力で過ごそうって思ったの。目も心も向けないまま終わりにしないようにしたの。一度そうしたら、もう駄目。やっぱり辛いよ苦しいよって思っても、元に戻るのは難しかった――
多分この二人も同じなのだろう。なんてことを考える余裕があるのも、この時までだった。柚季と別れる悲しさ、寂しさによりうさざが格段に増した花火と静流が先程まで以上にうるさくなったからである。彼女達はきっと家までついてくるだろうし、家に帰ってからも寂しい寂しいと連呼するだろうし、牛鍋屋の客や飴屋の店員にも色々と言われまくるに違いなかった。それを思うと、大変辛い。心が痛むから辛いのではない、頭と胃が痛むから辛いのである。
今一体どれ程の人間が渡遷京遷都によって頭や胃を痛ませ、心狂わせ、命を削っているだろう。柚季はそんな人達に声を大にして言いたい。明日までの辛抱です、明日まで我慢すればこの狂った世界とはおさらば出来ます、と。明日というものにここまで焦がれたのは、久々のことだった。
「ゆずきち、ゆずきち、俺がいなくなっても死んじゃ駄目だぞ、強く生きるんだぞ、俺も強く生きるからな、ゆずきち、ゆずきち、俺超寂しい!」
「ごめんなさいね、折角の休日なのにお邪魔してしまって……本当にすみません。それにしても本当寂しくなりますね、ここも柚季さんのことも気に入っていましたのに……けれど、仕方の無いことですよね。嗚呼申し訳ありません、妹がうるさくて、いやうるさいのは私も同じですね、ごめんなさい、本当に」
「嗚呼、もう……一刻も早く来て、明日!」
*
「え、これ別れの鐘なの? 明日にはいなくなる? ひゃっほう!」
つい先程まで鳴り響いていた鐘が京遷りの鐘――明日の朝この土地を離れ、新たな場所へ遷都することを知らせるものであることを知った紗久羅は両手を上げて大喜び。一方の与平はずうんと沈んでいる。
「せ、せせ、折角、すす、少しだけ、は、話せるように、なななな、なった、の、に……。もう、お別れ……」
口から魂が抜けて、元々白い肌はますます白くなり、白目を剥いている。ひょろりとした体を重く湿った空気が覆い、足元や頭から茸が生えてもおかしくないと思う位のどんよりじめじめっぷり。そんな様子を見ていると、何だか哀れに思えてくる。
「まあ、元気出せよ。良かったじゃあないか、最後の最後にあたしと色々話せたんだからさ。おどおどびくびくしたままじゃなくて、……まあ一郎太に尻叩かれていなかったらどうにもならなかっただろうけれど……勇気を出して話しかけた甲斐があったろう。あのままでいたら、お前滅茶苦茶後悔していたと思うよ、うん」
「たっ、確かにそれは、そそ、そうなのですが……そそ、その……こ、こ、こう……欲が出る、といいますか……もっと、もっとお話ししたい、と……」
「へえ、人並みにはそういう欲とか持っているんだ。しかしそんなずうんと落ち込んだって、どうにもならないんだからさ」
「……そ、それも、そうなんですが……そうですね、どうにも、なりませんもんね」
とりあえずはそう納得したようだが、相変わらず元気はない。ちょっと心の距離が縮まったと思った矢先のことだったからよりショックだったのだろう。
二人しばらく、鐘の音溶けた空を眺める。渡遷京の空には、よく鯨がいる。大きな鯨と、少し小さく青みの強い鯨が寄り添うようにして泳いでいる。あれは多分夫婦だろうと与平は沈んでいるような、弾んでいるような、なんともいえぬ声で言った。そしてそんな二頭を見つめながら、羨ましいと呟く。
「まあ、なんというか。別の世界に住んでいる奴を好きになると辛いな。どれだけ想っても、どれだけ頑張っても、報われないんだもんな。触れることだって出来ないし、結婚だって出来ないし、いつか別れなくちゃいけないし。それがどれだけ辛いかは、あたしには一生分からないことなんだろうけれど。でもさ、それでもあんたはまた遷都した先にいる人を好きになるかもしれないんだろう」
「は、はは、はい……あ、ああ、あの、そそ、その、さ、さっく、紗久羅さんのことがどうでも良くなるわけじゃないんですよ、あの、その……あ、新しい人を好きになっても、ま、前好きになった人のことを忘れるなんて、こ、ことは……え、別に不愉快になんて思っていないから安心しろ? な、なんかそれはそれで切ない……い、いえええ、何でもございません! あ、あの私と同じように、遷都した先にいた人を好きになる人は珍しくありません。決して報われない恋です。自分の存在自体気づかれないこともあるし、気づかれたとしても想いが通じるとは限らないし、万が一通じ合ったとしても、層を超えて触れ合うことは出来ないし……必ず別れが待っている。しかも、永遠の別れのことが、多いのです。お互い死んだわけでもないのに、別れなければ、いけないのです。抗う術はないのです。だから、どれだけあああああ、あいいいいしたって、最後には辛い思いをすることになります。今も、私、そ、その……大変辛いです」
「でも、やっぱりまた好きになると」
「……はい。だって、仕方が無いじゃないですか。好きになってしまうんですから。す、好きになるって気持ちを止めることなんて、出来ません。その、別に、その、あの、別世界に住んでいる人だから好きになるってわけではなくて、その、好きになった人がたまたま、あの別の世界の人だったというか……。ですから、私はきっとまたどこかで……恋をします。こ、こう見えて惚れっぽい性格のようですから。もうこんな辛い思いはしないぞ、もう別の世界に住む人に恋はしないぞと心に誓っても、無駄です……はい……だ、だからこそ、そそ、その今、こ、こうして、さささ、紗久羅さんといるわけで……」
最後の方は殆ど聞き取れない位小さな声だ。恥ずかしいことを言った上、紗久羅がそれをにやにやしながら聞いていたものだから、与平は顔を真っ赤にして俯いてしまう。やや離れた場所にいた茎介達もいひひひと笑っていた。よくもまあこんな小さな声をこれだけの距離が離れていながら聞き取れるもんだと、感心するやら、呆れるやら。
「一番良いのは渡遷京にいる奴を好きになることだよなあ。まあ、こればかりはなあ。でもさ、もしそっちに住んでいる奴を好きになったら……頑張れよ。今日みたいに勇気を出してさ、ちゃんと向き合おうぜ。そしたらいつか報われるかもしれないし。それでもって自分を置いて逝くことのない、滅茶苦茶強い女をゲットしようぜ。別の世界の奴を好きになった時は頑張らなくて良いって言っているわけじゃないけれど……相手の都合は考えてやってくれよ、まじで。なんて、お前に言っても無駄だろうけれど。相手が自分達のことが見える奴だと気づいたら、後ろでにやにやしている奴等が黙っていないだろうし」
紗久羅はそう言ってにかっと笑うと、与平に手を差し伸べる。びくっと体を震わせ、それから目をぱちくりさせる与平に紗久羅は一言「握手」と言った。本当に触れることは出来ないけれど、気持ちはきっと触れあうことが出来る。与平は顔を真っ赤にし、しばらくあうあう言いながら妙な舞を舞っていたが、ようやく気持ちが落ち着いてからおずおずと手を差し伸べ、微かに微笑みながら紗久羅と握手する真似をした。その時、確かに紗久羅は手に柔らかな温もりを、確かにある繋がりを感じた。
「ありがとう、ございます。そ、その……頑張ります。私、あの、さ、紗久羅さんに出会えて良かったです。本当に……あの、す、好きでした。いえ、す、好きです。この気持ち、忘れません。今日のことも、忘れません。この思い出を胸に、ちゃんと、そ、その、前に進んでいきます」
好きです、と直接言われるとこっ恥ずかしい。手をぱっと引っ込め、ばっと視線を逸らすその様は茎介達を大変喜ばせた。けらけら笑うその姿を見たらますます恥ずかしくなって、思わず道端に転がっていた小石を掴み、ぶん投げた。与平はひいっと悲鳴をあげつつ咄嗟にしゃがみ、茎介達は最後の最後までおっかねえ娘だと大笑い。なお、石は彼等の所までは届かなかった。
「まあ、お前にはあの馬鹿共がついているからな! すっげえうるさくて、傍迷惑な奴等だけれど、や、役に立つこともあるだろうし!? ええいうるさいうるさい、笑うんじゃねえ! くっそお……与平! お前がいきなり好きとか何とか言いやがるからこんなことになっているんだぞ! 何だよさっきは頷くのが精いっぱいだったくせに!」
「ひいい!?」
「あれ、紗久羅?」
悲鳴を上げる与平に喰ってかかる紗久羅の名を、誰かが呼んだ。恥ずかしさ余って怒り百倍だった紗久羅ははっと我に帰る。ぱっと振り向くと、そこには買い物かごを手に提げた柚季の姿があった。その背後には茎介達に匹敵する位やかましい女と、いかにも大人しく物腰柔らかそうな男性がおり、しきりに柚季に話しかけている。その様子を見れば、この二人が柚季から聞いた『連日家に押しかけてしつこく絡んでくるうざったい兄妹』であることは説明されずとも分かる。与平はひえええいと悲鳴をあげ、それから死にそうな声で「は、はっ、なびさん」と女の方を見ながら言った。小声で「ああいうのって、与平の好みじゃね?」と尋ねると、ぶるぶると首を振り「確かにそうなんですが、この方は……あんまり強くて怖すぎる、無理」とだけ言った。
「なんだよう、ゆずきちってば与平の想い人ちゃんと知り合いだったのかよ」
花火の言葉に対して柚季が舌打ちするのが見えた。花火は紗久羅と与平を交互に見、にやにやしている。
「え、もしかしてでえとだったのか? でえと、でえと? うっそ、まじか! お前が惚れた相手とそこまでいくことって滅多にないのに! こりゃあ明日、嵐にでもなるかな。俺の見立てが正しけりゃ、あんた達恋人同士とかまではいかないまでも、そこそこ仲良くなった感じだな。しかし残念、折角仲良くなっても明日でお別れ、先には進めない! そんな泣きそうな顔するなって、はっはっは! ま、お前はやけになって京を滅茶苦茶にするような馬鹿はしないだろうから、監視の必要はなさそうだな。でも、記録はとっておかないと。様々な出来事を詳細に記録するのが俺達の仕事だからな! さあさあ、与平ちゃんの恋の記録、しっかりきっかりとるとしましょう!」
さあさあ、まずは出会いからと花火は与平にずずいと迫る。紗久羅とは最初の頃に比べれば大分まともに喋れるようになった与平だが、他の人とも同じように、というわけにはいかない。ひ弱な与平など一瞬で消し去る程の眩さをもつ花火に迫られ、彼はひいいいいいとすさまじい悲鳴をあげ、後ずさり、しまいにバランスを崩して尻餅。頬は真っ赤で、額は青い。恐怖と照れとときめきと緊張で、恐らく彼の頭は混乱を極めているに違いなかった。花火はおいおい何をやっているんだよ、と呆れているような怒っているような声で言いつつ、構わず彼に質問をするが、当然まともな答えなど返ってくるはずがない。ぶるぶる震え、強い輝きを持つ真っ直ぐな瞳に見つめられて赤面し、冷や汗を流し、質問を投げつけられる度悲鳴をあげる。
さて、見るからに紗久羅以上に短気な女性である花火がこの態度にイライラしないはずがない。質問を悲鳴によって拒絶され、化け物でも見るかのような目を向けられ、ぶるぶる震えられ、彼女の怒りのボルテージはみるみる内に上昇、そしてあっという間に頂点をぶち破った。これだってきっと、頑張って耐えていた方なのだろうと思う。
「いい加減にしやがれこのもやし野郎が! 全く、いつまで経ってもそんなだから未だに恋人一人も出来やがらないんだ! ぶるぶる震えてぴいぴい泣いてばかりの男なんかに需要はねえんだよ! 可愛い女の子だったら超可愛いと思ってもっといじめてやりたくなるけれど、野郎じゃ少しも得しねえ、むしろ腹が立つ!」
言うや否や花火は恐怖に震える哀れな与平の右腕を掴んで立ち上がらせる。
「軟弱娘は好きだが、軟弱野郎なんて大嫌いだ! あまつさえこの俺様を見て悲鳴をあげるなんて、許せん! 来い、この俺がそのもやしみたいな精神力の弱さを鍛えてやる! 人並みにはしてやるよ! ありがたく思うことだな!」
「え、あ、は!?」
「びしばしびしばし、しごいてやるから覚悟しやがれ!」
「花火、仕事はどうするんだい」
「仕事もちゃんとするから安心しろ! 仕事もしつつこいつをしごく!」
と訳の分からないことを言っている。そんな花火の突拍子もないありがた迷惑な親切心もどうかと思うが、この急展開いや超展開を見ても全く動じず仕事のことを聞く兄もなかなかすごい、と紗久羅は呆気にとられるしかない。
花火はそう言うと与平の手を引っ張り、何が何だか訳が分からないという顔をしている彼と共にいずこへと去ってしまった。頭に血が上っている彼女は最早柚季のことさえ忘れてしまったらしく、別れの挨拶一つしなかった。同じく何が何だか訳が分からず呆然と立ち尽くしている紗久羅と柚季、それから一郎太達に静流は「すみませんね、本当申し訳ないです。お騒がせいたしました」と言ってぺこりと頭を下げると、花火と連行された与平を追ってあっという間に姿を消した。遠くから微かに聞こえる「うわあああ」という与平の恐怖と困惑と涙入り混じる声。
ぽかんとしていた茎介達は、これはある意味大変面白い事態であることに気づくや否や、すっかりいつも通りのノリになり「こいつは面白いや! 京一の凶暴強烈女と、京一の気弱人見知りもやし野郎の組み合わせ、最高じゃねえか! それじゃあな、娘っ子、俺達を楽しませてくれてありがとうよ! お前さんがいつか男捕まえて、結婚して幸せな家庭築く日が来ることを願っているぜ! まあ、相当難しいだろうがな! じゃ!」とまあ軽いにも程がある挨拶を早口で言うと、三人を追いかけていった。彼等の興味が完全に紗久羅から花火に移ったことは、とりあえず言った感満載の別れの言葉を聞けば明確で。一郎太は肩をすくめ、ため息をついてから紗久羅の方を見た。
「……ありがとうな、娘よ。幾ら儂に尻を叩かれたといっても、あいつが惚れた女とあれ程楽しげに喋ることが出来たのは初めてのこと。きっと良い思い出になっただろう。それから、すまなかったな。お前さんには散々迷惑をかけてしまった」
きちんとした挨拶をしたのは、彼だけだ。紗久羅は「あいつ、これから大変だな」と言うと本当になと苦笑いする。そして、頭を一度下げ「達者でな」と言うと彼もまたその場を去って行った。
二人を散々振り回した者達との別れは随分と呆気ないものとなり。紗久羅と柚季は顔を見合わせ「本当、最後までマイペースな奴等だったね」と苦笑いするのだった。
さてこの数年後、紆余曲折あって与平と花火は夫婦となり、それなりに幸せな日々を送ることになるのだが……そのことを二人が知ることは永遠になかった。