遷都バレンタインデー(3)
*
「彼女は良いぞう、白く透き通った肌がひんやりしていてよう……程良い弾力があって、滑らかで、俺はあの肌に虜なのよ。で、俺は彼女のことを『水まんじゅうの君』と呼んでいるんだ」
「水まんじゅうって……もっと良い名前つけられなかったのかよ。本当お前、ねえみんぐせんすがねえなあ」
「それじゃあお前もっと気の利いた名前つけられるのかよ」
「たまご豆腐の君でいいじゃねえか! いや、杏仁豆腐だっけ? あれの君でいいかも」
「たいして俺のと変わりねえじゃねえか!」
ベッドの上で一回、寝返り。
「ああ、くっちゃべっている間にがんもどきが冷めちまった」
「そうだ、その冷めたがんもどき共をいかに熱そうに食えるか、勝負しようぜ。負けた奴はくさ汁一気飲み」
「それ面白そうだな、俺もやろう。俺演技には自信があるんだ」
「大根演技のせいで浮気がばれたお前が何を言うか」
「あたしもやる、やる! 面白そうですもの!」
「じゃあ俺も俺も! くだらない勝負程燃えるものはなし!」
また、寝返り。
「酒、酒、酒!」
「ああ、散々食べた後のお茶漬けって最高だわ!」
「ぷはあっ! やっぱり生卵は何もかけずにそのまま飲むに限るなあ」
「それで私の飼っているダイコンアシドリがさあ、とうとう言葉を覚えてさあ、もう嬉しいのなんのって。え、なんていう言葉かって? うひひ……アシタカラガンバロウ、アシタカラガンバロウ」
体が、際限なく膨らむ激しい感情に震え眉は上下し、頭の中でばこんがこんと色々なものが暴れ回っている。
「ちくしょう、二股なんてよう! 相手は猫又だってよう、猫又と二股!」
「あさりの酒蒸し、お待ちどう!」
「おええ、もう吐きそうだあ……」
「そこの姉ちゃん、お酌頼むわ」
「お、この林檎酒美味いなあもっと飲もう!」
「大体よう、なんだってこの俺があんな奴の為によう……」
「ぐえ、か、から……ぐがが、が、ずんげろぐっちょんげろりんばんぐええ!」
口に含んだ料理のあまりの辛さに、店のどこかにいるらしい客が発した奇声がスイッチとなり、紗久羅はがばっと跳ね起き、頭を抱えて絶叫した。
「だあああ、もううるせえ! いい加減にしやがれ!」
その怒りと苛々と懇願の混じった怒鳴り声を聞いて口を噤んだ者は誰もいやしない。時刻は午前一時を回ったところ。零時前にはベッドにもぐりこみ、寝る体勢に入っていたが一時間過ぎた今も彼女の意識は夢の世界ではなく現の世界にあった。寝つきの良い彼女でも、半端じゃないどんちゃん騒ぎの中で寝るのは至難の業。この家に重なるようにして存在している店にいる者、家の外――近隣の店にいる者達の声が、紗久羅の体を容赦なく叩き、揺らし、眠りにつくのを邪魔するのだ。客の数も盛り上がりっぷりも昼間の比ではない。おまけに渡遷京は夜が深くなればなるほどその勢力を増し、その姿も声も昼に比べはっきりくっきりしっかりしていき、今は『こちらの世界に渡遷京が重なっている状態』というより『渡遷京にこちらの世界が重なっている』といった状態。現の世界が、幻の世界のように見える。
全くこの世界が目に映っていないらしい父と一夜は、今頃いつも通り気持ちよく眠っていることだろう。夕食中幾度となく「ガムテープと縄、どこにあったかねえ」とか「強力な瞬間接着剤が欲しい」とイラついた顔で呟いていた菊野は、果たして今まともに眠れているかどうか。
音楽プレイヤーを起動させ、イヤホンを装着する。馬鹿騒ぎを聞いている位なら、音楽を聞いている方がずっと良い。だがそれも、音楽よりも馬鹿騒ぎの声の方が大きければ意味が無い。より鮮明になった世界から聞こえる声は、音楽を軽く凌駕する。しかしかといってやたらめったら音楽のボリュームを上げたら、夢の世界へ誘う効果が失われるわ耳は痛くなるわで最悪だ。結局音楽聞いて眠ろう作戦も失敗に終わった。
(くっそ、妖怪共め昼よりも夜の方が元気でいやがる。ああ、しかも場所が場所だから余計に始末が悪い。見える聞こえるに『触れる』がプラスされりゃあ、一人ずつうるせえ静かにしろとぶん殴ってやれるのに! ああむかつく腹立つ、超うるせえ! おまけに視線は感じるし、ベッドを突き破っている妖怪もいるし、気色悪い!)
しかしどれだけ紗久羅がイラついたって、馬鹿騒ぎは終わらない。きっと朝まで、いや下手をすれば朝を迎えても続く。この中で果たして自分は眠れるだろうか、眠れなかったらどうしようかと頭を抱え。
それでも最終的には強い眠気が勝り、どうにか眠ることは出来たが『安眠』とは程遠いものであった。
朝を迎えると、渡遷京は再び幻の如き世界へと戻っていた。店は朝になると一旦閉まるらしく(そして昼過ぎ頃にまた開けるようだ)店の者以外は誰もおらず、数時間前までの馬鹿騒ぎが嘘のよう。この位静かなら気持ち良く眠れるのに、と紗久羅は悔しく思う。静かなのはまず家にいない時間帯だけで、学校から帰って来た時にはもう酷い騒ぎになっていて、夜になればがんがん弾丸馬鹿騒ぎ。耳栓の購入を本気で考えてしまう。
(朝起きてみれば、渡遷京はすでに別の場所に遷都していましたって展開を期待していたんだけれどな。そう都合良くいくわけないか)
と落胆、嘆息。ご飯とみそ汁、だし巻卵、ぬか漬けが馬鹿騒ぎによってぼろぼろになった身と心に染みた。制服に着替え、家を出れば延々と広がる珍妙世界。バスから覗く景色にまともな所はなし。あらゆる店や家の中を突っ走り、妖を乗せた車を引く猫の妖とすれ違い、きゅうりそっくりの虫だか鳥だかが飛んでいるのを見、奇怪な生物が見えているらしい雀が悲鳴にも似た声で鳴きながら暴れ狂っているのを見、賽の河原で子供達が作っている積み石の塔をそのままうんとこ巨大化させたようなものを見た。紗久羅の通う三つ葉高校がある辺りは屋台通りとなっており、寿司屋天ぷら屋うどん蕎麦屋、風車やお面(こちらの世界の漫画キャラクターや、実在の人物を象ったものもあった)、林檎飴屋といった店がずらりと並び、蕎麦やうどんをすする妖達の後ろ姿もずらり。野球部やサッカー部が練習しているグラウンドも屋台に浸食されていたが、皆いつも通りで変わった様子はなく元気に走り回っていた。
学校は一階部分こそ渡遷京に侵されていたが、二階より上はこの辺りに大して高い建物がない為殆ど遷都の影響を受けておらず、紗久羅達見える聞こえる者にとっては不幸中の幸い。渡遷京側にある空が建物に重なり見えるのではないか、と思っていたがどうもそういうことはないようで。
「紗久羅!」
いつもと変わらぬ教室に入ると、紗久羅同様自動あくび人形と化していた柚季の姿が見えた。彼女は紗久羅の存在を認めると、その名を涙目で呼ぶ。生徒達が大勢いる手前詳しいことを話すことは出来なかったが、向こうも大変だったらしい。おおよしよし、と「こんなのあり? こんなのあり? もう嫌、嫌」と延々言い続けている柚季の頭を撫でつつ、友人と話している奈都貴の方を見る。その視線に気づいた奈都貴は「後で渡遷京のことについて話そう」と目で語りかけてきた。
居眠りも交えつつ午前中を過ごし、柚季と二人そさくさと昼飯を食べ、それから急いで図書室へと向かった。図書室には相変わらずカウンターに私物の本を積み上げ、読書に夢中の英彦がいた。ややあってから奈都貴もやって来た。紗久羅におっさんと連呼されようやく顔を上げた英彦の顔には疲れが見える。昨日の仕事が余程大変だったのだろう。
「おっさん大丈夫か?」
大丈夫です、なんとかねと返しそれから本を静かに閉じた。
「なあおっさん、やっぱりおっさんの力じゃこの状況どうにもならないの?」
「無理ですねえ……渡遷京をどうにかするなんて。向こうが次の場所へ遷都するのをただ待つことしか出来ません」
「じゃあ、じゃあせめて私達が渡遷京のあれやこれやを見たり聞いたり出来なくすることは!?」
「……異界と特別深い関わりがない人には効果的な呪いならありますが、貴方方には……気休め程度の効果しかないかもしれません。とりあえず簡単にかけられるものですから、試しに」
と言って英彦は短い呪文を唱えてから人差し指と中指を三人の額へと当てた。指が触れた瞬間目と耳が熱くなり、頭の中で何かがぐるぐる回る。目を開けると図書館を占拠していた屋台通りは多少薄くなっていたが、その変化はほんの僅か。英彦の『気休め程度かも』という言葉通りの効果であり、三人してがっくり。異層(或いは異界と呼ばれるもの)へと向かう目と耳を閉じる効果があるという呪いだそうだが、あんまり異層と深い関わりを持っているとこの程度の呪いで閉じることは不可能であるらしい。
「多分陽菜だったら効果があるんだろうな、これも。まああいつは全く堪えている様子が無いけれど。本当呑気だよあいつはさ」
「呑気といえば、さくら姉もなかなか呑気だよ。この状況見てげんなりするどころか大興奮、渡遷京の地図を作るんだって張り切っていたぜ」
「臼井先輩にとっては最高の世界でしょうね。嗚呼、私もこういう状況を楽しめるような呑気な人間だったらなあ! はあ……変な世界でぐちゃぐちゃだわうるさいわで最悪よ。あんまりうるさくてまともに眠れやしなかったわ。飴屋の方は静かだったけれど、牛鍋屋の方は四六時中大騒ぎ! 二階にまで声が聞こえてくるし、私の部屋に重なっている従業員の部屋では女の人達がぺちゃくちゃ喋っているし、挙句こっちにしつこく話しかけてくるし! 基本的にこっちとは関わらないようにしているんじゃなかったの!?」
「俺の家と重なっている建物に集まった子供達もやたら話しかけてきてうるさかったな。下手に関わらない方が良いと思ったから基本無視したけれど。……陽菜は普通に会話していたみたいだが」
まあ、関わってはいけないという決まりはないようですから、中にはそういう者もいるのでしょうと英彦は苦笑い。ちなみに彼の家は風鈴園となっているらしい。なんでも、様々な風鈴が生っている木がずらりと並んでいるようで、木によって生っている風鈴の形や音色の傾向が違うらしい。幻想的な風景ではあるが、四六時中りんりん鳴っている風鈴の数は途方もなく、蝉の合唱に負けぬ騒々しさだという。風鈴の音色で精神やられかける経験なんてそうそうあるものじゃない、と遠い目で英彦は語る。他にも硝子細工畑なるものが近くにあるとか。
「ところでこの渡遷京ってどれ位の大きさがあるわけ?」
「榊達に調べてみてもらったところ、相当大きいようですね。三つ葉市と舞花市、その他諸々の町がすっぽり覆われているようです。渡遷京の中でも相当大きいんじゃないですかね……」
と、どこからどこまで覆われているのか英彦が教えてくれた。確かに随分遠くまで覆われているようで、想像以上にこの渡遷京の規模が大きいことが分かる。
「この辺りは全滅か、嫌になるな……そういえば渡遷京ってこれだけじゃないんですよね。一体全部でどれ位あるんですか?」
「さあ……そこまでは。それなりの数はあるようですが。こちらやあちら――あらゆる世界を行き来する京ですから、お目にかかることはそうそうあることではないのですがね。まあ、この辺りにはよく来るようですが」
「そういや出雲がまた来たのかって言っていたな……それじゃあ今いる渡遷京が消えても、またいつか別の――下手したら同じ――渡遷京が遷都してくるかもしれないってこと?」
有り得ないとは言い切れないでしょうね、という英彦の言葉に三人は「げげっ」と顔を歪ませる。そもそも今ここにいる渡遷京がいつまでいるつもりなのかも分からない。もしかしたら何年もずっとこのままなのかもしれない、と英彦がため息交じりに言えば柚季は半泣き状態、そんなの絶対嫌嫌と顔をぶんぶん激しく振った。
「冗談! そんなことになったら頭がおかしくなっちゃう! こんな世界、何年見たって慣れやしないわよ!」
「実際おかしくなっちゃうのもいるって出雲も言っていたしな。確かにおかしくもなるよ、こんなのさあ……事情を知っているあたし達でさえきついってのに。なんかこのぐちゃぐちゃしている感じが最悪なんだよ。自分達の世界と、変てこな世界、両方が見えて目にも頭にも良くないよこんなの。滅茶苦茶うるさいし、無関係の奴等に自分達の生活のあれこれ覗かれている感覚も最低!」
とどれだけ文句を言っても、どうしようもない。結局の所一刻も早く彼等が立ち退くことを願いながら耐えるより他無いのだ。英彦は「より効果的な呪いがあるかどうか、一応調べてみる」と三人に約束してくれたが、見つからないものとして考えた方が後々落胆せずに済みそうだった。やがて昼休みが終わり、一日の授業が終わり、下校の時間となった。三人とも寄り道することなくそのまま帰ることを選んだ。妖達のせいでうるさくて敵わない家に帰っても何にも良いことなどないが、街中をうろうろしたってこちらと渡遷京がごっちゃになった奇天烈な風景を目にしまくることになり、ストレス解消になどなりやしない。
(部屋にいたって、店番していたってまともにのんびり出来やしない。満月館へ行って出雲にお茶とお菓子たかる方がずっとましだ)
前の席に座っている奈都貴の「どっちの世界にいるんだか分かったもんじゃないな」という呟き通りの光景が、窓の外には広がっている。重なっている世界も、向こう側の世界で見る分には変でもなんでもない世界だが、人の世にあると相当な違和感を覚える。しかもこちらの世界に重なって見えるからごちゃごちゃしている。そのすっきりさっぱりしない感じがたまらなく気持ち悪く、内にあるもやもやといらいらを膨らませるのだった。見れば見る程、嫌になる。渡遷京の存在に気づかぬ者達はいつも通り暮らしている。その姿がこの光景の気色悪さを増長しているような気がした。そう思いながら、何も知らない、何も見えず聞こえない奴等は幸せでいいよなあと恨む気持ちさえある。
(出雲はなるべく渡遷京の奴等とは関わらない方が良いって言っていたけれど……はん、誰が関わるもんかい。はあ、本当早く消えてくれないかなあ!)
決して関わるまい、そう紗久羅は思っていた。しかし残念ながらそうはならなかった。見える聞こえるものを無視し、全く関わることなく過ごすことなど到底不可能だったのだ。
そして奈都貴や柚季も同じように。三人共『つい、うっかり』渡遷京の者と関わることになるのである。
*
家に帰れば昨日と同じように子供達が楽しそうに遊んでいた。一階では特別やんちゃな子達が紙を丸めて作ったおもちゃの剣を手に追いかけっこをしており、随分と騒がしい。奈都貴に「おかえり」と声をかけた母には矢張りその姿は全く見えていない様子。やんちゃっ子達から逃げるようにして、比較的大人しい子達が二階に集まり、おままごとや読書をしている。人と殆ど変らぬ姿の者もいれば、大きくかけ離れた姿の者もいる。そういう異形の姿は見慣れているから特別気持ち悪いとか怖いとか、そういった感情はなかったが自分の家、部屋の中でそういう存在が当たり前のように過ごしている光景には違和感を覚え、変な気持ちになる。まるで自分の家ではないように思え、日常が渡遷京という現の幻に覆われかき消され、自分の家だというのに落ち着かない。
部屋の中にいる妖達は粉状の絵の具を溶いて筆につけ、絵を描いていた。床は奈都貴の部屋のそれより三十センチ程高い位置にある為、画材も紙も子供達も皆浮いているように見え、この部屋の中を珍妙なもにさせている。彼等はあまり絵の具や筆を使ったことがないらしく、筆の扱いは乱暴で穂の部分がすぐに広がって駄目になりそうだし、絵の具同士を混ぜて様々な色を作ることもしないし、水の加減も滅茶苦茶だった。幼い(外見や精神年齢通りの年齢かはさておき)子供達であるから仕方ないのかもしれないが、じっと見ていると正しいやり方を教えたくなってしまう。目の前にいるのが人間の子供であったらそうしていたかもしれないが、相手は異層にある京に住まう者。下手に関わらない方が良いだろうと特に口を出さず、宿題に取り掛かった。今二階にいる子供達は比較的静かで大人しかったからすぐ宿題も終わり、今日の授業の復習をしようとノートと教科書を開いた。
「あ、緑の絵の具が終わっちゃった。ねえ、緑の絵の具誰か持っている?」
背後から小さな男の子の声が聞こえる。一緒に絵を描いていた者達は「ない」と言った。緑がないと、これ以上描けないと男の子は困っている風だ。後ろをぱっと見ると、三つ目の、頭に二本の小さな角がある少年が泣きそうな顔をしながら自分の絵を見ていた。彼は草原と山、そこで遊ぶ子供達の姿を描いているらしい。見るとまだ緑で塗らなくてはいけない部分が沢山ある。
「赤と黄色で塗ればいいじゃん。紅葉に染まる山ってことにしちゃおうよ」
「嫌だよ、おいら春の山を描きたいのだもの。紅葉は、秋じゃないか」
「でもしょうがないじゃん、緑の絵の具がないんだもん。源太のおっちゃんに頼めば買ってもらえるだろうけれど……きっと今日は買ってくれないよ。それとも自分のお金で買いに行く? でも絵の具って高いもんなあ」
「緑もないし……紫色の絵の具もない。赤と紫のお空を描きたいのに」
「紫は諦めて、全部赤にしちゃえばいいじゃん」
「嫌だ、嫌だ、紫と赤じゃないと駄目なんだ!」
と駄々をこね、べそをかき。一緒に絵を描いていた子供達はそんなこと言われたって知らないよ、と困り顔。
「……青と黄色の絵の具を混ぜれば緑になるよ」
その様子を見ていた奈都貴の口が思わず滑ってしまった。しまった、と慌てて口を押えたが時すでに遅し。子供達の視線が一瞬にして奈都貴の方へと集まった。彼等は奈都貴が自分達に話しかけてくるとは夢にも思わなかったのか、相当驚いている様子だった。
(やってしまった……つい口が)
涙をぽろぽろ零していた少年は奈都貴の方をじっと見、それから「青と黄色を混ぜればいいの?」と尋ねてきた。自分から話しかけておきながら、その問いかけを無視するわけにはいかない。奈都貴は仕方ない、と肩をすくめてからこくりと頷く。少年は青と黄色の絵の具を早速混ぜ、悲しみと思い通りにいかない腹立たしさで歪んでいた顔はあっという間に満面の笑みに。
「うわ、本当だ! 緑色だ!」
「混ぜる量とか変えれば、もっと色々な緑が出来るよ。後、紫色を作りたいなら赤と青を混ざればいい」
今度は彼だけでなく、他の子供達も奈都貴が言った通り赤と青の絵の具を混ぜ「うわ本当だすごい!」と大声で叫んだ。本当に彼等の中には今の今まで絵の具と絵の具を混ぜるという概念が存在していなかったらしい。使っている内に偶然混ざって別の色が生まれた、ということはきっとあっただろうが恐らくその偶然がもたらした変化を意識して見たことはなかったのだろう。子供達が新しいことを知り、目を輝かせている――その表情は人間のそれとまるで変わらず親しみが持てる。そして、奈都貴の中の父性が呼びさまされ、もっと教えてやろうという気持ちになった。
「絵の具っていうのは、そのまま使うのもいいけれどそうして混ぜて使ってもいい。本来はない色を作ることが出来るから。後、筆の使い方もそれじゃああんまり乱暴すぎる。ええと……」
はじめ、間近にあった筆をとろうと手を伸ばしたが、すうっとすり抜けてしまった。ああそうだ、これは異層に存在するもので、触れることは出来ないんだということを思い出し、押入れの中にしまいこんでいた袋を見つけだし、取り出した。その中にはパレットや小さな絵の具バケツ、筆、絵の具などが入っていた。奈都貴は筆を取り出すとそれで何かを塗る真似をしてみせた。
「強くぐちゃっと紙に押しつける必要なんてないんだ。筆はこうして使うといい」
子供達はそっかあ、とかこの方が綺麗に塗れるねとか口々に言っている。奈都貴はそういう素直な反応を見るのが楽しくて、絵の具を溶くのに使う水の量のこととか、どの色を混ぜるとどんな色になるのかとか、そんなことを色々教えてやった。彼等は実に素直で、逆らうことなくこちらの言う通りにしては驚きと感動の声をあげる。こんなこと大したことじゃないんだけれどな、と思いつつも嫌な気はしなかった。
「すごいすごい、お兄ちゃん何でも知っているね! お兄ちゃん、先生だね!」
「え、先生?」
「先生だ、先生だ!」
「色々なことを知っているから、先生だ!」
「素敵な人間の先生だ!」
僅かな時間の間にすっかり懐いた子供達が、奈都貴に尊敬の眼差しを向けああだこうだ言ってきた。先生って……と奈都貴は流石に困惑。そして、想像以上に懐かれたことで何か面倒なことが起きるのではないかと不安にもなった。実際その不安は的中することになる。
「ねえ先生、もっと色々なことを教えて!」
「教えて!」
「教えて、教えて! 絵の具のこと以外のことも、先生だから知っているんでしょう!」
「先生は頭が良い、先生は何だって知っている! ねえ先生、いいでしょう? いっぱい教えて、教えて、私達色々なこと、もっと知りたい!」
「え、いや、だから俺は先生なんかじゃ……!」
「先生!」
子供達が口を揃えて、うるうる瞳を潤ませて懇願する。それに押された奈都貴はたじたじだ。こういう「お願い」にはとことん弱いのが奈都貴だった。紗久羅相手だったらまだ突っぱねることも出来るが、穢れを知らぬ純粋な子供達にお願いされたら、断るに断れない。奈都貴は少し前のうっかりさんな自分を大いに責めた。馬鹿、俺の馬鹿――と。しかしどうしても放ってはおけなかったし、子供達の笑顔を見たらもっと教えてやろうという気持ちが膨らんで、どうにも止まらなかった。
(仕方が無い……)
ため息、一つ。
「ずっとは無理だけれど、ちょっとだけなら……」
「やった、やったあ! わあいわあい、学校ごっこだ学校ごっこだ!」
子供達は大はしゃぎ。挙句別の場所で遊んでいた子供達まで呼びに行く始末。別に呼びに行かなくてもいい、と言ったのだが聞く耳持たず。がっくり肩を落とし頭を抱えながらもとりあえず彼等に色々教えるのに役立ちそうな本を押入れから引っ張り出した。
(まさかこの本を使う日が来るなんてなあ……もう使うこともないだろうって思っていたんだけれど)
それは奈都貴と陽菜がまだ幼い時買ってもらった本で、様々な物の名前、英語、アルファベット、干支や誕生石、どの色とどの色を混ぜるとどんな色が出来るかとか、そんなものが沢山載っており昔は二人仲良く何度も何度も繰り返し読んだものだ。読まなくなってからも何となく捨てられず取っておいたのだが。
(まあ、まずはこれでも使ってみるか。こいつらも色々教えれば満足するだろう……多分)
奈都貴は覚悟を決め、いつの間にか部屋を埋め尽くす勢いで集まっていた子供達相手に授業を始めるのだった。
*
「ああ、まずったわ……」
柚季は目の前でにこにこ笑っている男女二人組を前に頭を抱えていた。二人共外見だけで言えば、自分より二、三上位である。女性の方はあぐらをかいていて、喋り方といい所作といいまるで男の子。逆さにした扇のようなシルエットの髪、赤い鉢巻、下に黒い半股引を履いていなければ確実に大事な所が丸見えになる程丈の短い赤茶色の着物を着ている。男っぽい割に胸は立派な大きさのようである。隣に正座している男はすらりと背が高く細身で、つるっぱげ、いかにも温和な性格らしい柔和な顔つき。
「まあまあ、そんな顔するなって。仲良くやろうぜゆずきち!」
「誰がゆずきちよ、誰が!」
「いやあ、俺達と話せる奴がいて良かったよ。やっぱりそっちの住人に直接話を聞く方が楽だしさあ。しかもこんな可愛い子なんて、超らっきい! 兄貴もむさいおっさんより、可愛い女の子と話す方がいいだろう?」
と女の方が隣にいる男を見る。男は困ったように笑いながら「……まあそれはそうですが」と言う。それから柚季に「申し訳ないですねえ」と。さっきから何度も彼は申し訳ないですとかすみません、とか申し訳なさそうに言うのだが、そのくせ妹に「迷惑がっているから帰ろう」とは言わないのである。本当に申し訳ないと思っているのかこの人は、と柚季は謝られる度むかむかする。
「ま、俺の問いかけに返事しちまったのが運の尽きってことで」
「う……馬鹿、ああもう私の馬鹿!」
と頭を抱える手に力を込めがっくりとうなだれる柚季に、男が「本当に申し訳ないです」とまた言ってくる。だからそう思う位ならさっさと帰りなさいよ! と怒鳴っても「ごめんなさい」と謝るだけで終了。妹も妹だが、兄も兄でなかなか良い性格をしていらっしゃる。
彼等は今さくらがやっているらしいことと、同じようなことをすることを生業にしている人達だった。
渡遷京が遷都した土地のこと――人口、毎日の気候、日々起きる出来事諸々……どこに何が建っているか調べ、詳細な地図を作ることもするらしい。そのことに何の意味があるのか二人はよく知らないらしいが。毎日方々を歩き回り、調査をし、時にその土地に住んでいる人間に話を聞くこともあるという。今回その「話を色々聞く人間」に選ばれたのが柚季なのだ。そうなったのはこの牛鍋屋の女将さんのせいである。常連客である二人が、仕事の途中空腹を満たす為にこの店へやって来た時、女将さんが柚季のことを二人に話してしまったのだ。この家にいる娘はこっちの世界のものが見えるらしい、しかもどうやら妖の存在やこっちのことなんかも理解しているようだよ、最近の人間にしちゃあ珍しい……と。その話を聞いて興味を抱いた女は柚季に話しかけてきた。柚季は無視しようとしたが、つい返事をしてしまい……そこからあれよあれよという間に話は進んで、気づけば二人にこちらの世界のことについて色々話すという流れになってしまったのだ。柚季の意思などまるで無視して、それはそれは強引に。
「俺達のことをある程度理解している人なんて、なかなか会えないからなあ!」
「別に理解なんてしていないもん」
「いないもん、だって超可愛い! やべえ、もう一度言って、もう一度! 可愛い可愛いゆずきちちゃん!」
と言って女はげらげら笑う。紗久羅を数倍男っぽく、そしてうざったくしたような感じである。兄は兄で大層うざったい。
(ああもう、あの女将さんも余計なことを言って! 一度こんな風に関わってしまった以上、逃げることなんて出来っこない! 無視し続けるなんて無理、無理、無理! 速水も助けてくれそうにないし)
と睨みつける天井から聞こえるのはげらげらという笑い声。向こうの思う壺状態になっている柚季を見て速水が笑っているのだ。この馬鹿ときたら、止めるどころか女と意気投合し「どんどん聞きなよ、きっと優しい柚季ちゃんが色々教えてくれるだろうから」などと言う始末。
柚季は呻き声を上げながら、身勝手な兄妹に振り回されまくる未来を思い絶望するのだった。
*
(相変わらずうるせえなあ……)
まだ日も暮れていないのに、多くの妖が店に集まって酒を飲みつつ美味い飯を食って大騒ぎ。これが夜になればなるほど賑やかになり、世界の映像もよりはっきりと鮮やかなものになるのだ。
紗久羅は部屋に戻るとため息をつき、着替えを箪笥から引っ張り出した。いつもならここで着替えるところだが、今はそういうわけにもいかぬ。妖相手にお着替えショーなどまっぴらごめんだ。酒を飲んでいた妖の一人が「なんだよ、ここで脱げばいいのによう」と言い隣で鯛茶漬けをかきこんでいた妖が「あんな貧相な体した芋ガキの着替えなんて見たって仕方ないだろう」と笑う。うるせえ馬鹿、と睨みつけるも効果は薄い。
そんな二人の前に座っている男は真っ赤に染まった顔を俯かせ、じっとしている。その男の顔には見覚えがあった。
(あいつ……確か昨日もいたよな)
そこに座っていたのは、昨日紗久羅と目が合った男だった。年の頃は紗久羅より二三上といったところで、随分と細くひょろひょろしている。肌の色は白く、いかにも気弱そうな顔立ちでチワワはおろかハムスターにさえ負けそうだ。
(何か、コメそっくりだなあこいつ)
コメ、というのは紗久羅のクラスメイト『田原米』のことである。ヨネ、という名ではあるが性別は男である。その時代と性別を微妙に間違えたような名前をつけたのはお米大好きな彼の祖母で、半ば強引に孫の名前を決めたとか。その話を聞いた柚季は「田原君もおばあちゃんに振り回されたくちなのね」と同情の涙を流した。中身も外見そのままの、大人しくて気弱でお人よしの少年――そんな彼にどことなく目の前にいる男は似ている。男はこちらをちらっと見、顔を真っ赤にし口をぱくぱくさせ、視線を逸らし、またしばらくしてこちらをちらっと見、視線を逸らし。その態度がなんだか腹立たしくて、紗久羅はずかずかと足音たてつつ歩き男の真横に立った。男は紗久羅の存在に気付くと「あっ」と声をあげ、カチンコチンに固まった。紗久羅はそんな男の真ん丸になった目のついた真っ赤な顔に自分の顔を近づけ、睨みつけ。
「何なんだよお前、さっきから人の顔をじろじろ見やがって。お前達の姿が見える人間なんて、めちゃくちゃ珍しいわけじゃないんだろう?」
「あ、う、あ……」
「言いたいことがあるならはっきり言えよ、ほら、ほら」
「あ、その、あの……あ、ああ……」
男は何度も口をぱくぱく、まるで金魚だ。やがてその口の動きも止まり、最後には完全に動きが止まった。あんまり動かないので奇妙に思い「おい、どうしたよ」と男の顔の前で手を振るがまるで反応なし。
しばらくしたところで男が気を失っていることに気づいた。何で人の顔見て気絶するんだよ訳分かんねえ、と座り目を開けたまま気絶している男を前に頭を抱える。自分の顔見て気絶されるなんてそうないことである。きっとこれから先だってないだろう。
周りにいた妖がにやにやしている。
「お嬢ちゃん、鈍いなあ」
「まあ、与平みたいな物好きなんて今の今までいなかっただろうからなあ無理もない」
「男を知らぬ娘っ子ちゃんよう、そいつ……与平はお前さんにほの字なのさ」
「……は?」
お酒で顔を真っ赤にしている男達がにやにやしながら言った言葉に、今度は紗久羅が固まる番だった。
「一目惚れなんだとさ」
「は、え、は?」
「恋に落ちちゃったんだよ与平はさ」
「は……?」
紗久羅はにやつく妖達と、気絶している男――与平の顔を交互に見比べ、そして。ようやく彼等の言葉を呑みこんで。
「はあ!?」
部屋を、いや家を突き破るかという位大きな声で叫ぶのだった。




