遷都バレンタインデー(9)
*
さらさらという川のせせらぎを聞きながら、さくらは舞花市の探索をしていた。今日探索しているのは舞花市南東部、北側に位置する桜町から随分離れた場所である。大きな工場やそれに関連した建物が密集しているそこは、昔風の街並みが比較的多く残っている舞花市の中では、随分浮いているエリアだった。舞花市にとっては十分『異界』と言えるのかもしれなかった。隔絶された、隣り合わせの、異質の世界。
元々桜町から随分遠い所にある上、工場や会社、社員寮に社宅といったもの以外特出したものが何もないこのエリアをさくらが訪れることは普段ない。しかし、梓からこの辺りのエリアには工房が多く建ち並んでいると教えられたから、来たまでのことだ。梓は毎日朝から夜まで舞花市に桜町、三つ葉市等を歩き回って多くのことを詳しく調べている。昨日三つ葉市を探索中に会った時、彼女から色々話を聞いたりノートを見せてもらったりしたが、お遊び感覚でやっているさくらとは比べ物にならないクオリティに驚き、思わず彼女を「師匠!」と呼びたくなる位の感動を覚えた。彼女はさくらがこの前見た、あの丘の上にある建物――星讀舍の内部も見たという。あそこを調べるには空を飛ばない限りは無理なはずだが、彼女は柚季と同様霊力を持っているから、式神や術を用いたり、使役している妖辺りを使ったりしたのかもしれない。梓は星讀舍の内部、そこで働いている星読と呼ばれる職業の者(こちらの世界でいう陰陽師に近いようだ)のことなどについて沢山話してくれた。何だかもう、小説で読みたいと思うような魅力的な設定(というべきか)が満載で、さくらは胸躍らせ、夢中になって話を聞いた。その一方で、全てを聞いてしまったら探索の喜びが薄れてしまうし、想像によって無限に広がっていた世界が『正解』によって狭くなってしまう。だから、梓の「このノートも、作った地図もコピーしていいよ」という申し出は「ありがとうございます、是非!」と言いたくなるのを堪え、泣く泣く断った。しかし、渡遷京が次の土地へと遷都してしばらく経ったら借りるかもしれないとは言っておいた。
そんな彼女に教えてもらったのがここ、舞花市工場地帯と呼ばれているエリアだ。ここには様々な工房があり、他にも畑や果樹園があるという。梓は比較的人の数が少なくなる夜に工房等を巡っては、作業の様子を見たり、邪魔にならない程度に話を聞いたりしていたらしい。
この辺りは民家や店も殆どなく、長閑な場所だと聞く。ぽつぽつとある建物の傍を、硝子の様な色と輝きを持つ小川が流れ、魚が泳ぎ、鳥は歌い、川を挟んだ向こう側には鶯山、翡翠山と呼ばれる山が……。古き良き日本の風景とでも言うべきか。
(きっと、とても素敵な場所なんでしょうね。でも……)
その美しい景色の殆どは、残念ながらあちこちに建っている工場や会社で隠れてしまっていた。全く見えない、というわけではない。丁度道路がある部分にある建物は見えるし、やや離れた場所にその名の通りの色をした、こちらを今にも呑みこんでしまいそうな位の迫力がある立派な山、風に揺れる色鮮やかな草花、工房で働く妖達の子らしき者達がはしゃぐ姿も見える。だが、それらが作り出す景観はこちら側の世界にあるものによって見事に損なわれていた。無機質な建物、無機物にも人の手で作られた歪な生き物にも見える工場、道路を走る車やトラック……それらが否応なしに目に飛び込み、近くて遠い世界の風景はぼやける。まるで汚らしい落書きをされた、美しい物語の書かれた本のページを見ているかのような気持ちだ。
(邪魔……よね。嗚呼、こういうものが一つも無かったらとても素晴らしい景色を楽しむことが出来たでしょうに! 無くなってしまえば、いいのにな)
渡遷京の探索をしている最中、さくらはよく「ここにこの建物さえなければ、もっときちんと見られたのに」とか、そんなことを思った。民家に重なっている建物は中を調べることが出来ないし、渡遷京の魅力的な街並みがこちらの世界の風景によって台無しになることだってよくある。
そんなことを出雲に話したら「異界の方ではなく、自分の住む世界にあるものの方を邪魔と思うなんてねえ。己の世界にあるものを否定して、異界にあるものを求める……君って本当、大した愚か者だよね。まあ、私はそういう人間が好きだけれどね。愚かなのは大変結構で良いことだ」などと言われてしまった。馬鹿げた、愚かな考えだということが分からぬわけではない。だが、自然にすうっと浮かぶのは「こちらの世界にあるものが邪魔」という思いの方なのだった。そう思わざるを得ない魅力があるのだ。
(それでも今日は殆どの工場や会社が休みな分、まだましなのかもしれない……)
これが平日であったら、煙突から煙がもくもくと吐き出され、あちこちからどんごんごおんという騒々しい音が聞こえ、もっと多い数のトラックやダンプカー、車などが道路を走っていたことだろう。
さらさらという音は小川の奏でる音色。鈴の音、虫の音、鳥のさえずり。残念ながらここの地面より低い位置にある為か、その姿を見ることは出来ないがきっと清らかで、硝子のように透明できらきらと輝いているに違いなかった。良い匂いがして、魚達が泳いで、飲めば体の中に溜まった悪いものが浄化され、浴びれば体に染みついた悪いものが洗い流されるに違いないだろう。耳をすまし、目を閉じればそんな美しい小川の姿が浮かぶ。しかしその美しき幻もまた、車の走る音などに邪魔されて掠れて、歪んで、遠くへ、遠くへ……。一度想像に夢中になってしまえば、そんな音も全く耳に入らなくなるのだけれど。
しかし、車や工場が邪魔だと嘆いていたってそれらが消えるわけではない。それよりも探索を楽しもうとさくらは好きなものとあまり好きではないものが入り混じる世界を歩き始める。
ぴゅうるるるう、ぴゅうるるるう……空一面に広がり、響き渡る笛の音色にも似たそれは鳶の鳴き声に似ていた。近くの工場にぶつかるかぶつからないかといった辺りを、一羽の鳥が飛んでいる。持ってきた双眼鏡を覗いてみれば、変てこな姿の鳥が飛び込んできた。大きく、基本的には鳶とか鷹とかそういったものに近いのだが、目玉は巨大で真ん丸で顔の殆どを目玉が占めているという有様だった。なんだか漫画でよくびっくりした時に描かれる目によく似ている。くちばしは常に開けていて、そこからえらく長く細い舌がぴゅっと勢いよく飛び出しては、吹き戻しや巻尺のように先端からくるくる巻かれて口の中へと消え、そしてまた飛び出して、の繰り返し。飛び出す度、あの美しい音が聞こえる。
「あ、マヌケヅラが飛んでらあ」
「マヌケヅラはいつも間抜けな顔している。お前の母ちゃんみたいな顔!」
「俺の母ちゃんあそこまでマヌケヅラじゃねえし!」
「……あの鳥、マヌケヅラというの?」
道路を横断し、自分の目の前を横切る少年二人に思い切って話しかけると、二人は「えっ」と驚きの声をあげ、今空を飛んでいるマヌケヅラと同じような表情を浮かべた。まさか人間に話しかけられるとは思いもしなかったのだろう。二人は困惑しながらそうだ、と頷く。
「とっても間抜けな顔をしているから、マヌケヅラ。俺達が適当に呼んでいるわけじゃないんだぜ」
「顔も間抜けなら、中身も間抜けだよ。ヘボい罠にも簡単に引っかかる。まあ何に使えるわけでもないから、わざわざ獲ろうって奴はいないけれど」
「そうそう。別の動物を獲ろうと置いた罠に引っかかるって感じ。アホドリとかバカドリってのもいるよ。そっちの世界にはアホウドリってのがいるんだろう? こっちのアホドリとそっちのアホウドリ、どっちが阿呆なんだろうね?」
はてさて、どっちやら。さくらがありがとうとお礼を言うと、二人はそれじゃあねと言ってその場を去った。
「先生なら分かるかな」
「先生もこっちのアホヅラを見たことが無いから、分からないんじゃない? そういえば今日は野外授業をやるんだってね」
「俺も行きたかったなあ。でもしょうがないよな、今日は家の手伝いをしなくちゃいけないんだから。でもきっとまたやるよ、今日参加した奴等が悪さをしさえしなけりゃ。その時は絶対参加するんだ。先生の授業、一回しか受けたことが無いけれどとっても楽しかったもの」
そんなことを話しながら、すぐ傍にあった会社へと消えて行った。さくらはノートに早速マヌケヅラの特徴や子供達から聞いた話を書いた。新品だったノートはもう、自分が今まで見た生き物や建物についての記述でいっぱいになっていた。ノートを見返すだけで顔は自然とにやつく。ここ数日の間にさくらは多くのものを見てきた。独楽のようにくるくる回りながら移動する茸、どう見てもこけしにしか見えない実をつける木、亀の甲羅に似たものが背中についている猿に嘴の生えた兎、胴がやたら長い猫、紙風船そっくりの生き物、ドクロとスズランの合いの子に見える花をつける植物等……。こちらの世界には絶対に存在しないような生き物やら、植物やら。しかし猿や茸、こけし等自体はこちらの世界にあるものだ。ただそこに別のものが付与されたり、植物であるはずのないものが植物になったり、本来は自分の意思で動けないものが動けたりとかそういうことがある為に妙なことになっているのだ。ありふれたものでも、別のものと組み合わせたり、本来あるはずのない性質を付与しただけで幻想を紡ぐものになるのだから不思議だ。
よく観察し、「これはこういう生き物だ」とか「あれはこれこれこういうことをしているのだ」とか、そんなことを考えるのは楽しかった。動物、植物、店、仕事……こちらでは見ないものを見る度、胸が躍った。
自分で考えるだけではなく、疑問に思ったことなどを渡遷京の住人に聞くこともあった。しかしさくらは元々人と話すことは苦手だ。自分から見知らぬ人に話しかけるとなれば尚更だ。話しかける姿を想像し、聞きたいことも頭の中できっちり整理してもいざ声をかけようとすると足がすくみ、緊張のあまり声が出なくなる。やっとこさっとこ「あの、すみません」と言うことが出来ても、あんまり小さな声だから相手に気づかれないこともあった。相手の足を止めることに成功しても、頭が真っ白になって聞きたいこと全てが吹っ飛び、本当に聞きたかったことの十分の一も聞けないまま終わってしまったということも多々あった。だが、上手く成功し乗りに乗ってしまえばこちらのもの。興奮しながら矢継ぎ早に質問し、メモをとる。昨日も二人組の男に声をかけ、延々と、彼等にに休む暇も与えず質問をしまくった。二人は用事があるからそろそろと言って逃げるようにその場を去った。去り際彼等は「人間って怖い」と精根尽きたような様子でぼそりと呟いた。さくらは彼等がどうしてそのようなことを言ったのかついに理解出来なかった。
渡遷京はここ以外にも幾つかあり、面倒な手続きをすれば別の渡遷京を訪れることも出来るらしい。それぞれ規模も違えば、衣食住や言語といった文化も違うという。どの渡遷京もここのように古き日本を思わせるような姿をしている……というわけではないのだ。どの世界の、どのエリアの文化に影響を受けたかによって違うのだそうだ。一体他の渡遷京はどんな感じなのだろう、と想像するのも面白かった。近未来的な姿の渡遷京も面白いかもしれないなあとか、パリっぽい所とかもあるのかしら、とか。
工場などの建物に隠れている部分は大分多いが、無事な部分もある。道路を塞ぐように、建物が一つ。流石に車を通っている道路のど真ん中を歩くわけにはいかないから、双眼鏡を使って出来るだけ細部まで見ることにした。人が近くを通りかかったら、バードウォッチングでもしていますという体で空を見上げる。こんな所に、双眼鏡を使ってまで見る鳥などいないのだけれど。そこにある工房はどうやら木を彫って様々な形の像を作っているようだ。皆黙々と作業をしており、さくらに観察されていることに全く気づいている様子はない。その左隣――さくらの進路を阻むようにして建っている建物、入ってみればそこでは女数人が歌を歌いながら機を織っている。その歌をメモしながら別の場所を見ると、ここでは機織りに使う糸も自分達の手で作っているらしい。その糸の材料というのが、変わっている。どこからどう見ても林檎、柿、蜜柑、大根、胡瓜なのだ。しかしそれらを専用の機械にかければ、あっという間に美しい糸の出来上がり。
さくらはわくわくしながら他の場所も次々と回っていった。寄木細工や石像、美しい石を埋め込んだ装飾品、鬼灯や達磨や猿等の形をした提灯、鶏型の器、様々な世界の街並みを閉じ込めたスノードームに似た置物、両手に乗る位の、風車が刺さった木製の船、ハンドルを回すと上に乗っている人形や建物、鳥などが動く玩具、飴やクリーム、あんこにしか見えないものを使って作った衣装、色や映っている景色が次々と変わっていく器、蛇そっくりの笛、(恐らく)本物の花が入った硝子で作った箱や器……。
(ああ、もう本当に心躍るわ! 素敵なものが沢山あって、新しい発見が次から次へと止まらない!)
こちらの世界にある工場等の建物が気になるが、そんなこと割とどうでも良くなる位面白いものがひっきりなしにさくらの目に飛び込んでくる。普通とは違う世界。目の前で繰り広げられる、非日常的な日常。よく分からないものを作っている場合は、一体それは何に使うものなのかと尋ねもした。大抵の妖達は丁寧に質問に答えてくれた。
風鈴の生る木がずらりと並ぶ場所も訪れた。木によって生る風鈴の柄や形、音の高さは変わる。また同じ木でも微妙な違いがあり、全く同じものは一つとて無い。この風鈴は収穫すると、数日から数週間で枯れてしまうという。だからどれだけ素晴らしい出来のもの、心から気に入ったものを手に入れてもすぐお別れしなくてはいけないのだ。客達は一つの風鈴と別れを告げては、また新しい出会いを求めてこの風鈴を取り扱っている店を訪ねるのだった。その他にも金魚鉢畑(これは時間を経る毎に色合いが微妙に変わるもので、数十年から数百年は持つらしい。また、見た目こそ金魚鉢だが基本的には金魚など入れずもっぱら観賞用となるようだ)、こけし芋畑、舌べろそっくりの葉を持つベロバソウ、風に揺れる度けらけらという笑い声に似た音を出す花を咲かせる植物、オワライグサなど珍妙な植物を育てている場所もあった。トウモロコシの、実が蜻蛉玉版と言うしかないものを育てている畑もなかなか興味深かった。
そんな場所を巡っている最中、突然曼珠沙華に飛びかかられた時は驚いた。勿論それは、さくらの体をすり抜けていったわけだけれど。これはチスイシャゲと呼ばれるもので、自分の力で動くことの出来る、動物とも植物ともいえない存在だ。始めは真っ白な花だそうだが、血を吸うことで段々と赤くなっていくらしい。しかも刺された部分は蚊にくわれたかのように腫れて、うんと痒くなるそうで。塩と酢を混ぜたものをかけるとたちまち枯れてしまうらしい。可哀想ながらもちょっと試してみたいなと思ったが、向こうの世界に物理的な干渉は出来ない以上、無理である。
(試しに刺されてみたかったかも……)
そんなことを割と本気で考えてしまう。こんな風に、見た目は植物だが自分の意思で動いたり鳴き声を発したりするものは別段向こうでは珍しい存在ではないらしい。出雲達の住む『向こう側の世界』にもこういう動物なんだか植物だかよく分からないものは沢山いるようだ。探索を続けるさくらはるんるん気分、事情を知らぬ者達からすればさくらのあらゆる行動は異常そのもので、多くの人が彼女を気味悪がったが当の本人は全く気づいていない。何かに夢中になったら、周りのことなど見えない彼女だから。いや、何かに夢中になっていない時でも周りのことが見えない彼女だから。ついでに言うと、渡遷京に住む人々にも大分引かれている。テンションが上がったさくらのにやにや顔や、興奮のあまり「きゃあ素敵!」と絶叫する姿を見れば誰だってそうなるに違いなかった。
(調べても、調べても調べ足りないってとても素敵なことよね! 全てがあっという間に終わってしまったら楽しくないものね。嗚呼、来週もどうか渡遷京が残っていますように!)
そう心から願うのは、さくらや梓位の者だろう。
果たしてその願いは届くだろうか?